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    【00】REALな夢の条件 これが最後だと出されたメールは、彼に届くことはなかった。

    ◇ ◇ ◇

     ファッションビルの上階に入っているカフェは、時間のせいか人もそれほど多くなく話し声もまばらだ。頬杖をついて、ぼんやり、と窓の外に目をやっているニールの耳は、他人の会話を意味のない音として捉えている。
    『そろそろグローブ新調するかな……』
     先の仕事の折、指先に伝わった違和感を思い返し、薄い唇から知らず溜め息が漏れる。
     仕事自体は滞りなく、また毛ほどのミスもなかったが、達成感や爽快感とは無縁な内容である為、依頼を遂行する度に心は軋み塞ぎ込んでいく。
     だが、これは己自身が選んだ道なのだ、と感傷を振り払うかのように、ゆるり、と頭を振ったのと、横手から「失礼」と静かに声を掛けられたのはほぼ同時であった。
     落ち着いてはいるがそれほど低くもない声音に、つい、と顔を上げれば、そこには紺色のスーツを身に纏った金髪の青年が居た。年の頃はそう変わらないであろうが、相手の纏う空気になにかを感じ取り、ニールは僅かに目を細める。
    「相席、よろしいかな」
     整った面に僅かな笑みを浮かべて問うてくる男に、ニールは反射的に店内を見回す。ぼんやりしている間に客が増えたのかと思えば、そうではなかった。空いている席が全くないわけではなく、むしろ空席の方が目立つくらいだ。
     ニールのその動きで返される言葉の予測が付いたか、男は「この席が一番、空がよく見えるのだよ」と相席を希望した理由らしきことを口にする。
    「空?」
    「そう。空だ」
     スペースを少しでも無駄にしない為か、窓際に無理矢理に押し込められた二人掛けの席は他の席とは少々離れており、考え事をするにはもってこいといえた。
    「無論、キミの邪魔をするつもりは毛頭無い」
     断られれば食い下がることなくおとなしく引こう、とその顔は言っており、ならば見知らぬ他人に遠慮することなく断ってもよかったのだが、あぁ、コイツもなんかあったのかな、となんとなく思い、ニールは軽く「いいぜ」と了承の言葉を返す。
     それを聞き「感謝する」とひとつ頭を下げてから男は椅子を引き、腰を下ろすや否やその瞳は即座に空へと向けられた。
     ゆるり、と頬杖をつき僅かに傾げられた顔は見えない何かを追っているようで、眼差しは真剣そのものだ。ややあって卓上に乗せられた左腕が奇妙な動きをしていることに気づいたニールは、しばし無言でそれを観察する。
     なにかを握り込んだまま手首を数度捻ったかと思えば、指がリズミカルに卓を音もなく叩く。俄に興味の沸いたニールは極力、静かな声音で、なぁ、と相手の注意を引いた。
    「なにかな?」
    「ソレ、なんか意味あんのか?」
     頬杖を解き背筋を伸ばして真っ直ぐに顔を向けてきた男に、ニールが見よう見真似で手首を返してみせれば、あぁ、と小さく声を漏らし相手はやや眉尻を下げた。
    「すまない。目障りだったかな」
    「いや、単純に気になっただけだ。こっちこそいきなり悪かったな」
     詫びの言葉に、ゆるり、と蜂蜜色の頭を揺らし男は静かに口を開く。
    「ひとり反省会といったところだ。どうしても勝てない相手が居てね。今日も負けてきたところなのだよ」
     本人からすればそれで答えになっているようだが、基本的な情報が抜けておりニールは困ったように頬を掻いた。
    「勝ち負けって、なにかスポーツでもやってんのか?」
    「あ、いや。そうではない。説明が足りなかったな。失礼した」
     やんわりと指摘され男は、はっ、とした顔を見せた後、一瞬ではあったが瞼を伏せた。その間がなんであったのかニールが考えるよりも早く、青年はキリリと引き締まった表情を見せる。
    「私は軍人でね、モビルスーツに乗っている。とは言っても配属されたばかりの、まだまだひよっこではあるが。今日も上官と模擬戦を行ってきたのだが、負けてしまったのだよ」
    「へぇ、そりゃご愁傷様。でも上官も部下相手に、そう易々と負けるわけにはいかないだろ」
     コーヒーを口に運ぶも、長らく放置され冷めたそれにニールは僅かに眉を寄せると、悪い、と言わんばかりに相手に向かって軽く掌を見せ、それをそのまま肩の辺りまで上げると店員を呼んだ。即座に卓へ寄った店員にコーヒーをもう一杯注文すれば、メニューすら開かず男も同じ物を所望する。
     軽く一礼し踵を返した店員の背中を見送ってから、ニールが話を続けようと相手に顔を向ければ、同じように顔を戻した男と視線がかち合った。
     凜としたその面差しに一瞬、息を飲むもニールはわざと緩い笑みを浮かべ、卓に肘をつき組んだ両手の上に顎を乗せる。
    「しかし同期相手ならともかく、上官相手に勝てないからってそこまで気にすることかねぇ」
    「他の者では正直、相手にならないのだよ。それに向上心を無くしたらお終いだろう?」
     包み隠さず告げられた言葉にニールは軽く目を見張り、どこか幼さを感じさせる大きな新緑の瞳を凝視した。何事にも揺るがぬ意志の強さを秘めたその瞳は、逸らされることなくニールの翡翠の瞳を射抜く。
     実際、見つめ合っていたのは物の数秒にも満たなかったであろう。だが、その僅かな時間でニールは己の心臓が何度脈打ったかわからなかった。
     心情を正直に明かすならば、惹かれた、のだ。名も知らぬ男の、なににここまで惹きつけられるのかわからないままに、ただ惹かれたことだけは確かであった。
    「言うねぇ」
    「事実だから仕方ない」
     片眉を上げ茶化すように、ヒュゥ、と軽く口笛を吹いて見せれば、気分を害した様子もなく男は、ひょい、と戯けたように肩を竦めて見せた。どうやらただの堅物ではないらしい、とその仕草にニールは薄く笑む。
     ややあって運ばれてきたコーヒーをお互い無言で口に運び、カップの底がうっすらと見えるようになった頃、不意に男が口を開いた。
    「名前を、聞いても良いだろうか?」
     かちゃり、とソーサーに戻されたカップが立てる音に被って聞こえたそれに、ニールは二、三回瞬きを繰り返してからようやっと意味を解すも咄嗟に言葉が出ない。
     否とも応とも答えぬニールに男は、あぁ、と何事か納得したように頭を上下させると、窓からの日差しを浴びて輝く前髪を整えるように軽く払ってから、形の良い唇を開いた。
    「グラハム・エーカーだ。人に名を尋ねるときはまず自分からだなぁ」
     失礼した、とはにかむグラハムのまた新たな一面に触れ、ニールは内心で、まいったな、と頭を振る。このように他愛のない話を他者と最後にしたのは一体いつであったかと、いくら考えてもそれは忘却の彼方であり、『人同士』の会話に飢えていたのだと眼前に突きつけられた気分だ。
    「……ニール・ディランディだ」
     偽名を使おうかとも思ったが、するり、と唇から零れ落ちたのは、名乗らなくなって久しい本当の名であった。
    「でも、どうして名前なんか……」
    「もっとキミと話をしたいと思ったのだよ」
     ふふ、と微笑を浮かべカップを再び取り上げたグラハムの言葉に、ニールは口元を掌で覆い隠す。それはつまりこの場限りではなく、この先も交遊を持ちたいとそう解釈して良いのだろうか。
     そのことを言葉を選びつつ慎重に問えば、こくり、と蜂蜜色の頭が上下に振られ、新緑の瞳が柔らかく細められた。
    「キミと話すのはとても心地よい」
     どこか歌うように紡がれたその言葉に、ニールの胸が大きく鳴る。好意を持たれたことは素直に嬉しい。だが、両親と妹を失ってからというもの、親しい者は作らず、天から授かった才を人の道に外れたことに使い、今こうして生きている身で人恋しく思う資格など無いのだと、蓋をしていた己の心に、僅かだが隙間が開いたことに戸惑いを隠せないでいる。
    「俺もアンタともっといろいろ話したいが、プライベートには踏み込んでくれるなよ」
     極力、軽い調子で告げるもグラハムは怪訝に眉を寄せ「それはつまり?」と明確な答えを所望してきた。
    「仕事のこととか、住んでる場所とか、聞かないでくれってことだよ。アンタには目の前にいる『俺』と話してほしいんだ」
     巧く伝わるだろうか、と不安に駆られつつもニールが真剣な眼差しを向ければ、グラハムは一瞬、目を見張った後、ゆるり、と柔らかく眦を下げた。
    「これはなんと熱烈な告白であることか」
     くつり、と喉を鳴らし先のニール同様、組んだ手に顎を乗せたグラハムの唇が弧を描く。
    「了解した。お互い、これから知ることが全てという訳だな。まぁ、私は既に軍人であることを明かしてしまったが、さしたる問題でもなかろう」
     そう言うが早いかグラハムは組んだばかりの手を解き、右手を、すっ、とニールへと差し出した。
    「本当はハグと行きたいところだが」
     はは、と爽快に笑い、口調こそ冗談めかしてはいるが、彼は本気だ、とニールは根拠もなく思うも、それはあながち間違いではなかったと後ほど知ることになる。
    「アンタ、おかしな人だな」
     からり、と笑いつつ握手に応じたニールはグローブをつけたままで、それについてはグラハムが気分を害した様子はなかったが、ふと、秀麗な眉が窺うように寄った。
    「ずいぶんと使い込んでいるのだな。そうだ。出会いの記念に私からプレゼントさせて頂けないか?」
    「いや、確かにそろそろ買い換えようとは思ってたが、そこまでして貰うのは……」
    「なに、私の自己満足だ。付き合って頂けると非常にありがたい」
     整った面に浮かんだ思わず見惚れるほどの笑みに、つい、あぁ……、と肯定とも取れる声を漏らしてしまったニールが、はっ、と口を噤むも時既に遅し。
    「よし、決まりだ!」
     ガタン、と勢いよく立ち上がったグラハムは回り込むのももどかしいのか、卓に右腕を付き身を乗り出して左腕を伸ばすとニールの腕を強引に取り、早く行こうと言わんばかりに、ぐい、と引いた。
    「おっおい、ちょっと待てって!?」
     途端に落ち着きのなくなったグラハムに引かれるがまま、いつの間にか彼の反対の手に握られている伝票を目に留め、ニールは諦めにも似た溜め息をついたのだった。

    ◇ ◇ ◇

     新しいグローブが早く馴染むようにと、何度も掌の開閉を繰り返しつつ、ニールはバスの中から流れゆく夜の街に目をやる。
     見目麗しいがどこかおかしな軍人と知り合って、既に三ヶ月が経っている。相手の職業が職業なだけにシフトも特殊でなかなか会うことはできないが、携帯端末を通して会話をしたり、メールのやり取りは、ポツポツ、と行っていた。
     その間にニールにも仕事の話が回ってきたこともあり、顔を合わせる機会は更に減ってしまった。
     どこの組織にも属しておらず、いわば一匹狼であるスナイパーのニールに依頼をするには、彼が信頼している繋ぎ役である情報屋を介す必要があった。
     無差別に依頼を受けた結果、己自身がターゲットになった同業者を何人も見ており、同じ轍は踏むまいとニールは持ち込まれた依頼の背後関係まで慎重に確認する。
     そして、どの地域にも赴くが仕事をした地区からはその日のうちに姿を消すことにしており、同地区では最低でも一年間は仕事をしないという徹底ぶりだ。
     だからこそ、予定が合えばどのような時間でもニールは相手の誘いに応じ、グラハムもニールの誘いを断ったことがなかった。
     友人と言うには奇妙な関係だと、お互い思ってはいるがなんら不都合はなく、敢えてこの付き合い方を変える気はなかった。
     きゅっ、と革の鳴る音にいつの間にか遠くへと飛ばしていた意識を引き戻され、ニールは緩く頭を振る。仕事には未だ古いグローブを使っており、グラハムから贈られたものは日常生活を共にするに留まっていた。
     仕事を終え、念には念を入れて関係のない国を経由して戻って来る際に送った「近々、会える日はないか」とのニールのメールに対するグラハムの返答が今日であったのだが、当日になっていきなり「すまないが今日はやめておこう」とのメールが届き、ニールは怪訝に眉を寄せた。
     仕事や他に理由があればハッキリとそう告げる彼のらしからぬ文面に、メールでは埒が明かぬと通話に切り替えれば、初めこそ渋っていたグラハムであったが根負けしたか、ぽつり、と理由を口にした。
    「愉快ではない話を聞かせてしまいそうだ」との返答にニールは通話口で大仰に溜め息をつき、相手がなにか言う前に「愚痴くらいいくらでも聞いてやるって」と告げ表通りのコーヒーショップで落ち合おうと強引に決めたのだった。
     少々遅い時間であるせいか店内は程良く空席があり、喧噪もそれ程ではない。グラハムからは既に到着しているとのメールが入っており、ニールは流れるように通路を進むと通りに面したカウンター席に座る蜂蜜色の髪に眦を下げた。
     ぽん、とこちらに背を向けている肩を軽く叩き、手にしたトレイをテーブルに置いてから隣へ腰を下ろす。一瞬、グラハムの顔が強張ったように見えたが、たまたま通った車のヘッドライトの加減だろうとニールは特に問うこともせず「待たせたな」と笑って見せた。
    「あぁ、いや。そうでもない」
     一口囓っただけで放置されているクロックムッシュは既に冷めており、グラハムの下手な嘘にニールは内心で眉を顰めるもそのような様子はおくびにも出さず、ベーグルにクリームチーズを塗りながら「で?」と話を振る。
    「べろっ、と話してラクになっとけよ」
     店内を、ゆったり、と満たすジャズに耳を傾けつつ、心地よいそれに目を細めニールはベーグルを囓った。決して威圧的ではないニールの穏やかな声音にグラハムは、ふっ、と鼻から抜けるような笑みを零すと、中身が半分も減っていないコーヒーカップを持ち上げ、そっ、と両手で包む。
    「本当につまらない話だ」
    「構わねぇよ」
     相手の迷いを断ち切るかのような、だが、柔らかな口調で言い切ったニールにグラハムは、ゆっくり、とカップを傾けてから濡れた唇を開いた。
    「以前、話した上官なのだが、どうやら彼は私と娘さんを結婚させたいらしい」
     グラハムはこの容姿だ。色恋沙汰など両の手で足りないくらいあり、あしらい方も心得ているだろうと思っていただけに、ニールは彼の切り出し方に驚きを隠せない。
     惚気たいのか、それとも口説き文句でも一緒に考えて欲しいのか、感情の乗っていないグラハムの声音と表情からはなにも掴めず、えーと、と思案しつつ顎に手をやり真っ向から問いかけた。
    「お付き合いしてんのか? それともこれからか?」
    「それ以前にお付き合いする気はないのだよ」
     二択じゃなくて三択だったか、と相手の返答に内心で苦笑し、ニールは黙ったままグラハムを、じっ、と見つめる。
     そうおいそれと同僚に言えることではなく、しかも相手は上官の娘とあっては邪慳にするわけにもいかず、ひとり悶々とした物を抱えていたというところであろう。仕舞い込んでいた本音をひとつ口にしてしまえば、あとは流れるように言葉が紡がれていく。
    「好意を寄せてくれるのはありがたいことだと思う。だが、私は彼女に興味がない。私はただ、空を飛びたいだけなのだ」
     地上でのしがらみなど欲しくはないと言わんばかりに頭を振るグラハムに、ニールは、そっ、と溜め息を逃がす。
     これまでもグラハムの口から空を飛ぶことについて何度も熱く語られたことはあったが、なにがそこまで彼を駆り立てるのか理由は知らないままなのだ。
     うーん、と喉奥でひとつ低く唸りつつ、ニールは次々と目の前を流れていく車のヘッドライトに目をやった。
    「そんな頭っから拒絶しなくてもいいんじゃねぇの? その上官だって娘さんの結婚を本気で考えてるなら、家族として迎えるくらいにはアンタを気に入って……」
    「家族とはなんだ」
     不意に割り込んできた凜とした、だがどこか薄暗く腹の底を重く冷えさせる声に、ニールは、ぎくり、とグラハムの顔を凝視する。
     グラハムはエキセントリックだが礼儀知らずではない。ジョーク混じりの会話ならともかく、真面目な話をしている時に相手の言葉を遮るような真似はしない男だ。
    「家族とはなんなのだ、ニール」
     先の問いを改めて口にするグラハムにふざけた様子はなく、まるで逃げることは赦さないと言わんばかりに煌めき真っ直ぐに貫いてくる眼差しも、声音も、真面目そのものだ。
     それが更にニールの思考力を鈍らせ、先程まで心地よく耳に届いていたジャズさえもが思考の妨げとなり、ただ唖然と相手を見やるしかできない。
     なにか、なにか言わなければ、とニールが無理矢理に声帯を震わせるよりも早く、グラハムが、ふ、と瞼を伏せ、小さく「すまない」と呟いた。
    「あまりにも唐突な問いであった。キミが困るのも無理はない。隠す理由もないので敢えて言うが、私は孤児でね。家族という物とは無縁だったのだよ」
    「そ、うなのか……」
     告白にどうにか言葉を返したニールは、グラハムの声音が常に戻っていることに安堵を覚える。先の腹の奥を冷えさせたあの声は、未知の物に対する好奇心と恐怖心が入り交じった物であったと判断したのだ。
    「施設に居た時に『ここに居る者すべてが家族』だと言われたのだが、それを具体的に説明してくれる者はおらず、私は『家族』というものが理解できないままだ」
     寝食を共にしたところで所詮、他人の集まりでしかないのだ、と淡々と続けるグラハムの姿に、ニールは、きゅっ、と唇を引き結ぶ。
     失ってしまったとはいえ父と母、妹が傍にいることが当たり前であったニールは、そそがれた愛情や向けられた慈しみの気持ちを言葉ではなく感覚で捉えており、初めから独りであったグラハムが『それらを理解できない』ことが理解できないのだ。
    「具体的にって言われると困るんだが……そうだな、愛し愛されて、守り守られて、支え支えられて、なによりも相手の幸せを願うものだと、俺は思ってる」
     失った後も胸の奥で仄かに灯る暖かな感情を伝える言葉が見つからず、言い終えた後にもどかしさからか無意識にニールの眉根が寄った。
    「幸せを願う、か。ニール、キミには居るのだな、その相手が」
     とても優しい目をしていた、とグラハムは柔らかに眦を下げ、どこか眩しげにニールを見る。
    「だが、理解するにはまだまだ時間が掛かるとみた。私には家族よりも空だ。私はようやくあの空を手に入れたのだ。誰にも邪魔をされたくはない」
     その頑なな態度にニールは、ゆうるり、と頭を振り「そっちの方が俺には理解できねぇよ」と漏らせば、グラハムは無邪気ともいえる眼差しで「子供の頃からの夢だったのだよ」と笑った。
    「なにも持っていなかった私が唯一、望んだものだ」
     愛を知らない子供が欲したのは、誰の頭上にも等しく広がる青い空。
     そこになにを見たのか、ニールにはわからない。
     だが、その病的なまでの空への執着がなければ、今こうして彼と肩を並べることはなかったのだ。
    「キミにも一度、『空の音』を聞かせたいものだ」
    「音?」
    「そうだ。とても……とても美しい音なのだよ」
     ふっ、と瞼を伏せたグラハムはその音を思い出しているのか、浮かんだ表情はとても安心しきったもので、まるで母の胸に抱かれる幼子のようだ、とニールは思ったのだった。

    ◇ ◇ ◇

     これまでにも何度か待ち合わせたことのある基地からほど近いバーの扉を開ければ、本日もそこそこ繁盛しているようで話し声や笑い声が絶えない。約束相手の姿を探しニールは店内を見回そうとするも、毎回その必要はなかった。
     彼はいつも扉を開けてすぐ目に入るスツールのないカウンターに軽くもたれており、ニールが声を掛けるよりも早く新緑の瞳をこちらへと向け「やぁ、ニール」と笑うのだ。
     だが、今回ばかりは違った。
     彼の姿を視界に収めた瞬間、蜂蜜色の頭が怒声と共に軽く吹っ飛んだからだ。
    「グラハムッ!」
     頭で考えるよりも早く身体は動き、床に倒れ込んだグラハムの元へニールは駆けつけると、彼が身を起こすのに手を貸す。
    「大丈夫か!?」
    「あぁ、大事ない」
     グラハムの肩を抱くように腕を回して支え、彼を殴り飛ばした相手をニールが下から、ギッ、と睨み据えるも覚悟していた追撃はなく、連れと思しき男が間に入り相手の行動を止めていた。
    「やめろって」
    「うるせぇ! ちくしょう、お高くとまりやがって」
     酒が過ぎているのか呂律の怪しい男は、それでも険しい眼差しをグラハムに向けている。
     ゆっくりと立ち上がったグラハムは、カウンター内のバーテンが差し出してくれた濡れタオルを短い礼と共に受け取り、そっ、と頬に当てた。
    「正常な判断が出来なくなるほど飲むのは、感心しないなぁ」
     嫌味ではなく事実を言ったまでなのだが、多かれ少なかれ彼に悪感情を抱いている者には火に油である口調だ。それを聞いた男が、カッ、と逆上したのはニールの目にも明らかであったが、グラハムは全く意に介した様子もなく相手を真っ直ぐに見据えたまま、決して大きくはないが凜と張った声を発した。
    「大事にする気はない。だが、処罰も辞さないというのならば、存分に向かってくるといい」
     場を収めたいのか挑発したいのか、判断の付かないグラハムの物言いにニールは軽く眩暈を覚えるも、その揺るぎない声音に気圧されたか、相手は何事か悪態めいたことを、ごにょごにょ、と口内で漏らし、連れに促されるままに卓へと戻っていった。
     どうなることかと息を詰め遠巻きに見ていた他の者も、各々の楽しみへと戻っていく。
    「騒がせてすまなかった」
     バーテンに一言詫びると、グラハムは「岸を変えよう」とニールを促し、店を後にしたのだった。
     人目を避けるように明かりの少ない道を行くグラハムの背を早足に追い、肩を並べたニールは覗き込むように相手の顔を窺った。
    「一体どうしたってんだよ。殴られるなんて余程のことだろ」
    「一緒に飲まないかと誘われたのだが、先約があると断っただけだ」
     ひょい、と肩を竦めるグラハムに悪びれた様子は微塵もない。
    「知り合い、なのか?」
    「いや、他隊の者で言葉を交わしたことはない。先日、模擬戦を行った中に居たと記憶しているが」
     生憎と名前までは思い出せない、とグラハムは緩く頭を振る。基地にいるパイロット全員を覚えている者の方が希有であろう。
     だが、ニールは怪訝に眉を寄せる。あの男はグラハムを殴り飛ばした時、確かに「エーカー」と彼の名を呼んだのだ。
     この金髪の青年は、周りからは頭ひとつ飛び出た存在なのだろう。これはあくまでニールの勘であるが、先の騒動の折、様子を窺っていた者達がグラハムを見る目は何かを含んでいるように見受けられた。
     件の上官に気に入られているという話は、本人の知らぬところで静かに広がっているのかも知れない。
     そして、グラハムの動きもスナイパーの目はしっかりと捉えていた。避けようと思えば避けられた拳を、グラハムは敢えて受けたのだ。ただし、自ら床を蹴りダメージは最小限に抑えていたが。
     しかし、グラハムはお世辞にも体格が良いとは言えない。その彼が頭ひとつ分は優に違う相手に殴られるとなれば、一歩間違えば大惨事である。
    「なに考えてんだか」
     その呟きでニールの言わんとすることを察したか、グラハムは、ふっ、と軽く息を吐き片眉を上げて見せる。
    「あそこで避けたら彼の面子を更に潰してしまうからな。仮に私より階級が上だったら目も当てられない」
     頬を冷やしていたタオルを通り過ぎ様にゴミ箱へと落としたグラハムに、はー、と溜め息をついて見せたニールは、僅かに腫れているグラハムの頬に指を伸ばすと、再度、溜め息をついた。
    「いい男が台無しだな」
    「顔でモビルスーツに乗っているわけではない」
     大真面目に返された言葉に、そりゃそうだ、と笑い返し、ニールは戯けたキスをグラハムの頬に落とす。
    「早く良くなるおまじないだ」
     ニールからすればそれは本当に些細なことであった。だが、グラハムは唇が触れた箇所に手を添えたまま鳩が豆鉄砲を喰らったような顔でニールを見上げ、普段の饒舌さは嘘のように形を潜めている。
     歩みすら止めてしまったグラハムに、ニールは今になって先の行為が他人にすることではないと気づき、一瞬にして顔色を無くした。
    「わ、悪い! つい癖で……って、あーいや、その。昔、妹が転んで怪我したときとかにいつもやってたんだ」
     ガシガシ、と後ろ頭を掻きながら決まり悪そうに地面へ目を落としたまま、ニールは小さく、いきなり男にキスされたら気持ち悪いよな、と漏らし、再度、詫びの言葉を口にした。
     俯いてしまったニールからは見えなかったが、グラハムはその言葉に対して、ゆるり、と頭を振り、きつく握られたニールの拳を両の掌で包むように掬い上げる。
    「そのようなことはないから安心したまえ」
     私の方こそすまなかった、と口にしてからグラハムはニールの顔を覗き込んだ。
    「キスを貰ったのはかれこれ十年振りだったのでね。少々、驚いてしまったが、不快ではない。むしろキミのキスはとても心地よい。何度でもせがみたくなると言わせて貰おう」
     僅かに顔を上げたニールの下から伸び上がるように顔を寄せ、グラハムは彼の唇が自分に触れたのと同じ位置に軽く唇を押し当てた。
    「グ、ラハム……!?」
     突然のことに動転したか上擦った声が飛び出したニールに、ゆうるり、と口角を上げ、グラハムは握ったままであったグローブ越しの指に、そっ、と唇を寄せる。
    「私からもしたくなった」
     ふふ、と目を細め笑うグラハムの底意はわからないが、ニールも彼からのキスは不快ではなく形の良い唇が滑らかに動く様を、じっ、と見つめる。
    「それに、妹君にしていたことを意識せずにやったということは、つまりキミが言うところの『家族』と同じように、私を思ってくれているということなのだろう?」
     ふわり、と花が綻ぶような笑みを浮かべ、とても嬉しく思う、と素直に言葉にできるグラハムが、ニールの目には眩しく映る。どこまでもどこまでも真っ直ぐに己を貫き通すその強さに、惹かれ、憧れ、そして嫉妬する。
     ニールの手を取ったまま再び歩き始めたグラハムに引かれるように、ニールも一歩を踏み出した。じわり、とグローブ越しに伝わるグラハムの体温を感じて、どこか面映ゆい。
    「どこ行くんだ?」
     それを誤魔化すかのように肩を並べた相手に問えば、グラハムは顎に手をやり、そうだな、と漏らしてから、
    「ホテルでもモーテルでも。時間を気にせず飲める上、ベッドがあれば眠くなった時にすぐ寝られるからラクだと思うのだが」
     と、ニールの予想の斜め上の答えを寄越したのだった。


     ゆさゆさ、と肩を揺すられ、ニールは眠りの淵から意識が浮上するも、心地よい微睡みは彼の後ろ髪を引き、瞼を持ち上げるまでには至っていない。
    「ニール」
     落ち着いた声が囁くように耳朶に吹き込まれるが、それが誰の物であるのか眠りにしがみついている脳は識別せず、穏やかに揺すられる身体はまるで揺り籠にいるようで、意識は再び沈み込んでいく。
    「ニール、起きたまえ。ニール」
     肩を揺する力が若干強くなり、間近で名を呼ぶ声も強さを増す。それでもニールは頑なに瞼を閉ざしたまま、耳に心地よい声で己の名が紡がれるのを聞いている。
    「ニール。起きないのならそれでも結構。今度は私がキミに突っ込ませていただくが、よろしいな」
    「これっぽっちもよろしくないです!」
     パチリ、と瞬時に覚醒した脳と共に目を開ければ、隣には寝そべったまま頬杖をつき、してやったりといった顔をしているグラハムが居た。
    「……って、あれ?」
    「おはようだなぁ、ニール」
     昨晩、カーテンを閉め忘れた窓から降り注ぐ日差しに、蜂蜜色の髪を、キラキラ、と輝かせ、グラハムは弾ける光に負けない眩い笑みを浮かべている。
     思わず見とれそうになるも片肘をついて上半身を起こしたニールは、ぶるぶる、と頭を振り、昨晩のことを思い出せる限り脳に処理させる。
     酒とつまみを買い、安いからという単純な理由でビジネスホテルに部屋を取り、取り留めのない話をしながら杯を重ね――
    「まぁ、気がついたら身体も重ねていたワケだが」
     心の声はどの辺りから口に出ていたのか、グラハムの発言にニールは思い切り噎せ込んだ。それが決定打となったか記憶にぼんやりと掛かっていた靄は徐々に晴れ、事の次第が輪郭を見せ始める。
    「経緯は覚えているかね?」
    「あ、あぁ……、なんとか、な」
     確か、グラハムが不意に「抱き締めたいなぁ」と言い出し、酔った頭はさほど深く考えず、むしろ「よし、こーい」と両腕を広げて迎え入れたのだ。
     ニールからしてみれば抱き締める側でも抱き締められる側でも大差はなく、ただただ、間近に感じる温かな身体と直接響く鼓動が心地好く、うっとり、と目を細めた。
     暫くはおとなしく相手の好きなようにさせていたが、なにかを確かめるように慎重に腕を回してくるグラハムが焦れったくなり、ニールからも、ぎゅう、と相手の背に回した腕に力を込めれば、一瞬ではあったがグラハムの身体は強張り、ふるり、と力なく頭が振られた。
     だが、それを否定するかのように即座にグラハムの腕にも力が籠もり、ニール、と掠れた声が耳朶を打った。
     初めはただの戯れで、触れたことによりそこから人恋しさが湧き起こっただけでしかなかったはずだ。互いに目の前の他者の存在を確認しあう、ただそれだけであったはずなのだ。
     だがしかし、それを一体どこで間違えたのか、気がつけば互いの身体を貪るように、腕を絡ませ触れあいながらベッドに沈んでいたのだ。
     断片的に瞼の裏に浮かぶのは、汗ばむ肌と揺れる瞳。
     耳元を掠める湿った吐息と熱い、とても熱い彼の内。
     喉を反らせ背を強張らせる彼に、息を止めるな、と宥めるように金糸を梳きながら耳朶に吹き込み、なにかに縋ろうというのか頼りなく伸ばされた腕を受け止め、首に回すよう導いてやった。
    「……まさか、初めてだとは思わなかった」
     どこまで思い出したのか、ニールが僅かに目を泳がせつつ率直に口にすれば、グラハムは瞬間的に眉を吊り上げるも、声を荒げることはなかった。
    「キミは軍人に対して偏見があるとみた」
     はー……、と呆れを多分に含んだ溜め息を吐き、ゆるゆる、と頭を振って見せれば、ニールは素直に詫びの言葉を唇に乗せたのだった。
    「まぁいいだろう。それよりも食事にしたいのだが、生憎と私は下半身が言うことを聞いてくれなくてね」
    「ほんっとスミマセンデシタ」
     くるくる、と指先で栗色の髪を弄ぶグラハムに赤裸々に告げられ、酒の勢いとはいえとんでもないことをしてしまった、とニールは枕に沈み込みたい気分だ。
     ふと、視線を転ずれば枕とベッドヘッドの間になにかが埋もれており、首を傾げながら引っ張り出したそれは掌に収まる程度の円柱状の容器であった。側面のラベルを見れば、誰しも一度は聞いたことがあるであろう軟膏の名が記されている。
    「なんでオロナインが……」
    「なんだ、覚えていないのか。キミが潤滑剤代わりになるような物を、と言ったのではないか」
     それがどの段階での発言か全く思い出せず、ニールは蓋の開いたままであったそれをサイドテーブルに置き、「で、どこからこれが」と新たな疑問を口にする。それに対するグラハムの返答は「私の私物だ」という単純明快なものであった。
    「……持ち歩いてんのか?」
    「オロナインは万能薬だぞ。キミもひとつ持っているといい」
     訓練で傷を作ることが多いのか冗談とは程遠い顔で言われるも、それは同意できるようなできないような微妙なラインで、ニールは曖昧に笑って見せるに留めた。
    「なんつーか、なにからなにまでほんと悪かった」
    「そこまで気にすることはない。貴重な体験をさせて貰ったというのもあるが、キミは唇だけではなく全身が心地好い。キミが望むのならば、私は喜んでこの身を差し出そうではないか」
     どこまでが本気か判じかねる物言いに加え、グラハムの瞳はまるでニールに挑むかのような強い光をたたえており、生半可な返答ではこの男は納得しないのだと語っている。
     弧を描いた唇を隠すことなく手遊びをやめないグラハムの掌を取り、ニールはそのまま己の口元へと運ぶ。ひくん、と僅かにグラハムの腕が逃げるように揺れたが、それは意識してのことではないと、ニールは相手の表情から読み取った。
     ちゅっ、と軽く中指の先に口づけ、第一関節までを口内に招き入れると跡が残らない程度に歯を立て、指の腹を舌先でくすぐる。容姿を裏切る固い皮膚の感触に、あぁ本当にモビルスーツパイロットなのだな、と今更ながらに実感した。
    「あんま無理すんなよ」
     最後に軽く指先に吸い付いてから相手を解放し困ったように笑って見せれば、言われた当の本人は言葉の意味を掴みかねたか、ゆるり、と首を傾げてみせる。
    「どういうことかな?」
    「アンタ、人から触られるのあんま好きじゃねぇんだろ、ってこと」
     どうよ? と拳銃の形にした右手でグラハムの胸を、バーン、と戯けた小さな擬音と共に撃ち抜けば、目を軽く見開いたままグラハムは己の胸に視線を落とした。
     そこには当然のことながら銃創などない。だが、彼の言葉はスキンシップ過多に思われがちなグラハムが、胸の奥に押しやり誰にも見せたことのないものを的確に貫いたのだった。
    「無理は……していないつもりだ。だが、キミの言うことも当たっている」
     すい、とニールの頬に掛かった髪を柔らかな手付きで払い、そのまま滑らかな頬を掌で覆う。
    「幼少の頃から人と触れる機会が少なかったからだろうな、正直に言うと他人の体温は気持ちが悪い物だ。それでも私は肌の感触や人の匂いは好きなのだよ。矛盾していると思うかもしれないが、触れることは厭わないし、遠慮無く触れて欲しいとも思う」
     優しく抱き締めキスをくれたのは教会のシスターだけであったのだと、ぽつん、と零し、それに、と更に言葉を続けるグラハムを真っ直ぐに見つめ、ニールは静かに手を伸ばすと相手の頬に掌を添わせた。
     常にグローブに覆われている手が今は無防備に晒され、しかも己に触れているという事実にグラハムは胸を打ち震わせ、そっ、と瞼を下ろす。
    「キミの体温ならば、きっと心地好いと思えるようになる」
     互いに共に居る家族はなく、合法、非合法の差はあれど彼らの手は人を殺める手だ。
     全てを明かさずとも根底に流れる同族の匂いを感じ取り、心のどこかで安堵しているのだ。
     そのことに薄々ではあるが気づいているニールは敢えて目を反らし、いずれは終焉を迎えることを承知の上で、この一時の安寧に身を委ねるのだった。

    ◇ ◇ ◇

     ピリリ、と軽い電子音が響き、ニールは手中の本から顔を上げる。鳴っているのはベッドに投げ出していた携帯端末であり、仕事用の物は上着の内ポケットで沈黙を守っている。
     壁の時計を見れば夕刻を示しており、ニールは怪訝に首を傾げつつソファから腰を上げた。プライベート用にかけてくる相手は限られており、最有力候補は今日は先約があると言っていたのだ。
     ホテルの窓から見える雨にけぶった街並みを横目に端末を拾い上げ、「もしもし?」と探るように応答すれば、聞こえてきたのは雨の音と行き交う車の走行音であった。
     それらを掻き消すように「忙しかったかな?」と聞き慣れてしまった快活な声が届き、ニールは知らず肩に入っていた力を抜く。
    「どうしたよ、今日は用事があるんじゃなかったのか?」
    「あぁ、それなら済んだ。もし良かったらこれから会いたいのだが、どうだろうか?」
    「そりゃ構わないが……」
     グラハムの声を聞きつつ、彼を取り巻く音を拾っていたニールの口が中途半端に閉ざされる。走り抜ける車の音はともかく、気になるのは雨の音だ。
    「どうかしたかね?」
     了承するも歯切れの悪いニールに、僅かだがグラハムの声のトーンが下がる。それだけで相手がどのような表情をしているか容易に想像が付き、ニールは軽く首を振ると、いや、と小さく返した。
    「アンタ、ちゃんと傘さしてんだろうな?」
     遠回しに言ったところで意味がないと悟ったか直球の問いを投げれば、なんと、と無意識のうちに零れ落ちたであろう言葉がニールの耳に微かに届く。
    「生憎と天気予報を見ずに出て来てしまったのだが、キミは私の姿が見えているのか?」
    「ンなワケあるか。音だよ、音」
    「これはまた随分と性能の良い耳だ」
     くつくつ、と喉奥で楽しげに笑いグラハムは、感服した、と戯けたように口にした。
    「濡れ鼠のアンタと店に入る勇気はないぜ?」
    「熟知している。宿舎に戻るには少々時間が足りないが、キミに会うまでにはきちんと身なりを整えると約束しよう」
     大方、手近なビジネスホテルで休憩がてら風呂を、とでも思っているのだろう。それならばとニールは先手を打つ。
    「だったら俺の泊まってるホテルまで来いよ。それならわざわざ雨ン中出なくて済むからこっちもラクでいい」
     はは、と軽く笑うニールにグラハムは一瞬、声を詰まらせるも、すぐさま何事もなかったかのように、くつり、と喉奥で低く笑った。
    「そうか、ならばお言葉に甘えるとしよう」
    「着いたらまた連絡くれ。さすがにずぶ濡れのままじゃ入りにくいだろ」
     タオル持ってロビーまで迎えに行ってやる、とまで言われては、さすがのグラハムも声を上げて笑うしかない。往来で突如笑い出した相手にその場に居ないニールの方が電話口で慌ててしまい、グラハムは更に笑い声を上げる。
    「キミは本当に世話焼きだなぁ」
    「そういう性分なんだよ、仕方ねぇだろ」
     くそ、と照れ隠しに悪態を吐く様すらもが好ましいのか、グラハムは相手には見えぬとわかっていながら眦を下げる。
    「褒めているのだよ。では、ホテルの場所を教えてくれないか」
     続きは会ってからにしよう、と笑うグラハムにニールはホテルの名と場所、目印になりそうな物を伝え、「あぁ、それなら近いな」と答えたグラハムに「パンツは用意しといてやるから安心しな」と世話焼きだと言われたことを逆手に取った冗談をニールがひとつ投げる。それに対してグラハムが小さく笑みを漏らしたところで、通話は和やかな空気のまま終わるはずであった。
    「……すまない、ちょっと遅くなりそうだ。また連絡する」
     短い挨拶を口にしようとしたその時、ニールの耳に僅かに固くなったグラハムの声が届く。
    「おい……? グラハム」
     ただならぬ雰囲気にニールが険しさを隠しもせず相手の名を呼ぶも、返ってきたのは通話終了を告げる無機質な電子音であった。


     切り際に相手が何か言っていたようだが全く意に介さず、グラハムは、ピッ、と携帯端末の電源を落とした。雨宿りをする振りをしてカフェの店先で足を止め、冷たい雫を落とす髪を無造作に掻き上げる。
    「全く、暇な者も居たものだ」
     先約と待ち合わせた店からここに至るまで、ひとつの視線が自分を追っていることにグラハムは気づいていた。このまま気づかぬ振りをして何食わぬ顔でまいてしまうのが手っ取り早いのだが、どうやら決断は一足遅かったようだ。
     目の前で足を止めた男を、ゆっくり、と見やり、グラハムはコックピットで敵と対峙するとき同様、凜とした表情を向けた。
    「用件は手短にお願いしたい」


     ソファに浅く腰掛け微動だにしないニールの手中で、ピリ、と端末が着信を告げた瞬間、考えるよりも先に身体が反応していた。即座に通話ボタンを押し「グラハムッ!?」と噛みつくような勢いで名を呼べば、一瞬の間の後「そんな大きな声を出さずとも聞こえている」と苦笑混じりの応えがあり、それを聞くや否やニールは安堵の息を吐くと肩の力を抜いた。
    「遅くなってしまったがホテルの前に居るのだよ。迎えに来てくれるかね?」
    「あ、あぁ。ちょっと待っててくれ。今行く」
     詳しいことは後だ、とニールは了承の意を伝え手早く通話を終わらせると、用意しておいたバスタオルを引っ掴み急いでロビーへと向かった。グラハムの声の調子はいつもと変わらなかったがニールはどこか違和感を覚え、言いしれぬ不安に知らず眉根が寄る。
     エレベーターの扉が開ききる前に無理矢理に肩から外へと出るも、ロビーに待ち人の姿はなく、ニールはまろび出た勢いのままに出入り口へと駆けた。
    「やぁ、ニール」
     自動ドアを出てすぐのところにグラハムはおり、必死の形相で現れたニールに少々、驚いているようだ。だが、驚いたのはニールも同じであった。
    「な、んて恰好してんだ……」
     目を見開き呆然と呟いたニールに軽く肩を竦めて見せたグラハムは、濡れているだけではなく何故か泥まみれであったのだ。
     しかも地味ではあるが品の良いスーツは目に付くところで言えば肘の部分が破れており、その下の鮮やかなブルーのYシャツまでもが被害に遭っている。
     目を下ろせばスラックスも無事ではなく、ちらり、と白い足が垣間見えた。
     一体全体なにをやらかしてきたのか、との問いの言葉を、ぐっ、と飲み下し、ニールはグラハムの白い頬を伝う雫を目で追い、色を失った唇に気づく。
    「とにかく部屋へ……」
     グラハムの頭にタオルを被せつつ促せば、小さく「すまない」と詫びの言葉が零れ落ち、ニールはその打って変わった力ない声に、きゅっ、と唇を引き結ぶ。
     タオルの上からグラハムの肩を支えるように抱き、寒さからか微かに震える身体を労るように、ゆるゆる、と撫でさする。ロビーに居る者達の視線など気にも留めずエレベーターへと直行し、幸いにも誰にも止められることなく部屋に到着した。
    「まず風呂だな」
     そのまま腰を落ち着けることなくバスルームへ直行し、とにかく服を脱げ、とニールがバスタブに張っておいた湯の温度を確認しつつグラハムに言えば、彼はニールの背後でおとなしく濡れた服を身体から剥がしていく。タイルの上に湿った重い音が次々と落ちていき、頃合いを見てニールが振り返れば、肩にタオルのみを羽織ったグラハムが居た。
     その所在なさげな表情に質問は後だと自身に言い聞かせ、ニールはグラハムの左腕を取った。
    「傷、見せてみな」
     イスに座らせ、特に抗うことなく肘を上げたグラハムに軽く頷いて見せてから、血の滲んだ傷口に目をやる。僅かな凹凸のある場所、例えばアスファルトで擦ったかのような歪な傷口に、ニールは眉間にしわを刻んだまま入り込んだ砂利をシャワーで丁寧に洗い流していく。
     タオルに隠されハッキリとは見えないが、腹部や鎖骨の下辺りに打撲傷がいくつかあり、ニールの表情が更に険しくなる。それに気づいたかグラハムは、じっ、と足下のタイルを暫し見つめた後、ゆっくりと、だがしっかりとニールの目を真っ直ぐに見据えた。
    「彼女にキチンと、付き合えない旨を告げてきた」
     突然の告白にニールは僅かに目を見張り、言うべき言葉を探しているのか唇を二度、三度と薄く開くも、押し出されたのは「そうか」という小さな呟きだけであった。
    「まさかそのお嬢さんと取っ組み合いの喧嘩をしたワケじゃないよな」
     話しやすいようにとわざと冗談めかしたことを言ってくるニールの心遣いを酌み取ってか、グラハムはその面に穏やかな笑みを浮かべ、瞬きひとつの間に片頬を上げた人の悪い笑みにすり替える。
    「私に手傷を負わせるほどの手練れならばお付き合いしても良いかと考え直すところだが、残念ながら彼女は聡明でそのような暴挙に出る人ではないよ」
     くつり、と笑んだ拍子に腹部の傷が痛んだかグラハムは僅かに眉根を寄せ、右手で傷を、ゆるゆる、と撫でた。
    「覚えているか? 以前、バーで私を殴り飛ばした者のことを」
    「あぁ。あんな強烈な出来事、忘れるわけないだろ」
     その後の展開と相まって鮮明に焼き付いているそれを思い返し、ニールは肯定の頷きと共にどこか困ったような笑みを浮かべる。
    「彼は彼女に恋慕していたそうだよ。元々、私に対していい感情を抱いていなかったところに少佐のお嬢さんとの交際の噂が立って……」
    「あの時、待ち合わせていた相手をその彼女だと勘違いして、思わずぶん殴っちまった、と」
    「そういうことらしい」
     ピン、ときたか言葉を継いだニールにグラハムは軽く肩を竦めて見せ、再び傷が痛んだか眉根を寄せた。
    「今日、彼女と会うことは誰にも言っていなかったのだが、一体どこで聞きつけたのか。待ち合わせ場所からずっとつけてきたかと思えば、聞いてもいないことを勝手に捲し立てた挙げ句また殴りかかってきたのでね、今度は黙って殴られてやる義理はないので応戦した結果がこれというわけだ」
     空では負け知らずの彼も、さすがに生身では無傷とはいかなかったということだ。一度見ただけではあるが相手との体格差を考えれば、善戦したというべきか、とニールは苦い顔でグラハムの身体に刻まれた複数の傷に目をやる。
     現役軍人でありしっかりと鍛えてはいるが、周りと比べると体格的に劣っているのは事実である。遺伝的なものも関係しているであろうが、成長期に十分な栄養を摂ることができなかったのが彼にとっての不運であると、ニールは常々思っていた。
     だが、過去をどうこう言ったところで、詮無いことであるとわかっている。
     過ぎた時間を巻き戻すことなど、誰にも出来はしないのだ。
    「理解の範疇を越えたことをいつまでも、つらつら、と言い募ってくるものだからいい加減、面倒臭くなってしまってね、彼に『好き』の反対は『無関心』であると言ったのだが、私は間違っているだろうか」
     揺らぐことのない瞳で真っ直ぐに問いを投げてきたグラハムに、ニールは困ったように眉尻を下げる。恐らく相手はグラハムが上官の娘を袖にしたことに対して、まるで彼女の代弁者であるかの如く感情のままになじり、また情に訴える言葉も織り交ぜてきたのだろう。
    「間違っちゃいないが、言うべきじゃなかったな」
     常人ならばそれにより多少なりとも感情が揺り動かされたであろうが、グラハムは他者の言葉にそうおいそれと左右されるような男ではないのだ。それが納得のいかぬものならば尚のことだ。
     頑ななまでに己を貫き通す彼の姿は、好印象か悪印象か明確に分かれることだろう。
     頬に張り付いた濡れた金糸を両の掌で左右から掬うように掻き上げ、冷えた頬にニールが己の頬を、そっ、と押し当てれば、ややあって小さく「そうか」との応えが耳元で返り、冷たい指先がぎこちなくニールの栗色の髪を梳いた。
    「地上はままならないことばかりだ……」
    「また、空の話か」
     耳元で囁くように問いかければ、触れた肌を通してグラハムが笑ったことがわかった。
    「空はいいぞ、ニール。だが、最近は地上も良い物だと思い始めている」
    「へぇ、そりゃどういった心境の変化で?」
     するり、とニールの腕を擦り抜け、グラハムは湯気を上げるバスタブに身を浸すと、ふわり、と柔らかな笑みを浮かべた。
    「キミが居るからだ」
     飾らない真っ直ぐな言葉と、それに相応しい揺るぎない眼差し。一片の迷いも無く己の意志を貫き言葉を惜しまぬグラハムを好ましく思う反面、見ている世界はやはり違うのだと思い知らされ、ニールは「とんだ殺し文句だな」と戯けたように肩を竦めるも、その瞳の奥はどこか寂しげな色を滲ませていたのだった。
     気が落ち着くにつれ疲労感が押し寄せてきたか、どこか、とろり、とした眼でバスタブに背を預けているグラハムに「よく温まれよ」と言い置き、バスルームを出たニールの胸元で端末が着信を告げる。
     まるで見計らったかのようなタイミングに片頬を歪に上げ、「依頼か」と仕事用の固い声音で低く応じた。

    ◇ ◇ ◇

     傍らの愛用のライフルを、そっ、と撫でる己の手を覆うグローブに目を留め、最後に顔くらい見ておきたかったな、と思うもそれは叶わぬ願いだ。
     雨に濡れ、同僚と殴り合いをしたグラハムと一晩共に過ごした翌日、「暫く会えない」と仕事が入った旨を告げたのだ。
     それは既に二週間前の話であり、情報収集や準備に時間を割かれ、メールすらままならず決行日当日となってしまった。
     そして今回の仕事は今現在ニールが滞在している地区であり、それは即ちグラハムとの別れを意味していた。
     だが、直接会うことは難しくなるがメールや通話はこれまでと変わらず交わせるだろう、とニールは自身に言い聞かせ、意識をスナイパーのそれへと切り替える。
     渡されたターゲットの資料は万が一に備え処分済みだが、それらは全て脳に叩き込んである。
    「レイフ・エイフマン、か」
     水面下で進められているユニオンの次期主力モビルスーツ候補開発の中心人物であり、その技術、知識、才能を脅威に思っている者が今回の依頼主だ。
     ラボからなかなか出てこないターゲットだが、内密に行われるユニオン上層部との会合に出席するとの情報を得て準備を進めてきたのだ。
     基地内では手が出せないが今回、会場となっているのはホテルのレセプションホールで、まさに絶好の機会といえた。
    「さて、と。そろそろ時間だな」
     出番を待っていた仕事道具を手に取り、ゆっくり、と十字に区切られたスコープを覗く。有効射程距離ギリギリの場所を狙撃ポイントに選んだが、それでもニールには仕留める自信があった。
     正面玄関前に設えられた噴水を中心に、ぐるり、と円を描くように舗装された通路を進む一台の車を捉え、ひたり、と照準を合わせる。滑らかに停止した車のドアを玄関前で待機していた者が開き、一拍おいてから覗いたロマンスグレーにニールは表情を引き締めた。
     まだだ、まだ早い、とスコープ内のターゲットを凝視し、彼が完全に車外に出るのを待つ。一発で確実に仕留めることを前提にしており、照準は常に頭部に合わせている。
     車内から完全に姿を現したエイフマンは二、三歩足を進めてから不意に立ち止まり、なにかを追うように顔を巡らせている。大方、反対のドアから出た同行者を待っているのだろうと予想しつつ、ターゲットが動きを止めている今を逃す手はない。
     引き金に掛けた指に、くっ、と力を込めた刹那、それまで中心に据えられていたターゲットの姿は消失し、入れ替わりに視界に飛び込んできた金糸に、ニールは心臓が凍りついたかのような感覚を味わった。
     それが狙撃を察知しての行動かは判断のしようもないが、男は確かに射線上に自らの身体を割り込ませてきたのだ。
     不測の事態に銃口は僅かに揺れたが、指は止まらなかった。
     現実には一瞬のことであったにも関わらず、宙を舞う青い制帽はニールの目にはスローモーションのように映り、緩やかな弧を描き地に向かっていく。
    「な……」
     失敗した、と思うよりも早く、一体ナニを撃ったのだ、との問いが脳内を埋め尽くす。
     革のグローブに包まれた指先が、カタカタ、と小刻みに震え出す。
     愕然と目を見開いたままそれでもスコープを覗き続けたニールは、更に目を見張ることになる。
     よろめき頽れる刹那、新緑の瞳は確かにこちらを見たのだ。
     そんな莫迦な! ありえない!! と混乱の極みにありながらも、ニールは素早く薬莢を拾い上げその場を後にする。
     初めて仕事で使ったグローブに指先を締め付けられるような錯覚を覚え、ありえない、そんな訳がない、と否定の言葉を譫言のように紡ぎ続ける。
     ――彼があの場に居たなど、ある訳がない。
     だが、ニールは同行者の存在を知っていた。エイフマン自身が目を掛けており、いずれは開発機のテストパイロットとなるであろう者がその同行者であることを。
     だからこそ彼は全てを否定し、そして、逃げたのだ。


     遊歩道脇に置かれたベンチに腰を下ろし、ニールは手中の文庫本に目を落とす。電子書籍が主流となってから何世紀も経ったが紙の書籍は完全には消え去らず、数少ないそれをニールは好んで手にしていた。
    「しくじったんだって?」
    「あぁ」
     いくらも読み進まぬうちに背後で端末をいじっていた先客が、ぽそり、と漏らす。だが、ニールは驚いた様子も怪訝な様子もなく淡々と応じた。
     互いに無関心を装い、言葉少なにやり取りは続く。
    「アンタ運がいい。今回はしくじって正解だ」
    「どういうことだ」
     表情ひとつ変えずニールが問えば、背後の男も顔色ひとつ変えず言葉を唇に乗せる。
    「依頼時と状況が変わったんだよ。もし依頼を完遂してたら今頃はアンタが狙われる立場だ」
    「ソイツはぞっとしないね」
    「だが、結果だけを見ればアンタがしくじったのは事実だ。状況は二の次でこういう話はあっという間に広がるからな。そこで提案があるんだが――」

    ◇ ◇ ◇

     メインモニターを切った状態のコックピットで、ニールは沈黙を守る計器類をぼんやりと見つめる。
     ――アンタをスカウトしたい。私設武装組織『ソレスタルビーイング』のメンバーとして。
     その誘いを断る理由が見つからなかったこともあるが、まるで逃げるかのように宇宙へ上がってから如何ほどの時が経ったであろうか。
     地上ではそろそろユニオンの新型機がロールアウトする頃合いであると、戦術予報士が浮かない顔で漏らしていたのを耳にしたばかりだ。
     ヴェーダが弾きだした複数のガンダムマイスター候補の中にニールがおり、更なる絞り込みを掛けるためその動向はソレスタルビーイングメンバーによって逐一、報告されていたのだという。
     それがあの情報屋だと聞かされた時、ニールは驚くこともなく、むしろ長年の目に見えない胸のつかえが、すとん、と落ちたのだった。
     テロで両親と妹を失い、十代半ばで裏の道へと足を踏み込んだ子供が、後ろ盾もなにもなくそれこそ身ひとつのド素人が、他者から食い物にされずここまで生きてこられたなど、奇跡が起こるか、はたまた余程の強運の持ち主でない限り無理な話だ。
    「ま、ある意味、強運ではあったか」
     緩く息を吐き出しグローブに包まれた掌を、きゅっ、と握り締める。
     刹那、脳裏を過ぎった蜂蜜色の髪に、ニールは唇を引き結ぶ。
     あの日以来、一度も電源を入れていない携帯端末を、そっ、と胸元から引き出し、暫し物言わぬ画面を見つめていたが、一旦、瞼を伏せた後、意を決したか唇を引き結んだ険しい顔付きのまま、それでも微かに震える指で電源ボタンに触れた。
     パッ、と点灯した液晶画面が、仄白くニールの顔を照らす。予想通りそこには未読メッセージありの表示があり、一番古い物から順番に開いていく。
     内容は近況とこちらを気遣う短い物がさほど日を開けずにいくつか続き、その後は一切返信がなかったにも関わらず、グラハムは少なくとも月に一度は必ずメールを寄越していた。
    『予定が合えばまた飲みたいものだなぁ』と時折、織り交ぜられた誘いに「相変わらずだな」と柔らかく眦を下げるもその笑みはどこか苦く、切なさが滲む。
     メールを全て読み終え、彼は変わらずやっているのだと安堵の息を吐いたニールであったが、不在着信が一件あったことに気づき、一瞬、動きを止めた。
     日付は最後のメールから三日後で、それを目にした瞬間、言いしれぬ不安に心臓は、どくり、と一際大きく脈打ち、身体は己の意志を無視して小刻みに震えた。
     これまでにも不在着信など何度もあったではないか、と湧き上がる不安を無理矢理に押し戻し、ピッ、とボタンを押した。
     だが、耳に押し当てた端末からはなにも聞こえず、怪訝な顔で耳からそれを離したその時、
    『……ニール――』
     何ヶ月も聞いていなかった声が、確かに名を呼んだのだった。
     慌ててもう一度再生し、息を詰める。
    『……ニール……キミの、声が聞きたい……』
     震える声音が紡ぐメッセージはとても短い。だが、そこに込められた切実さと隠しきれなかった悲痛さに、ずくり、と胸の奥が疼いた。
     ――一体、彼になにがあったのか。
     ぐっ、と端末を握り締めニールは深く項垂れる。
     ――彼のこのような声は聞いたことがない。
     今すぐにでも地上に戻りたい衝動を抑え込み、ゆるゆる、と頭を振る。今更、どの面下げて彼の元へ行こうというのか。
     ――この手で彼を撃ったのだ。
     故意ではなかったと言い訳をしたところで、事実は消えない。彼を傷つけたその手で再び触れるなど、赦されてはならないことだ。
     その上、彼が軍に身を置き続ける以上、そう遠くない未来に敵同士になるであろう事は、火を見るよりも明らかである。
    「……すまない」
     彼よりも優先すべき事が出来てしまったのだ。
     ソレスタルビーイングの掲げる戦争根絶に、一縷の望みを託したのだ。
    「俺には『空の音』は聞こえなかったよ……」
     とても美しい音だ、と告げた、空を愛し、空に愛された男の顔が脳裏を過ぎる。
     ギリッ、と奥歯を噛み締め、ニールは端末内の情報をすべて消去した。

    ◇ ◇ ◇

     手中の端末をポケットへ戻し、グラハムは俯いていた顔を真っ直ぐに上げた。
    「待たせたな、ハワード」
     ロールアウトされたばかりの機体を見上げていたハワードに声を掛ければ、振り返った彼から色硝子越しに気遣わしげな視線が投げられ、グラハムは軽く片眉を上げて見せる。
    「どうかしたかね」
    「いえ、浮かない顔をされていたようでしたので」
     ちら、とハワードの視線がグラハムの腰の辺りに寄越され、そこになにがあるのか気づいたグラハムは、ゆるり、と頭を振った。
    「もういいのだよ」
     傍らのフラッグを見上げ、更にその先に広がる碧空に目を細める。
    「ほんの少し、リアルな夢を見ていたに過ぎないのだから」
     どこまでも続く空を背負い、雄々しく立つその姿になにを見たか、グラハムは一旦、きゅっ、と唇を引き結び、
    「行こう、フラッグファイター。我らの翼と共に」
     そう告げた表情は凜と気高く、何者にも囚われぬ強い意志を秘めた瞳は、力強く輝いていた。



     最後のメッセージが送られたその日、グラハムが上官を失ったことをニールは知る由もなかった。

    ::::::::::

    2010.06.29
    茶田智吉 Link Message Mute
    2019/12/05 21:52:17

    【00】REALな夢の条件

    #グラハム・エーカー #ニール・ディランディ #ニルハム #腐向け ##OO ##同人誌再録
    ・フラッグ正式採用前に出会った二人のお話。シリアス。
    ・ドラマCD(ROAD TO 2307)ネタに触れています。
    ・ハッピーエンドではないです。上げて落とすのお別れEND。
    ・同人誌再録。
    (約2万3千字)
    ※文章が一部抜けていたため再アップ(2019.12.05)

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