数値は愛を語る 少年は今、不機嫌だ。
スコットは隣を歩くピーターの横顔を盗み見ながらそう判じた。
そして、不機嫌になった原因が自分に関わることだという事実に苦笑いを漏らす。
歳の離れた友人であるピーターがスコットの狭いアパートに泊まりに来たのは今日のこと。二人分の食料の買い出しに訪れたスーパーマーケットでちょっとした事件があったのだ。
事件といっても大したことではない。Subであるスコットに声をかけてきたDomの男がいたというだけの話だ。それはピーターがトイレに行っている間の出来事で、「暇なら遊びに行こう」という誘いを当然ながらスコットは断った。
しかし、その男は少々しつこい性格をしていた。断ったというのになかなか立ち去ろうとしない男にスコットがうんざりしているところへピーターが戻り、二人の様子を見て唇を尖らせた少年は男を追い払ってくれたのだ。
それは助かったのだが、彼はスーパーマーケットを出てからずっと不機嫌そうに顔をしかめている。
そろそろ機嫌を直してくれないだろうか、と思いながらスコットはピーターに声をかけてみる。
「なあ、ピーター。アイスでも買って帰ろうか?」
甘いもので機嫌を直してもらおうと考えたのだが、子ども扱いされていると感じたピーターは眉間のしわを深くした。
スコットが「ああ、失敗した」と後悔したところで、もう遅い。ピーターは勢い良く首を振って拒否を示す。
「いらないっ。僕は早くアパートに帰りたい。また変な奴がスコットさんに絡んでくる前に!」
「ああ、うん、そうしよう。」
「スコットさんもあんな奴には強気でいかなきゃだめだよ!あいつ、イヤらしいことする気だったんだからさ!」
「えー……それはないと思うけどな。」
「あんなにイヤらしいニヤけ顔してたのに気づかなかったの?……心配だなぁ。最低なDomがいることを忘れちゃだめなんだよ、スコットさん。」
プリプリと怒っていたピーターが終いには憂い顔で溜め息を吐いたので、スコットは苦笑いするしかなかった。
DomはSubを支配することを望むものだが、スコットは自分のような冴えない中年親父を好むDomなどいないだろうと思っている。ピーターからはその認識を改めるように何度も言われているが、やはりピンと来ない。
「ピーターは心配性だな。」
スコットが正直に感想を述べるとピーターは溜め息を吐く。
「スコットさんが呑気なんだよ。」
その言葉と共に肘で突かれた部分が痛い。
スコットがやり返すとピーターもやり返してきたため仕返しは終わらない。スコットのアパートに到着するまでの間、二人はそんな風にじゃれ合うのだった。
アパートに帰り、買ってきた食料を冷蔵庫に詰めてからスコットは二人分の紅茶を淹れる。特に紅茶好きというわけではなかったのだが、最近は雇い主の影響で紅茶を好むようになったため自分の家にも茶葉を常備している。
小さなダイニングテーブルにカップを置きながら「砂糖は?」と尋ねるとピーターは首を横に振ったため、スコットはそのままピーターの正面に座って紅茶を啜った。
しばらくの間は紅茶と共に会話を楽しんでいたが、不意にピーターが黙り込む。
こちらの様子を窺うように真っ直ぐ視線を向けてくるピーターの顔は大人びている。その表情にドキリとさせられたことに気づかない振りをして、スコットは普段通りの笑みを浮かべてみせる。
「どうした、ピーター。腹減ったのか?」
「ううん、違う。……スコットさんはDomのパートナーを持つ気はないの?」
スコットは予想外の質問に一瞬言葉に詰まったが、「ないよ」と答えを示した。
「周りにDomはいないし、何とも思ってない奴とパートナーになるってのも嫌だし。積極的に作るつもりもないな。」
「じゃあ、僕がDomになったらパートナーになってくれる?」
「ピーター、そういう問題じゃ──」
「前からスコットさんのことが好きだって言ってるよね?僕はSwitchだからDomにもSubにもなれる。スコットさんが望んでくれるならDomになってあなたのパートナーになりたい。」
スコットはピーターの真剣な眼差しから逃れるように僅かに残る紅茶に視線を落とす。
ピーターはDomとSubのどちらにも変化する可能性を持つSwitchだ。恋心については以前に打ち明けられたので知っていたが、パートナーになるためにDomに変化したいと思っているとは知らなかった。
「お前は若い。だからまだ世界が狭くて、身近な大人に恋しただけだ。そんなお前がDomになったら大人になった時に後悔するぞ。」
スコットは目も合わせずに言い切った。
ピーターは高校生であり、出会いはこれから先たくさん訪れる。そうなればスコットへの恋心など消えてしまうだろう。だからスコットは友人という立場を貫いているのだ。
テーブルの上に置かれたピーターの手が拳を作る様子に目を遣りながら、スコットは再び口を開く。
「DomもSubも厄介なもんだ。本能に振り回されてさ。だからお前は変わらずにいた方がいい。」
スコットは紅茶を一気に飲み干すとカップを片づけるために立ち上がった。
そして、シンクに向かおうとする背中にピーターの声がぶつかる。
「スコットさんの気持ちは?まだ聞いてないんだけど。」
怒りと悲しみの滲む声に胸が痛む。だからといって謝ってもピーターにとっては何の意味もないだろう。
それでも何か言わなければ、と開いた口からは溜め息しか出てこずに口をつぐむ。
(俺の気持ち、ね……)
スコットは小さく自嘲しながら返事をするために口を開く。
振り向きはしない。ピーターの顔を見る勇気がなかったからだ。
「せっかく遊びに来てくれたんだから楽しく過ごしたい。それだけだよ。」
ピーターがスコットの家に滞在した数日間、ピーターのスコットへの気持ちやDomになりたいということについて話をしたのは初日の一度だけだった。何事もなかったかのようにくだらない話で盛り上がり、テレビや映画を観て笑い合い、楽しく過ごすだけ。
しかし、実のところスコットはそうはいかなかった。ピーターから言われたことが絶えず頭を過ぎり、己の本心と向き合うことになる。
ピーターを子ども扱いするのは大人の余裕を見せなければ惹かれていることに気づかれてしまいそうだったから。
ピーターの気持ちを知りながらも突き放さずに友人として付き合うのは彼を手放したくなかったから。
「Domにならずに変わらないでいろ」と言ったのは誰かのパートナーになってほしくなかったから。
本心に目を向けてしまえば情けない自分を直視することになった。
本当はピーターに心惹かれているくせに、視野を広げた彼が自分に興味をなくすことを恐れているのだ。妙な部分で経験が邪魔をするのが大人の悲しさだと思いながらスコットはピーターの前で笑う。
「ピーターがDomだったなら事情は違ったかもしれない」という考えが頭を過ってしまった時、スコットは情けなさと罪悪感で頭を打ちつけたくなった。
それからは「ピーターがDomになったら」という考えが脳裏を掠めては「そんなのはだめだ」と自身を叱りつけることの繰り返し。
こんなにも情けない自分にピーターが気づかないよう願うこともひどく情けなかった。
ピーターが帰ってから二週間が経った頃、スコットのスマートフォンがピーターからの着信を知らせる。
画面に表示される名前を見ただけでドキッとする自分にスコットは溜め息を零してから電話に出た。
「よう、どうした?」
『急にごめんなさい。今話しても大丈夫?』
「大丈夫だよ。」
『今、サンフランシスコにいるんだ。少しでもいいから会えない?』
「……は?」
スコットは言われたことの意味が理解できずに固まる。
電話の向こうのピーターに「おーい、スコットさーん」と呼ばれて我に返り、混乱を引きずったまま話し出す。
「ちょっと前に来たばかりだろ?何でまた急に?ああ、説明しなくていい、会ってから聞く。どこに行けばいい?」
『会ってくれるの?』
「ああ、そうだ。で、どこにいる?」
話しながら出かける準備を始めるスコットの耳にピーターの呑気な声が届く。
『うーん、そうだなぁ。またスコットさんの家にお邪魔してもいい?その方がゆっくり話せるし。』
「美味しいお菓子がなくても良ければ。」
『買っていくから大丈夫!じゃあ、今から行くね。』
スコットは「気をつけて来いよ」と電話を切ると、しゃがみ込んで深々と溜め息を吐いた。
突然のことに頭の処理が追いつかない。何か用事があるのだろうが、一体どうしたのだろう?
またあの笑顔に会えるのは嬉しいけれど。
「……って、掃除しないと!」
一人暮らしは気を抜くと部屋が散らかってしまうのがいけない。
スコットは急な来客のために慌てて部屋を片づけ始めるのだった。
二週間前と同じようにダイニングテーブルを挟んでスコットはピーターと向かい合う。異なるのは、ピーターの荷物が前回はリュックと旅行用カバンの二つだったのに対して今回はリュック一つという点だ。
流石に泊まるのは無理だ、と苦笑いするピーターにスコットも苦笑いで返すしかない。
突然の日帰りでの訪問が意味するのはピーターがとても大事な話をしに来たということ。スコットにはそれが少しだけ恐ろしい。
内心の不安を悟られないように努めて穏やかな声で「今日はどうした?」と尋ねると、ピーターはリュックから一枚の用紙を差し出した。
「これを見てほしいんだ。」
真剣な表情のピーターに気圧されながらも用紙を受け取り、それに視線を落とす。
「Switch用フェロモン検査結果」というタイトルの用紙にはピーターの氏名と生年月日が記載されており、この検査結果がピーターのものであることを示している。
この検査はSwitch専用の検査であり、フェロモンの数値を測定するものだ。SwitchはDom/Subが出すフェロモンを大量に浴び続けることによって性別をDom/Subに変化させるのだが、Domのフェロモンを浴びればSubの本能が刺激されてSubになり、Subのフェロモンを浴びればDomの本能が刺激されてDomになる。この性質を利用し、本人の意思を無視して密かに変化させようとする者がいるため、それを防ぐために定期的に検査を受けることが義務付けられている。
通常、Switchが発するフェロモンはDomとSubの数値がほぼ均衡だ。数値に極端な偏りが見られる場合は周囲のDom/Subから故意にフェロモンを浴びせられている可能性が高いので、聞き取りを行った上で保護されることもある。
スコットはピーターの検査結果を見て目を見開いた。
「……Domの数値が、高い。」
ピーターの検査結果はDomとSubの数値が均衡ではなく、Domの数値の方が明らかに高くなっていた。
その事実から導き出される答えは「ピーターがSubのフェロモンを浴びている」ということだ。
スコットは戸惑いを隠さないままピーターに視線を移す。そんなスコットとは対照的にピーターは落ちついた表情でスコットを見つめていた。
「結果を見て驚いたよ。だって、僕の周りにいるSubはスコットさんだけなんだから。……あなたは僕にDomになってほしいの?」
ピーターの言葉にスコットは自分の頬が熱くなるのを自覚した。
検査結果とピーターの声が頭の中をぐるぐると回り、心臓の音が全身に響く。
「ピーターがDomになったら」という願望にも似た考えが無意識のうちにフェロモンを増幅させたのかもしれない。垂れ流したSubのフェロモンはSwitchであるピーターの本能を刺激し、彼をDomに変えようとしている。
スコットは自分が無意識にしたことに対する罪悪感に耐えきれず、両手で顔を覆った。
「悪い、ピーター。本当にごめん、ごめん!……ごめんな。」
本心も浅ましい自分も知られてしまったスコットは今更何かを隠そうとはしない。
許しを求めるかのように心の底に沈めていたものを吐き出していく。
本当はピーターと同じ気持ちを持ってたんだ。
でも、これからいろんな人と出会うお前がいつまでも俺を好きでいてくれるなんて思えなくて、いつかお前が他の誰かを見るようになることに耐えられなかったから自分の気持ちを無視した。
それなのにお前を手放せなくて、大人ぶって友だちでいたんだよ。情けないだろ?
本当は「俺も好きだよ」って返したかった。
Domになって、俺のパートナーになってほしかった。
それを隠そうとしたのに本能は正直で、お前をDomにするためにSubのフェロモンを撒き散らしてたんだ。
ごめんな、本当に無意識だったんだよ。
ごめん、本当にごめん。ピーター、ごめん。
スコットは全てを打ち明けても顔から両手を外すことができなかった。
ピーターがどんな顔で自分の話を聞いているのか知るのが怖い。嫌悪の眼差しを向けられることを想像するだけで死にそうになる。
スコットにできるのは「ごめん」と謝罪を繰り返すことだけだ。
何度目なのかわからない「ごめん」を言った瞬間、スコットは背後から温もりに包まれる。何が起きたのか理解できずに両手を顔から離すと、自分に巻きつくピーターの両腕が見えた。いつ背後に回られたのか全くわからない。
「どうして謝るのか意味がわからない。僕は嬉しくて、スコットさんから直接本当の気持ちが聞きたくて飛んできたっていうのに、どうして謝るの?」
耳元で響いた声は少し拗ねたようだったが、喜びが混ざっていることがわかる。
スコットが驚きと共に顔だけで振り返ると柔らかな眼差しのピーターと目が合った。
「怒ってないのか?俺はピーターを勝手にDomに変えようとしてたんだぞ?」
スコットの問いにピーターは首を横に振った。
「無意識だったんだし、怒ってなんかないよ。嬉しい。」
言葉通りに嬉しそうに微笑むピーターを前にしたスコットは何も言えずに見つめ返すことしかできない。
ピーターが自分に向かって怒ることも詰ることもなく「嬉しい」と笑みを向けてくる現実を信じきれないのだ。
「あなたが僕のことをこんなにも好きでいてくれたことが、すごく嬉しい。こんな形で想いを伝えてくれるなんて本当に本当に嬉しい。幸せだよ、スコットさん。」
スコットはピーターが素直な気持ちを伝えてくれたことに胸がいっぱいになる。
そして、ピーターの気持ちを信じようとしなかった自分を強く恥じた。「未来はこうなるだろう」と勝手に決めつけて、ピーターから寄せられる想いにきちんと向き合おうとしてこなかった自分が本当に恥ずかしかった。
大切なことはまだ見ぬ未来ではなく、いつだって目の前にあったのだと思い知る。
「……ごめんな。先のことを不安に思うより目の前のピーターを信じなきゃいけなかった。本当にごめん。」
「わかってくれたならいいよ。僕も伝え足りなかったのかも……なんてね。」
そう言ってピーターがクスクスと笑うのでスコットもようやく笑みを浮かべる。
そうすると抱きしめられる腕に力が入った。大切に思われていることが伝わってくる抱擁に応えるためにスコットはピーターの腕に手を添える。
「Domになってもならなくても、どっちでもいい。それとは関係なく俺はピーターが好きなんだから、ピーターはピーターのままでいてくれ。」
スコットが素直な思いを伝えれば頬に軽くキスされる。
「ありがとう。でも、できればDomになりたい。そうすればスコットさんが欲求不満の症状で苦しむこともないでしょ?パートナーになりたいっていうのもあるし。」
「ピーター……ありがとな。そうだな、このことはお前の考えに任せる。お前の人生に関わることだからお前自身のために考えて答えを出してほしい。」
「わかった。もっとよく考えてみる。」
ピーターは納得したように頷いてからもう一度頬にキスをくれた。その初々しいキスにスコットはくすぐったい気持ちになり、思わず笑い声を漏らした。
その笑い声を「子どもっぽいと思われた」と受け取ったピーターが頬を膨らませる。
「子どもっぽいって思った?」
「違うって。……好きだなって思っただけだよ。」
そう言って微笑んでやるとピーターは顔を真っ赤に染める。
スコットは自分の肩に顔を埋めて「狡いなぁ」と呟く少年の頭を撫でながら喜びを全面に出して笑う。
「大好きだよ、ピーター。」
End