プリンシパルとアンサンブル(前半)【注意】
・夢小説とCP小説を合わせた作品です。どちらかが苦手であれば読まない方が良いかと思われます。
・主人公がキャラクターと恋愛関係になることはありません。CPはニガリクのみです。
・ご都合主義全開です。チート主人公と感じられる場合があるかもしれません。
・主人公の出番が多いためニガリクのみを楽しみたい方は読まない方が良いかと思われます。
【主人公の紹介】
女性。リックより年下。
他の生存者と共に放浪していたところをニーガンに救われ、ニーガンに感謝している。
救世主として頑張ろうと奮闘しているが、支配地域の住人に対する罪悪感を捨てきれずにいる。
次のページから本編になります。
変わってしまった世界は「普通の人間」には過酷すぎる世界だった。常にギリギリの状態で、己の命が尽きる瞬間を想像しては隣り合う死に怯えた。
そんな世界で救いの手を差し伸べてくれたのは黒い革ジャケットが似合い、有刺鉄線を巻いたベースボールバットを手にした男だった。その堂々とした姿を放浪の旅を供にした仲間の背中越しに眺める。
「俺がお前たちを救ってやる。」
自信しか感じられないセリフを言い放った瞬間の男の顔を、その時に感じた安心感を、今でもハッキリと覚えている。
******
巨大なコミュニティーであるサンクチュアリは階級社会である。トップに君臨するのはニーガンという名の男であり、彼は規則と生活の保証によって多くの人々をまとめ上げていた。その下には「救世主」と呼ばれる兵士たちがいる。
救世主はニーガンの指示の下に様々な任務に就く。物資調達、物資の在庫管理、歩く死人の駆除、支配地域の巡回、そして支配するコミュニティーからの徴収。コミュニティー維持のための任務は多種多様だ。
そして救世主の中にも階級があり、幹部クラスの者たちはニーガンに代わって指示を出したり支配するコミュニティーを管理している。その他の救世主たちはニーガンと幹部たちの手足となって働くのだ。
その救世主よりも下の階級が労働者だ。労働者は炊事洗濯の一切を担って生活を支え、その他にも施設の維持管理を行うことによりニーガンや救世主たちに仕えていた。個室や嗜好品などを与えられる救世主とは異なり待遇は決して良いとは言えない。それでも人間を食らう怪物に怯えて眠ることなく最低限の生活を保証されているのは今の世界では幸運とさえ呼べるだろう。だから労働者階級の者たちは支配者に跪くのだ。
その労働者に属していた名前は救世主になって日が浅い。欠員が出たため自ら願い出て救世主になったものの、覚悟していた以上に仕事はきつかった。仕事内容は肉体労働が中心であるため体力的に大変だというのもあるが、名前にとっては精神的に堪えることが多い。
名前は支配するコミュニティーの巡回や徴収の任務が苦手だ。相手の気持ちになって考えてしまう癖が直らず、居たたまれない気持ちになったり罪悪感に苛まれるのが辛かった。相手のコミュニティーの人間が他の救世主に痛めつけられるのを見るのも嫌だった。それを他の救世主から「そんなことでは舐められる」と叱られたこともある。
「今よりももっと良い暮らしがしたい」と望み、「自分を救ってくれたニーガンに報いたい」と感謝の気持ちを胸に、覚悟を決めて救世主に志願したはずだった。それでも辛くなってしまう自分に嫌気が差しながらも必死に任務をこなす日々が続いた。
窓から僅かに射し込む朝日に促されて名前はサンクチュアリの自室で目を覚ました。上質とは言えないベッドの上で体を起こし、強張った全身を解してからベッドを抜け出すのは毎朝の習慣だ。
まずは眠気を堪えて寝巻きから普段着に着替える。今日の服はサンクチュアリに来て初めて支給された服であるグレーのパーカーとダークブルーのジーンズだ。支給されたものは全て大切にしているが、このパーカーとジーンズに対しては思い入れが強い。
名前は着替えながら小さく溜め息を吐いた。今日はアレクサンドリアの徴収に参加する。救世主によるアレクサンドリアの徴収自体は初めてではないが、名前が行くのは初めてだ。アレクサンドリアの徴収にはニーガンも同行すると聞いているためいつもより緊張している。
普段の状態でいられないことを自覚しながら服を着替えた後は洗顔や歯磨き、食事などを済ませて集合場所に向かう。
建物外の集合場所には既に多くの救世主と車が集まっていた。通常の徴収よりも人数が多いのはニーガンが同行するからなのは明らかだ。ニーガンを護衛する人員の多さに身の引き締まる思いがする。
「おい、名前。ぼうっと突っ立ってるな。」
後ろから声をかけられ、振り向いた先に幹部の一人であるドワイトが立っていた。ドワイトは名前が所属するチームを率いている。
「おはようございます。今日の徴収にはニーガンが同行するんだと思ったら緊張してしまって……」
苦笑混じりに答えるとドワイトが呆れたように溜め息を吐いた。
「ニーガンのことは直属の奴らが守る。アラットとかな。だからお前が関わることはない。自分の仕事に集中しろ。」
「はい。」
名前は上司の言葉にしっかりと頷いた。
その時、ドワイトの後ろを他の救世主に連れられた捕虜が通り過ぎていく。その捕虜の名前はダリルと言い、彼はアレクサンドリアの住人だと聞いた。名前は俯いて歩く捕虜に視線を向けながらドワイトに問う。
「彼も連れていくんですか?アレクサンドリアの最初の徴収の時にも連れていったそうですね。」
ドワイトは遠ざかる捕虜を見てから再び名前の方を見て首を縦に振った。
「ニーガンの命令だ。リックの反応が楽しいらしい。俺としてはお守りしなきゃならないから困るんだが。」
「リック……リック・グライムズ、ですか?アレクサンドリアのリーダーでしたよね。」
「そうだ。リックのことは知ってたのか。」
「みんなが話してるのを聞いた程度です。……あの、みんなが『リック・グライムズがいるアレクサンドリアは運が悪い』と話してるのを聞いたんですが、どういう意味かわかりますか?」
その質問にドワイトは思案するように目を細めた。そして微かに苦笑いを浮かべて「行けばわかる」と名前の肩を叩いて去っていった。
名前が疑問符を浮かべてドワイトを見送ったのと同時に周囲の者たちが次々と跪く。ニーガンが姿を見せたからだ。名前も他の者に倣い、慌ててその場に膝をつく。
救世主たちの前に現れたニーガンはいつもと変わらず黒の革ジャケットを着て、ルシールという愛称のバットを携えていた。ニーガンはニッと笑うと集まった者たちを見回しながら演説を始める。
「おはよう、俺の優秀な部下たち!今日はアレクサンドリアの徴収日だ。奴らも少しは俺たちのやり方に慣れただろう。物資を集めるのも上手になってるかもしれない。アレクサンドリアの奴らが良い子にしてたら褒めてやるのも俺たちの大事な仕事だ。いいな?じゃあ出発しよう!」
演説を終えたニーガンは自分が乗る車に向かって真っ直ぐに歩いていった。それを見届けた皆は移動を始め、名前も立ち上がって膝に付いた土を払い落とす。
(本当にニーガンも一緒に来るんだ。……珍しい)
ニーガンが他のコミュニティーに足を運ぶことはない。支配下に置く時も、徴収も、巡回も、その全てを部下だけで行う。
なぜニーガン本人が出向くことがないのかというと、救世主たち全員が「ニーガン」だからだ。救世主たちはニーガンの考えを理解し、彼の望む通りに支配下に置いたコミュニティーの管理を行う。そのためニーガン本人がわざわざ行く必要がない。これを可能にしているのは厳格な規則があるからなのだろう。
しかし、その例外を生み出すきっかけとなる事件が二つも起きた。一つ目は他のコミュニティーを支配下に置くために向かったチームの一つが全滅。二つ目は基地の壊滅。数多くある基地の一つだけではあるが、基地が攻め落とされたことはサンクチュアリ全体に衝撃を与えた。
この二つの事件はサンクチュアリの体制や支配に影響を与えかねないことであったためニーガン本人が動くことになった。そして、どちらの事件にも関わっているのがアレクサンドリアだ。
アレクサンドリアを支配下に置くために自ら出向いたニーガンは二人の住人を殺し、リーダーを徹底的に「教育」したと聞いている。それだけでは不十分ということでニーガン自身が足を運ぶのだろうか?それほどにアレクサンドリアを警戒しているということなのだろうか?
名前は考え込みながら車に乗る。
(アレクサンドリアはニーガン本人を引きずり出してしまったってことかな。……気の毒だと思うのは間違ってるかもしれないけど、やっぱり気の毒だ)
ニーガン本人に来られるのは支配されるコミュニティーにとってはマイナスでしかないだろう。失態を犯せば誰かの頭が潰されるのだ。
救世主として働く人間が支配下にあるコミュニティーを憐れむのは間違いであり、傲慢とも言えるかもしれない。それでも名前はアレクサンドリアの住人を不憫だと思う。
憂鬱さと罪悪感を抱えた名前を乗せた車は目的地であるアレクサンドリアに向けて走り出した。
アレクサンドリアに到着し、真っ先に町の中に入ったニーガンの後に救世主たちが続く。
「リーック!相変わらずクソが詰まったような顔をしてるな!何か楽しいことはないのか?」
眉間にしわを寄せてニーガンを出迎えたアレクサンドリアのリーダー・リックにニーガンは親しげに話しかけながら近づく。顔を覗き込みながら一方的に話しかけてくるニーガンにリックは顔をしかめるが、当の本人は気にした素振りもなく楽しそうに笑っている。
その様子を見て、名前はニーガンがリックに会うために来たのだと直感した。リックに話しかけるニーガンの姿は「まとわりつく」という表現がふさわしく、リックしか見ていないことが傍から見てもわかる。何より、あんなにも楽しそうな姿は初めてだ。
「リック・グライムズがいるアレクサンドリアは運が悪い」という意見は正しい。彼がいるからニーガンはアレクサンドリアに来るのだから。
名前が視線を向ける先では二人のやり取りが続く。
「今日も一緒に町の中を見て回ろうぜ、リック。」
ニーガンの言葉にリックは首を横に振った。
「悪いが、今日は徴収を見守らせてほしい。前回もその前も徴収の様子をしっかりと見られなかった。」
「そんなこと言うなよ。一人で回るのはつまらない。俺の部下はきちんと仕事をするから心配しなくていいさ。」
「俺の目で確認したいんだ。確認した後で合流するから……ニーガン、頼む。」
リックが食い下がるとニーガンは「いいだろう」と頷いた。
そしてリックの頬を軽く叩きながらニンマリと笑う。
「合流したら俺が満足するまで付き合ってもらうからな。じゃあ、また後で。」
手を振りながら去っていくニーガンを見つめるリックの後ろ姿を名前はぼんやりと見つめた。
その時、ドワイトから「名前、こっちに来い」と呼ばれたので体の向きを変えてドワイトの方へ向かう。ドワイトは診療所の前に立って名前を待っていた。
「お前は診療所にある物資の中から徴収するものを選べ。何を持っていくかはお前の判断に任せる。」
ドワイトは指示と共に物資を入れるための袋を手渡してきた。
名前が袋を受け取りながら「わかりました」と頷いたところへリックが「待ってくれ」と近づいてきた。リックは名前とドワイトの傍らに立つとドワイトに顔を向ける。
「診療所の徴収に立ち会わせてほしい。邪魔はしない。」
リックの申し出にドワイトは無表情で対応する。
「徴収するものはこっちで決める。抗議しても無駄だ。あんたがすることは何もないぞ。」
「わかってる。それでも立ち会いたい。」
ドワイトは迷ったように視線を逸らしたが、やがて首を縦に振った。
そして名前と視線を合わせて指示を出す。
「リックを立ち会わせてやれ。だが、絶対に自分で判断しろ。いいな?」
「はい。」
名前が頷けばドワイトも頷き返し、彼は他の部下に指示を出すために立ち去った。視線をドワイトからリックに移すと彼は黙ってこちらを見ている。
リックはニーガンが興味を示している相手だ。どれほど優秀な人物なのだろう、と思うとまともに目を合わせることができない。名前はリックの視線を受け止めきれずに顔を逸らした。
「……行きましょう。」
「ああ。」
名前は僅かな緊張を連れて診療所に足を踏み入れた。
診療所には部屋の中を片づけている住人がいて、名前を見るなり顔を強張らせた。その住人をリックが家に帰らせたことにより二人だけになった空間に沈黙が降りる。
沈黙の重苦しさを無視して棚の前に立って扉を開け放てば中身が姿を現す。予想していた以上に空間が多く、名前は思わず目を瞬かせた。
「医薬品の在庫はこの棚にある分だけですか?他の場所には?」
リックを振り返りながら尋ねると彼は首を横に振った。
「そこにあるので全部だ。最初の徴収でかなりの在庫を持っていかれたから、それ以降に調達してきた分を含めてそれだけしかない。疑うなら診療所の中を探してみるといい。」
リックは苦々しげに答えた。
ただでさえ医薬品は貴重品だ。それを大量に持っていかれては腹が立つのは当然だろう。名前は居たたまれなさから何も言えず、黙って顔を正面に戻した。
自分の仕事に集中しようと思い直した名前は在庫数が複数あるものを選んで袋に入れていく。在庫数や種類が少ないため袋に入れられる数はそれほど多くはない。アレクサンドリアの住人のことを無視して在庫数に関係なく徴収すれば徴収量は増えるが、名前はそうしようとは思わなかった。
棚の中を漁っていると痛み止めと抗生物質が入ったケースに目が留まった。それぞれ二つずつあるので一つは持っていっても構わないだろう。
しかし、名前の脳裏にアレクサンドリアの住人の姿が浮かぶ。包帯を巻いたりガーゼを貼った者を数人ほど見かけたのだ。
名前は振り向かないままリックに問う。
「調達でケガをする人は多いですか?」
「……ニーガンに支配される前より増えた。みんなが物資を集めるために無理をするからな。」
リックの答えを聞き、名前は決めた。
痛み止めと抗生物質のケースに触れることなく棚の扉を閉めると医薬品の詰まった袋を胸に抱えた。そしてリックを振り返って告げる。
「診療所の徴収は終わりにします。もう十分です。」
その言葉にリックが目を見開いた。とても驚いたようだ。
リックは戸惑いを顔に浮かべたまま「いいのか?」と問いかけてくる。
「痛み止めと抗生物質が残っている。持っていかないのか?」
リックの疑問は当然だ。救世主の仕事は徴収であり、抗議されようが懇願されようが全てを無視して物資を持っていく。現に他の救世主はそのようにしているため、在庫が複数個であるものを徴収しないことが不思議でならないのだろう。
名前は抱えた袋を抱き直してから深く頷いてみせた。
「痛み止めも抗生物質もサンクチュアリの在庫は十分だし、アレクサンドリアに置いておくべきだと判断しました。だから問題ありません。決めるのは私なので、そっちの意見は聞きませんから。」
少しだけ強気に言い切るとリックが苦笑いを覗かせる。
「──ありがとう、助かる。」
感謝を告げるリックの声は優しかった。表情も先程までよりも柔らかくなり、その表情を浮かべさせたのが自分なのだと思うと妙に照れくさい。
名前は目を逸らしながらも胸の奥が温かくなるのを感じていた。
診療所にある物資の徴収が終わったため、名前は「もう行きます」と物資入りの袋を抱えたまま診療所の出入り口の前に立った。
両腕で荷物を抱えたままドアを開けようとするが思うように腕を伸ばすことができず、ドアノブに向かって伸びた手は空を切る。その様子を見ていたリックが「俺が開ける」と言ってドアを開けてくれた。
「ありがとうございます。」
さり気ない手助けに感謝の言葉を告げてリックの顔を見つめれば、穏やかに微笑む彼と目が合う。初めてリックと目が合った。
(──きれいな目。こんなにもきれいな目を見たのは久しぶりかもしれない)
名前はリックの目から視線を逸らすことができない。その美しさに見惚れてしまう。
リックは自分に釘付けになっている名前の様子を不審がることなく穏やかに笑んだままだ。
「どういたしまして。先に出るといい。」
リックに促されて名前は診療所を出る。
名前のすぐ後に出てきて隣に並んだリックの顔を見つめたままでいると彼はクスッと笑った。
「君は救世主らしくないな。……らしくないというより向いていない気がする。」
その言葉に名前は肩を落とす。会ったばかりの相手がそう思うのだから仲間からもそう思われているはずだ。
「仲間もあなたと同じことを思ってるでしょうね。自分でもそう思います。」
名前が溜め息混じりに言うとリックは首を傾げる。
「じゃあ、なぜ救世主になったんだ?」
「もっと良い暮らしを手に入れたかったから。労働者よりも救世主は優遇されるんです。」
「格差があるんだな。君はそんな状態で平気なのか?」
リックの口振りからはニーガンのやり方を否定する雰囲気がある。その気持ちはわからなくもないが、名前はニーガンのやり方を全て否定する気にはなれない。
名前は苦笑しながら問いかけに答える。
「ニーガンにはニーガンのやり方があって、そのおかげで今の自分がある。それだけです。もっと良い暮らしをしたいと思ったのも安全で安定した生活を与えられたからだと思います。不安なく生きていられるからこそ欲が出てくるものなんじゃないですか?」
「そのために他のコミュニティーを踏みにじってもいいのか?」
「それを心苦しく思うから私は救世主に向かないんです。覚悟を決めていたはずだけど罪悪感は消えません。それでも生きていくために全てを受け入れるだけです。私はニーガンを裏切りません。」
名前の答えが予想外だったらしく、リックは戸惑っている。それは表情にも目にも表れていた。申し訳ない気持ちはあるが、彼の戸惑いに揺れる目を美しいと思う。
名前がそんな風に感じているとは知らないリックは躊躇いがちに口を開く。
「──君は、ニーガンに救われたのか?」
疑問系でありながらも確信を持った声音だった。その問いに答えるために名前はリックの目を真っ直ぐに見つめながら首を縦に振る。
「救われて、そのことに感謝してます。だから彼に従うんです。」
ニーガンに拾われなければ今頃は惨めに死んでいただろう。だから他のコミュニティーの住人への罪悪感を抱えながらもニーガンに従う。そこには畏怖だけでなく感謝の気持ちもあった。
リックは「そうか」と呟くと考え込んでいるようだった。その顔から戸惑いの色が消えないのはニーガンに感謝する人間がいる現実を受け止めきれていないからなのかもしれない。
少しの間黙り込んでいたリックは軽く息を吐いて名前の方を見た。
「君には君の事情があるのに責めるようなことを言ってすまなかった。」
「謝ってもらうようなことじゃありません。気にしないでください。」
「ありがとう。」
少し重たい雰囲気が消えた時、重みのある足音と共にニーガンが近づいてきた。笑みを浮かべるニーガンとは対照的にリックが眉間にしわを寄せるのを見て、名前は二人と距離を置くように一歩だけ後退る。
「いつまで経っても来ないから迎えに来たぜ、リック。診療所の徴収に立ち会ったんだって?」
「ああ、そうだ。」
リックはそう言って硬い表情で頷く。
「それなら気は済んだろ?そろそろ俺と遊ぶ時間だ。先に家に戻って俺を迎える準備をしておけ。俺は部下の仕事振りを確認しないとな。」
ニーガンの命令に対してリックは無言のままだ。硬い表情を崩さずに自分を睨みつけてくるリックに対してニーガンは小さく笑い声を漏らしたが、次の瞬間にはその笑みを消した。
「リック、お返事はどうした?」
ニーガンがスッと目を細めるのを目撃した名前は背筋に寒気が走るのを感じた。
ニーガンが誰かを威圧する姿を間近で見るのは初めてだった。一緒に行動していたグループの皆と共にニーガンに拾われた時以来、彼の傍に寄る機会は一度もなく、言葉を交わしたこともなかった。そのため自分に対してではない威圧であっても己の心臓を掴まれたような気分になる。
名前が固唾を飲んで二人を見守っているとリックはニーガンから顔を逸らした。彼は悔しそうに唇を噛む。
「……わかった。先に戻って準備しておく。スコッチしかないが、構わないか?」
「ああ、いいぞ。グラスは二つ用意しろよ。一人で飲んでもつまらない。」
ニーガンは笑顔でリックの背中を叩いた。その勢いの良さにリックは痛そうに顔をしかめたが何も言わず、そのまま歩いていった。
リックが遠ざかるとニーガンは体の向きを変えて名前に向かい合う。ニーガンと目が合うと瞬時に緊張が全身を駆け回り、医薬品入りの袋を抱く腕に力が入った。
ニーガンはルシールという名のベースボールバットを肩に担いで面白がるような表情で名前を見る。
「リックと話し込んでたな。あいつが笑ってるのを見たのは初めてだ。」
「はい。でも、大した内容の話では──」
名前の言葉を遮るようにルシールが目の前に突きつけられ、口から悲鳴が飛び出しそうになるのを辛うじて堪える。
「待て待て、大した内容かどうかを判断するのはお前じゃない。俺だ。わかるな?」
ニーガンは笑みを浮かべているが、凶器を眼前に突きつけられた人間は笑える状況ではない。名前は「その通りです」と何度も首を縦に振った。
ようやくルシールが下ろされると名前はホッと息を吐いた。
「私が救世主らしくないという話をしました。リックには私が救世主に向いてないように見えたそうです。」
「あいつも大胆なことを言ったな。それで、他には?」
「救世主になった理由を聞かれて、今よりももっと良い暮らしが欲しかったからだと答えましたが、それだけが理由ではないことも話しました。」
「他の理由ってのは何だ?」
「──ニーガンに救われたことに感謝している、と。リックはあなたに感謝する人間がいることに戸惑っているようでした。」
名前の答えにニーガンは声を上げて笑った。
「そいつはいい!あいつにとって俺は仲間二人の頭を潰した最低最悪の相手だからお前の答えは衝撃的だったはずだ。今頃、お前の話を思い返して動揺してるだろうな。」
ニーガンはとても楽しそうだ。リックの感情を揺さぶることを楽しんでいるのだろうか?
名前はそのように感じたことを胸に秘めたままニーガンの言葉を待つ。
ニーガンは満足するまで笑うと、興味深げに目を輝かせながら名前に問う。
「お前はリックのことをどう思った?」
そう問われ、リックのことを思い出しながら己の心の中を探る。彼と話をしてみて誠実な人柄だと感じた。優しさもあり、人々から慕われやすい人物なのだろうとも思う。
しかし、それ以上に印象に残っていることがあった。
名前はニーガンと目を合わせながら最も強く感じたことを口にする。
「きれいな目をした人だと思いました。感情によって変化するのがきれいで……あんなにきれいな目を見たのは初めてです。吸い込まれてしまいそうでした。」
名前は言い終わった後で自分がかなり大胆な発言をしたことに気づく。基地を襲ってニーガンの部下である救世主を大勢殺した相手を褒めたようなものだ。名前の発言をニーガンが不快に感じても不思議ではない。
名前はニーガンの反応が恐ろしくなり、俯いて「すみませんでした」と謝罪の言葉を口にした。
ところが、返ってきた反応は予想外のものだった。
「何を謝る必要がある?お前は見る目があるぞ。」
少し弾んだ声を聞いて反射的に顔を上げれば、ニーガンは満足そうに笑っていた。
「俺もリックと間近で目を合わせた時、余りにもきれいだから驚いたもんだ。泣くともっときれいだぞ。だから泣かせたくなる。」
最後の一言を口にした時のニーガンの目には強い支配欲が見えた。ニーガンのリックへの支配欲に触れ、名前は恐ろしさに身震いする。
「さーて、そろそろリックのところに行くか。寂しがって泣いてるかもしれない。」
ニーガンは愉快で仕方ないといった様子で笑いながら名前に背を向けて歩き出す。
しかし、数歩ほど歩いたところで足を止めてこちらを振り返った。真っ直ぐに向けられる眼差しにより再び緊張が戻ってきた。
ニーガンはいつもと変わらない笑みを浮かべて名前に声をかける。
「お前の名前を聞いてなかったな。教えろ。」
名前は緊張を飲み込むように唾を飲んだ。
「名前です。ドワイトの下で働いてます。」
「名前。機会があったらまた話そう。」
ニーガンはそう言って手を振りながら今度こそ去っていった。
ニーガンが遠くまで行った途端に体から力が抜ける。そして、頬を伝い落ちる汗の存在によって自分が汗をかいていることに初めて気づく。かなり緊張していたようだ。
名前は深呼吸することで緊張を解しながらニーガンとの会話を振り返る。
名前がニーガンに助けられたのは最近のことではないが、彼が接する人間は限られているため今まで接触したことはなかった。それなのに今日はじっくりと会話したという事実に自分でも驚いてしまう。そして、会話内容はニーガンにとって大きな意味のあることだったように思える。
ニーガンのリックへの接し方を見て、ニーガンと言葉を交わして、ニーガンがリックに強い興味と執着を抱いていることがわかった。直接関わることがなくともニーガンが好奇心旺盛な人物であることは知っていたが、あそこまで興味を示すのはリックしかいない。誇張ではなく、リックはニーガンにとって特別な存在なのだ。
(リックは気づいてるんだろうか?自分がニーガンに執着されてるって……)
リック本人が気づいていようと気づいてなかろうと彼が厄介な男に執着されてしまった事実は変わらない。徴収の負担だけでなく、それによる心理的な負担も彼に覆い被さるだろう。
名前は小さく溜め息を吐き、徴収した医薬品の入った袋を抱え直して歩き出す。これをドワイトのところへ持っていかなければならない。
袋を抱えて歩きながら、リックやニーガンと話をするのは今日が最初で最後になるだろうと考えた。偶然が重なって接する機会を得ただけであり、元々は接点などない。今後は近づくことさえないはずだ。
名前はそれで構わないと思う。彼らは人々の中心に立って周囲に影響を与える人間であり、自分はその影響を受けるだけの存在なのだから。
自分は自分の日々を懸命に生きていくだけだ、と名前は力強く地面を蹴った。
名前がアレクサンドリアの徴収に参加してから一ヶ月近くが経った。
予想した通り、あれ以来ニーガンとの接触は皆無だ。アレクサンドリアの徴収にも参加していないためリックと会うこともない。
あの徴収日以降もアレクサンドリアの徴収があり、その際にサンクチュアリに持ち帰られた物資を見て名前は落ち込んだ。徴収してきた物資の中に痛み止めと抗生物質の容器を見つけたのだ。その二つの薬が減ってしまってリックはがっかりしただろう、と思うと申し訳なさと無力感に落ち込んでしまう。
たった一度だけ関わった相手。
これから先、関わることはないであろう相手。
自分の存在など忘れているかもしれない相手。
それでも名前はリックのことを記憶の彼方に押しやることができそうになかった。
******
雲のない快晴の日。名前は自分一人しか乗っていない車を運転していた。
なぜ一人なのかというとエリアの巡回の仕事を初めて任されたからである。エリアの巡回は異変の察知のためには欠かせない重要な仕事であり、「仕事に慣れてきたから」ということで任されたのだ。当然、今日はグレーのパーカーとダークブルーのジーンズを身に着けていた。
名前は初めて任された単独任務への緊張と、己の仕事振りを認めてもらえた嬉しさを伴に車を走らせる。天気が良いおかげで視界は良好。異変がないかを確かめるために周囲を見るが、今のところ怪しい影は見当たらない。
このまま何事もなくサンクチュアリに帰れたら嬉しい。
そんな風に考えていると遥か遠くに車が見えた。道路の端に停まっているが、サンクチュアリの車だろうか?
名前は目を細めて観察してみたが詳細はわからない。
警戒のため少し速度を落としながら近づき、距離を縮めていけば車から少し離れた場所に数人の人影があることに気づいた。人間なのか歩く死人なのか判別ができる距離ではなく、名前は緊張が増していくのを自覚した。
ある程度の距離にまで近づいたところで人影の正体は死人ではなく生きた人間であることがわかり、そのうちの一人には見覚えがあった。
「──リック?」
思わず漏れた名前は一度しか会ったことのない相手のもの。それでも強く印象に残る彼を見間違えるはずがない。
リックとその周りにいる人間の行動を観察した結果、彼らが争っていることがわかった。全員が手に持った武器を振るっているので些細な口喧嘩ではないのだろう。どうやらリックに味方はおらず、彼は一人で複数人を相手にしているようだ。
(救世主ならリックに手出しはしないはず。ニーガンのお気に入りに何かしたら罰を受けるのはわかりきったことだから。じゃあ、リックが戦ってるのは誰?)
ニーガンの支配下にあるコミュニティーの人間であれば救世主である名前に逆らいはしないだろう。それならば仲裁することができる。
しかし、未知のコミュニティーの人間であれば厄介だ。近づけばこちらにも襲いかかってくるのは間違いない。戦いは避けられず、なるべくなら生け捕りにして情報を聞き出さなければならないのだ。
緊張と恐怖が名前の頬に汗を伝わせる。ハンドルを握る手が勝手に震える。
身動きできずにいる名前の視線の先ではリックが三人を相手に必死で戦っている。地面に一人転がっているので元々は四人を相手にしていたのだろう。
リックの振るう手斧が彼の正面に立つ相手の胴体を大きく切り、その体が崩れ落ちた。他の相手に向き直ろうとしたリックの体は向き直ろうとした相手に蹴り飛ばされる。リックは体のバランスを崩しながらも追撃のために繰り出されるナイフを避けた。
リックは強い。戦い方を見ていればわかる。
しかし彼は生身の人間だ。傷を負えば痛みを感じ、重傷であれば命に関わる。一人で複数人を相手にするという不利な状況での戦いを見て見ぬ振りはできない。
名前は深く息を吐きだしてからドアを開けて車外に出る。そしてホルスターから拳銃を取り出し、それを構えながら戦いの場に向かって歩き始める。安全装置は解除済みだ。
争う者たちにかなり近づいたところで名前は静止を訴えて声を張り上げる。
「武器を捨てて動かないで!ニーガンは無駄な戦いを望まない!従わないなら撃つ!」
思いがけない乱入者にリックと他の二人は一瞬動きを止めたが、リックの後ろ側に立つ男がリックに向かってナイフを振り下ろそうとした。その瞬間に名前は引き金を引く。躊躇いは少しもなく、直後に男の太腿から血飛沫が上がった。悲鳴を上げて地面を転げ回る男から照準を外して残りの一人に合わせようとしたものの、残る一人はリックの手斧に頭を割られていた。
名前はリックを救うことができてホッと息を吐いたが、安堵は瞬時に焦りへと変わる。
「リック、血が──!」
名前は悲鳴のような声を上げながらリックに駆け寄った。
リックのシャツは腹部の左側が血で染まっており、腹部以外にも腕や太腿から出血している。
動揺する名前とは異なり、ケガをした本人は至って冷静だ。
「俺よりもあの男に対処する方が先だ。ケガをしただけで死んでないぞ。」
その冷静な声に名前も落ちつきを取り戻す。
名前はリックを彼の車まで連れていき、車にもたれさせるように座らせてから脚を負傷した男の方へ向かう。地面に転がるナイフを蹴って男から離し、男の腰からベルトを引き抜くと後ろ手で両手を拘束した。そして男の仲間の死体からもベルトを抜き、それを使って男の太腿の止血を行う。
「その男をどうするつもりだ?」
リックは腹部を押さえながら問うてきた。傷口を押さえる手は真っ赤に染まっている。
名前はリックの元へ戻ると彼の荷物からバンダナを取り出した。
「ニーガンの名前を出しても従わないということは私たちが知らないコミュニティーの人間です。情報を聞き出すために連れて帰ります。あなたはあの人たちについて何か知ってますか?」
「いや、俺も初めて会った。俺の印象としてはコミュニティーに所属しているわけじゃなくて小さなグループのように思う。」
「そうですか……シャツを捲りますね。」
名前は慎重にリックのシャツの裾を捲り、傷口を見て眉間にしわを寄せる。左側のへその横付近から脇腹にかけて一直線に切られており、その傷の深さは浅いとは言えなかった。出血は止まっておらず、この状態で敵を三人も倒したことに驚かずにいられない。
名前は自分のハンカチをガーゼ代わりに傷口に当て、リックのバンダナをナイフで裂いて長くすると包帯代わりにした。きつめに縛ったのでリックが小さく呻いた。
「止血しないといけないから痛いのは我慢してください。」
その言葉にリックは苦笑を浮かべる。
「わかっているよ。それより、助けてくれてありがとう。君が通りかからなかったら背中もやられていたな。本当に助かった。」
リックは感謝の言葉を言い終わると立ち上がろうとした。傷口が痛むせいで立ち上がるのは容易なことではなく、名前は彼の体を支えて立つのを手伝った。
「すまない。助けられてばかりだ。」
「いえ……リック、仲間は?一人でここまで来たんですか?」
「そうだ。調達の人手が足りなくて、最近は一人で出かけることが多い。今日は遠くまで来てみたんだが……失敗だったな。もうアレクサンドリアに戻る。君も気をつけて帰れ。」
それを聞いて名前は目を見開いた。傷を負って出血も止まっていないというのにリックは自力で町に戻るつもりなのだ。
名前はリックが車のドアを開けようとするのを阻むためにドアを手で押さえた。そして、目を丸くするリックを睨む。
「今の自分の状態を考えてください。そんなに出血してるのに車の運転なんて危険すぎます。一人で町に帰るのは無理です。」
彼をこのまま一人で行かせてはならない。名前は自分の心に従うと決めた。
そのリックはというと、ケガ人とは思えないような鋭い目つきで名前の主張に反論する。
「俺は町に戻らなきゃならない。仲間が心配するし、傷の手当てもしたい。それに、一人で行動している時のケガなら経験がある。平気だ。」
「バカなことを言わないでください。ここからアレクサンドリアまでどれくらいの距離があると思ってるんですか?あなたの体力は町まで保ちません。ここからならサンクチュアリの方がずっと近い。一緒に来てください。」
「俺にサンクチュアリで手当てを受けろと?有り得ない。」
リックは渋い表情のまま頭を振った。
宿敵であるニーガンのコミュニティーで傷の手当てを受けるのはリックにとって屈辱だろう。或いは手当てと引き換えに何を要求されるのかと恐れているのかもしれない。そのためリックが嫌がるのは当然で、そのことは名前も理解している。
しかし、このまま一人で行かせればリックは自分の町に辿り着くことはできない。今でさえ彼の体はフラフラしており、必死に意識を保とうとしていることが見ているだけでわかる。戻る途中で意識を失うのは目に見えていた。
名前はリックと目を合わせながら訴えかける。
「リック、あなたが死んだらアレクサンドリアの人たちはどうなりますか?あなたは仲間を守るんですよね?だったら最善を考えてください。あなたに不利にならないように交渉してみますから、私を信じてください。」
リックは目を瞠り、「君は、どうして……」と小さく声を漏らした。
リックが名前の申し出に驚くのも無理はないだろう。名前とリックとの間に深い繋がりはない。二人は支配する側と支配される側に分かれており、名前がリックを積極的に手助けする理由も義務もないのだ。名前自身も「なぜ自分はこんなにもリックを助けたいのか?」と戸惑っている。
もしかしたら、心の底に積もっている罪悪感を軽くしたいだけなのかもしれない。
もしかしたら、サンクチュアリが支配するコミュニティーに対する贖罪なのかもしれない。
もしかしたら、リックを救うことで己の心を救いたいだけなのかもしれない。
どの理由が正解なのかはわからない。それでも確かなのはリックを助けられなければ名前はずっと後悔し続けるということだ。
名前とリックはしばらく無言で視線を重ねていた。やがてリックは深く息を吐き、首を縦に振った。
「……俺を、助けてほしい。仲間のためにも。頼む。」
向けられる真摯な眼差しに名前は「もちろんです」と微笑む。
ニーガンと交渉するなど無謀だと言える。失敗すればリックを救えないだけでなく自身も罰を受ける可能性がある。
しかし、名前は不思議と怖くはなかった。
名前は自分が乗ってきた車に積まれたトランシーバーを手に取る。掌に感じる重みは責任の重さでもあった。
一つ息を吐き、トランシーバーを口元に近づけてスイッチを入れる。
「こちら、エリアGを巡回中の名前。報告と相談があるのでニーガンに繋いでください。」
『エリアGを巡回してる、名前?それで合ってる?』
トランシーバーから音の割れた声が響き、緊張が背筋を這う。
「はい、合ってます。」
『ニーガンに繋げばいいんだね。トラブル?』
「はい。だから彼に相談したいんです。もしかして居ないんですか?」
基本的にニーガンが外出することはないはずだが、例外がないとは言えない。もし不在ならばリックを連れていくことはできない。焦りが名前の鼓動を速める。
その焦りを感じたのか、トランシーバーの向こう側の相手が明るく笑った。
『心配いらないよ、出かけてなんかない。繋ぐから少し待って。』
それから数分待つことになった。五分も経っていないはずだが、数十分も待っているような気分になる。
やがてトランシーバーが「ニーガンだ」という声を届けた。重みのある声は紛れもなく名前の知るその人の声だ。
名前は背筋を伸ばし、両足に力を入れて地面を踏みしめる。
「エリアGを巡回中の名前です。相談したいことがあって連絡しました。」
『名前……アレクサンドリアで話して以来だな。で、相談ってのは?トラブルがあったらしいな。』
「巡回中にアレクサンドリアのリックを見つけました。彼は私たちの知らないグループの人間と戦闘中で、私はリックを援護しました。」
『リックはどうしてる?ケガは?』
「お腹の辺りを切られて出血中です。応急処置はしましたが、小さな傷ではないので早く治療する必要があります。」
『そうか。リックが戦ってた奴らは何人いた?リックも知らない奴らか?』
「四人です。三人はリックが殺しましたが一人は私が太腿を撃ったので生きてます。リックも相手のことは知らないらしいので、その一人を連れ帰って話を聞こうと思います。」
『よし、良い判断だ。詳しい話は帰ってから聞く。──さて、次は相談したい内容を聞こうか。話してみろ、名前。』
笑い含みのニーガンの声を聞き、名前は自分が話したいことをニーガンが気づいているのではないかと思った。それが名前とリックにとって良いことなのかは判断がつかないが、とにかく話してみるしかない。
名前は小さく深呼吸をしてから話し始める。
「リックをサンクチュアリに連れていってケガの治療をしたいんです。その許可が欲しい。」
返事はすぐには返ってこなかった。そのことに不安が忍び寄ってくるが、それを振り払って言葉を続ける。
「私たちが居る場所はサンクチュアリに近い。アレクサンドリアの方が遠いんです。ケガの状態が悪化すればリックは死ぬかもしれません。だからサンクチュアリに連れて帰りたい。治療に必要な薬や道具は私の持つポイント全てと引き換えで構いません。ニーガン、お願いします。」
名前はリックを振り返りながら懇願した。振り返った先ではリックが車に背中を預けて顔だけをこちらに向けているが、その顔色は悪い。意識を保っているだけで精一杯な様子で、気を失うのは時間の問題だろう。
名前がもう一度「お願いします」と悲痛な声を上げると、トランシーバーの向こうから反応が返ってくる。
『名前、俺の質問に答えろ。俺からの回答はその後だ。どうしてお前はそんなにもリックを救いたい?奴とは一度話しただけだろ。なぜだ?』
感情の感じられない支配者の声に恐怖が込み上げる。
この質問に対する答えを間違えてはいけない。ここで失敗すればリックだけでなく自分も死ぬことになるだろう。
そう悟った名前は緊張でカラカラに渇いた喉を潤すために唾を飲み込む。
(落ちつけ、自分の立場を忘れなきゃ間違えない。大丈夫)
名前はリックの顔を見つめながら、ニーガンに答えを提示するために口を開いた。
「リックはニーガンのものだからです。」
その一言にニーガンが息を呑む気配がした。
「リックはあなたのものだから、あなたの許可なく勝手に死ぬことは許されない。だから助けます。これは間違っていますか?」
少しの沈黙の後、ニーガンの笑い声が響いた。心の底から楽しそうな笑い声に名前は驚く。
ニーガンは笑いを治めると「正解だ」と答えた。
『ドワイトを行かせるから待ってろ。合流したらお前は自分が乗ってきた車でリックを連れて帰ってこい。手当てをさせる。』
「ありがとうございます!」
名前は頬が緩むのと同時に全身から力が抜けるのを感じた。リックを助けることができる喜びと交渉が上手くいった安堵が緊張を解いたのだ。
緊張が解けた名前の耳に再びニーガンの声が届く。
『名前、ドワイトが着くまで油断するなよ。血の臭いが死人どもを呼び寄せる。』
ニーガンの忠告を聞き、再び緊張が戻った。
リックを入れて五人分の血が流れ、その臭いは広範囲に広がっただろう。新鮮な血の臭いは忌まわしい者たちを呼び寄せる。負傷して動けないリックを守ることができるのは名前だけだ。
名前は改めて気を引き締める。
「リックは守ります。約束します。」
『わかった、わかった。必ずリックを連れて帰って来い。じゃあな。』
それを最後にトランシーバーから声は聞こえなくなった。それを車に戻すとリックのところに戻る。
傍らにしゃがんだ名前を見てリックは小さく笑んだ。その顔は青白さが増している。
「上手くいったみたいだな。」
それに対して名前は微笑んで頷く。
「仲間が合流したら出発します。私の車で行くから移動しましょう。辛いだろうけど立ってください。」
名前はリックに肩を貸して自分の車まで歩かせ、どうにか助手席に座らせることができた。
リックを車に乗せた後は死んだ者たちが転化しないように処置してから、息のある一人を車の側まで引きずっていった。この男も守らなければならないのでプレッシャーと責任は大きい。
名前は車の外で周囲を警戒し、時折現れる死人を始末しながら仲間の到着を待った。
やがて二台の車がやって来て名前の車の近くで停車し、ドワイトと他に五名の救世主が降りてきた。ドワイトは苦笑しながらも名前の肩を労うように叩いた。
「お前は早くリックを連れて帰れ。俺はリックが乗ってきた車をアレクサンドリアに持っていって、リックはしばらく預かると伝えてくる。」
「はい、ありがとうございます。お願いします。」
ドワイトは名前が頷いたのを見てから他の救世主たちに指示を出しにいった。
ドワイトと共に来た救世主のうちの二人が拘束中の男を自分たちが乗ってきた車に乗せてサンクチュアリ方面に向かって走り始めた。残りの三人はドワイトが運転するリックの車の後を追って自分たちの車を出発させた。
名前は皆の手際の良さに感心するが、それどころではないと慌てて車を発進させる。
運転しながら助手席の様子を窺うとリックは目を閉じていた。不吉な想像が頭を過ったものの、彼の胸が規則的に動いているのを見て胸を撫で下ろす。
早く帰って医師にリックを診てもらわなければ。
アクセルを踏む足にいつもより少しだけ力が入っていることに名前が気づくことはなかった。
リックと共に戻ったサンクチュアリでは多くの救世主たちが待ち構えていた。名前がアレクサンドリアのリーダーを連れ帰る話は知れ渡っていたようだ。
名前が車から降りると担架を持った男たちが近づいてくるのが見えた。物珍しげに群がる者たちを押し退けながらやって来た彼らは手早く担架を用意して名前に声をかける。
「すぐに医務室に運ぶ。お前も付き添え。ニーガンの命令だ。」
「はい。お腹をケガしてるので、そこを触らないようにお願いします。」
名前は他の救世主たちと協力してリックを担架に乗せて急いで医務室に運ぶ。その際にリックの手斧を救世主の一人が回収するのを目撃した。
医務室では医師のカーソンと手伝いの労働者たちが既に治療の準備を整えていたため、リックを診療台に乗せるとすぐに治療が始まった。
名前は治療の邪魔にならないように救世主たちと共に廊下に出て、本来の仕事に戻るために立ち去る彼らを見送ってから医務室の前で治療が終わるのを待つ。医師の治療を受けられるのだから大丈夫だと思いたいが、自身の血に塗れたリックの姿を思い出すと不安になる。
名前が医務室の前で立ち尽くしていると少し遠くから足音が聞こえてきた。その方向に顔を向ければニーガンの歩いてくる姿が見える。その傍らには彼の右腕であるサイモンもいた。
医務室の前に来たニーガンは医務室のドアをジッと見つめてから視線を名前に移す。
「まだ治療中か?」
「はい。もう少し時間がかかると思います。」
「そうか。……今日はよくやった。お前が捕まえた男だが、大きなコミュニティーじゃなく小さなグループにいただけだった。仲間はリックが殺した三人だけだとさ。」
「そうでしたか……。彼の処分はどうするんですか?追放ですか?」
名前の問いにニーガンは酷薄な笑みを浮かべる。
「俺のものに傷を付けた野郎を追放程度で済ませると思うか?きちんとお仕置きしてやった。」
名前はその時点でニーガンがルシールを所持していないことに気づく。常に手放すことのないルシールを持っていないということは凶悪なそれを他者に振るったからだ。今頃は救世主の誰かの手によって血を洗い流しているだろう。
名前が胃の底から冷えていくような感覚を味わっているとニーガンの手が名前の頭に置かれた。
「名前、お前が今までに獲得したポイントは二十点だ。それは全部リックの治療に使った医薬品と引き換えになる。それでいいんだな?」
頭を撫でられながら問われ、名前はニーガンの手に戸惑いながらも頷いた。
それに対してニーガンはニッと笑うとこう告げる。
「少しも躊躇しないのがいい!お前は大した奴だ!いいか、名前。今回のお前の働きは最高だった。だから二十点をやろう。」
二十点。その言葉に喜びが込み上げる。
リックのためにポイントを全て失うことに躊躇いは少しもなかった。それでも今回の得点により名前の持つポイントに変動はない。これは名前の行動をニーガンが認めてくれた証であり、彼なりの気遣いなのだと思うと得点よりもそのことが嬉しかった。
名前が「ありがとうございます」と感謝すると、ニーガンの手は名前の髪をかき混ぜてから離れていった。
ニーガンは名前から視線を外してサイモンを見る。
「サイモン、部屋の準備は問題ないな?」
その質問にサイモンは「用意できてる」と頷く。
「あんたの要望通り、こいつが過ごせるようにもしてある。もちろん、あんたの部屋と同じ階だぞ、ニーガン。」
「仕事が早いな。流石は俺の右腕だ。」
ニーガンはサイモンから鍵を二つ受け取りながら部下の手際の良さを褒めた。
名前は二人の会話内容に首を傾げる。サイモンが「こいつ」と言いながら親指でこちらを指したので名前のことを話しているのは間違いない。
しかし、部屋の準備とは?自分が過ごすことができるようにしたとは?
訳がわからず二人の顔を交互に見つめていると、ニーガンが再びこちらに顔を向けた。その目は楽しげに輝いている。
「名前、お前に新しい仕事を任せる。リックはケガが治るまでここで過ごす。その間、お前はリックの世話係を務めろ。」
「え!私が、ですか⁉」
名前は目を丸くして大きな声を上げた。それを咎めるようにニーガンが眉を寄せて「シーッ」と指を自身の唇に当てる。
「す、すみません。」
「そんなに驚くことか?ケガ人を世話する人間は必要だろ。勝手にウロウロされても困るしな。」
「それはそうですが……私は救世主になって半年も経ってません。そんな未熟者に彼の世話を任せてもいいんですか?」
ニーガンがリックに執着していることから考えればリックの世話は非常に重要な仕事だと言える。もっと有能な部下に任せた方が良いのではないだろうか?
ニーガンは困惑する名前の顔を少し無言で見つめた後、サイモンに向かって手振りで「行け」と命令した。サイモンは「リックを運ぶ奴らを連れてくる」と告げて去っていった
サイモンの姿が見えなくなるとニーガンは改めて目を合わせてきた。
「ここにはリックを快く思ってない奴らもいる。その辺にいる奴らの中から世話係を選ぶわけにはいかない。そうなると必死にリックを救おうとしたお前が最有力候補になる。お前ならリックの世話をするのに手を抜かないし、何があっても守る。違うか?」
名前はニーガンの目を見つめ返しながら、自分には最初から拒否権がないことを思い出した。
自分は「ニーガン」。彼の考えを理解し、望む通りのことをする者。ニーガンが望むのならば、その通りにしなければならないのだ。
「わかりました。リックの傷が治るまで彼を世話して、守ります。必ず。」
その宣言にニーガンは満足そうに微笑む。
「世話係をしている間は他の仕事はしなくていい。リックの傍にいろ。」
「はい。ドワイトには──」
「俺から話しておく。人数が足りなくなるならフォローしてやるから心配するな。」
その言葉と共にニーガンの指が名前の頬を掠めた。撫でられたのだ、と認識するまでに数秒の時間を要した。
驚いて無言のまま瞬きを繰り返すとニーガンは愉快さを隠さずに笑った。
その時、医務室のドアが開いてカーソンが姿を現した。
「治療は終わりました。中へ入っても問題ありません。」
カーソンがドアの脇へ退くとニーガンは部屋の中に足を踏み入れる。名前も後に続き、診療台の上にいるリックを眺めた。
リックは新しい服に着替えさせられていたので傷口も血の痕も見えない。それでも顔色は悪いので油断できない状態が続いていることがわかる。
「カーソン、リックは今はどんな状態だ?」
ニーガンはリックの顔を見つめながら状態を尋ねた。これに対してカーソンが落ちついた声で答える。
「傷口を縫合したので出血も治まりました。ただ、出血量が多かったのでしばらく貧血の症状が出るでしょう。後は感染症や傷口の化膿に気をつけなければ。抗生物質を飲ませたいのですが、構わないでしょうか?」
「ああ、使っていい。他にも必要なものがあれば使え。俺が許す。」
「ありがとうございます。それと、彼の世話は誰が担当しますか?世話をする上での注意点を教えたいのですが。」
「こいつだ。名前。」
そう答えてニーガンは名前の背中を軽く押した。
カーソンは感情の読めない目で名前を見つめながら注意事項を淡々と説明し始める。名前は懸命に注意事項を聞いて頭に叩き込む。わからないことは質問し、些細な不安であっても解消するように努めた。
一通りの説明が済んだところでドアがノックされ、サイモンが担架を抱えた救世主たちを連れて戻ってきた。サイモンはリックを指差しながらニーガンを見る。
「ニーガン、もう部屋に運んでもいいか?」
「ああ、運べ。名前も一緒に来い。」
サイモンと一緒に来た救世主たちはリックを慎重に担架に乗せて部屋を出ていく。名前はリックの荷物を持ってニーガンとサイモンの後に続いた。
階段を上り続け、辿り着いたのはニーガンや彼の妻たちの部屋がある階だった。その階にある一室にリックが運ばれていく。
リックに用意されたのはベッドとソファーベッドの両方を置くことができるほど広い部屋だった。部屋の奥側にあるベッドにリックは寝かされ、その周囲にはサイドテーブルやキャビネット、背もたれのある椅子が置かれている。
部屋の出入り口側にはソファーベッドがあり、そこには毛布とクッションも置いてあった。その前にはコーヒーテーブルがあり、ソファーベッドの隣に並ぶ小さな本棚には本がぎっしりと詰まっている。
サイモンが他の救世主たちを連れて部屋から出ていくと、ニーガンは眠っているリックの傍らに立って寝顔を見下ろす。名前はドア付近に立ったまま二人を見守る。
ニーガンはこちらを見ることなく「おい」と声をかけてきた。
「リックの荷物はキャビネットに入れておけ。しばらく必要ないからな。」
名前は「わかりました」と返事をしてからキャビネットの前に移動して扉を開ける。
キャビネットの中にはリックのために用意された衣類やタオル類が詰まっていた。リックの荷物はブーツと腕時計だけなので収納に問題はない。血で汚れたシャツとジーンズは処分され、彼が腰に差していた手斧はアレクサンドリアに帰る日に返却されるだろう。そのため、それらの収納スペースを気にする必要はなかった。
名前は荷物の片づけが済むとニーガンの少し後ろに立ってリックの顔を見つめた。その青白い頬に心配が募る。
「名前、シャワーや着替え、特別な用事以外はこの部屋で過ごせ。食事はリックの分と一緒に運ばせる。まあ、気晴らしの散歩くらいはいいか。とにかくリックから離れるな。」
名前が顔をニーガンの方に向けると鍵が差し出される。ニーガンがサイモンから受け取った二つの鍵のうちの一つだ。
「この鍵を持ってるのは俺とお前だけだ。絶対に誰にも渡すな。」
「はい、もちろんです。大切に保管します。」
その返事にニーガンは小さく笑い、再びリックに視線を戻した。
「部屋から出る時は鍵をかけるのを忘れるなよ。こいつが逃げるといけないからな。」
意外な言葉に名前は目を丸くする。
何者かがリックに危害を加えるために侵入する可能性ではなく、リックが逃亡する可能性を気にするとは考えてもみなかったのだ。
「リックが逃げるなんて考えられません。ケガは軽くありませんし……」
その意見に対してニーガンは緩く頭を振りながら答える。
「こいつは逃げると決めたら逃げるぞ。重傷だろうが敵に囲まれようが関係ない。子どもたちのために家に帰ろうとする。だから鍵をかけ忘れるな。」
確信を持った言葉を聞けば頷くしかない。
ニーガンとリックの付き合いは長くないが、ニーガンはリックのことを随分と理解しているように思える。それはニーガンが相手の人間性を掴むことに長けているからなのだろうか?それともリックへの強い執着心が理解を助けるのだろうか?
そんなことを考えていると、ニーガンがベッドから離れてドアの方へ向かう。そのまま部屋を出ていくと思ったが、彼はドアを開けてから立ち止まり、こちらに顔を向けた。
そして名前の全身に視線を滑らせて「そういえば」と話し出す。
「お前には新しい服が必要だな。そんなに血塗れだと着る気にならないだろ。」
名前はその指摘を受けて改めて自身を見下ろしてみる。パーカーにもジーンズにも血の痕が広がり、乾いて変色していた。リックの体を支えた時に付着したのだろう。
名前は顔を上げ、小さく笑みを浮かべながら「必要ありません」と答えた。
「このパーカーとジーンズはここに来て初めて貰った服だから──大事なんです。だからしっかりと洗って、これからも着ます。」
ニーガンは驚いたように一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにいつもと変わらない余裕のある表情に戻った。
「洗ってもシミは消えないぞ。いいのか?」
「平気です、気にしません。」
「お前は変わった奴だな。好きにすればいい。」
ニーガンはクスクスと笑いながら今度こそ部屋から出ていった。ドアが閉まると静まり返った部屋にリックと二人だけになる。
リックはしばらく目を覚まさないだろう。名前は今のうちにシャワーを浴びて服を着替えてきた方が良いと判断し、部屋を出て鍵をかけると自室に立ち寄って着替えとタオルを持ってシャワー室に向かった。
急いでシャワーを浴び、ついでに血で汚れたパーカーとジーンズを手洗いする。懸命に汚れた部分を擦ってみたがシミは消えない。ある程度のところで妥協するしかなかった。
名前はシャワーを終えて服を着ると自分の部屋に戻り、ロープを部屋に張って洗ったパーカーとジーンズを干した。本当は外に干したかったが夕方になってしまったので、諦めてリックのところへ戻ることにする。
名前はリックの部屋に戻る途中でドワイトを見かけた。感謝を伝えたいと思い、ドワイトを呼び止めながら彼に駆け寄る。
「ドワイト、今日はありがとうございました。助かりました。」
ドワイトは足を止めて名前を見た。
「大胆なことをしたな。まあ、何とかなったみたいでよかった。」
「はい。……アレクサンドリアはどうでしたか?パニックになりましたか?」
リーダーの不在が長期間になると聞けば不安になるだろう。しかも、その身を敵が預かっているとなれば人質に取られたようなものだ。心配は募るはず。
名前がアレクサンドリアの住人を心配していると察したドワイトは小さく肩を竦めてから話し始める。
「俺たちがリックの車に乗って現れたんだからパニックになるのは当然だ。ミショーンやロジータは殺気を向けてくるし……ただ、一番殺気立ってたのはリックの息子だ。それでも俺たちの説明を聞いて一番早く冷静になったのも彼の息子だった。あれは大物だな。」
「息子さんはリックがケガの治療でサンクチュアリに滞在することには納得してくれたんですか?」
「ああ、とりあえずな。アレクサンドリアが物資不足なのは事実だ。あそこに重傷の患者を置いても治りが悪いのは理解してるんだろう。」
「薬が特に不足してますから、ここに居た方が十分な治療を受けられますからね。……ニーガンにリックを任せるしかないことが悔しいでしょうけど。」
名前の言葉をドワイトは肯定も否定もしなかった。
そして、話題を変えるように「ああ、そういえば」と呟く。
「明日、捕虜のダリルをアレクサンドリアに帰らせることになった。」
「急な話ですね。リックに関係があるんですか?」
そう尋ねるとドワイトは苦い表情で溜め息を吐いた。
「リックの話が奴の耳に入ったらしくて、『リックに会わせろ』と騒ぎ出した。リックを連れて逃げられると面倒だから町に帰らせろって命令だ。」
「ニーガンはダリルを部下にするつもりだったんじゃ……」
捕虜として連れてきたダリルを部下にするために、ドワイトがニーガンに命じられて様々なことを行っていたのは知っている。その中には顔をしかめたくなるようなこともあり、それほどにニーガンはダリルを部下にしたいと望んでいたはずだ。それなのに簡単に放り出してしまえるものなのだろうか?
名前の困惑と疑問を察したドワイトは淡々と告げる。
「ニーガンの最優先はリック。つまり、そういうことだ。」
部下になった人間は無期限でサンクチュアリに留まるが、ケガの治療のために滞在する人間は完治すれば立ち去る。要するに期限付きの滞在だ。
普通に考えれば期限のない方を選ぶはずだが、ニーガンはそうではない。ニーガンにとって何よりも魅力的なのは一時的なものであってもリックを自分の傍に置くことなのだ。
或いはリックを永久にサンクチュアリに留め置く計画を立てているのだろうか?
そのことが心配になった名前は確かめずにいられない。
「リックの滞在は期間限定、ですよね?」
その問いに対する答えはすぐには返ってこなかった。
ドワイトは言葉に詰まったように唇を噛んで視線を逸らした後、ボソリと言った。
「そのはずだ。……今のところは。」
ドワイトは視線を逸らしたまま「リックのところへ戻れ」と言い残して去っていく。その場に留まっていても仕方がないので名前もリックの居る部屋へ戻った。
言葉で言い表せない何かが心にこびり付いている。そんな気がした。
名前は部屋に戻った後、現状で自分にできることの少なさに何度も溜め息を落とした。
呼吸の確認や毛布をかけ直してやること以外ではリックが目覚めた時に水を飲ませてやれるようにピッチャーとコップを用意したり、カーソンがリックのために持ってきた医薬品を整理したり、カーソンから教えられた注意事項をメモ用紙に書き留めることぐらいしかできない。
そのうちにリックの額が汗ばんでいることに気づき、慌てて体温を測ってみると彼は発熱していた。急いでカーソンを呼びに行って診察してもらったところ「ケガによる発熱」との診断だったため、またしても大したことはしてやれない。苦しそうな呼吸に胸を痛めながらも額を濡れタオルで冷やしてやるしかなかった。
途中、労働者が名前用の食事を運んできたが、それに手を付けるのもそこそこにベッドの傍らの椅子に座ってリックを見守り続ける。血塗れの彼を見たせいで今にも呼吸が止まってしまうのではないかと不安で仕方なかった。
名前の不安にはお構いなしに時間だけが流れていき、すっかり夜が更けた頃、部屋のドアが静かに開かれる。入ってきたのはニーガンで、トレードマークの革ジャケットを着ていない彼は随分とラフな印象だ。
「──ニーガン、こんな時間にどうしたんですか?」
名前は声量を落として声をかけた。
ニーガンは「こいつのことを聞いた」と答えて顎でリックを指す。
名前は椅子から立ち上がってニーガンに座るよう勧め、ニーガンは素直にそれに従った。ニーガンは名前が椅子を置いていた場所より更にベッドに近い位置に椅子を置き直してリックの顔を見つめる。
「熱が出たらしいな。少しは下がったのか?」
「いえ、変わりません。とにかく今はリックの体に頑張ってもらうしかないそうです。」
「一回くらいは目を覚ましたか?」
名前は首を横に振った。
「カーソン先生は出血と疲れのせいだろうと話してました。抗生物質を用意してもらったので飲ませたいんですが、彼が起きないと飲ませようがありません。」
「目を覚まさなきゃ何ともならない、か。さっさと起きてもらわないとな。」
ニーガンはつまらなさそうに呟いて指の背でリックの顔に触れる。輪郭をなぞるような動きのそれは親密な行為のように感じられ、二人の関係性から考えると違和感を覚える。
もし、目の前の光景を切り取ってタイトルを付けるとすれば「親しい友人の見舞い」などが相応しいかもしれない。
しかし、ニーガンはリックを抑えつけて支配する者であり、リックはニーガンを憎んで忌み嫌う者だ。だからこそニーガンの行為が奇異なものに思える。そうであっても名前がその歪さを指摘することはできない。
ニーガンは黙ったままリックの寝顔を眺め続け、名前も何も言わずに傍に控えていた。
その時、名前の脳裏に疑問が浮かんだ。少し悩んだが、「今なら答えてもらえるかもしれない」と浮かんだ疑問を恐る恐る口にする。
「あの、ニーガン。質問しても構わないでしょうか?」
「何だ?」
ニーガンの視線はリックに張り付いたままだ。彼の視線が自分に向かないことは少しも気にならない。
「リックの治療に使った物資は私のポイントを消費しましたが、それ以外の消費分はどうなるんでしょうか?アレクサンドリアの徴収に上乗せすると、あの町はきっと耐えられません。」
ニーガンは名前をチラッと見て小さく笑った。
「そんなことはしない。俺のものに物資を使うのは当然だろ?それに、消費分をアレクサンドリアに請求するなんて言ったらリックは自分の頭を撃ち抜くさ。」
サラリと提示された答えに「わかりました」としか返す言葉が思いつかない。「リックは自分のものだからサンクチュアリの物資を使うのは当たり前」という考えをすんなりと受け入れてしまいそうで、自分の感覚が麻痺しかけている気がした。それが少し恐ろしい。
そのうちにニーガンがゆっくりと立ち上がった。
「しっかり見ておけ。」
その一言を残し、ニーガンは部屋を出ていった。
二人を見ていると彼らの関係性がわからなくなる。
名前はそのような感想を胸の内で零し、先程までニーガンが座っていた椅子に腰を下ろした。そしてリックの長い睫毛を見つめる。
彼はまだ、目覚めない。
******
待ち遠しかったリックの目覚めは夜明けと共に訪れた。
ソファーベッドで眠る気になれなかった名前が椅子に座ったままうたた寝していた時、小さな呻き声が耳に届く。その声を聞いて飛び起き、慌ててリックの顔を覗き込むと「美しい」と感じた彼の目が名前を映し出していた。
「よかった!あなたは移動の途中で意識を失ってからずっと眠っていたんですよ。気分はどうですか?」
まだ少し意識が朦朧としている様子のリックは必死に名前に焦点を合わせようとし、何度か口の開閉を繰り返してから声を絞り出す。
「──喉が、渇いた。」
ざらついた声を聞き、リックが昨日から何も飲んでいないことに気づく。
名前はリックが体を起こすのを手伝い、その次はコップに水を注いで彼の口元にそれを寄せた。コップを傾けると水が少しずつリックの口に流れ込んでいく。リックが水を飲むたびに彼の喉が動き、その様子を見て名前は「リックが生きている」と嬉しくなる。
リックは水を飲み終えると一つ息を吐き、「ありがとう」と感謝しながら名前に顔を向けた。
「質問したいことがたくさんあるんだが……まず最初に、ここはサンクチュアリなんだな?」
一つ目の質問の答えとして名前はしっかりと頷いた。
「そうか。それなら、ここに俺の仲間が居るはずだ。ダリルという名前の男なんだが、彼がどうしているか知らないか?無事なのか心配なんだ。」
想像もしていなかった質問に驚き、返答することを一瞬だけ忘れた。
リックは大ケガをして先程まで眠っていたのだ。それなのに捕虜となっている仲間のことが真っ先に頭に浮かぶことに驚かずにいられない。
すぐに返答がないことにリックが不安そうな表情を浮かべたので名前は慌てて「心配いりません」と告げる。
「ダリルは今日、アレクサンドリアに帰ることになりました。あなたがここに運び込まれたと知って『リックに会わせろ』と騒いだそうで……あなたを連れて逃げると困るということで帰されることになったらしいです。」
「そうなのか。彼がアレクサンドリアに帰れるならいいんだ。……そうか、帰れるんだな。」
リックは安心したように笑った。捕虜になった仲間のことをずっと心配していたのだろう。仲間が解放される喜びは格別なものに違いない。
しかし、その笑みが引くと少し緊張した表情に変わる。
「俺は新しい捕虜ということになるんだろうか?ダリルが解放されるなら構わないが、そのことだけは確認しておきたい。」
「それはないと思います。ニーガンは傷が治るまでの滞在だと言ってました。それを変えることはないはずです。」
「傷が治るまで?そんなに長くは居られない。すぐにアレクサンドリアに帰りたい。」
リックがベッドから出ようとするのを名前は必死に押し止める。
「動いたらだめです!傷が開きます!今の状態で帰っても町に負担をかけるだけですよ。ここに留まって治してから帰ってください。」
その言葉にリックは苦しげに首を横に振る。その顔には焦りが見えた。
「ここに留まるということは、ここの物資を俺が消費することになる。その分を徴収に反映されたら町の物資が足りなくなる。俺のせいで仲間を死なせるわけにはいかないんだ。頼むから帰らせてくれ。」
「だめです!それに、そんな心配しなくていいんです!」
「なぜ君にそんなことが──」
「あなたがニーガンのものだから!」
名前が叫ぶとリックが抗う動きを止めた。驚いたように目を瞠ってこちらを見つめている。名前はその目を見つめ返しながら彼に言い聞かせる。
「忘れたわけじゃないでしょう?あなたはニーガンのもの。自分のものをメンテナンスするのに物資を使うのは当たり前ですよね。彼は自分のものをメンテナンスするだけ。だからアレクサンドリアの徴収に上乗せされることはないんです。リック、あなたは彼の一番のお気に入りだから。」
名前の告げた言葉は確実にリックの心を抉っただろう。逸らされた目が、悔しそうに噛む唇が、震える拳が、それらの全てがリックの心の痛みを物語っている。
名前はリックから手を離し、俯く彼を見下ろした。
「あなたは傷が治るまでサンクチュアリで安静にして過ごす。これはニーガンが決めたこと。逆らうのは許されない。その間、私があなたの世話をします。できる限りで力になります。──私を信じられなくても頼ってください。」
名前はそれだけを言い終わるとドアの方へ向かう。カーソンにリックの診察を頼み、食事当番にリックの食事の用意を頼まなければならない。ニーガンにもリックが目を覚ましたことを報告したいが、まだ朝の早い時間なので彼の護衛に伝言を頼むことにする。
頭の中で行うべきことを考えながらドアを開けようとした時、後方から「待ってくれ」と呼び止められた。
振り返るとリックが落ちついた表情でこちらに視線を送っている。
「大事なことをずっと聞きそびれていた。君の名前は?」
リックが目覚めてから、それまでの停滞が嘘のように名前は一気に忙しくなった。
まずはニーガンの部屋の前に立つ護衛にニーガンが起きたらリックの目覚めを彼に伝えるように頼んだ。その次は厨房に顔を出してリックの食事を用意するように依頼し、その足で医務室に行ってカーソンに「リックが目覚めたので診察してほしい」と求めた。そして準備のできたカーソンと共に部屋に戻り、カーソンがリックの状態を確認するのを傍らで見守る。カーソンによるとリックの傷の状態は今のところ悪化しておらず熱も下がったので、このまま様子を見守るとの診断だった。
診察の終了後、「部屋に来たついでだから」とカーソンが傷口を消毒してガーゼを取り替えるのを手伝い、カーソンが帰った後はリックが着替えるのを手伝った。濡れタオルで体を拭いてから服を着せたのだが、その間ずっとリックが申し訳なさそうにしているのが何だかおかしかった。
リックの着替えが済んだので名前も一度自分の部屋に戻り、服を着替えて顔を洗ってからリックのところへ戻る。その際に名前とリックの食事を運んできた労働者と会ったので食事を受け取って部屋に入った。
「おかえり。食事を取りに行ってくれたのか?」
「ここに戻る途中で食事を運んできてくれた労働者と会ったので受け取っただけですよ。食事、手伝いますね。」
「いや、大丈夫だ。自分で食べられる。」
「わかりました。無理しないでくださいね。」
名前は自分の皿をテーブルに置き、リックの皿はトレーに乗せたまま彼の膝の上に置いた。
ところがリックは自分に用意された朝食を見て渋い顔をする。
「どうしました?」
「豪華すぎる。俺の食事はもっと質素なもので構わない。俺のために使う物資は最低限にすべきだ。」
リックの朝食はオートミールをスープで煮込んだものだった。野菜がたっぷり入ったトマトスープで煮込んであり、その香りは食欲をそそる。その野菜は支配下に置いた他のコミュニティーで採れたものだ。
以前の世界の基準では特別豪華なものではないが、今は全ての物資が貴重品である。その中でも生野菜は特に貴重なものになっており、それをたくさん使って作られた料理は豪華と称しても差し支えないだろう。
膝の上にある料理を睨むリックを前にして名前はすっかり困ってしまった。食べてもらえないと食材が無駄になってしまう。
「次の食事からは質素なものにしてもらうように頼むので、今回は食べてもらえませんか?無駄にはできません。」
「ああ、それはもちろんだ。これは食べるよ。ありがとう。」
リックは名前を見て苦笑し、それからスプーンを使ってオートミールを食べ始めた。それを見届けてから名前は自分に用意されたサンドイッチを手に取り、小さく溜め息を吐く。
通常、朝食はサンドイッチであることがほとんどだ。朝は厨房も慌ただしいので簡単に用意できるのがそれなのだろう。また、救世主であっても生野菜をたくさん使用した料理を食べられる機会はそこまで多くない。そういったものを頻繁に食べたり朝食で用意されるのはニーガンや幹部、そしてニーガンの妻たちぐらいのものだろう。
それなのにリックの朝食が通常では有り得ないメニューになっているということは、それはニーガンの指示によるものだ。それならば自分が勝手に厨房に変更を指示してはならない。ニーガンにリックの要望を伝え、ニーガンの指示による変更でなければならないのだ。
(質素な食事に変えるのは無理な気がする。たぶん、きっと、絶対に)
どのように説明したものか、と名前は頭を悩ませながらサンドイッチを齧った。
食事が済むとリックに薬を飲ませたり歯磨きの手伝いをするなどの一通りのことを行い、自らも身支度を終わらせてからニーガンに会いに行く。リックの希望を伝えに行くわけだが、あまり気が進まない。
名前はニーガンの部屋の前に到着すると深呼吸をしてからノックする。
「ニーガン、おはようございます。名前です。お話があります。」
すぐに「入れ」という声が聞こえてきたのでドアを開けた。
名前は初めて入るニーガンの部屋の様子に目を瞠る。最初に目に飛び込んできたソファーは複数人掛けのものと一人用のものがあり、それらの前にはコーヒーテーブルが置かれていた。そして最も目を引くのが大きくて寝心地の良さそうなダブルベッドだ。その他にも大型の家具があるというのに手狭な印象はなく、高級ホテルの一室のような雰囲気に緊張が増す。
その部屋の主であるニーガンは大きなソファーの中央に座ってくつろいでいた。コーヒーテーブルの上には空になった食器が並んでいるので朝食を済ませたばかりのようだ。
「そこに座れ。」
ニーガンは自分の正面のソファーを指差した。
名前は「失礼します」と言いながら一人用のソファーに座る。
「伝言を聞いた。リックは明け方に目を覚ましたんだってな。カーソンには伝えたか?」
「すぐに伝えて診察をお願いしました。傷の状態は悪化していませんし、熱も下がったので様子を見守るとのことです。それから傷口の消毒をして、朝食を食べてから抗生物質を飲んでもらいました。痛み止めは本人の希望で飲むのは寝る前だけにします。」
痛み止めの話にニーガンが不快げに眉を寄せる。
「痛いのを我慢するってのか?あいつはバカか?」
「こちらの在庫に負担をかけるわけにはいかないから、と。カーソン先生は渋い顔をしてましたが、寝る前に必ず飲むなら構わないと許してくれました。」
「わかった。寝る前は絶対に飲ませろ。寝ないと体力が回復しない。」
「はい。それと、食事のことで相談があります。」
「何だ?栄養のあるものを食わせるために俺と同じレベルのものを出すように指示してあるぞ。今日は何だった?」
「野菜たっぷりのトマトスープで煮込んだオートミールです。」
「俺と同じだ。旨かったぞ。それに何の問題がある?」
ニーガンはそう言いながら首を傾げた。
栄養満点で美味しい料理であれば普通は問題ない。ケガ人や病人は栄養のあるものを食べるべきなのだからニーガンの指示は当然のものと言える。そのためニーガンも何が問題なのか全く見当がつかない様子だ。
名前は言いづらさを感じながら恐る恐る口を開く。
「……豪華すぎるからもっと質素な食事にしてほしい、とリックが希望しています。自分のために使う物資は最低限にすべきだとも言っていました。」
リックの希望を伝えた途端にニーガンが怒気を発し始める。顔には不機嫌さが滲み、地を這うような声で「何だと?」と呟く相手を前に名前は俯いて縮こまるしかなかった。
まともにニーガンの顔を見ることができない。もし目が合ったら殺される。そのような思いに駆られるほどに恐ろしかった。
「あいつは自分の立場ってものが理解できてないな。俺は何回リックを躾けりゃいい?……名前、この件は俺に預けろ。お前は何もしなくていい。」
ニーガンは手振りで「もう行け」と名前に指示をした。それを受けて名前は急いで部屋を後にする。
名前はリックの部屋に向かって歩きながらホッと胸を撫で下ろす。
怒っているニーガンの傍にいるのは心臓に悪い。ニーガンには感謝の気持ちも敬意を払う気持ちもあるが、やはり彼は自分にとって遠い存在であってほしい。
名前はその思いを強くしながら逃げ込むようにリックの待つ部屋に入った。
名前がニーガンに報告を済ませてから四時間ほどが経った。その間、名前は寝たり起きたりを繰り返すリックの傍らで彼を見守り続けていた。
何度目かの眠りから目覚めたリックがベッドの上で体を起こそうとしたので、背中に枕を入れて背もたれを作った。リックは枕に背中を預けるとホッと息を吐く。
「ありがとう、名前。……そろそろ昼食の時間か。」
リックは名前に感謝を伝えてから己の腕時計を見て呟いた。リックの腕時計はキャビネットに入れていたのだが、リックが「着けていないと落ちつかない」と言うので渡しておいたのだ。
「お腹が空きましたか?」
その質問にリックは苦笑を浮かべながら首を横に振る。
「朝にしっかり食べたし、動いてないからな。たくさんは食べられないかもしれない。」
リックは名前の質問に答えると顔を窓の方へ向ける。その目が眩しそうに細められた。
「……ダリルはそろそろアレクサンドリアに着いた頃か?無事に着いてるといいが。」
名前はその言葉で、リックが気にしていたのは昼食のことではなく仲間のことだったのだと知る。
捕虜になっていたダリルは今朝、ドワイトに連れられてサンクチュアリを去った。ようやくアレクサンドリアに帰ることができるというのに「リックが一緒じゃなければ嫌だ」と最後まで抵抗していた姿は、リックの代わりに見送りにいった名前の記憶にしっかりと残っている。
ニーガンは「リックを返せ」と怒鳴るダリルに向かって「ケガが治ったら帰らせる」と言ったが、憎い相手の言葉を信用するのは難しい。町に戻ってからもリックを案じて過ごすことになるのは容易に想像ができた。そして、リックも遠く離れた仲間たちのことを思いながら過ごすのだ。
名前は窓の外を見つめ続けるリックに「そろそろ町に着く頃だ」と教えてやりたかった。少しでも彼の心の慰めになるのならば、その程度のことを教えても構わないと思いたくなってしまう。
しかし、サンクチュアリがどの辺りにあるのかをリックに知られてはいけない。「リックは些細なことからアレクサンドリアとサンクチュアリの位置関係を把握するから言動に気をつけろ」とニーガンから言われているのだ。出発時間と到着時間がわかれば距離を絞り込むことができてしまう。
名前は苦い気持ちを飲み込んで笑みを作った。
「ニーガンがダリルをアレクサンドリアに帰らせると言ったんですからその通りになりますよ。それに、ドワイトと一緒にアラットも行ってるので大丈夫です。あっ、アラットはニーガン直属の部下の中でも特に信頼の厚い人なんですよ。」
名前が励ますように言葉を重ねるとリックがこちらを向いた。その表情は穏やかだ。
「名前、ありがとう。やっぱり君は救世主に向いていないな。」
「十分に理解してます。」
名前が肩を落としながら言葉を返すとリックは明るく笑う。
「そうじゃなくて、俺が信用するような人間は救世主には向かないということさ。ここで信用できるのは名前だけだ。」
その言葉に名前は目を丸くする。
救世主らしくないとはいえ名前は救世主だ。リックにとって敵である相手だ。その相手を信用するということに驚かずにいられない。
名前はリックから顔を逸らして心に浮かんだことをそのまま言葉にする。
「私は救世主です。あなたの仲間じゃない。そんな相手を信用してもいいんですか?」
リックのことは可能な限り助けてやりたい。それでも名前はニーガンの部下であり、ニーガンを裏切ることはない。リックの完全な味方になることは有り得ないのだ。その事実に対するリックへの後ろめたさから彼に顔を向けることができない。
顔を逸らし続ける名前の耳に自分の名前を呼ぶリックの穏やかな声が届いた。
「名前、君とは長い時間を過ごしたわけじゃない。それでも君がどんな人間なのかは何となくわかる。君は信用できる人間だ。」
リックが確信を持って発言していることは声の力強さからわかる。その声に導かれるようにしてリックに視線を向ければ、彼は優しい顔で微笑んでいた。
「俺は救世主としての君じゃなく名前という個人を見て信用すると決めた。それでいいと思う。」
名前は一瞬、呼吸をするのを忘れた。それは喜びと誇らしさが胸を埋め尽くしたせいだ。
こんな風に言われて嬉しくならないわけがない。同じように言われて心を動かされない人間はいないだろう。
(とんでもない人たらしだ……)
名前はリックと一緒でなければ帰らないと言い張ったダリルの気持ちが理解できてしまいそうな気がした。
そして、この話を続けるのは得策ではないと判断し、礼を言って話を終わらせようとしたところへ軽快なノック音が響く。
「名前、開けろ。両手が塞がってて開けられないんだ。早くしないと冷めちまう。」
ニーガンだ。そう認識した途端に名前はドアに向かって素早く移動した。
ドアを開け、そこに立っているニーガンを見て名前は思わず口が半開きになる。ニーガンは料理を乗せたトレーを持っていたのだ。
ニーガンは自分を凝視したまま固まる名前に訝しげな眼差しを寄越した。
「おい、ボケッとしてないで中に入れろ。」
「し、失礼しました。」
名前はニーガンからトレーを受け取ってコーヒーテーブルに置く。ニーガンの後ろには水の入ったピッチャーとグラス三つが乗ったトレーを持った労働者がいて、それをコーヒーテーブルに置くとすぐに部屋を出ていった。
ニーガンが持ってきたトレーの皿にはスクランブルエッグをメインにサラダとパンが盛り付けられていた。それだけでなく小さな器もあり、そこには皮をきれいに剥いて一口サイズに切った果物が入っている。どちらも三人分が用意されていた。
両手が自由になったニーガンはベッドに直行し、ベッドの縁に座ってリックの顔を観察し始めた。遠慮の欠片もなく視線を投げつけてくるニーガンに対してリックは嫌そうに顔をしかめる。
「ニーガン、ジロジロと見ないでくれないか?落ちつかない。」
リックがうんざりと訴えてもニーガンは見つめるのをやめようとしない。
「寝顔ばっかり見るのは飽きた。起きてる時のお前の顔をしっかり見ておきたいだけだ。それより、お前……」
ニーガンはそこで言葉を切ると親指でリックの唇に触れた。形を確かめるように親指が唇をなぞる動きから名前は目を離せない。
ニーガンはリックと目を合わせながら続きを口にする。
「俺に言わなきゃならないことがあるんじゃないか?」
その一言にリックの目の鋭さが増した。ニーガンを射る視線に滲むのは怒りと憎しみ。彼の中にあるニーガンへの感情は以前と少しも変わっていない。
しかし、リックがそれを目の前の男にぶつけることはなかった。
「──治療をしてくれて、この場所に受け入れてくれて、本当にありがとう。」
リックの声には怒りが滲んでいたものの落ちついた声音だった。
ニーガンに感謝の言葉を告げるのは屈辱だったに違いない。それでもリックは逆らうことを許されない。そしてまた、リックがニーガンのおかげで救われたということも事実なのだ。
強張った表情のリックとは対照的に、ニーガンはリックからの感謝の言葉に笑みを浮かべて満足げに頷いた。
「どういたしまして。お前に死なれたらつまらない。」
ニーガンは歯を見せて笑い、リックの頬を軽く叩いた。
そして名前の方に顔を向ける。
「俺とリックの分の皿を持ってこい。お前も自分の分を食え。」
「はい、ありがとうございます。」
名前は自分用の食事をトレーから下ろしてテーブルに置き、二人分の皿を乗せたトレーを持ってニーガンに近づいた。
ニーガンはベッドに座ったまま近くの椅子を引き寄せ、それを指差しながら名前を見た。
「俺の分はその椅子に置け。」
指示に従ってニーガンの皿を椅子に置き、リックの分はトレーに乗せたまま彼の膝の上に置いた。
リックは名前に「ありがとう」と感謝しながらも横目でニーガンを訝しむように見ている。その眼差しに気づいたニーガンがわざとらしく眉尻を下げた。
「何だよ、ここで食ったら悪いのか?ここは俺の家だぜ?」
「そんなことは一言も言っていない。それより、ニーガン、食事のことなんだが──」
リックは質素な食事にしてほしいと頼もうとしたのだろう。それを阻むようにニーガンが「リック」と声を被せた。
「これを作ったのは俺だ。」
「これ」とは目の前にある昼食のことだ。皿の上にある料理はニーガンが作ったもの。その事実にリックだけでなく名前も驚きを隠せない。
目を丸くする二人を気にすることなくニーガンは淡々と話を続ける。
「この料理は俺がお前のために作った。それをお前は食べなきゃならない。当然だよな?だって、俺がお前のために用意したんだから。」
淡々としながらも滲み出る威圧感は隠せない。いや、ニーガンは隠すつもりがない。
ニーガンはトレーの上から皿を手に取り、それをリックの眼前に突きつけた。皿を挟んで視線を交わらせる二人の間に生まれた緊張は名前にも伝染し、名前は極度の緊張により指一本動かすことができない。
ニーガンは声と同じく感情の抜け落ちた表情でリックに告げる。
「リック、どうやらお前は勘違いしてるらしいが、お前はゲストじゃない。お前は俺に管理される立場だ。だから俺が用意したものや命令して用意させたものをお前は感謝して受け取らなきゃならない。それを忘れるな。」
ニーガンはリックから一瞬も目を離さなかった。リックはニーガンから一瞬も目を離せなかった。
リックは怒りではなく怯えを覗かせながら「わかった」と頷いてニーガンの手から皿を受け取る。そしてトレーの上に皿を戻し、フォークでスクランブルエッグをすくって口に運ぶ。その動きをニーガンの視線が追う。
「……旨い。」
リックはポツリと感想を零した。それに満足したのか、ニーガンはいつも通りの笑みを浮かべて「そりゃよかった」と言ってから自分の昼食に手を付け始める。
その場を支配していた緊張が解け、ようやく名前は普通に呼吸ができるようになった。そして、グラスに水を注いでそれぞれに渡してから自分に与えられた昼食を食べ始める。
スクランブルエッグはフワフワ感とトロトロ感が絶妙で、サラダは砕いたクルミが良いアクセントになっている。パンはしっとりとしていて仄かに香るバターが堪らない。果物は単純に切ったものではなく蜂蜜漬けだった。
用意されたものはどれも美味しい。これら全てがニーガンの作ったものなのだ。他者から尽くしてもらう姿しか見ていないせいで未だに信じられない気持ちもあるが、このようなことで嘘を吐くとは思えない。
名前はリックの反応が知りたくなり、そちらに視線を向けてみると彼は難しい顔で料理を食べていた。
それとは反対に、名前とリックを困惑させている張本人は上機嫌で二人に話しかける。
「俺の手料理はどうだ?旨いだろ。蜂蜜漬けは俺のためだけに作った秘密の一品だ。それを食べられるなんてお前たちはラッキーだぞ。」
そう言われ、名前とリックは果物の蜂蜜漬けを改めて口に入れてみた。噛めば果物の爽やかな甘みと蜂蜜の濃厚な甘みが混ざり合って舌に馴染む。これは絶品としか言いようがない。
「とても美味しいです。」
名前が素直に感想を述べるとリックも同意するように頷いた。
しかし、頷くだけでニーガンが満足するはずがない。ニーガンはリックの顔を見ながら「リック?」と呼ぶ。それを受けて、リックはうんざりした様子でニーガンに顔を向けた。
「美味しい。蜂蜜漬けだけじゃなくて他のものも全部。ありがとう、ニーガン。」
これで満足だろう、と言わんばかりにリックはニーガンを睨む。睨まれているというのにニーガンは嬉しそうに笑った。
「そんなに喜ばれるとやる気が出るな。毎回ってわけにはいかないが、これからも作ってやる。嬉しいだろ。」
ニヤニヤと笑うニーガンにリックが肩を落とした。余計なことを口走ったと後悔しているのかもしれない。
そんな二人のやり取りを見守る名前は溜め息が出そうだ。食事は美味しいが、この二人が揃うと彼らの様子が気になって落ちつかない。部屋の外で一人で食べさせてほしいと望んでも希望が叶うことはない。
ニーガンが一方的に話すのを名前とリックが聞くという状態で昼食の時間は流れていき、名前は食事をしただけなのにひどく疲れたような気がした。
To be continued.