【REBORN】祈りは彼のため 願うは誰がため いつの頃からか、目を覚ます度にまだ生きていると思うようになった。
そのたびに安堵とも絶望ともつかぬ息を吐き、再び視界を閉ざす。
この身に終焉が訪れるなど考えたこともなかったのだ。
否――
いずれは赴かねばならぬ昏く閉ざされたあの世界に戻ることを拒み、目を背けていたのだ。
それほどまでに手にした光が愛しかったのだ。
† † †
ことん、と山本は眠っている彼を起こさぬよう、手にしていたマグカップを静かにサイドテーブルへと下ろした。
穏やかな陽射しが差し込む窓辺では薄手のカーテンが、ゆらり、と揺れ、微かに届いた風が瞼を伏せたザンザスの前髪も優しく揺らす。
深く、ゆっくり、と繰り返される穏やかな呼吸。
そこにあるのが当たり前になっている眉間のしわは眠っている間は影も形もなく、どのような夢を見ているのか、時折、不快そうな吐息と共に思い出したように、うっすら、と浮かぶ程度だ。
少し痩せたな、と穏やかな寝顔を見つめながら山本は思う。
起きているときはそうと感じさせはしないが、着実に彼の時間は周りとずれが生じている。
溶けることのない氷の枷に囚われていた八年間は、見えぬところで彼の身体を蝕んでいた。真綿で、じわりじわり、と首を絞めるように、ゆっくり、と。だが確実に。
後遺症だ、とスクアーロは言った。
枷から解放されたあの日から本人も気づかぬほどの緩慢さで、身体機能全てが低下の一途を辿っていたのだ。
兆候はうたた寝の回数が増えたことだった。
そうと真っ先に気づいたのは、やはりスクアーロであった。それでもザンザスが起きているときは常と変わらぬ態度で接し、莫迦なことを言おうが言うまいがよく物を投げつけられていた。
彼の時間は緩やかに緩やかに終焉へと向かっている。
だが、そうと気づいていながら誰もそのことを口にはしない。それはザンザス本人も含めて、だ。
そろそろスクアーロが戻ってくる頃か、と山本が腕の時計に目を落としたのと、ゆうるり、とザンザスの瞼が持ち上がったのはほぼ同時であった。
ちらり、と寄越された視線に山本が応えるように眦を下げれば、吐息のような声が相手の唇から零れた。
「……どれくらい寝てた」
「んー、三時間ちょいってとこかな」
なにか飲むか? との問いにザンザスは短く断りの言葉を発し、緩慢にその身を起こした。暖かな良い陽気だが起きたばかりの身体を冷やすのはよくないと、上体を起こしただけでベッドから降りる気配のない相手の肩に山本は薄手の上着を掛けながら、ゆっくり、と言葉を押し出す。
「もうすぐスクアーロ戻ってくると思うから、そしたら昼飯にするな」
そして、彼が帰ってきたら自分は戻らなければならない、と告げようとして、やめた。
いつの頃からかザンザスの傍には最低でも誰か一人が居る。誰に頼まれたわけでも、ましてやザンザス自身が言い出したことでもない。皆、口には出さぬが彼を独りにすることが気掛かりなのだ。
大抵はスクアーロが居るがどうしても彼の都合が付かない時は、職務の合間を縫って他幹部が訪れる。眠る彼を見守るだけのこともあれば、二言、三言、他愛のない言葉を交わすこともある。
ザンザスは一日の行動時間が短いだけで、起きているときはこれまでとなにも変わらぬ姿を見せるのが救いであり、また、哀しくもあった。
ヴァリアーのボスは形式上は現在もザンザスであるが、実際に指示を出し組織を纏めているのはルッスーリアである。その役目は当初、スクアーロに回ってきたのだが彼は、
「俺が仕えると決めたのはザンザスだぁ。ヴァリアーにじゃねぇ」
と、頑として首を縦に振らず、それどころかこれ以上、無理強いするならヴァリアーを脱退しても構わないとまで言い切り、彼のザンザスに対する執心度を痛いほど理解している他幹部はそれ以上なにも言わず、スクアーロの好きにさせることを選んだのだった。
正直、このような勝手が罷り通るとは思っていなかったのだが、九代目、並びに綱吉の先手を打った口添えがあり、外野からとやかく言われることはなかった。
だが、過去に一度ならず二度までもボンゴレへと牙を剥いたヴァリアーを、今も疎んじ警戒している者達は居る。隙を見せればここぞとばかりに解体、再編成を迫られるのは目に見えている。彼らは対外的には尤もなことを口にしているが、詰まるところザンザスとザンザスに従う者を排除したくて仕方がないのだ。
山本が頻繁に彼らの元へ訪れるのは綱吉に監視を命じられての事であると、表向きはそうなっているが実際は言わずもがなだ。自ら進んで風除けになってくれたそれに恩を感じてか、スクアーロは綱吉の頼みは余程のことがない限り断らない。
「仕事か?」
「本部に顔出すだけだって言ってたから、ついでに買い物頼んだ」
誰のことを聞いているのか瞬時に察した山本が淀みなく応えれば、ザンザスは、ふっ、と微かにだが眦を下げ「そうか」と漏らした。その穏やかな笑みに山本は、きゅっ、と唇を引き結ぶ。
気がつけば彼はとても優しく笑うようになっていた。それに比例するかのようにスクアーロが余り笑わなくなったことが、とても哀しいことだと山本は思っている。
ザンザスの前では決して見せないが、彼が浮かべるのは穏やかで、だがどこか痛みを耐えるような愁いを帯びた笑みばかりになっていた。
それはいつ消えるとも知れぬ、か細い蝋燭の炎にも似ていた。
「朝がリゾットだったから、そうだなー……フレンチトーストにでもすっか?」
それともホットケーキ? と首を傾げる山本にザンザスは面倒臭そうに鼻を鳴らすと一言「任せる」とだけ唇に乗せ、サイドテーブルに置かれていたマグカップを取り上げるとそのまま口に運んだ。暫し放置されていたせいで膜の張ってしまったホットミルクに再度、鼻を鳴らす彼に、山本は意識的に笑みを浮かべつつ「それ俺の」と無駄な主張をするのだった。
ぼふん、と不意に視界を閉ざした煙に、山本は二、三回瞬きを繰り返しただけで、諦めたような笑みを口元に浮かべた。慣れるとまではいかないが見知った現象だ。
おとなしくその場で、じっ、としていれば徐々に煙は晴れ、見慣れた内装が視界に入る。見慣れてはいるがその場所が予想外であったか、山本は「お?」と小さく声を上げた。
「よー、元気か?」
目の前のザンザスとスクアーロに、ボウル片手に反対の手を挨拶代わりに上げて見せれば、疑心暗鬼そのものといった表情でスクアーロが「変わった……のか?」と呟いた。
「おう。ばっちし三十四歳だぜ。ん? てことはスクアーロよりも年上なのか」
そっかそっか、と一人頷いている山本に眇めた目を向け軽く嘆息するザンザスの隣では、どこか不満そうにスクアーロが鼻の頭にしわを寄せている。
「ジャポネーゼは容姿の変化が乏しすぎる」
十年後も今と大して変わってないと言いたいのか、漏れ出たスクアーロの呟きに珍しくザンザスが同意を示し小さく首を縦に振った。
僅かであるが髪は乱れ、どことなくよれた印象を受ける二人の姿に大方の見当は付いているが、山本は肩を竦めつつ問いを発する。
「それで、十年前の俺はなにをしでかしたんだ?」
二人の足元に転がるバズーカに、ちらり、と眼をやってから、山本は僅かに眉根を寄せ唇を歪めた。見ようによっては苦笑とも取れるその表情に違和感を覚え、スクアーロは一瞬ではあったが目を見張り、ザンザスは僅かに片眉を上げるに留めたが、幸か不幸か山本自身は二人のそのような反応に気づいていない。
「試し撃ちも兼ねて十年後の俺たちが見たい、なんてほざきやがったから、望み通り十年後に送ってやっただけだぁ」
詳細の省かれた説明であったが実際の所は、「どっちにしようかなぁ」などと言いながら二人に発射口を向けた山本に「だったらてめぇが行け」とザンザスとスクアーロがコンビプレイで彼からバズーカを奪い、ザンザスの躊躇の無い一発が決まり今に至る。
十年前も今も十年バズーカは研究、改良が続けられており、十年前のこの時期は確か、入れ替わり時間の延長に力を注いでいたはずだ。
ちくしょう、と悪態を口にはしないが山本の胸中は穏やかではない。正直、このタイミングで入れ替わってしまったことに、苛立ちを覚えているのだ。
手にしているボウルの中身はホットケーキのタネで、それが出来上がるのを待っているのは――
「……おい」
無意識のうちに噛み締めていた唇の痛みにではなく、張りのある低い声に意識を引き戻され、はっ、と顔を上げれば、鋭い深紅の瞳が、じっ、と山本を見据えていた。
「文句なら十年前のてめぇに言え」
奥底にわだかまるもの全てを見透かすかのような力強い眼差しに、山本は眩暈を起こしそうになる。気づけばいつの頃からか目にしていない輝きを放つ紅玉に、腹の奥底からなにかが、ぐっ、と迫り上がってくるのを感じた。
そして、此処は十年前なのだと改めて痛感する。
「あー、まぁ、そうだな、うん」
曖昧に笑んで見せると空気を変えようというのか手中のボウルを掲げ、
「とりあえずおやつにホットケーキどうだ?」
と提案して見せれば、心底呆れたと言わんばかりに瞠目するスクアーロの隣で、それこそ数ミリ単位ではあるが口角を上げたザンザスを山本は見逃さなかった。それに気をよくしたか山本は薄く笑い、執務室に設えられた馴染みの簡易キッチンへと足を向けると手早くフライパンや必要な物を取り出した。続いて中身を確認するように冷蔵庫に頭を突っ込んだ彼の口から、あー、と弱り切った声が漏れた。
「さすがにメープルシロップはねぇか」
十年前に買った物など逐一覚えているわけではないが、ここで菓子を作った記憶は皆無である。かろうじてバターはあるが、それだけでは不満を露わにする者が居るのは確かだ。
「なー、ここの厨房にならあるかなぁ?」
パタン、と扉を閉じると同時に顔を向けてきた山本にスクアーロが「あるんじゃねぇかぁ」と確証もないままに軽く返せば、それを微塵も疑うことなく山本は「じゃあ貰って来るのな」と、さらり、と言ってのけ、すたすた、と廊下へ出て行った。
余りにも自然な流れであったため部屋を出て行く背中を見送ってしまったが、よくよく考えなくとも今の山本は十年後の山本で、目鼻立ちに差違はそれほど無くとも不審極まりない。十年バズーカの存在を知らぬ者と鉢合わせでもしたら、厄介なことになるのは目に見えている。
「ちょっ、ちょっと待てぇ武ぃ!」
バタバタ、と暗殺者に相応しくない豪快な足音と共に大慌てで部屋を飛び出したスクアーロを眇めた目で見やったザンザスは、表情はそのままに顎に手をやり、とんとん、と指先で軽く唇を叩く。
十年という月日は安穏と過ごすには長く、事を成すには短い時間だ。
だが、人が変わるには充分な時間であることは理解している。理解はしているのだが、こいつは変わらないだろうと思っていた者の予想外の変化に、正直、戸惑っている。
ただし外見上はこれと言った変化はなく、順当に齢を重ねればこうなるであろうという予想の範囲内だ。
だが、ひとつだけ決定的に変わった点がある。
それこそが何があっても変わらないであろうと思い、また疑っていなかったそれが失われていたことに、軽い衝撃を受けたのだ。
歪んだ唇を思い返し、ザンザスは、ふるり、と頭を振る。
思案に暮れながら椅子を引き、どさり、と投げ出すように身を沈める。革張りの椅子は少々、不満げな音を上げたがしっかりとザンザスの身体を受け止め、彼は更に思考を深くする。
どうして彼はあんなにも歪に笑うようになってしまったのだろうか。
彼自身になにかがあったという可能性もあるが、余程のことがない限り根幹の揺らがぬ男であることは承知している。その男が変わる要因として考えられることと言えば、外的なこと。それも彼に深く関わりのある物や人物になにかがあったと、考える方が妥当であろう。
「……誰か死んだか」
誰がいつ死んでもおかしくない世界だ。その可能性がないわけではないが、それを考えたところで詮無いことであると、ザンザスは再度、ふるり、と頭を振った。
彼の存在する時間で起こったことは、既に取り返しが付かないのだから。
苦い顔で瞼を伏せたザンザスの耳に、扉の開いた音が届く。ノックがなかったということは部下ではない。ゆうるり、と瞼を持ち上げやや上目に扉を見やれば、先程出て行った男が当たり前の顔をしてそこに居たのだった。
「早いな」
「あぁ、スクアーロが行ってくれるっていうから、任せた」
改良中なだけあって十年バズーカの効果持続時間は不安定だ。不特定多数の者の前で入れ替わったら面倒だ、との判断からスクアーロは山本を追い返したに違いない。
ザンザスの問いに笑みの形に吊り上げた唇で答え、山本はホットケーキを焼くために簡易キッチンへと足を向ける。だが、その足を止めさせたのは、ザンザスの抑揚のない声であった。
「……不細工な面だな」
「うわ、ひでぇ。そりゃザンザスからすれば俺はへちゃむくれだろうけど……」
一般的に見れば山本も標準以上の容姿であるのだが、獄寺然り、ディーノ然り。いかんせん彼の周りにいる者が華やかすぎるのだ。
「あんた、そんな口悪かったっけか」
前振り無く発せられた失礼な言葉に、はは、と苦笑する山本の何が気に障ったのか、ザンザスは眉間のしわを一層深くした険しい表情を崩さず、クイクイ、と指先だけで相手を招き寄せる。
その横柄な態度に、二十四歳の山本ならば文句の一つも遠慮無く出たであろう。だが、十年後の彼は一瞬、目を見張った後、懐かしむような愛しむような柔らかな色を浮かべたかと思いきや、それは直ぐさま瞼に隠された。
反発することなく柔らかな絨毯を踏みしめ執務机に寄った山本を更に招けば、彼はそのまま机を迂回して椅子に深々と腰を下ろしているザンザスの直ぐ横に立った。
「なんだ?」
呼び寄せたはいいが無言で見上げてくるだけでなにも口にしない相手に、山本は少々、居心地の悪さを覚える。
己に向けられる眼差しが強すぎるのだ。
十年前はこれを平気で受け止めていたのかと、俄には信じられないのだ。
そして、瞼の裏に思い描いた姿のなんと儚いことか。
本当に彼の時間は終わりを告げようとしているのだと嫌でも思い知らされ、しくり、しくり、と痛み出した胸に、無意識に眉根が寄り口端が下がる。
「十年か」
「ザンザスと同い年なのな」
じっ、と値踏みするかのように無遠慮に山本を眺めていたザンザスの口から、吐息と共に言葉が零れ落ちた。噛み締めるような、考え込むようなその声音に山本は緩く笑むも、それはザンザスの知る笑みとはほど遠いもので、それどころか笑みとは呼べぬものであった。
「十年後はそんなに酷ぇ世界になってるのか」
とんとん、と指し示すかのように己の眉間を指先で叩き、どうなんだ、と言わんばかりに僅かに首を傾げるザンザスの眉間にも、山本同様、深いしわが刻まれている。
ここも山本からすればそれほどいい世界ではないだろう。だが、二十四歳の彼はまだ笑っているのだ。
「笑うしか能がねぇくせに……なんだその不細工な面は」
刹那、見開かれた瞳が紅玉を真っ直ぐに捉え、強張る唇から震えた声が漏れ出る。
「俺……笑えてない…か?」
まさかそのような返しをされるとは思ってもいなかったのか、一瞬ではあったが逆にザンザスの目が見開かれ僅かに腰が浮いた。明確な言葉はなくともそれが答えである。山本は、そっ、と瞼を伏せ、ゆるり、と頭を振った。
「…俺も……だったか……」
その面から笑みが遠ざかっていたのは、スクアーロだけではなかったのだ。
消えゆく笑みをお互いどうすることもできず、ただただ、胸を痛めるだけであったのだ。
そして、代わりのようにザンザスが笑うようになったその意味を、ここに来て唐突に理解した。
「そうか……」
不意に、つぅ、と一筋、眦から頬を伝ったものは途切れることなく次々と流れ、山本の頬を濡らし、顎の先から滴り落ちる。
「……ッザンザス、ザンザス……ッ」
がくり、と頽れるように膝を着いた山本は強く拳を握り締め、彼の人の名を呼びながら嗚咽する。
彼の全てを受け止め、受け入れたつもりでいながら、その実、彼が何も言わぬのならと現状に甘んじ、目を背けていただけであったのだ。
いつからこんなに臆病になってしまったのか。彼を支えていると自惚れていた己の愚かさを罵り、唇を噛み締める。
山本の知る彼は間に合わなかった。
だが、目の前の彼はまだ間に合う。
ぐっ、と拳に更に力が加わり、彼の行く末を告げるべく意を決して顔を上げるも、揺れる視界の先に悠然と座する王者然としたその姿に決意が揺らぐ。
最悪な未来は回避してもらいたいが、果たして彼自身がそれを望むのか?
誇り高い彼だ。他者の手によって己の未来を変えられることを、よしとしないだろう。それならばせめて彼自身の手で未来を変えられるよう、切っ掛けを残していきたい。
ずっ、と鼻を一啜りし、ゆっくり、と立ち上がる。黙ってこちらの動向を窺っているザンザスの額に手を伸ばし、そっ、と前髪を掻き上げ唇を寄せた。続いて左右の頬、鼻の頭、そして最後に薄く開かれた唇に押しつけるだけの稚拙な口吻を送る。
「ごめんな。長生きしろよ」
詫びの言葉は間に合わなかった未来の彼へ。
冗談めかした万感を込めた言葉は今の彼へ。
ふわり、と涙に濡れた面に浮かんだ笑みは、枷から解き放たれたかのように柔らかく、優しく、穏やかで。
「てめぇはそうやって阿呆みたいに笑ってりゃいいんだ」
硬い掌が濡れた頬を乱暴に、だが確かな感情でもって包み込んだと思った刹那、白煙が二人の視界を閉ざしたのだった。
一瞬にして空を切った腕に小さく舌打ちをし、それでも戻ってきた見慣れた顔を前にザンザスは安堵の息と共に、ゆるり、と目元を弛ませる。
「おー、戻った戻った」
へらり、と緩い笑みを浮かべている山本に何か言いかけたザンザスであったが、己の膝に滴り落ちる物を目にした途端、怒声が口を突いて出た。
「てめぇッ! なにしやがる!!」
「え? あ、悪ぃ悪ぃ」
山本が手にしていた白磁のポットを慌てて水平に戻す。とろり、と側面を伝って最後に一滴零れ落ちたそれは琥珀色をしていた。
「早く何とかしろ」
スラックスだけならまだしも、毛足の長い絨毯に零しては後々面倒だ、と動くに動けないザンザスは拳の一発でも喰らわせてやりたいところを、ぐっ、と堪え、苛々、と山本を急かすも、事の元凶は相も変わらず緩い笑みを浮かべている。
「おい……」
「やっぱザンザスはそれくらい活きがよくないと、らしくないよなぁ」
剣呑に眇められた目を物ともせず、ゆうるり、と目尻を下げた山本の口元に一瞬滲み出た寂寥感に、ザンザスは言葉を失う。
彼は一体、十年後で何を見てきたのか。
だが、問うたところで明瞭な返答は得られないことはわかっている。
全てをさらけ出しているようでいて、実のところ本心を一番見せない男なのだから。
「十年後のてめぇはとんでもなく不細工になってたぞ」
「うわ、ひでぇ。ザンザスは相変わらず、甘いモン好きだったぜ」
意趣返しというわけではないであろうが、山本は悪戯っぽく笑いながらメープルシロップの入った手中のポットを軽く揺らして見せたのだった。
一瞬だけ感じたぬくもりを思い返す間もなく視界が開ける。
あぁ、戻ってきたのか、と二、三回瞬きをすれば、眦に残っていた雫が、はらり、と落ちた。
「おいおい、なに泣かされて帰ってきてんだ」
だらしねぇな、と苦笑と共に伸ばされた手が頬を撫で、親指の腹が涙を拭うように滑る。存外、近くにいたザンザスに少々、驚きつつも山本が、はは、と誤魔化すように笑えば、彼もなにに驚いたのか一瞬目が丸くなり、そして、柔らかな吐息と共に包み込んだ山本の頬を、ゆるゆる、と撫ぜた。
「懐かしい顔を見た」
「うん……俺も見てきた」
そう言って山本もザンザスの頬に掌を滑らせ、ゆうるり、と目を細める。
十年前の自分は彼のこの姿を見て、何を思ったであろうか。ザンザス本人から、あるいはスクアーロからなにかしら話を聞いたのだろうか。だが、仮に軽くはぐらかされたにせよ彼の異変には気がついたはずだ。
元の時代に戻った相手がどう動くにせよ、自分は十年前の彼が違う未来を迎えることを、ただただ、祈るしかないのだ、と山本は慈しむようにザンザスの頬を撫でながら小さな笑みを漏らした。
「ソレ、俺が作ったのか?」
正確には十年前のとつくのだが、ザンザスは敢えて指摘せず短く「あぁ」と応える。彼は山本が厨房に行く前同様、ベッドに身を起こした状態のままであったが、その膝にはトレイに乗せられたホットケーキの皿があった。ただ、掛けられているメープルシロップの量が酷く半端で山本が怪訝そうに首を傾げれば、ザンザスは苦笑混じりに肩を竦めて見せるだけだ。
己の立っていた位置とその仕草とで彼の言わんとすることを察したか、「こういう場合、賞味期限ってどうなるんだろうな」と山本は軽い口調で戯けて見せた。
「ん? そういえばスクアーロはどうしたんだ?」
彼が戻ってきたから山本は厨房へと引っ込んで、せっせ、と昼食の用意をしていたのだ。きょろり、と室内を見回す山本にザンザスは再度、肩を竦めて見せる。
「綱吉から呼び出しだ」
「そっか」
急な呼び出しと言うことは幹部連が絡んでいるのだろう。これまでは綱吉の護衛は山本の役目であったが、現在、綱吉はスクアーロを伴うことが多くなっている。
これは一種のパフォーマンスだ。ドンである綱吉が剣帝である彼を連れることで、ヴァリアーを掌握していると周りに知らしめているのだ。
あまりやりたくないんだけどね、と申し訳なさそうに眉尻を下げる綱吉を、山本は何度も目にしている。そんな彼の思惑を理解しているからこそザンザスはなにも言わないが、歯痒さからか密かに顔を歪めているのを山本は知っている。当然、スクアーロも、だ。
何事か考え込むように黙りこくってしまった山本を、じっ、と見上げていたザンザスだが、不意に途中までしか手のつけられていないホットケーキを乗せたトレイをサイドテーブルへ置くと、ベッドから脚を下ろした。
「どうした?」
「出かける」
端的に言い放ちクローゼットへと向かうザンザスを追うように、山本も同じ方向へと足を向け目の前の背中へ重ねて問いかける。
「何処行くんだ?」
「綱吉の所だ」
先と同様、短い応えであったが山本はその内容に、ぱちぱち、と目を数度、瞬かせた。
「え? なに? やっぱスクアーロが居ないとイヤなのか?」
「笑わせんな。そうじゃねぇよ」
バサバサ、と着ている物を無造作に床へ落とし、引っ張り出した真っ白なシャツに袖を通しながら、ザンザスは不敵に唇を歪める。
「これ以上、アイツに借りを作るのも癪だからな。潔く幕を引いてやる」
「それって……」
シュッ、と乾いた音を立てベルトを締めたザンザスが肩越しに振り返り様、にぃ、と悪戯っぽく唇を笑みの形に吊り上げた。
「南の島でのんびり隠居生活ってのも悪くねぇって言ってんだ」
遙か昔に褥で交わした戯れ言を、まさかザンザスが覚えているとは思わなかったのか山本は驚きで目を見張ったが、それは徐々に柔らかな面差しへと変貌を遂げた。
じわり、と染み入るような穏やかな笑みを前に、ザンザスは一度、唇を引き結び、そっ、と瞼を伏せてから、改めてまっすぐに相手を正面から見つめた。
「てめぇはそうやって阿呆みたいに笑ってりゃいいんだ」
本人が気づいているかは定かではないが、つい先程まで此処にいた十年前の男と遜色ない笑みが山本に戻ったことで、彼から笑みを奪った事への罪悪感からか知らず胸に刺さっていた棘が、するり、と抜け落ちたように思えたのだった。
† † †
アポイントメントなしに訪れたザンザスを、獄寺は渋い顔で執務室へと招き入れる。綱吉は会合中だと説明するも、それを承知で来たと言われては返す言葉もない。総本部まで共にやってきた山本は、昼食を途中で放棄したザンザスのためになにか作るついでにお茶をいれる、と言い置いてさっさと厨房へ向かってしまった。
綱吉が戻る前に片付けてしまおうと広げていた数多の書類を掻き集める獄寺の横で、なにか気を引く物があったのか、ザンザスは埋もれていた一枚を、ひょい、と手に取った。
「あ、てめぇ、勝手に触るんじゃねぇよ」
名実ともに綱吉の右腕として一目置かれている獄寺だが、公の場以外での口の悪さは相変わらずで、ザンザスは「うるせぇ」と口先だけで軽くあしらいつつ、その目は引き抜いた書面を素早く辿っている。
「船上パーティか……」
「あ、あぁ、なんだそれか」
ザンザスの呟きに彼が何を見ているのか分かった途端、気の抜けた声が獄寺の口から漏れた。彼の口振りから察するに、さほど重要ではない案件のようだ。
「まだ十代目のお耳にも入れてないんだが、元から断るつもりだしな」
「断る?」
招待元は小さいながらも同盟ファミリーだ。相手にランクを付けるような男ではないとわかっているだけに、ザンザスは怪訝そうに片眉を上げる。忙しなく書類をまとめている獄寺はそれに気づいていないが、律儀に説明を始めた。
「それより重要度の勝る会合が同日に入ってんだよ。時間的には行けないこともないんだが、翌日のことを考えるとちょっとな。そっちも代理が立てられるなら顔出し位しておきたいんだが、生憎と適任者がいなくてな。なにか贈ってお茶濁しておくかって思ってる。まぁ、アンタが出てくれるって言うなら話は早いんだが……」
「出てやろうか?」
「そうそう上手くは……って、は? 今、なんて言った!?」
思わず聞き流しそうになったザンザスの言葉に獄寺は驚愕の眼と共に振り返り、その勢いで折角まとめた書類をぶちまけてしまったが、今はそれを気にしている場合ではない。あのザンザスが自ら進んで面倒な役を買って出たのだ。これが驚かずにいられようか。
「その代わりと言っちゃなんだが、同行させる奴は俺が選ぶが構わないな?」
「山本か?」
即座に上げられた名にザンザスは眉を奇妙に歪め、口元に苦笑らしき物を浮かべた。
「違ぇよ。マーモンとリボーンだ」
意外な人選に獄寺は隠すことなく眉を寄せ真意を問うように相手を見やるも、ザンザスは涼しい顔で見返してくるだけだ。
「最強の暗殺者が同行するとなれば、なにかあったとしても平気だろ」
それがザンザス自身の身にか、はたまたザンザス自身が巻き起こすやもしれぬなにかに対してか、どちらもあってはほしくないが最適な人選であることには違いない。
「リボーンさんなら今ここに居るから、後で話しておくが……」
「いや、俺が直接話す」
有無を言わせぬ口調で言い切られ、獄寺は渋々ではあったが了承の意を示す。
「あぁ、そうだ。俺が行くことは先方には伏せておけよ」
「なんでそんなことを」
ひらり、と招待状を翻し、つい、と目を細めたザンザスに不穏な物を感じたか、獄寺の眉間に深いしわが刻まれた。彼の行動がボンゴレの総意と取られかねない以上、軽率なことをされては後々、どのような影響が出るか分からないのだ。その点は理解していると思うがなにしろ天上天下唯我独尊を体現したような男だ。正直、気が気でない。
「ちょっとしたサプライズだ」
だが、獄寺の杞憂など何処吹く風。これまた意外な物言いに獄寺は、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔になっている。この男はいつからこのようなウィットに富んだことを言うようになったのか。
「山本の脳天気さがうつったか?」
「なんとでも言え」
可哀相に、と紛うことなく憐れみの視線を向けてくる獄寺を鼻で笑い、ザンザスは招待状を懐へ仕舞い込むと一度も腰を下ろすことなく扉に足を向けた。
「おい、十代目に用があったんじゃねぇのかよ」
「気が変わった」
じゃあな、と背を向けたまま、ひらり、と手を一振りし、ザンザスは呆気に取られる獄寺を残し退室したのだった。
呼び止められなかったのを幸いに廊下に敷き詰められたカーペットを足早に踏み、脇目もふらず階上へと向かう。行き先は最強の暗殺者に宛がわれている私室だ。
ぞんざいな手付きで扉をノックすればザンザスが来ることを承知していたのか、室内から負けじとぞんざいな応えが寄越される。それに頓着することなく扉を開け放てば、ひゅっ、と鋭い風切り音がザンザスの耳元を掠めた。
「いい趣味だな」
「ほんの挨拶だ」
僅かに首を傾けたまま挑発するように唇を吊り上げれば、リボーンはソファに腰掛けたままダーツの矢を手中で弄びつつ不敵に返す。見た目は二十歳前後の青年であるが、実年齢は不明の食わせ者である。亀の甲より年の功とはよく言ったものだ。
廊下の壁に突き刺さった矢に目をくれることなくザンザスは室内へ踏み込むと後ろ手に扉を閉め、腕を組むとそのまま、とすん、と凭れた。
「獄寺が気味悪がってたぞ」
時間を無駄にする気はないのか、リボーンは相手に椅子を勧めることなく軽口と共に本題に入る。
「なにを企んでるんだ?」
「人聞きの悪いこと言うな。多忙な十代目の手助けをするだけだ」
とてもそうとは思えぬ面差しで軽く返答するザンザスに眇めた目を向け、リボーンは隠すことなく嘆息する。
「招待先が気になるのか? そこは以前探りを入れて、後ろ暗いところは無かったと記憶してるが?」
「そうだな。だが、どこで誰が繋がっているかわからない世界だ。全てを把握なんかできるわけがねぇ。それに状況は日々変化するモンだ」
均衡が崩れる切っ掛けなど些細なことである場合が多い。
ひた隠しにされているが、不穏な空気というものはどこからともなく漏れるもので。表立ってはいないもののザンザスの不調に伴い、水面下ではボンゴレ内部が浮き足立っているこの時期を、好機と見て取った者が居てもおかしくはないのだ。
「根拠は?」
「ねぇよ。強いて言うなら俺のカンだ」
綱吉ならば疑わしきは罰せずであろう。だが、彼は綱吉とは違う。
「なにもなければそれでいい。俺も最後の仕事くらいラクしてぇからな」
瞼を伏せ、はっ、と軽く笑ったザンザスは、顔に落ちた影のせいか生気が感じられず、まるで人形のように見えた。
「そうか」
今日、彼がなんのために総本部を訪れたのかを察したか、リボーンは、くるり、くるり、と手中の矢を回しながら僅かに目を伏せた。
かつて呪われた赤ん坊と呼ばれた彼は、緩やかにではあるが時間を取り戻しつつある。時間に逆らって降りざるを得なかった階段を、今、再び昇っているのだ。人生をやり直している身では、生命の灯火が消えるまで幾ばくもないであろう男にかける言葉など、持っていなかった。
「詳しいことはまた後でだ」
開きかけた唇を一旦閉ざし、ザンザスは細い息と共に言葉を押し出す。何かあったのか、とリボーンが顔を上げれば、それに合わせたかのように扉がノックされた。
「おーい、小僧。ザンザス来てるか?」
呼び慣れてしまったのか、未だにリボーンを小僧と呼ぶ山本にザンザスは呆れたように肩を竦めるも、呼ばれている当の本人は全く気にしていないのか涼しい顔で立ち上がり、扉を塞いでいる男に目だけで「どうする?」と問えば、返答は唇の前に立てられた人差し指であった。
それにリボーンが軽く頷いて見せれば、ザンザスは音もなく扉から背を離し滑るように室内を横切ったかと思いきや、躊躇無く隣のバルコニーへと軽やかに飛び移り、リボーンの視界から消えたのだった。
こういうときにザンザスが煙草を飲まない男で良かった、とつくづく思う。残り香一つ無いことを確認してからリボーンは扉を開き、何食わぬ顔で「もう帰ったぞ」と告げた。
「あー、そうなのか」
入れ違いかぁ、と漏らした山本の手中にある物に気づいたリボーンが、怪訝そうに片眉を上げる。
「食うか?」
フレンチトーストの乗ったトレイを軽く上げて見せ、山本は眉を寄せた困り顔のまま笑った。
「悪いが俺はあまり甘い物は……」
「だよなー」
ははは、と気を悪くした様子もなく朗らかに笑う山本に、リボーンは軽く目を見張る。多少ぎこちなさは残っているものの昨日までの彼とは明らかに違うその表情に、一体なにがあったのかと無意識のうちに探るような目付きになる。昏く沈みがちであった瞳にも光が戻り、醸し出す雰囲気はともすれば十年前に近い。
ザンザスの決意と山本の変化には、なにか関係があると考えるのが妥当であろう。
「なぁ、小僧。ザンザスが引き受けた仕事って危ないのか?」
「どうしてそんなこと聞くんだ?」
質問に質問で返されたが山本は眉一つ寄せることなく、んー、と考えるように斜め上を見やってから、ゆうるり、と目を細める。
「最後の仕事っぽいからさ、やっぱ何事もなく済んで欲しいのな」
「アイツが引退するのに賛成なのか」
「賛成も何もザンザスが決めたことだろ。俺が口出しできる事じゃねぇよ。まぁ、正直言うとな、これで治療に専念してくれればなー、って思ってんだ」
冗談めかした口調ではあるが、垣間見えた憂いを見逃すようなリボーンではない。
「ヴァリアーのボスじゃなくなったアイツに価値はねぇぞ」
「そんなことはどうでもいい。ザンザスはザンザスだろ。俺は、ただ、ザンザスに生きることを諦めないで欲しいんだ」
くしゃり、と悔恨に顔を歪ませるも山本の瞳は明日を見据えるかのように力強く、輝きを奥に秘めている。
「……気が変わった」
貰うぞ、と口にしながら山本の手からトレイを受け取る。
「そろそろデカイ子供のお守りに戻った方がいいんじゃねーか?」
「はは、そーだな」
じゃあな小僧、と手を一振りし背を向けた山本であったが、ふと、足を止め、肩越しに振り返った。まだなにかあるのか、とリボーンが怪訝そうに軽く首を傾げて見せれば、へらり、と緩い笑みを浮かべ、
「ザンザスのこと頼むな」
それだけを一方的に告げると返事を待つことなく、悠然と歩き去ったのだった。
特に他意はないのか、あるいは何か感じ取っているのか、真意の掴めないところは昔と変わらず、リボーンは、そっ、と溜め息を逃がす。ソファに戻ってフレンチトーストを一切れ口に運び、その甘さに眉根を寄せた。
† † †
ライトアップされた甲板を行き交う華やかな人々を、綱吉はグラス片手に手すりに凭れて眺めている。入れ替わり立ち替わり挨拶に来る者を適度にあしらい、一息ついたところだ。
影のように傍に控える青年二人はそれぞれ異なった方向へ顔を向けたままではあるが、ぽそり、ぽそり、と何事か囁き合っている。
夕方に出航した船は何事もなく沖へと進み、今は碇を降ろしている。星の瞬く夜空を見上げ、はー、と溜め息を吐いた綱吉の脇腹をリボーンが、こつん、と肘で突いた。
「シャンとしてろ」
「わかってる」
新たに、一組、二組と上品な笑みを浮かべた紳士淑女が、三人の元へと向かって来ている。ようやっと挨拶の包囲網から抜け出した彼を見逃すほど、甘くはないと言うことか。
ゆらゆら、と気怠げにグラスの中の液体を揺らし、綱吉は欠伸を隠すかのように口元を逆の手で覆う。
「ボス、ビンゴだよ」
闇へと目を凝らしていたマーモンのその言葉を受け、綱吉の隠された口元が、にやり、と笑みの形に歪んだ。
「今、船室から出てきた男、リストで見た顔だね」
不穏な動きを見せていると報告のあった、ボンゴレとは同盟を結んでいないファミリーの一人だ。
「俺のカンもまだまだ捨てたモンじゃねぇなぁ」
くつくつ、と喉奥で嗤う綱吉の瞳が紅く染まる。
異変を感じ取ったか彼らを取り囲むように近づいていた者達の足が、見えない鎖に繋ぎ止められたかのように止まった。
「おいおい、どうした? パーティはこれからが本番だぜ?」
綱吉が発したとは思えぬ粗野で好戦的な言葉に静かなざわめきが波紋のように広がり、一瞬にして静寂が訪れた。静寂の源は、サラサラ、と砂が崩れるように原型を無くしていく綱吉その人で。
マーモンの幻術によって綱吉であると信じ込まされていた者の正体を目の当たりにし、甲板上に戦慄が走った。
その場に現れたのは獰猛な紅。
慈悲を持たぬ漆黒。
事を画策した者が個人であろうと、ファミリーぐるみであろうと、ザンザスには関係のないことだ。事実はただ一つ。ボンゴレの同盟ファミリーでありながら、ドン・ボンゴレを陥れようとした者達は敵でしかないのだ。
そして、下された冷徹な審判。
「殲滅だ」
投げ捨てられたグラスが甲板を叩いたのと、劫火が放たれたのは同時であった。
洋上に灯った一点の鮮烈な輝きに港に詰めていたバジルは無意識のうちに小さく舌打ちをし、インカムに向かって急き立てるように「状況は?」と問うた。
杞憂で済めばいいんだが、とのリボーンの言葉は残念ながら叶わなかったのだ。闇に紛れ海上に待機していた部下からの微かなノイズ混じりの報告に耳を傾けつつ、バジルは手早く背後の部下達へと指示を出す。各々、闇に消えたのを確認した後、インカムに向かって最後の指示を出した。
「三人を回収後、直ちに次の作戦に移行せよ」
短く届いた了解の言葉に小さく頷き、険しい面持ちで遠くに灯る米粒ほどの明かりを見据える。
「随分と派手にやらかしてくれたものだ。あのクソ御曹司」
思わず口を突いて出てしまった悪態は目を瞑って欲しいと、誰に向けたわけではないが内心で言い訳じみたことを思う。
火のないところに煙は立たぬとの言葉通り、確かにバジルは招待元のファミリーと敵対ファミリーとの癒着を懸念し密かにマークしていた。決定的な情報が得られず足踏み状態であったことも認めるが、今回リボーンの頼みでなければ、門外顧問チームを動かす気は欠片もなかったのだ。
正直なところ、彼はもう憤怒の炎は出せないだろうと見くびっていたのだ。
彼の身体は蝕まれ弱っていたこともあるが、炎を生み出す根源である怒りそのものが薄れていると感じていたのだ。
それこそ身を焦がすほどの怒りをその目にしたのは、二十年前のリング争奪戦が最初で最後であった。
「拙者もまだまだということか」
彼の怒りは熾火のように静かに息を潜め、身の裡に確かに存在していたのだ。それを見抜けなかったからといって、バジルが責められるわけでもましてや誰が困るわけでもない。
ただ、ザンザスを甘く見ていた自分の見る目のなさが、悔しいだけなのだ。
そこまで考え、ふるり、と頭を振る。今は私情を挟んでいる場合ではない。任務のことだけを考えていればいいのだ。
情報操作に抜かりはなく、船の炎上は事故として片付けられるだろう。あとは手筈通り、リボーン達と合流すればいい。
状況に応じて作戦パターンは変化するとわかっていたが、ある者にはツライ結末が待っていると思うと気持ちは沈む。
部下から連絡を受けた綱吉が状況確認のために、誰かをこちらに寄越すであろうことは想像に難くない。その誰かも容易に想像がついて、バジルは僅かに口元を引き締めた。
「よし、撤収する」
そう告げた瞬間、ドンッ、と空気が震え、巨大な火柱が天を焦がした。続く爆発音にバジルは再度「クソ御曹司」と苦々しく呟いたのだった。
車を走らせ合流ポイントへと着いた時点でそこには数名の人影があり、バジルはその見慣れたシルエットに安堵の息を漏らしながら車から降りた。
「ご無事でしたか」
「あたりめーだ。俺を誰だと思ってる」
駆け寄るバジルにリボーンはボルサリーノを戯けたように、くい、と上げ、不敵な笑みを見せるも、遠くに見えた車のヘッドライトに表情を引き締めた。それを受けバジルも唇を引き結ぶと近づいてくる車体を視界に納めたまま、ぼそり、と漏らす。
「では、あとは手筈通りに」
「あぁ。うまくやれよ」
此処で待機していた部下は既に次の場所へ移動したと、バジルは車内で連絡を受けている。何も言わぬが物言いたげに、じっ、とこちらを見ているマーモンに軽く頭を下げ、バジルは闇へと姿を消した。
彼が消えた後、到着した車から姿を現したのは山本とスクアーロであった。バジルがその場にいたのならば、やはりな、と呟いているところだ。
「小僧、無事か!?」
「あぁ、まぁな」
「マーモンも無事かぁ。ったく、なんでこんな愉快なことに俺を呼ばないんだぁ、ボスさんよぉ」
軽口を叩いているが、スクアーロの顔を見れば心配していたのは一目瞭然で。つられて安堵の笑みを浮かべかけた山本であったが、彼の表情が僅かに強張ったことに気づいてその視線の先を追い、同様に口元を強張らせた。
そこには確かにザンザスの姿がある。だが、スクアーロも山本も、違う、と瞬時に感じ取っていた。
「おいおい、なんの冗談だぁ、マーモン……」
静かに喉奥から押し出されたスクアーロの言葉にマーモンはただ一言、
「見ての通りだよ」
としか告げず、それ以上言うことは何もないと言わんばかりにザンザスと共に彼の横をすり抜け、バジルの置いていった車へ乗り込むとその場から動けぬスクアーロを顧みることなくアクセルを踏み込んだ。
「小僧、ザンザスは……」
唯一残った状況を知る者にどこか上擦った声で山本が問うも、問われた本人は、すっ、とボルサリーノを下げ、ふるり、と首を振る。説明はなくともその仕草だけで充分であった。
俄には信じがたいその事実に山本は強張った笑みを面に貼り付け、口早に問いを続ける。
「さっきのあれ、幻覚だろ!? なんでそんなことする必要が……」
「いつまで伏せておけばいいんだ」
今にもリボーンに掴み掛かりそうになっている山本を止めたのは、スクアーロの静かな声であった。
「話が早くて助かるぞ。一ヶ月もあれば充分だろう。元からこれを最後に引退するつもりだったみてぇだからな。今はとにかく、付け入る隙を与えたくねぇんだ」
些か言葉の足りない説明ではあったが、彼の思惑が飲み込めたか山本は唇を噛み締め、喉元まで迫り上がっていた言葉を、ぐっ、と飲み込んだ。
このまま何事もなかったかのように、マーモンの作り出した幻覚のザンザスはヴァリアー本部へと戻り、皆を欺き続けるのだろう。そして、その間に綱吉達が手を回し、ザンザス引退のお膳立てをする。筋書きとしてはこんなところであろうか。
「詳しいことはこれからツナと話さなきゃなんねぇ。分かってると思うが他言無用だぞ」
「あぁ、わかってる」
俯く山本の代わりにスクアーロが軽く頷いて見せればリボーンはそれに頷き返し、山本の運転してきた車を無言で拝借するとその場を後にしたのだった。
スクアーロはザンザスがあのままおとなしく死を待つわけがないと、いつか死に場所を求めて飛び出していくのではないかと予感めいた物があったからか、すんなりとこの状況を受け入れることができた。だが、山本はどうであろうか。
何年経とうとも甘ちゃんであると彼のことを思っていただけに、泣きも喚きもしない山本にスクアーロは正直、驚いている。
遠ざかるテールランプを、ぼんやり、と見つめていた山本の唇から、不意に渇いた声が零れ落ちた。
「南の島……」
「あぁ?」
「やっぱザンザスには南の島、似合わないよなぁ」
彼の言わんとすることはこれっぽっちも掴めなかったが、スクアーロは短く「そうだな」と呟いた。
その後、大きな混乱もなく思惑通り、ザンザスは誰に怪しまれることなく静かに表舞台から去った。
だが、一部では彼はあの船上パーティの事故で既に死亡していたとの噂がまことしやかに囁かれ、同時期に消えた元アルコバレーノがなにかしら関係しているのだとも囁かれたが、否定も肯定もされぬままに月日だけが流れていったのだった。
† † †
燃えさかる炎の中に立ち尽くし静かに目を閉じる。
周りには既に動く者はない。
もうじきこの船は沈む。
炎に包まれ何一つ残さずに全てが終わるのだ。
心残りがないわけではない。
だが、いつ動かなくなるともしれぬ身体で生にしがみついたところで、一体この先になにがあるというのか。
これ以上、脆弱で惨めな姿を晒すのは我慢ならないのだ。
「それでいいのか?」
「うるせぇ」
「いつからおまえはそんなに聞き分けが良くなったんだ?」
「黙れ」
「最後まで足掻いて見せろ」
炎に煽られるボルサリーノを片手で押さえながら、漆黒の死神は不敵に唇を吊り上げて見せた。
この男がどこでくたばろうと、正直、知ったことではない。それでもいらぬ世話を焼こうと決めたのは、あの蒼燕の為だ。
「俺は愛弟子を泣かせるような甲斐性無しじゃないんでな。だが、どうしてもここで死にてぇってんなら」
彼の手にした鈍色の銃口が、ぴたり、とザンザスの額に狙いを定める。
「俺に殺されろ」
† † †
バルコニーの手摺りに凭れ風に吹かれていた男は、ノックもなくけたたましく開け放たれた扉に慌てて振り返り、飛び込んできたのが黒髪のジャポネーゼだとわかった途端、濁った怒声を浴びせた。
だが、やや興奮気味に駆け寄ってきた相手の耳にはなにも届かなかったらしく、一方的に何事かを捲し立て、手中の手紙と思しき物をしきりと振っている。順序立てて説明する以前に、擬音や感覚で話を進めるのは相変わらずだ。
長い付き合いで培った解読能力で男の言わんとすることを理解するや否や、銀髪の男は手紙を引ったくるともどかしげに中身を引き出し、無言で紙面に目を走らせる。
信じられないとでも言いたげな表情は徐々に冷静さを取り戻し、もう一度、頭から文章を追うその顔には、うっすら、と笑みが浮かんでいる。
それだけではないのだと黒髪の男が封筒を指さし、促されるままに残っていた物を引き出せば、それは一枚の写真で。
ぐっ、となにかを堪えるように唇を引き結んだ銀髪の男の肩に腕を回し、ジャポネーゼは情感溢れる笑みを浮かべた。
咲き誇る桜と共に収められていたその人は――