初対面ある日の夕方。太陽も足早に沈もうとするなかで村人が仕事を切り上げていく。夕暮れに照らされ、漁の締めの準備をする村人、カゴ編みを終えた村人の間を子豚がかいくぐっていく。白地に灰色のまだら模様の子豚だ。ちょこちょこと蹄で歩く姿が愛くるしい。
「あら、プア。今日もかわいいわね」
「おっプアじゃないか。何か食べたいものあるかい?」
村人は口々に彼の名前を呼んで挨拶した。プアもまた村人の話を聞くのが大好きだ。特に食事の話に関しては彼の目がきらきら輝く。豚肉の話でなければ。
穏やかに生い茂る草原を小さな蹄が踏みしめていく。ふかふかと柔らかな土と植物の感触。プアはリズミカルに鼻を鳴らした。ふとプアの足が止まる。彼の視界に美しい緑色が横切ったのだ。見慣れた深緑色。草原とは違う、動く緑。その緑色は砂浜へと向かっていく。プアの蹄の向かう先が砂浜へと切り替わった。
見慣れた深緑色の『それ』は海辺に立っていた。いや深緑色だけではない。顔や首にかけては逆立った黄色い羽毛で覆われている。長生きしてるはずなのに鮮やかな赤いトサカ。色鮮やかな美しい羽毛。しかし、何より気になるのは枝のように細い体と零れ落ちそうな大きな目をした鶏。そんな特徴的な鶏はこの島に一羽しかいない。ヘイヘイだ。
プアは後ろからヘイヘイを見守る。ヘイヘイは何を考えているのか予測できない。石を飲んでは吐き出し、何度もつつく。ヘイヘイはモアナの旅にもついていった。モアナはプアの友達で村人たちのリーダーでもある。プアは、モアナ本人から『ヘイヘイが旅に同行していたこと』を聞いた。
『たぶん……足を滑らせて舟に入ったのかな?』
そのときの彼女は苦笑していた。それを聞いてプアは納得した。モアナがサンゴ礁の外を旅している間、ヘイヘイを見かけなかった理由がわかった。プアはヘイヘイは村人にこっそり食べられたのではないかと思っていた。しかし、モアナがモトゥヌイに戻ったあとは再びヘイヘイを頻繁に見かけるようになった。村人も思い出したように『あの鶏を久々に見た』と話のタネにした。
この前の出航の際なんてモアナより先にヘイヘイが浜辺にいた。もしかするとヘイヘイは船を寝床にしているのかもしれない。
ヘイヘイは水平線に向いている。目は……どうだろうか。プアにはヘイヘイの焦点の合わない目が海を向いているとは思えなかった。ヘイヘイはずっと立ち続けている。波は何度もささやかに打ち寄せる。そういえばモアナ曰くヘイヘイは海に何度も落ちたらしい。プアはその話を思い出し、ヘイヘイの元へ駆け寄ろうとした。
「コケッ」
ヘイヘイは小さく鳴いた瞬間、海に向かって歩き始めた。案の定ヘイヘイは波に呆気なくさらわれた。プアの血の気が引く。しかしそのときプアの目に信じられないような光景が映った。海が大きく盛り上がり、ヘイヘイを宙へと跳ね飛ばした。高波ではない。緩やかな水の山ができあがる。そのうえ、その透明な盛り上がりは浜に落ちることなく形を保ち続けている。
プアは海でできた透明な小山に目を見開かせた。プアの頭の中でサンゴ礁で溺れかけた経験が生々しく思い起こされる。あの荒々しい波に巻き込まれた恐怖は未だに拭えていない。船に乗ることへの恐怖は克服できた。大きく船体の安定した船なら転覆することもないと学んだからだ。
海は意思のない自然の起伏。プアはそう信じていた。しかし、目の前の光景はプアの固定観念を覆すものだった。まるで海に意思があるようだ。プアは無意識のうちに身震いしていた。だがヘイヘイの頭が砂浜に埋まったままで動かないことが気がかりだ。子豚は決心して浜辺へ近づいた。海はそのまま峰を保ち続けている。プアは目がない海に凝視されているような気分を抱いた。それでも彼はヘイヘイの首をくわえて軽く引っ張り出した。起こしたヘイヘイの首が勢いよく揺れ続ける。海はしかめるように澄んだ峰の先を歪めた。そしてプアのほうに視線を向ける。海が軽く傾く。まるで人間が首を傾げるようであった。
プアは海を見ないように目を伏せた。しばらく沈黙が続く。目を伏せた以上、見上げるのにプアは躊躇った。彼はどうすれば海と意思疎通できるか思いを巡らせた。だが海と接した経験は溺れたことだけだ。意思疎通の方法なんて思いつきそうにない。
そのときプアは頭に冷たい感触を覚えた。彼は頭の湿った感触に驚いて見上げた。海がもう一度横に傾く。海はプアの頭をつついたのだ。プアの表情が少し和らぐ。海は表情の変化に気づいたようにプアのまだら模様の体を撫でた。海がプアの体からゆっくり離れる。プアのまだら模様の灰色が少し濃くなった。
「プア?」
プアの耳に聞き慣れた声が聞こえる。海もまた声の方を向いた。プアの友達、そして海の友でもあるモアナの声だ。
「……えっと仲良くなった、ところ?」
モアナはプアと海それぞれ見ながら尋ねた。プアと海は見合わせ、互いに傾げる仕草を見せた。
「そっか」
モアナは口角を上げて目を細めた。
「プア」
モアナがプアの名前を呼んだ。プアがモアナの目を見つめ返す。
「今日、海に潜る練習するの。それでね」
モアナは話を続けた。
「溺れたとき、誰かに伝えてくれると助かるの。お願いできる?」
プアはモアナの頼みに快く頷いた。
「よかった」
モアナは安堵したように笑みをこぼした。
「実は他にも付き合ってくれる相手がいるんだけど……」
プアは自然とヘイヘイの方を見つめた。海は否定するように何度も激しく横に揺れた。
「あ、ヘイヘイじゃなくて……」
モアナが息を吸った。
「私と一緒にテ・フィティの心を返した相手」
プアは何度か瞬きした。モアナは小さく笑い声を漏らす。彼女の笑い声とともに鷹の声が上空に響いた。
「まだ会ったことなかったものね」
プアの目に鷹の姿が見える。右の翼に釣り針の模様がある巨大な鷹だ。巨大な鷹が青白い閃光とともに半神半人の姿に戻る。雷のような青白い光に、プアの目がチカチカした。光が失せ、島でも見ないようなタトゥーと巨体を持った男が現れた。圧倒されるような大男の姿にプアは思わず怯んだ。
「俺への貢ぎ物か?」
開口一番、半神半人のマウイがプアを見つめて言った。その瞬間モアナがマウイの腕を強く小突いた。マウイは小突かれたあと、すぐに得意の口上を述べ始めた。
「失礼。俺はマウイ、姿を変える者、人であり……」
プアの困惑した表情を見てモアナがマウイの言葉を遮った。
「あー、ごめん。プアには何度か話してるの。手短で大丈夫」
「……風と海の神だ」
マウイは口上をまだ続けたかったようで眉間にしわを寄せた。
ふたりと一匹のやり取りをよそに、ヘイヘイは気づけば再び海に向かっていた。そしてまた海に浜辺へと吹き飛ばされる。海は鶏が戻ってくるのに気を取られ、モアナ、マウイ、プアに警告できずにいた。ふたりと一匹が目を離している間、鶏と海の押し問答は続いた。