巻き毛ちゃんの物言わぬ本心巻き毛ちゃんの物言わぬ本心
数日前に引き上げられたばかりの名もなき小さな島。まだ、この島には誰も船で到達していない。この島にいるのは島を引き上げた当事者ふたりだけだ。大きな影と小さな影が島のあちこちを横切る。そして大きな影が軽々と断崖を飛び越えた。小さな影は後込みしたように崖の手前で立ち止まる。
「怖いか?お姫様」
「もう、お姫様じゃないって」
風の海の半神マウイが発破をかける。発破をかけた相手は陸と海の半神モアナだ。彼女はマウイを見たあと崖を見下ろす。草や木の生えてない硬い地面だ。まだ彼女は半分神になってから怪我をしたことがなかった。実際半分神になったせいか、三年間の船旅でよくできていた手のマメや傷ができなくなっていた。通常の人間より体が丈夫になったのなら傷はつかないかもしれない。しかし痛覚が消え去ったわけではないだろう。モアナは体のどこかに痛みが襲いかかるのを覚悟した。でも。モアナはオールを強く握りしめた。ここでできなかったら、この前のプアに失礼だ。モアナは断崖から宙へと駆け出し──。
「落ちそうになっても俺が引き上げ……」
マウイがそう言いかけた瞬間、モアナはギリギリ彼のいる崖へと着地した。
「やった!」
しかし反対の崖へ到着に成功したのも束の間、モアナの足場が崩れかける。
「うぁ!?」
マウイがとっさにモアナの手を掴もうと近づいた。しかし彼女はどうにか自力で重心をとり続ける。
「おっ………とっ……とー!」
モアナは体をしならせ続け、断崖から落ちずに済んだ。
「マウイ!できたよ!」
モアナの言葉にマウイが片眉と口角を上げた。一方、タトゥーの相棒は胸を撫で下ろす。モアナは笑顔でマウイの元へ走る。だが崖から落ちなかったことへの安堵で、足元にあった滑りやすい植物に気づかず前面へ転びそうになった。
「あっ」
その瞬間にモアナの腰に鈍い衝撃が走り、彼女の顔や体に熱と弾力のある感触があたる。
「ん……ん?」
やや息苦しく感じる。モアナは顔を下へと向けた。モアナの腰の周りに釣り針が当たっている。マウイに釣り針で強く引き寄せられたらしい。そして今度は顔を上へ向けた。自分の左の掌が彼の心臓あたりに触れていたことに気づく。マウイはモアナの視線に気づくと、彼女の腰に当てていた釣り針を離して持ち直した。
「あ……や、やだ……っ」
モアナはマウイから離れる。モアナの言葉を聞いて空を持ち上げていたミニマウイが彼女の方を向いて目を丸くした。
「えっと……ごめん、嫌じゃない……あっ違、じゃなくて……あー……」
モアナの顔から首にかけて赤く染まっていく。
「次から気をつけるね……」
モアナは頬にかかっていた髪を耳にかける。マウイもその仕草につられて髪をかき上げて撫でつけた。
「初めてにしてはよく跳べたな。もう少し脚を鍛えたら、もっと跳べるようになるさ」
マウイがそう言った直後、左胸にいたミニマウイが笑顔で両掌をモアナへ大きく差し出……そうとしてぴたりと動きが止まった。マウイが暗雲立ち込めるような形相で見下ろしている。ミニマウイは彼の表情を見て急いで両手を引っ込ませた。相棒はマウイの左腕へと走ると今度は控えめにモアナへ両手を掲げた。モアナははにかみながら小さな両掌に対して両手の人差し指でハイタッチし返した。
モアナとマウイは四、五日の船旅を経て夕方頃モトゥヌイへ帰ってきた。マウイはモアナのファレの前までモアナを送ることにした。モアナと次回の鍛錬はどうするか話して自分のファレへと向かう。彼は今回の旅の余韻に浸りながら、道中で鼻歌を口ずさみ始めた。
「ユアウェルカム……♪ユアウェル……がっ」
マウイが機嫌良く歌ってる途中、胸に強い衝撃が走った。
「なんだよ相棒。俺の鼻歌がそんなに嫌……は?」
マウイが胸元を見ると、ミニマウイが不安気に何度も辺りを見回している。いつのまにかタトゥーの船からモアナの姿のタトゥーが消えていた。
マウイは急いで自分の体を見回す。彼は小さなモアナがオールを携え、縦横無尽に走っている姿をとらえた。最後に彼女はミニマウイへとこっそり近寄り、肩を指でつついた。彼はミニモアナの方へ振り向き、ぽかんと口を開けた。タトゥーで描かれたモアナは手を口に当て、いたずらっぽく笑うような仕草を見せる。小さな相棒の驚く表情は次第に笑顔に変わる。そして彼は両手を広げて駆け寄ってタトゥーの親友を抱きしめた。
一方マウイ本人は首を傾げた。以前、ナロの呪いを解く際の作戦会議でモアナ含む旅の仲間をタトゥーとして一時的に動かしたことはあった。それに自分の過去を語り聞かせるときには当時を再現してタトゥーを動かすこともできる。しかし今のタトゥーのモアナの動きは全く予測がつかない。
「そういえば……」
先日マウイがモアナを抱きとめた際、彼女の左手が彼の心臓のあたりに触れたことを思い出した。あのとき一瞬だけモアナの左腕のタトゥーが金色に輝き、彼女の姿が描かれたタトゥー周辺が青くきらめいたように見えたのだ。あのとき自分のタトゥーがそこだけ青く光ったのは動揺して心臓が強く脈打ったからだと思っていたが……。おそらくモアナは目を瞑っていたか体を密着させすぎて気づいていなかったのだろう。
「明日モアナに会って話すか。で、後日詳しそうなやつに聞……」
マウイの発言を聞いていたミニマウイがミニモアナを庇うように前へと立ち、マウイに対して釣り針を構えて険しい表情を見せた。ミニマウイの肩越しから背伸びしたミニモアナがその様子を覗き込んでいる。
「いやモアナ次第だ。すぐに元に戻すわけじゃない。その顔はコウモリ女に会った時にでもとっておけ」
ミニマウイはまだ半信半疑なのか、表情を緩めることなく釣り針だけ下ろした。マウイはときどき、この相棒に振り回されることがある。特にモアナに関することになると。自分よりモアナの味方することも多いし、マウイ本人の意思を無視して左胸にいたままモアナとハイタッチして少し気まずくさせたこともある。もし、この小さなモアナもモアナ本人を振り回すようなこともありえる。その場合は元に戻して動かなくすることも検討したほうがいいだろう。いや、動かなくなるのは相棒にとっても寂しいか。神に尋ねてみて、このタトゥーをモアナの体に移してもらうのが今思いつく最善策だろうか。
「少なくとも俺は困らない」
翌朝。
「あっ動いてる!」
モアナは小さなタトゥーの自分を見て手を振った。タトゥーのモアナはモアナに気づき、背伸びして両手で振り返す。ミニマウイはタトゥーの船に飛び乗ってミニモアナを両手で誇らしげに示した。
「こんなに動いているところ初めて見た!」
「俺も初めて見た」
マウイの言葉を聞いてモアナはきょとんとした。
「そうなの?でもモトゥフェトゥを引き上げる作戦を伝える時に動かしてたよね?」
「この巻き毛ちゃんはグレードアップされているんだ。俺でも動きが予想できない」
「へぇー」
モアナは数回小さく頷いた。小さなタトゥーのふたりは一緒に歩いたり焚き火をしたりミニマウイが鷹に変身して小さなモアナを乗せて空を飛んだりして見せる。
「楽しそう!」
モアナはマウイの背中へと飛んでいくふたりを追って歩いた。マウイは彼女の様子を見て軽く咳払いした。
「俺たちもやるか?」
「ほんと!?いいの?」
タトゥーのふたりを追い続け、マウイの正面へ戻ってきたモアナが目を輝かせた。
「いつにす……る?」
ミニモアナがミニマウイに顔を近づけて頬にくちづけした。小さな彼はくちづけされた頬に手を当て、目を泳がせて照れ笑いを浮かべている。小さなモアナもうつむいて自分の両手を撫で合わせる。
「えっあっ」
モアナは一連の出来事に頭がついていなかった。マウイ本人の顔を見ることができない。しかも、まだこれだけでは終わらなかった。ミニモアナがゆっくりミニマウイの両頬を包んで、今度は唇同士を触れ合わせた。途端にミニマウイの体がこわばり髪が逆立ったかと思えば勢いよく倒れ込んだ。彼の頭上にヘイヘイに似たギョロ目のヒヨコが三、四羽ほど円を描くように飛び回っている。
「だっダメ!」
モアナは小さな自分に声をかけて止めた。
「え、えっと、困らせちゃダメだよ」
モアナはミニモアナに注意した。ミニモアナはモアナを見て寂しそうな顔を見せる。マウイは小さく微笑む。
「いや、俺は困らない。それに親友に素直でいるのは美徳だ。巻き毛ちゃん」
「わたしが困るの!」
自分の分身が素直すぎても困る。もし村のみんなに見られたらと考えるとモアナの心臓がいくつあっても足らないだろう。
「戻す方法は?」
「心当たりはあるが、もう少しこのままでもいい」
「でもほら?マウイだって相棒が倒れちゃって困……あっ」
モアナがそう言いかけたところでミニマウイが上体を起こす。彼の頭上を飛んでいたギョロ目のヒヨコたちが飛ぶのをやめて落っこちそうになり、慌てたミニモアナがその手で全てのヒヨコを受け止めた。ヒヨコたちは焦点の合わない目でタトゥーをつっついたりおぼつかない足取りで周囲を歩き始める。ヒヨコとミニマウイの無事を見てモアナはホッとした。
「ああ、よかっ──」
だがモアナの言葉は再び途絶える。相棒はうっとりした表情でミニモアナとモアナを見つめたのち、親指を上げて返答してきた。
「もう!あなたまで!!?」
モアナは声を荒げた。モアナはマウイと長年付き合いのある相棒なら小さなモアナにも毅然として同じ態度を示してくれると信じた。が、いまの彼女は彼をマウイの良心としての側面を期待するあまり、潜在意識の側面を過小評価していた。
「俺と相棒とタトゥーの巻き毛ちゃんが賛成、巻き毛ちゃんが反対。三対一で決まりだな」
マウイの結論を聞き、モアナは顔を限界までしかめてマウイとミニマウイに叫んだ。
「ふたりとも!わたしと小さいわたし、どっちが大事なの!?」
ミニマウイは焦った様子でモアナ本人と小さいモアナで視線を行ったり来たりさせている。
「これは相当な難問だ。モテるのもつらいよな?相棒」
自分がタトゥーの相棒に振り回されるのはごめんだが、自分の姿を模したタトゥーに振り回されている巻き毛ちゃんを見ていると笑いがこみ上げて仕方ない。マウイは自分の分身に目配せした。