本能が「欲しい」と囁いた リックはアルファという存在が嫌いだ。
正確に言えばニーガンという名前のアルファが嫌いだ。
他者を従える資質と全てに置いて優れたものを持つアルファであるニーガンは絶対的な支配者として君臨し、リックたちにも服従を強いてきた。助け合ってきた仲間を殺された憎しみは強いが、植えつけられた恐怖を振り払うのは容易ではない。
リックは憎しみと殺意を抱きながらも来訪したニーガンのために門を開く。
「相変わらず不機嫌な面だな、リック。」
いつもと変わらない笑みを湛えたニーガンが町に足を踏み入れる様子をリックは睨むように見つめる。
こうしてニーガンとその部下たちを迎え入れるのは何度目なのだろうか?
ニーガンたちは我が物顔で町の中を歩き回り、こちらの事情などお構いなしに物資を奪っていく。それに対する怒りを堪えることにどれだけの努力が必要なのかを彼らは知らないだろう。
リックが拳に力を込めるとニーガンが近づいてきて視線が重なった。
「良くない目つきだぞ。気をつけろよ。」
一瞬だけ感じた威圧感にリックは俯くしかなかった。
アルファの放つオーラはひれ伏してしまいそうなほどに重く、強い。生まれながらに王者であるアルファは世界が変わった後もピラミッドの頂点に立つのだ。
「徴収日は明日のはずだ。」
「お前の顔が見たくなったから早めた。何か不都合なのか?」
「今から調達に行こうとしていた。」
「じゃあ、その予定はキャンセルだな。お前は俺に付いてこい。」
何を勝手なことを、とリックが眉間にしわを寄せてもニーガンは気にすることなく歩みを進める。リックはニーガンの後ろを少し離れて歩くことにした。
よりによってこの男がアルファだなんて世界は不公平だ。
世界という大きなものを恨めしく思いながらリックは支配者の背中を睨みつけた。
ニーガンの散策に同行するのはリックにとって大きな苦痛だ。
饒舌な男は疲れ知らずで、うんざりするほど話し続けるものだから鬱陶しくて仕方ない。他愛のない話だけであればマシなのだが、リックをいたぶるための言葉を交えてくるのでストレスが溜まるのだ。
一人で話し続けるニーガンにリックがうんざりしていると、擦れ違った救世主が運んでいる物資に目を奪われる。
「ニーガン、待ってくれ。」
珍しくリックから呼び止められたことにニーガンが意外そうな顔をしているが、今のリックにはそんなことはどうでもよかった。
リックは擦れ違った救世主を指差して訴える。
「抑制剤を持っていくのは勘弁してくれ。あれはこの前の調達でやっと手に入れたものなんだ。持っていかれたら抑制剤が一つも残らない。」
以前はアレクサンドリアでもオメガの発情を抑えるための薬が保管されていたのだが、ニーガンたちが初めて来た際に全て奪われてしまった。
アレクサンドリアにはベータしかいないが、検査を受けていない子どもたちは何人もいる。その中にオメガがいる可能性はゼロではないことを考えると抑制剤を保管しておく必要があり、全て持っていかれるわけにはいかない。
リックは食い入るようにニーガンを見つめた。そんなリックを見つめ返すニーガンには思案する素振りも見られない。
「確認だが、ここにオメガは住んでいたか?」
「いや……いない。だが、検査をしていない子どもたちがいる。オメガの子がいる可能性を考えると抑制剤がないのはマズイんだ。あんたにだってそれはわかるだろう?頼む、ニーガン。」
リックは必死に訴えるが、ニーガンはわざとらしく肩を竦めるだけだ。
「リック、うちにはフリーのオメガがいる。オメガが住んでいるところと住んでいないところを比べて、抑制剤の必要性が高いのはどっちだと思う?」
そう言われてしまえばリックは何も反論できない。
今現在オメガのいる方が抑制剤の必要性は高い。それは明白だ。
リックが小さな声で「あんたの方が必要だ」と答えればニーガンは満足げに頷いた。
「この話はお終いだ。抑制剤はもらっていく。それで構わないな?」
無言で俯くリックの姿を了承と解釈したニーガンは再び歩き始める。
リックがその後ろ姿を追う気力を振り絞るには多少の時間が必要だった。
心の安寧を得られるはずの教会もニーガンと一緒では単なる小屋にしかならない。
リックがそんな思いを胸に抱いていると、ニーガンが最前列の長椅子に腰を下ろした。リックも座るように促されたので通路を挟んで隣り合った長椅子に座る。
リックが正面の十字架を見つめていると「おい、リック」と呼びかけられたので顔をそちらに向けた。リックを呼んだはずのニーガンは顔を正面に向けたままだ。
「神様ってのが存在するなら、なぜアルファとオメガを作ったと思う?」
予想外の質問にすぐには返事ができず、リックは少し考え込む。
「理由なんてものはないのかもしれない。気まぐれでやったこと……もしかしたら世界がこんな風になったのも。」
本能に苦しめられる者がいることも、世界の崩壊も、何もかも神の気まぐれによるものなのかもしれない。
気まぐれに振り回される方がいいのか、それとも重大な理由があった方がいいのか。
それはリック自身にもわからず、どうでもいいことのようにも思えた。
「気まぐれ……それも面白いかもしれないな。」
リックの出した答えにニーガンは楽しげに笑う。
リックはニーガンの横顔を見つめながら質問してみることに決めた。
「あんたはどう考えているんだ?」
リックが尋ねるとニーガンの顔がこちらに向いた。それにより視線が交わる。
「それぞれがどんな生き方をするのか観察するためだと思ってる。本能の言いなりになるか、徹底的に抗うか。本能と向き合いながらどう生きていくのか。本能に振り回されずに自分を貫けるのか。それを観察するのは面白い。」
「まるで自分が神の位置にいるような言い方だな。」
「何の偶然か、俺の周りにはアルファとオメガが多かったんでね。いろんな奴がいて面白かったぞ。」
過去を思い出しているのか、ニーガンは目を細めて微笑んだ。
リックの周りにはベータしかおらず、アルファやオメガと深く付き合った経験がなかった。
だからニーガンの言う面白さは理解できないが、それぞれに何かを抱えながら毎日戦っていたのかもしれないとは思う。
「俺は本能を拒まない。だから他人を支配するのを嫌だとも思わないし、オメガがいれば抱きたいと思うのを抑える気もない。抱くなら男より女の方がいいけどな。」
教会で口にする言葉ではないと注意する気は起きなかった。
この男にそんなことを言うだけ無駄なのだとリックは十分理解している。
「誰かと番になったことは?」
その質問にニーガンは首を横に振った。
「他のアルファがどうだか知らないが俺はオメガなら誰でもいいってわけじゃない。番になる奴は本能じゃなく俺自身が決める。」
「誰とも番にならないのは番になりたいオメガがいないから、ということか。」
「その通り。欲情したからヤッただけのオメガと番になるなんてクソだぜ。俺はアルファの本能に支配される気はない。」
リックはこの時、ニーガンが支配者として君臨できる本当の理由を初めて知ったような気がした。
ニーガンは自分自身を確固たるものにできている。その本質が善であろうと悪であろうとニーガンという存在は揺らがない。
だから人々は恐れながらもニーガンに従う。恐怖や憎しみを抱いたとしても、圧倒的な存在感に自然と頭を垂れるのだろう。
皆がニーガンに支配されるのは彼がアルファだからではない。ニーガンという人物そのものに支配されているのだ。
そしてそれはきっと自分も例外ではない、とリックは密かに唇を噛む。
「ニーガンはきっと……アルファじゃなかったとしても今のニーガンと変わらない。あんたはどこまでいってもニーガンだ。」
ニーガンの支配力はアルファだから備わっているのではなく彼自身の持つ力だ。
それ故に厄介なのだとリックは深々と溜め息を吐いた。
リックをジッと見つめていたニーガンが不意に立ち上がってリックの隣に腰を下ろし、背もたれに片腕を乗せて体を寄せてくる。リックは思わず身を引こうとしたが、長椅子の端に座っているので距離を開けることはできなかった。
間近で見るニーガンの目は真っ直ぐにリックを見ており、リックはその目に釘付けになる。
「リック、俺と番にならないか?」
突拍子もない言葉にリックは目を丸くしたが、呆れたように溜め息を吐いて首を横に振った。
「ベータは番になれない。」
「知ってる。だが俺は番になるならお前がいい。」
「笑えない冗談だな。」
「本気だぞ?俺が番になりたいと思うのはリックだけだ。……お前がオメガならよかったのに。」
そう言いながら近づいてくる唇からリックは顔を背けたかった。それができなかったのは頭の後ろに添えられたニーガンの手の力が思ったよりも強かったから。
結局、リックはニーガンからのキスを受け入れるしかなかった。
今まで一度もこんな触れ方をしてこなかったくせにニーガンは当たり前のように唇を割って舌を侵入させてくる。深いキスの息苦しさにリックは思わず小さな声を漏らした。
キスから解放されても距離の近さは変わらない。リックは目の前のニーガンを睨みつけるが何の効果もなかった。
ニーガンはリックの頬を撫でながら笑みを浮かべる。
「アルファとしての俺の話を聞かせてやったんだ、次はお前の話を聞かせろ。ベータっていうのはどんな感じだ?」
「特別なことなんてない。能力は平均的で、本能に振り回されることもない。」
「それはベータの一般的な話だ。お前は?」
リックは視線を下げ、諦めたように溜め息を吐いてから口を開く。
「昔は体が細くて非力だったからケンカをしても負けてばかりで悔しかった。だが、保安官になって人を守るという目標ができたから必死に体を鍛えて、強くなるためにトレーニングもした。その結果が今の俺だ。」
ベータであっても全員が平均的な能力を有しているとは限らない。どんなことにも例外はある。
それを克服できたのは誰かを守りたいという気持ちがあったからだ。その思いは今も変わらず、寧ろ強くなっている。
目の前の支配者から仲間たちを守るための努力は惜しまない。
そんな思いと共にリックは視線を上げる。
ニーガンは嬉しそうに目を細めて口の端を上げた。
「昔からガッツのある奴だな。それに、誰かを守りたい気持ちも変わってない。」
「俺がベータじゃなかったとしても、絶対に変わらないのはその気持ちだ。」
リックの頬に触れていたニーガンの手が首に移動し、次に首の後ろへ回るとそのまま項を撫でる。
その時のニーガンが残念そうな笑みを見せたので、先ほどの言葉が本気なのだとリックは実感した。
「お前と番になりたかった。」
その声に滲むのは諦めの気持ち。
ニーガンにも手に入れられないものがあるんだな、という驚きにも似た感情と共にリックは目の前の男を見つめ続けた。
翌朝、リックは体の異変のせいで目を覚ます。
全身がひどく熱い。体の奥が疼く。息が荒い。何かに渇いているような、飢えているような感覚が拭えない。
リックは今の自分の状態に堪えきれずに寝室の床にうずくまった。
その時、体の熱の中心が股間であることに気づいた。リックは恐る恐る自分の雄に指を伸ばしてみる。
「ッうあっ!」
はち切れそうなほどに膨らんだ雄は軽く触れただけで刺激を敏感に感じ取り、リックは欲を孕んだ悲鳴を上げる。それによりリックは自分が発情していることをハッキリと理解した。
しかし、こんなことは今までに一度もない。
リックは震える息と共にある思いを吐き出す。
「これじゃあ、まるで……っ……オメガの発情期、みたいだ。」
その呟きを落とした瞬間、リックの脳裏に昔読んだ新聞記事の内容が甦る。
──隠れオメガ。
オメガでありながら思春期を迎えてもオメガとしての特性が現れず、ベータとして生きている者のこと。
十代前半で受ける検査でもベータであるという結果が出る上、オメガのフェロモンも発情期もないためオメガであることを知らずに過ごすことになる。
オメガだと判明するのは突然フェロモンが出るようになったり発情期が訪れてからだ。
各国で調査を行ったところ隠れオメガであることが判明したのは世界で五人。年齢は三十代から五十代であり、オメガであると判明するまで全員がベータとして過ごしている。
オメガとしての特性及び本能が眠った状態で成長し、何らかのきっかけにより覚醒するものと考えられるが、原因も覚醒の要因も全くの不明。他にも不明点が多く、国際的な研究チームを早急に立ち上げる予定。
正式な名称は決まっておらず、専門家の間では仮の名称として「ベータ擬態型オメガ」と呼ばれている。
「そんな、ことが……」
あるわけがない、と続く言葉を飲み込んだのは今の状態のせいだ。
自分が性的快感を欲しがっていることをリックは自覚している。それは飢えと呼べるほどのものであり、今までに経験したことがないものだ。
混乱しながらうずくまったままでいると部屋のドアがノックされる。その音に怯えたように肩を跳ねさせたリックの耳にカールの声が届く。
「父さん?……父さんの部屋から甘い匂いが、するんだ。これって、まさか……違うよね?父さんはベータだよね?」
戸惑いを隠せないカールの声にリックは確信する。
自分はベータではなく、オメガだ。
リックは自分の体をキツく抱きしめて声を振り絞る。
「カール、俺が自分から出て行くまで、この家に誰も入れるな。」
「父さん?」
「頼むから、誰も俺に近づかないようにしてくれっ。……隠れオメガだと言えば、きっと誰か理解してくれるはず、だから。……行け、カール。」
少しの沈黙の後、「わかった」という固い声と共に去っていく足音が響いた。カールの気配が遠ざかったことにリックは安堵の息を吐く。
発情期のフリーのオメガが出すフェロモンはベータでさえも狂わせてしまうことがある。自分のためにも仲間のためにも発情期が終わるまで誰とも接触してはならない。
しかし、最大の問題はニーガンだ。アルファが発情期のオメガに近づけばどうなるのかは目に見えている。
自分の予想にリックは思わず体を震わせた。
(昨日の帰り際、一週間後に来ると言っていた。発情期は約一週間だから上手くいけば終わっているかもしれない。終わっていなくても何とか会わずに済めば……)
今回を乗り切ったとしてもリックがオメガであることに変わりはなく、今後どうなるかは全くわからない。
それでも今を乗り切らなければならない。
『リック、俺と番にならないか?』
昨日のニーガンの声が頭の中で木霊する。
それに釣られたようにキスをした時の唇の感触が甦る。
もう一度キスしてほしい。
深く、頭の芯が痺れるようなキスを。
いや、もっと深い交わりが欲しい。
甘くて熱い、濃密な……
リックは頭を振って本能に流されそうな自分を止める。
アルファとの交わりを求めるオメガとしての本能は余りにも強い。己の性に苦しむオメガが多いのはこれが理由なのだとリックは身を持って知ることとなった。
「ど……して、今更、オメガなんて……」
唇を噛むリックの頬を涙が濡らしていく。
ずっとベータとして生きてきたというのに、今更オメガだという事実を突きつけられても受け止めきれない。
リックは発情に苦しむと同時に心の葛藤とも付き合わなければならないのだ。
自分の根幹が崩れてしまったような感覚に陥ったリックの目からは涙が溢れて止まらなかった。それを止める術をリックは知らない。
初めて発情期を迎えたリックは上手く乗り切る方法を知らないため、一日中うずくまって過ごすことしかできなかった。
体の奥の疼きは治まることがなく、唯一解放されるのは眠っている間だけだ。その眠りでさえ発情のせいで浅いものになり、十分な睡眠を取っているとは言いにくい。
水分だけでも取らなければ、とキッチンに向かうと水の入ったペットボトルと調理の必要のない保存食が用意されてあった。
一緒に置いてあった手紙はアーロンからのもので、「手分けして抑制剤を探しに行っているので頑張って耐えてほしい」とのメッセージにリックは励まされる。
それでもアルファとの交わりを求めるオメガの本能に引きずられそうになり、家の外に出ようとしたことも一度や二度ではない。理性を繋ぎ止めるために冷水のシャワーを浴びても気休めにしかならず、自分自身で熱を解放しても飢えは増すばかりだった。
一秒でも早く治まってほしい。
リックはその願いにしがみつきながら、一日、そしてまた一日を過ごしていった。
ニーガンが予告した徴収の日。
リックの発情期はまだ終わっていなかった。
発情期の期間は一般的には一週間と言われているが、それはあくまでも目安に過ぎない。一週間に満たない者もいれば一週間以上続く者もいる。一週間以内に終わることを願っていたが、そうはいかなかったのだ。
リックは絶望的な気分で自分の体を抱きしめる。
発情し続ける肉体には疲労が溜まり、睡眠不足も重なったせいでリックは動くのが億劫になっていた。ニーガンたちが来たのか気になったが体が怠くて横になっていることしかできない。
そのうちに外から声が聞こえてくる。声の主はカールで、その声には怒りと焦りが滲んでいるように思えた。それによりニーガンがやって来たのだと察する。
(このまま俺に気づかずに帰ってくれ)
リックは心の中で必死に祈った。
しかし、「止めろ!」と怒鳴るカールの声が響いてきたため、リックの心臓は嫌な予感に鼓動を速める。
少し経つと一階から微かに物音が聞こえてきた。リックは床に耳を付けて音を拾おうと試みる。
歩くたびに生まれる靴音、ドアの開閉音、不規則に鳴る口笛。
一階からの音全てがニーガンの来訪を告げていた。
二階には来ないでほしいという祈りも虚しく階段を上る音が聞こえる。
それと同時に感じるのはアルファの放つフェロモンだ。オメガとしての本能が目覚める前は薄っすらと感じる程度だったが、今ではハッキリと感じられる。
──アルファが欲しい。
そう訴える本能を拒絶するようにリックは自身を抱きしめる腕に力を入れた。
本能に負けてはいけない。今の状態でニーガンに会ってしまえば後戻りできなくなる。
理性が必死に訴えても徐々に濃くなるアルファのフェロモンに誘われるようにリックは体を起こし、床に座ったままドアの方に顔を向ける。
そういえば、ドアの鍵はどうしただろうか?
そんな疑問が浮かぶと同時に足音が部屋の前で止まり、ドアノブがゆっくりと動く。その様子を身動きせずに眺めるリックは自分が本能に負けたことを悟った。
開けられたドアの先にはニーガンが立っており、驚いた様子でリックを見つめている。
ニーガンは部屋に入るとリックとの距離を少しずつ縮めてきた。
「リック、お前はベータじゃ……そうか、隠れオメガだったってわけか。」
その声に滲むのは紛れもなく喜びだ。
リックは目の前まで来たニーガンをジッと見上げる。逃げようという気持ちはなく、待ち望んだアルファがいることを嬉しく思ってしまう。
アルファが、どうしようもなく欲しい。
その思いに突き動かされたリックはニーガンに向けて手を伸ばした。「ニーガン」と切なげに名前を呼べば抱きすくめられて荒々しく唇を奪われる。それだけで震えそうなほどに嬉しい。
噛みつくようにキスを交わしながら互いの服を剥ぎ取り、揃って床に倒れ込んだ二人の姿はまるで獣のようだった。
ニーガンから与えられる熱はとろけそうなほどに気持ちが良かった。
肌をなぞる舌が、指が、求められていることを実感させてくれる。
アルファから求められることが嬉しくて、体を繋げたことが幸せで堪らない。
中に種を注がれることを嫌だと思う気持ちは皆無で、強請るように自らキスをする。
後ろから抱かれた時、ニーガンの唇が項に触れた。
何度も唇で触れられ、肌を吸われ、軽く歯を立てられる。
「お前は……俺の、番だ。」
熱っぽく囁かれると同時に項に強い痛みを感じる。
噛まれた、と瞬時にわかった。
強く歯を立てられた部分がピリピリと痛むのは皮膚が切れたからだろう。
この痛みが欲しかった。
アルファのものになりたかった。
その望みが叶い、生理的な涙に歓喜が混ざった。
自分はアルファのもの。
そう思うと「今すぐに死んでも構わない」というくらいに幸せで胸がいっぱいになる。
自分はニーガンのもの。
そう思うと「今すぐに死んでしまいたい」というくらいに絶望が胸を押し潰す。
正反対の感情に揺さぶられながらニーガンの腕の中で何度も果て、終いには意識を手放すことになった。
そのまま目覚めずにいた方が自分にとっては幸せだったのだろうか?
目を覚ましたリックの目に最初に飛び込んできたのは見慣れない天井だった。
(ここはどこだ?)
ボーッとする頭に浮かんだのはシンプルな疑問。
その答えを得るために周囲を見回してわかったのは知らない部屋のベッドで横になっているということ。部屋の様子からアレクサンドリアでもヒルトップでもないことがわかり、暗い気持ちになる。
ここは間違いなくサンクチュアリ。ニーガンの城だ。
リックはゆっくりと体を起こしてみた。怠さは残っているが横になっていなければ耐えられないほどではない。
「発情期は終わった……か。」
自分の言葉が重く響いた。
もっと早く終わってくれていたら、と思わずにいられない。
リックは意識を手放す前のことを思い出し、両手で顔を覆って深い溜め息を吐く。
ニーガンに抱かれた。それ以上にリックを深い絶望の底へと突き落としたのは番になったという事実だ。
本能に負けまいと必死に耐えていたというのに、ニーガンを前にしてその努力は塵と消えた。そのことが情けなくて泣きたくなる。
そのままの姿勢で動けずにいるとドアの開く音がしたのでそちらへ顔を向けた。
そこに立っていたのはニーガンだ。
「やっとお目覚めか。寝坊だぞ、リック。丸一日起きないから退屈だった。」
ベッドの傍まで来たニーガンはリックの額にキスを落とした。その行為にリックは寒気を感じる。
ニーガンは顔を強張らせて硬直するリックを気にもせずベッドの縁に座った。
「ここはあんたの本拠地だろう?俺はどうしてここに居るんだ?」
「番になったら離れて暮らすわけにはいかない。だからお前が気絶してる間に連れてきた。」
「勝手なことを……」
「勝手なことをしないでくれ」と言いかけたリックの口はキスによって塞がれてしまう。
舌を絡め合う濃密なキスを終えても二人の距離は鼻先が触れ合いそうなほどに近い。
「俺と番になったお前が俺から離れて平気だと思うか?」
番となった今、リックはニーガンから離れて平気ではいられないだろう。
心は拒絶したいのに本能が求めてしまう。
その現実は容赦なくリックを打ちのめして反論する気力を奪っていった。
「お前はここで暮らせ。敷地から出ることは許さない。わかったな?」
「アレクサンドリアに行くことはできないのか?」
「あそこの連中はお前が絡むとうるさい。二度と戻るな。徴収の量を今の半分にしてやるからお前がいなくても何とかやっていけるだろう。……カールとジュディスは呼び寄せてもいいが、どうする?」
リックは「呼ばなくていい」と力なく答えた。
本当は子どもたちと離れたくない。守ってやることも成長を見守ることもできなくなるのは胸が引き裂かれそうなほどに辛い。
しかし、二人をこの男の手元に置くわけにはいかなかった。
今以上に辛い思いをすることは間違いなく、利用される可能性も高い。子どもたちまで巻き込むことは絶対にできない。
そのため、リックは誰よりも愛する息子と娘を手放すと決めた。
リックの目から堪えきれない涙が溢れるとニーガンに抱き寄せられ、慰めるように優しく抱きしめられる。
「なあ、リック?俺が今、どれだけ嬉しいかわかるか?一生分のクリスマスプレゼントを貰った気分だ。お前を番にできるなんて思ってなかったのに、こうして番にできたんだからな。」
心の底から嬉しそうなニーガンの声にリックは強い憎悪を抱いた。
この男を今すぐにでも殺してやりたい。
仲間を奪い、自由を奪い、挙句の果てに番という鎖で自分を縛りつけてしまうなんて許せなかった。
それなのに抱きしめられることに喜びを感じてしまう。
殺したいのに傍にいたい。突き飛ばしたいのに離れたくない。愛してなどいないのに存在を求めてしまう。
正反対な心と本能がリックを引き裂こうとしていた。
「ニーガン、あんたが大嫌いだ。」
その言葉とは裏腹にリックはニーガンの背中に手を添える。
抱きしめ合うだけで満たされた気持ちになるのだから、そのうちに憎悪まで消えてしまいそうだ。そのことがリックは何よりも恐ろしい。
リックの中にあるニーガンへの憎悪が消えてしまえば二度と子どもたちと仲間の元には戻れない。
そうならないためにリックはもう一度同じ言葉を口にする。
「大嫌いだ。」
二度目の「大嫌い」という言葉にもニーガンは怒ることも不快感を示すこともなかった。
「どれだけ俺のことが嫌いでも俺たちは本能で結ばれている。逃げられないぜ、リック。」
その楽しげな声が憎らしい。
だからこの男は嫌いだ、とリックは目を閉じる。
どうしてアルファとオメガという性が存在するのだろう?
どうしてアルファとオメガが番にならなければならないのだろう?
どうして自分はベータとして生まれなかったのだろう?
心の中にやりきれない思いが渦巻いて胸が苦しい。
リックは己のアルファの腕の中で絶望と共に泣いた。
──歳月の流れは人の心を変える。
リックは部下と共にサンクチュアリの中を回る。ここで暮らす人々の様子を観察して問題がないか確認し、気づいたことや改善点などを報告するのがリックに任された仕事だ。
一通り見回りを終えたリックは今回報告する内容を部下と話し合う。
「ジャックは在庫管理に向いているとは思えないな。確認漏れが多いからフォローし切れない。」
「このままだと致命的なミスをしそうですね。」
リックの言葉に同意しながら部下の男がメモを取る。
「配置転換した方がいいだろうな。」
「調達の方に入れることを提案しておきますか?」
「いや、外での気の緩みは怖いから出さない方がいいだろう。本人に仕事の希望を聞いてみてくれ。お前のための配置転換だと伝えるのを忘れずに。」
「わかりました。ジャックと話をしてから報告書をまとめます。」
リックは「頼む」と部下の肩を軽く叩いてからニーガンの部屋に足を向ける。報告書を提出する前にある程度話をしておいた方がいいと考えたからだ。
検討すべきことはいくつもあり、それについての改善案も用意してある。それをどうするのか決めるのはニーガンだ。
(最終的な判断はニーガンに任せる……か)
その考えが染みついた自分にリックは少しばかりの嫌悪を抱く。
ここで暮らすようになってから全体のことでリックが決断することはなくなった。それはリックがリーダーではなくなったからだ。
それによりリーダーの重圧から解放され、肩が軽くなったような感覚を味わっていると気づいたのはそんなに最近のことではない。
何かを決断するのはニーガン。
全ての責任を負うのはニーガン。
仲間の命を預かる重さを背負うのはニーガン。
そのおかげでリックがリーダーとしての苦しみから解放されたのは確かだ。ここから逃げたいと思っても実際に行動に移せないのはそれもあるのかもしれない。
しかし、リーダーの重圧を知りながらそれをニーガンに任せることに対して罪悪感を感じる。リーダーとしての苦しみを理解している自分がそれを他者に押しつけることを心苦しく思うのだ。
複雑な感情を抱えながらニーガンの部屋のドアをノックすると「入れ」と促されたのでドアを開ける。
ニーガンはソファーに座ってリラックスしていた。
その膝の上に座っているのは幼い頃のリックによく似た顔の小さな息子。柔らかな髪と眠たそうな目の色はニーガンのものと同じだ。
「見回りは終わったのか?」
リックはニーガンの問いに「終わった」と頷きながら二人に近づく。
「報告書を出す前に話そうと思ったんだが……先にこの子を部屋に連れて行ってからにする。」
ニーガンを背もたれにしながらうつらうつらしている我が子に手を伸ばしたリックをニーガンの手が制した。その手はリックの手首を掴む。
「このまま寝かせておけばいい。お前も隣に座れ。報告書を読めばいいんだから仕事は終わりだ。」
そう言われてしまっては断りようがないのでリックは仕方なくニーガンの隣に座った。
隣に座ると肩を抱き寄せられる。その行為もすっかりお馴染みのものとなり、嫌悪感を抱くこともなくなってしまった。
リックは本格的に寝始めた息子の頭を優しく撫でる。
憎い男との間にできた子どもをカールやジュディスと同じように愛せるのか不安に思ったこともあったが、この子を守るためなら何でもできると思えるほどに愛している。この子がいるからやっていけると言ってもいいほどだ。
「もうすぐ二歳か。本当に子どもの成長は早いな。ちょっと前までもっとチビだった気がする。」
「ああ。驚かされることばかりだ。」
頷くリックの脳裏に遠く離れた我が子たちのことが浮かぶ。
カールは立派な青年になっているだろう。ジュディスも一人前に飛び回っているに違いない。二人の成長した姿を自分の目で確認したいと願っても、それは叶わない望みだ。
二人の成長を見守ることができないのが悲しい。
この子にするように頭を撫でて、抱きしめて、「愛してるよ」と伝えられないことが辛い。
それらの悲しみと辛さを甘んじて受け入れるのは二人を愛しているから。自分とニーガンの問題に巻き込まないことが今のリックにできる精一杯だ。
「なあ、リック。この子はアルファか、オメガか、ベータ……どれだと思う?」
リックはニーガンの方に顔を向けた。いつもと変わらない笑みを憎く思うが離れたいとは思わない。
リックは目を合わせたまま答えを口にする。
「ベータであってほしいと思う。」
アルファやオメガのように本能に振り回されないベータであってほしい。
リックはその願いを込めてもう一度息子の頭を撫でた。
どれほどニーガンを憎んでいてもオメガとしての本能がニーガンから離れることを拒む。この本能がある限りリックはニーガンから逃れることはできない。本能に縛られて振り回される人生は自分だけで十分だ。
ニーガンの顔が近づいてきたのでリックは目を閉じた。そうすると唇を重ねられたので大人しく受け入れる。
しばらくキスを続けた後、唇が離れるとニーガンがうっとりと息を吐いた。
「お前とのキスが一番だな。……そういえば、最近はお前と二人だけの時間が少ない気がするぞ。」
「俺は忙しいし、あんたは自慢の妻たちと遊んでいるからだ。俺としては放っておいてくれた方がありがたい。」
いっそのこと番を解消してくれても構わない。
そう言ってやりたいと思っても口にしたことはない。それが本心だと言い切れなくなってきたことがリックは怖かった。
リックは目の前に浮かぶニーガンの楽しげな笑みから視線を逸らした。
「本当にそう思ってるのか確かめないとな。夜になったら部屋に来い。」
甘く囁かれ、期待に背筋がゾクリとする。
オメガとしてのリックがアルファを求めている。ニーガンはアルファの中でも最上級で、抱かれるたびに虜になっていく自分をリックは否定できなかった。
精一杯の強がりで「子どもの前でする話じゃない」と言ってみたが、当の息子は気持ち良さそうに眠っている。
どうか、この子はベータでありますように。
リックは切実な願いと共に愛する息子の寝顔を見つめた。
End