リック受けまとめ2・【初期で出会っていたら?のお話】ニガリク
病院のベッドの上で目覚めた時、目の前には見知らぬ男がいた。
その男は世界が一変したことを教えてくれて、ケガをした状態の俺が一人で生き延びるのは難しいと言った。だから生き抜く術を教えてくれるとも。
「俺はリック。あんたの名前は?」
男は近くにあったノートとボールペンを手に取り、何かを書くと俺に差し出した。
差し出されたノートには「Negan」と書かれている。
「ネガン?それともニーガン?」
「どっちだと思う?まあ、お前の好きに呼べばいいさ。」
本名を教えたくないのだろうか?
なぜ隠す必要があるのかわからず、少しだけ不信感が芽生える。
だが、今の俺は目の前の男を頼るしかない。
「よろしく、ネガン。」
握手をするために手を差し出したが、恐らく俺の顔には警戒心が滲んでいただろう。
それでも男……ネガンは楽しげに笑った。
「よろしくな、リック。」
*****
死者が生者を食らう世界に戸惑いながらも俺はネガンに学びながら二ヶ月ほどを過ごした。
彼はタフな男で、そして賢い人間だった。死者との戦い方もサバイバルも熟知し、俺に惜しげもなく知識を与えてくれた。
ただ、どうしても俺たちの考え方は噛み合わない。ネガンのやり方や考え方に納得できないことが多い俺は何度彼に反対意見をぶつけたかわからない。それでも彼はいつもと変わらない笑みを浮かべたまま曖昧に終わらせてしまう。
考え方が違い過ぎる俺たちの関係はいつか破綻するだろう。そうなる前に別々の道を行くことが最善だと思い、ネガンに正直に話をした。
俺の提案にネガンはあっさりと「それがいいかもな」と了承してくれた。恩知らずだと罵倒されることを覚悟していた身としては拍子抜けだったが、理解してもらえたことに胸を撫で下ろす。
話し合った結果、一番近くの大きな道路で別れることに決め、別れる日までの時間を今まで通りに過ごすことになった。
別れの日、俺もネガンもいつもと変わらない調子だった。
それぞれ持っていく荷物を自分の車に積み込むと改めて彼と向かい合う。
「世話になった。あんたに拾われなかったら野垂れ死んでいただろうな。」
「いや、食われて奴らの仲間入りの方が現実的だ。」
「ひどい冗談だな」と言って笑えば彼も楽しそうに笑い声を上げる。
ネガンが嫌いなわけではない。ただ、どうしても考え方の違いを消化できなかった。心にしこりを抱えたまま一緒にいることは俺には難しい。
「恩知らずな上にわがままで本当にすまない。」
謝ったところで何にもならないのはわかっているが謝らずにいられなかった。
それでもネガンの表情はいつもと変わらない。
「お前と一緒にいて退屈しなかった。気にするな。」
「そう言ってもらえると助かる。……生きていれば、またどこかで会えるかもしれないな。」
「どうだろうな?お前にとっては再会しない方がいいかもしれないぞ。」
ネガンの言葉の意味が理解できず、俺は無意識に首を傾げていた。
そんな俺を見てネガンが微笑みながら俺を真っ直ぐに見つめてくる。その目を見た途端に背筋に寒気が走った。
この目だ。獲物を見るような目。ネガンはこんな目をして俺を見ている時がある。
俺はネガンのこの目が怖かった。本当は、この目から逃れたかったのかもしれない。
一言も声を発することができない俺の耳元にネガンは唇を近づけてきた。
「次に会った時、俺は二度とお前を逃さない。」
ネガンはそう囁くと体を離して背を向けた。
その背中に何て声をかけたらいいのかわからず、黙り込んだまま遠ざかる彼を見つめる。
「じゃあな、リック。死ぬなよ。」
振り向くことなく告げられた別れはとても軽い口調で、まるで明日も会うかのような雰囲気だった。
車で去っていくネガンを見送り、俺も自分の車に乗り込む。
これからは一人。だが家族を探すという目的があればどんなことも乗り越えていける。
俺は前方だけを見つめてエンジンをかけた。
その後、俺は家族と奇跡的に再会することができた。それだけじゃなく新たな仲間を得て、数えきれない困難と悲しみを一緒に乗り越えて、血の繋がりを超えた家族になった。
意識を取り戻してからかなりの時間が流れた今、アレクサンドリアという町で新しい仲間たちと手を取り合って生きていこうとしている。
そんな時に耳に入ってきたのが「ニーガン」という支配者の名前だった。その名前を聞かされた時にネガンのことが頭を過ぎった。結局ネガンは本名を教えてくれなかったが、「Negan」はニーガンという呼び方もできる。
(考え過ぎだ。ネガンがニーガンとは限らない)
考え方は違ったが彼は俺の恩人であり、短い期間とはいえ助け合った仲間だ。彼が無理やり他のコミュニティを支配するような人間だと思いたくない。
頭を掠めた可能性を振り払い、俺はニーガンへの対処について考え始めた。
*****
悪夢のような日だ。
苦しむマギーを医者のところへ連れて行こうとしていたのに救世主たちに阻まれ、次第に追いつめられていく。
どれだけ手を尽くしても奴らから逃れられず、遂に退路を断たれた俺たちは救世主たちのリーダーであるニーガンの登場を待つことになる。
ユージーンが囮になって運転していたはずのキャンピングカーの中に奴がいる。そのことが「お前たちは掌の上で踊らされていただけだ」と突きつけてくる。
キャンピングカーのドアが開く。
男が、現れる。
(……嘘だ)
心からの呟きは声にならなかった。
目の前に現れた男の姿を見て、現実を全て否定したい気持ちが急激に湧き上がる。
信じたくなかった。過ぎった可能性を否定したかった。全て夢だと思いたかった。
だが、現実は容赦なく俺を攻め立てる。
「久しぶりだな、リック。」
跪いている俺の正面に男がしゃがんだ。その男と目を合わせた瞬間に「ネガン」という名前が勝手に口から飛び出していた。
男は愉快で堪らないといった様子で声を上げて笑う。
「おい、リック!俺の名前は他の奴らから散々聞かされただろう?俺の名前はネガンじゃない。」
──ニーガンだ、リック。
そう告げられた瞬間、二人で旅をしていた頃のネガンとの思い出が音を立てて砕け散っていく。
俺の知るネガンは死んだ。いや、始めから存在などしていない。出会った時から今まで、ニーガンはずっとニーガンのままだった。
俺の頬にニーガンの掌が触れる。慈しむように撫でる手が怖くて仕方ない。
「言っただろ?お前にとっては再会しない方がいいって。」
そう言って俺を見つめるニーガンの目には見覚えがあった。
彼と一緒にいた頃の俺が恐れた、獲物を見る目。
ああ、そうか。この男はずっと俺を仕留めるつもりだったのか。
その事実に俺が気づいたことを察したようにニーガンは嬉しそうに笑う。
「二度とお前を逃さない。お前は俺のものだ、リック。」
大きくて広い籠。
俺はずっとその中にいたのだと初めて知った。
End
・【ダリルがニーガンを殺すお話】ダリリク
ポタリ、ポタリ。
ダリルは己が手にするそれから滴り落ちる液体が床に落ちる音を耳にしながら廊下の先にある部屋に向かう。
ゆっくりと歩きながら「あんなにも憎んだ奴はいなかった」とトレードマークの嘲笑を浮かべた男の顔を思い浮かべる。
仲間の頭を愛用のバットで粉砕し、リックの心をへし折り、皆に服従を強いてきた支配者。その男はダリルにとって生きてきた中で最も憎い男になった。
他のコミュニティと協力して厳しい戦いを乗り越え、ようやく憎むべき男の息の根を止めることができるという時にリックは男を生かす道を選んだ。夫を惨殺されたマギーが泣き叫んで反対しても彼は考えを変えず、殺したいと願い続けてきた男は独房の中で生かされることになった。
あの男の心臓が動いているだけでも腹立たしいというのに、リックの心に居座っていることがダリルには何よりも許せなかった。
ダリルの知らないところで二人は関わり、互いに何かしらの感情を抱いていることが見てわかった。リックが独房を頻繁に訪ねるのが監視のためだけではないことは容易に想像がつく。
「冗談じゃねぇ。リックを奪われてたまるか。」
ダリルは怒りを吐き出すように呟き、目的の部屋の前に立った。
鍵を開けてゆっくりとドアを開けると薄暗い部屋の中で人影が揺れている。
「明かりぐらい点けろよ、リック。」
こちらに振り向いたリックは疲れきった顔をしていた。ずっと部屋の中にいるのだから疲れることはないはずだが、日光を浴びていないのが良くないのかもしれない。
そのことをダリルは気の毒に思うが、リックを守るためには外に出すわけにいかなかった。
リックは体ごとダリルの方に向くと一歩踏み出して訴えかけてくる。
「ダリル、ここから出してくれ。ニーガンのことはもう一度みんなで話し合おう。」
リックの顔には必死さが滲み出ている。
ニーガンを殺したいと望む者たちが決起したことによりリックは軟禁状態にあり、ダリルはリックの監視を一人で引き受けていた。
リックの訴えにダリルが黙ったままでいるとリックは不安げに瞳を揺らす。
「なあ、ダリル。ニーガンを殺せばサンクチュアリの人間はどう思う?次は自分たちだと不安になると思わないか?……頼むから、俺の話を聞いてくれ。」
必死なリックを見れば見るほどダリルの心は凍りついていく。
ニーガンなんかのために必死になるリックを見たくなかった。
リックの口からニーガンの名前を聞きたくなかった。
リックがニーガンのことを考えるのが許せなかった。
だから、全て終わらせてやったのだ。
「……ニーガン、ニーガン、ニーガン。最近のあんたはいつもそれだ。あいつのことばかり考えてるのか?」
ダリルは嘲笑と共にリックに近づき、手に持っているものを掲げてやる。
───首だけになったニーガンの目は濁り、クソ野郎にはそんな目がお似合いだと思った。
ニーガンの首を凝視するリックの顔が青ざめていく。
目の前の現実を受け入れたくない、という顔をしているのでダリルは更に首を近づけてやった。
「俺が殺した。これで全部終わった。だから、あんたはこいつのことを考えなくていい。」
ダリルの言葉をきっかけにリックの目から涙が溢れる。
溢れた涙は筋を描きながら頬を滑り落ちていく。その様の美しさにダリルは笑みを浮かべた。
「な、んで……何で、ニーガンを……」
「こいつが生きてる限り、リックはこいつに囚われたままだ。そんなの許せるわけねぇだろ。奪われたなら奪い返す。何が悪い?」
怯えたように後退りを始めたリックを見てダリルは強い不快感を抱く。
どうやらリックは自分についてニーガンから良くないことを吹き込まれたようだ、と考えながらダリルは足を踏み出す。
「そういえば、こいつが『俺を殺すのは構わないがリックには何もするな』とか言ってたな。自分だけがリックの味方とでも言いたかったのか?……リック、あんたの味方は俺だけだ。」
ダリルはリックに近づきながら首を放り捨てる。重いものが落ちる音など気にも留めず、リックとの距離を縮めていく。
そして壁際まで追い詰めると両腕でリックを囲い、涙を流し続けるリックに顔を近づける。
「あんたを脅かす奴も、俺からあんたを奪おうとする奴も、全部殺す。誰にも触れさせない。」
囁きながら頬に触れた時、手を濡らした液体がリックにも移る。真っ赤なそれはリックを彩り、彼の美しさを引き立てた。
ダリルは熱に浮かされた声で「リック、きれいだ」と囁きながら唇を重ねる。
それはまるで、拒絶を封じるようなキスだった。
End
・【ボスに推しができました。】ニガリク
俺はニーガン。
……と言っても本名じゃない。本物のニーガンは俺のボスで、俺は救世主と名乗る奴らの一人だ。
死人が歩き回るようになった世界で俺たちのボス・ニーガンはデカい組織を率いて、あっちこっちのコミュニティを支配下に置いて物資を巻き上げてる。いや、一応面倒は見てるんだけど。
言うことを聞かない奴らがいたらボスの愛するルシール……あ、これは有刺鉄線を巻いたバットなんだけどさ。このルシールで逆らう奴やルールを破った奴の頭をパコーンとしてグチャグチャにしちまうんだ。だから割と恨まれてると思うよ、あの人。
俺は何をしてるかって?俺はサンクチュアリと呼ばれる本拠地でいろんな仕事をやってる。要するに雑用だよね。フェンスに飾ってある動く死人の片づけとか、荷物の運搬とか、何かいろいろ。
他にはボスの身の回りの世話も多いかな。困るのはボスの部屋にボスの妻がいる時。ボスは専用のハーレムを持ってて、そこには何人もの美女がいる。全員が「ニーガンの妻」ってことさ。
そんな妻とボスが寝室で何をしてるかなんて言わなくてもわかるだろ?裸でナニしてるところに入っていかなきゃならない俺の辛さを頼むから理解してほしいよ。
そんなボスが最近、運命の出会いをしちゃったみたいなんだよね。最初はその日の話からしようかな。
*****
爽やかな朝の空気を吸いながら、フェンスにくっつけてある死人のお掃除。うわぁ、最低な朝だね。
あくびを噛み殺しながら体が腐り落ちた死人をフェンスから外していると、遠征に出ていた車たちが戻ってくるのが見えた。
今回の遠征はアレクサンドリアというコミュニティの奴らに罰を与えるのと支配下に置くことを宣言するためのものだ。奴らは俺たちの拠点の一つを潰したから、きっとルシールの出番だったろうな。
「ルシールのお掃除、くそ面倒くさい」とボヤきながらボスのお出迎えに向かう。
車から降りてきたボスが手にしているルシールは予想通り、血や肉片で汚れていた。これを掃除するのはいつも俺。嫌になっちゃうよね。
「お疲れさまっす」と言いながらルシールを受け取った時、ボスがウキウキしてるのがわかった。
楽しそうな笑顔だし、足取りが軽いっていうの?そんな感じ。
「俺のかわい子ちゃんをキレイにしてやってくれよ。それが済んだら朝飯を持ってこい。働いたら腹が減った。」
それに頷いて俺はルシールを洗いに向かう。
なんだか長話を聞かされそうな気がする。俺の予想は大体外れないんだなぁ。
キレイになったルシールを太陽の下に出してから俺は朝食の乗ったトレーを持ってボスの寝室へ向かう。
ノックをすると中から「入れ」という声がしたのでドアを開けて中に入る。
ボスはソファーに座って物品リストか何かに目を通していた。俺が持ってきた朝食に気づくとニカッと笑ってコーヒーテーブルの上を片づける。
俺は「焼いた肉と野菜のサンドイッチとフルーツのサンドイッチです。飲み物はレモネード」と説明しながらトレーを置く。
「いいね。早速いただこう。」
そう言うとボスはサンドイッチを食べ始めた。かなり腹が減っていたみたいで、勢い良く食べ進めるボスに密かに苦笑する。
他に用事がなければ退出する、と伝えるとボスは指を鳴らしてから「待て」と俺を指差した。
はい、来た。
割と聞き上手な俺はボスの長話に付き合わされることが少なくない。話の内容はルシールの素晴らしさだとか、自分の妻たちとのアレやコレ、部下たちの優秀さ……なんかが多い。
今日もそんな話だろうと思っていたが、ボスの口から飛び出した言葉に俺は目を丸くすることになる。
「俺は今日、運命に出会ったぞ。」
ん?運命?なぁに、それ?
意味が理解できなかった俺は「誰に出会ったんです?」と尋ねた。
そうするとボスは「リックだよ。俺の運命」と語尾にハートマークが付きそうな甘ったるい声で言った。
リック……確か、アレクサンドリアのリーダーって遠征に同行した奴らが言ってたな。つまり、支配地域の奴ってことだ。
ボスが支配地域の人間のことについて話すのは珍しい。しかも「俺の運命」って何?
興味が湧いたので「どんな出会いだったんですか?」と聞いてみた。
「聞きたいか?そうだろうな。いいぞ、話してやる。」
ボスはニヤリと笑うとレモネードを一口飲んでから話し始める。
「跪かせた奴らの中にリックがいたんだ。恐怖に震えて真っ白な顔なのに唇は苺みたいに真っ赤で本当に可愛かった。しかも青い目が涙で潤んでるんだぜ!?キレイ過ぎてうっとり見つめちまった!仲間二人の頭を潰したってのに俺のこと真っ直ぐに見てさ、「お前を殺す」って言ったんだよ。あの時、勃つかと思った。本当のこと言うとちょっと勃った。だって、あれって告白してるのと同じだろ?俺の存在が魂にまで焼きつくぐらいに憎いので殺しますーって奴だろ?それぐらい俺のこと意識しちゃってるんだろ?いやー、あれは勃つ!」
どうしてそれで勃つのか理解できないし、とりあえず長い。
話の半分くらいが右から左へ抜けていくような感じを味わいながら「へえ」とか「なるほど」とか言えてた自分は偉い。
だがしかし、ボスの話はそれだけじゃ終わらない。話はまだまだ続く。
「もっとリックのことが知りたかったから二人でドライブに行った。ドライブデートだな。適当なところで車を停めて手斧を死人どもの群れに投げ入れてやったんだ。で、取ってこさせた。必死に手斧を探すリックを見守ってたんだけどさ、あいつかっこいいんだよぉ。強いしさぁ。アクションまでできるとか俺の推し最高じゃん?」
思わず「推し……?」と呟いてしまったがスルーされた。
「でも流石にリックもピンチになったから手助けしてやったわけ。初の共同作業だ。息ピッタリ。こんなにも名コンビっぷりを発揮しちゃってどうしよう!?とか思うよな。きちんと手斧を取ってこられたリックちゃん本当に偉いしできる子だし可愛いし俺の最推し確定。ただ、まだ少しだけ反抗気味だったからお前の息子の手を切っちゃうぞーって脅したら泣いちゃったからやり過ぎたかなって後で反省した。」
ボスはそこまで話すと「やり過ぎ良くない」って頷きながらサンドイッチを口に放り込む。
俺はボスの話の情報量と中身の濃さに圧倒されていた。まとめると、リックはかっこよくて可愛くて強くてできる子でボスの運命の最推しってことでいいんだよな?
こんなにも興奮気味に誰かの話をするボスを初めて見た俺はドン引き……いや、驚いていた。
どれだけ頭を捻っても良い感想が浮かばなかったから「良かったっすね」とだけ言っておいた。
もう話し終わっただろうと思い、部屋から出ていこうとすると「待て」と呼び止められた。
「アラットにリック専用の撮影班の候補者リストを今日中に出せと伝えろ。ニンジャみたいに隠れて動ける奴が良いとも言っておけ。」
リック専用の撮影班?
何それ、と思った俺は「隠し撮りするんすか?」とポロッと言ってしまった。
失言だったかもしれないと冷や汗の浮かぶ俺にボスは満面の笑みで首を縦に振る。
「推しの貴重な一瞬を永遠に留めておきたいと思うのはファン共通の心理なんだぜ。」
知らねぇよ。
心の中だけでボヤいてから俺は「わかりました」と頷いて部屋を出た。
部屋を出て、アラットを捜して廊下を歩きながら溜め息を吐く。
これから大変なことになりそうだぞ、と。
*****
「次の徴収日が待ちきれないから行っちゃう!」とスキップしそうな勢いで出かけたボスを見送り、俺は魂まで吐きそうな勢いで溜め息を吐いた。
ボスがリックと出会った日から今日までしんどかった。すごくしんどかった。
ボスの身の回りの世話をすることが多い俺は必然的にリックの話を聞かされることになり、マシンガントークを聞かされ過ぎて耳がイカれちまいそうだ。
ボスの話をまとめると「リック可愛いリックかっこいいリック大好きリック尊いリックに会いたい徴収日が遠い」だ。同じような話を数え切れないくらいに聞かされたから詳細は記憶に刻み込まれてるが、説明しようとすればバカみたいに時間がかかる。
リックへの恋しさを我慢できなくなったボスは徴収を前倒しして出かけていったが、どんな状態で帰ってくることやら?
できれば「百年の恋も冷める」であってほしいが、そんなに上手いこと行かないのが世の中というものだ。
「またマシンガントークかな……」と遠い目をしながら俺は仕事に戻るのだった。
「俺の推しが尊いー!」
徴収から戻ってきたボスは俺を連れて寝室に戻るなり、そう叫びながら泣き出した。
突然意味のわからないことを叫んで泣き始めた上司を前にした時、人間はどうするのが正しいのだろう?俺にはわからない。
とにかくソファーに座るように勧めて、ソファーに座ったボスにハンカチを差し出す。ボスは引ったくるようにハンカチを奪うと目に押し当てながら泣き続ける。
「何があったんですか?尊いって何すか?」と尋ねてみる。そうするとボスは「聞いて?とにかく聞いて?」と鼻をすすった。
「アレクサンドリアに行ったら最初に応対した男がちょっとイラッとするタイプだったから『ルシール振り回すぞ』って思ったけど、リックが門を開けてくれたからどうでも良くなった!推し自らやってくれるなんて感動するだろ?テンション上がって、つい『会いたくて……』って言っちゃった!まだ出会って二回目なのに早過ぎか?」
俺はどうでも良くなって「そんなことないっすよぉ」と言っておいた。
「リックがダリルに会いたいかな?って思ったから一応あいつも連れて行ったけど、リックがあいつのことばっかり気にするから次からは留守番にしようと思う。リックに気にかけてもらえてるからってあいつ調子に乗ってると思うんだよな。それはだめだと思う。リックは俺のだし、一人だけに目を向けるってのはアイドルとして許されないことだよな。でも、そうすると俺だけを見てもらうのもアウト!?」
ますますどうでも良くなった俺は「そんなことないっすよぉ」ともう一度言っておいた。
それよりもリックはいつからアイドルになったんだろう?
「今回もリックと二人だけで話すチャンスがたくさんあったんだけどな、舞い上がって変なことを言わないか心配になった。頑張って普段通りのかっこいい俺を演じてみたぞ。大丈夫だと思うんだけどな。それにしても間近で見る推しの顔……思い出すだけでニヤけそうだ。あんなにも整った顔を毎日でも眺めていられるなら金をどれだけ積んでもいい。推しに貢ぎたい。あの美しい目が俺だけを見つめるんだぜ。天国に行けそうな気がするし、別の意味でイきそうになったのはちょっと危なかった。」
ニーガンは涙でビショビショになったハンカチを口元に押し当ててうっとりと宙を見つめる。きっと頭にはリックの顔が浮かんでいるんだろう。
俺は「早く終わってくれないかな」と思いながら「リックってエロいんですか?」と尋ねてみた。
他意はない。この前も「勃った」とか何とか言ってたから単純に聞いてみようと思っただけだ。
だが、ボスは急に殺気と怒りを剥き出しにして立ち上がり、俺に迫ってきた。顔がとんでもなく怖くてチビるかと思った。
壁際まで追い詰められるとルシールが顔の傍に寄せられたせいで引きつった悲鳴が漏れた。
「推しにはお触りも悪いことをするのも許されないって知らねぇのか?あ?」
死にそうな声で「すみませんでした」と謝罪してもルシールを下ろしてもらえなくて、ますますチビりそうになる。
「リックはエロいよ。シャツのボタンを開け過ぎじゃないかと思うけど上から見た時に乳首が見えそうで見えないぎりぎり具合が最高だから許すんだよ。乳首見てぇよ。後ろ姿なんて最高にエロいぞ。腰から尻のラインがエロいし、あの尻可愛すぎだ。後ろ姿の写真を何枚も撮らせたから早く見てぇんだよクソが。あの赤くてふっくらした唇も吸い付きたいさ。キスしたらどんな顔するのか?って考えただけで勃つわバカ野郎。」
そこまで一気に言い切ってからニーガンは悲しそうな顔をした。
ルシールを下ろして俺から離れると窓際に立って外を眺める。
「いいか?どんなに推しにエロいことをしたくても我慢するのがファンってもんだろ。推しを眺めて崇め、推しが存在することに感謝して生きる。推しと同じ世界に生きていられること、推しが呼吸することを奇跡だと感謝して、日々推しについて考え想う。それがファンとしての正しい有り方なんじゃねぇのか?そもそも、推しが存在するってことは推しの吐いた息を吸って生きる権利を与えられてるってことなんだぞ。それだけで幸せじゃないか?なあ、そう思うだろ?」
俺はボスの背中を見ながら「そうっすね、すみませんでした」と頷く。
ボスは本当にリックを推してるんだ。
推しに触るんじゃなく、見つめるだけで愛でる。推しを想うことで存在を近くに感じる。
心の底から推しを想うからこそボスはいろんな感情に耐えて、欲望を飲み込むんだ。すごい、すごい人だ。
そんな風に感動していると、ドアをノックする音と共にアラットの「写真ができあがりました」と言う声が聞こえてきた。
ボスは跳ぶようにドアに近づいて勢い良く開けると笑顔全開でアラットを出迎えた。
「アラット!俺の優秀な部下!リックの写真の出来はどうだ?」
アラットは表情一つ変えずに少し厚みのある封筒と写真を収めるためのアルバムをボスに手渡す。
「良く撮れていると思います。」
「そいつは楽しみだ!俺一人で楽しみたいからお前たちは下がっていいぞ。」
大喜びで写真とアルバムを抱えるボスを横目に俺は部屋を出た。
ドアを閉めて、思うことが一つ。
──冷静に考えて、ボスの考えっておかしくない?
さっきはその場の雰囲気に流されてボスのファンとしての姿勢に感動したが、今思うと「推しに悪いことをしない」というのは正しいがそれ以外の部分が異常な気がしてくる。
いや、そもそも隠し撮りは推しに対してやってはいけないことだ。誰に対してもやってはだめだ。それをやってる時点でアウトだろ、あの人。
俺は部屋の中から聞こえてくる歓声という名の奇声を耳にしながら思う。
ボスのリックへの愛は暴走する、と。
後日、俺は「デフォルメしたリックの可愛いぬいぐるみを作れ!」というボスからの命令に頭を悩ませることになるのだった。
End
・【腐った果実】ニガリク
「特別だぞ」という言葉がリックには重苦しく響く。
その言葉と共にニーガンから与えられるのは数々の品物だ。
ある時は豆の缶詰、またある時は真新しい絵本、先日は洗剤の匂いがするシャツ。材料を持参して手料理を振舞われたこともあった。
このように、憎むべき支配者はリックへの土産を携えて徴収に訪れる。
差し出される品々をはたき落としてしまいたいと望んでもそれは叶わず、「ありがとう」と口にしながら受け取るしかない。
支配者から下賜されたものを断ることは許されないのだ。
*****
ゆったりとした足取りで自分の方へ向かってくるニーガンを眺めながら、リックは小さく溜め息を落とす。
ニーガンの手には布を被せたバスケットがある。それは自分に与えるために持ってきたものだと容易に想像できた。
今回は何を与えられるのだろう、と思いながらリックはニーガンを出迎える。
「よう、リック。今日までしっかり調達に励んでたか?」
リックはニヤニヤとした笑みを浮かべるニーガンを睨みつけながら「案内する」と歩き出そうとした。
しかし、それをニーガンに止められる。
「慌てるなよ。今回もお前にお土産だ。」
「……俺なんかに土産を持ってくる必要はないだろう。」
リックのやんわりとした拒否にニーガンはわざとらしく眉を下げる。
そして顔を近づけてくると大きな溜め息を吐いた。
「なあ、リック。お前が俺のために頑張ってるのはよく知ってる。そんなお前を労ってやりたい俺の気持ちにそっぽ向くって言うのか?」
そう言いながらニーガンは己の肩をルシールでトントンと叩く。
ルシールという名のバットはニーガンの力の象徴。その存在を主張するような素振りを見せるということは脅しをかけているようなものだ。リックはニーガンを睨みつけながら「そんなつもりはない、すまなかった」と答えるしかなかった。
ニーガンは従順な態度を見せるリックに満足したのか、笑顔でバスケットに被せられた布を取り去る。
姿を現したのはたくさんのリンゴだ。太陽に照らされてキラリと輝くリンゴは食べる者に甘さと潤いを与えてくれるだろう。
リンゴに目を向けるリックの耳にニーガンの得意気な声が届く。
「旨そうだろ?特別だぞ、リック。全部お前のものだ。」
そのリンゴにアレクサンドリアの住人たちの視線が集まり、続けてリックへと視線が注がれるのがわかった。
───ああ、痛いな。
ジリジリと焦げ付くような視線を受けたリックの抱いた思いがそれだ。
リックに注がれる住人たちからの視線には怒りと恨めしさが込められている。「一人だけ優遇されている」「裏切り者」と訴えてくる視線はリックの全身に突き刺さり、見えない傷からは血液が溢れる。
ニーガンからの土産はリックが望んだわけではない。支配者からの施しは屈辱だが、拒否することで誰かが代わりに罰を受ける可能性を考えると断ることはできなかった。無論、一人占めするつもりもないため他の住人に分け与えたり共有するようにしている。
しかし、リックが「ニーガンから物資を与えられる」という点において「他の者より優遇されている」という事実は変わらない。与えられたものを分け与えることや共有することは重要ではなく、「リックだけが特別扱いされている」という事実が皆にとって問題なのだ。
「リック、受け取れよ。」
ニーガンが促すようにバスケットを差し出す。
それを食い入るように見つめてからリックは周囲へ視線を滑らせた。
周りにいるのはニーガンの部下だけではなく、仲間であるアレクサンドリアの住人たちもいる。
それなのに向けられる視線の多くに敵意が滲む。言葉にせずとも「裏切り者」と思われているのがわかった。
リックはやり切れない気持ちを飲み込み、感謝の言葉を口にしながらニーガンの手からバスケットを受け取る。
ズシリ、と重く感じるのはリンゴの重みのせいだけではない。
リックがバスケットを受け取ると、ニーガンはリンゴを一つ手に取ってリックの目の前に掲げる。
「食べてみろ。」
その言葉に促されてニーガンが手にするリンゴに手を伸ばしたが、ニーガンは手渡す素振りを見せない。
リックが戸惑っていると口元にリンゴが寄せられた。
「ほら、リック。」
その時、リックはニーガンの意図を正確に理解した。
「──ニーガン、あんたはどこまで俺を……」
バカにすれば気が済むんだ、と続く言葉を腹の底に収めてリックは唇を噛む。
そしてニーガンが手にしたままのリンゴに齧り付いた。
リンゴに歯を立て、力を加えるとシャリッという音と共に甘みが口の中に広がる。口の中に迎え入れたそれを咀嚼すればリンゴの爽やかな香りが鼻を抜けていった。
リックが齧ったリンゴは齧られた部分だけが窪んでいる。それを見つめているとニーガンが「旨かったか?」と尋ねてきた。
「甘い。」
「そりゃよかった。じゃあ、俺も貰おうか。」
ニーガンはリックが口を付けたリンゴに齧り付く。リックの時と同じようにシャリッという軽い音が響いた。
その行為にリックが眉をひそめると、ニーガンは視線だけをこちらに寄こしながらニヤリと笑う。バカにされていると感じて瞬間的に怒りが込み上げた。
しかし、それは再び差し出されたリンゴによって強制的に鎮火させられる。
「食えよ。」
そう言って不敵に笑うニーガンを睨みつけてから口元に近づけられたリンゴに視線を落とす。
齧られた箇所から果汁を溢れさせるリンゴは甘い香りを漂わせている。普段であれば食欲をそそる香りは今は忌々しいものでしかない。
リックはニーガンを見る時と同じように憎しみを込めてリンゴを睨んでから再び歯を立てた。
先程よりも深く抉ってやれば、力をかけたことによりニーガンの手が揺れる。ニーガンがそれを気にした様子はなく、リックが口を離すと楽しげに笑いながらリンゴを齧る。
一つのリンゴを齧り合うなど心を許し合った者同士がするような行為だ。ニーガンにとっては単なるお遊びであっても周りに与える影響は大きい。
現に、アレクサンドリアの住人がリックに向ける眼差しの厳しさは増しているのだ。
自分はニーガンに試されている。
守ろうとする者たちから向けられる怒りと妬みをお前は受け止めきれるのか?
愛すべき仲間たちから恨まれていても、お前はそんな彼らに誠実であることができるのか?
お前は仲間たちからの悪意に屈さずにいられるのか?
そのような問いかけを常にされているような気がしてならない。
「旨いリンゴだな、リック。ほら、もう一口食べろ。」
リンゴを差し出すニーガンが勝者の笑みを浮かべているように見えた。
いずれリックは膝をつき、頭を垂れるだろう。
そんな考えが透けて見えることに憎悪が勢いを増す。
しかし、今は耐える時だ。いつか必ずニーガンを追い詰めて全てを取り戻すのだから。
リックは全身を駆け巡る怒りを押し殺してリンゴに口を寄せて齧り付く。
齧った瞬間、腐った果実の臭いがしたのは気のせいだったのだろうか?
End
・【雨降り】ニガリク
今日は朝から遠くに黒い雲が見えた。
「雨が降りそうだ」と思いながらも調達を取り止めるわけにはいかない。
空の様子を気にしながら出かける準備をしている時に男は姿を現した。
横暴で凶悪な支配者は調達に出かけようとする俺を見て「俺も一緒に行く」と言い出した。
暇つぶし。嫌がらせ。気まぐれ。そのどれであっても歓迎できるものではないが、俺に拒否権なんてない。
俺は助手席でふんぞり返る男──ニーガンを一睨みしてから車を走らせた。
ポタリ、と前髪から滴が落ちる。
町から離れた場所に列を成して停まる車を漁っている最中に降り出した雨は本格的なものになり、俺とニーガンは乗ってきた車に逃げ込んだ。
まだまとめていない荷物を抱えながら移動したせいで普段より歩くスピードが遅くなり、びしょ濡れになるのは避けられなかった。なぜかニーガンも俺に付き合って車に戻るのが遅かったので、俺と同じように上から下までぐっしょりと濡れている。
肌寒さに体を震わせつつ、助手席に座る奴を盗み見る。
普段はうんざりするくらい饒舌な男はさっきから黙ったままだ。視線を前方に向けたまま溜め息さえ漏らさない男に違和感を覚えながらも話しかけることはない。
雨音しか聞こえない車内は俺を落ちつかない気分にさせ、つい視線をニーガンに向けてしまう。
……改めて見れば、沈黙が似合う渋さを持った男だ。髭を生やしていることが渋さを引き出しているのだろうが、ニーガンほど髭の似合う男はそんなにいないだろう。
黙っていれば、良い男なのだ。
力強く周囲を見つめる瞳も、形の良い鼻も、少し厚い唇も、それら全てのパーツが絶妙な大きさと位置にある。だからこの男の顔は「整っている」と言うことができる。
(一言もしゃべらずに、少しも動かずに、黙って大人しくしていれば良い男だと認められるんだが……)
そんな風に思ってしまった自分に思わずしかめ面をしたくなる。
奇妙な沈黙に落ちつかないからといってバカなことを考えたものだ。
俺は小さく溜め息を吐いてから視線をフロントガラスの向こうへ向けることにした。
*****
視線が外れたのを確信してから視線をリックに移す。見つめていることがバレないように気をつけるのを忘れたりしない。
黙ったままの俺が落ちつかないのか、奴は遠慮の欠片もなく俺を見ていた。それなら俺があいつを見つめたって問題ないだろう?
視線の先にいるリックは窓の外を静かに眺めている。そのリックの髪から滴る滴が頬を滑り、首を伝い、濡れて色の濃くなったシャツに染み込んでいく。
たったそれだけのことなのに目が離せないのはリックのことを「美しい」と思ったせいだ。
リックという人間ほど「端正な顔立ち」という言葉が似合う奴はいないだろう。顔のパーツ一つ一つが完璧な形で、バランス良く配置されているのは一目見ればわかる。あの顔で微笑まれて甘く囁かれたら、大抵の女はイチコロに違いない。
そう。女ならわかる。女ならリックの顔に見惚れて存在を欲しがるのはわかる。
だが、男の俺が奴に見惚れて落ちつかない気分になるのはどういうわけだ?
(らしくないな。男なんかに興味はないのに)
いつもの自分を装うことができない苛立ちに舌打ちしそうになった時、リックが自身の腕を擦る姿が目に入った。
寒がっている。形の良い唇が震えていることからもそれはわかる。
ジャケットを着ている俺と違ってリックは薄手のシャツ一枚。寒いのは当たり前だろう。
寒そうに腕を擦り続ける奴を「子犬みたいに震えてるぞ」とからかう気にならないのは、多分きっと、この降り止まない雨のせいだ。
*****
「──えっ?」
突然、運転シートが倒れた。
訳がわからないまま車の天井を見つめていると、視界にニーガンの顔が映り込む。助手席から移動してきたニーガンが俺の上に乗り上げたからだ。
よくよく考えれば、運転シートを倒したのはこの男なんだ。
「いきなり何だ?」
混乱する頭が生み出した問いはありふれたもの。
「寒いんだろ?」
「それは……そうだが。」
予想外の言葉を返されてしまったことに困惑する。
驚くほどに落ちついた表情で見下ろしてくるニーガンに戸惑う俺は奴の胸を押し返すことさえできない。
ああ、本当にどうしたらいい?
どう動いたらいいのかわからないままの俺の頬にニーガンの掌が触れた。冷えた頬のせいなのか、その手は温かいというよりも熱い。
「──全部、雨に濡れたせいだ。」
どこか熱を帯びた声がニーガンの唇から零れ落ち、俺の唇に奴のそれが重ねられる。
その唇を拒めなかったのは、多分きっと、雨に濡れたせいなんだろう。
End
・【リックがキスを拒むお話】ニガリク
柔らかなそれは、噛むとどんな感触なのだろう?
ニーガンはそんなことを考えながら己の下で喘ぐリックの唇を見つめる。
セックスの要求を受け入れたリックが唯一出した条件は「唇にキスはしないこと」だった。唇以外の場所は構わないが唇だけは許さないらしい。
その条件を呑んだニーガンは思う存分リックの体を楽しんでいるわけだが、やはり唇に目が行ってしまう。
ふっくらとして少し赤みがかった唇。吸い寄せられるように指で触れれば想像通り柔らかい。
指ではなく唇で触れたなら、どんな感じなのだろうか?
ニーガンはリックの唇に視線を注ぎながら無意識に唇を近づけていく。
それを制するような鋭い声で「ニーガン」と呼ばれ、ニーガンは意識をリック自身に向けた。
「唇にキスはしない約束だ。」
キスを拒否するリックの目には力強い光が宿っている。先程まで泣きながら喘いでいたというのに、その面影を瞬時に消してしまうのがリックという男だ。
睨みつけてくるリックとは対照的にニーガンは楽しげな笑みを浮かべる。
「心配するな、約束は破らない。」
言い終わると同時に腰の動きを再開するとリックが甘く啼き始めた。
リックの淫らな姿と嬌声を堪能しながらもニーガンの意識は再びリックの唇に向かう。
支配の進むリックという存在において唇は未開の地だ。約束を違えてまで踏み込むつもりはないが、惹かれるのはどうしようもない。
人間とは未開の地に惹かれるもの。だからこそ多くの探検家が誰も立ち入ったことのない場所を目指してきたのだ。
(踏み込んでみたいもんだな)
己の唇で未開の地に触れ、艷やかなそれを割り開き、舌を差し込んで侵略する。
そのことを想像しただけでニーガンは自身が興奮するのを自覚し、腰の動きを激しくしてリックを翻弄する。
───いつか必ず、未開の地を征服してやろう。
ニーガンの腹の底に渦巻く欲望など知らず、リックの唇は目の前の男を艷やかに誘った。
End
・【メルリク・ニガリクの三角関係のお話】
なんて思い上がった野郎だ。
壊れた世界の救世主を前に、メルルは胸の内でそんな感想を抱いて笑い声を吐き出した。
「何がおかしい?」
ニーガンという名の救世主が笑みを湛えたまま問う。
しかし、その目が笑っていないことに気づかないほどメルルは鈍感な男ではない。メルルは挑発的な笑みを浮かべながら迎え撃つ。
「お前、随分とあいつのことを理解したつもりでいるんだな。初めて会ってから一ヶ月も経ってねぇのに。」
「あいつ」とはリックのことだ。
アレクサンドリアがニーガンの支配下に置かれてから、ニーガンは頻繁に町に顔を出すようになった。それがリックに会いに来るためなのだということは誰が見てもわかること。
リックを追いつめる言葉を吐き、彼に心からの服従を求める男を見てメルルは嘲笑を浮かべる。
「リックがお前に服従すれば救われるって?冗談だろ。そんなことであの野郎は救われねぇ。リックに執着してるお前には残念な話だが、誰にもあいつは救えねぇよ。」
メルルが堂々と言い放った言葉にニーガンは目を細めた。
不機嫌そうには見えないが、愉快というわけではない。
メルルは目の前の支配者の心理状態をそのように判じた。
「そういうお前はどうなんだ、メルル?」
ニーガンは薄い笑みを見せながらルシールで己の肩を軽く叩く。
他の者であればその仕草に恐怖を抱くのだろうが、メルルはニーガンを少しも恐れていない。「リックに執着する面倒くさいストーカー野郎」程度にしか思っていないのだ。
「汚れ役を引き受けて少しでもリックを支えてやる。お前が考えてるのはそういうことだろう?だが、そんなことをしてもあいつは救われない。お前に重荷を背負わせたことに苦しむだけだ。」
そんなことは言われなくとも理解している。
リックがリーダーである限り、いや、皆を守ろうと思い続ける限りリックが救われることはない。
誰かを失うことへの恐怖も、非道な決断をする己の人間性に疑いを持つ苦しみも、全ての責任を背負う重さも、それら全てを引き受けるのを止めないのならばリックは地獄から抜け出せないのだ。
それがわかっていてもメルルはリックに手を差し伸べずにいられない。
「まあ、そうだろうな。あいつを救えねぇのは俺も同じさ。」
メルルは自嘲気味に笑ってから真っ直ぐにニーガンを見据えた。それをニーガンも真っ向から受け止める。
「だが、苦しむとしても俺が与える苦しみの方がマシだ。お前はリックの全てを踏みにじるだけだからな。それだけは間違いねぇよ。」
そう言ってメルルが歯を見せて笑うとニーガンの顔から初めて笑みが消えた。
笑みの消えた顔に浮かぶのは不快感、苛立ちといった類の感情。
珍しいものを見た、と思っているとニーガンが低い声でメルルの名を呼ぶ。
「メルル、お前のことは嫌いじゃないが──気に入らない。」
「気が合うな。俺もだ。」
様々な出来事を抜きにすればニーガン個人のことは嫌いではない。
しかし、リックが絡むならば別だ。ニーガンがリックに執着し、彼の人生に関わろうとするのは非常に気に入らない。
それは相手も同じ。よりによって最も共通したくない部分で共通している事実に対する苛立ちを隠すようにメルルは目を細めた。
相手が誰でも、どんなことが起きても、譲れないものは譲れない。
二人の男の戦いの火蓋が切って落とされた。そのことをリックだけが知らない。
End