打ち明け話ある日の夕方のことだ。モアナは仕事を早く終えて、とある島の浜辺まで来ていた。彼女は水平線を見渡す。夕日に染まった海が眩しくきらめく。彼女は反射する光に目を細めた。見る限りだと彼は来ていないようだ。モアナに気づいたのか、海は意思を持って形を変えだす。海が引き上がり、一部が高く盛り上がる。その姿はまるで頭のように見えた。
「まだ来てなさそう?」
モアナの質問に海が頷く。その頷いた反動でモアナの顔に滴がかかる。思わずモアナは顔をくしゃりとさせた。
「よかった」
モアナは砂浜に座り込んだ。足を崩して楽な姿勢になる。しっかりとしたふくらはぎがまっすぐに伸びる。彼女は腕を軽く伸ばし始める。今日はココナッツの収穫で手足をよく使った。彼女が体を伸ばすのを見て、海は彼女の足を包み込んだ。足の裏についていた砂が落ちていく。ときおり、揉まれるような圧力を感じてくすぐったい。海なりの労いだろうか。それともただ遊びの一環だと思ったのだろうか。
モアナは何度か海と話せたらいいのにと思ったことがあった。それでも、海は感情豊かで聞き相手になってくれる。海の気分が良ければの話だが。彼女は少し考え込むようにしてから海を見上げた。
「話があるの。聞いてもらっていい?」
海が再び頷く。海の合意を得てモアナは深呼吸する。島のみんなに話してこなかったことだ。そんな話を初めて打ち明ける。言ってもいいだろうか。もちろん相手は仲の良い海だ。それに、茶目っ気はあるが、相談話をぞんざいに聞くような性格ではない。少なくともモアナはそう感じていた。それでも緊張することには変わりない。彼女は意を決して話を切り出した。
「マウイは『人間に愛されたかった』って言ってた。……特定の人間に愛されたいって思ったことはあったのかな?」
海は形をとどめ続ける。肯定も否定もする様子を見せない。海も知らないのかもしれない。モアナは却って安堵していた。彼女は尋ねた直後で答えを知るのが不安になっていた。言うまでは知りたいと思っていたのに。不思議なこともあるものだ。
「長生きしてるから一度くらいはあるかもね」
モアナは薄く笑った。彼女の視線が海から砂に移る。数えきれないほどの砂だ。砂を手で掬う。指の間をゆっくり開いてはさらさらと落としていく。細かい砂は浜へと戻る。掬った跡が元どおりに埋まっていく。指の間を通りきれなかった大きな砂粒がモアナの掌に残った。モアナはしばらくほんの数粒だけ残った砂粒を見つめていた。ふと彼女の耳に海の引き上がる音が聞こえた。
モアナは海のほうに目を移す。すると、海が浜から引き上がっていた。先ほどよりも広範囲で引き上がっている。モアナは幼い頃、そして船を島のみんなで洞窟から出したときのことを思い出す。あのときのように貝か何か見つけたのだろうか。
「貝でも見つけ……」
モアナの言葉が止まる。下を見ると、鮮やかなピンク色のヒトデが砂浜にへばりついていた。どことなく見たことがあるような気がする。海に戻ろうとしているのか、ゆっくりと動いている。
「ごめんね、受け取れないかな」
モアナは海にそう言った。ウミガメの赤ちゃんならともかく、ヒトデは陸地に上がったままでは息絶えてしまうかもしれない。しかしモアナが言っても海はヒトデを戻そうとしなかった。それどころか、海はヒトデを雑にひっくり返した。彼女は海の行動に困惑しつつ、ヒトデを凝視した。そして彼女は自分の手を口に当てる。モアナはヒトデに抱いていた既視感の正体にも気づいた。
「……マウイ?」
モアナの目線からヒトデは目を逸らす。途端に青白い光で辺りが覆われる。夕陽とは異なった眩しい光にモアナは思わず目を閉じた。しばらくしてモアナは目を開けた。彼女は目がチカチカして何度も瞬きする。ヒトデのいた場所にマウイがいた。彼は海に睨みを利かせる。
「聞く気はなかっ……」
マウイは自分の失言に気づき、額に手を当てた。そして諦めたように先程のモアナの質問に答えた。
「そう思ったのは一人だけだ」
「そ、そっか」
モアナは俯いた。本人が答えるとは思わず、上手く言葉が出ない。
「きっと素敵な人なんでしょうね」
モアナが呟いたあと沈黙が続く。気まずさに耐え切れず、彼女は話し始めた。
「えーっと、そういえばね。今日はココナッツ収穫したの。持ってくるね」
モアナは大げさに身振り手振りを交えて駆けていった。走っているうちにマウイの胸のタトゥーが思い浮かぶ。空を持ち上げた彼の隣にいる、船に乗った少女の姿。だが考えてみれば、あのタトゥーは動かしたり変えることができる。知らないだけで他にも刻まれた人間はいるのではないか。モアナはココナッツを籠に乗せて気分を落ち着かせる。それでも息が浅くなっていく。数回呼吸を整え、彼女は籠を運び始めた。
村に向かったモアナをマウイと海が待っていた。
「あれ、自賛のつもりか?」
マウイがぼやく。海は傾ぐばかりだ。彼女は飲み込みが早くて察しが良い。どうせ気づくと思って答えてしまったが、そうでもないようだ。
「あいつは……いや別にいいか」
海がマウイを覗き込むような仕草を見せる。そして彼の額をつついた。
「話せって?」
迷ったあと、マウイは話し始めた。
「俺にハグするくらいだ。し慣れてるだろうし、され慣れてるだろうな」
島ではさぞ愛されて育ってきたのだろう。
「もし、あの子がもっと早く生まれてたらって思うときがある」
もしかしたら、テ・フィティの心を盗むこともなかったかもしれない。盗んだときの心の感触がいまでも忘れられずにいる。島が崩れ、逃げたときの風や海の色、そして溶岩の魔物のあの凄まじい熱気。あの瞬間は、海はマウイを咎めなかった。彼を沈めることなく、静かで穏やかだった。溶岩の魔物の正体に気づいていて、そっちの安全を優先したのだろう。マウイは息が詰まるような気分になった。
「昔会ってたら、嬢ちゃんも俺のファンになってただろうさ。どんな人間も俺のファンになる」
マウイは海に飛沫をかけられるのを覚悟で茶化してみせた。しかし、海は静かだった。否定も肯定もされず彼は気まずさを覚えた。茶化してくれたほうが彼にとってはありがたかった。
「……今みたいに遊ぶこともなかっただろうな」
島に閉じ込められる前に会ってきた人間の顔を思い出そうとする。脳裏に浮かぶ人間たちの顔はおぼろげで靄がかかったようであった。歓喜に満ちた声はよく覚えているというのに。
「遊べるのは楽しい、ただ」
マウイは口をつぐむ。
「舟にいた時は四六時中いたからさ」
あのときが懐かしく感じる。もう少し喜びを噛み締めておくべきだった。モアナが次々と航海術を覚えて嬉しそうにする表情が思い浮かんだ。釣り針がなくても人を喜ばせることができる。そう実感した。
「村長の仕事がなかったら良かったって思うけど、それ聞いたらオールで殴られるだろうな」
海が傾げた。おそらく海は『仕事』という感覚を知らないだろう。距離が近いだけに価値観の違いを忘れていた。遠回しな言葉ではいまいち伝わらないのかもしれない。
「あー、つまり、何度でも会いたいって思ったのはモアナ一人だけだ」
マウイの素直な言葉に、海は穏やかに頷いた。距離が近いぶん、彼のこう言った話を聞くのは海にとっても初めてのことだった。
話をしているうちに空が少しずつ暗くなっていた。まだモアナが現れない。そろそろ来てもいいはずだ。
「遅いな」
万が一を考え、マウイは釣り針を構えて立ち上がった。そのとき海がマウイの肩をつついて、後ろを指し示した。後ろの木陰にオレンジ色の布がわずかに見える。いつの間に来ていたのだろうか。
「千年閉じ込められてカンが鈍ったな」
マウイは髪をかきあげ、木陰に近づいた。木陰の奥を覗き込む。そこにはココナッツを籠いっぱい持っているモアナがいた。
「その、聞く気はなかったの!ただ耳が塞げなくて……」
モアナは両手に抱えた籠を見せる。言い訳するうちに顔が燃えるように赤くなっていく。涼しい風が吹く。彼女はその風を心地よく感じた。彼女は緩みそうになる顔を引き締めた。
「もし、昔あなたに会ってもあなたのファンにはなってないと思う。すごい英雄なのはわかるけど」
どうやらだいぶ前から話を聞いていたようだ。聞かれた挙句にこの答えだ。マウイは海に話したこと、彼女がいたことに気づかなかったことに頭を抱えたくなった。
「海に話しただけだ。お前に聞いたんじゃ……」
「昔に生まれてたら」
マウイの言葉を遮るようにモアナは続ける。きつく引き締めていた彼女の顔が次第に和らいでいく。
「いまみたいに、もっと会いたいなんて思わなかった気がする。偉大な英雄とは縁がなさそうって」
最終的にモアナは堪えきれずに照れ臭そうに笑っていた。マウイは予想外の言葉をかけられて後悔が吹き飛ぶ勢いだった。それにも関わらず、彼は尊大に腕を組んだ。
「そういえば」
マウイが組んでいた腕を解く。彼は右手でモアナの両手からココナッツの籠を奪った。あっという間の出来事に彼女は瞬きするしかなかった。空いた両手も籠を持ったときのままだ。マウイは余裕を見せつけるようにモアナにウインクしてみせた。何故かモアナは初対面で舟を奪われたときのことを思い出した。
「籠を下ろせば両手が空きそうな気がするんだ。悪くない提案だろ?賢い村長さん。ユアウェルカム」
今度はモアナが腕を組んだ。彼女は無言のままでマウイを睨みつける。耳を塞げる状態になったがそれどころではない。からかわれるぐらいなら言わなくてもよかった。はぐらかすにしても何か別の方法があったんじゃないか。モアナの顔の熱が風とともに冷める。しかし彼女は珍しく気づかなかった。彼の左腕に隠れたミニ・マウイのはしゃぐ姿に。さらには海が海面の一部を首のように横に振ったことも。