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    【00】鳥の王(前編)
     それにはカタチというものがなかった。
     手もなく、足もなく、顔すらなかった。
     だが、それは確かに『視た』のだ。
     緑の木々の隙間から広がる青い空を。
     まるで己を護り覆い隠すように集まる鳥達を。
     柔らかな羽毛に包まれ、それは存在しない瞼を、そっ、と閉ざした。


     コツコツ、コツコツ、と慎重に石壁を叩いているニールに背を向け、周囲を警戒しているグラハムの口から不意に、はぁ……、と小さく息が洩れた。坑道のような薄暗い通路が何本も走るこの場所に来てから、かれこれ三時間は経ったであろうか。ニールのこの動作は既に数え切れないほど繰り返されていた。
    「疲れたか?」
     小さなものであったがニールの耳にはしっかりと届いたようで、振り返りもせずそう口にすれば、グラハムは「いや、キミの方が大変だというのに申し訳ない」と素直に詫びの言葉を口にした。
    「いいって。これが俺の役割なんだし」
     話しながらも作業の手を止めないニールの背中に再度、詫びの言葉を投げ、グラハムは周囲に気を張り巡らせつつも今に至るまでの経緯を思い返し、再度、溜め息をついた。
     グラハムは懐が少々どころかかなり厳しいところまできていたこともあり、また、どの紹介所にも登録していないフリーの冒険者でも可ということもあり、ロクすっぽ依頼内容も見ずに仕事に飛びついたのだが、我慢弱く落ち着きがないと自負していたがそれが浅はかであったことを嫌でも思い知らされることとなった。
     雇い主は財力に物を言わせ手当たり次第に集めた冒険者、探検者を、これといった選出基準もなく、要はいい加減にその場で組分けし、入り口付近の内部地図すらも出回っていない遺跡探索に送り出したのだ。
     人海戦術でどうにかしようという単純な思惑が見え見えで、集められた者の間から失笑が洩れたが、報酬額の高さからか異論を唱える者は居なかった。
     行動を共にする相手の素性も実力もわからないままに、背に腹は変えられぬとグラハムも雇い主に逆らうことなく、組んだ男と共に遺跡へと足を踏み入れたのだった。罠に関してはからっきしだが、それでもなんとかなるだろうと、それなりに自分の腕と運に自信があっての行動であった。
     初めは軽口を交えつつ固まって移動していた見ず知らずの一団が、分かれ道にさしかかる度に相談するでもなしに右へ左へ姿を消し、流れるようにグラハム達も自然と一団から離れていった。それから幾度か分かれ道にさしかかり、気が付けば他の者の姿はなく、遠くで足音が反響するだけとなっていた。
     二人きりになったというのに、グラハムの相手は一言も口を利く気はないらしい。だが、名前すら知らないのでは些かやりにくい。
    「自己紹介といこうではないか」
     快活にそう口にすればグラハムより高い位置にある翡翠の瞳が、ぱちぱち、と驚いたように数度瞬いた。
    「……意外だな。この場限りのお付き合いだから、そういうのはナシかと思ってたぜ」
    「何を言うか。生死を共にするのだ。当然のことだろう」
    「大袈裟だなぁ」
     はは、と笑うもそこに不快感はなく、男は緩く髪を掻き上げてから「ニール・ディランディだ。主属性は風な」と告げた。
    「私はグラハム・エーカー。属性は雷と火の混合だ。よろしく頼む」
    「へぇ、複数属性持ちか。珍しいな、アンタ」
    「よく言われる」
     さらり、と返されるもその面に浮かぶ嫌味のない笑みに、ニールは悪人ではなさそうだとの感想を抱いた。
    「そうだ、エーカー」
    「グラハムでいい」 
     即座に繰り出された訂正にニールは軽く頷くと、突き当たった行き止まりの壁を眼だけで見上げ、次いで、ぐるり、周囲を見回した。
    「お前、探査の方はどうなんだ?」
    「自慢ではないがサッパリだ。私は道理を無理でこじあけるタイプなのだよ」
     包み隠さず、あっさり、と言ってのけたグラハムに、ニールの眼が驚愕のためか見開かれたかと思いきや、一瞬の後に大きな笑い声にとって変わった。
    「なんか、すげーなアンタ」
     ひーひー、と笑いすぎたせいか眦に涙さえ浮かべているニールに気分を害した様子もなく、グラハムは平然と問い返してくる。
    「そういうキミはどうなんだ?」
    「おう、免許皆伝の腕だぜ」
     本気か冗談かわからないことを愛嬌たっぷりのウィンクと共に言ってのけた後、ニールは早速、作業に取りかかったのだった。
     そして話は冒頭に戻る。
     ここまでくればニールの腕が確かであることは明白であった。「この方が早い」との理由でわざとトラップを発動させる剛胆さすら好ましいと、グラハムは彼と組んだ僥倖に感謝すらした。
     今回はきちんと手順を踏んでトラップを解除したニールが振り返れば、グラハムは油断なく辺りに視線を走らせつつも、どこか困ったような表情をしていた。
    「どうした」
    「いや、その……」
     もご、と一瞬口ごもった後、グラハムは困り眉のまま真面目な顔でニールと向き合った。
    「我々はなにを探しているのだ?」
     その問いかけには、さすがのニールも唖然とせざるを得なかった。暫し、グラハムの顔を凝視し、やっと出た言葉は「本気で言ってる?」であった。
    「無論だ」
     からかっているわけでも冗談を言っているわけでもないと、グラハムの表情と声音が告げている。
    「依頼内容も知らずに依頼を受けるなんて、アンタ大丈夫か?」
    「雇用費とは別口で成功報酬が出るというのでな」
    「つまりは、条件しか目に入らなかったと」
     詰問調ではなく淡々と問われ、グラハムは躊躇うことなく、コクリ、と首を縦に振った。
     ともすれば命を落とすやも知れぬというのに、この男は冒険者として大丈夫なのか? と考える前に、ニールはグラハムと行動を共にしなければならない己の不運を少々、呪った。
    「ある意味大物だな、アンタ」
     ニールはトラップ解除後に現れた新たな扉を押し開き、すたすた、と歩きながらそれでもグラハムに説明してやる。
    「目的は『鳥の王』だ」
    「『鳥の王』とな? それは如何様なモノなのだ?」
     遅れることなくニールの背に続いて扉をくぐったグラハムが問うても、相手は軽く肩を竦めるだけである。
    「キミも知らないのか?」
    「あぁ、知らない。だが、俺だけじゃないぜ。ここに来た誰もが、雇い主ですらそれがなにか知らない」
    「なに?」
     下手な謎掛けのようなニールの言葉にグラハムは眉を寄せ、説明してくれと言わんばかりに相手の顔を、じぃっ、と見つめた。横顔に突き刺さるその視線に「参ったなー」と言わんばかりに眉尻を下げるも、ニールは歩みを止めずに真っ直ぐ前を見据えたまま聞いたことをそのまま説明し始める。
    「どこぞで手に入れた古い書簡に、ここのことが書いてあったらしい。だがそれも解読困難なほど傷みがひどく、場所以外でわかったのは、『鳥の王』『偉大なる』『器』『眠りし』『統べる』『天空』この単語のみということらしい」
    「たったそれだけの情報で……探索?」
    「そうだ」
     眼をパチクリさせた後、内容が脳に染み渡ったのか呆れた笑いを浮かべるグラハムに、ニールも同様に苦笑を浮かべ応じる。
    「探している物がどういったものか、誰もわかっていないからな。逆に言えばそれらしい物であれば、なにを持っていっても構わないと言うことだ」
     次いで発せられたニールの言葉に、更に呆れを増すグラハム。
    「なんと愚かな……」
    「金持ちの道楽ってヤツだろう。それにわかっている単語が単語なだけに、夢見ちゃったんだろうねぇ」
     王様なんて面倒臭そうなのにな、と洩らすニールに、グラハムは同感だと言わんばかりに頷いて見せた。
    「まぁ、いいか。とにかく俺はこの仕事がこなせれば文句はない」
    「それにも同意しよう」
     お喋りは終わりだと足を早めたニールの肩が、ぴくり、と揺れた。何事かと問いかけようとしたグラハムも、一瞬遅れて原因がわかり、はっ、と口を噤む。
     足元に感じる微かな振動と、低い響き。
    「……崩れたな」
     他のグループが罠の解除に失敗したのか、はたまた朽ちかけていた通路が自然に崩れたのかは定かではない。だが、この胸騒ぎはなんだと、グラハムは慎重に辺りを見回し始めた。
     そして、ややあって届いたのは、最悪の事態を告げる声であった。
     それは最早、言葉ではなかった。
     悲鳴。
     怒号。
     絶叫。
     声がしたと思しき方向を振り仰ぎ、即座に走り出そうとしたニールの腕を、グラハムは間一髪のところで捕らえた。
    「どうするつもりだ」
    「決まってんだろ!? 助けに行くんだよ!!」
    「無策で飛び込むなど愚の骨頂だ」
     掴まれた腕を振りほどこうと乱暴に身を捩るニールにグラハムは一歩も引かず、強い口調でその行動を諫める。ニールとて彼の言っている事が正しいと、頭ではわかっているのだ。だが、今尚途切れぬ混乱の声と恐怖の叫びに、気持ちは急くばかりである。
    「なにも行くなと言っているのではない」
     抵抗の止んだニールの腕を解放したグラハムは、何を思ったか先んじて早足で通路を戻り始め、ニールは彼の予想外の行動に慌ててその背を追う。
    「カードはなにか持っているか?」
     ニールが追いついたことを足音で判断したか、グラハムは振り返りもせず端的に問いかける。
    「あ、あぁ、補助系と攻撃系は風をメインに他属性もいくつか」
     魔力の封じられたカードはそれぞれ固有の発動言語を唱えれば、その力が解放される。魔術師でなくとも魔術が使え、その上カードが破損しない限り繰り返し魔力をチャージすることができるという便利な道具だが、カード一枚の価格も高価で自力で魔力チャージできない者は専門店に依頼することとなり、かなりの額が必要となる。
     それ故、カード保有者は熟達した冒険者、ないしは貴族などのパトロンが居る者が大半である。
    「なるほど。私は雷がメインとなっている。ちなみに補助系は一切所有していない」
     迷路のような通路を遠くに聞こえる悲鳴と戦いの音を頼りに進みながら、グラハムは肩越しに、ちら、とニールの顔を伺った。
    「キミは後方支援型とみた。どうかね?」
    「その通りだ」
     腰に剣を携えてはいるがそれはあくまで補助武器で、ニールの主武器は背負っているクロスボウだ。
    「結構。ならば援護を頼みたい」
     状況によっては即時撤退も有り得るがな、と恐慌をきたし逃げ惑う者と擦れ違う数が増えた時点で、グラハムは笑えないことを口にした。
     そんな中でも比較的落ち着いている者を捕まえて問い質せば、どうやら当たりの部屋を引き当てたグループが居たらしい。そして当たりの部屋には居て当然の番人と、鉢合わせたということだった。
     未だ絶叫と怒号が入り乱れているということは、怯まずに立ち向かっている者が居るということだ。その理由が報酬目当てであろうが、別の理由であろうがこの際どうでもいいのだ。大事なのはそこに勝算があるか無いかである。
     半壊した扉の影から、そっ、と中を窺ったグラハムの眼に真っ先に映ったのは、有に二メートルを越える異形のモノであった。
     倒れ伏した人であったモノを頓着せず踏み潰し、向かってくる者を容赦なく振り払う。頑健な拳が振るわれる度に、ごう、と空気が震えた。
    「なんと。ゴーレムか……」
     生命を持たぬ鉄の人形。
     与えられた命令を忠実にこなす人形。
     その活動を止めるには破壊以外、道はない。だが、その頑強さは並ではなく、容易なことではない。
     目の前でまた一人、鉄の拳に葬られる。
     グラハムに倣って身を隠しつつニールが室内に視線を素早く走らせれば、ゴーレムの背後で崩れ落ちた壁の下敷きになった者を、懸命に助け出そうとしている者の姿が複数確認できた。
    「彼らの救出が最優先だな」
    「では私が囮になろう。その間にニールは彼らの元へ行きたまえ」
     そう言うが早いかグラハムは腰のホルダーからカードを一枚引き抜き、たっ、と軽やかに室内へ踏み込むや否や、ゴーレムに向かって魔力を解放した。
     青白い稲妻はあやまたず直撃し、思惑通りにゴーレムはグラハムへと目標を変えた。その隙にニールは巧みに瓦礫を使って身を隠し、室内を移動しゴーレムの背後に回る。
     二度、三度と眩い電光が室内に弾け、地を砕く轟音に、びりびり、と全身が震える。
     鉄で出来たゴーレム――アイアン・ゴーレムは電撃に弱い。このゴーレムを倒せる可能性があるのは、属性が雷であるグラハムだ。
     他の者も自分の属性以外の呪文が使えないわけではないが、属性と呪文系統が合致した際の威力は桁違いなのだ。それがわかっているからこそグラハムは囮を買って出たのだと、ニールは彼の冷静な判断に感心し、それを上回る無謀さに呆れた。
     グラハムの攻撃は確かに効果を上げている。だが、未だゴーレムが機能停止する気配はない。
     自力で動けぬ負傷者の応急手当を一通り終え、崩れかけた天井から、パラパラ、と砂や石片が降る中、ニールは安全なルートを先導しグラハム以外の者を無事に室外へ逃がすと即座に踵を返した。
    「グラハム! こっちは片付いた!!」
    「了解した!」
     牽制しつつ、じり、と後ずさるグラハムの意図を察したかのように、ゴーレムの拳が回り込むように外から内へ横に薙がれる。咄嗟に前方へ飛んだグラハムは、ちっ、と短く舌打ちを洩らした。
    「なんと情熱的な引き止め方だ。そう簡単には帰らせてもらえないらしい」
    「冗談言ってる場合か!」
     防御系のカードをグラハムに向かって発動させたニールが怒鳴るも、グラハムは「その支援に感謝する」と涼しい顔だ。
    「あーくそ。ついでにこれもくれてやるよ」
     出し惜しみはナシだ、とニールは『加速』のカードも使う。動きは素早くないがゴーレムはその巨体故、攻撃範囲が広い。だからといって遠距離から仕掛けては、呪文の威力は半減してしまう。常にギリギリの位置を見極め、最大限の攻撃を与えなければならないのだ。一歩でも間合いを見誤れば、あちらこちらに散らばる骸の仲間入りである。
    「手詰まりになる前に決着をつけたいところだが」
     カードの残り枚数にグラハムは秀麗な眉を寄せる。ゴーレムの頑健な拳に砕かれた床が不規則に大穴を開けており、足場にまで気を配るとなると集中力も長くは保たないことが容易に知れた。
     立て続けに拳を繰り出し、かわされてもお構いなしに床を殴打するゴーレムに、再度グラハムの口から舌打ちが洩れたその時、こつん、と肩口に何かが当たった。
     はっ、と頭上を見れば大きく走った亀裂が見る間に広がり、声を上げる間もなく轟音と共に崩れ落ちてきた。
     ニールのかけてくれた加速の恩恵もあり、瓦礫を間一髪でかわしたグラハムが僅かに安堵の息を吐いた刹那、ガツン、と衝撃が彼の全身を襲った。
    「…ッぐぅ……ッ」
    「グラハム…ッ!」
     もうもうと上がる砂塵に視界を覆われ、グラハムの様子が全くわからない。ニールはそれでも懸命に眼を細めて、大声を張り上げる。
     ニールの声が届いているのかどうか。鉄の腕に横薙ぎに払われ、壁際に設えられた祭壇と思しき物に突っ込んだグラハムは、ピクリ、とも動かない。
     ここで彼を失えばこの戦い、勝機はない。
     彼が息絶えているのならば、これ以上の戦闘は無意味だ。
     生死を確かめようにも、振り下ろされるゴーレムの腕に阻まれ近づくことすら出来ずニールは、ギリ、と奥歯を噛み締めた。
     だが、ニールのかけた『シールド』の効果はまだ消えていないはずである。常ならば即死確実なダメージであったとしても、まだ望みはある。
    「グラハムッ! 生きてるなら起きろ、グラハム!!」
     出来る限りゴーレムを自分に引き付けるために、ニールは属性など一切構わず立て続けに攻撃系カードの魔力を解放する。
    「……う…」
     低い呻きと共に、うっすら、とグラハムの瞼が持ち上がる。意識を取り戻したグラハムは自分の状況が把握できず、ゆらゆらと揺れる視界と痺れてうまく動かない身体に一瞬戸惑うも、必死にグラハムの名を呼ぶニールに気づくと荒い呼吸を押し隠し「大事ない!」と腹の底から叫んだ。
     途端、こみ上げてきた熱い塊に激しく噎せ込み、祭壇を覆っていた白布に、ビシャッ、と朱が散る。
    「なんの、これしきのことで……」
     壊れた祭壇の残骸から抜け出そうと藻掻き、再度、朱を吐き出す。
     はっ、とどこか自嘲気味な笑みに唇を歪め、ニールを無事に逃がす責任が自分にはある、と荒い呼吸を繰り返しつつ、ゆっくりと上体を起こす。
    「このような、死に……方は、全くもって……本意ではない、のだが……」
     震える指でホルダーからカードを取り出すと、しげしげ、と眺め、薄く笑う。
     珍しい物を手に入れた、と学院勤めの友人に手渡されたカード。
     使うことなどないと思っていたカード。
     それでも持ち続けていたのは、このような日が来ることを、心のどこかで覚悟していたからか。
     己の全てと引き換えに、対峙する者を滅するそのカードの名は『混沌』。
     使った者は輪廻の輪から外れると、そう噂されるほどの強力なカードである。
    「これで偽物だったら、目も当てられんな……」
     戯けたように口にしながら、すぅっ、と腕を伸ばす。小刻みに揺れる腕をもう片方の手で支え、ゴーレムに狙いを定める。
     一度、目を閉じ、深く息を吐く。
     再度、瞼を開けた時には、腕の震えは止まっていた。
     ひたり、とゴーレムの背を見据え、声無き声でコマンドワードを呟いた。
     刹那、闇の腕に抱き込まれたかのように、意識が、ぐい、と引き寄せられたのがわかった。
     どこまでも堕ちていく反面、現実世界も見えている。どぅ、とゴーレムが倒れ込んだのを確認し、その向こうに突然のことになにが巻き起こったのか理解できていない顔のニールが見え、グラハムの口許に微かな笑みが浮かんだ。
     我ながら愚かしい、と視界を閉ざそうとしたその時。
     ――くれぬか?
     不意に触れてきた意識にグラハムは目を見張った。
     ――その器、手放すならくれぬか?
    「器、とは……? あぁ、身体のことか……」
     閃くように相手の求めているものが理解でき、グラハムはゆっくりと瞼を伏せた。
    「あとは朽ちるだけの死にかけのこの身体で良ければ、好きに使うがいい」
     緩慢に沈み逝く意識を敢えて保とうとはせず、存在が消える瞬間まで彼は穏やかな笑みを浮かべ続けた。
     視覚も聴覚も触覚も消え失せる刹那、ぐい、と引き上げられる感覚と共に、グラハムは鳥の羽ばたきを確かに聞いたのだった。


     腹部に広がる柔らかな熱を感じ、グラハムは小さく呻くと重たい瞼を無理矢理持ち上げた。
     視界に入ってきたのは石造りの天井。少し視線をずらせば傍らに膝をつくニールの姿が目に入った。彼の手はグラハムの腹部に置かれたカードに添えられたまま、ぴくり、ともしない。まるでその手を離したら、効果が無くなると言わんばかりである。
    「……無事で何よりだよ、ニール……」
     掠れる声で名を呼べば、ニールは弾かれたように顔を上げ、一瞬、浮かんだ安堵の笑みを気取られないように、わざとしかめっ面を浮かべて見せた。
    「なんだ、死ななかったのか」
    「癒しのカードを使っておいてよく言う……」
     ニールの手を借りて上体を起こしたグラハムは、握ったままであったカードに目線を落とし、ゆるゆる、と頭を振った。
    「歩けるか?」
    「あぁ、なんとか」
     なに喰わぬ顔でカードをホルダーへ戻し、立ち上がろうと手をついた際、其処にあった小箱に指先が触れた。恐らく、自身の吐いた血で染まったであろうそれにグラハムは僅かに眉を寄せるも、深く考えずに拾い上げる。
     長い年月を経たところに思わぬ衝撃を受けたせいか、貼られていた封紙は破れ、最早、用を成さなくなっていた。仮に封紙が無事であったとしても、彼はお構いなしに蓋を開けていたに違いない。
     ぱかり、と蓋を持ち上げ、その中身に背が強張った。
     収められていたのは、小さな鳥の亡骸。
     その小さな身に幾重にも巻かれた封印と思しき札。
    『あぁ、そうか……』
     あの意識は。
     あの羽ばたきは。
    「グラハム? それなんだ」
     小箱を手に微動だにしないグラハムを不審に思ったかニールが問いかければ、グラハムは静かに蓋を閉じ、伏せた睫を微かに震わせた。
    「『鳥の王』だ」
     偉大なる王も消えかけていたのだ。
     この闇の中、たった独りで。
     同じ境遇に陥ったグラハムを共に現世へと連れてきたのは、厭わずその身を差し出した者への彼の慈悲か。
     言葉無くただ見つめているニールになにを言うでもなく、グラハムはなにかを振り払うように頭を一振りすると、足元に転がっていた銀杯を、ひょい、と拾い上げた。
    「これが書簡にあった『器』だと言ったら、報酬を貰えると思うかね?」
    「ダメで元々だ。持ってけ持ってけ」
     ふざけたようにお互い笑い、部屋を後にする。
     だが、通路を抜け外に出れば其処には人影は一切無く、いくつもの轍の跡が残されているだけであった。
    「薄情だなぁ」
    「そんなものだ」
     あっさりと言い放ち、轍の跡に沿ってグラハムはさっさと歩き出した。こんな処に長居は無用と言わんばかりのその態度に、ニールは同感だとその背を追った。
     ピチ、チチチ、と鳥たちが囀る中、黙々と轍の跡を辿るニールの横では、グラハムがやたらと辺りを、きょろきょろ、と見回しながら歩いている。
    「おいおい、転ぶぞ」
     ただでさえも凹凸の多い山道である。そんな道で上ばかり見ていては、いつ転んでもおかしくない。
    「考えたんだけどさぁ」
    「なにかね?」
     忠告を受け入れたか、素直に前を向いて歩き出したグラハムにニールが、ぽつり、と話を切り出した。
    「アンタ、フリーなんだろ? もしよかったら俺が登録してる紹介所に来ないか?」
     突然のお誘いに、は? と間の抜けた声を上げたグラハムに、「大きなトコじゃないけど、イイヤツばっかだぜ」とニールは笑顔で告げる。
    「折角だが断らせてもらおう。私にもいろいろとあるのだよ」
     気を悪くしないでくれ、と詫びるグラハムにニールは残念そうな顔をしたが、直ぐ様、人の好い笑みを浮かべた。
    「いや、こっちこそ勝手言って悪かったよ。でも、気が向いたら来てくれよ。歓迎するぜ」
     ぽん、とグラハムの肩を一叩きし「この先の町までは一緒でいいよな?」と問うてきたニールに頷き返し、グラハムは、再び、ぐるり、と頭を巡らせた。
     ――王だ。
     ――王がお戻りになられた。
     ――戻られた、戻られた。
    『残念ながらキミ達の王は就寝中だ』
     鳥たちの歓喜の歌声にグラハムは困ったように笑うしかない。
    「ここいらの鳥はやかましいな」
     ぶつぶつ、とぼやくニールに「なにかいいことでもあったのだろう」と何食わぬ顔で返し、グラハムは空を仰いだ。
     王は今、静かに眠っている。
     彼が目覚めたときなにが起こるのか。
     生かされたこの身はどうなるのか。
    「あぁ、空はこんなにも遠いものであったのか……」
     ぽろり、と零れ落ちた言葉は果たしてどちらの言葉であったのか、それはグラハムにもわからなかった。

     数ヶ月振りに戻ってきた学院の門を前に、グラハムは感慨深げにそれを見上げる。学院は学生の通う教養科と武術科とは別に研究棟があり、建物だけでも広大だが一般に開放されている庭園や広場などを含めると、眩暈を起こしそうなほどの敷地所有率である。
     建物へと続く道は木立の中を、ゆったり、と延びていく。左手は大振りの枝で陽の光が遮られて薄暗いが、右手には人の手が入りベンチの置かれた広場が少し先に見える。
     この辺りは関係者以外立入禁止ではないので、散歩がてらやってきてはくつろいでいる者の姿が、ちらほら、見受けられた。
     研究棟に行くには左手の鬱蒼とした中を抜けるのが早い。迷うことなくそちらへ足を向けたグラハムを、頭上から引き止める声がした。
    「なにかね?」
     ちょん、と枝に止まった小鳥に大真面目に問えば、チッチチッ、と他の者には理解できない言葉で色々と告げてくる。
     一通り聞き「了解した」と手を上げれば、役目は果たしたと言わんばかりにその鳥は空へと舞い上がった。遠ざかる鳥影を無言で見上げていたグラハムだが、おもむろに踵を返し広場へと向かったのだった。


     軽いノックの後に覗いた金の髪に、ビリーは手元の書物から顔を上げ目元を和らげた。
    「お帰り。今回はどこまで行ってきたんだい?」
    「西の方にな。途中で路銀が尽きて、危うく行き倒れるところだった」
     戻ったその足で直ぐに来たのか、薄汚れた旅装束のままのグラハムにビリーは「ゆっくりするといいよ」と、唯一なにも乗っていない小卓に着くよう促した。
     通路はかろうじて確保されているものの、卓や棚には本や紙束、床の上には石板が溢れ返り、どことなく埃っぽい。
    「まぁ、そのおかげで貴重な体験をしたのだが。カタギリ、キミに土産がある」
     差し出されたコーヒーと入れ違いにハンカチで包まれた小箱をビリーに差し出し、グラハムは促すように軽く首を傾げた。
    「あぁ、これはどうも」
     どこか警戒するようなビリーの声音など意に介さず、グラハムはカップに口を付ける。
    「うむ、やはりこれを飲むと戻ってきたという気になる」
    「物好きだねぇ、キミ」
     研究棟に支給されているコーヒーは正直、評判がよろしくないのだ。
     はは、と苦笑しつつ小箱を包んでいたハンカチを、はらはら、と解くビリーの手が止まった。
    「……これ……なんだい?」
     現れ出でたその中身は血痕と思しき物で汚れており、明らかに真っ当な物ではない。
    「『鳥の王』だよ、カタギリ」
     僅かに強張ったビリーの表情が見えないのか、見えていて何とも思っていないのかは定かではないが、グラハムは涼しい顔で、さらり、と言ってのけ、あまつさえはビリーにコーヒーのおかわりを所望してきた。
    「『鳥の王』って、あぁ、本当に探索は行われたんだ。まさかキミがその話に乗ってたとはねぇ」
    「どういうことだ?」
     新たにコーヒーが注がれるのを横目にグラハムが問えば、ビリーはポット片手に器用に肩を竦めて見せた。
    「コーナー様だよ。あの人にも困ったものだね。酒の席で、うっかり、修復中の書簡の話をしちゃったらしくてさ」
    「そういうことか」
     学院の理事であるアレハンドロ・コーナーは職業柄、多方面に『お知り合い』が多いらしく、たまに会食やパーティの席でやらかしてくれるのだ。
    「それで、どうだったの?」
    「雇用費の半額に当たる前金しか貰えず、帰ってくるのに難儀した」
     やれやれ、と大袈裟に肩を竦めるグラハムに「そうじゃなくて」とビリーは根気強く話の先を促す。
    「ふむ、どこから説明するべきか」
     そう言ってグラハムは時々コーヒーで唇を潤しながら、順を追って全て説明したのだった。的確な要約は文句のつけようもないが、ビリーは頭を抱える。問題はその内容であった。
    「信じられない……グラハム、キミがその……」
    「事実だ」
     きっぱり、と言い切ったグラハムに「でもねぇ……」と尚もビリーが言い募れば、グラハムは秀麗な眉を寄せカップの中身を一気に喉に流し込んだ。
    「親友の言うことが信じられないか、カタギリ。よかろう、ならば証拠を見せてやろう」
     そう言うが早いか荷物から一冊の本を取り出し、ずい、とビリーに突き出した。
    「今から一時間前に広場のベンチで、一日十個しか販売されない限定ドーナツを運良く手に入れられて上機嫌で貪りつつ、上機嫌に任せて小鳥に欠片をふるまい、うっかり、三二八頁に油染みを付けてしまったキミの本だ。ベンチに忘れて行っただろう」
    「ちょっ、見てたのかい!?」
    「そんなワケなかろう。なんなら今朝のことも説明するかね? 石板を移動させようとして、ギックリ寸前になったことや、左右、別々のサンダルで……」
    「いや、いい、いいです。すみませんでした」
    「わかればいいのだよ」
     ダラダラ、と嫌な汗をかきながらグラハムを止め、がっくり、と項垂れたビリーは、ぶつぶつ、と「え? なに? アレもコレももしかしたらバレてるってこと……?」と呟いている。だが、なにかよからぬコトをしていたのかと、ツッコミを入れてくる者は幸いなことにここには居ない。
    「これは私の推測なのだがな、その箱に収められている亡骸も、仮の器だったのではないかと思うのだ。本物の器は別の場所にあり、彼はそれを探しているのではないかと」
     不意に真面目なことを切り出され、ビリーは弾かれたように顔を上げる。
    「まさか、キミ、それを探そうとか思ってる……?」
    「無論だ。一度は死んだこの身がこうして今、キミの目の前にいるのは誰のおかげだと思っている。この恩を返すにはそれしかあるまい」
     だから、手伝ってくれたまえ、と頭を下げているのに、どうしてか偉そうに見える親友の癖っ毛を見下ろし、ビリーは、そっ、と溜め息を逃がした。
     否とも応とも答えぬビリーに業を煮やしたかグラハムが頭を上げれば、相手は額に指を当て、うーん、と顔を顰めていた。
    「カタギリ?」
    「手伝ってもいいけど、条件がある」
     大抵のことなら困りながらも、はいはい、と承諾するビリーが条件を出してくるなど、余程のことだ。これは心して聞かねば、とグラハムが襟を正したことを表情から察したか、ビリーは疲れたように息をひとつ吐いた。
    「キミの信念は立派だけどね、死んでしまったら元も子もないよ。今回はそれこそ奇跡が起きたけど、こんなことは二度と起こりえない。わかるね?」
     まるで小さな子供に噛んで含ませるような穏やかな口調なだけに、その奥底に潜むビリーの苛立ちの度合いが尋常ではないことをグラハムは知る。
     優秀な成績で学院を卒業したグラハムは、そのまま教養科の教員になった。その数年後、武術科兼任の話が出た際、「実戦を知らぬ者が指導など片腹痛い!」とホーマー・カタギリ学院長に正面切って言い放ち、道理を無理でこじ開けた結果、グラハムは期限付きではあるが武者修行に出ることを許されたのだった。
    「叔父さんがキミに甘いのは昔からだから、今更とやかく言わないけど……」
    「それで、条件とはなんだ」
    「ほんとキミ、我慢弱いよね。もうちょっと愚痴らせてくれてもいいじゃないか」
     まだあるのか、と喉元まで出かかった言葉をなんとか飲み下し、グラハムは真面目な顔でビリーを真っ直ぐに見つめる。その揺るぎない眼差しに負けたか、ビリーは再度溜め息を吐くと作業机から紙とペンを持ってきた。
    「キミの首に鈴をつけさせてもらうよ」
    「なんと。そういう趣味があったのか」
    「比喩だよ。わかっててそういうこと言うのやめてくれないかなぁ」
     カリカリ、とペン先を走らせながら淡々と応じるビリーに、グラハムは「それはすまなかった」と素直に詫びた。
    「野垂れ死にされたら困るんでね、僕の知り合いの紹介所に登録してもらうよ。キミが学院所属だということは僕の方から説明しておく。これが紹介状。こっちは地図。明日にでも行っておいで」
     今日は疲れてるだろうからね、とそこでやっと笑みを見せたビリーから紹介状と地図を受け取り、グラハムは僅かに瞼を伏せた。
    「どうしたんだい?」
    「すまなかった」
     ぽろり、と洩れ出た詫びの言葉にビリーは数度眼を瞬かせたが、ふふっ、と小さく笑うとどこか砂っぽい金糸を指で梳いた。
    「いいさ。そういうところがキミがキミたる所以なのだから」
     この男の寛大さに何度も助けられているとグラハムは分かっており、もちろん感謝している。己のらしくない態度にグラハムは微かに鼻を鳴らし、誤魔化すかのように手中の地図を凝視する。
    「……ん?」
     地図に添えられた団体名と店の名前に片眉を上げる。つい最近、この名前をどこかで聞かなかっただろうか……?
    「まぁ、行けばわかることか」
    「あれ? わかりにくかったかい?」
     グラハムの呟きの意味を取り違えたビリーの問いに、そうではない、と応え、グラハムは「シャワーを拝借する」と一方的に告げると、勝手知ったるなんとやらで研究棟共用シャワー室の鍵を手に退室したのだった。


     翌日、紹介状を懐に、地図を手に携えグラハムは目的の店の前に立っていた。昼間は食堂、夜は酒場になるというこの店の名は『プトレマイオス』という。
     入り口横に立てられた本日のおすすめメニューの書かれた黒板に目を落とし、グラハムは実際に頼むかどうかは別として「肉……いや、魚も捨て難い……」と真剣に悩んでいた。
    「どっちもおすすめだぜ、お客さ~ん」
     不意に他人の体温を背中に感じたと思った瞬間、のしっ、と肩に顎を乗せられ、グラハムは反射的に腰の剣に手を伸ばすも、その手はグローブに包まれた掌に、やんわり、と止められた。
    「久し振りだな、グラハム。元気だったか」
     相手が誰であるか理解したグラハムは苦笑混じりに振り返り、「健勝そうでなによりだ」とニールの胸を拳で緩く叩いた。
    「まぁ、入れよ。食いながら話そうぜ」
    「いや、私は食事をしに来たわけではないのだ」
     ニールに腕を引かれ店内に入ったグラハムが訂正するも、相手は聞こえていないのかはたまた聞いていないのか、ぐいぐい、と変わらず腕を引き、一番奥のテーブルにグラハムを座らせた。
    「俺もこれから飯なんだ。すぐ作ってくるから待ってろよ」
    「いや、だから」
     話を聞け、とニールの腕を取ろうとするも、するり、と巧みにかわされ、グラハムは片眉を上げる。彼はわざとやっているのだ、とここで確信した。
     まぁ、腹ごしらえしてからでも良かろう、とそのままおとなしく待つことしばし。ことん、と静かな音と「どうぞ」という少女の細い声と共にグラスが置かれ、「食事が済んだら奥にいらしてください」と続けられた言葉にグラハムは、自分が来ることはここの人間には周知の事実であったことを知ったのだった。


     鼻歌交じりに卓とトレイを往復するニールの手を目で追い、グラハムは並べられた皿に難しい顔を向ける。形状からして表の黒板に書かれていたおすすめメニューなのはわかったが、肉と魚が一皿ずつ当たり前の顔で鎮座ましましている。
    「さ、食おうぜ」
     いただきます、と行儀良く手を合わせたニールにグラハムは「ちょっと待ちたまえ」と制止をかけた。
    「どうした? 猫舌とか言うなよ?」
    「そうではない。私はどちらをいただけば良いのだね?」
     先にも述べた通り肉も魚も各々、一人前がそのまま置かれているのだ。一体どういうつもりなのかと問えば、ニールはデニッシュを千切る手を止め、きょとん、とした顔でグラハムを見返す。
    「半分ずつ食えばいいじゃん。両方おすすめだって言っただろ」
     ヘンなこと聞くなぁ、と言わんばかりの返答に、今度はグラハムが目を丸くする番だ。
    「あ、そういうのイヤだったか?」
     その反応をどう捉えたか、アンタ育ち良さそうだもんなぁ、と続いたニールの言葉に、グラハムは、ゆるり、と頭を振る。
    「そんなことはない。私は孤児だったのだよ」
     そう言ってナイフとフォークを手に取り、音もなく肉を切り分けるグラハムにニールは気まずそうに、こり、と鼻の頭を掻いた。思わぬ話の流れにどう返すべきか、と逡巡するニールを知ってか知らずか、グラハムは器用にソースを絡めながら言葉を続ける。
    「運良く学院と同系列の孤児院に居たので、それほど苦労はしていないがね」
     なんでもないことのように、さらり、と過去を晒し、グラハムは肉を口に運びながら、ちら、と上目にニールを見やった。
    「キミこそ赤の他人とひとつの皿をつつくことに、抵抗はないのかな?」
    「そんなモンあったら、はなっから別に盛ってるよ。それにアンタとは生死を共にした仲、だろ? 他人じゃねぇよ」
     ニールもフォークを取り上げ、添えられているマッシュポテトを掬い上げる。
    「それに、今日から俺たちの仲間だ」
     ぱちん、と戯けたウィンクをひとつ送り、ニールは柔らかく笑んだ。
    「ようこそ、ソレスタルビーイングへ」


     談笑しつつ、しっかりとデザートまで腹に収めたグラハムはニールの案内の元、店の奥にある休憩所と思しき場所へ来た。そこで待っていたのはビリーの友人であり、この店を任されているスメラギ・李・ノリエガであった。
    「ビリーから大体の事情は聞いてるわ、エーカーさん」
    「グラハムで結構」
     間髪入れずの断りにニールは、いつもこんな調子なのか、と小さく笑う。対するスメラギは一瞬、言葉に詰まるも「では、グラハムさん」と仕切り直すように彼の名を呼んだ。
    「ウチは見ての通り小さなところよ。依頼もひっきりなしに来るわけじゃないの。それで副業というのもおかしな話だけど、希望者には食堂か酒場で働いてもらってるわ」
    「勿論、両方出られるなら大歓迎だぜ」
     ちなみに俺は両方な、と笑うニールに、スメラギは申し訳なさそうに眉を下げる。
    「ソツなくこなせるのが彼しか居ないから、頼りきっちゃって」
    「いいって。まぁ、酔っ払いにケツ触られるのはカンベンだけどな」
     ははは、と冗談めかして笑うニールだが、彼だからこそ笑い飛ばしてくれるのであって、これが他のメンバーだったらそうはいかない、とスメラギは内心で溜め息を吐く。
     二人のやり取りにグラハムは、ふむ、と考えるように顎に手をやる。食事中の店内の様子を記憶から引っ張り出し、従業員の数を確認する。調理場までは分からないが見える範囲では、水を運んできた巻き髪の少女と快活に注文を受けていた少女、カウンター内に居た前髪で右目の隠れた青年を確認している。
    「酒場の方を中心に、食堂も手が足りなければ手伝おう」
     実際には何人が働いているかわからないが、二人の様子からして酒場の方の人手が足りないと踏んでの言葉であったが、それは外れてはいなかったようだ。
     どこか安堵の色を滲ませたように見えた二人だが直ぐさま瞳に不安を携え、恐る恐るといった体でスメラギが口を開いた。
    「成人……してるわよね?」
    「無論だ」
     何を言うか、とグラハムが年齢を告げれば「俺より上かよ!?」とニールがたまらず噴出した。
    「てっきりリヒティと同じくらいかと思ってたぜ」
     いやはや、と肩を竦めるニールの口に上った知らぬ名に、グラハムは怪訝そうに片眉を上げる。それに気づいたスメラギが、膝に置いていたファイルを卓上に開いた。
    「彼ね、リヒテンダール・ツエーリ。食堂では調理を担当してもらってるわ」
     顔写真付きの登録書を細い指でさし、スメラギはそのままメンバー紹介に入る。一通り説明を終えたところで「一度には覚えられないと思うけど、大体でいいから把握しておいて貰えると助かるわ」との言葉に、グラハムは「充分だ」と頷いて見せた。
    「充分って……」
    「覚えたと言ったのだ」
     きっぱり、と言い切ったグラハムにニールは、ヒュゥ、と口笛を吹く。学院で教鞭を執っていたというのは、伊達ではないと言ったところか。
    「それじゃ、グラハムさんもこれに記入してもらえるかしら」
     そう言って白紙の登録書を、つい、とグラハムの前に滑らせ、その横にペンを添える。「承知した」とグラハムが項目を埋めていく様を眺めつつ、ニールはなにか気に掛かることがあるのか「なぁ」と声を掛けた。
    「寝床は決まってんのか?」
     学院所属とはいえグラハムは今現在、根無し草同然だ。住みもしない部屋をわざわざ借りているとは思えず疑問をそのままぶつければ、グラハムは手を止めることなく言葉を紡ぐ。
    「昨日はカタギリの部屋に泊めて貰ったが、今日はとりあえず手近な宿に部屋を取るつもりだ。これからは長くこの街にいることになるから、どこか賃貸契約を結ぼうかと思っている」
     さすがに学院の寄宿舎には戻れんよ、と僅かに苦い笑いを滲ませるグラハムに「それなら」とスメラギが提案を持ちかける。
    「キッチン、トイレ、バスルーム共用で良ければ、格安で空き部屋を提供するけどどうかしら?」
     ちなみにこの上ね、と人差し指を、ぴっ、と立てたスメラギに合わせ、ニールも、ぴっ、と指を立てる。
    「俺も世話になってる。掃除は持ち回りだから頭数が増えると助かるぜ」
     軽い誘い文句にグラハムは目元を緩める。彼に自覚があるかどうかは定かではないが、これは自分が頷きやすいようにとの、ニールの気遣いなのだろう。
     ならば答えはひとつだ。
    「その話、有り難く受けさせて頂く」
     世話になる、とグラハムが頭を下げれば「よろしくな」とニールが嬉しそうに笑った。

     ふわぁぁ、と欠伸を洩らしながらニールは、昨夜というより朝方まで共に働いていたグラハムの部屋の扉を、コンコン、とリズミカルに叩く。
    「グラハム、起きてるかー? 飯どうする?」
     陽は中天よりやや下りに差し掛かった時刻だ。今なら下でランチに間に合うと踏んでのお誘いであったが、中からは返答どころか物音ひとつしない。
    「まだ寝てんのか」
     そう小さく呟いて試しにノブに手をかければ、それは、あっさり、と回り、ニールは苦笑いを浮かべる。
    「鍵くらいかけろっての」
     いくら顔見知りと共に生活しているとはいえ、これは余りにも不用心である。
    「グラハム?」
     そっ、と扉を細く開き伺うように中を見やれば、目的の人物は窓際でやや顔を上げた状態で、どうやら外を眺めているようだ。
    「なんだ、起きてるじゃねぇか。おーい、飯どうするよ?」
     相手が起きているのならば遠慮はいらないと、ニールは扉を大きく開け放ち、ずかずか、と大股にグラハムに寄る。だが、決して聞こえない距離ではないにも関わらず、グラハムからはなんの反応もない。
     他人の声が聞こえないほどに気になるなにかがあるのかと、相手の視線の先を同じように見るもそこには空が広がっているだけで、気を引くようなモノはニールの目には映らない。
     立ったまま寝てんじゃねぇか? と半ば本気で思いつつその肩を、ぽん、と一叩きしながら「グラハム?」と名を呼べば、相手はそれこそ夢から覚めたような面持ちでニールを振り仰いだ。
    「なんだよ、ホントに立ったまま寝てたのかよ」
     はは、と笑うニールにグラハムは「どうやらそのようだ」と冗談のように返し、「して、何用かな?」と小首を傾げる。
    「飯だよ、飯。今ならランチ間に合うけど、どうする?」
    「うむ、ご一緒させていただこう」
     既に着替えも済んでおり、即座に踵を返したグラハムの背を追う形になったニールだが、改めて室内に目を走らせ呆れと感心の入り交じった息を吐いた。
    「物なさすぎだろ……」
     クローゼットに書き物机と椅子一脚、これは備え付けの物だ。逆に言えばこれ以外の物がなく、強いて言うならば床の一角を彩っているラグが彼の持ち込んだ唯一の私物となる。
    「……ちょっと待て」
     単純に物がないな、で終わらせようとしたニールだが、あることに気づき、はた、と動きを止める。
    「グラハム、おまえ、どこで寝てんだ……?」
    「どこ、とはおかしなことを聞く。この部屋に決まっているではないか」
    「そうじゃねぇよ! この部屋のどこで寝てんだって聞いてんの!!」
     あーもーこの子は! とまるで母親のような口振りのニールにグラハムは更に不思議そうな顔で、「そこだが」とラグを指さした。
     まさかと思っていたことを、あっさり、と肯定され、ニールは額を押さえて肩を落とす。
    「もう一週間経ってんだぞ……ベッドくらい買えよ」
    「横になれれば充分だろう?」
    「布団もナシにごろ寝かよ! それは冒険中だけにしとけ!!」
    「毛布ならあるが」
     野営用の、と至極当たり前の顔で返してきたグラハムに、ニールの肩が更に下がる。
    「適応力があるんだかないんだか」
     はー、と脱力しきった息をひとつ吐き、ニールは、ぽん、とグラハムの肩に手を置いた。
    「スメラギさんに簡易ベッド借りてやるから、頼むからちゃんとしたところで寝てくれ」
    「いや、それには及ば……」
    「寝るよな」
    「しょ、承知した」
     肩に置かれた手には不自然に力が込められ、得も言われぬ圧力を生じる笑顔に抗い難い物を感じ、グラハムは反射的に、こくり、と首を上下させた。
    「OK。じゃあ飯行くぞ」
     グラハムの横に並びニールが促すように相手の背を軽く押すも、グラハムはその場から動かず、じっ、とニールを見上げている。
    「なに?」
    「いや、私の気のせいだと思うのだが……」
     そう言いながら探るような強い眼差しで執拗に見上げてくるグラハムに、ニールは居心地が悪いのか右目を覆うように掌を顔に当て、ふい、と僅かに顔を逸らす。
    「今日のキミはなにかがおかしいな」
    「……どんなカンジに?」
     顔を逸らしたまま、ぽそり、と問うてきたニールにグラハムは軽く肩を竦め、「具体的にどう、と説明するには困難だが、敢えて言うならば右目に違和感があるな」と答えた。
    「そっか。あー、今日はダメかぁ」
     軽い調子ではあるがどこか諦めたような口調で一人ごちてから、ニールはズボンのポケットから眼帯を取り出すと手早くそれで右目を覆い、問われる前に自ら口を開く。
    「俺さぁ、ちょっと呪われてんのよ。普段は平気なんだけどたま~に俺自身の抵抗値が下がる時があってな、そういう時は呪いの影響ダダ漏れになんの。悪いね。でもこうしてればなんも心配いらねぇから」
     とんとん、と眼帯を指先で軽く叩き、にっ、と笑うニールにグラハムは片眉を上げる。
    「そこまで言ったのなら、呪いの内容も話したまえ」
    「あ、やっぱ気になるか」
    「無論だ」
     大半の者は相手に気を遣い、例え知りたくともそこまで踏み込まないであろうが、生憎とグラハムの辞書に遠慮という文字はない。
    「何年前だったかなぁ、沼地の魔女討伐に駆り出されたときにヘタ打ってな、相手には逃げられるわ、最後っ屁に呪われるわ、もー散々だった。魅了と誘惑の合わせ技で、でも死ぬような呪いじゃないしいいか、って思ってたらこれが考えてたよりも厄介でさ。男女問わず抵抗値の低い相手を右目で見た日にゃ……」
     げんなり、とした表情から察したか皆まで聞かず、「それはご愁傷様だな」とグラハムは真顔で労った。
    「神殿で解呪してもらおうにも二つが入り交じってる規格外だからとか言って、すげー金額提示されて、もー俺泣きそうよ」
     よよ、と泣き崩れる真似をしてみせるニールに、グラハムは、ぽん、と手を叩いた。
    「あぁ、だからキミも『鳥の王』探しに乗ったのか。雇用費もなかなかであったが、確かにあの成功報酬額は魅力的であった」
    「あれの雇用費の半金貰い損ねたのは痛かった」
     あの時にカードの大半無くしちまったしなぁ、と項垂れるニールに、さすがに悪いと思ったかグラハムは「すまなかった」と頭を下げる。
    「あ、いいっていいって。そんなつもりで言ったわけじゃないんだ。死にかけたアンタの方が大変だったんだし」
    「それもキミに救われた。私はキミに報いなければならないな」
     ふむ、と何事か考え始めたグラハムの邪魔をするのは気が引けたが、ニールはそろそろ腹の虫が暴動を起こしそうになっており、なるべく、やんわり、と相手に声を掛けた。
    「か、考えるのは飯食いながらにしないか? な?」
    「その魔女を拘束すれば良いのだな」
    「はい?」
     顔を上げたかと思いきや、唐突にわけのわからないことを言い出したグラハムの額に、ニールは反射的に掌を宛がう。
    「熱などない。神殿に大枚くれてやらずとも、呪った張本人に解呪させれば良いだけの話だ」
    「や、それはそうだけど、どこにいるかもわからない相手をどうやって捕まえるってんだよ」
    「心配御無用。私には百の目と千の耳がある」
     しからば、と言うが早いかグラハムは止める暇もなく部屋を飛び出して行き、ガラン、とした室内には一人残されたニールの腹の音が虚しく響いたのだった。


     そろそろ一息入れようか、と眼鏡を外し鼻の付け根を軽く揉んでいたビリーに、開け放たれたままであった出入り口から「あの変人、なんとかしろ」との不躾な声が掛けられた。
    「やぁ、ジョシュア。随分と穏やかでない様子だけど、なにかあったのかい? それに変人って……」
    「アンタに関係してる変人って言ったら、一人しかいねーだろうが」
     グラハムよりも色味の薄い金髪を掻き上げ、ジョシュアはイライラとした口調を隠しもせず「早くしろ」とビリーを急かす。
    「なにがあったかくらいは説明してくれてもいいんじゃないかな?」
     よっこいせ、と腰を上げ、バキバキ、に凝り固まっている肩や背中を、ぐぐぅ、と伸ばすビリーに「じじむせぇ……」と洩らした後、ジョシュアは「あんなのが学院関係者だなんて、赤っ恥もいいとこだ」と悪態を吐いてからグラハムの奇行を説明する。
     まとめるとこうだ。
    『一般開放されている広場で鳥に餌を撒きつつ、一人で何事か延々と喋っている』
     それも、一羽、二羽ならまだしも、軽く十羽は超えた数を集めているというのだから、それは確かにおかしな光景であろう。
    「わかったわかった。すぐやめさせるからジョシュアは次の講義に遅れないようにね」
     ぽん、と軽くジョシュアの肩を叩き、はは、と笑みを浮かべたビリーであったが、即座に猛ダッシュを決めると、あっ、という間にジョシュアの視界から消えたのだった。
     息せき切って駆け付けたその先の光景は先ほど聞いた説明と寸分違わず、ビリーは、あぁ、と頭を抱えたくなるのを懸命に堪えた。
     グラハムの腰掛けているベンチの周りには小さな頭が多数蠢き、それも入れ替わり立ち替わりやってくるものだから、数は一向に減ることはない。
     しかも彼の横にはパンの耳が詰まった袋が二つあることから、グラハムが長期戦を想定していることが容易に知れた。
    「な、なにしてるんだい、キミは……」
     はーはー、と荒い息をつきながらグラハムに近づけば、鳥たちは一斉に飛び立ち一瞬にして静寂が訪れた。
    「なにをするか、カタギリ。みな驚いて去ってしまったではないか」
     闖入者を当たり前の顔で咎めるグラハムだが、ビリーは彼の言い草など気にも留めず「いいからおいで」とグラハムの手を取り強引に立ち上がらせる。
    「なんだ? 話ならここで聞くが」
    「ここじゃダメ」
     きっぱりはっきり、グラハムの言葉を斬り捨てビリーは、ぐい、と相手の腕を引く。仕方がない、とグラハムはベンチの上に置いてあるパンの耳と共に置いてあった小袋を器用にも片手ですべて掴むと、引かれるままに広場を後にした。
     近道を抜け研究棟へと入り、そこで漸くビリーはグラハムの腕を解放する。研究室へ向かう廊下を歩きながら「一体、なにをしてるんだいキミは」とのビリーの疲れた声に、グラハムは「情報提供を呼びかけていた」と、なんでもない顔で言い放った。
    「……あのねぇ、グラハム」
     彼を先に室内へ促し、ビリーは扉を入念に閉じながら、はぁ、と溜め息を吐く。
    「端から見たらキミ、ヘンな人だよ。ジョシュアから話を聞いた時は卒倒するかと思った」
     定位置へと腰を下ろしたグラハムに、わかるかい? とでも言うように首を傾げて見せるも芳しい反応は得られず、ビリーは更に溜め息を深くする。
    「あまり目立つことをするのはどうかと思うよ。ただでさえもキミは、ここでは目立つんだから」
     特別待遇の彼を快く思わない者が少なからず居るのだ。先のジョシュアも彼を嫌っていると言えばそうなのだが、だからといって憎んでいるわけではなく、悪態を吐きつつビリーの元へやって来たのはグラハムを心配してのことであると、なんともややこしい感情が彼の中で渦巻いているらしい。
     ちなみにジョシュアが表だってグラハムを「気に食わない気に食わない」と大声で言っているおかげで、逆に教員間の陰湿な陰口は態を潜めているのだ。
    「そうか。周りに迷惑を掛けるのは本意ではない。気をつけるとしよう」
    「是非そうしてくれるとありがたいよ」
     コーヒーを注いだカップを小卓に二人分置いたビリーの横を、するり、と抜け、グラハムは窓辺に寄った。その手にパンの耳の詰まった袋を携えて。
    「ちょっちょっと、グラハム!?」
    「人目に付かなければ良いのであろう? ここならば幸いにも人通りはない」
    「やめてやめてお願いだからやめてぇー!」
     そんなことされたら明日から僕が変人扱いだよ! と泣きつかんばかりの勢いで声を上げた甲斐あってか、グラハムは渋々ではあったが席へと戻って来た。こほん、と気を取り直すように咳払いをひとつし、ビリーは改めてグラハムに奇行の理由を問うことにする。
    「情報提供って、なにをやらかす気だい?」
    「やらかすとは人聞きが悪いな。沼地の魔女の所在を知りたいのだよ」
     ずっ、とコーヒーを一啜りし、グラハムは緩く首を傾げると「なにか知らないか?」とビリーに問う。
    「なんで今更そんな。討伐隊を編成したけど逃げられた、ってアレだろう?」
    「らしいのだが、詳しい話は知らないのだよ」
    「僕も聞きかじった程度でしかないけど、失敗の原因は討伐隊内部の情報が漏れてたからだっていうんだよね」
     うーん、と額に指を当て記憶を掘り返しているのか難しい顔をしているビリーに、グラハムは「もっとなにか覚えていないか」と急かすような声を出す。
    「討伐隊はこの街だけじゃなくて、他の街からもいくつかの紹介所を介して編成されたから、足並みが揃ってなかったっていうのもあるんだろうね」
    「なんと、そのように大がかりなものであったのか」
     どこか軽く考えていた節のあるグラハムは、むむ、と眉を寄せ、何事か考え込むように、じっ、と手中の褐色の液体に目を落とした。
    「ここだけの話だけどね……」
     ふと、声を潜め僅かに顔を寄せてきたビリーに倣い、グラハムもビリーの口元に耳を寄せる。
    「魔女討伐は建前で、本当は別の目的があったんじゃないか、って言われてる」
    「依頼主は誰だったのだ? そもそも沼地の魔女など、私は聞いたことがないぞ」
     鳥たちに聞いてもそれらしい話は欠片も出てこなかった、と険しい顔を見せるグラハムに、ビリーは更に険しい顔を見せ、すい、と人差し指で相手の唇を押さえた。
    「軽々しくそのことを口にしてはいけないよ。いいかい? 外では絶対に、だ。誰がどこで聞いているかわからないからね」
     大半の者は信じないであろうが『鳥の王』をその身に匿っていることにより、親友が厄介なことに巻き込まれるのをビリーは真剣に心配しているのだ。
    「……善処しよう」
     僅かに身を引き、それだけを口にするとグラハムは腹が減っていたことを思い出したのか、おもむろにパンの耳を取り出すと、もりもり、と喰らい始めた。
    「今更だけど、それどうしたんだい?」
    「買い物ついでに分けて貰えないかと尋ねたら、快くくれたのだ」
     あぁ、忘れていた、と小卓に置かれていた小袋をビリーに押しやる。
    「キミの分だ」
    「……そりゃどうも」
     見慣れたパン屋の袋であったが、コレの中身もパンの耳だったらどうしよう、とビリーは疑心暗鬼に狩られる。だが、袋の口を開けた瞬間、ちょっとでも親友を疑ったことを土下座する勢いで恥じた。
     中身は一日限定十個のドーナツが五個も入っていたのだ。
    「え、でも、一人ひとつしか買えないのにどうやって……?」
     素朴な疑問を口にすれば、グラハムは無駄に胸を張った。
    「そんな道理、私の無理でこじ開けた」
    「犯罪だけは勘弁だよ、グラハム」
     これはありがたく頂くけど、とビリーは早速ひとつにかぶりつきながら苦笑を洩らす。大方、頼み込まれた娘と女将がその甘いマスクに心奪われた結果だろう。同じ男として、一発だけ殴ってやりたいなぁ、と思ったのは内緒だ。
     甘い物を摂取して脳の巡りが良くなったか、ビリーは「そう言えば」とあることを思い出す。
    「討伐隊が派遣された辺りは古い部族が定住してて、あまり外部と接触を持たないところだったと記憶してる」
    「なにやら臭うな」
    「あまり深入りしないことをオススメしたいよ」
     二つ目を口に運びながら困ったように笑うビリーにグラハムは「あくまで私の目的は『逃げた魔女』だ。安心したまえ」と、うっすら、と笑みを浮かべたのだった。
     カップの中身を一気に飲み干し、グラハムは静かに立ち上がった。
    「攻めるべき方向が大体見えた。キミのおかげだ、カタギリ」
     この件が解決したら食事でも奢ろう、と言い残し、グラハムはパンの耳を小脇に抱え退室する。結局、彼がなにに首を突っ込んでいるのか聞きそびれたビリーは、一抹の不安を抱えたまま三つ目のドーナツを口に運ぶも、「ま、いいか」で済ませた。
     一度死んだことがあるのだからそうそう無茶はしないであろうというのと、想像の遙か上を行く彼をいちいち心配していたら身が保たない、というのが本音である。
     それは端から見れば薄情に映るやもしれないが、グラハムの実力を知った上での信頼に基づくものであることは言うまでもない。
     そして、グラハムに自覚はないであろうが彼の手に負えない事柄に直面した際、真っ先に頼りにされるのはビリーであり、それが悪い気がしないのも事実であった。
     もふもふ、とドーナツを頬張りながらビリーは「叔父さんならもっと詳しいこと、知ってるかなぁ」と考える。先程グラハムに言われるまで気にも留めていなかったが、討伐隊が編成されたと小耳に挟んだときは「あぁ、そうなんだ」程度の認識でしかなく、確かに魔女が居るなどとはそれまで聞いたことがなかったのだ。
     ただ、もう何年も前の話なので、今更聞かれても叔父も困るだけであろうと、忙しい彼の手を煩わせることは気が咎めた。
     やることは山積みだ、と最後の一欠片を口に放り込み、冷めたコーヒーで流し込む。仕事の合間にグラハムに頼まれた『鳥の王』関連のことを調べているのだ。時間などいくらあっても足りないくらいだ。
     解読の続きをするべく石板の積まれた机へとビリーが戻って一時間が経った頃、ノックもなしに開かれた扉から、げんなり、としたジョシュアの顔が覗いた。
    「おい。あの莫迦、また同じ事してんぞ」
    「グラハムーッ!」
     全然わかってないじゃないのーッ! と絶叫を上げながら飛び出したビリーの広場到達時間は、自己最高記録であったという。


     話の合間に後頭部をさするグラハムを不思議に思いつつ、ニールは彼の話を黙って聞いている。いきなり飛び出していったかと思えば、空が夕焼けに染まる頃に戻ってくるや否や「所在が掴めた」とニールの部屋に飛び込んできて今に至る。
     初めはこんな短時間でわかるわけがないと思っていたニールだが、具体的な街の名前まで挙げられては期待せずにはいられないというのが正直なところだ。
    「それにしたってよくわかったなぁ。一体、どんな魔法を使ったんだか」
    「言っただろう? 私には百の目と千の耳があるのだと」
     そう言って再度、後頭部を撫でさするグラハムに「どうかしたのか?」と問えば「いや、なに、大したことではない」と珍しく言葉を濁され、触れない方がいいと判断したかニールはそれ以上、追求しなかった。
     それを受けあからさまではなかったが、グラハムは安堵の息をつく。舌の根も乾かぬうちに広場で鳥たちから情報収集をしてカタギリに拳骨を喰らった、とはさすがに説明しにくい。
    「何人かそれらしい人物は居たのだが、その中で少々気になる話があったのでな。私はそれが『当たり』だと判断した」
    「なんだよ、その気になる話って」
     心持ち身を乗り出してきたニールにグラハムは、探るように片眉を上げてみせる。
    「その人物は、ニール。キミと暮らしているというのだよ」
    「は? ナニ言ってんだ?」
     ニールはここ暫くこの街から出ていない。その時点でまずおかしな話である上『当たり』と思われる人物が居る街は、ここから馬車で三日程の場所にある。
    「ガセネタにしか思えねぇんだけど」
     期待が一瞬にして落胆へと変わり、ニールは脱力したようにベッドに転がった。その勢いで、キシッ、とベッドが軋みを上げ、隣に腰掛けているグラハムの身体も僅かに上下へ揺れる。
    「私も『視た』がその青年は確かにキミと瓜二つだった」
    「……みた?」
    「あ、いや……」
     まさか鳥たちが見聞きしてきたものを『情報として共有できる』などとは正直に言えず、うっかり、口にしてしまったグラハムは、もご、と言葉を濁す。
    「ただ、その青年の名は『ライル』というそうだが、なにか心当たりはないかな?」
     誤魔化すように次の情報を開示すればニールは思いも寄らぬ勢いで跳ね起き、その勢いのまま、ガッ、とグラハムの肩を掴んだ。
    「それは……確かなんだろうな?」
    「あぁ、間違いない」
     瞬時に目の色が変わったニールにグラハムはやや逡巡を見せたが、意を決したように口を開く。
    「聞くところに寄ると討伐失敗は、内部の情報漏洩だというではないか」
    「……なにが言いたい」
     肩を掴んだまま低く問うてきたニールであったが、その表情から既にグラハムの言わんとすることは察していると見受けられた。
    「キミの血縁者で、間違いないのだな」
     静かに言葉を重ねればニールは僅かに顔を伏せ低く「あぁ」と洩らした。
    「俺の……双子の弟だよ。何年も会ってないがな、確かにアイツも討伐隊にいた。でも、まさか……」
     ゆるゆる、と力なく頭を振るニールの手をグラハムは肩から、そっ、と外し、そのまま、ぎゅっ、と両の掌で力強く握り締める。
    「確かめればいいではないか」
     ひた、と見据えてくる力強い双眸に気圧されたか、僅かにニールの肩が揺らぎ距離をとろうとする。だが、グラハムは握り締めた手に更に力を込めると、ぐっ、と手前へ引いた。
    「信じているのならばなにも恐れることはない。事実に隠された真実を知ることが重要なのではないのかな?」
     ともすれば息もかからん距離での熱い言葉に、ニールは咄嗟に反応できない。
    「……ちか、近すぎだろ、グラハム」
     握られたままの手で、ぐい、とグラハムの顔面を押し返し、ニールは、はー、と深呼吸をひとつ。
    「確かにアンタの言う通りだ。どういうことか直接聞くのが一番早いよな」
    「うむ、ならば善は急げと言うな。僭越ながら私も同道させてもらおう」
     ミス・スメラギに話を通さねばならんな、と意気揚々と部屋を出て行こうとするグラハムの服の裾を、ニールが慌てて掴み引き止める。
    「ちょっ待てって! なんでアンタも行くんだよ!?」
    「第三者が居た方が物事が客観的に見られて良いだろう? それに……」
     ベッドからずり落ちかけているニールを見下ろし、グラハムは僅かに険しい表情を浮かべた。
    「真実とやらに私も興味があるのだよ」


     スメラギの承諾はさほど労せず得られたが、問題は目的地へと赴く足であった。乗合馬車で行くとなると途中で複数箇所に立ち寄るため、最短で片道に五日はかかる。かと言って馬を用立てるには懐具合が少々厳しい。
    「あー、またカード買うのが遠くなるぜ……」
     とほー、と項垂れるニールを前にグラハムは何事か考えるように、コツコツ、と指先でこめかみの辺りを叩くと、うん、とひとつ頷いた。
    「私に考えがある。うまくすれば一日で着けるかもしれないぞ」
    「あ?」
    「すぐ戻る」
     そう言い置いてグラハムはニールの返事を聞く前に、部屋を後にしたのだった。
    「まさか空飛んでいけるわけじゃあるまいし、一日なんて無理だろ」
     とりあえず旅支度すっか、とニールはクローゼットからバックパックを引っ張り出し、黙々と荷造りを始める。だが、なにをやらかすか予測不能なグラハムのことを、ニールはまだわかっていなかった。
     翌日、日が昇るのと同時にグラハムとニールは自警隊宿舎を訪れた。こんな場所になんでまた、と理由を聞かされないままに連れてこられたニールは首を捻るしかない。
     入り口で待っていた男とグラハムは二、三、言葉を交わし、男をその場に残したまま迷いのない足取りで敷地内を奥へと進んでいく。遅れないように大股についていくニールを余所に、グラハムは建物に沿って曲がるとその先にいた男に声を掛けた。
    「無理を言って済まなかったな、ハワード」
    「いえ、これくらいお安いご用ですぜ」
     二人乗り用の鞍を固定しながらグラハムに答えるオールバックの男を素通りし、ニールの眼は鞍を乗せられている生物に釘付けになっている。
    「な、ななん……え? あ……?」
     驚きの余り言葉が出ないのか、呻きのような音を洩らすだけのニールにグラハムは、さらり、と「初めてかね?」と問うてくる。
    「ったり前だろ!! つかなんで自警隊の竜乗りを顎で使ってんだアンタ!?」
     自警隊の中でも空の防衛を任されている飛行隊の面々は謂わばエリートで、少数精鋭という言葉が相応しい。飛行技術は勿論のこと、基本的に気性の穏やかではない竜を従える地力を持ち合わせた者しか、ドラゴンライダーを名乗ることは出来ないのだ。
    「顎で使うとは失礼な。私はきちんとお願いをした。ハワードはそれに応えてくれただけの話だ」
    「隊長の頼みとあっては断るわけにはいきませんよ」
    「それはやめてくれたまえ。私はもう隊長ではないのだよ」
     はは、と笑うグラハムにハワードは「いえ、俺の隊長は貴方だけです!」と熱の籠もった言葉を続ける。
    「すまん、話が全く見えないんだが」
     控えめに挙手をして説明を求めるニールにグラハムは緩く頭を巡らせると、地に顎を着けるように下げられている竜の首筋を、ぺちん、と掌で叩いた。
    「以前、ワケあって飛行隊隊長を務めたことがあるのだよ。ただし一ヶ月だけだがね」
     あれはいい経験だった、と過去を思い返しているのか、うんうん、と瞳を閉じて頷くグラハムにニールは言葉が出ない。
    「ダリルの相棒でちょっとクセがありますが、隊長なら大丈夫でしょう」
    「そうか、彼が非番であったか。後ほど彼にも礼を言わねばならんな」
     愛しむかのような手付きで竜の首筋を撫でているが、グラハムの瞳は鋭く威圧するかのような光をその奥に潜ませている。それを感じ取っているのか、はたまた他の理由からか竜は、ぴくり、とも動かない。
    「前にも増して大人しいですね」
    「結構なことだ。このまま穏便に我々を送り届けて欲しいものだ」
     身動ぎひとつしない竜に不思議そうな顔を向けハワードが洩らすも、グラハムはさして気にした様子もなく鷹揚に笑う。
    「では行こうではないか。彼女ならば昼過ぎには着くことが出来るだろう」
     立ち尽くしているニールに手早く騎乗帯を着け、グラハムは先に鞍に跨ると彼に向かって手を差し出す。その手をニールがしっかり掴んだことを確認してから、ぐい、と一気に引き上げ彼の騎乗帯と鞍を繋いだ。
    「本当はゴーグルもあった方がいいのだが、いざとなったらキミは目を瞑ればいい」
     肩越しに振り返りそう告げるとグラハムはどこに持っていたのか、きゅっ、とゴーグルと騎乗用の分厚い手袋を装着した。
    「安定が悪いようなら私の腰にしがみついても構わない。むしろそれをオススメする」
     茶化しているのか真面目に言っているのか図りかね、ニールは困ったように頬を掻く。だが、下から現役のドラゴンライダーであるハワードに「隊長の言う通りにした方がいい」と真剣な声で進言されては従わざるを得ない。
    「ご武運を祈ります」
    「うむ」
     ビシィ! と敬礼で見送られニールは「戦いに行くわけじゃねぇー!」とツッコミたかったが、竜の羽ばたきに遮られそれは叶わなかった。


     轟々、と耳元で鳴る風に紛れてニールは溜め息を吐く。身を寄せているせいかそれを敏感に察知したグラハムが僅かに身を捩り、「どうした?」と問うてくる。
    「アンタの行動力に感心してるだけだよ」
    「とてもそうは見えないが、褒め言葉として受け取っておこう」
     感心というより呆れているとしか見えないニールに、少々、片眉を上げつつもグラハムは不敵に笑う。
    「着くまで少し眠っているといい」
     酒場の仕事を二人揃ってこなしてから、一睡もせず竜の背に乗ったのだ。そろそろ睡魔が来る頃だろうとグラハムが先回りすれば、ニールは、ふるり、と首を振った。
    「俺だけ、ぐーすか、寝こけるわけにはいかないだろ」
     疲れているのは同じだ、とニールは頑なに首を振るが、グラハムは、からから、と声を上げて笑った。
    「私のことは気にせず結構。二、三日寝なくとも平気なのだよ。それよりもキミはこれから下手をすると一戦交えるのだから、休んでおくべきだと思うがどうかな?」
     声こそ陽気であったがその内容にニールは、ピリリ、と表情を引き締める。話し合いで済めばそれが一番望ましいのだが、そもそも魔女を匿っているかもしれない弟と話し合うことが出来るのか、ということから考えなければならない状況なのだ。
     常に最悪の状況を想定して動く。
     今はグラハムの言葉に従うべきだと、ニールは低く「そうだな」と返してから、目の前の背中に頬を押し当て瞼を伏せた。
     ニールが今、どのような表情をしているかは顔を見ずともわかる。グラハムは静かに息を吐くと僅かに高度を下げ、速度を緩めた。
     向かいから来る鳥影を目敏く捉え、手綱を巧みに操ると竜をホバリングさせる。椋鳥の群れを呼び止め念のため山向こうの天気を聞けば、運の悪いことに雷雲が近づいているとの話がもたらされた。
    「強行突破は得策ではないな」
     そう独りごち、グラハムは森に向かって更に高度を下げた。


     うとうと、と微睡んでいたニールだが、間近で聞こえる複数の鳥の囀りに怪訝そうに瞼を持ち上げる。
    「そうかこの先に、ふむ。あぁ、あと――があると――」
     切れ切れに聞こえるグラハムの声に、彼は一体誰と話しているのか、と眼だけを動かし辺りを探るも未だ空の上で、普通に考えれば人など居ないとすぐにわかった。
     まさか退屈しのぎの独り言か? と笑えないことを思いつつ、ニールは寄りかかっていた背中から身を離せば、グラハムが間髪入れず弾かれたように振り返った。
     それと同時に頭上を旋回していた雀たちが、ぱっ、と離れ、みるみる後方へと去っていく。
    「あ、あぁ……起きたのか」
     あからさまに、ほっ、とした表情を浮かべたグラハムの様子から察するに、眠りの深くなったニールの上体が後方へ泳いだと思ったようだ。騎乗帯で繋がっているため転落の恐れははないが、万が一と言うこともある。
    「随分と低いところを飛んでるが、なにかあったのか?」
    「雷雲が近づいているのでね、大事を取って雨宿りしようと思っている」
     その場所を探しているのだよ、と言いつつ、辺りを探る様子もないグラハムに、ニールは、ふと、思ったことを口にする。
    「今、鳥と話してた……よな?」
     既に前を向いていたグラハムだが、その背があからさまに強張った。そして、風に流されるギリギリの声が押し出される。
    「……特技だ」
    「はい?」
    「特技だと言った!」
     ビリーとの約束を律儀に守ろうというのか、少々どころかかなり苦しい言い訳だが、言い切ってしまえばどうにかなると、これが道理を無理でこじ開けるグラハムの誤魔化し方であった。
     内容に納得したわけではないであろうが、ニールは一瞬、言葉に詰まった後、「そうか」とどこか憐れみの滲んだ静かな声を洩らした。深く突っ込んではいけない、と大人の対応をすることに決めたようだ。
    「雨宿りするとなると、今日中に着くのは無理か」
    「いや、進みの早い雲らしいのでな、一、二時間のロスですむだろうと、私は見ている。雨だけならばさほど脅威ではない」
     わざわざ稲妻の走る中を飛ぶ莫迦は居ない、と笑うグラハムに、同感だ、とニールも笑った。


     ぽっかり、と口を開けた洞窟の入り口に竜を休ませ、グラハムとニールは少し奥で腰を落ち着ける。既に、パラパラ、と雨粒が落ち始めており、程なくして本降りになるであろうと予測できた。
     少し冷えるな、とニールが腕をさすればグラハムも同じ事を思ったようで、竜の背に一緒に積んできた荷物から毛布を引っ張り出してきた。
    「なんなら火もおこすかね?」
    「いや、それで充分だろ」
     そうか、と小さく頷くと手にした毛布をニールの肩に被せ、グラハムはその隣に腰を下ろす。まさかそうくるとは思っていなかったニールは、慌てて毛布の端を掴んだ。
    「俺だけかよ!?」
    「生憎と一枚しか積んでこなかったのでね」
     こうするのが当たり前だ、と言わんばかりのグラハムにニールは、あー、と頭を抱えるように前屈みになったかと思いきや、指先だけで、ちょいちょい、とグラハムを呼ぶ。
    「なにかな?」
     相手の顔を覗き込むように身を乗り出してきたグラハムの肩を、がっし、と掴み、否応なしに引き寄せるとその肩にも毛布を被せた。
    「真っ正面から風を受けてたアンタの方が身体冷えてんだろ」
     ヘンな気使うなよ、と唇をへの字に曲げるニールにグラハムは目を丸くするも、ふっ、と笑みを洩らし「では、その厚意、有り難く受けさせて貰おう」と、ニールの肩に凭れるように身を寄せた。
    「よくわかんねぇなぁ、アンタ」
     図々しいかと思えばそうじゃねぇし、と洩らすニールにグラハムは気分を害した様子もなく喉奥で、くつくつ、と笑う。
    「そういうキミはとてもわかりやすい。その人の良さには好意を抱くよ」
    「なんか褒められてる気がしないのはなんでだ」
     ずり落ちかけた毛布を押さえつつ髪を掻き乱すニールを横目に、グラハムは僅かに表情を引き締める。目的地に着く前にこうやってゆっくりと話す時間ができたのは、僥倖と言うべきか。
    「沼地の魔女討伐はどこからの依頼だったのだ?」
     前振り無く問いかけてきたグラハムにニールはその内容が瞬時に理解できなかったか、やや間があってから口を開いた。
    「んー、実は直接こっちにきた依頼じゃなかったんだ。他の紹介所から応援要請がきて、スメラギさん自身は乗り気じゃなかったんだけどな、ここで断って相手との関係をまずくするのも得策じゃないってんで、まぁ、人数は回せないけどカタチだけでも『協力しましたよ』ってことにしようってなったワケだ」
    「それでキミは呪われた、と。とんだ貧乏くじだな」
    「それは言わないでくれよ」
     心底、弱った声で力なく笑うニールに素直に詫びた後、グラハムは詰め込んできたことを思い出すかのように、コツコツ、とこめかみの辺りを指先で叩いた。
    「私自身、沼地の魔女など聞いたことがなかった。他の者にも聞いてみたが、それらしい話は欠片も出てこなかった。そこで、本来の目的は魔女討伐ではなかった、との前提で私なりに調べてみたのだが、なかなか興味深い事柄に行き当たった」
     もぞ、と僅かに身動ぎし、暖を取るように更にニールに寄ったグラハムの金糸が相手の頬をくすぐる。
    「あの土地周辺にしか自生しない薬草があってな、それが精製次第では麻薬になるというのだよ。極めて珍しい種類でな、自生地域も限られているので、そこいらに流通している薬草辞典には勿論載っていない。私も学院で埃を被っていた文献で知ったくらいだ」
     一体なにを言っているのか、とニールが必死に脳内で情報整理を行う中、グラハムは淡々と言葉を続ける。
    「そこに定住していた古い部族は、昔から薬作りに精通していたシャーマンなのだろうな。独自の文化があり、端から見れば確かに奇っ怪で魔女に見えたかもしれん」
    「それってつまり……」
    「これはあくまで私の憶測だ」
     ニールの言葉を、ぴしゃり、と遮りみなまで言わせない。情報を繋ぎ合わせ真相に近づいたとしても、答えを知る者が居ない限り、それは推測の域を出ないのだ。
    「当事者に話を聞くのが一番早いからな。一刻も早く雷が過ぎるのを願うしかできないのが、実にもどかしい」
     話している間に雨足は強くなり、断続的な稲光が辺りを鮮烈に照らし出す。
     なにを考えているのか固く強張った表情のニールを見ることなく、グラハムは膝上で固く握られた相手の拳に自らの掌を重ね、緩く握った。
    「……聞いて良かった、と言うべきかな」
     ぽつり、と洩れ出た言葉にグラハムは、うん? と僅かに首を傾げる。
    「実際の所は確かにわかんねぇけど、ライルが理由もなしに『魔女』を匿うなんて、するわけがない。なんか心構えが出来たっていうか、これで少しは落ち着いて話できそうな気がしてきた」
     やり合うのは正直ごめんだぜ、と苦く笑うニールにグラハムは「もしそうなったら全力で加勢するから安心したまえ」と、本気か冗談かわからないことを口にし、無駄に魅力的な笑顔を見せたのだった。


     徐々に雨足の弱まる様を確認しつつ、ニールが「そろそろいいんじゃないか?」と隣のグラハムに声を掛けるも返答はなく、改めて相手を見やれば深く項垂れた恰好で眠りに落ちていた。
    「どこが二、三日寝なくても平気なんだよ」
     調子のいいこと言いやがって、と苦笑するニールの耳に、ぼそぼそ、とグラハムの唇から零れ落ちた声が届く。寝言か、と微笑を浮かべながらその声を聞くともなしに聞いていたニールだが、なにに気づいたかその表情が怪訝なものに変わった。
     確かにグラハムの口からは『声』が洩れている。だがそれは、ニールの知るどの言語でもなかった。そもそも、言葉であるかどうかさえ疑わしい。
     それは、強いて言うなれば鳥の囀りに近い、歌うようなものであった。

     遅れた分を取り戻そうと一段と速度を上げた甲斐あって、陽の暮れかけた夕餉の時間より少し早い頃合いに目的の街へと到着した。
    「家はわかるのかよ!?」
    「無論だ!」
     風に踊る髪を押さえつつニールが声を上げれば、それに負けじとグラハムも声を張る。思ったよりも近くまで来ていたのか、くい、と顎をしゃくって見せた彼に、ニールが、まさか、と思う間もなく、グラハムは勝手に竜を庭先に降下させたのだった。
     竜の羽ばたきが巻き起こした突風に驚いたか家主が窓から顔を覗かせ、その先の光景に、更に面食らった様子で言葉もなく立ち尽くしている。
     わたわた、と騎乗帯を外し、転げ落ちるように竜から降りたニールは駆け寄り様、開口一番に、
    「すまん!」
     と詫びの言葉を発した。
    「にっ兄さん!?」
     窓から届く光の中に現れた兄の姿にライルは上擦った声を上げ、目を丸くしたまま「一体どうしたっていうんだ」と急の来訪に驚きを隠せない。
    「予定よりも到着が遅くなってしまった。温かいスープなどでもてなして貰えると大変有り難いのだが、どうだろう?」
    「兄さん、この図々しいのは誰だ?」
    「すまん。代わりに謝るから中に入れて貰えないか」
     兄弟の対面に水を差したグラハムに冷ややかな眼差しを向けるライルに、ニールは真顔で頭を下げつつ、隣に並んだグラハムに拳骨をひとつお見舞いしたのだった。
    「まぁ、わざわざ来てくれたんだ。無碍に追い返したりはしないさ」
     軽く肩を竦めて見せるもライルは笑みと共に玄関に回るよう促すと、次いで中に向かって声を掛けた。
    「アニュー、兄さんとえーと、その友人が来たから、二人の分の夕飯も頼む」
    「友人と言われると無性に否定したくなるのはなんでだろうな」
     精一杯言葉を選んだライルには悪いが、ニールは小さくぼやくと、さっさ、と移動を始めたグラハムの背を追って玄関に向かう。
    「随分と友好的ではないか」
    「あぁ、そうだな。ちょっと意外だった」
     ぼそり、と小声で洩らしたグラハムに短く応じ、ニールは弟に招かれるまま室内へと踏み込んだ。
    「よくオレの家がわかったなぁ」
     クラウスにでも聞いたのか? と笑うライルに曖昧な返事を投げ、進められるままに食卓へついたニールに、隣に座ったグラハムは声を潜めて問いを投げてきた。
    「クラウスとは?」
    「あぁ、ライルが所属してる紹介所のリーダーだよ」
     この街じゃねぇけど、と答え、ライルの消えたキッチンへと繋がる扉のない出入り口を探るように見やる。その向こうから途切れ途切れに聞こえるのは、ライルとニールの知らぬ女性の声だ。
    「彼女が……」
    「多分。あん時は向こうさんはフード被ってて顔まで見てないから、絶対とは言えないけどな」
     さて、どう切り出したもんか、と頭を悩ませるニールとは裏腹にグラハムは呑気なもので、漂ってくるシチューと思しき食欲をそそる匂いに、ぐぅ、と腹の虫を鳴らす。緊迫感の欠片もない彼に、ニールはこれ見よがしに溜め息を吐いて見せるも、グラハムは「腹が減っては戦は出来ぬというではないか」と涼しい顔で居る。
    「アンタが一緒で良かったんだか悪かったんだか」
    「良いに決まっているではないか」
     さらり、と謙遜のけの字もないことを口にし、グラハムは、すぅ、と目を眇めた。
    「すまないがその香草は苦手なので、抜いていただけるかな」
     不意に大声を上げたグラハムにニールが目を丸くすると同時に、全く同じ表情をしたライルが出入り口から顔を覗かせる。
    「アンタ、どんな鼻してんだよ」
    「利くのは鼻だけではないのだよ」
     どこか含みのある声音にライルの眉が隠すことなく寄るも、変人の戯言だと自分を納得させたか、はいはい、と軽く受け流し頭を引っ込めたのだった。


     カチャカチャ、と食器の触れ合う音のみが響く中、ニールは、そろり、と隣のグラハムを盗み見る。普段から一人で口を開いている時間の方が長い男が、スプーンを手にしてから黙りを決め込んでいることに、不審と不安を覚えているのだ。
     出発前に第三者であると自ら言っていたことを考えれば状況的にはおかしくはないのだが、相手はあのグラハムである。なにかされても困るが、なにもされなくても気が気でない。
     はー、と、うっかり、吐いてしまった深い息に気づいたか、ライルの隣に座る女性が、そっ、と小首を傾げて見せた。
    「お口に合いませんか…?」
    「あ、いやそんなことは。とても美味しいですよ」
     ゆるゆる、と胸の前で手を振り、はは、と笑うニールに、ライルはクロワッサンを囓りながら、「で? 今日はいきなりどうしたんだ」と切り出してきた。おかしな空気を払拭したかったのは、彼も同じであったらしい。
    「あー、お前が女の人と暮らしてるって小耳に挟んだから、ちょっと気になってな」
     さらり、と軽く答えたつもりであったが、無意識に言葉の途中で、すぃ、と目線を下げてしまったニールに、ライルは怪訝そうに眉を寄せる。昔から妙なところで隠し事の下手な兄だ。嘘は言っていないのだろうが言いたいことは他にあると、容易に想像がついた。
     ニール自身、しくじった、と瞬時に察したか、くるり、とシチューを一混ぜし、ゆっくりと顔を上げる。
    「あ……」
    「アニュー・リターナー、キミは『沼地の魔女』か?」
     なにか言いかけたニールの声に被ったのは、今の今まで大人しくシチューを胃に収めていたグラハムであった。
     前振りもなにもない直球ど真ん中な問いにニールが、「ちょっおまっ!?」と泡を食えば、当の本人は涼しい顔で「失礼。間違えた。おかわりをいただきたいのだが、よろしいか?」とアニューに向かって空になった皿を差し出して見せた。
    「どんな間違いだよ! つか、ちょっとは遠慮しろよ!!」
     もう何に対して突っ込むべきか本人もわかっていないのか、半べそに近い状態で声を荒げるニールに、ライルの静かな問いが投げられる。
    「用って、それなのか。兄さん」
    「……そうだ」
     勢いに任せて立ち上がった挙げ句、グラハムの胸座を掴み上げていたニールだが、観念したか大人しく手を放すと席に戻った。
     空の皿を受け取ったアニューが困ったようにライルを見れば、彼は苦笑混じりに「てんこ盛りにしてやれ」と頷いた。なにか食べているときはおとなしいのだと、グラハムの行動を素早く理解したらしい。
    「事と次第によっちゃ、兄さん相手でも容赦しないぜ」
     彼女がキッチンに消えたのを横目に確認してから、ライルは低く告げる。だが、ニールは、ゆるり、と頭を振ると真っ直ぐに弟の瞳を見据えた。
    「彼女をどうこうしようってわけじゃない。ただ、本当にあの時の『魔女』なら、頼みがあるんだ」
     敵意はないのだと示すかのようにニールは胸の高さに両の腕を引き上げ、掌を相手に向ける。
    「アニューは『魔女』なんかじゃない」
     くっ、と歯噛みするように押し出された言葉に、ニールは隣のグラハムを反射的に見、グラハムは眉を僅かに動かす程度に留めた。
    「根拠のない言いがかりで、アニューは、アニューの仲間は住む場所を追われたんだ。ただ、自分たちの森を護り、静かに暮らしてただけなのに」
    「シャーマン……いや、ドルイドと言うべきか」
     コツコツ、とこめかみを指先で叩きながら呟いたグラハムの前に、ことり、と皿が置かれる。ライルに言われた通り、なみなみ、と注がれているシチューにグラハムは、ぱっ、と顔を輝かせ「かたじけない」と頭を下げた。
    「前々から森を明け渡すよう要求してくる人が居たんです。その度に族長は断っていたのですが……」
     席に戻ったアニューの言葉を引き継ぎ、ライルが説明を続ける。
    「そんな横暴、許せるわけがないだろ。だから、一部の紹介所が結託して依頼を受けたフリをして、彼らを護ろうってことになったんだ」
    「だが、結果は芳しくなかった、と」
     ずっ、とシチューを啜りつつグラハムが淡々と口にすれば、険しい顔のままライルが僅かに俯く。
    「……あぁ、彼らを逃がすだけで精一杯だったよ……」
    「なんでそんな大事なこと教えてくれなかったんだ」
    「どこにスパイがいるかもわからない状況で言えるわけないだろ!」
     ニールの言葉に、カッ、となったか反射的に、だんっ! とテーブルに拳を振り下ろし声を荒げるライルのその拳に、そっ、とアニューの白くたおやかな手が重ねられる。
    「……悪ぃ」
     八つ当たりだな、と苦く笑うライルに、ニールは悔やむように唇を噛み締めた。
    「知らなかった、じゃ済まされないことをしちまったんだな、俺は」
    「仕方ないさ。『仕事』として依頼されたんだ。兄さんが悪いワケじゃない。ただ、ミス・スメラギもなにかおかしいと思ったから、兄さんしか寄越さなかったんだろうし。これであの眼鏡の美人さんが来てたら、殲滅確定だったと思うぜ」
     意識してか軽く言ってくるライルに合わせて、ニールも口端を、くい、と持ち上げる。
    「ティエリアの魔力は半端ねぇからなぁ。カードなしでも詠唱破棄のコマンドワードだけでイケるって、仲間なら心強いが敵にはしたくないな、確かに」
     密かに『人間砲台』と呼ばれている彼の姿を思い出し、俺なら全力でケツまくって逃げる、と続いたニールの言葉にライルも、同感だ、と頷いた。
     兄弟の間の空気がすっかり落ち着いたことを感じ、グラハムは、ふむ、と小さく洩らすと、不意に皿から顔を上げ正面に座るアニューに眼をやれば、狙い過たず深い紅玉の瞳とかち合った。
    「先程から私を見ているが、なにか?」
    「いえ……とても美味しそうにお食べになられているので、作った甲斐があったと嬉しく思っていただけです」
    「そういうことにしておこう」
     ふっ、と鼻から抜けるような笑みを洩らし、グラハムは空になった器にスプーンを置いた。
    「そろそろ本題に入ったらどうかね?」
     ともすれば昔話に花を咲かせそうな二人に割って入り、グラハムが少々、硬い声を出せば、ニールは、はっ、と表情を引き締めアニューに向き直った。
    「ここに来たのは他でもない。アンタに頼みがあるんだ」
    「私に……ですか?」
     どこか不安そうに眉を寄せ、きゅっ、とライルの手を僅かに握り込んだアニューに、ニールは、とん、と軽く自分の右瞼を指先で叩いて見せた。
    「呪いを解いて欲しい」
    「呪い……?」
     なんのことか見当が付かなかったか、ゆるく首を傾げたアニューではなく、隣のライルが「あ」と声を上げた。
    「兄さん、喰らっちまったのか……」
     あー……、とどこか憐れみの滲む眼で見られ、ニールは憮然とした口調で「なんだよ」と返す。
    「特定の誰かに向けたワケじゃなかったんだけどなぁ」
     聞けば逃走の際、威嚇と牽制にと無差別に呪いを大放出したのだという。
    「煙幕代わりか。なんと豪気な」
    「で、でも、命に関わるモノは放ってません」
    「うん、まぁ、死ぬようなモンじゃないのは確かだけど、やっぱ不都合が、な。色々と生じるんだよ」
     よくわからない感心をして見せたグラハムに、しどろもどろになりながらアニューが口を開けば、ニールがどこか疲れた声で、はは、と笑ったのだった。


     なにがあるかわからないから、と軽い脅し文句とも取れる言葉に引きつった笑みを見せつつ、ニールは言われるがままにベッドに横になり抵抗することなく『眠り』の呪文を受けた。
     アニューが翳した掌をニールの額から下へゆっくり移動させる様を、ベッドを挟んだ向かいでグラハムは、じっ、と無言で見やる。ベッドヘッドから兄の顔を覗き込んでいるライルが、「どうだ?」と静かに問えば、アニューは顔を上げず少々、固い表情で口を開いた。
    「抵抗値が高いのが徒となって捻れてかかってます」
    「よくわからんのだが」
     ひょい、と肩を竦めたグラハムに、一通りの検分が済んだかアニューが顔を上げ、困ったように首を緩く傾ける。
    「そのまま素直に受けていれば『魅了』も『誘惑』も単独で存在し解呪も簡単なのですが、排除しようと無意識に抵抗し、第三の要素が加わったために互いに影響し合い変質してしまったようです」
     言葉で説明するのは難しいのか、それでも極力、近い表現になるようにと、考え考え口にするアニューにグラハムは真面目な顔で頷いているが、どこまで理解できているか怪しいと、彼が学院の教員であることを知らないライルは、二人のやり取りを溜め息混じりに見ている。
    「解呪の手伝いなら自分がする」と言ったライルに、アニューは頑なにグラハムを推してきたのも納得がいかないのだ。
    「要はその捻れをどうにかすればよいのだな?」
    「はい。ですがこればかりは言葉で説明できるものではありませんから、実際に『視て』頂くしかないかと」
     そう言ってアニューはニールの胸の上、数センチのところで忙しなく指を動かす。その指の動きを追い、目には見えぬが宙になにか陣のようなものを描いているな、とグラハムは低く喉を鳴らした。
     枕元に置かれたランプに照らされるその様は、陰影の濃さや、ゆらゆら、と揺れる不気味な影と相まって、知らぬ者が眼にしたら確かに魔女と思い込んでしまいそうなものであった。
    「『視る』と言っても擬似的なものです。その人のイメージによって見え方も異なります」
     うっすら、と額に汗を滲ませ、アニューは説明を止めないままグラハムに顔を向ける。
    「どう見えていますか?」
    「ふむ……」
     言われてニールを見下ろせば、その身体には複数の糸のようなものが絡み付いている。じっ、と目を凝らせばそれらは一本でありながら色が入り交じっており、漠然とではあったが、これらをほどけばいいのだな、とグラハムは理解した。
    「糸……のようなものが全身を蹂躙しているな。特に右目の辺りなど彼の顔が見えないほどだ」
    「私は陣を維持するので手一杯です。解呪をお願いします」
    「なんと。そのような重大な役目を私にとな?」
     口では驚いているがその表情はまったく動じておらず、むしろこの流れになるのは当然であるとわかっていた顔をしている。その反応が意外であったか、言葉の出ないアニューにグラハムは、くい、と口角を持ち上げて見せた。
    「キミの、私を視る眼が普通ではなかったのでね」
     ふ、と笑みのような息をひとつ洩らし一旦、瞼を伏せた後、グラハムは表情を引き締め「では始めようではないか」と低く告げた。


     暫し黙々と手を動かしていたグラハムだが、この沈黙に我慢の限界を超えたか「喋っても平気かね?」と、ちらり、と上目にアニューを見やる。
    「はい。少しでしたら」
     集中が乱れない程度に、と言外に告げるアニューに「それは助かる」とグラハムは僅かに肩の力を抜いた。身の締まるような緊張感は嫌いではない。だが、それは自身を鼓舞する手段があるときに限られる。
     普段から独り言の多いグラハムだがそれは、考えを声に出すことにより自身の意志を強固なものにすると同時に、音として捉え客観的に状況を見るためにも必要不可欠なのだ。
    「君たちの部族は古いと聞く。なにかおもしろい伝承などはないかな」
    「さぁ……そう言われてもなにがおもしろいのか私には判断できませんし、具体的に挙げてくださればお答えできるかも知れません」
     彼女たちの目にはどう映っているか知る由もないが、グラハムは糸を手繰る動作を止めず、ふむ、と片眉を上げる。
    「そうだな。では『鳥の王』についての話はなにかないか」
     迷いもなく率直に口にしたグラハムに、アニューは、はっ、と息を飲むも直ぐさま取り繕うような笑みを浮かべて見せた。口を挟める雰囲気ではないと悟ったか、ライルもおとなしく二人のやり取りに耳を傾ける。
    「そうですね、私が聞いたことがあるのは『鳥の王』と呼ばれていますが、『空の王』とも呼ばれており『空を駆ける者全てを統べる王である』と。姿は金色に輝く羽毛を持ち、瞳は空の色を映した蒼であると聞いています」
    「他には?」
    「俺も少しだけ聞いたことがあるな。なんでも魂だけで地上に降りてきては、死にかけの身体を貰って下界で生活することもあるとか。その代わりに身体を渡した方は、魂をパライソに連れて行ってもらえるんだとよ」
     ライルの話にグラハムは、ぴくり、と、僅かに手元を震わせ、顔を上げぬまま問いを口にした。
    「それは『王』が上へ戻るときに一緒に、という解釈でよいのかな」
    「いや、『王』に身体をあげた瞬間に召されるんじゃねぇの。元から死にかけだしな。どっちにしろ死ぬんなら天国にいきたいと思うだろ」
     交換条件ってヤツ? と首を傾げるライルには答えず、グラハムは何事か考えているのか難しい表情になる。その話が本当であるならば、何故、自分は『グラハム・エーカー』のままでいるのだろうか、との疑問を抱くのは当然のことであった。
    「……埒が明かんな」
     己の身の上のことか目の前の状況に対してか、どちらとも取れる呟きを洩らし、グラハムは手を止めると背筋を伸ばし、その瞳を、ひた、とニールの顔へと向ける。
     要は元凶を取り除けばよいのだ。
     じっ、と暫し無言のままニールの顔を、正確には右目の辺りを凝視する。探るように、奥の奥まで見透かすように、力の籠もった視線がある一点を捉えた瞬間、新緑の瞳が蒼く閃いた。
    「グラハム・スペシャル……ッ!」
     気合いを入れるためか声高に発せられた言葉はともかくとして、鋭く何かを掴み取り、思い切り引き抜くかのような大きな動作を見せたグラハムに、アニューは喉奥で悲鳴を押し殺した。
     彼女の目には猛禽類が上空から一直線に滑空し、獲物をその鋭い爪で捕らえたかのように映ったのだ。
    「これで良いのだろう?」
     呪いの根とも言うべきものを事も無げに握り潰しながら問いかけてくるグラハムに、アニューは、ただただ、頷くしかできなかった。
     多少、強引ではあったが無事に目的は遂げられたのだ。ニールのことはアニューに任せ、ライルとグラハムはベッドルームから出るとリビングルームへと移動する。
    「グラハム・スペシャルはねぇだろ……」
     なんていうか全て台無し? と呆れと疲れの入り交じった顔で見下ろしてくるライルに、グラハムは「そのような瑣末なことを気にするなど、器が知れるぞ」と涼しい顔だ。
    「とにもかくにも目的は果たしたのだ。私は一時帰還するとしよう」
    「なんだよ、そんなに急ぐことないだろ。お茶くらいいれるぜ?」
     腰を下ろすことなく玄関へと足を向けたグラハムの背にライルが声を掛ければ、彼は肩越しに振り返り軽く肩を竦めて見せる。
    「言ったであろう? 予定よりも到着が遅くなった、と。表の竜は借り物でね。明日には本来の乗り手と共に職務に就かなければならないのだよ」
    「借り物って、そんなおいそれと借りられるようなモンじゃねぇだろ。アンタ……何者だ」
     僅かに警戒色の濃くなったライルの声音に再度肩を竦め、グラハムは相手に向き直った。
    「現在はソレスタルビーイング所属の冒険者ということになっている」
    「なっている、てなんだよ、おい。いくら兄さんの知り合いでも、こう言っちゃなんだがアンタはどうにも信用できないね」
     相手を見据えたまま、じり……、と摺り足で移動し、ライルは玄関への通路を塞ぐようにグラハムの前に立った。
    「ふむ、いい判断だ。このまま私を帰せば彼女のこと、ひいてはキミ自身のことも密告されるやもしれぬのだからな」
     臆することなく、ひた、とライルの瞳を見据え、グラハムは凜とした声で歌い上げるように可能性を示唆する。危惧していたことを指摘されライルは喉奥で低く唸るも、その場から動く気配はない。
    「だが、生憎と私はどこの誰に密告すればいいのか、皆目見当が付かん。そもそもあれは魔女討伐にかこつけた侵略行為であったのだろう? 土地そのものが目当てであったのならば、目的の果たされた今、彼女を捕らえる理由は誰にもないと思うのだが?」
     わかったらどきたまえ、と強引に目の前の男を押し退け進もうとするグラハムを、そのまま行かせまいとライルは肩を掴み、ぐい、と力任せに引き戻すも、当然のことながらグラハムは抵抗し、その手を振り払おうと身体を捻った拍子に互いのバランスが崩れ、あっ、と思う間もなく共に床に倒れ込んだ。
     受け身らしい受け身も取れず顔を歪めるグラハムにはお構いなしに、いち早く気を取り直したライルが相手の肩を押さえ込んだまま馬乗りになる。
    「どこまで知っている……?」
    「なにも」
     更に警戒を強めたその様子にグラハムは先の己の発言を思い返し、失言であったか、と胸中で嘆息した。あぁ、それにしても背中が痛い、とグラハムが余所事を考えているなどとは夢にも思っていないライルは、表情の険しさと共に肩を掴む指に込めた力を増す。
    「嘘をつくな! じゃあさっきアンタが言ったことはなんなんだよ、え?」
    「情報を組み合わせた上でのただの推測でしかない。だが……」
     すぅ、と僅かにグラハムの目が眇められ、見下ろしてくるライルの翡翠の瞳を射抜く。
    「どうやら間違ってはいなかったようだ」
     力強い眼差しと共に自信に満ちた笑みを浮かべられ、ライルは怯んでしまったかほんの一瞬、相手を押さえつけている腕の力が弛んだ。
     そして、それを見逃すようなグラハムではない。
     ぱんっ、と左腕でライルの肘を払い、重力に従って崩れ落ちてきた相手の左肩を強く突き、そのまま、くるり、と位置を入れ替える。一瞬にして天井を仰ぐことになったライルは現状が掴めず、ぽかん、と頭上で揺れる金髪を見つめるだけだ。
    「私なりに調べたのだよ。古い部族が定住していた地であることと、あそこにしか生えない薬草のことを知り、そこから仮説を立てた」
    「ほんと……何者だよ、アンタ」
     降参だ、と腕を投げ出したライルにグラハムは、くい、と口角を吊り上げる。
    「なに、現在は冒険者ということになっているが、武者修行中のただの学院教員だ」
    「だったら最初からそう言えよ。なんだよ、俺、莫迦みてぇじゃん」
     あー、と嘆くように瞼を伏せたライルの肩を、ぽん、と一叩きし、グラハムは彼の上から退くと傍らのソファに腰を下ろした。
    「先程も言ったがこの場合、いい判断であったと私は思う。それくらい警戒心が強くなければ命を落としかねない。冒険者とはそうなのだろう?」
     のそり、と身を起こしたライルに笑みを見せ、グラハムは「だが、困ったことになった」と腕を組み天井を仰ぐ。
    「なにがだ」
    「足を捻った」
    「え?」
    「足を捻ったと言った」
     先と全く変わらぬ声音で宣言し痛がる素振りも見せぬ相手に、ライルはどう反応したものかと困ったように、かし、と後ろ頭を掻いた。
    「やっぱ痛い……か?」
    「無論だ」
     大真面目に頷くグラハムはこれっぽちもそうは見えないのだが、先はあんなにも急いで戻ろうとしていたにも関わらず、一向に立ち上がろうとしない辺り疑う余地はない。
    「ちょ、ちょっと待ってろ、すぐアニュー呼んでくるからな」
     焦りも露わに部屋を出て行ったライルの背を見送り、ひとりになったグラハムは、こつこつ、とこめかみを指先で叩く。真偽の程はともかく、鳥の王に関する情報を得ることが出来た。
    「カタギリに任せっぱなし、というわけにはいかんからな」
     身の裡にいる王に直接問うことが出来れば手っ取り早いのだが、残念なことに意思の疎通はままならない。それどころか本当に居るのかと疑ってしまうのだが、鳥たちの言葉が理解できる以上、その存在を認めざるを得ない。
    「彼女には何か見えているのだろうか」
     鳥の王についての話を聞いたときのアニューの反応を思い返し、グラハムは胸元を押さえ緩く息を吐く。あの場にライルが居なければもう少し鋭く切り込めたのだが、今となっては詮無いことだ。
    「それにしても遅い」
     それほど広くはない家だ。そろそろアニューを連れてライルが戻ってきてもおかしくないのだが、とグラハムが首を傾げたその時、なにやら両手いっぱいに抱えたライルだけが戻ってきた。
    「つかぬ事を聞くがそれらは一体……」
    「あ、あぁ、アニューも疲れたのか眠っちまっててな。起こすのも忍びないから俺がやることにした」
     そう言ってテーブルの上に次々と抱えてきた物を並べ、さて、とライルは気合い満々に腕まくりをする。ざっ、と見たところでグラハムにわかったのは薬研と乳鉢と包帯のみで、あとは薬草と思しき物と正体不明の液体の入った瓶がいくつかある。
     はっきり言ってしまえば肝心要の薬草の正体がわからず、さすがのグラハムも焦りも露わに青くなる。
    「だ、大丈夫なのだろうな!?」
    「任せろって。手伝いだけでやったことねぇけど、まぁなんとかなんだろ」
    「なんと!? 断固辞退するッ! 辞退すると言った!!」
     二重の意味で信用ならん! とライルから逃げるかのようにソファの上を後退するグラハムの足を素早くライルの手が捕らえれば、ぎゃっ、と短い悲鳴と共にグラハムの動作が固まった。
    「あ、悪ぃ。こっちだったか。でも逃げるアンタも悪いんだぜ?」
     ふぐぉぉ……、と足首を押さえて悶絶するグラハムに軽く詫びの言葉を投げ、ライルは「すぐできるからな~」と鼻歌交じりに作業を開始する。それをグラハムは涙目で睨みつけるしかなかった。


     べたべた、とライル作の怪しげな軟膏を塗りたくられる己の足を見下ろし、グラハムは鼻の頭に皺を寄せる。効かなくても咎めはしないが、悪化しないことを祈るばかりだ。
     ただ薬の出来はともかく、ガーゼを当て、くるくる、と包帯で固定するその手付きは慣れた物で、その点に関しては安心しても良さそうであった。
    「キミたちは治療士なのか?」
    「そんなご大層なモンじゃねぇよ。一応、薬屋ってことになってるが、まぁ、ちょっとした怪我くらいなら診てる……と言ってもアニューがな。俺は本当にただの手伝い」
     これでよし、とグラハムの足から手を放し、どうだ? と問うように首を傾げて見せるライルに、グラハムは足首の固定具合を確かめるように軽く動かしてみた後、小さく頷いて見せた。
    「庭の花壇と温室で薬草を栽培しているのか」
    「あぁ。俺も結構、詳しくなったな」
     足りないモンは森に採りに行くこともあるぜ、と笑うライルに、グラハムはどこか探るような目を向け、ゆるり、と息を吐く。
    「未だに彼女と共に居るのは、諦めていないからかね?」
    「……なんのことかわかんねぇなぁ」
     空とぼけた声と共に懐から紙巻き煙草を取り出し、左中指にはめた指輪を先端に、そっ、と寄せ短く何か呟いたかと思えば、ぽっ、と小さな炎が現れ、直ぐ様かき消えた。
    「『着火』の付与されたリングか」
    「そ。なかなか便利だぜ」
     カード同様、魔力の込められた品だが、カードと違う点は魔力チャージ無しに何度も使えるところにある。ただし、使用上限があり、それを超過すれば脆くも崩れ去ってしまう。
    「安い物でもないというのに、マッチ代わりにするとは」
     呆れた声を隠しもしないグラハムに「そう言うなよ」と苦く笑って見せ、ライルは紫煙を胸一杯に吸い込む。話を逸らしたがっているのは明白であるが、グラハムはそれに易々と乗ってやるような男ではない。
    「奪われた場所を取り戻すことを、諦めていないのであろう?」
    「なんでそう思うんだ? 俺が彼女に惚れて離れたくないだけ、とは考えないのかい?」
     口角を、くい、と吊り上げニヒルに嗤うライルにグラハムは軽く片眉を上げ、愉快そうに眼を細める。
    「ふむ、それも本心であると見て取った。だが、それだけでは所属している紹介所のある街とは別の街に、何年も居られる理由にはならんだろう?」
     どうかね? と自信満々に首を傾げて見せるグラハムを胡乱な眼差しで見やり、ライルは小さく舌打ちを洩らした。
    「アンタ、本当にただの教員なのかよ」
    「無論だ」
     当たり前の顔で頷くグラハムにもう一度舌打ちを洩らし、ライルは降参と言わんばかりに天を仰いだ。
    「確かにアンタの言う通り、森を取り戻すためにクラウス達が地道に情報を集めてる。だが、それが叶わない場合も考えて、彼女たちが他の土地で生活できるようにサポートしてんだよ」
     一応、重要機密なんだけどなぁ、コレ、と頭を抱えるライルにグラハムは「他言しないと約束しよう」と涼しい顔だ。
    「さて、思わず長居をしてしまったが、私はそろそろ行くとする」
     すっ、と立ち上がったグラハムだが、僅かに眉根を寄せ、じとり、とライルを見やる。
    「じわじわと痺れてきたような気がするのだが、本当に大丈夫なのだろうな?」
    「あぁ、冷却作用と鎮痛作用のあるモンが入ってるから、そのせいだな。だーいじょうぶだって、もげたりなんかしねぇよ」
     紫煙を吐き出しつつ、ははは、と冗談たっぷりに返されるもとても笑う気になどなれず、グラハムは軽い嘆息で応えとした。
    「ニールには明日、迎えに来ると伝えてくれたまえ」

    「……と、まぁ、そういうワケだから、アイツが来るまでゆっくりしててくれよ、兄さん」
     朝食のベーグルを千切りながら昨晩のことを説明するライルに、ニールは「あぁ、そうなんだ」としか返せず、昨晩の残りのシチューを黙々と胃に落とし込んでいく。
     また道理を無理でこじ開けて自警隊の竜を借りてくるのだろうか、と笑えないことを考え、あいたた、と無意識に額を押さえるニールの顔を、アニューが心配そうに覗き込む。
    「痛むのですか?」
    「あ、いや、大丈夫。どこも痛くないから」
    「そうですか。どこか調子が悪いところがあったら、すぐ言ってくださいね」
     抱えてきたサラダボウルをテーブルに置き、にこり、と笑むアニューに笑い返し、ニールもベーグルに手を伸ばす。
    「あぁ、そういや……」
     ふ、と手を止め、ニールはなにか思い出そうとするかのように瞼を伏せると、うーん、と難しい顔で眉を寄せた。
    「なんかヘンな夢見たな……」
    「へぇ、どんな?」
     とんとん、と夢の片鱗を引き出そうというのか、指先で額を叩くニールにライルが軽く問えば、兄は一言「鳥」と返してきた。
    「でっかい金色の鳥がな、ぐわぁっ、と俺に向かって一直線に突っ込んでくんの。こりゃ間違いなく殺られるって思ったね」
     夢で良かった、と深く深く安堵の息を吐くニールとは裏腹にライルとアニューは顔を見合わせ、片や問うような、片や肯定するような眼差しを交わし、どちらからともなく目線を外す。
    「そうだ兄さん。気分はどうだい?」
    「ん? あ、あー……そうだな。今まで絡み付いてたモノが外れたみたいに、スッキリしてる」
     これまで淀んだ空気のようなモノを常に纏っていた状態であったのだと改めて実感し、ニールは軽くなった身体を心から喜び、清々しい笑みを浮かべて見せた。
    「ちゃんと礼を言ってなかったな」
     ありがとう、と頭を下げるニールにアニューは、ふるふる、と首を振ると申し訳なさそうに肩を縮こまらせる。
    「元はと言えば私のせいですから。それに私はお手伝いをしただけで、実際はエーカーさんが……」
     どこか言いにくそうにそう告げると、アニューはどこか伺うような眼差しで隣のライルを見やり、彼女が何故そのような表情をしているのか皆目見当の付かないニールは、怪訝そうに首を傾げ、助けを求めるように弟に眼をやった。
     それを受けライルは軽く嘆息した後、
    「アイツが『グラハム・スペシャル!』とか叫んで、呪いの根を引っこ抜いたんだよ。んなことしたら普通、まともな精神まで一緒に引きずり出されて、廃人決定だっての。無事で良かったなぁ、兄さん」
     どこか投げ遣りにそう口にするも、ニールはベーグルを囓りながら「あぁ、そうなんだ」とあっさり納得して見せ、ライルは予想外の反応に思わず言葉を失った。
    「え……なに? そんだけ?」
    「んー、アイツならアリかなって。いちいち驚いてたらキリがないからな」
     一瞬、遠い目をし諦観の笑みを浮かべた兄に突っ込む言葉が見つからず、ライルはグラハムの破天荒さに内心で慄きつつ、そのまま口を噤むしかなかった。
     そして、昼過ぎに再び現れたグラハムにライルは再度、慄くこととなる。
    「お待たせだなぁ、ニール!」
     ぶわっさぁ、と逆巻く風をものともせず、グラハムの声は竜の背から良く通った。
    「んなッ!?」
     窓辺に寄ったニールが喉奥からヘンな声を出してしまったのも致し方ない、とライルは目の前の光景に引きつった笑みを浮かべるばかりだ。
    「おっおまっ! それどこから盗んできたーッ!?」
     窓を開け放ち、そこから身を乗り出し叫ぶニールにグラハムは「盗んだとは失敬な!」と真顔で返してくる。
     グラハムの乗ってきた竜の色は黒であった。ニールの知る限り自警隊では隊長の騎乗する竜以外、すべて青竜なのだ。そして今の隊長の乗騎は赤竜である。
    「盗んだんじゃないってんなら、どうしたんだよ、ソレ!」
    「借りてきたに決まっている!」
     ホバリングしていた竜を庭へと降ろし、グラハムは憮然とした表情で地に足を着けると一直線に窓に寄った。
    「学院の竜舎から拝借したのだ。勿論、許可は得ている」
     堂々と胸を張り言い放ったグラハムから、すい、と視線を外し、ニールは後ろのライルに「な? なんでもアリって気になるだろ?」と、どこか遠い目で洩らしたのだった。


     ざわざわ、とどこか落ち着かない空気を廊下から感じ、ビリーは怪訝そうに顔を上げる。騒がしいわけではないが滅多なことでは乱れぬ静謐さに慣れた身には、やたらと気になってしようがないのだ。
    「一体なんだって……」
     ふう、と嘆息混じりに立ち上がったビリーの背後を、不意に大きな黒い影が横切る。声もなく反射的に振り返るも、そこにあるのは常と変わらぬ陽射しを届ける窓のみだ。
    「今のは……」
     呆然と零れ落ちた呟きに被るように廊下から届いた囁き声の中に、ビリーはよく知った名を聞き、瞬時に眉根を寄せる。
    「まったく、今度はなにをやらかしたんだか」
     首を突っ込むのは正直遠慮したいところだが、恐らく放っておいても向こうからやってくる。それならば先手を打ってこちらから出向き、精神的優位だけでも確保しておくべきだ。
     そう結論づけるや否やビリーは白衣の裾を翻し、研究棟から教育棟へと向かったのだった。
     擦れ違う教員や生徒に目的の人物の所在を尋ね、ビリーは程なくして髪を掻き毟りながらテーブルに前のめりになっている背中を見つけ、ほんのちょっとだけ同情の笑みを浮かべるも、すぐにそれを掻き消した。
     そして何食わぬ顔で「やぁ、ジョシュア」と声を掛ける。
     予想に違わず剣呑な目付きで振り返った相手に、はは、と軽く笑って見せ、ビリーは短く断りを入れてから隣に腰を下ろした。
    「グラハム、来てたんだって?」
     ここが図書館であることが幸いし、ジョシュアの口から怒声は発せられなかった。代わりのように更に険しくなったその表情で、相当な面倒事を背負い込んだのだとビリーは判断する。
    「おまえ、アイツの首に縄付けとけ……」
    「やー、そいつは出来ない相談だねぇ」
     ギリ、と音がしそうな程に寄った眉間の皺に相手の苛立ちの度合いを知るも、ビリーは涼しい顔で受け流す。これができるからこそ、ビリーはグラハムと対等に付き合っていけるのだ。
    「それで、今度はなにをやらかしたのかな、彼は」
     そう言いながらジョシュアの手元に目を落としたビリーの眼が、すぅ、と細められる。
    「飛行許可書……? 他にもいくつかあるねぇ」
     ふむふむ、と書きさしの書類に素早く目を走らせ、ビリーは「そういうことか」と説明を受けるまでもなく納得したようだ。
    「竜関係の管理もキミの管轄だったね」
    「あの野郎、いきなり来て『一頭貸せ』と言いやがった。そもそも、学院長の許可が出てたら俺が拒否れるワケねぇっての!」
     あくまで小声ではあるがその激しい口調に、ビリーは隠すことなく同情の眼差しを向ける。それにしても、とビリーは内心で額を押さえ、叔父は本気でグラハムに甘すぎる、と呆れて言葉も出ないほどだ。
    「でもその書類は乗る本人が書くモノなんじゃなかったかな?」
     ふと、思った疑問をそのまま口にすれば、ジョシュアは気まずそうに、ふい、と眼を明後日の方向に向け、何事か、もごもご、と呟いた。
    「え? なんだって?」
    「アレに乗れたら俺が書いてやるって言っちまったんだよ、くそったれッ!」
     あーくそ! とテーブルに額を着けて両手で髪を掻き乱すジョシュアの言った『アレ』に思い当たったか、ビリーは驚愕に目を見張った後、「あー、まー、グラハムならアリなんじゃないの……?」と力なく笑うしかなかった。
     竜舎一のじゃじゃ馬、と言えば可愛らしく聞こえるが、実際は餌やりひとつも命がけといった、扱いの難しい竜が一頭いるのだ。ホーマー以外は辛うじてジョシュアしか扱えないため実習に出すこともできず、その処遇に関しては教員間で何度となく議論が交わされている。
    「卵から育ててアレだものねぇ。気位が高いのも困ったモノだよ」
    「物は言い様だな。ただの暴れん坊だろ」
     気を取り直したか再び書面にペンを走らせ始めたジョシュアの横顔を眺めつつ、ビリーが、わかってないなぁ、と緩く笑むもジョシュアは気づかない。
     竜は色によって知能に差があると言われているが、実際の所はわからない。だが、あの黒竜は確かに瞳に知性の光を垣間見せていたと、ビリーは数度、眼にした姿を思い描き再度、笑みを浮かべた。
    「それをグラハムはいとも容易くやってのけてしまった、とそういうことだね」
    「気に食わないがその通りだ。学院の上を旋回してから、とっとと行っちまったよ」
     あぁ、あの影はやはり彼であったか、とビリーは納得したように頷いた後、怪訝そうに眉を寄せる。
    「竜なんかに乗って一体どこに向かったんだ」
    「知るか。俺は竜さえきっちり無事に帰してくれればそれでいい。ヤツがどうなろうと関係ねぇ」
     何気ない呟きに律儀に答えるジョシュアに、この場にグラハムが居たのなら「好意を抱くよ」とでも言ったに違いないと考え、ビリーは、くつり、と小さく笑い、「邪魔して悪かったね」と言い置いてその場を離れたのだった。
     研究棟に戻る道すがら、ふと、空を仰ぐ。
     少しずつではあるが鳥の王に関してわかってきた。『空の王』とも呼ばれ、空をいく者を統べていたと言われる者ならば、竜の一頭従えるなど造作もないことであろう。
     ただ、それをグラハムが意識してやっているとは到底思えない。
     そう言えば昔から変わったところのある子だった、とビリーは遠い記憶に眼を細める。
     まだ学院の教員であった叔父の目に止まり、彼に引き取られたグラハムと初めて会ったのは、ビリーが十四歳、グラハムが十歳の頃だ。
     目を離せば高いところに昇り、常に空を見ていた。
     楽しそうに喋っているなと思えば彼以外の人の姿はなく、誰と話していたのかと問えば独り言だと返された。その姿も年月を重ねるごとに眼にしなくなったが、その名残か何気ない独り言は今でも続いているのだが。
    「……あ」
     ついでに思い出したくないことまで思い出してしまい、ビリーは半眼で肩を落とす。
    「しばらく彼のこと女の子だと思ってたんだよなぁ……」
     恥ずかしい過去だ、と頭を抱えたくなるもここでそのようなことをすれば、変人呼ばわり一直線だ。
     声変わりのしていなかったその声は、まるで小鳥が囀るように愛らしかったのだ。加えて金糸が、ふわふわ、と踊り、それはそれは天使のようであった。
     今でもたまにこのことで叔父にからかわれることがあり、その度にビリーは穴があったら入りたいと、顔が赤くなるのを止められないのだった。
    「……早く戻って続き続き」
     知らず火照ってきた頬を隠すように、俯き加減で研究室目指してひたすらに足を動かした。


     ニールを街の入り口で下ろし、グラハムは再度、空へと舞った。
     用は済んだのだからとっとと返せ、とのジョシュアの怒声が聞こえてきそうだが、このまま素直に学院に戻るのも名残惜しく、もう暫く借りていようと勝手に決めたのだ。
     遠ざかるニールの顔が呆れているようにも見えたが特に気にすることなく、グラハムの意識は既に空へと向かっている。
     ゴーグルを額へとずり上げ、遮るものの一切ない空を存分に堪能する。
    「おまえはどこまで行けるのだろうなぁ」
     顔は上へと向けたまま跨っている竜の首を撫でさすり、グラハムはどこか熱に浮かされたような口調で問いかけるも、それに対する返答はない。だが、元より応えは期待していなかったか気にする様子もなく、グラハムの新緑の瞳はただひたすらに空を、より高みを求め続ける。
     鐙にかけた足に力を入れ、そのまま立ち上がるも求める場所にはほど遠く、あぁ、と知らず声が零れ落ちた。
    「私一人の力では到底、辿り着けないというのか」
     この時ほど人の身であることに歯痒さを覚えることはない。
    「どうせなら翼のひとつでも生えれば良いのにな」
     ふ……、と自嘲染みた笑みを浮かべ、すとん、と腰を下ろせば、黒竜はなにも指示を出されていないにも関わらず、頭部を巡らせると進行方向を変更した。
    「素晴らしい……私の考えなどお見通しと言わんばかりではないか」
     竜の向かう先は今まさに、グラハムが思い描いた所と一致している。
    「久し振りに遠くまで飛んで疲れたであろう? ジョシュアにたっぷり食事を貰って、ゆっくり休むといい」
     とても助かった、と礼の言葉と共に労うように軽く首筋を叩いてやれば、少々、不満混じりの唸りを返されグラハムは一瞬、目を丸くするも、直ぐ様、くつくつ、と喉を鳴らした。
    「それは失礼した。飛び足りないというのなら、もう少し逢瀬を楽しもうではないか」
     それが合図であったか黒竜は学院を素通りし、そのまま街の上空を大きく旋回する。哨戒飛行中の自警隊が居ないのは幸いであった、とグラハムは声を上げて陽気に笑う。仮に出くわしたとしても、余裕で振り切る自信はあったのだが。
     ビリーが知ったら真っ青になりそうなことを平気で考えているグラハムが学院に戻ったのは、陽も傾き掛けた頃合いであった。
     少しだけ、もう少しだけ、と足を伸ばし、気がつけば街が見えなくなるほど離れた場所まで、うっかり、来てしまっていたのだ。
     だが、戻ってきたグラハムは悪びれた様子もなく、ギリギリ、と眉間に深い縦皺を刻んでいるジョシュアに向かって「彼女を私に頂けまいか?」と、夕飯のパンをひとつ分けてくれと言うのと全く同じノリで言い放ち、ジョシュアは血管がブチ切れる音を初めて聞いたと後に語った。


    「断られてしまったよ」
    「うん、当たり前だと思うな」
     はいどうぞ、とコーヒーの注がれたカップをグラハムに渡しつつ、ビリーは笑顔の中にも棘のある高度なテクニックを披露する。
    「そもそも彼の一存でどうにかなることじゃないだろう? 竜は学院の所有物なんだし。それにキミ、竜一頭がどれほどの値で取引されてるか知らないわけではないんだから、彼を困らせるようなことを言うモンじゃないよ」
    「無論、熟知している。だが、あれほど私の意を汲んでくれる者は他にはいないのだと、直感が告げたのだ。私はどうしても彼女が欲しい」
     熱っぽく語るグラハムに、はいはい、と相槌を打ち、ビリーは自分のカップに口を付ける。こうと決めたら梃子でも動かぬ相手の頑固さを知っているだけに、このまま引き下がりはしないこともわかっている。
    「あの竜はホーマー学院長とジョシュアしか乗れぬというではないか」
     こいつは痛いところを突いてきた、とビリーは困ったように笑い、諦めたように、ゆるり、と息を吐いた。
    「だったら叔父さんに交渉してみなよ。代わりの竜を用意できれば、もしかしたらってこともあるかもしれないねぇ」
    「なるほど。見事な作戦だ、カタギリ!」
     ぱんっ、と膝を打ち今すぐ飛び出そうとするグラハムを、ビリーは苦笑と共に引き止める。
    「少しは落ち着きなよ。闇雲に飛び出したところでアテなんかないだろう? それよりもまずは、キミが竜を持ち出した理由から聞かせてくれないかな?」
     視線で再度座るように促し、ビリーは長い足を組み替えた。
    「あぁ、先日言っていた『沼地の魔女』絡みだ。そちらは無事に解決したのでな、約束通り食事を奢らせて頂こう」
    「そいつはどうも。それじゃあ、詳しい話は食事をしながら、ってことでいいかい?」
     時間的にも丁度いいしね、と笑うビリーに承知したと頷き、グラハムがどこかめぼしい場所はあるかと問えば、ビリーはプトレマイオスの名を上げた。
    「随分とご無沙汰だからね」
    「すまないが、個室のある店にしてもらえないだろうか?」
     楽しみだなぁ、と目を細めるビリーに申し訳ないと思いつつ、グラハムはその意見を却下する。話す内容が内容なだけに極力、他人の耳に入らない場所が好ましいのだ。
    「……厄介なことに首を突っ込んだんじゃないだろうね?」
    「おや、私は随分と信用がないのだな」
     探るように目を細めるビリーにグラハムは大仰に嘆いて見せ、ふっ、と鼻から抜けるような笑いを洩らす。
    「安心したまえ。いくら私でも面倒事に自ら飛び込むほど、愚かではないよ。引き際は弁えている」
    「弁えている人は一回、死んだりしないと思うけど?」
     人の悪い笑みと共に片眉を上げる親友にグラハムは珍しく弱り切った顔を見せると、ふぅ、と肩を竦めた。
    「今日はえらく意地の悪いことを言うのだな」
    「ははは、そうかい? でもこれくらいじゃキミ、ちっとも堪えないだろう?」
     ここで常ならば勢いよく「心外だぞ、カタギリ!」とこれっぽっちも堪えていない様を披露してくれるのだが、今日は勝手が違った。ゆるり、と頭を振り僅かに目を伏せ、静かに言葉を紡ぐ。
    「そうでもないさ」
     おやおやこれは珍しい、と隠すことなくビリーが目を見張れば、「私とて人の子だ。こういう日もある」とグラハムはどこか困ったように笑んだ。


     ビリーはプトレマイオスの料理を堪能したいと言い、グラハムは他人に話を聞かれたくないと言う。互いの要望を実現させるために、それならばこうしよう、とグラハムから提案がなされ、ビリーはそれを承諾した。
    「なにもない部屋だね」
     ラグに腰を下ろし改めて室内を見回したビリーに、向かいに座ったグラハムは「寝られれば充分だからな」と特に頓着した様子もない。
     ふたりの間に並べられた皿を前に、まずは空腹を満たすことが優先だと言わんばかりに、黙々と料理を消費していく。
     粗方、皿が空になったところでようやっと人心地ついたか、ビリーが「それで?」と口火を切った。特別、山盛りにして貰ったマッシュポテトを頬張っていたグラハムはその言葉を受け、うむ、と小さく頷くと食べながら脳内で内容をまとめていたのか、淀みなく発端から結果までを語って聞かせた。
     普段はその行動力も相まって、良く言えば非常に力強く、悪く言えば騒々しい喋り方をする印象しかないが、落ち着いた声音で内容に合わせて言葉を選びつつ慎重に語る一面もあり、ビリーはそのどちらも好ましく思っているのだ。
    「彼女は『鳥の王』についてもう少しなにか知っていそうだったのでね、時間を見つけて再度、訪ねようと思っている」
    「そうだね。情報は多ければ多いほどいい。僕の方で調べたことと被ってるから『空の王』については確定でいいと思うよ」
     デザートのババロアを口に運びながら頷くビリーになにか言いかけるも、グラハムは僅かな逡巡の後に開いた唇を固く引き結び、なんでもない顔でマッシュポテトをスプーンで掬う。
     だが、ビリーの目はそれをしっかり捉えていた。ゆるり、と息を吐き「グラハム」と柔らかな、それでいてどこか逆らいがたい声音で名を呼べば、ばつが悪い顔でグラハムはビリーを伺うように見、なにかを振り切るように、ふるり、と頭を振った。
    「もうひとつ、話を聞いた。王は魂だけで地上にやってきては死にかけた者の身体を貰い受け、その姿で生活するのだと。そして、王に身体を明け渡した者はパライソへと導かれるのだ、と。これについてキミはどう思う?」
    「仮にそうだとしたら、今こうして僕と話しているキミはグラハムではないということになる」
    「だが、私は私だ」
    「そうだね。その話を嘘とも本当とも言い切る確証がないからなんとも言えないけど、状況によって結果が違う、という可能性もあるんじゃないかな」
     あらゆる可能性を否定しては真実は見えないよ、と笑いビリーはエクレアに手を伸ばす。甘い物を好むビリーのためにか、スメラギに任せたメニューはデザートが驚くほどに充実していた。
    「そういうことなら地方のお伽噺なんかも調べてみた方が良さそうだ。かなり脚色されていたとしても、それの元になった伝承があるはずだからね」
    「火のないところに煙は立たないということか」
    「そういうこと」
     エクレアにかぶりつき、もぐもぐ、と口を動かしながら、ぱちん、と悪戯っぽくウィンクをして見せたビリーだが、何かに気づいたか小さく、あ、と声を上げ、まじまじ、とグラハムの顔を見つめる。
    「なにかな?」
    「珍しく弱気になってたみたいだけど、これを気にしていたのかと思ってね」
     そうなのかい? と首を傾げるビリーの口端についた生クリームを指で拭いつつ、グラハムは苦笑混じりに「そうだと言ったら笑うかね?」と眉尻を下げた。
    「いや、不安になるのが当然だよ。むしろずっと平気な顔をしていたから、そっちの方が僕は気がかりだったよ」
     そうか、と神妙な面持ちで指のクリームを舐め取り、グラハムは、ふ、と微笑を浮かべる。身の裡の存在に不安を覚えているのではない。自分は本当に『グラハム・エーカー』であるのかと、ただそう思い込んでいるだけなのではないのかと、個の消失を何よりも恐れているのだ。
     だが、この恐れは間違いなく自分のものである。
    「私は確かに此処に居るのだな」
    「あぁ、僕が保証するよ」
    「頼もしい限りだ、カタギリ」
     くつり、と喉奥で笑ったグラハムにビリーも笑って見せたが、すぅ、と潮が引くようにその面から笑みは消え、残ったのは真摯な眼差しであった。
    「キミは言って聞くような人じゃないのはわかってるけど、くれぐれも無理はしないようにね」
    「わかっている」
     平素の尊大な口調ではなく、染み入るような静かな応えにビリーは、ゆうるり、と目を細めた。この話はここでひとまず終わりにしよう、と次の話題を持ち出す。
    「竜の話だけど、僕はアテもなくあんなことを言ったわけじゃないよ」
    「学院長との交渉のことか?」
    「そう。代わりの竜が用意できれば、って言っただろう? そろそろ卵狩りが解禁になるからね、それの護衛の仕事が紹介所にはわんさか来る頃合いだよ」
     ビリーが提案したかったのは、商隊でも個人でもいいから護衛の任につき、市場に出る前に直接交渉という手段だったのだが、グラハムは違う考えに至ったようであった。
    「なるほど。自分で捕りに行けば良いのだな」
     ぽん、と手を打ち「さすがだ、カタギリ」と見当違いの感心をするグラハムにビリーが「そんなこと一言も言ってないよ!」と大慌てで否定するも、残念なことに彼の耳には一切届かないらしく、なにやら一人で、ぶつぶつ、と呟いている。
    「まずはミス・スメラギに相談せねばならんな」
    「ね、ねぇグラハム、ちょっとは話聞いてよ」
     無駄とは知りつつビリーは主張をするも、やはりそれは無駄でしかなく。
    「よし! 明日、早速ホーマー学院長に交渉に行くぞ。学院長の予定は聞いているか!?」
     勢いよく立ち上がったグラハムに気圧されるように僅かに仰け反ったビリーは、反射的に「いや、なにもないよ」と答えてしまった。
    「そうか。では私はミス・スメラギの元へ行ってくる!」
     ピッ、と手を上げ一言断りを入れるとグラハムは呆然としているビリーは放置で、忙しなく部屋を出て行ったのだった。
    「切り替えが速過ぎるよ、グラハム……」
     がくり、と肩を落とし嘆息混じりに囓ったドーナツは、ほんのり塩味がしたという。

     幾重にも折り重なった枝に覆われた頭上は空を垣間見ることも出来ず、グラハムは手中のコンパスに目を落とし、ふむ、と小さく洩らす。
    「カタギリが言った通り、使い物にならんな」
     くるくる、と止まることなく針を踊らせているコンパスを懐へ戻し、グラハムは背筋を、ぴん、と伸ばすと辺りを、ぐるり、見回した。
     この地は磁場の乱れが広範囲に及んでおり、普段は立ち入りが制限されている。鬱蒼と茂った森や断崖絶壁、底なし沼に鍾乳洞、人間の干渉が一切無いここには数多の竜が生息しており、年二回、春と秋に解禁となる卵狩り時以外は厳重に閉ざされた地なのだ。
     竜の住み処が簡単に見つかるとは思っていない。長期戦は覚悟の上だ、とまずは活動拠点を確保することから始める。雨露が凌げ、飲み水とできる湧き水が近くにあれば尚いい。
     そんなグラハムの意図を察したか、彼がこの地に足を踏み入れてから行く先々で歓迎の歌を奏でていた鳥たちが口々にオススメの場所を囀るも、グラハムは軽く片手を上げることでそれを制した。
    「これは私個人のことなので、干渉、手助け、一切無用!」
     凜とした声で宣言すれば不平不満を述べることなく鳥たちは素直にその嘴を一旦閉ざし、直ぐ様、王が退屈しないようにと歌を奏で出す。
    「その気持ちはありがたく受け取ろう。だが、今は暫し、静寂を私に提供してはくれないかね?」
     苦笑を浮かべることなく従順で愛らしい眷属に真顔で述べ、グラハムは歌が止むのを待った。波が引くようにその歌は小さくなり、やがて望む静寂が訪れた。
     その場で静かに目を伏せ、些細なことも逃すまいと五感を高める。近くの梢が揺れる音から、風が運んでくる獣の咆吼、花の香りに混じって、さらさら、と流れる水の音と匂いに、よし、と目を開いたグラハムだが、頭上からの短い警告の声に片眉を上げた。
    「出てきたらどうかね? 背後から不意打ちとは、随分と卑怯ではないか」
     振り返ることなくグラハムが厳しい声を出せば茂みが、ガサ、と音を立て、低い笑いを洩らしながら男が姿を現す。
    「へぇ、こいつぁ驚いた。アンタ背中に目があるのかい?」
     口振りとは裏腹にこの状況を楽しんでいるのか、顎には髭をたくわえ伸びるに任せた不揃いな赤毛を後ろでひとつに括った男の顔には、にやにや、と見る者を不快にさせるには充分な笑みが張り付いている。
    「しっかし、アンタ随分と独り言が多いな」
     一体いつから見ていたのか、相変わらずいやらしい笑いを浮かべたまま、男はグラハムの正面に立つとなにに気づいたか、すん、と鼻を鳴らした。
    「……へぇ、おもしろい匂いがするな」
     刹那、男の瞳の奥に鋭い光が閃いたがグラハムは大して気に掛けた様子もなく、己の腕を持ち上げるとこちらも、すん、と鼻を鳴らした。
    「特になにも匂わないが」
    「そうじゃねぇよ。まぁ、いい。アンタおもしろいな」
     男の装備から推察するに、彼も卵絡みでここへやって来たようだった。
     油断無く相手を見据え、すっ、と左足を引いたグラハムに男は呵々と笑うと、敵意はないことを示そうというのか両手を胸の高さに引き上げた。
    「商人には見えないな。護衛として雇われたクチか」
    「ご名答。だが、肝心の雇い主様が商魂は逞しいが運も実力もからっきしでよ。人の忠告無視した挙げ句、到着したその日におっ死んじまいやがった」
     やってらんねぇっての、とボヤく男に冷めた一瞥を投げ、グラハムが「ならば早々に帰ればよいではないか」と口にすれば、顎髭を撫でながら男は、すぅ、と目を眇めた。
    「そうはいかねぇなぁ。こんなトコまで来て手ぶらで帰れるかっての」
    「それで追いはぎ紛いの行動かね? 呆れて物も言えん」
    「なぁに、行きがけの駄賃ってヤツよ。まぁ、そう簡単にはいかないみたいなんで、これ以上無駄なことはしねぇがな」
     くく、と喉奥で笑う男に対する警戒は解かぬまま、グラハムは探るように改めて相手を頭のてっぺんから爪先まで見やる。
    「そんなコワイ顔しなさんな。別嬪が台無しだぜ」
     からかいの言葉をひとつ投げ、男はどこか気怠げな動作でグラハムの横をすり抜けると、背を向けたまま、ひらり、と手を振った。
    「ま、せいぜい気を付けるこった」
    「言われるまでもないな」
     いつまでもここに留まっている理由はない、とグラハムも先程見当を付けた方角へと足を向ける。
     暫し無言で足を進めていたが気まずさに耐えかねたか、先に音を上げたのは赤毛の男の方であった。
    「なぁ、なんで着いてくんだよ」
    「なにを言うか。私は目的があって進んでいるのだ。たまたま貴殿が前を歩いているだけのことではないか。気になるのならば貴殿が道を変えればいい」
     尊大に言い放ち迷いのない足取りで進むグラハムに、男は呆れたように嘆息すると彼の隣に並び、ガシガシ、と後ろ頭を掻いた。
    「目的って、もしかして……」
    「うむ。この方向に水場があると私は踏んでいる」
     自信たっぷりのグラハムに軽く瞠目し、男は、あー……、と低く唸る。
    「ひとりでこんなトコに来るなんざ、余程の手練れかもしくはただの莫迦かと思ってたが、アンタは前者ってワケだ」
     しみじみ呟かれた言葉に問うようにグラハムが顔を上げれば、男は前方に軽く顎をしゃくって見せた。
    「この先に湧き水が中を流れる洞窟があんだよ。俺はそこを拠点にしてる。これまで何回か来てやっと見つけた場所だってのによぉ、なんだよあっさり見つけちまいやがって」
    「そうであったか。まさか、私に使わせないなどという、ケチ臭いことは言わないであろうな?」
     挑発するような不敵な笑みを浮かべ上目に見てくるグラハムに、男は一瞬、言葉を失ったが直ぐ様、にやり、と人の悪い笑みを浮かべ、
    「ま、仲良くやろうぜ」
     と軽くグラハムの肩を叩いた。


     親友が竜の卵を取りに行ってから一週間、ビリーは彼ならいとも簡単に卵を入手してくるだろうと思い込んでいた。だが、それはまさしく思い込みでしかなかったのだ。
    「ダメだった……?」
     これは彼なりのジョークなのだろうとビリーが笑って話の先を促せば、グラハムは、むっつり、と口を閉ざし、ふい、と顔を逸らしてしまった。
    「グラハム……?」
    「……失敗したと言った」
     かろうじて聞き取れる音量での呟きにビリーは隠すことなく目を丸くし、「一体なにがあったんだい!?」と驚きも露わに問えば、グラハムはますます顔を逸らし「言いたくない」と一言洩らす。
    「言いたくないって、そんな……」
    「言いたくないと言った!」
     余程、酷い目にあったというのか、ギリギリ、と唇を噛み締めるグラハムにそれ以上問うことが出来ず、ビリーは短く嘆息すると労うように彼の肩を、ぽん、と軽く叩いた。
    「結果はどうあれ、無事に帰ってきてくれて良かったよ」
     その言葉に、うっ、と喉を詰まらせたグラハムを、おや? と不思議そうに見やり、ビリーは首を傾げる。
    「どこか怪我でもしたのかい?」
    「そんなことはないぞカタギリ!」
     グラハムは弾かれたように立ち上がると「では私は学院長の所へ行ってくる」と取って付けたように口にし、ビリーが止める暇もなく研究室を後にした。
     廊下を修羅の如き形相で進みつつグラハムは「あの赤毛、次にあったら叩っ斬るッ!」と呪詛の如く呟いたのだった。
    「やれやれ。一体なにがあったんだか」
     明らかに追求を避けるべく退室したグラハムの後ろ姿に苦笑を洩らし、ビリーは彼が学院長である叔父にどう説明するのだろう、と考え、くつくつ、と喉奥で笑う。いつもはきりりと凛々しいグラハムだが、叔父の前では幼子のように素直な表情を垣間見せる。本人はそれに気づいていないようなので、ビリーは敢えて指摘はしないでいる。彼の数少ない安息の場を奪いたくないからだ。
    「……あれ? でも確か叔父さんは……」
     午後から来客があると言っていなかっただろうか、と朝食の席での会話を思い出し、ビリーは今更だがそれをグラハムに伝えるべきか一瞬迷うも、即座に腰を上げたのだった。
     それでも廊下を走るようなことはせず、研究棟から教育棟へと移動する道すがら見慣れた長身の背を視界に捉え、あ、と小さく声を洩らす。その隣には燃えるような赤毛を項よりやや下でひとつに括った男がおり、彼が客人なのだと容易に想像がついた。
     声をかけるべきか悩み、その場に立ち止まったビリーの逡巡が伝わったか、やや離れた場に居るにも関わらずホーマーはやや歩調を緩め、ゆっくり、と肩越しに振り向いた。
    「どうかしたか、ビリー?」
    「あ、いえ。お邪魔をしてしまってすみません」
    「なに、構わん。なにか用があるのではないのか」
     小走りに近づき隣に立つ赤毛にビリーが軽く頭を下げれば、ホーマーは頓着することはないと言わんばかりに話を促してくる。それに素直に頷きビリーが手短にグラハムのことを伝えれば、ホーマーは軽く頷いた後、「二時間後に来るよう伝えておいてくれ」と甥に言伝を頼んだのだった。
     話を長引かせることなくビリーを下がらせたホーマーに、隣の赤毛が、ヒュゥ、と軽薄さの滲む口笛をひとつ吹く。だが、それを、さらり、と受け流し、ホーマーは止めていた歩みを再び進める。
    「血縁か?」
    「甥だ」
     短い問いには答えも短い。
    「へぇ、アンタの甥にしてはアレは大しておもしろくもないな」
    「人としては十分過ぎるほど聡明だがな」
     この話はもういいだろう、と言わんばかりの素っ気なさに赤毛は軽く肩を竦め、はいはい、と了承の意を示す。それを横目に見やってから、ホーマーは前方の建物に軽く顎をしゃくった。
    「あれが竜舎だ。だが、直接会ったところでアレが首を縦に振るとは、とても思えんがね」
    「俺もそこまで期待してねぇよ。ま、ダメ元ってヤツだわな」
     そっちは本命じゃねぇし、と薄く嗤い、赤毛は懐から折り畳まれた数枚の紙を取り出した。
    「約束のモンだ。なにかあるかもしれねぇし、なにもないかもしれねぇが、それは俺の知ったこっちゃねぇ。あくまで俺が売るのは情報だけだからな」
    「わかっている」
     受け取った物を検め、ホーマーは上着の内ポケットにそれを慎重に仕舞う。
    「今更ご先祖様がやらかしたことを調べてどうしようってんだ」
    「貴殿には関係のないことだ」
     にやにや、と底意地の悪い笑みを浮かべ問いかけてくる赤毛を、ばっさり、と斬り捨て、ホーマーは厳しい表情のまま竜舎の扉をくぐった。


     ざわざわ、と活気に満ちた店内を一瞥しつつ、ニールが隣のグラハムに「しくじったんだって?」と軽い調子で問いかければ、声を掛けられた本人は軽く片眉を上げ苦く笑む。
    「キミも疵を抉るようなことを言うか」
    「はは、悪いな。でもまさかアンタが失敗するとはなぁ。意外だったんだよ」
    「私も万能ではないと言うことだ」
     カウンターに並んで寄りかかり客からの呼びかけに注意を払いながら、ニールは話を続ける。
    「でも仮にあの黒竜を手に入れたとして、世話とかどうするつもりだったんだ? あのまま学院に置いておくわけにもいかないだろ?」
    「あぁ、それなら」
     口寂しいのか喉が渇いたのか、がりがり、と氷を囓っていたグラハムは、軽く首を傾げるような仕草でニールの顔を覗き込んだ。
    「学院長のところに置いて頂けることで話は着いていた」
     さらり、と返されたその内容にニールは、は!? と反射的に素っ頓狂な声を上げるも、直ぐ様慌てて己の口を掌で塞ぐ。
    「なんだよソレ。なんつーか、すげぇ優遇されてねぇか? 一体なんなんだアンタ」
     武者修行とは名ばかりの勝手三昧に加え、先日の黒竜の学院外持ち出しが破格の扱いであることは、学院関係者でなくともわかる。
    「おや、言ってなかったかね? 私は幼少の頃、彼に引き取られたのだよ。書類上は親子ではないのでエーカー姓のままであるが、私はホーマー氏を父のように思っているし、彼も私を憎からず思ってくれている」
     大変感謝しているのだよ、と目を細めるグラハムには悪いが、ニールは、それにしたって度が過ぎている、と苦笑いを隠せない。好意を越えた何かがあるのではないかと、勘ぐってしまうのも致し方ない話だ。
    「五番テーブル、あがったぜ」
     声掛けと共に、トン、とカウンターに皿が置かれる。ラッセの言葉に一瞬早く反応したのはニールで、ひょい、と皿を手に取ると「じゃ、行ってくるわ~」と空いた手を、ひらひら、させ、客席の間をすり抜けていく。
     その背を眺めながらグラハムが、ぽつり、洩らした。
    「彼は相変わらず客に尻を触られているようだが」
    「あー、まぁ、なんだ。そんだけいい尻なんだろうよ」
     酔っ払いのおふざけさ、と笑ってラッセは厨房へと引っ込み、グラハムは、これは呪いとは関係なかったのか、とどこか感慨深い息を吐いたのだった。


     一面の蒼。
     この中を飛ぶのは普通のことだと思っていた。
     たまに降りる下界はそのたびに新たな発展を見せ、大変楽しくはあったが、それだけであった。
     地に居続けることは決してなく、空が還るべき場所であった。
     そう、還るべき場所であったのだ。
     貰い受けた身体にはもうひとつの生命が息づいていた。
     生命とは慈しみ愛するものだ。
     それを壊さぬよう、大切に大切に年月を重ねた。
     だが、空には共に連れてはいけぬのだ。
    『おもしろい匂いがするな』
     それを知った人の子は残酷な呪いをかけた。
     空には還さぬと。
    『アンタ、腹ン中に一体、ナニを隠してんだ? なぁ?』
     ――無骨な手指が探るように胸部から腹部を撫で、燃えるような赤い髪が視界を何度も掠める。
     魂を無理矢理引き剥がされ。
    『興味あんだよ』
     ――蠱惑的な笑みを形作る唇が目の前で歪み、獰猛さを剥き出しにする。
     窮屈な容れ物に押し込まれ。
     ――無理矢理に押し入ってきた熱に、喉から引き攣れた叫びが迸る。
    「私は誰の物にもならない……ッ!」
     自身の上げた叫びで、はっ、と目を見開き、グラハムは天井を凝視したまま荒い呼吸を繰り返す。
     なにかに耐えるかのように両の手は胸元を握り締めており、強張ったそれは簡単に解けそうもなかった。
     混濁した意識を明瞭にしようと横になったまま、ふるり、と緩く頭を振り、深く深く息を吐く。
     夢を見ていたのは確実だが、そこには自分以外の意識があった。
    「……記憶か?」
     身の裡で眠る王の……?
     のそり、と身を起こし、汗で張り付いた前髪を忌々しげに掻き上げる。
     恐怖したからか? あの赤毛に。
     激しい感情の波が、眠る王を僅かに揺り動かしたというのか。
    「埒が明かんな」
     俯き緩く頭を振れば、金の髪が、しゃらしゃら、と音を奏でる。先の夢を反芻するべく瞼を伏せたグラハムの耳に、コツン、と控えめなノックが届いた。
     咄嗟に窓の外にある月の位置を確認し、仕事が終わってからそれほどの時間が経っていないことを知る。
    「ニールか?」
    「あぁ。なんか叫んでたみたいだけど、大丈夫か?」
     扉越しの会話も難だ、とグラハムが入るよう促せば、困った顔のニールが顔を出す。
    「鍵かけろって。不用心だな」
    「なに、盗られて困る物はないからな」
     軽く受け答えをするも強張ったままの喉はいつもの音は出してくれず、それに気づいたニールが怪訝そうにベッドに寄ってきた。
    「すごい汗だな。どうした」
    「どうといったことはない。少々、不快な夢を見たに過ぎん」
     ぐい、とシャツの裾を引き、乱暴に顔を拭うグラハムの乱れた金糸に手を伸ばし、ニールは僅かに表情を引き締める。
    「なぁ、なにか力になれることはあるか?」
     汗で湿った髪を撫でつけてくるニールの言葉の意味が瞬時に理解できなかったか、グラハムは頭上で動く手はそのままに問うように片眉を上げる。
    「どうしてそのようなことを?」
    「ん? なんか困ってることがあるんじゃないかって思ってな。そうでなきゃ、竜を欲しがったりなんかしないだろ?」
     それに、と続いたニールの言葉を遮ることなく、グラハムは形の良い唇が動く様を、じっ、と見やる。
    「寝言をな、聞いた」
    「先の、かね?」
    「いいや。ライルの所に向かう途中の洞窟で、だ」
     淀みなく一気に言い切り、ニールは、ひた、とグラハムの瞳を見据える。
    「言葉じゃなかった。あれはまるで……鳥の囀りのようだった」
     言外に、どういうことだ、と問うてくるニールから瞳を逸らしはしないが、グラハムは、きゅっ、と唇を引き結び、握り込んだ拳を僅かに震わせた。
     彼が信用に足る人物であることは、充分すぎるほどわかっている。協力を仰げるのならば確かに心強い。だが、全てを告げた際、この秘密が彼の重荷になりはしないだろうかとの思いが胸を占める。
     更に危惧すべきは、あの赤毛の存在だ。人の姿をしていたが、どこか獣を彷彿とさせる男の嗤いが脳裏を過ぎる。
    「キミには関係のないことだ」
     ややあって開かれたグラハムの口から静かに発せられたのは、斬り捨てるような容赦のない一言であった。それを耳にした瞬間の哀しげに歪んだニールの瞳を前に、グラハムは内心で舌打ちをひとつ零す。
     言葉を違えたとは思わぬが配慮に欠けていたと即座に反省し、ゆるり、と小さく頭を振った。
    「気を悪くしないで欲しい。これは私個人の問題で、キミの手を煩わせるには心苦しいのだよ」
     それに、ともすればその身を危険に晒すことになるやもしれぬ、とはさすがに言えず、グラハムは大真面目に、すまない、と頭を下げた。
    「おまえなぁ……」
     嘆息混じりのニールの声に、そっ、と面を上げれば、声音に相応しい表情でニールが見下ろしてくる。
    「俺の呪いのことは根掘り葉掘り聞いておいて、自分のことはだんまりって、ムシが良すぎると思わないか?」
     ん? と首を傾げるようにグラハムの顔を覗き込み、ニールは不満を示すかのようにわざとらしく眉を吊り上げて見せる。
    「そう言われては反論のしようもないが……」
     まさかここであの時のことを持ち出されるとは思ってもいなかったか、珍しく弱り切った顔でグラハムが口籠もる。
    「あのな、グラハム。俺はあの時、損得でおまえを助けたワケじゃないぞ。自分で言うのもアレだが、今だってそうだ」
     みなまで言わせるな、これでわかれよ、とぶっきらぼうに言い放ち、ニールは両の手で、ぐしゃぐしゃ、とグラハムの髪を掻き混ぜる。
    「まぁ、言いたくないってんなら仕方ねぇよな。でも、なにかあったら言えよ。手ぇ貸すぜ」
     食い下がることはせずウィンクひとつで、あっさり、と身を引いたニールを、グラハムは奇異な物を見るかのように目を見張る。
    「私はキミのお人好しぶりに感謝するべきなのか、呆れるべきなのか」
    「おいおい、ソレ本人に言うかぁ?」
     苦笑と共に掻き乱した髪を同じ手で整えるニールに、グラハムは、ふ、と笑みを洩らすと静かに瞼を伏せた。
    「私は鳥と言葉を交わすことが出来る。だが、理由は聞かないで欲しい。そしてできることなら忘れて欲しい」
     全てを隠したままで居るのは心苦しい。だが、今言えるのはこれだけなのだ、と僅かに項垂れたグラハムの髪を梳きながら、ニールは小さく「了解」と答えた。

    (後編に続く)
    茶田智吉 Link Message Mute
    2018/09/16 7:30:29

    【00】鳥の王(前編)

    #グラハム・エーカー #ニール・ディランディ #アリー・アル・サーシェス #ライル・ディランディ #ビリー・カタギリ #アリハム #腐向け ##OO ##同人誌再録
    ファンタジー風パラレル。
    同人誌再録。
    (約6万字)

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