舟上の漣モアナとマウイがラロタイから脱出し、テ・フィティに向かっている間の出来事のことだ。
「よっと」
マウイが釣り針で何匹もの魚を釣り上げていく。
「大漁ね」
モアナは久々の魚の姿を見て笑顔になった。テ・カァの影響で魚は漁れないと思っていたが、潮の流れによっては闇をかいくぐって魚が泳いでいるようだ。
「漁師に憧れてたわ。海に入れるもの」
魚を見つめて、モアナは幼い頃のことを思い出した。幼い頃はサンゴ礁の中だけでも海に行ける漁師が羨ましかった。親にばれないように漁師の姿を眺めていたものだ。一時期は村長と漁師、両方できないかと真剣に考えたことさえあった。
「そんな理由で漁師をやるのは厳しいだろうな」
マウイはからかうように笑った。その間も慣れた手つきで魚を釣り上げていた。
「小さい頃の話よ。こっそりね」
「別にコソコソする必要ないだろ?」
「海に近寄るのも駄目だったの」
モアナは苦笑いした。今なら子供の命を思っての行動だとわかる。でも、あの頃は海へ行けないことに不満を感じていた。
「それが嫌で舟に一度乗った。けどプアを危ない目に遭わせた」
「プア?」
「友達。とても賢い豚なの」
「連れて来ればよかったのに。なあ、オヤツちゃん」
マウイは、足をしまって座り込んでいるヘイヘイに語りかけた。ヘイヘイはコケッと短く鳴いた。相変わらず目の焦点は合っていない。そのため彼に返事をしているのかはわからない。マウイの発言に対し、モアナは不審げに見つめた。彼は豚も食料にする気だろうか。
「冗談だよ。でも連れてこなかったのが不思議だな」
少なくともヘイヘイよりはお付きにいいだろう。賢い豚か、まるまると肥えた食料向けの鶏あたりなら旅のお供にいいはずだ。それなのに、なぜモアナはヘイヘイを連れてきたのかマウイにとって不思議に思えた。お世辞にも賢いとは言えず、痩せこけた鶏を。
「海を怖がるようになっちゃって……」
モアナはさっきの話を持ち出して、そのあと舟に乗ってプアとともに溺れたこと、その後、プアが海を怖がるようになったことを話した。
その話の間、海が見つめるように盛り上がっていた。
「あ、あなたは悪くないわ」
モアナは海に弁解した。サンゴ礁の荒波のおかげでモトゥヌイは長い間恩恵を受けてきたのだから。おそらく魔物がモトゥヌイに来なかったのもサンゴ礁のおかげだろう。
「で、非常食としてあいつを連れてきたと」
マウイはヘイヘイを指差した。気がつけば立ち上がって海を見下ろして小刻みに首を動かしている。
「ヘイヘイはついてきただけよ!」
モアナが貯蔵庫に入ったヘイヘイに気づくまでの話をし出すとマウイは爆笑した。それと同じタイミングでヘイヘイが海に落ちた。
「最初は手がかかったわ」
「今もじゃないか?」
海へと落ちたヘイヘイが海に拾い上げられる。ヘイヘイが海に落ちるたび、あからさまに拾い上げ方が雑になっていく。
「最初よりは」
モアナはヘイヘイが最初、海を見て怖がって叫んだことを話した。マウイは、ヘイヘイが海を怖がったという話に驚いた。彼はヘイヘイのことを恐怖を感じない鶏だと思っていたからだ。
「怯えてたほうがよかったかもな」
「まぁ、うん」
モアナは曖昧に返事をした。海は学ぶ気配を見せないヘイヘイに手加減しなくなってきた。その様子にモアナは苦笑する。そろそろ海が呆れて見殺しにする日も近いかもしれない。
「でもヘイヘイのおかげで、あなたに会うまでも辛くなかったわ。手がかかるから」
海が導いてくれたとはいえ、海は生き物とはまた違う存在だ。最初は海との意思疎通が難しく、不安や不満があった。その彼女の不満や心配はヘイヘイの世話へと逸れていった。だからこそ辛いと思う暇はなかった。モアナは痩せた鶏を見つめる。役に立つわけではないが、ヘイヘイがいたことで孤独を感じることはなかった。
「さて」
マウイは首を何度か鳴らした。モアナはヘイヘイからマウイに視線を移した。変身の練習を再開するようだ。
「何かリクエストはあるか?サメ頭とか」
「あれを練習するの?」
モアナは思い出し笑いしそうになった。いや、実際に彼女の口から小さな笑い声が漏れていた。サメ頭の姿をテ・カァと対峙するときにいったいどう使うのだろう。
「色々変身できたほうがいい」
マウイの不敵な笑みに合わせてモアナもにんまり笑ってみせた。
「何かいいのあるか?」
「うーん……」
モアナがリクエストを考えていたとき、肌寒い風が彼女の体を撫でた。
「ぐしゅっ!」
モアナはくしゃみをした。気がつけば日が暮れてきている。肩をさする彼女を見てマウイは釣り針を構えた。が、次の彼女の行動に釣り針を落としそうになった。
モアナが腰巻の帯を解き始めた。するりと解いて腰巻を肩の上に羽織る。そして、腰巻の折り目に沿って解いた帯を通した。現代の服装に例えるなら襟付きのケープのようだ。彼女は羽織った布を固定できるように帯を結んだ。
「よし」
モアナは話題を元に戻そうとして、マウイを見た。マウイはモアナを凝視したままだ。
「あ、えっと、ど、どうかした?」
「いや……」
モアナの質問にマウイは我に返った。その瞬間、彼の手が滑ったことで釣り針が舟に叩きつけられる。その衝撃で舟が大きく傾いた。舟が揺れ、モアナとヘイヘイはバランスを崩して海に落ちてしまった。
海はモアナ、あと珍しくヘイヘイも丁寧に舟の上に戻した。
「くしゅっ!」
海に浸かった彼女の体に寒気が走る。モアナの滑らかな肌に鳥肌が立つ。たとえ布を肩に羽織っていても厳しいものだった。彼女は髪を絞り、海に滴を落とした。
「悪い」
マウイは珍しく正直に謝った。
「う、う……くしゅんっ!」
モアナは頷こうとしてもう一度くしゃみした。
「あー、座ったほうがいいかもな」
マウイは釣り針を構えて青白い光に包まれる。モアナは体を丸めるように膝を抱えて座り込んだ。マウイは巨大な鷹に姿を変えると、モアナの肩に自分の翼を被せた。親に温められる雛鳥はこんな感じなんだろうか。モアナは温かさに安心して息を深く吐いた。
「ひよこになったみたい」
モアナは目を細めてクスクス笑った。
「俺は鶏じゃないぞ」
巨大な鷹は彼女に言った。
「あなたが言ったんじゃない」
モアナはラロタイの門に向かうときの彼の言葉を持ち出した。
「そんなこともあったなぁ」
マウイは他人事のように振り返った。数日前までのピリピリした関係が遠い昔のようだ。
「この先に島が……」
モアナを見てマウイの言葉が途切れる。
「島があるの?」
モアナは嬉しそうにマウイの言葉を汲んだ。彼は何も言わずにモアナを見ている。
「……マウイ?」
彼女は怪訝そうにマウイに呼びかける。さっきと同じように彼は我に返った。
「……か」
我に返ると同時に、彼は上を向いてボソボソと何か呟いた。
「えっ?」
モアナはマウイの小声が聞き取れず聞き返した。マウイは彼女から目線を逸らしたまま、もう一度繰り返した。
「脚、寒くないか?」
彼の言葉でモアナは膝を抱えていた両腕が解けていたことに気づいた。彼女は肩に巻いていた布を慌てて膝にかけた。
そうだった。腰布を肩に巻いていたことを忘れていた。彼女の腰を覆っているのは腰蓑だけだ。腰蓑そのものは分厚く、立っていれば腰回りの寒さは大したことはない。だが、膝を立てて座れば腰蓑の繊維が脚から滑り落ちて素肌がさらされる。モアナは体を冷やさないようにするのを優先するあまり、そのことに気づかなかった。
「も、もう大丈夫!」
上を向いたままのマウイにモアナは声をかけた。
「……島には温泉もあったはずだ」
なおも目線を逸らして、マウイは先ほどの話を続けた。彼の羽毛に包まれた体がさっきより熱く感じる。
「そ、そうなの!?楽しみ!」
モアナは不自然なまでに明るく答えた。彼女の体は次第に汗ばんでいく。鷹の体温で温まったのか、それとも風が止んだのかわからなくなっていた。モアナは翼の下から波を確認した。凪いでいる様子はない。どうやら風の強さは変わっていないようだ。
「……あれ?」
モアナはマウイを見上げた。
「ん?」
「あなたって風を操……んむっ」
モアナの疑問はマウイの羽毛に遮られた。羽毛越しだが心臓の音が伝わる。鷹の拍動は次第に早く大きくなっていった。
「風が強くなってきたな」
『風と海の神』はしらばっくれるように言った。モアナは彼の翼の下で何度も唸っている。彼は自分の体を冷ますように、力を存分に発揮する。風の勢いで細かい波が生まれる。落ち着きのない漣は彼の心臓の拍動と連動しているようであった。