海の半神ふたり モアナたちがモトゥフェトゥから帰郷して数日後の夜のこと、モトゥヌイで寄り合いが開かれることになった。議題は『カカモラのお頭の子コトゥを故郷の島にいつ帰すかについて』である。この寄り合いでモトゥヌイの村人たちと故郷の島から引き離される前のカカモラの伝承が残っていた島の民が集会所に集まった。
当のコトゥはプアとヘイヘイに並んで座っている。普段、寄り合いに動物が同席することは滅多に無い。だが寄り合いが始まる直前ケレはコトゥの落ち着かなさそうな挙動に気づき、トゥイやシーナに許諾をとった。いくら屈強な戦士とはいえ、カカモラの仲間たちから離れて何日も経過していた。コトゥにとっては故郷の島へ帰るつもりが突如見ず知らずの船乗りたちの旅に巻き込まれたのである。
話し合いの途中、ときおりコトゥはプアに目を合わせたりヘイヘイの背中を撫でる。彼はモトゥヌイに着いてから更に親しくなった人間が増えたが、心細さは拭えないのかもしれない。
大人たちを中心に話し合いが続くなかで、シメアはコトゥの頭を撫でようとした。しかし彼は手で静止する。それでも幼いシメアは怖気付くこともなくコトゥの小さな手を自分の掌に合わせて笑顔を見せた。彼はその手をそっと押し返した。
「シメア、話の途中だからね。彼も話を聞いてるのよ」
隣にいたシーナがシメアを膝の上に乗せる。シメアはシーナの両手に抵抗したがコトゥに近寄ることはできなかった。シーナは数日前にモアナがモトゥフェトゥの旅について少し話してくれたことを思い出す。娘によるとコトゥは他のカカモラたちと比べても小柄でありながら腕力は人間と大差ないようだ。毒槍を持って行こうとしたモアナを力ずくで妨害できるぐらいに強いらしい。また他のカカモラたちを優先して船同士を繋いでいた縄を切るぐらいに仲間を思いやっていること。そしてモアナは三年前コトゥに似たカカモラを見なかったそうだ。あんなに強いのに三年前お頭の前にいなかったのが不思議だと話していた。
カカモラの寿命は全くわからないし体の大きさだけで年齢がわかるものでもないが、もしかするとコトゥは存外幼いのだろうか。シーナは三年前にモアナがテ・フィティの心を返しに旅立ったことを思い出した。まさかあの時に娘を狙った海賊の長が子供を心配している可能性を見出すとは思ってもみなかった。
話し合いは長く続いた。中には操舵が巧みな人物のみで船団を組む提案もされたが、カカモラと面識がないと警戒される可能性がある。ということで、一度協力関係を結んだことのある乗組員としてモアナ、モニ、ロト、ケレが確定した。四人が確定したことを見計らってマウイが話し始めた。
「このココナッツの王子を帰す旅に、俺もついていきたい」
ミスター・ココナッツオイルの発言を聞いた瞬間、コトゥは背負っている吹き矢の筒をつかんだ。
「悪かった。お頭の息子だな」
マウイの訂正から間を置いて、コトゥは吹き矢の筒から予め装填していた赤い毒矢を三、四本外すと腰に付けている小物入れに戻した。マウイはコトゥが吹き矢の筒から取り出した毒矢の本数を二度見したが、咳払いだけして話を続けた。
「ナロの呪いを解いて生き延びたとはいえ、三人はまだ海の渡り方の経験が浅い。改めて風と海の半分神である俺が手解きしてやろう」
モアナとモニがお互い嬉しそうに目を丸くして顔を見合わせる。一方マウイの腕組みの下で、左胸にいるタトゥーの相棒が彼の不遜な態度に対して呆れたように首を横に振った。
「また旅ができるんだ……!しかも今度は最初からマウイがいるよ!!はぁー……これ夢だったりしないよね!?」
寄り合いが終わり、モニが歓声をあげた。もちろん船から落ちて魔物に襲われそうになったり呪われた海へ向かうことになったりと危険な目にも遭った。しかし先祖の呼びかけにこたえ、ナロの呪いを解く旅で生き延びて帰ることができた。そのうえ道中で憧れのマウイにも会えるなんて。モニにとって初めての旅は素晴らしいものになり新たな旅路の予感に胸を躍らせた。
「夢じゃないよモニ。また船をつくんないとね。そうそう!またモトゥフェトゥの絵を帆に描いたほうがいいんじゃない?カカモラたちが警戒しないようにさ!」
ロトがモニに提案した。
「あ、そうだよね。昼間、他の島の語り手と今回の旅についてたくさん話せたんだ。明日の朝に話して協力してもらえるか聞いてみるよ」
彼女の意見にモニが同意する。
「ふたりとも、またよろしくね!」
モニとロトの様子を見てモアナは意気揚々と声をかけた。一方、ケレはモアナ、モニ、ロトを眺めてうんざりしたような表情を見せた。
「またお前たちと旅をするのか。長旅でまだ腰が痛いというのに」
「感動だろ?」
「嬉しい?」
「ケレ、海とまた遊べるよ!」
ケレの言葉も意に介さず、若い乗組員三人はテンション高く答えた。するとモアナの腰布の裾が何かに引っ張られた。彼女が見下ろした先にプアと──ヘイヘイを小脇に抱えたコトゥがいた。
「どうしたの?」
モアナが尋ねると、コトゥは彼女に対してヘイヘイを掲げてみせた。
「くぁっ」
ヘイヘイが短く鳴いて首を傾げる。それにつられるようにモアナも不思議そうに首を傾げた。そういえばカカモラたちは何故か三年前と打って変わってヘイヘイを歓迎していた。何が彼らの態度を変えたのかモアナには見当がつかなかった。最初は崇拝しているような様子を見せなかったコトゥも、いつのまにかヘイヘイの面倒を見るようになっていた。
「連れていきたいのか?この、ニワトリを?」
ケレの信じられなさそうな声に対して、コトゥがプアも撫でた。
「ブタまで?頭が痛くなってきた」
ケレの頭を押さえる様子にプアが不服そうな顔を見せる。そんなケレの様子を見るやいなや、コトゥはヘイヘイを優しく下ろして彼の足元に近づいた。下ろされたヘイヘイは歩き出して地面をつつき始める。ケレは近づいてきたコトゥに気づいて屈んだ。コトゥは彼の腕を伝って肩までよじ登ると、両手で彼の頭を撫で始めた。
「あー、家には薬草があるから気にせんでいいぞ」
ケレにとっては比喩表現のつもりだったのだが、コトゥは言葉を真面目に受け止めたようだ。そしてケレは農作業の引き継ぎについて弟子たちに話しかけられ、コトゥを肩に乗せたまま自分の家へと戻っていった。
「腰が痛いなんて嘘だね」
ロトがニヤニヤしてモアナに耳打ちした。
「元気が何よりよ」
「おねえちゃん!」
シメアがモアナの足に抱きつく。モアナは妹の頭を撫でた。
「シメア、お話聞くの大変だったでしょ?お疲れ様。一緒に早く寝ようね」
「まだ起きてる!道を見つける者は眠らないんでしょ!?」
モアナの言葉にシメアが唇を尖らせた。
「旅をしてる間はね。でも島にいるときはしっかり寝ないと体に良くないよ」
「おチビちゃん。お姉ちゃんの言う通りよ?まだあなたは毎日しっかり寝る必要があるわ」
シーナがシメアを諭した。するとマウイがシメアの目線に合わせて屈み込んだ。
「子供が夜更かしなんてしてたら歩くサメがやってくるぞ」
「歩くサメなんていないもん!!」
「それはどうだろうな?陸を這い回れる小魚どもが巨大な貝からこの島へやってきたし、魔物の国にはデカいギラギラのカニだっている。な、お姫様?」
マウイがわざとらしくモアナに数回ウィンクしてきた。
「お姫様じゃ……ふふっ……ないって……」
モアナはマウイの目配せで笑いを堪えるのに苦労した。
するとトゥイが他の村人と話を終えてファレから出てきた。
「マウイ、すまない。遅くなった。昨日の話の続きだが──」
昨日の話?先ほどまで笑いを堪えていたモアナが父親の言葉に当惑の表情を見せた。
「ああ、えっと。問題ありません」
マウイも珍しく丁寧な言葉を使っている。ますますモアナは怪訝そうな顔つきになっていく。マウイはモアナの表情の変化に気づいてはいたが、詳しくは言及しなかった。
「モアナ、シメアと一緒にいてくれない?」
シーナがトゥイとマウイを見たあと娘二人にそう告げた。
「えっでも……」
「また後で詳しく話すから」
シーナは質問したそうな上の娘の手を握って伝えた。
「あたしにも話して!」
「まぁな」
シメアの要望に対してマウイが答える。トゥイやシーナは困惑した様子で彼を見た。
「続きは中で」
マウイがファレへと視線を移した。
村の人たちやモアナたちが遠ざかるのを確認して、マウイが広大なファレの帳を下ろし始める。彼は帳を下ろしている途中、自分の行動はモトゥヌイの作法に反しているかもしれないと一瞬思った。しかし、おそらく半分神向けの作法はとっくに失伝しているだろう。問題ないはずだ。全て帳を下ろし終えてトゥイとシーナが座ったあとマウイも釣り針を置いて座った。束の間の静寂が訪れる。彼は口を開けて、静寂を破った。
「あなた方の上の娘さんは嵐の神に目をつけられている」
マウイの言葉を聞いて、トゥイやシーナの顔が曇る。無理もない。彼らは島の人々を率いられるように娘を育ててきた。千年もの間、この島では神や魔物から離れるように遠洋航海に関する厳しい掟が敷かれていた。その掟をモアナが破ったのだ。そして彼女は今や島の人々どころか別の島にいた海の民、魔物、神々に周知された存在となった。
モアナがモトゥフェトゥの呪いを解いた以上、ナロは彼女を更に警戒しているはすだ。しかも彼の手先には縦横無尽に空を舞い、無数のコウモリを使役する半神がいる。接近戦に特化しているマウイとは相性の悪い相手だ。仮に海上で彼女と戦うのであれば、モアナにも勝算がある。ただ、それも普段の自我を持った海の上での話だが。
「巻き毛ちゃ……モアナは神の力を授かった。それでも油断はできない。しかも神が本気なら半分神を人間に戻すこともできる。おふたりはモアナから既に聞いてるかもしれないが、実際ナロは俺を人間に戻した。そこで、お願いしたいことがある」
マウイは深く頭を下げて、こう続けた。
「近々、神々の領域へ彼女を一度連れていかせてほしい。今はまだナロに目立った動きはない。ただ今後も人間を決裂させるために動き続けるだろう。そうなると俺や人間で対抗するのは限界が出てくる。あいつが海を支配していた時期に蓄えていた力がどのぐらいか、俺にも想像がつかない。神の協力がもっと必要になると考えている。モアナは風と海の半分神に加えて、溶岩の魔物を母なる島へ立ち直らせることができた。他の神を説得させるために彼女を連れていきたい」
ふたりはどう思うだろうか。三人の無言が続いた。
「マウイ、私は……娘が、モアナが選んできた道を誇りに思っている。それは本当だ」
しばらくしてトゥイが深く溜息をつき、再びうつむく。彼の腕は震えていた。
「だが、それがモアナの重荷になっているようで心配になるんだ。あの子は責任感が強い。きっとこれからの生き方を受け入れているとは思う。それでも……」
娘のモアナは通常の人間と違う時の流れを生きることになった。モトゥフェトゥを引き上げる際にマウイがナロに人間に戻されたらしいが、彼の口ぶりからして滅多にない事例なんだろう。モアナは今後、可愛がっている村の子供達や妹のシメアが自分より先に年老いていくのを見守る側になるはずだ。何世代にも渡って。彼女は耐えられるのだろうか。シーナはトゥイの肩に手を置いた。
マウイはふたりの様子を見つめる。モアナがここまで献身的に育つということはモアナを大切に育てたふたりにとっては最大の幸運だろう。一方で彼女が自己犠牲に対して躊躇いが少ないことは彼らに取って最大の不幸かもしれない。
マウイは海底で力無く漂うモアナを見つけた時のことを思い出した。冷たくなった彼女の体に触れた瞬間。声をかけてもぴくりとも動かなかったあのとき。マウイの背筋に寒気が走る。モアナと再会した時、突進するように抱擁してくれて笑顔を見せてくれた。そのときの彼女の体は温かった。神々の通り道の途中、彼女が早口でまくしたてながらコロコロと変わっていく表情。それから数時間後のことだ。このときの出来事はふたりには言ってない。これからも言うつもりはない。
テ・フィティの心を奪った時点でモアナの運命は半ば決まっていたのかもしれない。
『あなたをマウイにしたのはあなたよ』
自分にそう言ってくれたモアナは、この状況も彼女自身が選び取った結果として受け入れているのだろう。それでも、あのときモアナを取り戻そうと祈ったのは間違いなく自分だ。彼女を愛している両親のこの様子を見ると考えずにはいられない。テ・フィティの心を奪わなかった場合どうなっていたかを。
「……あの子のどんな重荷も分かち合うつもりです」
マウイが親友の両親の目を見て己を戒めた。自分は神に歯向かう半分神だ。テ・フィティの心を奪わなかった世界?人間に愛されたいと願い続けていれば遅かれ早かれ心を盗んで人類に与えることだろう。いくら半分神とはいえマウイは時間を遡れるような力を持っていない。代わりにできることといえば。
「俺の誇りは──」
マウイは首飾りの縄を持ち上げる。首飾りの牙に隠れていたモアナの姿の描かれたタトゥーがあらわになった。
「モアナを『道を見つける者』にしたことです」
トゥイとシーナは目を見開いて一瞬お互いに目を合わせた。
「モアナは心身ともに俺を助けてくれました。半分神になった彼女を生涯助けるつもりです」
マウイは親友の両親にそう誓うと、首飾りの縄を下ろした。
ファレから出るとマウイは首を回し、腕や肩を伸ばす。ミニマウイも目を瞑って体を伸ばした。小さな相棒は体を伸ばし切ったあと遠くの方へ耳をすませるような仕草をした。
「なんだその姿勢は?新しいストレッチでも開発したのか?」
ミニマウイが地団駄を踏んで遠方を指差した。マウイが相棒の指差す方向を見やる。シメアと一緒にいたはずのモアナが松明を持って駆け寄ってきた。ミニマウイが片手を振るとモアナも片手を振り返した。
「マウイ、話は終わった?」
「終わった。ところで巻き毛ちゃん、愛しのおチビちゃんはどうした?」
マウイが大げさに周囲を見回す。モアナが小さく笑った。
「他の人たちにちょっとお願いしたの」
「そうか。きっと俺の好感度がドン底ぐらいに下がってるだろうな。ラロタイと同じぐらい」
「そう、『マウイきらい』って言ってた」
マウイはシメアの不機嫌そうに膨れた顔が目に浮かんでニヤリと笑った。
「次回のお土産は弾ませて……あと面倒を見てるやつにも何か贈らないと手が足りなくて割に合わなさそうだな」
「うん。ねえ、お父さんやお母さんとの話なんだけど……」
「ああ、魔物を倒すより手強かった」
マウイの言葉にモアナが呆れたように目を細めた。
「冗談だよ。半分」
「……何を話したか聞いてもいい?」
その返答の代わりに彼はモアナの持っていた松明を優しく受け取る。ふたりは歩き出した。モアナの先祖が多くの船を千年隠していた洞窟へ。
洞窟の中へ進むと、ふたりの視線が赤い渦巻きの描かれた帆をとらえる。一面に広がる潮の香りが鼻に抜けていく。マウイは三年前に二、三週間しか使ってなかったはずの舟が懐かしく感じた。
「テ・フィティからモトゥヌイへ帰るときの舟が出発前より広く感じたの。不思議ね」
そう言ってモアナが船体を撫でる。
「それは船のおやつが船酔いでやつれちまったからだろうな」
「マウイ?」
マウイはふざけながらも彼女の手の動きを目で追った。モアナが舟に座ったあと彼は松明をざくりと砂に挿し込んだ。湿り気を帯びた風がときおり炎を揺らめかせ、洞窟の岩壁に描かれた彫刻を照らした。
「モアナ」
マウイがモアナの隣に座り、彼女の顔を覗き込んだ。彼は柔和な笑みをたたえている。モアナ以外にはなかなか見せることのない表情だ。
「俺と一緒に神の領域に来てくれないか?」
モアナとマウイは見つめ合ったまま、少し沈黙が流れた。
「そうそう。言っておくが、そこに脚の筋トレをサボってる嵐の神はいない。あいつは出禁」
マウイがおなじみの強気な顔つきに戻り、軽口を叩いた。
「俺を育ててくれた神々のいるところだ」
モアナは少し戸惑った。神の力を与えられ、こんなに早く神に会うことを提案されるのは光栄なことだ。
『神々の間で噂の人間』
モアナはマタンギの言葉を思い出して心拍が速くなった。神の力が与えられることは名誉なことだ。しかし、自分は幼い頃から神々に育てられたマウイと異なる。家族や島の人と長く過ごしてきた日常から徐々に引き離されてしまうような感覚。体がすくみそうになってしまうのはなぜだろうか。でも。マウイを育ててくれた神々に会う。親友の育ての親に会うと思えば恐ろしいことではない。モアナは自身に言い聞かせた。
「……わたしでよかったら一緒に行く」
「そうこなくっちゃな」
モアナの返答を聞くと、マウイは得意げな笑みを浮かべて船体から跳び降りた。そして彼はモアナと向き合って真剣な眼差しを見せた。彼は自分の右掌──正確には彼の右手の人差し指に、モアナの左掌を乗せた。マウイは彼女の左腕から指先にかけて刻まれたタトゥーを敬意のこもった目で見る。海の民を繋げ直した功績の描かれた美しいタトゥーだ。風と海の半神は彼女に跪いた。
「タウタイ・モアナ。海の民を再び繋げた君が神の領域へ来てくれることを心から歓迎する」
マウイは目を閉じ、自身の心臓の位置に左手を当てた。すると、そこに描かれたモアナの姿のタトゥーが淡い青色に輝き始める。モアナは息を呑んで目尻を細めた。そして彼女はマウイの指と自分の左手が離れないように船体から降りると、ゆっくりと深呼吸し始めた。その息遣いに呼応するように左腕のタトゥーが淡い金色に輝き始める。マウイが目を開けると彼は自身の左手を動かしてモアナの姿のタトゥーからモアナの左手に添えた。
「人々に多くの恵みを与えてきたマウイ。あなたから道の見つけ方を学んだことを心から誇りに思います」
海に見出された半神ふたりは顔を近づけ、互いの鼻を触れ合わせた。
「ふぁ……」
モアナはあくびをし始めた。それとともに左腕のタトゥーの光も緩やかに墨の色へと落ち着いていく。マウイの慈しむような表情に気づき、彼女はあくびを誤魔化すように唇を軽く噛んだ。
「えっと、半分神様って眠くならないって思ってた」
モアナはぎこちなく冗談を言った。長い船旅の疲れが出たのかもしれない。
「戻るか?」
マウイは表情を崩さず柔らかい声で尋ねた。モアナは砂に挿していた松明を手に取ろうとする。
「でも、もう少しあなたと話したい……わっ!?」
マウイが片腕でモアナを抱えて歩き出そうとした。モアナは危うく松明を持っていた手を滑らせそうになるところだった。
「危ないからやめて!火傷しちゃう!」
「おっと失礼。まぁ半分神ともなるとその熱さじゃ傷つかないけどな」
マウイは悪びれることもなく松明を持ったモアナを下ろした。さっきとは打って変わって何かを企んでいそうな笑顔になっている。
「夜更かししたい悪いお姫様には歩くサメの代わりに恐ろしい魔物の話でも聞かせよう」
張り切って声を上げるマウイを見てモアナは挑戦的に眉を上げた。
「楽しみね」
モアナとマウイが洞窟から出る。浜辺には、今日の日中にモアナたちとともに上陸した海の民の船団が連なるように停留している。まだ何人か起きて話しているが船上で寝ている者のほうが多そうだ。ふたりは対岸の人気の少なさそうな岩場へと迂回した。
岩場に座り、マウイが上半身でモアナの体をこづいた。モアナは船団を眺める。マウイはモアナを暖かな眼差しで見守った。引き上げたばかりのモトゥフェトゥに他の海の民が現れた時、モアナは驚きと喜びに息が詰まりそうだった。途中で友達のモニが命を落とすところで挫けそうになった。それでも旅の仲間たちは諦めるどころか船を直してくれてナロの呪いに最後まで立ち向かってくれた。モアナの目から涙が溢れそうになる。彼女は涙が落ちないように何回か瞬きしたが、それでも涙で視界がぼやけてくる。
モアナは船団からマウイへ目線を移す。感慨深そうに船団を見つめる彼の横顔を見て彼女の胸が疼いた。彼女はマウイがナロの雷撃を浴びたときのことを思い出す。モトゥフェトゥへ潜っていく間もマウイの安否が気がかりだった。みんなで一緒に帰りたい。せめて島に触れないと。船もほとんど壊れてしまったけど、もしかしたら呪いを解けば海が少し手伝ってくれるかもしれない。そう願って手足を動かし続けた。
モアナがモトゥフェトゥに触れた瞬間、後方が眩しく光った。あの直後何が起きたのかは覚えてない。気を失っていたのだろうか。あの瞬間、三人に謝りたかった。旅が始まったときはオールだけモニに任せて航海術全般は自分が率先するつもりだった。ロトは船の修繕、ケレには食糧の栽培といったようにそれぞれの専門分野に集中してもらえれば大丈夫だと考えていた。あのとき自分のその判断を悔やんだ。でも。
「……夢みたい。みんなここにいる」
モアナの目尻に涙の筋がこぼれ始める。モアナは目をこすろうとした。しかしそれより素早くマウイが右手の人差し指で彼女の目尻の涙を拭き取った。
「夢じゃない。モアナのおかげだ。あいつらに言ってもいいんだぞ?『ユアウェルカ〜ム♪』って」
マウイは船団の方を両腕で仰々しく差し示す。そのあと彼はモアナの頭を軽く撫でた。モアナは口角を上げてマウイのほうを見上げた。まだその大きな瞳は潤んでおり、数多の星を照らしている。
「ゆあうぇるかーむ……♪」
モアナは小さく口ずさみ、マウイの肩にそっと体を傾ける。彼女はまぶたを閉じた。彼の大きな体はいつも温かい。マウイの肩越しにも彼女の小さな体の温もりが伝わっていく。三千年生きてきた半分神が今まで出会ったなかで最も勇敢で偉大な『道を見つける者』。そんなモアナが自分に信頼を寄せてくれている姿を見ると、いじらしい気持ちになる。彼はその巨体をモアナの体を支えるように寄せた。そのとき。
かさっ。
マウイの耳に植物の葉が擦れ合う音がわずかに聞こえた。モアナはもう寝息を立て始めており気づいていない。マウイは丸太のような腕で彼女の体を抱き寄せる。彼は険しい表情で音の聞こえた方向を振り向いた。
「なるほど、いい度胸だ」
マウイが音の正体に対して鼻で笑う。お姫様の眠りを妨げる不届者たちにはこの脅しで十分だろう。彼は不敵に口角を上げて、小指で釣り針に触れた。
「……ん?あれ?マウイ」
うとうとしていたモアナが意識を取り戻す。松明の炎の明るさが彼女のまぶた越しに柔らかく照らしている。
「どうした?」
「いま、何か聞こえたような……人の声?」
モアナはゆっくり目を開けようとした。
「ん?気のせいじゃないか?もう少し寝るといい」
「う、うん……?」
マウイはモアナの視界をヒレで覆う。その影で松明の灯りが遮られ、彼女は再び眠りの世界へといざなわれた。
一方そのころ。家の密集した場所では村人たちが子供たちを探していた。さっきシメアがモアナを探しに他の子たちと協力し、大人たちから逃げたのだ。シメアは本人としては運悪くすぐに捕まったのだが、他の子供たちが見つからない。急遽、子供たちの捜索に駆り出されたロトやモニがあたりを見回す。
「どこに行ったんだろう」
ロトはケレを呼び出してつぶやいた。
「まったく人使いが荒い」
「まぁ明日、果物切るの手伝うからさ。ケレはモアナ見た?」
「寄り合いの後は見ておらんが……ん?」
ケレがプアの背に乗ってやってきたコトゥに気づいた。信じがたいことにトビハゼの大群も引き連れて。
「お前さんたちは寝ててくれ」
コトゥはプアから降りて、ケレの言葉を否定するように体を横に振る仕草をした。プアも地面に鼻を近づけて周辺のにおいを嗅ぎ始める。彼も子供たちを探すつもりのようだ。にぎやかにトビハゼの大合唱が始まる。彼らは協力するつもりなのか不明だ。この集団の後方にはトビハゼの一匹に片足を咥えられてそのまま引きずられてきたヘイヘイもいる。周囲を見回してたコトゥがトビハゼの口を開けてヘイヘイを救出した。
「マウイなら空を飛んで探せるけど見つからないし……おーい!!そっちはどう!?子供たちはいた!?」
モニが遠くにいる村人に大声をあげる。
「ダメだ!いない!」
村人から大声が返ってくる。他の村人の顔色がみるみる悪くなっていく。いなくなった子供の親だ。
「あの子たちに何かあったら……」
「あっ。そういえば浜辺のほうは探した?まだ船団の中に起きてる人まだいたり……あれ?」
ロトが目を凝らした。遠くからつんざくような甲高い声が聞こえてくる。子供たちが走って戻ってきたのだ。
「ああ、みんな!よかっ──」
安堵も束の間、勢いの止まらない子供たちの走りに筋肉質のはずのモニが薙ぎ倒された。プア、コトゥ、ケレは倒れて伸びきっているモニを見下ろした。プアは心配そうな表情のまま、前足のひづめでモニの肩を慎重につついた。コトゥもプアに続いて指で彼の足をつつき始める。ケレは自分めがけて子供たちが突進してこなくてよかったと心底思った。
「モニ生きてる?死んじゃった?」
「えっと、どうにか……生き延びてる……」
ロトの極端な質問にモニが力なく答える。ロトが両手でモニの片腕を引っ張り、彼の体勢を立て直した。
「びっくりした……ありがとう……」
モニが乱れた髪を結び直す。ロトが子供たちの様子を見て何があったか尋ねた。
「で、みんなどうしたの?息切れちゃってるね」
子供たちの顔は恐怖で歪んでいる。
「サッ、サメのおばっ……ごほっごほっ!!」
ひとりの子供が勢い余って咳き込んだ。
「落ち着いて。まずは深呼吸。……よし。続けて?」
「サ、サメのおばけがいたの!こっち見て笑ってきた!!」
子供の言葉にケレが不審そうに腕組みした。
「サメ?岩か何かと見間違えたんだろう」
「それに、この島にはサンゴ礁がある。だから海にいるサメもサメのおばけも来れないよ。大丈夫」
ロトは動揺している子供たちをなだめた。
「違う!ほんとにいたの!!」
「信じてよー!」
ケレやロトの意見に子供たちが力強く反発した。この子供たちのうち数人は後日、おぞましいサメのおばけが再度この島に出現してモニとハイタッチするさまを目撃することになる。