特に何も始まっていない二人・【「久しぶり」】
近頃、ダリルはとても忙しい。刑務所で大勢の人間が暮らすようになってからダリルが行動を共にしていた仲間たちの多くは複数の役割を担うようになり、それはダリルも例外ではなかった。
調達、見張り、ウォーカー駆除、そして委員会の一員でもあるため一日のスケジュールはほとんど埋まっている。タフなところを買われているのか、個人的な頼まれ事も少なくない。
ダリルは忙しいことが嫌なわけではない。皆から頼りにされることは誇らしく、笑顔と共に感謝を告げられると悪い気はしなかった。コミュニティーの一員として貢献することは自信にも繋がった。
しかし、自由な時間を持つことが難しくなったのは困りものである。忙しさのせいで相棒とも呼べる存在のリックと最近は会話さえしていない。そのことに気づいたのは「リックの奴、最近は何してるんだ?」と思い出したように疑問に思ったのがきっかけだ。
「これは良くない」と慌ててリックが居る畑に足を運んだダリルだったが、種蒔きの最中のリックが放つ言葉に顔をしかめる。
「ああ、久しぶりだな、ダリル。」
しゃがみ込んで作業するリックはダリルを見上げながら笑みを浮かべる。それとは対照的にダリルの眉間には深いしわが刻まれた。
ダリルは不機嫌さを隠さずにリックを見下ろす。
「久しぶりって何だよ。離れて暮らしてるわけでもないのに。」
ダリルの抗議にリックは首を傾げる。
「正確な日数を数えたわけじゃないが、俺たちは何日も話していなかったよな?だから久しぶりだな、と思って。おかしいか?」
「……いや、おかしくは、ねぇよ。」
リックの主張の正当性を前に反論の材料が見つからず、ダリルは溜め息混じりにリックの言葉を肯定した。
確かに「久しぶり」と言いたくなる気持ちは理解できる。ダリルがリックと言葉を交わしていないのは二、三日程度の話ではなく、とりあえず一週間以上にはなるだろう。もしかするとそれどころの日数ではないかもしれない。同じ敷地内で生活しながらも離れているのと変わらない状態になっていたのだ。
ダリルは後ろめたさを感じながらリックの隣に腰を下ろした。そして、リックの動きを黙って見守る。
リックは少し盛り上がった土に指で穴を掘り、そこに種を落としてから土を被せた。それを何度か繰り返して一帯の種蒔きが終わると場所を移動して再び種を蒔く。ダリルもリックに合わせて場所を移動する。
その間、ダリルは何も話すことができなかった。何を言うべきなのか言葉が見つからないのだ。
そのうちにリックが手を止めてダリルに顔を向ける。その表情は訝しげだ。
「どうした?何か話があるんだろう?」
手伝うわけでもなく隣に居るダリルは何か目的があって自分のところへ来た。リックはそのように解釈したのだろう。
話を促すようなリックの眼差しを受け、ダリルは緩く頭を振った。
「別に特別な用事があるってわけじゃない。……最近、あんたと話してないことにさっき気づいた。それどころかまともに顔も合わせてない。それに気づいたら落ちつかなくなった。」
気まずさを味わいながら打ち明けた内容にリックが不思議そうに瞬きをする。
「お互いに別々の仕事があるし、ここで暮らす人数も増えた。話をするタイミングがなくても仕方ないだろう。それに、お前以外にも顔を合わせてない相手はいるぞ。気にしすぎじゃないか?」
「俺は忙しくてあんたのことを忘れてた。顔を見てないってことに今日になるまで気づきもしなかった。……リック、俺はあんたを一人きりにした。最低だ。」
苦しく厳しい旅を続ける中で育んだリックとの信頼関係はダリルにとって何よりも大切なものだ。ダリルとリックは自他共に「相棒」と認める存在になっている。それなのに日々の忙しさを理由にリックのことを忘れていた己が許せない。
それだけでなく、リックを一人きりにしてしまったことがダリルにとっては大失態だ。リーダーを降りてからのリックは他者との交流が少なく、昔からの仲間の多くは孤立しそうな彼を心配している。そのため、ダリルはリックを孤立させないように声をかけたり様子を見に行くように心がけていた。だからこそリックを一人きりで放置してしまったことはダリルにとって大失態なのだ。
気まずさは罪悪感へ変わり、ダリルはリックから顔を逸らす。
ダリルが地面を見つめていると隣から「大げさな奴だな」と呆れたような声が聞こえてきた。反射的に顔をリックの方に向ければ苦笑いを滲ませる彼と目が合う。
「特定の誰かのことを一日中考えているのは無理だ。言い方は悪いが、俺だって子どもたちのことばかり考えていられるわけじゃない。お前は一日中、何をしていても俺のことを考えていられるか?頭から抜け落ちる瞬間があるんじゃないか?」
「……あんたの言う通りだ。一日中考えていられない。」
「そうだろう?だったら思い詰める必要はない。それにな、ダリル。俺は一人でいることを寂しいと思わない。特に何とも感じていないんだよ。だから勝手に憐れむのはやめてくれ。」
リックの言葉にダリルはハッとする。
リック本人が一人でいることを寂しいと言ったわけでもないのに「一人きりでかわいそうだ」と決めつけ、勝手に憐れんでいたのだ。それを自覚した途端に無意識にリックを憐れんでいた自分が恥ずかしくなる。
「俺はリックをかわいそうな奴として扱ってたんだな。本当に悪かった。」
ダリルが謝罪するとリックは「気にしてない」と微笑み、ダリルの肩を慰めるように叩いた。
「ダリルは優しいから他人を心配せずにいられない。それは悪いことじゃないさ。あんまり落ち込むなよ。」
リックはダリルから視線を外すと種蒔き作業に戻った。ダリルは再び地面に視線を移したリックの横顔を眺めながら声をかける。
「俺は頭が悪いから、またあんたのことを忘れちまって何日も顔を合わさないことがあると思う。それでも思い出したら今日みたいに会いに来ていいか?」
ダリルがそのように尋ねると、リックが再び顔をこちらに向けた。
「もちろん。その時は『久しぶり』って挨拶するよ。」
リックは返事をしながら笑顔を浮かべた。それに釣られてダリルも微笑む。
心がスッキリしたダリルはリックに「手伝う」と手を差し出した。
「いいのか?」
「ああ、今日はスケジュールに余裕がある。」
「じゃあ、頼む。」
リックは嬉しそうに笑いながらダリルの掌に種を落とした。
種を受け取り、リックに倣って種蒔きを始める。単純作業なので会話をしながらでも問題ない。
ダリルはリックと並んで畑に種を蒔きながら最近の出来事を語って聞かせた。語る方も聞き入る方も、どちらも心から楽しそうに笑っていたのは言うまでもない。
END
・【進歩】
冬の厳しさが和らぎつつある中、今日は日差しの温もりに加えて風がないことにより暖かさを強く感じる。屋外での作業に励む者たちは「今日は暖かいね」と言葉を交わしながら頬を緩ませた。
暖かさの恩恵を受けているのはリックも例外ではなく、久しぶりに凍えることなく畑仕事ができるのはありがたかった。家畜として飼育している動物たちもいつもより気持ち良さそうにしており、餌を食べ終わった後は元気に柵の中を歩いている。
リックは動物たちを観察しながら「今日ならジュディスを外に連れ出しても問題ない」と考え、午後の暖かい時間帯にジュディスを散歩に連れ出そうと決めた。
午後になり、リックは昼食後の昼寝から目覚めて元気いっぱいな我が子を抱いて監房棟を出る。気温は午前中よりも高く、上着の前が開いていても気にならないほど暖かい。ジュディスも寒さを全く感じていない様子ではしゃいでいる。
「久しぶりにお出かけできて嬉しいな、ジュディス。今日はパパとお散歩しよう。」
リックが微笑みながら声をかけるとジュディスは嬉しそうな声を上げた。
ジュディスはまだ会話はできない。意味不明な言葉を口にするだけなのだが、彼女がどのような気持ちでいるのかは表情や声でわかる。今の気持ちは「嬉しくて仕方ない」らしい。
リックはジュディスを抱いたまま監房棟の周囲を歩く。監房棟の周囲を歩くだけでは散歩と呼べないかもしれないが、フェンスに近づくとウォーカーの姿が見えるのでジュディスが怯えてしまう。そのためフェンスから離れた場所を歩くしかなかった。
リックはジュディスに話しかけながら散歩を続け、十分ほど歩いてから建物に添うように置かれたベンチに腰を下ろした。
「しばらく座ってのんびりしよう。な、ジュディス。」
リックが笑いかけるとジュディスは笑い声で応える。
しばらくの間、親子は穏やかな時間を楽しんでいたのだが、そこへ焦った様子のダリルが姿を見せた。ダリルは二人の姿を認めるとリックに視線を向け、その次にリックの腕に抱かれるジュディスに視線を移して脱力したようにしゃがみ込んだ。
「ダリル、どうしたんだ?何かあったのか?」
普段とは異なる様子のダリルに不安が込み上げる。
ダリルはリックの問いに対して「何もない」と返しながら立ち上がり、こちらに近づいてきてリックの正面に立った。こちらを見下ろすダリルは安堵の表情を浮かべていた。
「特に何かあったわけじゃないが、あんたとじゃじゃ馬娘がどこにもいなかったから心配になって捜してただけだ。監房棟から出たとは思わなかった。」
「そうだったのか……心配させて悪かった。今日は暖かいからジュディスを外に出してあげたくて。それにしてもお前は心配性だな。俺がこの子を連れてフェンスの外に出るなんて有り得ないとわかってるだろう?」
リックは苦笑しながら肩を小さく竦めた。自身を守ることができない年齢の子どもや老人がフェンスの外に出ることは規則で禁止されている。それを含めた様々な規則を決める話し合いにはリックも参加していたのだ。
リックの指摘にダリルは「わかってる」と頷いた。
「わかってるが、何が起きてもおかしくないだろ。特に今の世界は。」
ダリルは淡々とした様子で言葉を返すとリックの前に片膝をつき、ジュディスを抱くリックの手に自らの手を重ねてきた。ダリルの大きな掌に手を包まれ、リックはダリルの顔を見つめたまま目を瞠る。
ダリルの表情に揺らぎはない。落ちついた様子でこちらに真っ直ぐな眼差しを寄越す。
「大事なものはしっかりと掴んでおかなきゃならない。手を離したら二度と取り戻せなくなる。大げさかもしれないが、俺はそう思う。」
リックはダリルの真剣な目を見つめ返しながら、彼の兄であるメルルのことを脳裏に思い浮かべる。
メルルが死んだ原因は単身で敵のところへ乗り込んだことだ。誰かと一緒であればケガは避けられなかったとしても命は助かったかもしれない。ダリルは兄を一人で行かせたことを悔いており、救えなかったことは心の傷として残っているだろう。
唯一の肉親の死がダリルの中に存在する「仲間を失うことに対する恐怖」を今まで以上に大きくさせている。リックにはそのように思えた。
しかし、リックにはその恐怖を取り除くことも和らげることもできない。その恐怖を和らげるのは己の考え方や心構え次第なのだから。
リックが己の無力さを感じているとダリルが微かに苦笑を漏らした。
「そんな暗い顔するなよ。これでも俺にとっては進歩なんだ。」
「進歩?」
リックが首を傾げるとリックの手を掴むダリルの手に力が込められた。
「昔の俺はいろんなことを最初から諦めてた。何かを望んでも『どうせ無理だ』って諦めて手を伸ばそうともしなかった。拗ねて唾を吐きかけてただけだ。」
ダリルは「ダサいよな」と自嘲気味に笑って目を伏せたが、すぐにリックに視線を戻す。その目に宿る光にリックは目を奪われた。
「諦めるのをやめたのはあんたに出会ったからだ。手を伸ばしてみなきゃ始まらない。掴もうとしなきゃ掴めるわけがない。リック、あんたはそのことに気づかせてくれた。だから俺はリックを失わないために何があってもリックを守る。そう決めた。」
そのように宣言したダリルに悲壮感はなかった。
「大事なものはしっかりと掴んでおかなければならない」という気持ちは決して後ろ向きなものではない。最初から諦めたりせずに必死に掴もうとする前向きな姿勢から生まれたもの。ダリルは兄の死を彼なりに乗り越えていたのだ。
リックはダリルの気持ちを後ろ向きな捉え方をしていたことが恥ずかしくなり、ダリルに「すまなかった」と謝罪した。
「お前の気持ちを後ろ向きなものだと決めつけていたよ。失礼なことをした。本当にすまない。」
リックの謝罪にダリルは目を丸くしたが、柔らかく微笑むと「謝るな」と言ってリックから手を離した。
そして、リックから離したばかりの手でジュディスの頭を撫でる。
「兄貴が死んだことを乗り越えられたのか未だによくわからないが……あんたや他の奴らがいるから大丈夫だって思える。だから、しっかり生きてろよ、じゃじゃ馬娘。」
ダリルの物言いにリックは思わず吹き出した。
「何だ、それ。変な言い方だな。」
「俺は洒落た言い方なんてできないからこれでいい。」
笑い続けるリックにダリルは拗ねた表情を浮かべた。それもすぐに真剣な表情に変わり、そんなダリルを見てリックは笑いを治めた。
真剣な面持ちで見つめ合ったまま沈黙が続いたが、それはダリルによって破られる。
「──リック、あんたも生きてろ。あんたもカールもジュディスも俺が守るから。」
ダリルは大事なものを失わないために自らの手で大事なものを守ると決めた。そして、彼はリックに「生きていること」を求めている。それならばリックがダリルの思いに応える方法は一つだけだ。
リックは穏やかに微笑みながら深く頷く。
「生きるよ。子どもたちを、みんなを守るために。それから……お前が大事なものを失わないために。」
リックがそのように告げるとダリルは笑った。心の底から嬉しそうな笑みはリックの心を温める。
その時、リックの胸をジュディスの小さな手が叩いた。それに促されるようにリックが視線を愛娘に落とせば宝石よりも美しい瞳が輝きを放つ。
(ああ、失いたくないな)
リックはジュディスを見つめながら心の中だけで独りごちた。
リックにとって大事なもの──それはダリルと同じで自分と共に生きる人々だ。彼や彼女の誰一人として失いたくないと強く望む。それならば自分もダリルのようにしっかりと掴んでいよう。
その決意を表すようにリックはジュディスを抱きかかえる腕に力を込める。それを察したのか、小さな手がリックの手を力強く掴んだ。
END
【はんぶんこ】
文明社会が崩壊し、娯楽の少ない暮らしの中での最大の楽しみといえば食事だ。質素であっても調理当番が心を込めて作った料理は美味しい。美味しいものを食べるだけで心が安らぎ、楽しい気分になるものだ。住人が増えた刑務所においてもそれは例外ではなく、見張り当番以外の全員が揃う夕食ははしゃぐ声や笑い声が絶えない。
その夕食時。今日はいつにも増して皆のテンションが高いのには理由がある。
「今夜のメインディッシュは鹿肉のトマト煮込みだよ!」
調理当番が声高に告げれば食堂に集う皆から歓声が上がった。
今日の狩りでは大きな鹿を一頭仕留めることに成功した。その鹿を少しの取り零しもないよう丁寧に捌いたので肉の量はかなりのものになり、「少しくらい贅沢しても構わないだろう」ということで全員に新鮮な鹿肉が行き渡ることになったのだ。
鹿を仕留めたのは狩りが得意なダリルである。ちなみにダリルは狩りを終えて刑務所に戻ってきた後、擦れ違う誰もが感謝の言葉を投げてくることに照れくさくなって夕食の時間になるまで使われていない監房棟に隠れていた。
夕食を食べるために隠れるのをやめて食堂に足を踏み入れたダリルは早速食事を受け取りにいく。
配膳係から料理の盛られた皿を受け取る際に「夕食の功労者にはサービスしないとね」と言われ、受け取った皿に視線を落とすと通常は一切れであるパンが二切れも乗せられていた。自分だけ量を多くしてもらうわけにはいかない、と返そうとしても拒否されてしまっては仕方ない。ダリルは小さく肩を竦めてから空いた席を探して食堂の中を見回す。
視線を移動させていく中で食堂の隅のテーブルにリックの姿を見つけた。彼の隣の席が一つ空いている。ダリルはその席に狙いを定め、少しだけ足早に移動した。
「ここ、空いてるよな?座るぞ。」
ダリルはお目当ての席に到着するとリックに宣言しながら座った。それに対してリックは「空いてるぞ」と微笑み、自分の皿を少し移動させてダリルが皿を置きやすいように気遣ってくれた。
「今日の鹿はかなり大きかったんだって?運ぶのが大変だったとタイリースが言っていた。」
「ああ、あそこまで大きい奴はなかなか見かけないな。仕留められて良かった。」
「車から運び出すのにかなりの人手が必要だったらしいな。それなのに手伝えなくて悪かった。ジュディスがぐずってて動けなかったんだ。」
申し訳なさそうに眉を下げるリックにダリルは苦笑いを向ける。
「あんたはジュディスに構ってやればいいんだよ。ほら、冷めないうちに食おうぜ。」
ダリルはリックに声をかけてから自分の食事に視線を落とし、皿の上に乗っている二切れのパンを見て動きを止める。鹿を持ち帰ったことに対する感謝として一切れ多めに貰ったパンではあるが、ダリルはこれをリックに食べてもらいたいと思った。
リックは広い畑や何匹もいる家畜の世話をほとんど一人で引き受けており、毎日休むことなく畑と家畜小屋に足を運んでいる。一日の大半を体を動かして過ごすのだからとても腹が空くだろう。改めて考えてみると、現状で与えられる食事の量で足りているのか疑問だ。他者を優先しがちなリックであれば腹を満たせなくても我慢してしまいそうな気がした。
やはり余分に貰ったパンはリックが食べるべきだ。
その結論に至ったダリルはパンを一切れ手に取るとリックの皿に乗せる。そうするとリックが驚いたようにダリルを見るので「やるよ」と告げた。
「余分に貰ったんだ。あんたが食え。」
ダリルの言葉にリックは首を横に振り、ダリルがリックの皿に乗せたパンをダリルの皿に戻してしまった。
ダリルは自分の皿に戻ってきたパンを睨んでからリックの方に顔を向ける。
「おい、戻すな。」
ダリルが眉間にしわを寄せて抗議の声を上げるとリックは困ったように眉を下げる。
「これは貰った本人が食べるべきだと思う。特にお前は忙しく飛び回っているんだから腹が減るはずだ。俺は気持ちだけで十分だよ。」
リックの主張にダリルの眉間に刻まれたしわが深くなる。
他者を優先しようとするところはリックの美点ではあるが、それを自分相手にする必要はない。刑務所で暮らす者たちの中でもリックとの付き合いは長い方に入るのだから余計な気遣いは無用だ。
ダリルは返されたパンをリックの皿に再び置いた。そうするとリックが「ダリル!」と非難めいた口調で名前を呼んでくるが、それに負けるダリルではない。
「あんたは畑と家畜の世話を一人でやってるんだから食わなきゃ体力が持たないぞ。いいから食えよ。」
「だから、俺はその気持ちだけで十分なんだ。体力なら問題ない。」
リックは言い返すとパンを再びダリルの方に戻してしまった。すぐにダリルがそのパンをリックの方に戻せばリックの表情は渋くなる。
こうなってしまえば意地の張り合いだ。ダリルとリックは互いに己の主張を譲らず、二人の間では一切れのパンが往復を繰り返す。「自分は大丈夫だ」「そっちが食べるべき」などの主張と共に続くパンの譲り合いは不毛な争いと称しても問題ないだろう。
しかし、終わりの見えなかった争いは唐突に終わりを告げる。
「あっ!……そうか!」
リックが何か閃いたように声を上げ、ダリルと目を合わせたまま笑みを浮かべた。
急に様子の変わったリックに戸惑うダリルの目の前で、リックは二人の間を往復していたパンを慎重な手つきで半分に分けた。ほぼ均等に分かれたパンのうちの一切れがダリルの皿に乗せられる。
ダリルは自分の皿に視線を落としてから顔を上げてリックを見た。リックはニッコリと笑っている。
「半分にして分け合えば良かったんだ。最初に気づけば良かったな。」
ダリルはリックの笑顔を見つめながら妙に全身の力が抜けるような気がした。
意地の張り合いはあっけないほど簡単な方法で終わりを迎えた。そのあっけなさとリックの温かな人柄に触れて力んでいた自分がバカみたいに思える。
ダリルは苦笑いしながら半分に分けられたパンを手に取った。
「俺たち、かなりの間抜けだな。こんなに簡単に解決できるってのに……本当に間抜けだ。」
「どっちも思いやりがあるってことでいいだろう。じゃあ、食べようか。」
リックは明るく笑うと分け合ったパンを齧る。そして口をモグモグと動かしながら「旨い」と目尻を下げた。
ダリルはリックの様子を見守ってからパンに噛み付いた。噛みちぎって咀嚼すれば旨味が口の中いっぱいに広がっていく。食べ慣れたパンであるはずなのに特別に美味しく感じられた。
ダリルは不思議な感覚に首を傾げながらリックに視線を向けてみる。そうするとダリルの視線に気づいたリックが目線をこちらに寄越した。目が合い、リックが微笑む。
「今日のパン、旨いよな。な、ダリル。」
微笑みながらのリックの言葉を聞いてダリルは理解した。
分け合ったのはパンだけではない。相手を大切に思う気持ちも分け合ったから普段よりも美味しく感じられるのだ。相手を大切に思い、相手から大切に思われているということを感じながら食べるのだから美味しさが増して当然だ。
何かを分け合う相手がいるということが尊く、そして愛おしい。ダリルはその思いを噛みしめながら笑みを口の端に乗せた。
そして、リックに向かって心からの言葉を告げる。
「ああ、リックの言う通りだ。このパンは本当に旨い。」
END
・【充電】
住人が増えた刑務所は賑やかな場所になった。使用していない監房棟以外の場所には絶えず明るい声や人々の足音が響いており、そのことについて「賑やかになった」と笑い合う住人たちの姿はお馴染みのものとなっている。
そんな賑やかな刑務所であっても早朝は静かなものだ。見張り当番や調理当番、そして一部の早起きな人間しか活動を始めていない時間帯は緩やかな空気が流れている。
その早朝の住人の一人であるリックはジュディスを胸に抱きながらグリーン親子と立ち話を楽しんでいた。椅子に腰かけるハーシェルを囲むようにリックとグリーン姉妹の三人が立ち、リックの腕の中ではジュディスが目をパッチリと開けて大人たちを見上げている。
今朝の話題はベスの提案についてだ。ベスは目を輝かせながら三人に向かって熱心に話す。
「だからね、プランター栽培を子どもたちに頼んでもいいんじゃないかなって。育てるのが簡単な野菜を選べば上手くいくと思う。そうすれば農作業にも興味を持ってもらえると思わない?」
ベスの提案に他の三人は頷いた。
「俺としても畑の世話をする人間が増えてほしいから、今のうちに興味を持ってもらえるのは良いことだと思う。」
「今は刑務所の整備と生活の維持のための仕事でみんなが手いっぱいだもんね。今はリックに踏ん張ってもらって、子どもたちがもう少し成長したら畑と家畜の世話の方に何人か行ってもらうのがベストかな。父さんはどう思う?」
「このコミュニティーの一員としての自覚と責任を持たせる良い機会になるだろう。幸い、プランターを置く場所はたくさんある。私も賛成だ。」
ハーシェルが賛成の意を示して微笑むとベスが「良かった」と満面の笑みを浮かべる。その笑みはすぐに引き、真剣な顔つきになったベスが三人の顔を順に見つめながら口を開く。
「このことは私が主導でやります。でも、一人で進めるのは難しいから手伝いをお願いすることになると思います。その時はよろしくお願いします。」
畏まった口調のベスにリックたちは互いの顔を見合わせた。そして、少しの間を置いた後に揃って吹き出す。
マギーはキョトンとするベスの顔を両手で挟んで明るく笑う。
「変なところで遠慮しないでよね!そんなに畏まって頼むようなことじゃないでしょ?手伝うに決まってる。」
マギーの言葉にリックとハーシェルも微笑みながら頷く。それを受けてベスは少しはにかみながら「ありがとう」と感謝した。
その時、和やかな雰囲気とは対照的な空気を纏った男が監房棟に入ってきた。それは夜間の見張り当番だったダリルだ。こちらに向かって歩いてくるダリルは動きが鈍く、「全身が重くて仕方ない」といった雰囲気が垂れ流されている。顔にも覇気がないためウォーカーに転化したのかと疑いたくなってしまう。
リックたちは困惑を顔に浮かべながら顔を見合わせた。
「彼、どうしたの?妙に疲れてない?」
微かに眉間にしわを寄せるマギーの疑問に答えたのはハーシェルだ。
「昨夜、もう一人の見張り当番のショーンが熱を出したんだ。疲れが溜まっていたようだな。風邪ではないから、その点については安心していい。ダリルには見張りを代行できる人間を探すように言っておいたんだが、まさか……」
ハーシェルはダリルの方に顔を向けて渋い顔になった。
不自然なところで途切れた言葉の続きは「代行を頼まずに自分だけで一晩中見張りを行ったのではないか?」といったものだろう。それはリックとマギー、ベスの三人も頭に過ったことだ。それはダリルの優しさからの行動であると理解しているが、一人だけで負担を抱え込むのは良くない。
リックは徐々に距離を縮めてくるダリルを眺めながら「叱ってやらなければいけない」と気を引き締める。
遂にダリルがリックたちの近くまで来たので、リックは夜間の見張りを一人で行ったのではないかと確認するために口を開いた。
しかし、その口から飛び出したのは「へ?」という間の抜けた声だった。
「へ?……え、ダリル?」
こちらに近づいてきたダリルはリックに後ろから抱きつくと首元に顔を埋めて動かなくなった。ダリルの予想外の行動に驚いたリックが言葉を紡ぐことができなくても無理はない。
リックは顔を少し後ろに向けて自分に抱きついたままのダリルを呆然と見つめていたが、我に返ると助けを求めて他の三人を見た。
しかし、ハーシェルは苦笑を浮かべ、マギーは呆れ顔で腕組みをし、ベスに至っては微笑ましげに見つめてくるだけだった。
「ど、どういうことだと思う?」
すっかり混乱したリックは仲間たちに問いかけた。それに対する答えはすぐには返ってこず、三人は曖昧な笑みを浮かべながら視線を交わらせている。
「どうって言っても……ねぇ?」
マギーの言葉を受けたハーシェルは「そうしたいと彼が望んでいるとしか……」と言ったきり口を噤んでしまった。
そして、ベスはリックの手からジュディスを引き取ってニコッと笑う。
「ダリルはリックに甘えたいみたい。しばらく構ってあげて。」
ベスはそう告げて外に出ていってしまった。それを追いかけるようにマギーもハーシェルを立ち上がらせて二人で外へ向かう。リックはダリルに抱きつかれたまま仲間たちと愛娘が出ていくのを見送るしかなかった。
取り残されたリックは一つ息を吐くと首元に顔を埋めたままのダリルに声をかける。
「……ダリル、一人で朝まで見張りをしていたのか?」
その質問に対してボソッとした声で「そうだ」との返事があった。
「やっぱり、そうだったのか。みんなに負担をかけないようにしたかったんだろうが、お前だけが負担を背負うのはだめだ。みんなで助け合ってやっていこうと決めただろう?また同じようなことがあったら必ず誰かに手伝ってもらえ。わかったな?」
「ああ、わかった。」
疲れきった声での返事にリックは苦笑する。これ以上の説教はかわいそうだ。
リックは己の体に回されたダリルの腕を軽く叩きながら「お疲れ様」と労った。
「ダリル、朝食まで時間があるから寝てくるといい。時間になったら起こしに行くから。」
「いい。起きてる。」
眠たそうな声音で提案を蹴ったダリルにリックは顔をしかめる。眠気と疲れが限界に来ているだろうに、何を言っているのか?
「絶対に起こしてやるし、もし起きなかったらお前の分の食事は確保しておいてやる。いいから寝てこい。」
「いいって言ってるだろ……あんたに引っ付いてる方が良い。」
ダリルは反論するとリックの首に頬ずりした。その次はスンスンと鼻を鳴らしながら首元に鼻先を寄せる。
ダリルの行動に驚いたリックは言葉を失い、全身を硬直させた。
(匂いを嗅いでる……よな?間違いなく俺の匂いを嗅いでるんだよな?)
ダリルの奇妙な行動に驚いた後は心配する気持ちが芽生えてきた。疲れのせいでダリルがおかしくなってしまったのではないかと思ったのだ。
リックはダリルの注意を引くために彼の腕を軽く叩いた。
「ダリル、大丈夫か?寝不足と疲れでおかしくなってないか?」
それに対してダリルは「なってない」と言いながら深呼吸をする。まるで匂いを吸い込むような行為にリックは恥ずかしくなった。
今更になって今の状態を恥ずかしく思ったリックがダリルの腕から抜け出そうと身じろぎしても拘束する腕の力は強く、更に悪いことにリックが抜け出そうとしたのを察して力が強まってしまった。
ダリルの腕の中から抜け出せず途方に暮れるリックの耳にダリルの声が届く。
「リックの匂いも体温も、好きだ。安心する。」
独り言に近い声量ではあったが、ダリルの本音は間違いなくリックに届いた。
リックは一瞬だけ目を瞠り、続いて穏やかな表情になると内緒話をするような声の大きさでダリルに話しかける。
「俺は良い匂いなんてしないぞ。汗臭いか、泥臭いか、動物臭いか……そんな匂いしかしないと思う。それでも好きなのか?」
その問いにダリルが微かに頷く。
「好きだ。俺にとってリックの匂いは好きな匂いなんだ。体温も。ずっと嗅いでいたいし触っていたい。だから、このままでいさせろ。疲れが取れる。」
「お前──……」
ダリル自身には大胆なことを口にしている自覚はないだろう。こんなにも疲れきっているのだから頭が回っていないはずだ。
恥ずかしくなるような言葉ばかりだが、それでもリックはダリルの言葉を嬉しく思う。出会ったばかりの頃は周囲に対して警戒心や敵意を剥き出しにしていた男が、自分の傍に居て安心できると言ってくれたようなものなのだから。それは仲間として、そして家族として何よりも嬉しいことだ。
リックは自分が微笑んでいることを自覚しながらダリルの腕に手を乗せる。ダリルの言葉が嬉しいのだと示すように腕を撫でてやれば彼は安堵したように息を吐いた。
「ダリルが望むなら、どれだけでもこうしていて構わない。これぐらいのことでお前が元気になるなら俺は嬉しいよ。」
「ん。──ありがとな。」
感謝の言葉を告げるダリルは今にも眠ってしまいそうな声をしており、それが面白くてリックは軽く笑い声を上げた。
ダリルは元気になったら自分の行動を恥じて大慌てで謝ってくるだろう。その姿を想像するだけで笑いが込み上げてくるが、その時に伝えたいことをリックは脳裏に浮かべる。
(疲れたら、いつでも俺のところへ来ていい。そう伝えよう)
そのように伝えたらダリルはどんな反応をするのだろう?
リックは楽しげに微笑みながらダリルの腕を撫で続けた。
──あの日から数ヶ月後。
刑務所では階段に座るリックの一段上にダリルが座ってリックを背後から抱きしめるという光景が繰り広げられていた。ダリルの方が高い位置に座っているので彼はリックの髪に鼻先を埋めている。
抱きしめられている側のリックはというと、平気な顔でジュディス用の布おむつを縫う作業に勤しんでいる。少し動きにくそうではあるが手元での作業なので縫い物をするのに支障はなく、特に鬱陶しがる素振りは見せない。そんな二人の近くにはジュディスをあやすグリーン姉妹の姿があった。
その奇妙で穏やかな空間に足を踏み入れたグレンはリックとダリルを見て目を丸くした。口が半開きになっているものの本人が気づいた様子はない。
グレンの存在に気づいたマギーが「グレン、作業は終わったの?」と声をかけた。
「あ、ああ、うん。思ったより早く終わったよ。」
マギーの声によって我に返ったグレンはリックとダリルをチラチラと見ながらグリーン姉妹に近づいていった。
グレンはマギーの隣に立つと声を潜めて質問する。
「ねえ、あの二人はどうしたの?何してるの?どんな関係?」
困惑を隠すことなく矢継ぎ早に質問を重ねる夫にマギーは苦笑する。
「別に関係性は変わってないわよ。疲れが限界に来たダリルはリックを抱きしめて匂いを嗅ぐと回復するってだけ。」
マギーの返答にグレンが硬直する。少しの沈黙の後、グレンは恐る恐るといった様子で後ろを振り返ってリックとダリルに視線を向けた。
「要するに、ダリルは充電中ってこと?」
「そういうこと。だから放っておきなさい、グレン。」
マギーはそれだけを告げるとベスの腕の中でご機嫌なジュディスの頬を突いて「そうだよね、ジュディス」と笑いかけた。
グレンは指一本動かさないまま再び問う。
「リックは何で平気そうなの?慣れてるのか?」
今度はベスがグレンの質問に答える。
「私が見ただけでも四回目になるかも。リックが言うにはリック一人でいる時にも何回かあるみたい。慣れるのは当たり前ね。」
「そ、そうなんだ。……衝撃が大きくて頭の処理が追いつかない。」
混乱し続けるグレンの視線の先ではリックとダリルが言葉を交わす。
「なあ、ダリル。俺はさっきまで外で動いていたから汗臭いんじゃないか?嫌じゃないのか?」
リックは手を止めずにダリルに尋ねた。それを受けてダリルはスンスンとリックの匂いを嗅いで「臭くないぞ」と答える。
「あんたが臭いなんて一回も思ったことない。俺はあんたの匂いが好きなんだから気にするな。」
「それならいいんだ。」
そのやり取りの後も二人の体勢は変わらない。
グレンはぎこちなく顔を動かしてマギーとベスの方を見た。そのグレンの顔には何かを察した気配がある。
「マギー、ベス、わかったよ。周りの人間があの二人に慣れたらいいんだな。」
どこか遠い目をするグレンに姉妹は同時に首を縦に振った。
その後もリックで充電をするダリルと、それを平然と受け入れるリックの姿は日常として存在し続けた。その度に初めて目撃した誰かが驚き、混乱し、最終的に悟りを開く姿もまた、日常となったのだった。
END