【アイギス】王皇小ネタまとめ その5【王子への思いがクソ重たい皇帝の話】 大量の書類に囲まれ、顔を上げる時間すら惜しいと言わんばかりに手だけを伸ばし、一番上に置かれていた書類にサインをしようとペン先を下ろすも、それは正面から伸ばされた手によって、つい、と取り上げられてしまった。
何事かと顔を上げた先には、表情ひとつ変えずに文面に目を走らせている皇帝の姿があり、王子は羽根ペンをスタンドへ戻してから困ったように笑う。
「全く気がつかなかった」
「……ノックはしたぞ」
無礼を咎められる前に淡々と告げ、皇帝は手元の書類から卓上の書類の山へと視線を移す。
「随分増えたな」
「人伝にどんどん話が広がってるようで、小さな町や村からの物が増えてきてる」
復興支援に王国軍が物資をあちらこちらへ運び、場合によっては人員も派遣しているとの話は人から人へと伝わり、情報を得にくい僻地や辺境にも噂は徐々に届いているようであった。
助けを求める者全てに手を差し伸べたいが、実際問題、物資や人員には限りがあり、どうしても優先順位を付けざるを得ないのが現状だ。
それでもどうにかして多くの町や村に物資が届けられるよう、ルートや編成の調整が日夜なされている。
中には虚偽の申請もあるが、それらを精査する時間も人員も不足している為、ほぼ全てを承認している状態でもあった。
ぺらり、と手近な山から皇帝が一枚手にするも王子は止める素振りも見せない。書類の山は地域ごとに分けられており、皇帝はその中から数枚を引き抜くと王子に差し出した。
「ここへは俺が行こう」
それらには帝国領の国境にほど近い町や村の名が記されている。
「王国に居座ってはいるが、俺は一応まだ『皇帝』だからな。ついでに帝国に一旦戻っておこうかと思ってな」
「あー……うん、向こうの様子も気になるよな」
きちんと話を聞いた訳ではないが、皇帝はディアナに『皇帝の座』を譲ろうとしたらしい。だが、お得意の言葉足らずが発揮されたか、ディアナは大層憤慨し「私を愚弄するか!」と腰の物を抜く事態にまで発展しそうになったとの事であった。
現状、全ての決着がついた今、皇帝が帝国に居続ける理由はなく、友に託された『皇帝の地位』も不要の物と化したのだ。「欲しがっていたからくれてやると言ったんだが」と全く悪びれた様子のない皇帝は、本気で彼女の逆鱗に触れた理由がわからないのだろう。
「編成はこちらでやる。サインだけ寄越せ」
横柄な物言いにも王子は緩く笑い「助かる」と返してから、手早くペンを走らせた。
物資の積み込みを横目に皇帝は隣に並んだ軍師が広げる地図を覗き込む。
「調査していた王国からの支援物資の横流しですが、この一帯のいずれかの町、ないしは村を経由しての物だという所までは判明しました」
「そうか。一カ所とは限らないからな。最悪、全てが共謀している可能性もある」
「仮にそうだとしたら、いかがなさるおつもりですか」
わかりきった事を聞いてくるレオナに皇帝は表情ひとつ変えず、殲滅だ、と返す。
「あの男の善性を利用する者にかけてやる情けなど、生憎と俺は持ち合わせていないんでな」
あれが出来ない事をやるのが俺の役目だ、と重さに反して淡々と紡がれた皇帝の言葉にレオナは、きゅっ、と唇を引き結んだ。
皇帝が支援物資を運ぶ任に付き、そのまま帝国へと一時的に戻ってから一週間が過ぎた。
物資の運搬については滞りなく行われたと、代理の者が提出した報告書を王子は欠片も疑う事はなかったのだった。
彼に任せれば大丈夫であろうと全幅の信頼を寄せていた為、その後に届いた帝国からの親書は、まさに寝耳に水であった。
急ぎ諜報に長けた者を招集し事実確認に向かわせた結果、親書の内容に相違が無い事を確認したのだった。
流麗な文字で綴られた皇帝からの『報告書』には村ぐるみで物資の横流しを行っていた者達を捕縛した事。ただしこの村は廃村に目を付けた者達が住民のふりをして物資を要求していたとの補足があった。
他にも上記の村以外の町の住民の一部が横流しに加担しており、組織ぐるみの犯行と判断した為、こちらも捕縛した旨が記されていた。
捕縛理由として帝国内の物流、物資の価格に影響が出ている事が挙げられており、処罰はこちらで行うともあった。
王国領内での事に一方的に帝国が介入した形であるが、被害を被っていると言われ、更にはなにも対処をしていなかった王国が抗議をするには分が悪すぎた。
日付的には明日には王国へ戻ると付記されており、王子は一体どのような顔で彼に会えば良いのかと、卓上に広げられた親書を前に苦虫を噛み潰したような顔になったのだった。
カチリ、とカップがソーサーへ戻された音が合図となったか、皇帝は正面に座る王子を、ひた、と見据える。
「一から調べるより裏取りだけの方が早かっただろう?」
なにを、とは言わずとも王子には通じると信じ切っている皇帝には、悪びれた様子は全くない上、相手が切り出したい事も重々承知と言った顔だ。
早々に主導権を握られ、王子は内心で「やりにくい」と顔をしかめる。
「……先に一言あるべきだと思うんだが」
「あの時点ではまだ確証が得られていなかったからな。物資の運搬にかこつけてこちらの都合に利用した事は謝る」
あくまで帝国の為だと言い張る皇帝に王子はそこはかとなく違和感を覚えるも、それを明確な言葉に出来るだけの材料が無く、もやもやとしたものを胸に抱えたまま緩く下げられた白銀の髪を見つめるしかない。
「皇帝の座なんかどうでもいいって顔していながら、しっかりその立場を乱用してるな」
「使える物は使わないとな」
しれっと言い放った皇帝は焼き菓子に伸ばした手を、ふと、止めた。
「飛空挺もいつでも出せるぞ」
一隻飛ばすのにどれだけのコストが掛かるか知らない訳ではないはずだが、余りにも事も無げに言い放たれ、王子は思い切り紅茶を噴出したのだった。
2022.04.23
【王子が裏技を使って事なきを得た話】 往生際悪く閉ざされた石の扉やその周辺を探り続ける王子の背に向かい、いい加減にしろ、と静かな声が皇帝の口から発せられた。
「扉が開く条件は既にわかっている。ならばそれを実行するまでだろう?」
「だが……」
「時間の経過で条件がより悪くなる可能性もある。仮に切り落とす部位が『首』になったとしたらどうする」
常に最悪の事態を想定しての皇帝の言葉に、王子は黙って拳をきつく握り締めるしかない。
迷宮が発見されたとの知らせを受け、これまでの事もあり「またエロトラップダンジョンだったりして」などと軽口を叩いていたのが一日前の話だ。
外周を調査していた隊から今回の迷宮は出入り口が二カ所との報告があり、王国軍と帝国軍で別の入り口から同時に内部調査をする事となったのだった。
当然のように先頭に立つ皇帝を止める者は最早おらず、また王子も先頭とまではいかぬ物の先発隊に当たり前の顔で同行していたのだ。
罠を警戒し歩みを常より緩めていた皇帝の後ろ姿が忽然と消え失せ、それに続くように王国側でも王子の姿がまるで見えない扉をくぐったかのように掻き消えた。
そしてふたりはあるひとつの部屋で顔を合わせる事となったのだ。
状況から察するに転移魔法や移送門の類いだろうとふたりの意見は一致し、抜け出す為の手掛かりを探して部屋を探索すれば、扉の横に設置された台座にぼんやりと浮かび上がった文字がその答えであった。
回りくどい謎かけのような文章であったが、要はどちらかの肉体の一部を台座に乗せろとの内容に、悪趣味が過ぎるとふたりで顔を歪めたのだった。
「闘技場のような物か」
古の娯楽か、ここに閉じ込めた者たちで殺し合いをさせ勝者のみが部屋を出る事が可能なのだろう。
ならば話は早いと、皇帝は迷う事なく腕の装備を外し、無防備になった腕を王子の前に突きつけた。
「自分で切り落として無効だと判断されたらたまったものではないからな」
「できるわけないだろう!?」
当然と言えば当然の王子の反応に皇帝は隠すことなく眉根を寄せ、俺が貴様の腕を落とす訳にはいかんのだ、とどこか苦い物を含んだ声音で告げる。
「このようなくだらない事で二国間の関係を壊すわけにはいかないだろう?」
「それを言ったら、俺が貴方の腕を落としても大問題になる」
「ならないさ」
言葉尻に被るように発せられた皇帝の言葉に王子の喉が、ぐぅ、と小さく鳴った。何故、と問う前に皇帝の口はそのまま動き続ける。
「これまで積み重ねてきた信用が物を言う。『あの王子がそのような事をするには、なにか理由があったに違いない』とまずお前の正当性を前提に話をするだろう。だが、俺の場合は……」
皆まで言わずともわかるな? と凪いだ湖面のような声で問われては、王子に返す言葉はない。
それでも「それは最終手段にしたい」と王子はすぐには首を縦に振らず、無駄だと頭のどこかでわかっていながらも、石の扉やその周辺を探ると言い張ったのだった。
もういいだろう、と腕を差し出してくる皇帝は元から覚悟を決めており、ここで王子が何を言ったところで考えを変えない事はわかりきっている。
あとは王子が首を縦に振るだけで事は済むのだ。
だが、まだだ、まだふたり揃って無事に切り抜ける道があるはずだと、王子は必死に思考を巡らせ、浮かび上がっている条件を頭から何度も何度も読み直す。
そこでふと文章の一部に疑問が湧き上がった。
じぃ、と考え込んでしまった王子を前に、皇帝は黙ったまま相手の出方を待つ。皇帝としては既に自分は手段を示しており、これ以上言う事はなにも無いのだ。王子が納得した上で腕を切り落とせば良し。納得せずとも自分が強要したのだと言えばそれで済むからだ。むしろ王子の為を思うならば、後者の方が都合が良いとまで思っている始末だ。
「……わかった」
静かに口を開いた王子の発した言葉に、皇帝は、やっとか、と言わんばかりに軽く肩を竦めて見せる。
「少し試したい事があるんだけど、いいか?」
そう言うや相手の返事を聞く前に王子は皇帝の腰に腕を回し、ぐい、と持ち上げた。
「……ッ!?」
突然の事に声の出ない皇帝をよそに王子は、スタスタ、と台座に歩み寄るやその上に皇帝を下ろしたのだった。ぽかん、と見上げてくる皇帝に何を言うでも無く、王子はなにかを待っているのか、じっ、と扉を見つめている。
ややあって、ずずっ、と重い音を立て石の扉が横へと滑り、薄暗い通路へと続く口が、ぽっかりと開いた。
王子は、はは……、と力の抜けた笑いと共に、うまくいって良かった、と安堵の滲んだ声で独り言のように漏らす。
「どういうことだ……」
台座に腰掛けたまま皇帝が問いを零せば、その険しい顔に若干腰が引けつつも、王子は提示された条件に対する疑問から説明を始めた。
「『肉体の一部』はどの程度の量を指すのかって思って、なら身体まるごとでもいいんじゃないかと思ったんだ。それに生死についての言及もなかったし」
「……ここが闘技場だと仮定するのならば、『敗者を台座に乗せる勝者』という形式が整えば良いと、そういうことか」
わざわざ運ばれた事の意味を考えた上で皇帝が仮説を口にすれば、王子は肯定の頷きを返す。
「なので、念には念を入れて……」
そう言うが早いか王子は膝を着き、再び皇帝の腰に腕を回すや相手の腹に肩を押し当て、ぐい、と勢いを付けて立ち上がった。
まるで俵のように担ぎ上げられまたしても声の出ない皇帝が固まっているのを良い事に、王子は外された装備を拾い上げ悠々と扉をくぐったのだった。
「……おい」
足下で鈍く光る苔を頼りに通路を進んでいれば、低い声が背中側から王子の耳に届く。
「勝者が敗者を戦利品として持って行くって事もあったんじゃないかなー、と思って。なら俺が運べばふたりで出られると踏んだわけだが?」
あくまで仮定でしかないが実際にこうして無事に出られた以上、検証の為に戻るなど愚の骨頂である。それがわかっているだけに皇帝も低く唸るに留め、悪態はなりを潜めているのだろう。
「問題はこれがちゃんと出口かって事なんだが……」
行き着いた木製の扉を前に王子が懸念たっぷりに漏らせば、最早どうでもよくなったか担がれたままの皇帝は「さっさと開けろ」と投げやりに応じるだけだ。
鍵が掛かっていない事を確認し、警戒しつつゆっくりと押し開けば、その先は三方の壁にも扉のある四角い小部屋であった。全ての扉の上部、顔とほぼ同じ高さの位置には柵付きの小窓が開いており、試しに覗き込んだ右手側の扉の内部は、何に使うのか想像するだにおぞましい大小様々な器具が所狭しと置かれている。
声こそ上げなかったが王子は顔をしかめ、足早にその扉から離れた。左の部屋には薄汚れたベッドがひとつ。そして、正面の扉は通路へと繋がっていた。
王子の微妙な変化を感じ取ったか、いい加減下ろせ、と皇帝は背を叩き王子が素直に応じれば、地に足を付けた男は迷う事無く全ての扉の先を一瞥し、ひとつ鼻を鳴らした。
「貴様の仮説もあながち間違いでは無かったようだな」
敗者の末路は碌な物ではなかった事は一目瞭然で。
「本当に、いい趣味をしている」
苦々しく吐き捨てた皇帝は神器を強く握り直し、一瞬にして正面の扉を破壊した。
「外に出たら破壊するが、異議は?」
「あるわけがない」
あの部屋を出る条件が毎回同じという保証はなく、余りにも危険すぎる、と王子が首肯すれば、皇帝は僅かに口角を上げ頷き返す。
「城に戻ったら『勝者』に褒美をくれてやる。考えておけ」
王子が問い返す間もなく皇帝はマントを翻し通路を駆けていく。罠があるやも知れぬというのに、一切気にした様子も無く突き進む背を、王子は必死に追うのだった。
2022.05.09
【あるかもしれない未来のひとつの話】 たったひとつ欲しいものがあるのだと、大剣を握る名も知らぬ男は厳かな声音でそう漏らす。ともすれば剣戟や魔物の咆哮に紛れて聞き逃してしまいそうなそれが、なぜだかはっきりと耳に届き、王子は燃えさかる炎に照らされた男の姿に視線が釘付けになった。
見慣れぬ白い鎧を纏った者達の一糸乱れぬ陣形もさることながら、戦況を見極め彼らに的確な指示を出し、確実に魔物達を押し返す手腕は只者では無いと知れた。
男に付き従っている軍師と思しき女性が、そっ、と近づいて来たかと思えば視線は戦場に向けたまま、陛下が後方に控えてくださっているのは貴殿のおかげだ、感謝している、と小声で身に覚えのない感謝をされ、王子は返答に詰まる。
彼女の口ぶりから察するにこの男は、常ならば隊列の先頭に立ち、真っ先に敵の真っ只中へ斬り込んでいくのだろう。
陛下と呼ばれた男は、ちら、と一瞬視線を寄越すも何も言わず、再び鷹のように鋭い眼差しで刻一刻と変わる戦況に意識を割いている。
欲しいものとは、と先の言葉を受け話を続ければ、男は一旦、唇を引き結び、ゆうるり、とそれを解くと同時に僅かにではあったが口角を上げた。
貴様が勝ち取る未来、と言いたい所だが……
とん、と不意に胸の中心を指で突かれ、さほど強い力ではないにも関わらず、王子の身体は、ぐらり、と揺れた。
――否。意識が揺れたのだ。
お前と共に勝ち取る未来と言い直した方が良さそうだ。
戦場を見据えていた険しい表情から一転、ふわり、と目元を和らげたその表情に、王子の胸が一際大きく高鳴った瞬間、深い闇へと沈んだのだった。
固い寝台から見上げる天幕に、王子は一瞬、自分が今どこに居るのか理解出来ず、二度三度と瞬きを繰り返す。
悲願であった王都奪還を果たし、今は王国軍を名乗れるほどに仲間も増えた。魔物に苦しめられている人々を救う為に、こうして遠征をしているのだと、その道中であるのだと思考を整理し、王子は深く息を吐きつつ身を起こす。
それにしても妙な夢だった、と今し方見た細部まで思い出す事の出来る夢をなぞり、ゆるゆる、と首を振る。
名も知らぬ、だが深く深く刻み込まれた男の姿に王子は、ぎゅう、と胸を押さえた。
最後に聞こえた言葉の意味を理解するのに数年を要する事を、今の王子は知るよしも無かった。
「その時まで忘れるなよ」
2022.05.26
【お疲れ王子にはちょっとだけ優しい皇帝】「花なんか別に好きじゃなかったんだ」
王子の返答に皇帝は一瞬ではあったが軽く目を見開き、そうなのか、と小さく零した。
花瓶を彩る花は執務室を訪れるたびに変わっており、幾度目かの訪問の際ふと何の気なしに皇帝が花の名を問えば、王子の口からは淀みなくすらすらと返された為、てっきり彼の意思で置いている物と思っていたのだ。
「いや、好きじゃなかったというのは語弊があるな。興味はなかった、と言うべきか」
執務室に拘束される時間が増える一方の王子を気遣ってか、アンナが生けたのが最初であったという。
「昔から本を読むのは好きだったから、花の名前も知識として持っているだけだったしな」
王子は王城の地下書庫の膨大な本を粗方読み終えていると密かに噂になっているが、彼の博識振りを目の当たりにする事の多い皇帝は、強ち間違いではなさそうだ、と内心で低く唸る。
「でも、最近は花もいい物だなと思い始めてる」
「ほう……」
机に齧り付き書類をひたすらに捌く中で、ふとした瞬間に目に入る花は心を和ませる物なのかと皇帝は考えるも自身にその感覚は無い為、ほんの少しではあるが王子の心境の変化に興味を抱いた。
「なにか切っ掛けでもあったのか」
そっ、と柔い花弁に親指で触れながら皇帝が問えば、王子は目を走らせていた書類から顔を上げ、ひた、と目の前に立つ相手を見つめる。
「貴方がここに居る時間が少し増えた」
以前は用事が済めばさっさと退室してしまっていた皇帝が、花に目を留め、名を聞いてきた時に、これだ、と王子は思ったのだ。その日を境に王子は皇帝に問われる前に花の名を口にし、そこから他愛のない話へ繋げるという手口を覚え、今に至る。
予想外の言葉に皇帝は無言で王子を見つめ返し、ややあって「よくわからんな」と呟いた。王子はと言えば呆れられる事は想定内であったか、微笑を浮かべつつも困ったように眉尻を下げている。
「強引に事を進めてくるかと思えば、妙なところで遠慮をする。本当に貴様はよくわからん」
すっ、と王子の顔に向かって腕が伸ばされ、花弁に触れていた指が、すり、と唇を柔く撫でる。
「貴様なら俺を引き留めるなど、造作も無いだろう?」
次いで指がなぞったのは前髪に隠れた目の下だ。
「俺を口実にサボった所で、誰が文句を言う?」
もはや気のせいでは誤魔化せないほどの色濃いクマが出来ており、王子が心身共に疲れ切っているのは明白であった。
「一時間でいいから横になれ」
するり、と促すように輪郭を一撫でしてから踵を返した皇帝が向かう先はソファだ。王子は困り眉のまま立ち上がるも、指摘された時点で無意識に目を逸らしていた自身の状態を自覚したか、急激に襲ってきた疲労感についつい気が緩み、ついでに口も緩んでしまった。
「膝枕してくれ」
うっかり飛び出た言葉に、はっ、とするも、一回音にしてしまったそれは無かった事に出来ようはずもなく。
慌てて取り消そうとするも皇帝はいつもと変わらぬ様子でソファに腰を下ろした。だが、ひとつだけ違ったのは、ソファの真ん中ではなく端に座ったのだ。
立ち尽くす王子を見上げ、ゆっくりと首が縦に振られる。
王子は正直、皇帝がここまでわかりやすく他者を甘やかすなどないだろうと思っていたのだ。
ぐっ、と胸の奥から込み上げてくる衝動に抗えず、拳で乱暴に目元を拭う。黙って頷いたその瞳があんまり優しくて泣いてしまった。
2022.06.02
【夏祭りの話】 会場を彩る数多の提灯を見上げ、今年もこの季節がやって来たと、王子は実感する。
恒例となった帝国との合同訓練も夏の風物詩と化しているが、それと並ぶ行事が夏祭りであった。
合同訓練も帝国側は相当やり繰りをして皇帝の時間を捻出しているらしく、彼が予定外の時間を王国で過ごす事はこれまでなかった。
それが今回は奇跡的にも数日の滞在が出来る事となり、王子は念願であった『皇帝と祭を満喫する』を実行するべく声を掛け、見事に了承を勝ち取ったのだ。
勝ち取った、のだが……
「にいさま、あーん」
「……ん」
妹が伸ばす手に合わせて身を屈め、たこ焼きを口に含む皇帝の姿を、王子は後ろから眺めていた。
見目麗しい兄妹揃っての浴衣姿は眼福である。
よく笑うようになったリィーリはとても愛らしい。
普段は見せぬ優しい眼差しの皇帝も大変貴重である。
実のところ、皇帝に約束を取り付けたのはリィーリの方が先であったのだ。
王子さま好き、にいさま大好きな彼女が三人で回りたいと言えば、男ふたりに断るという選択肢は無いのだった。
ここまでいくつかの屋台を巡り、ふたりがいろいろ食べている姿を眺めてきたが、王子には気になる点がいくつかあった。
どの屋台でも買い求めるのは一人分で、必ずリィーリが皿を持つのだ。そして、先程の「あーん」が始まる。
リィーリが一口食べ、皇帝に「あーん」をし、またリィーリが一口食べ……を延々と繰り返すのだ。
微笑ましい光景に、俺も俺も! と割り込むほど王子は無粋な男では無い。無粋では無いがこうも続くと、一体何を見せられているのかと虚無顔になってしまうのも致し方なしである。
ベンチに腰を落ち着け、飲み物を買ってくる、と皇帝が離れたのを幸いに、王子は気になっていた事を包み隠さずリィーリに告げた。すると彼女は、ぱちぱち、と数度瞬きをしてから、こてん、と首を傾げる。
「王子さまも『あーん』したかったですか?」
「いや、そうじゃなくて……」
したいかしたくないかで言えばしたいに気持ちは傾くが、それを言えば話がややこしくなるからと王子は口にするのを、ぐっ、と堪え、首を横に振った。
「ふふ、冗談ですよ。あぁでもしないとにいさま、一口で全部食べてしまうんですもの」
「染みついた癖は早々直せるものじゃないか」
食事はゆっくり味わうものだと、これまでも妹から耳にたこができるほど言われても、傭兵時代に染みついた物は相当根深いようだ。それでも最近は会食や人前での食事の機会も増えたからか、マシになってきた方だと王子はリィーリと顔を見合わせ軽く肩を竦める。それでも気を許した者の前では相変わらずやらかす回数の方が多いのだが。
「王国はおいしい物がいっぱいだから、食事は楽しいんだってにいさまも思ってくれたらいいなって」
はにかむリィーリに、そうだな、と王子が笑みを返したところで皇帝が戻り、なにか言われるかと思ったが、彼は特に表情を変える事無くふたりにラムネ瓶を差し出してきた。
「マレブランケとイルムガルトが一緒に回りたいと言っていた」
瓶を傾ける妹にそう告げれば、からん、と涼しげな音を奏でた瓶が流れるように兄の手に移る。
「櫓の下で待っている」
「わかりました。じゃあ行ってきますね、にいさま。王子さまもありがとうございました」
ぺこり、と小さな頭をひとつ下げ、リィーリは軽やかな足取りで人混みの向こうへ消えたのだった。
「……それも半分こなんだ」
皇帝の手中にある瓶を目で示しながら王子が口にすれば、あぁ、と短く肯定の言葉が返される。
「屋台でいろいろ食べるのを楽しみにしていたからな」
続いた皇帝の言葉はいまいち要領を得ず、王子は隠す事無く首を傾げた。
「……俺とは違って妹は食が細い」
「あー、なるほど」
兄妹双方共に思惑があり、互いに狙いは違えども奇跡的にそれはうまく噛み合っていたのだ。
「さすがに皇帝は半分こってわけにはいかないからなぁ。今日はリィーリに譲ろうって思ってた」
「そうか。気を遣わせたな」
ぐい、とラムネを喉に流し込む皇帝を横目に、王子も瓶を口に寄せる。
「この後は花火が上がるんだったか」
「もっと良く見える場所に移動するか?」
年々大がかりになってて凄いぞ、とまるで自分の事のように誇らしげに胸を張る王子の姿に、皇帝の口角が僅かに上がった。
「一年に一度の花火と共に俺を独り占め出来るとは、随分と贅沢な一日だな」
「それを言ったら貴方だって、俺を独り占めだ」
互いに傲慢な事を言い合って顔を見合わせ、同時に小さく吹き出す。
「王城からでもよく見えるんだ。誰にも邪魔をされずふたりで楽しめる」
そっ、と人目を忍ぶように移動し始めた王子の背に続き、皇帝も祭会場を後にする。
「花火を楽しむ余裕があればいいがな」
揶揄とも取れる皇帝の言葉に王子は肩越しに振り返り、
「俺は両方堪能する自信はあるぞ」
と挑発的に笑ったのだった。
2022.08.03