【00】刹那と魔法のランプ とん、と目の前に置かれたものを暫し、じっ、と見た後、ニールは「で?」と向かいに座る青年に、少々引きつった顔で問うように首を傾げて見せた。
「俺は、醤油を買ってきてくれ、と言ったつもりなんだが?」
「醤油もある」
とん、と先に置かれた物の横に1リットルのボトルを並べ、これでいいか、と言わんばかりに真っ直ぐ見つめてくる刹那にニールは諦めたような息を吐き、額を掌で覆うように、くしゃり、と前髪に指を絡める。
「どうしたんだ、これ」
「もらった」
「誰に」
「ポニテで眼鏡だった」
「知らない人から物を貰っちゃいけませんていつも言ってるでしょーッ!?」
すっかり口調が母親のソレだが、残念ながらツッコミスキルは刹那にはない。
「取説ももらったから大丈夫だ」
「そういう問題じゃない! 大体、ソレに取説っておかしいだろ!?」
ソレ、とは冒頭で刹那が真っ先にテーブルに置いた物で、一口にわかりやすく言うならば『三つの願いを叶えてくれる魔神が出てきそうなランプ』である。
「……『擦る際は必ず、きっかりかっちり三回。それ以上でもそれ以下でも、らめぇぇぇ』……と書いてある」
「らめぇぇぇ……はねぇだろ」
真顔で淡々と読み上げる刹那にどこからどう突っ込んでいいか分からず、ニールは思わず目頭を押さえる。そんな彼に意識を向けることなく刹那は、おもむろに、きゅきゅきゅ、とランプを擦った。
普通ならここで、ぼわん、と煙が上がり、魔神が高笑いと共に現れるシーンなのだが、ランプはうんともすんとも言わない。
「……なにも出てこないな」
そう言って、かぽり、とフタを持ち上げ、中を覗き込んだ刹那の片眉が、ぴくり、と僅かに上がった。何事かと身を乗り出しニールも中を覗いてみれば、人らしきモノが横たわって居るのが見えた。
「人形……?」
いやまさか、と自分の呟きをニールが否定している間に、遠慮のえの字もない勢いで刹那がソレを引っ張り出した。恐い物知らずにも程がある、とニールが、ぎゃー、と悲鳴を上げかけたその瞬間、ぼわん、と盛大に煙が上がり、一瞬にして二人の視界を覆い尽くした。
「なっなんだぁ!?」
慌てるニール同様、声には出さぬが刹那も充分に驚いており、その上、不意に膝上に、どすん、となにかが落ちてきたのだから、驚きは二倍だ。
徐々に煙は晴れ、ぼんやり、とお互いのシルエットが視認出来るようになり、ニールは「大丈夫か?」と刹那に声を掛けたのだが、返ってきたのは聞いたことのない男の声であった。
「うむ、大事ない」
「って! アンタ誰!? つか、ナニしてんだ!?」
すっかり煙の晴れたその先で展開していた光景に、ニールは反射的にツッコミを入れる。
なにがどうなってそうなったのか、刹那の膝に見知らぬ仮面の男が横向きに鎮座しており、条件反射か刹那の手はその男の背に添えられ、一見しただけではいちゃつくただのバカップル状態だ。
「誰も使ってくれないので、すっかり寝入ってしまった。私を起こしてくれたのはキミか。礼を言うぞ」
「取説どおり三回擦ったんだから、ちゃんと出てこい」
「や、それはすまなかった」
「いや、あの、普通に会話しないでくれる? ねぇ?」
この状況を何とも思っていないのか、平然と怪しさ全開の男と言葉を交わしている刹那にニールが弱々しくツッコミを入れるも、哀しいかな超マイペースな青年には暖簾に腕押しであった。
「自己紹介がまだであったな。私の名はグラハム・エーカー! 敢えて言わせて貰おう、ランプの精であると!!」
「なんでランプの精が仮面に陣羽織なんだよ!」
ニールが再三ツッコむも糠に釘だ。
「三回、願い事を叶えてくれるのか?」
「いいや、それは違うぞ。回数ではなく満足度が重要なのだよ」
刹那の問いによくわからない言葉を返し、自称ランプの精は懐を、ごそごそ、と漁ると、掌サイズの円錐形の物を取り出した。
「願いを叶える度に満足度によって差はあるがこれにエネルギーが溜まっていき、満タンになったその時……」
得意満面で語っていた男の口が中途半端なところで止まる。話の溜めか? とも思ったがそうでもないらしい。
む、と難しい顔で上方に目を向けていたランプの精だが、こつこつ、とこめかみを指先で叩き「忘れてしまった」と、あっさり、口にした。
「まぁ、いい。溜まればわかることだ!」
「それでいいのかよ!?」
無駄に自信満々に言い放ったランプの精に、ニールの裏拳が炸裂したのだった。
結果的に名前しかわからなかったランプの精は、一方的にマッシュポテトをてんこ盛り作り上げ、もりもり、喰らった挙げ句、さっさとランプへと引き上げて行った。
わざわざ仮面を付け替えマッシュポテトを頬張りながらの「なにか願い事を考えておくがいい」とのグラハムの言葉に、刹那は大真面目な顔で考え出してしまい、「捨ててこい」と言うタイミングを逃し、ニールは脇からマッシュポテトに手を出しつつ頭を抱えるも後の祭りだ。
キッチンを荒らすだけ荒らして戻っていったグラハムに、恨み節を漏らしながら片付けをするニールの向かいでは、刹那がランプの取説に目を通している。
「『呼ぶときはノックを三回。それ以上でもそれ以下でも以下略』」
「なんだソレ? 擦れば出てくるんだから、それでいいんじゃねぇの?」
逐一、音読する刹那に律儀に反応したニールが首を傾げれば、彼は続けて注釈部分に目を通す。対面式のキッチンは会話が容易でいいと、ニールは密かに思っている。
「わざわざ出てきて欲しくないときに使うらしい。ノックすればフタから顔を出すだけで済むそうだ」
「なんというか、アレの性質をよく分かってる取説だと思うよ。うん」
ははは、と乾いた笑いを浮かべつつ、ガチャガチャ、と食器を洗いながらニールは、こっそり廃品回収に出しちまおうかなアレ、などと物騒なことが脳裏を一瞬過ぎったが、どことなく嬉しそうな刹那の姿に、その選択肢は無かったことにしたのだった。
「……決まった」
取説を読んでいた刹那がおもむろに顔を上げ、傍らのランプを、こここん、とノックすれば、かぽん、とフタが内側から持ち上がり、小さな頭が、ひょこり、と姿を見せる。
「何用かな?」
「願いが決まった。限定生産だった『エクシア別カラーバージョン』が欲しい」
「ガンプラかよ!」
ニールは洗い物の手は止めずツッコミも欠かさない。頼もしい兄貴だ。
「ダメか?」
「少年……」
「いや、刹那もう二十歳ですから」
ランプの淵に片腕を掛け外界を望んでいるミニサイズのランプの精は、こつこつ、とこめかみを指先で叩いた後、ゆっくり、と口を開いた。
「コレクターたるもの、自力で手に入れなければ意味が無かろう」
「確かにそうだ」
「え!? ちょっと納得しちゃうの!? つか、グラハムの存在意義が根底から揺らいでんですけど!?」
「だが、わたしとて人の子。その願い邪険にはせんよ」
「いや、アンタ人じゃねぇだろ」
いちいち尤もなニールのツッコミまでが会話の1セットになりつつあるが、幸か不幸か本人は気がついていない。
「じゃあ……」
「おっと、急いては事をし損じる、と昔から言うではないか。がっついてはいけない。いけないなぁ少年」
期待に顔を輝やかせた刹那にグラハムは魅力的な笑みで答え、ニールの「いや、だから……」というお約束と化したツッコミはやはりスルーだ。
「だが、キミを落胆させることはないと約束しよう!」
ランプの精の自信満々な宣言を、刹那とニールが聞いてから約一時間後。
「ただいまー。刹那ー、お土産あるよー」
にこにこ、と朗らかに色気も素っ気もない無地の紙袋を掲げ、帰宅したのはアレルヤだ。
「土産……?」
「うん、帰り道でフリーマーケットやっててさ。寄る気はなかったんだけどなんとなく回ってみたら、ほら、前に抽選外れてがっかりしてたことあったじゃない」
そう言いながら紙袋から引き出されたのは……
「……エクシア」
ぱぁっ、と表情の明るくなった刹那にアレルヤが、ほっ、としたように目を細める。
「よかった。合ってた。違ってたらどうしようかと思ったよ」
なんでかそれが輝いて見えたんだよねー、と笑うアレルヤを横目にニールがグラハムを見やれば、仮面越しに見えるその目は満足そうに笑っていた。
「満足度とやらはどうよ?」
「うん? あぁ……」
問われたグラハムは何かを探るように目を閉じ、「なかなかのものだ」と大きく頷いた。
「さっきのタケノコみたいなのに溜まってくのは見えないのかよ?」
「あぁ、目では見えないのだよ。なんとなーくこれくらい? といった見当はつくがね」
ふぅん、とわかったようなわかっていないような曖昧な返事をし、ニールはアレルヤに向かって軽く手を上げた。
「アレルヤ、驚かないで聞いてくれ。刹那が魔法のランプを貰ってきた」
「へぇ、それは凄いね。あ、それかい?」
本当に驚かないアレルヤに喜ぶべきか、ちょっとは驚けと理不尽なことを言うべきか、ううーむ、と唸るニールの前で、アレルヤは、ひょい、とランプを目の高さに持ち上げると、ぺこり、と頭を下げた。
「初めまして、アレルヤって言います」
「私はグラハム・エーカー。初めましてだなぁ!」
「黒いランプだなんて珍しい。材質はなにかな?」
止める間もなく確かめるように、すっすっ、と指先で撫でさすったアレルヤの鼻先で、ぼふん、と盛大に煙が発生する。
「うわ……ッ」と上がったアレルヤの声に、ニールは、あーあ、と額を押さえるしかない。そして、薄れてきた煙の向こうの光景に、更に額を押さえる。
「なんでアンタは出てくる度に横抱きされてんだよ」
「不可抗力だ」
堂々と言い切ったグラハムに最早ツッコむのはナンセンスと悟ったか、ニールは黙って煙が完全に消えるのを待つ。クリアな視界の先にいたのは、しっかり、とアレルヤの腕に抱えられた、青い制帽に青い制服、白いスラックスの金髪青年だった。
「あのー、つかぬことをお聞きしますが、なんで恰好が違うんですか? ついでになんか若くね?」
「あれは三十代専用装束だ。ちなみにこれは二十代専用だ」
「そんな当たり前の顔で言われたってわけわかんねーよッ!」
残念なことに相手がシステムキッチンの向こうでは、ニールの裏拳は届かない。だが、彼のツッコミに合わせて刹那が、ぱむ、とグラハムの腕に裏拳を入れたのだった。
素晴らしい連係プレーでグラハムへのツッコミを終えたニールと刹那を順番に見やり、最後に抱えているグラハムへ向けてアレルヤは、こてん、と首を傾げて見せた。
「そろそろ下ろしていいかな?」
「うむ、問題ない」
室内であることを考慮してかグラハムの足に靴はない。妙なところで律儀だな、と白い爪先を目で追い感心しているニールの目の前で、アレルヤが壁の時計を見上げた後、いそいそ、と食卓に着いた。続けて刹那も椅子を引き、グラハムも当然といった顔でそれに従った。
「おやつの時間だね」
にこ、と邪気のない笑みを浮かべるアレルヤに、刹那が同意の頷きを返す。
「そうか。一体、なにが食せるんだね?」
「アンタも食べる気満々ですか」
今にもテーブルを叩いて催促しそうな程に目を輝かせているグラハムに、げんなり、といった顔でニールが突っ込む。
「残念ながら人数分しかない。先に言っておくが、アンタは頭数に入ってないからな」
「なんと!?」
「それは可哀想だよ」
みるみるしょぼくれてしまったグラハムに犬耳でも見えたか、アレルヤが慰めるようにグラハムの肩に触れてから、こちらも負けじと子犬のような目でニールを見る。
「そんな目で見たってないものはない。ならお前の分をソイツにやるか? ん?」
「……どんまい」
ぽん、とグラハムの肩を一叩きし、アレルヤは、あっさり、とグラハムを見捨てた。
「切り替え早いな、オイ」
ケトルを火に掛けながら、はは、と微かに引きつった笑いを漏らし、ニールは「刹那」とだんまりを決め込んでいる最年少の名を呼ぶ。
「お前が持ってきたんだから、お前がちゃと面倒見ろ」
「……わかった。半分こしよう」
「いや、それには及ばんよ、少年」
「だから、二十歳だっての」
最早、条件反射と化したツッコミを漏らすニールを余所に、刹那とグラハムの会話は進んでいく。
「半分が不満なら、俺とアレルヤで三分の一ずつ分ければいい。そうすれば半分以上、食べられる」
「え? 僕も入ってるの?」
本人の了承無しに済し崩しに強制参加のアレルヤの問いは、人の話を聞かないことに定評のある二人から華麗にスルーされた。
だが、グラハムは、ゆるゆる、と首を振ると、
「いいのだよ。主人の楽しみを奪うなどランプの精失格だ。私は戻るから、皆はティータイムを堪能するといい」
しからば、と一声残し、刹那が止める間もなくグラハムは、ひゅるるすぽん、とランプへ戻ってしまった。
それまでの感動するほどの空気の読まなさはどこにいったのか。妙にしおらしい彼に度肝を抜かれたか、誰も言葉が出てこない。
「……ちょっと冷たく当たりすぎた、か」
基本的に人の好いニールが真っ先に己の行動を反省すれば、アレルヤも「三分の一くらいでガタガタ言うなんて、僕はなんて器量の小さい人間なんだ」と嘆き出す。刹那は黙ってランプを引き寄せ、こんこん、と小さく呼ぶも返答はない。
「なんですか、この辛気くさい空気は」
恒例のおやつタイムだから、と二階から降りてきたティエリアが、キッチンに漂う沈んだ空気に眉を顰める。
「刹那はともかく、ニールまでどうしたんですか」
「あ、あー、いや。なんでもない」
ここで一からグラハムのことを説明するとなると、恐ろしく時間が掛かると判断し、ニールはティエリアの問いを、さらり、と受け流す。頭を抱えてまだ嘆き続けているアレルヤは『触るな危険』と判断したか、ティエリアはその存在を華麗にスルーした。
いつもならば既にテーブル上にお茶の準備が整っているというのに、今日は全くなっていない。その事実に再度眉を寄せつつ、ティエリアは刹那の手から、ぱっ、とランプを奪い取ると、迷いのない足取りで、スタスタ、とキッチン内へ回り、通り際に紅茶の葉の入った缶を手にするとニールの隣に並んだ。
「ちょっ、ティエリア! ソレ違……」
ランプのフタを、かぱり、と開け、茶葉を放り込んだティエリアを、ニールが止めようとするも時既に遅し。
無駄のない流れるような動きで、ケトルからランプへ勢いよく湯が注がれた。
「うわぁぁぁ! ストップ、ストップーッ!!」
先程、刹那が二回ノックしていた事を思い出し、ニールは中身を流そうと布巾片手にランプを引っ掴み慌ててシンクへと向かう。
だが、ランプ側面に布巾を添える際、うっかり、するり、と一撫でしてしまい、「あ」と思った時にはランプの口から煙が発生していた。
シンクに向けて伸ばしたニールの腕に、ずし、と重さが加わる。ここで落としてはきっと大変なことになると本能が告げたか、ニールは右足を軸に根性で身体の向きを変えると転倒しないように踏ん張った。
「……っついではないか! なにをするか痴れ者が!! 私がランプの精でなかったら死んでいたぞ!?」
途端に上がった怒声に耳を塞ごうにも、ニールの両腕はその喚くランプの精で塞がっている。
「悪かった、悪かったって」
腕の中で揺れる金髪に詫びつつ、煙が晴れるのを待っていたニールは、違和感に首を傾げる。
「なんか、声違わないか? ついでになんか小さく……」
目を凝らし、まじまじ、と見下ろしてる間に煙は消え、目の前の事実に思考が停止する。
状況からして現れたのはグラハムに間違いないのだが、その容姿は記憶にあるものと大きく異なっていた。
仮面に陣羽織ではなく、青い制服でもない。白のセーラーカラーのシャツに七分丈ズボンは、強いて言うなら水兵といったところか。
それも年齢的には見習いだ。
「……なんで?」
抱えた紅茶濡れの少年に向かってニールはやっとの事で口を開くも、出てきた言葉は間が抜けているとしか言いようがなかった。
「一回しか擦っていないからに決まっているだろう」
「いや、だからそんな当たり前の顔で言われてもわけわかんねぇって」
「そんなことよりも、お風呂お風呂!」
とにかく話は後だ、とアレルヤに急き立てられニールはグラハムを抱えたまま、ばたばた、とキッチンを出て行く。刹那はシンクに転がったランプをきれいに洗い、ティエリアは状況が飲み込めず、ケトル片手に呆然と立ち尽くすしかなかった。
でん、と三人掛けのソファのど真ん中に陣取ったティエリアが、テーブルを挟んだ向かいに座る三人と、その後ろに立つニールを順に半眼で見やり、「説明してもらおうか」とドスのきいた声を発した。
「刹那がお使いの帰りに魔法のランプを貰ってきて」
「これがそうだ」
「で、彼がランプの精」
ニールの言葉を受けた刹那がランプを胸の高さに掲げ、アレルヤが真ん中に座るグラハムを指し示す。ちなみに座り順はグラハムの右側に刹那、左側にアレルヤ、ニールはあぶれてしまったのでグラハムの後ろに立っている。
ここで常ならばグラハムが声高に自己紹介を始めるのだが、さすがに熱湯をぶっかけられた直後ではそのような気分にはならないらしく、ティエリアに負けず劣らず険しい顔をしている。ただ、見てくれが少年であるが故に、むくれているようにしか見えないのだが。
「そんな与太話を信じろと? 魔法のランプ? ランプの精? そんな物ありえない」
「失敬な」
これが世間一般的な反応なのだが、存在を全否定されてはグラハムも黙っては居ない。
「この世にありえないことなどないのだよ」
「そうだぞ、ティエリア。おまえだってこいつがランプから出てきたの、見ただろ?」
わしゃわしゃ、とまだ湿っているグラハムの頭髪をタオルで掻き回しながらのニールの問いかけに、ティエリアは神経質そうに片眉を、ぴくり、と跳ね上げる。
「僕が見たのは煙だけです。彼が出てくるところを見たワケじゃない」
「そうきたか……」
なにもティエリアと言い争いがしたいわけではないのでニールが仲介に入るも、どうにもソレが更に気に入らなかったか、ティエリアは頑なな態度を崩そうとしない。
「どうすれば信じてくれるのさ」
ニールの言葉をはね除けたティエリアに他の者の言葉が届くとは思えなかったが、アレルヤが果敢にアタックを掛ければ、意外にもティエリアはなにか思案するように細い指を顎に当てた。
「そうだな……アレルヤ・ハプティズムとハレルヤ・ハプティズムを分離させることが出来たら、信じてもいい」
「ちょっ、まっ、ええええッ!? なんでそこでハレルヤ!?」
「実体のない貴様のもう一つの人格を分離など、現代科学、及び、医療技術では不可能だからだ」
いきなり身体を張れと言われたに等しいアレルヤが悲鳴を上げるも、出来るわけがないと決めてかかっているティエリアは涼しい顔で、しれっ、と言い返す。
だがしかし。
「なんだ、そんなことでいいのか」
どこか拍子抜けした声を上げたのはグラハムだ。
なんですと!? と言わんばかりにティエリアが驚愕に見開かれた眼を金髪の少年に向けた瞬間、
「グラハム・スペシャルッ!」
それはそれは見事な左ストレートがアレルヤの右頬に炸裂した。
「ごはっ!」
「ぐぁっ!」
叫びが重なったと思うや否や、もんどり打ち、どすん、と鈍い音を立て床に転がったのは、全裸のアレルヤ……もとい、ハレルヤであった。
「……ってーな! このガキなにしやがるッ!!」
「落ち着け、落ち着けって!」
直ぐ様、がばり、と身を起こし、グラハムの胸座を掴み上げようとするハレルヤを、身を乗り出したニールがなんとか間に入り阻止する。
「ひっ酷いよ、いきなりだなんて」
「あっアレルヤ、ほら、ちっさいグラハムで良かったと考えるんだ!」
右頬を押さえて、すんすん、と泣きながら己の膝に突っ伏すアレルヤに、ハレルヤを押し止めつつニールが苦しいフォローを入れ、刹那が小さく「どんまい」と慰めの言葉をかける。そして、続けて隣のグラハムに「おまえも悪い」と静かに苦言を呈する。
「ハレルヤが怒るのも無理はない。パンツくらいサービスしてやれ」
「そうじゃねぇよ! 莫迦刹那!!」
ちょっと期待した俺が莫迦だったぜ、と一言漏らし、一気に全てがどうでもよくなったかハレルヤは諦めたように肩を竦めると、実は気にしていたのかグラハムの被っていたバスタオルを手荒く毟り取って腰に巻き、黙ってリビングルームを出て行った。
耳をそばだてて足音を追えば目的地はアレルヤの部屋のようで、服を取りに行ったのだな、と判断したか誰もその後を追うことはしなかった。
「これで信じてもらえたかね?」
目の前で巻き起こったことは手品でもなんでもない。確かに、アレルヤからハレルヤが分離し、実体を持ったのだ。
「信じがたいが認めないわけにはいかないな」
渋々ではあったが頷いて見せたティエリアに溜飲が下がったか、グラハムは調子を取り戻すと自信に溢れた笑みを浮かべた。
「では改めて自己紹介させていただこう! 私の名はグラハム・エーカー。敢えて言わせて貰おう、ランプの精であると!!」
「それはそれとして、だ」
声高に名乗ったグラハムの後頭部に、ごちん、と拳骨をひとつお見舞いし、ニールが渋い声を出す。
「ふっ不意打ちとは卑怯な!」
「我が家のエンゲル係数をこれ以上上げるな、莫迦たれが!」
くわっ! と般若の如き形相で迫るニールに、その場の全員が凍り付く。
この家で一番怒らせてはいけないのがニールであると、グラハムはこの時、骨の髄まで叩き込まれたのだった。
◇ ◇ ◇
食卓に、でん、と鎮座しているもりもり山盛りてんこ盛りの白い物体を前に、ティエリアは隠すことなく口端を歪める。
「なにを阿呆のように突っ立っているか。早く座ったらどうかね」
独特のどうにも偉そうな口調に険しい顔を向ければ、仮面に陣羽織、その上エプロン装着という奇妙奇天烈極まりない不審者が居た。
たまらず、ぶふーっ! と噴出するティエリアに「失敬な」と言わんばかりの視線を一瞬向けるも、グラハムは手中の盆から湯飲みを、ことこと、と卓へ置き、再度「座りたまえ」とティエリアを促した。
刹那がランプをこの家に持ち込んでから一週間は経っているのだが、食事やティータイム以外、滅多に部屋から出てこないティエリアはグラハム遭遇率が低く、当然のことながら仮面に対しても免疫がなかった。
気を取り直して席に着くも目の前の白い山に、ぎりぎり、と眉根が寄る。
何度改めて食卓を見ようが卓上にある食物は、大皿に盛られたそれひとつきり。
「まさかとは思うが、これが夕飯だというのか?」
「そうだ」
「おいしいよ」
黙々とスプーンを動かしていた刹那が即答し、アレルヤもなんら疑問や不満はないのか笑顔で答える。その隣のハレルヤは不満を言うでもなく取り分けた皿に向かっているが、表情を見る限りこの状況を好ましく思っているわけではなさそうだ。
「うむ、今日のは会心の出来なのだ」
褒められ気を良くしたかグラハムが心持ち胸を張る。その様が最後の一押しであったか、ティエリアは堪えきれずに、ばぁーん! とテーブルを両の掌で叩くと同時に勢いよく立ち上がった。
「マッシュポテトオンリーだと!? 添え物ではなくマッシュポテトが主食だと言うのか!? 貴様、一体どういうつもりだ!?」
万死! と吼えるティエリアにグラハムは真顔で首を傾げ、「貴殿はマッシュポテトはお嫌いかね?」と、彼からすれば大真面目な、だが、ティエリアからすれば論点のずれたトンチンカンなことを口にする。
「そういうことを言っているのではない! 何故マッシュポテトしかないのかと聞いているのだ!!」
「私が大好きだからだ」
好きではなく大好きと言い切ったこれ以上はない明確な返答にティエリアは眩暈を覚え、あぁ、と嘆くように一言漏らすと、先程立ち上がった勢いで倒してしまった椅子を静かに戻し、へたり、と座り込んだ。
「こんなことが許されていいのか……あぁ、ニール……貴方の作るバランスの摂れた食事は素晴らしいと、今改めて痛感した」
「仕方ないよ。寝込んでるんだもの」
「そんなに不満なら、アンタが作りゃいいんじゃねぇの?」
アレルヤのどこか諭すような声に続き、ハレルヤのどこかおちょくっているような声がティエリアに向けられる。ハレルヤがこの食事に不満を言わないのは、今、彼自身が口にしたことを他者に言われたくないからだ。
あまりのティエリアの嘆きっぷりにグラハムは戸惑いが生じたか、そっ、と刹那に顔を寄せ静かに問いかける。
「ニールに『腹に溜まりそうな物ならなんでもいい、とにかく作ってくれ』とお願いされたのだが、なにかマズかっただろうか?」
「いや、問題ない」
食事に関する基礎知識の欠落したランプの精にアバウトなお願いをしたニールと、そのランプの精の好物がマッシュポテトであったことが、今回の敗因だ。
「いや、まぁ、実際は大アリなんだけどね。ハレルヤ」
「うるせぇ、黙って食え」
目の前の会話が聞こえたアレルヤが苦笑しつつ片割れに話を振るも、面倒は御免だとハレルヤは取り合おうとしない。
「大体、貴様もランプの精だというのなら、魔法でフルコースの一つでも出して見せたらどうなのだ!」
項垂れていたティエリアがおもむろに、がーっ! と反撃を始めるも、グラハムはにべもなく「それは無理だ」と無駄に胸を張って言い切る。
「あくまで私は、『私を呼び出した者のお願い』を聞くことしか出来んのだよ」
勘違いされては困る、と肩を竦めるランプの精に、刹那を除く全員が「そうだったのか」と言わんばかりの顔でグラハムを見つめる。
「てっきり、誰のお願いでも聞くんだとばかり思ってたよ」
「へぇ、じゃあ、呼び出したヤツに『死ね』って言われたら、あっさり、死ぬのかよ」
「それはない」
ハレルヤの物騒な例えにグラハムは即座に否定の言葉を被せ、「そこらは取説に書いてあるはずだが?」と首を傾げる。
「知らねーよ、ンなモン」
初耳だぜ、と口にしたハレルヤに刹那は動かしていたスプーンを止め、「確かに書いてあった」と頷いて見せた。
「てめぇだけ知っててどうすんだよ、ばーか」
「ハレルヤ! 刹那、よかったら後で見せてよ」
「承知した」
会話に加わるタイミングを逃したティエリアだが、はっ、となにかに気づいたか、がたり、と再び椅子を鳴らす。
「まさか、ニールの食事もマッシュポテトなのではあるまいな!?」
「大丈夫だ」
コレまでの流れを見れば尤もな発言であるが、刹那の一言が、あっさり、とティエリアの杞憂を否定した。
「雑炊を作るように俺が『お願い』したから、大丈夫だ」
「味見させて貰ったけどおいしかったよ」
「うむ、ニールにも褒められたのだよ」
お花でも咲いているのかと疑いたくなるほどの和み空気に、ティエリアのこめかみが限界を迎えた。
「きっ、キミ達は揃いも揃って莫迦なのかッ! そこまで気が回るのに、どうしてマッシュポテトオンリーの夕飯を回避しようとしないッ!?」
「なにを今更」
冷静なツッコミを入れ、ハレルヤは呆れたように肩を竦めた。
◇ ◇ ◇
「というわけで、ポニテ眼鏡だ」
「なにが、というわけで、かはわからないけど初めまして。ポニテ眼鏡じゃなくて、ビリー・カタギリです」
刹那の横で、ぺこり、と軽く頭を下げたビリーに、「これはどうもご丁寧に」とアレルヤが向かいで同じように頭を下げる。
「まぁ、お茶どうぞ」
全員分のカップをテーブルに置いたニールがソファに腰を下ろしたところで、刹那が例の取説を手にした。
「では早速だが……」
「ちょっと待ちたまえ、刹那・F・セイエイ。このポニテ眼鏡は何者だ?」
「いや、だからポニテ眼鏡じゃなくて……」
「俺にランプをくれたポニテ眼鏡だ。取説の最後に連絡先があったので呼んだ」
本題に入ろうとした刹那をティエリアの厳しい声が止め、ビリーが控えめに自己主張するもそれは完全にスルーされた。
「質問に答えてくれる者が必要だろう?」
「あー……確かにグラハムじゃ話にならなかったしな」
ビリーを召還する前に果敢にもニールはグラハムと膝を突き合わせて、あれやこれや、尋ねてみたのだが、結果は惨敗であった。とにかく人の話を聞かない上に、斜め上の回答ばかり寄越すのものだから、さすがのニールも白旗を揚げざるを得なかったのだ。
その時のやり取りを思い出したか、げんなり、してしまったニールにビリーは「それは大変だったね」と労いの言葉を掛ける。
「では、質問に答えてもらおうか」
何故か居丈高なティエリアの言葉を皮切りに、訥々と刹那の質問が始まった。
「どうして擦るのは三回となっているんだ? 一回でも二回でもちゃんと出てきたが」
「言動はナニでアレだけど、彼、見た目だけはいいだろう? それで過去に何度も厄介なことになってるから、僕なりの防御策ってとこかな。まぁ、グラハム自身、あの仮面姿を気に入ってるんだけどね」
謎めいていてよかろう、と無駄に胸を張る姿が容易に想像でき、一同、ぬるい笑みを浮かべる。
「ちなみに出てくる姿は、一回擦ったら十代、二回で二十代、三回で三十代って設定になってる」
「じゃあ、四回擦ったら四十代で出てくるのかい?」
順当に行けばそうなのだろうが、アレルヤの問いにビリーは首を横に振った。
「いいや。一巡して十代が出てくるよ。そこまでバリエーションはないんだ」
「バリエーションって問題かよ」
ビシィッ、と鋭い裏拳をいれつつのニールのツッコミにも動じず、「そういう仕様だから」とビリーは笑って軽く流してしまう。
「では次だ。生死に関わることには介入できない、とあるが、この辺りをもっと詳しく聞きたい」
「悪意のある願いは聞けないことになってるんだよ。たとえば殺人依頼とか、自殺幇助とか。『あいつ気に食わないから殴ってこい』とか、とにかく人間社会で犯罪とされることは出来ないよ。マスターがランプの精に『死ね』と命じるのも無効だね」
「次。三回に一度はマッシュポテトを与えること、というのは」
「やっぱり、たまにはご褒美をあげないと可哀想じゃない」
「アイツ勝手に自分で作ってかっ喰らってるんだが」
それも山盛り、とジャガイモ好きなニールですら、げんなり、する量をこしらえる為、この家は常にジャガイモ不足だ。
「それは、グーで殴ってよし」
ぐっ、と拳を固めて恐ろしいことを笑顔で言い切ったビリーだが、その眼がこれっぽっちも笑っていないことに気づいたアレルヤが、ヒッ、と喉奥で小さく悲鳴を上げる。
「次。願い事をする際はこれはお願い事であると必ず宣言すること、とは」
「基本的には生真面目だからね、何気なく口にした事も全て聞いてしまって、面倒なことになるんだよ。融通が利かないというかなんというか。そんなだから、これまで三日と保たずに返品されてしまってね。いやぁ、キミ達は凄いなぁ」
ははは、と笑うビリーに全員、視線を交わし合い、どことなく居心地が悪そうに、そっ、と目を逸らす。実のところ、数量限定の特売品を買う頭数にしたり、忘れ物を届けさせたり、新聞の勧誘を断らせたりと、誰一人として、これといった実のある願い事をグラハムに言っていないのだ。
微妙な空気になってしまったが何食わぬ顔で刹那は「次」と口を開いた。
「あの円錐にエネルギーが溜まるとどうなるんだ」
「あれ? なんでそのこと知ってるんだい? 取説には書いてないよね」
「グラハムが意気揚々と途中まで説明してくれたが、どうなるのかは忘れてしまったと言っていた」
僅かに表情の険しくなったビリーだが、続けられた刹那の言葉になんとも言い難い複雑な笑みを浮かべ、「ちょっと寝かせすぎたか」と漏らした。
「彼も楽しみにしてたハズなんだけどねぇ。まぁいいか。あれが完成したらランプのカスタマイズが可能になるんだよ。いくつかタイプがあってね。彼が所望してるのは上位機種だから、ちょっとやそっとじゃエネルギー満タンにはならないんだけど」
リアルドならすぐなんだけどねぇ、とよくわからない単語を口にしたビリーに問うように刹那が首を傾げるもそれに対する答えはなく、ティエリアが明確に問おうと口を開きかけたその時、ビリーの胸辺りから軽快な音楽が流れ出した。
失礼、と一言断りを入れ、ビリーは取り出した携帯電話を耳に当てる。
「はい、は? あー、はいはい。ハワードでしたらとりあえず『フラッグ最高』って言ってあげれば持ち直しますから、えぇ、わかりました。今から行きます」
ピッ、と通話を終わらせ、ビリーは申し訳なさそうに腰を上げた。
「悪いけど今日はこれで失礼させてもらうよ。連絡入れてくれればまた来るから」
グラハムをよろしくね、と言い残し、ばたばた、とビリーは忙しなく出て行った。
その後ろ姿を黙って見送った四人は、そもそもあのポニテ眼鏡自体何者なんだろう? と今更ながらに思ったのだった。
◇ ◇ ◇
さて、今晩の夕飯はなににしようか、と冷蔵庫の中身と相談していたニールの耳に、ばたばた、とけたたましい足音が届く。
「こらー! 家ン中で走るんじゃない!!」
「グラハムが壊れた!」
リビングダイニングに飛び込んできた刹那をキッチンから顔を出し一喝するも、その声は珍しく慌てふためいた彼の声に掻き消された。
「な、なに?」
「グラハムがおかしいんだ」
「いや、アイツがおかしいのは今に始まったことじゃ……」
改めてなにを、と首を傾げるニールに刹那は、そうじゃない、と首を振る。
「『お願いを聞かない』と言い出した」
「なんだって!?」
人の願いを聞くことが存在理由であるランプの精がそんなことを言い出せば、確かに刹那でなくともおかしくなったと慌てるだろう。
「それで、グラハムは?」
「俺の部屋でガンプラを……作っている」
僅かに瞼を伏せ、どこか悔しそうに見えるのは気のせいか? と怪訝に思いニールが問うように刹那の顔を覗き込めば、くっ、と小さく洩らしてから刹那は口を開いた。
「試験が終わったら作ろうと取っておいたエクシア・イグニッションモードを強請られた」
再度、くっ、と洩らし顔を伏せてしまった刹那に苦笑しつつ、ニールは慰めるように、ぽんぽん、と相手の肩を軽く叩く。
「そんなに楽しみにしてたなら断れば良かっただろ。グラハムだっておまえのエクシア好きはわかってるんだから、言えば……」
「……ダメだったんだ」
ニールの言葉を遮り、刹那が、ゆるり、と首を振る。どういうことかと更に詳しく尋ねれば、ぽつぽつ、と刹那は説明を始めた。
要約するとこうである。
室内で神隠しにあった辞書を探して貰おうとグラハムを呼び出したはいいが、「今日の私は誰のお願いも聞かないのだよ」と尊大に言い放ち、「それよりも少年。私もガンプラを作りたいぞ」の一言から始まり、棚に置かれたイグニッションモードを見つけたグラハムが、にこり、と笑いながら「これがいいな」と言った瞬間、YES以外の言葉が刹那の脳内からすっぽ抜けたのだという。
「なんというか、胸が、きゅー、というか、頭が、ぼー、というか、とにかく『お願い』を聞いてやらなければならない気がして、気がついたら……首を縦に振っていた」
自分の行動がよほど許せないのか、ふるふる、と肩を震わせ「俺はガンダムになれない」と呟き始めてしまった刹那をニールは必死に宥める。
「同じの買ってやるから気を確かに持て! な!? それで、グラハムが『お願いを聞かない』ってのはどういうことなんだ?」
「わからない。理由を聞く前に俺が部屋を飛び出してしまった」
相当ショックだったんだな、と思いつつニールは色々な意味で目頭が熱くなったが、そこは年長者、面には一切出さず最後にもう一度、軽く刹那の肩を、ぽん、と叩くと「俺が聞いてくる」と頼もしい兄貴っぷりを見せたのだった。
刹那をキッチンに残し、トントン、と階段を上がりつつニールは、うーん、と難しい顔になる。先程の刹那の話だが彼の反応が『恋をした時の典型的な反応』としか思えなかったのだ。
「いやいやいや、まさか」
ははは、と乾いた笑いを浮かべ、その考えを打ち消す。
二階に到達したニールの目の前で刹那の部屋の扉が内側から開き、ひょこり、と姿を現したのはアレルヤであった。
「じゃあ、行ってくるね」
「うむ、頼んだぞ」
ぱたん、と扉を閉じたアレルヤがニールに気づき、にこり、と笑む。
「どうした? グラハムになにか頼まれてたようだったが」
「うん、ハーゲンダッツ食べたいって言うから、ちょっとコンビニ行ってくるよ」
さらり、と当たり前の顔で返してきたアレルヤに、ニールは全力でツッコみたい衝動に駆られるも、なんとか耐える。それじゃ、と階段を下りていくアレルヤの背中を見送ることなく、ニールは一応ノックをしてから扉を開けた。
「グラハム、聞きたいことがある」
「おや、なにかな?」
パチン、とパーツをニッパーで切り離してから、グラハムが顔を上げる。
「『お願いを聞かない』ってのはどういうことだ」
「随分と性急なのだな。だが、嫌いではない。むしろ好意を抱くよ」
ふふ、と澄ました笑いを浮かべるグラハムに、ニールは呆れたように肩を竦めてみせる。
「今日は私の誕生日なのだよ」
「は?」
恐らくこれは先の質問に対する答えなのだろうが、残念ながら意味がわからない。口を突いて出たニールの間の抜けた声が全てを物語っており、グラハムは、くつり、と喉奥で笑う。
「今日は私『が』お願いを聞くのではなく、私『の』お願いを聞く日なのだよ」
「なんだそりゃ…ッ!?」
反射的にツッコミを入れてきたニールに、グラハムは「そういう仕様なのだよ」と涼しい顔だ。
「それに一日くらい良いではないか」
「だからって、強制力ハンパねぇだろ! 反則どころじゃねぇぞ!?」
「あぁ、安心したまえ。生命に危険の及ぶお願い事は出来ないことになっている」
「そういう問題じゃねぇぇぇぇぇーッ!」
スパーン! と小気味よい裏拳でのツッコミを受け、グラハムは、きょとん、と目を丸くする。
「じゃあなにか? 今日一日は俺たちお前の奴隷状態か? なぁ!?」
「奴隷とは人聞きの悪い。なにをそんなに憤慨しているのか理解しかねるのだが、私がお願いをするのはそれほどいけないことなのかね?」
浮世離れとはまた違った言葉の通じなさにニールは、あああああ、とその場で頭を抱えたくなる。その様子を、じっ、と見つめていたグラハムが、おもむろに、ぽん、と手を打った。彼がなにを懸念しているのかやっと思い当たったか、グラハムは、はは、と快活な笑いを上げる。
「あぁ、安心したまえ。ひとりにつき一つしかお願い事はできんよ」
「それ、安心していいのか悪いのか、すっげぇ微妙なんだが」
既にお願いを聞いた刹那とアレルヤは自由の身だが、ニールとティエリアはいつなにを『お願い』されるかわからず、生殺し状態なのだ。
さすがに無体なお願いはしてこないであろうが、刹那の楽しみを笑顔で奪ったことを考えると油断は禁物である。こう考えるとアイスひとつで済んだアレルヤは、彼にしては珍しくラッキーとしかいいようがない。
「ただいまー。買ってきたよ」
うーん、と難しい顔をしているニールを余所に、ノックと同時に扉を開けたアレルヤが場にそぐわぬ明るい声を発した。
「おう、お帰……り?」
いいタイミングで帰ってきたアレルヤを……もとい、彼の手にした袋を目にしたニールの語尾がヘンに跳ね上がる。
「アレルヤ……おまえ、アイス買いに行ったんだよな?」
「そうだけど?」
小首を傾げながらグラハムの居る机に、ガサン、とコンビニの袋を下ろす。
「はい、ハーゲンダッツ全種類」
小さいくせにお値段は立派なそれを全種類ときた。前言撤回、とニールはアレルヤの不憫さに目頭を熱くしたのだった。
カチリ、と時計の針が日付変更線を越えたことを告げた瞬間、ニールは、はぁぁぁぁ、と盛大に安堵の息を漏らした。あの後、結局グラハムはニールにもティエリアにも『お願い』をしてこなかった。普段ならばあっという間に過ぎてしまう時間のなんと長かったことか、と濡れた髪をタオルで拭いつつ踏み込んだリビングダイニングには先客がおり、ニールは、一瞬、ぎょっ、とした顔になる。
だが、既に時計の針は0時を回っており、何も心配することはないのだと即座に気を取り直した。
「どうした?」
「少年の『お願い』を遂行しようと思ったのだが、彼の安眠を妨害するのは気が引けてな」
ぽん、と卓上の辞書を軽く叩いたグラハムの手につられるようにニールは目を動かし、辞書の隣に置いてある物に気づいて、あぁ、と小さく声を上げる。
「ソレか。刹那が血の涙流してたぞ」
あくまで物の例えだがこれくらい言っても罰は当たらないだろう、とエクシア・イグニッションモードの箱を見ながら、はは、とニールが笑えば、グラハムは「心配無用だ!」と無駄に胸を張った。
「元に戻しておいた」
ぱかり、と開けられた箱の中身は確かに手付かずの状態で、ニールは、ぽかん、と口を開けたままそれを、まじまじ、と凝視する。
「少年の楽しみを奪うのは私も本意ではないからな」
「だったら初めっからやるなっつーの」
あーもー、と頭を抱えそうなニールに「作ってみたかったのも本当なのだよ」とグラハムは、にこり、と笑んで見せた。
「ま、これで刹那の機嫌も直るだろうし、よしとするか」
憂いの無くなったニールは大きく伸びをし、これでぐっすり眠れそうだ、と安堵の息を漏らした。
結局のところ実質の被害者はアレルヤだけで、それをハレルヤに指摘され当人が落ち込むのは先の話である。
◇ ◇ ◇
ひらり、と新聞の間から落ちたチラシを拾い上げ、ニールは「あー……」と低く呻き壁のカレンダーに、ちらり、と視線を走らせる。
「どうかしたのかね?」
ダスキンモップをフローリングに走らせていたグラハムがそんな彼の様子に首を傾げれば、微苦笑を浮かべてニールは手にしたチラシを、くるり、とひっくり返した。
「もうすぐクリスマスだろ。ケーキどうすっかなぁって思ってよ。皆もうケーキで喜ぶ歳でもないだろ? 1ホール買うのもなぁ」
いやでもやっぱ必要か、などとブツブツ呟いているニールは気づいていないが、グラハムはなにやら小難しい顔で、コツコツ、とこめかみの辺りを叩いてる。
「そうだ。グラハム。『お願い』がある」
「なにかね?」
ブルーの制服にダスキンモップを装備し姿勢良く立つ姿は、改めて見ると滑稽だなぁ、と思いつつ、真面目な顔で『お願い』を待っているグラハムに、こほん、と咳払いを一つした後、ニールはやっと口を開いた。
「クリスマスツリー出してくれよ。飾り付けまで済んでるヤツだと尚いいな」
皆でわいわい飾り付けは端から諦めているのか、はは、と少々乾いた笑いを漏らしたニールを前に、グラハムは、むむ、と先と同様、小難しい顔になる。
いつもならば即座に「あいわかった」と胸を叩きそうな勢いで了承するグラハムが、いつまでたっても返事をしないことにニールは怪訝に眉を寄せ「グラハム?」と声を掛ければ、ランプの精は「ちょっと待ってくれたまえ」と掌を向け、逆の手でこめかみを、コツコツ、と叩く。
「もしかして、知らないのか? くりすま……」
「そんなことはない。ないと言った。えーと、確かこんなカンジであったか……」
ニールの言葉を遮るもどうにも不安を煽る呟きを漏らし、グラハムは、うん、とひとつ頷いてから、パチン、と指を鳴らした。
「手袋してんのになんで、ンないい音すんだよ」
「細かいことは気にするな。それよりも、ご所望の物はこれであろう?」
グラハムに促されるまま首を巡らせた先には、サラサラ、と涼しげな音を奏で色とりどりの短冊をぶら下げた、長楕円形の葉を持つ植物がそこにはあった。
「って、ちげぇよ! これ笹だろ!? 七夕じゃねぇんだよ!?」
「む、似たようなモノではないか」
「ぜんっぜん、違うから! 笹じゃなくてモミの木だから!!」
即座に全力でツッコミを入れてくるニールに「揉みの木とな……?」とグラハムはその名を口にするも、微妙なニュアンスの違いを感じ取ったかニールの片眉が、ピクリ、と上がる。
「なんとも破廉恥なことを彷彿とさせる名であるな」
「いやいやいや、そっちの『揉み』じゃねぇから。な? アンタの脳内ライブラリーは一体どうなってんだよ」
グーに握った拳を胸の高さに上げるもニールは気を取り直し、ケーキのチラシに一緒に写っているツリーを示す。
「こういうのだって。そんなに大きくなくていいから、ちゃっちゃと頼むよ」
「飾り付けまで済んでいるもの、であったな」
じっ、と穴が空くほどにチラシを凝視し、ふと、なにか気になることがあったか視線をニールへと移す。
「飾りになにか定義はあるのかね?」
「そうだな、てっぺんに星がついてて、あとは人形とかテキトーにぶら下がってればいいと思うが」
「そうか」
ふむ、と顎を一撫でし、グラハムは再び、パチン、と指を鳴らした。
またなにかやらかしてはいないかと、ニールが恐る恐る壁際に顔を向ければ、そこには要望通りてっぺんに星が輝き、電飾が、チカチカ、と瞬く立派なクリスマスツリーが鎮座していた。
「やればできるじゃな、い……か?」
ニールが、パッ、と顔を輝かせたのも一瞬で、なにに気づいたか、むむ、と目を眇めるや否やグラハムを半眼で見据えた。
「なんでガンプラがぶら下がってるワケ?」
「人形と大差ないではないか」
まったくもってなにがおかしいのかわかっていない顔で返され、ニールは最早ツッコむ気力も尽きたか、あー、うん、そうだな、と投げ遣りに口にすると改めてツリーに目をやり、
「刹那しか喜ばねぇよなぁ、アレ」
と肩を落としたのだった。
「クリスマス時期には、同じようなことお願いされてそうなモンだけどなぁ」
なんとか気を取り直すのに十分ほどかかったが、テーブルについて再度ケーキのことを悩み始めたニールが何気なく呟けば、グラハムはツリーの前で膝をつきガンプラひとつひとつに後から出したサンタ帽子を被せながら律儀に言葉を返す。
「生憎とサンタの扮装くらいしか、所望されたことがないのだよ」
「へぇ、ヒゲつけて袋担いで、メリークリスマースってか?」
視線はひたすらにチラシへと向けたままニールが戯けた言葉を返せば、グラハムはなにか思案しつつ静かに立ち上がった。
「いいや、こういった具合にだな……」
するり、とニールの背後から首に腕を絡ませ、そっ、と耳元に唇を寄せるや吐息混じりの言葉を、ゆうるり、と吹き込む。
「イイ子にしてたらイイモノ、あ・げ・る」
「っぶぉぁぁぁぁぁぁッ!?」
がたーんッ! と椅子ごと身体を横に逃がし、ニールは耳を押さえて、わなわな、と唇と言わず全身を震わせている。
ここまで豪快に狼狽えたのはやられたことにも一因はあるが、最大の原因は絡められた腕と耳に届いた声が女のものであったからだ。
「なっなななんだその恰好!?」
振り仰いだ相手の恰好はと言えば、サンタと言われればまぁギリギリサンタかな? といった肩丸出しヘソ丸出しのセパレートタイプのミニスカサンタで、しかもご丁寧に女性体になっているときた。
「シングルベルはイヤだと言われ、正直、良くわからなかったんだが、それが『お願い』であるなら私は叶えるだけの話だ」
けろり、と普段となんら変わらぬ物言いに、どのような内容でも『お願い』は『お願い』であって、それ以上でもそれ以下でもないと言外に告げられたようで、ニールは返す言葉が見つからず気まずそうに、かし、と後ろ頭を掻いた。
「わかった、わかったから元に戻ってくれ」
「なんと、この姿はお気に召さないというか」
胸か? 胸が足りないのか? と恥じらいもなく左右から、ぎゅっ、と寄せて上げて見せるグラハムに、ぶふっ! と噴出しつつ、「そうじゃねぇぇぇーッ!」と叫んでその手を掴めば、運の悪いことにその現場をアレルヤに目撃されてしまった。
「あっ、ごめん! なにも見てないからどうぞごゆっくり!!」
「ごゆっくりじゃねぇぇぇーッ! つかアレルヤ、誤解したまま行くなぁぁーッ!!」
「どれくらいが好みかね? やはりパフパフできるくらいかな?」
「アンタは黙ってろッ!」
あぁーッもーッなんだってんだ! ちくしょおおおーッ!! と頭を抱え天を仰ぐニールの背後では、いつの間にやってきたのか刹那がガンプラツリーに目を輝かせていたのだった。
◇ ◇ ◇
年末の大掃除では普段まったくといっていいくらい無関心なティエリアにまで呼び出されるわ、いつも通りニールには買い出しを頼まれるわ、アレルヤとハレルヤには大量のゴミ出しを任されるわと、ここぞとばかりに酷使されまくり、なにか言いたげな刹那に「すまないが、少々の休息を所望する」と言い置いてグラハムがランプに戻ったのが大晦日の午後六時。
「あー、さすがに短時間に呼び出しすぎたか」
準備を手伝うだけ手伝って夕飯を取らずに姿を消したグラハムに、ニールが申し訳なさそうな声を出すも「それが彼の役目なのだから気に病むことはないと思うが」とティエリアは涼しい顔だ。
「それはそうだが、でもやっぱなぁ……」
おせち作りにまで駆り出したニールからすれば、そうそう割り切れる物ではないようで、はは、と困り眉で苦笑を漏らす。
「気持ちはわかるけど既に済んでしまったことだし、それにもう呼び出す用事はないんだし、今晩ゆっくりしてもらえばいいんじゃない?」
急須を、ゆうるり、と回しながらアレルヤが首を傾げれば、ニールは困り眉のまま顔を向け、ゆるゆる、と首を振った。
「アイツ、年越しソバ喰うの楽しみにしてんだよ」
煮しめに使う野菜を、ざくざく、切りながら紅白歌合戦や除夜の鐘のことを「楽しみだなぁ」と弾けんばかりの笑顔で語っていたグラハムを思い出し、はー、と深く息を吐く。
「呼ばなかったら年明けてから、ぐちぐち、ネチネチ、言われるぞ」
「それは……遠慮したいね」
脳内でグラハムの呪詛をシミュレートしたか、アレルヤは、ぶるり、と背を震わせニール同様困り眉になる。
「だが、紅白は小林幸子が見られればいいと言っていた」
「そりゃまたピンポイントな」
白米を茶碗に盛りつけていた刹那が思い出したように口にすれば、まぁ、ある意味風物詩だし、とアレルヤが小さく笑った。
「じゃあ紅白は幸子が出てきたら呼ぶってことで。呼んでも出てこなかったらグラハムが悪い」
よし決まり、と手を打ちニールが全員分の汁椀を卓に置いたところで、この話は終了となった。
怒濤の連続呼び出しから一夜明け、再度呼び出されたグラハムは目の前の赤毛に、一瞬、動きと思考を止めたかと思いきや、
「賊かッ!? この家に盗みにはいるとは不運だったなぁ!」
と声高に叫ぶや否や見知らぬ赤毛の顔面に「グラハム・スペシャルッ!」と拳を叩き込んだ。
「へぶっっ!」
相手は油断していたかそれをモロに喰らい、ガターンッ! と食事用の椅子から転がり落ちる。
「あーぁ、やっちまった」
直後に届いた呑気な声にグラハムがキッチンを、ばっ、と振り返れば、徳利と猪口を盆に乗せたニールが先の声同様、ははは、と呑気に笑っていた。
「無事であったか!」
「無事もナニも、ソイツ泥棒じゃねぇよ」
「なんと!?」
未だ椅子から転げ落ちた恰好のままでいる見知らぬ赤毛を一旦振り返り、グラハムは再度ニールに顔を向ける。
「ではこの者は一体」
「刹那の親戚。アリー・アル・サーシェスだ。毎年正月にタダ酒飲みに来るロクデナシな」
「ならば成敗してもなんら問題はなかったのだな」
さらり、と口にされた酷い説明にグラハムは結果オーライと言わんばかりの清々しい笑顔を見せ、ニールはそれに頷きつつも「でもさすがに顔面にグーパンはやり過ぎだなぁ」と一応、うわべだけは嗜める。
「か、カワイイ顔してなかなかいいパンチじゃねぇの」
かー、効いたぁ、と頭を振り振り椅子に戻った赤毛の言葉に、ニールが「ちっさいグラハムでよかったな」と苦笑混じりに答えれば、グラハム自身やっと自分の姿に気づいたか不思議そうに小首を傾げた。
「この姿で呼ぶとは、珍しいではないか」
なにかあったのかね? と大きな瞳でやや上目遣いに問うてくる姿は大変愛らしいのだが、先の強烈な左ストレートを見た後では、素直にそう思うことは難しく、更にそれを食らった者では尚更である。
「『ご主人様』をぶん殴るたぁ、躾のなってねぇランプの精だなぁ、おい」
「なに?」
「まぁ、そういうことだ」
がんばれよ、とグラハムの肩を、ぽん、と一叩きし、次いで「あんまりいじめてくれるなよ」と釘を刺してきたニールに、赤毛は口端を、にたり、と吊り上げると「なんのことかよくわかんねぇなぁ。俺はいつだって優しいぜ?」と嘯いたのだった。
赤毛が帰った後、刹那がグラハムを呼び出したのだが、
「干渉、手助け、一切無用ッ!」
と、一声叫ぶや否や、しゅるるすぽん、と即座にランプに戻ってしまい、それから三日間うんともすんとも言わず、「なにかされたのかなぁ」とのアレルヤの呟きに「ナニされたんだろ」とハレルヤが、さらり、と答えたせいか定かではないが、サーシェスにはランプの精接触禁止令が出されたという。
ただし、守られているかどうかは当人とランプの精のみぞ知る、である。
◇ ◇ ◇
コツコツ、とペン先でノートを叩くニールの表情は険しい。彼が家計簿を付けている間、洗い物を『お願い』されたグラハムは、手をしっかり動かしながら相手の様子を窺う。
以前、同じように洗い物をお願いされたはいいが沈黙に耐えきれず、食卓でガンプラを組み立てていた刹那と話し始め、そちらに夢中になり手が疎かになったところをニールに見咎められ、お小言を貰ったことがあるのだ。
「随分と恐い顔だ」
「俺だってこんな顔したくてしてんじゃねーぞ」
「熟知している。キミは朗らかに笑っている方が断然良い」
水切りカゴに皿を伏せつつグラハムが言葉を継げば、ニールは「ケツ痒いこと、さらり、というな」と唇をひん曲げる。
「して、何故そのような顔になっているのかね?」
「決まってんだろ。家計が火の車だからだよ。住人が二人増えたからな」
ティエリアに存在を納得させるために、グラハムがアレルヤから分離させたハレルヤは健在で。そして何故か食事時に刹那がグラハムを呼び出すため、この家のエンゲル係数は劇的に跳ね上がったのだ。
ちなみにこの家はティエリアの持ち家で、ニールはハウスキーパーとして雇われ、アレルヤと刹那は下宿人ということになっている。部屋に閉じこもりがちなティエリアをグラハムは「あれがニートというものなのだろうか」と暫く失礼な勘違いをしていたが、彼は評論家なのだという。分野もその時に聞くには聞いたのだが、理解できない物であったためグラハムの記憶には留まっていない。
「あ、皿洗い終わったら買い物頼む。余計なモン、買って来んじゃねーぞ」
マイバッグ忘れるなよ、と続けられた言葉はエコを意識してというより、バッグ持参で貰えるスタンプが重要なのだ。
「スタンプ二十個溜まったらお買い物券になるからな。ちゃんと押してもらえよ」
真剣な顔で告げるニールを茶化す言葉など、グラハムは元から持っていない。それが使命……もとい『お願い』とあらば、全力で遂行するのみだ。
「期待にはお答えしよう」
「あーもー、米だけでもどうにかなれば、少しは違うんだけどなぁ」
ペチペチ、と電卓を叩きつつ、あー、と頭を抱えるニールは気づかなかったが、グラハムはその時「そうか」と答えたのだった。
働かざる者喰うべからず、ということで夕飯作りの手伝いが日課となっているグラハムの手で配膳がなされ、各々が席に着く。元から口数の多い人間の方が少ないため、必然的に喋るのはニールとグラハム、それに相槌を打つアレルヤくらいだ。
「……醤油取ってくれ、グラハム」
「心得た」
ぽそり、と漏れ出た刹那の『お願い』を聞き逃さず、グラハムが嬉々として醤油を手渡せば短い礼と共に、こくん、と刹那の頭が揺れる。
と、同時にグラハムの懐から、ぽわ、と光が漏れ、見る間にそれは直視するのが難しいほどのまばゆさへと変化する。
「なんだぁ!? 一体どうした!?」
目の上に手をひさしのように掲げ目を細めるニールの言葉など聞こえていないのか、グラハムは懐から発光物体を取り出すと「おぉ……」と歓喜の声を上げた。
「ありがとう少年! キミのおかげでエネルギー満タンだ!!」
「いや、だから少年じゃねぇって!」
掌に乗せた例のタケノコのような物が発光物体の正体であった。
「刹那、おまえどんだけ醤油欲しかったんだよ」
ハレルヤの呆れた声に刹那は、ふるり、と首を横に振ると小さく「違う」と呟いた。
「俺の前に、大喜びしたヤツが居ただけの話だ」
すっ、と流された視線の先にはニールがおり、指摘された彼は「あっ」と声を上げたかと思いきや、「いや、だってよぉ」と僅かに赤くなりながら、しどろもどろになっている。
「なにがあったんだい?」
まぶしさに目を瞑ったままアレルヤが問えば「それでは私が説明しよう」とグラハムが口を開いた。
要約するとこうだ。
ニールのお願いで買い物に行ったグラハムが『たまたま』行われていた福引きで、『たまたま』お米一年分を引き当てたのだった。
それを告げたときのニールの喜び様は尋常ではなく、「おまえが来て初めて良かったと思ったぞ!」となかなかに失礼なことを口走りながらも、これ以上はないほどのイイ笑顔でグラハムの両頬にキスをするほどのはしゃぎっぷりだったのだ。
「あそこまではっちゃけたニールは初めてであった」
「ンなことまで言わなくてよろしい!」
うんうん、と感慨深げに頷くグラハムに、ぎゃー! と悲鳴を上げるニールを、「そんなことが……」とアレルヤとティエリアが、まじまじ、と見やる。
「……行ってしまうのか?」
ひとまずテーブルの下に手を移動させ皆の視界を確保したグラハムに、刹那の問いが飛ぶ。チカチカ、する目を、しぱしぱ、させる姿に、ふっ、と笑みを洩らし、グラハムは「改めて礼を言おう少年!」と胸を張った。
「いや、そこは普通、頭下げるトコだろ」
「これで私のフラッグが所望する上位機種へと改造が可能になる!」
ニールのツッコミを余所にグラハムは立ち上がる。
だが。
「食事は残すな」
刹那の尤もだが場違いな言葉にグラハムは「確かにその通りだ」と素直に席に戻ると発光円錐を懐へ戻し、しっかり皿を空にしたのだった。
「キミ達に会えたことを嬉しく思う。特に少年には感謝しても感謝しきれんよ」
漆黒のランプを手に珍しく殊勝に語るグラハムを少々、気味悪げに見やる四人には気づいていないのか、刹那は真剣な顔でランプの精と向かい合っている。
「また、会えるか?」
「さぁ、どうかな。それでは、さらばだ少年!」
声高に宣言すると同時に彼の身体は煙と化し、しゅるるすぽん、とランプの口へと吸い込まれていく。そして、宙に浮いたままのランプが、なにがどうしてそうなったのか、その形を人型を模した細身のシルエットを持つ姿へと変えた。
「変形した……ッ!?」
一字一句違わず五人の声が重なる。驚愕の声を背に聞き、グラハムが『フラッグ』と言った彼の愛機(ランプ)は窓の外へと飛び出し、その黒点はあっという間に皆の視界から消えたのだった。
「行っちゃいましたね」
「あぁ、いざ居なくなると寂しいモンだな」
あまりランプの恩恵を受けなかった……どころか被害を受けるばかりであったアレルヤが口火を切れば、最後の最後でとびきりの願いを聞いて貰ったニールが小さく頷く。
「もうヘンなものは持ってくるなよ、刹那」
こちらも願いらしい願いをしなかったティエリアが釘を刺すように言えば、刹那は暫し考え込んだ後、「善処する」と大真面目に答えた。
――三日後。
「刹那、怒らないから言ってごらん。ソレ、どうしたのかなぁ?」
お使いを頼んだ醤油の横に並んだ赤いラインの入った黒いランプを前に、ニールがこめかみの辺りを引きつらせながら目の前の刹那に問う。
「ポニテ眼鏡に貰った」
「我が愛機フラッグが見事マスラオになったのだが、更に上位機種を開発していたのだよ。やるな、カタギリ」
「アンタは黙ってろッ!」
ぐっ、と拳を固めるグラハムにお約束の突っ込みを入れ、ニールは、もーどうにでもなれ、と開き直りの笑みを浮かべたのだった。