道なき未知を拓く者たち③ どうして、なぜ、こんなことになってしまったのだろう?
意識を失った息子を胸に抱いて必死に走るリックの頭の中には「なぜ?」という言葉しか浮かばない。
最愛の息子──カールの体にできた傷口から真っ赤な血が流れ出ていく。それにつれて我が子の顔が青白くなっていくことが恐ろしい。
カールは先程まで元気に歩いていたのだ。陰りのない笑顔を見せて、あんなにも楽しそうに過ごしていたのに。
リックの目の前で輝いていたカールの命の炎は今、消える寸前にまで追い込まれている。
「農場はまだなのか⁉いつまで走りゃいいんだ!」
後方からシェーンの怒鳴り声が響いた。それは出会ったばかりの男に向けられたものだ。
己の肉の重さのせいで走ることがひどく辛そうな男は息を切らしながらも足を止めようとはしない。彼は息も絶え絶えに「もうすぐだ」とシェーンに答えてからリックに向かって次のように叫ぶ。
「このまま、真っ直ぐ!先に行ってくれ!」
それを聞き、リックは足を速めた。
カールを早く医者に診せなければならない。治療を受けるのが遅れたら死んでしまう。
「カール、頑張れ!もう少しだ!」
リックはぐったりして返事をしない息子を励ましながら走り続ける。
懸命に走りながらも頭の中にはカールがこのような状態になるまでの出来事が甦り、大き過ぎる後悔がリックを押し潰そうとしていた。
******
リックがグループのリーダーに就任した翌日、グループは未だに車の大群に進路を塞がれた道路に留まっていた。ウォーカーの群れをやり過ごすために費やした時間は非常に長く、ソフィアの一件から生じた騒動が落ち着く頃には野営の準備を始める時間になっていた。それにより道を空ける作業を中断することになり、今日に持ち越された作業はランチタイムを大幅に過ぎた頃にようやく完了したのだ。
朝から車を動かし続けた男たちは疲れ切っている。このまま車で移動するのは体力的にきつい。それだけでなく今から出発しても二時間ほどで野営の準備をすることになる。それならば今日の移動は諦めて出発は明日にした方が良いだろう。
リックが明日の出発を提案すると反対する者は一人もいなかった。何人かが安堵の表情を浮かべたことから皆も明日の出発を望んでいたことが窺える。
リックは仲間たちが休憩する姿を見遣り、車のトランクからリュックサックを取り出した。そして愛用の拳銃に銃弾がきちんと収められていることを確かめるとローリの元へ向かう。
キャンピングカーの出入り口に座るローリは夫の姿を見て微かに眉根を寄せた。
「リック、どこへ行くつもりなの?」
「森に入って食料を調達してくる。少しでも食料が手に入ればみんなの心配が減るだろう?」
その言葉にローリは不安そうな顔をする。不安を訴えるように腕を掴んできたローリにリックは「すぐに戻るよ」と微笑んだ。
「何時間も森にいるつもりはない。心配しないでくれ。」
「時間の長さは問題じゃない。あなただって疲れてるんだから行かないで。疲れのせいで動きが鈍ったらどうするの?」
「ローリ、無理はしないと約束するから。みんなのためなんだ。」
「だめ。一人でなんて行かせられない。」
リックの腕を掴むローリの手の力は強くなっている。何が何でも行かせたくないのだ。
リックが困り果てていると「俺も行く」とシェーンが名乗りを上げた。いつの間にか近くに来ていたシェーンはローリを見下ろしながら同じ言葉を繰り返す。
「俺も行く。リック一人じゃなかったら問題ないだろ?それでいいな、ローリ。」
ローリは顔を強張らせたままシェーンを見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……気をつけて。」
その場に小さな声が落ちると同時にリックの腕からローリの手が離れていった。リックはローリの額に口付けて「すぐに戻る」と告げてからその場を離れようとした。ところが今度はカールに腕を掴まれる。
「カール?どうしたんだ?」
リックが問いかけるとカールは真っ直ぐな眼差しを向けてきた。
「僕も行く。父さんの手伝いをさせて。」
思いがけない申し出にリックは驚いたが、すぐに首を横に振る。
「だめだ。森の中にはウォーカーがいる可能性がある。そんなところにお前を連れていけない。母さんと待っていてくれ。」
そのように諭してもカールは頭を振って「嫌だ、行く」と申し出を取り下げようとしない。
我が子のとんでもない申し出にローリの表情は険しくなり、勢い良く立ち上がると怒気をまとってカールに迫る。
「カール、いい加減にしなさい。自分のことも守れないのに行ってどうするの?あなたは私と一緒に残って。」
「勝手に歩き回ったりしない。森の中では父さんの言うことを聞く。だから一緒に行かせて。僕だって父さんの役に立てるよ。」
カールは両親を交互に見つめながら必死に訴えた。純粋さと熱心さを併せ持つ眼差しにリックは思わず呻いた。
カールは以前から保安官として活躍する父を誇りに思っており、強い憧れを抱いている。そのため父の役に立とうとする気持ちが強いのだと知っていたが、再会を果たしてからはその気持ちが更に強くなっていたようだ。これでは簡単に諦めたりしないだろう。
どうしたものか、と頭を悩ませているとシェーンがカールの肩に手を置いた。
「カール、リックと俺の言うことを絶対に守るか?それを約束するなら連れていってやる。」
シェーンの言葉にカールが目を輝かせ、ローリの表情の険しさが増した。
「シェーン、勝手なことを言わないで。これは親子の問題よ。」
表情にも声にも怒りを滲ませるローリからシェーンは視線を逸らすことなく冷静に言葉を返す。
「俺たちの傍を離れなきゃ問題ない。このまま無理に置いていっても勝手に後を付いてくるぞ。その方が危険だ。」
シェーンの指摘を的外れだとは言えない。今のカールの勢いでは一人で父を追いかけてくるだろう。合流する前にウォーカーに遭遇すれば命の保証はない。
リックはしゃがんでカールに目線を合わせると落ち着いた口調で問いかける。
「俺とシェーンの傍を離れないこと。俺とシェーンの指示に従うこと。この二つを守ると約束できるか?」
「うん、約束する。」
「……わかった。一緒に行こう。」
リックはカールがしっかりと頷いたのを見てからローリを見上げる。彼女は己の中に渦巻く感情を堪えるように自身を抱きしめている。
「ローリ、俺がこの子を守る。だから──」
「わかった。それ以上言わなくて大丈夫。」
ローリはぎこちなく笑みを作るとカールの頬を撫でて「約束を守ってね」と言い聞かせた。それに対してカールが笑顔で頷くと、ローリは足早にキャンピングカーの中に入っていった。心の乱れを落ち着かせようとしているのだろう。
リックがキャンピングカーの出入り口を眺めていると、シェーンが「準備してくる」と言って離れていった。それを合図にリックは立ち上がってカールの頭に手を置く。
「母さんはお前を心配しているから怒ったんだ。そのことを忘れるな。」
「……うん。」
リックは神妙な様子で頷いた息子の頭を優しく撫でてやる。
これから先、カールが自分の考えや思いを主張をすることが増えてくるだろう。それは体だけでなく心も成長している証だ。手を焼くこともあるだろうが喜ばしいことに変わりはない。リックはこれからのカールの成長を思って頬を緩ませた。
リックはシェーンとカールを連れて森に入った。留守の間のことはニーガンに頼んできたので問題はないだろう。
リックは自分の前を歩くカールとの距離を一定に保つよう心がけながら周囲に視線を巡らせる。
「ベリーでも生えていると嬉しいんだけどな。」
リックが漏らした一言にシェーンが反応する。
「そんなに都合良くいかないだろ。動物が通りかかることを祈っとけ。……嫌になるくらいに何もかも運頼みだな。」
「確かにそうだな。ところでシェーン、さっきは助かった。ありがとう。」
出発前の出来事について感謝するとシェーンの表情が少し険しくなった。こちらを睨むシェーンは怒っているようだ。
「一応はお前の味方をしてやったが、ローリが不安がるのは当たり前だぞ。もっとローリとカールを優先しろ。お前が守るべきなのは家族じゃないのか?」
「ローリとカールを後回しにしたつもりはない。グループを守ることは二人を守ることにも繋がる。」
リックの反論をシェーンは鼻で笑った。
「そうか?俺なら二人の傍を離れない。いつも傍にいて守ってやる。」
怒りを滲ませながらも小バカにしたように笑うシェーンにリックは強い不快感を抱き、彼の言葉に怒りを感じた。「お前ではローリとカールを守れない」と言われているように感じられたのだ。
怒りを必死に堪えるリックに向かってシェーンは言葉を続ける。
「とにかく、一人で行動するのは控えろ。それだけで彼女は不安になるんだ。……お前の騎士様なら喜んで付いてきてくれるんじゃないか?」
「騎士様」という単語にリックは首を傾げた。
「騎士様?誰のことだ?」
「ニーガンしかいないだろ。あいつはお前にベッタリだから頼めばどこにでも付いてくるさ。」
リックはシェーンの言葉の端々から敵意に近いものを感じた。それは恐らくニーガンに向けられたものだろう。
リックは「何が気に入らないんだ?」と溜め息を吐く。
「俺がニーガンを頼りにするのが気に入らないのか?信用し過ぎだって?シェーン、彼を受け入れてくれたんじゃなかったのか?」
ニーガンを警戒していたシェーンは「信用するように努力する」と宣言した上、その後の旅の中でも二人が協力し合う姿は何度も見られた。それなのに未だに信用できないのだろうか?
リックはシェーンの顔を見つめながら答えを待ったが、シェーンは顔を逸らしてしまった。
「……言ったってお前にはわからない。」
シェーンが小さく漏らした一言にリックは眉を寄せる。彼が何を言いたいのかわからなかった。
意味を問おうとしたリックを無視するようにシェーンはカールを追い越して先に行ってしまった。その後ろ姿に溜め息を吐くと隣に小さな影が並ぶ。隣を見下ろせばカールが気遣うような眼差しを寄越した。
「ケンカ?」
幼い息子からのストレートな質問にリックは思わず苦笑する。
「そんなものかな。心配させて悪かった。」
「僕は大丈夫だよ。でも、父さんとシェーンのケンカは初めて見た。」
「そうだな。お前の前であいつとケンカしたことはなかったな。」
リックはカールの柔らかな髪を梳きながらシェーンとの口論について振り返る。
これまでにシェーンと口論したことがないわけではない。考え方の違いから意見が対立したことは何度もある。
しかし、いつも必ず何かしらの答えを出した。今回のように中途半端な状態で話を打ち切られたことは一度もなかった。そのことがリックを戸惑わせる。
リックは距離の開いたシェーンの背中を見つめながら、物理的な距離だけでなく心の距離まで開いてしまったような寂しさに胸を締め付けられた。
それから三十分ほど森の中を歩き続けていたが、目ぼしいものは見つからない。何か手に入れるまで探索を続けたいが、戻りが遅いとローリが不安になるのでもう少し探索したら戻るべきだろう。
リックがそのように考えていた時、三人の前に一頭の鹿が現れた。立派な角を持つ雄の鹿はこちらを見て逃げ出すこともなく、その場に留まってこちらを見つめている。
リックも鹿を見つめていると隣にいるカールが「鹿だ!」と小声で呟く。その声には感動の響きがあった。
カールが慎重な足取りで鹿に近づいていく姿を見て、リックは鹿に銃を向けるシェーンの腕に触れて首を横に振った。「鹿を撃たないでくれ」というリックの願いは正確に伝わり、シェーンは穏やかな表情で頷いてからカールに目を向けた。
カールはある程度の距離まで鹿に近づくと立ち止まり、声をかけることも触れることもせずに鹿を見つめている。死と恐怖に覆われた世界で力強く生きる命に魅せられ、辛いことの方が多い状況の中で彼は心から感動しているのだ。その事実はカールの心を明るく照らすだろう。これから先、何が起きたとしても「命の美しさに感動した」という経験は誰にも奪えない。
リックはカールを見守りながら笑みを浮かべた。鹿を熱心に見つめる我が子の姿がとても愛おしかった。隣にチラリと視線を向ければ、シェーンも優しい表情でカールを見守っている。久しぶりに見る親友の穏やかな顔もリックを嬉しくさせた。
穏やかな時間がゆっくりと流れていく。永遠に続いてほしいと願いたくなるほどの幸福な時間。それが一発の銃声に砕かれることになるだなんて誰が予想できただろうか?
銃声が響いたと同時にカールの腹部から血飛沫が上がり、幼い体が吹き飛ばされるようにして後ろへ倒れ込んだ。
(何が、起きているんだ?)
リックの脳は一瞬、目の前で起きた出来事の理解を拒否した。カールの体から血が流れ出ているなんて信じたくない。それでも現実を受け入れたリックは倒れているカールに駆け寄った。
「カール!カール、しっかりしろ!カール!」
リックは悲鳴のような声で我が子の名前を呼びながら己の手で傷口を押さえて止血を試みた。溢れ出る血の生温かさがリックから冷静さを奪おうとする。
「リック、しっかり押さえてろ!離すなよ!」
シェーンの必死な声にリックは頷き返すことしかできない。
その時「なんてことだ!」と狼狽する男の声が聞こえてきて、横に幅のある男が猟銃を肩に掛けながら走り寄ってきた。その様子から男がカールを撃った相手なのだとわかる。カールの状態を見て青ざめる男にシェーンが怒りを顕に掴みかかった。
「おい、お前が撃ったのか!クソ野郎!」
胸倉を掴まれた男は苦しそうに呻く。
「す、すまない!鹿の向こう側に男の子が立っているなんて気づかなかったんだ!」
「どうしてくれるんだ!?このままじゃ死んじまう!」
男はシェーンに怯えた様子を見せながらも「医者を知ってる」と話す。
「俺が世話になってる農場にハーシェルという人がいる。彼ならその子を治療してくれる。信じてくれ。」
リックは必死に訴える男の声に耳を傾けながらカールの顔を改めて見下ろす。
カールの顔色はどんどん悪くなっていく。出血が止まらないのだから当然だ。このままでは出血多量で死んでしまう。
リックはカールを横抱きにして立ち上がり、男に近づいた。
「息子を助けたい。農場へ案内してくれ。」
リックが男を見つめながら告げると男はしっかりと頷き、それを見てシェーンは彼から手を離した。
「俺はリックだ。この子はカールで、彼はシェーンと言う。あんたの名前は?」
「オーティスだ。こんなことになって本当にすまない。急ごう、付いてきてくれ。」
そう言うとオーティスと名乗った男は走り出す。リックはシェーンと頷き合ってからオーティスの後を追った。
******
オーティスに導かれて辿り着いた農場は森に囲まれた広い農場だった。牧草地が広がる中に畑や果樹があり、動物や鶏の鳴き声が聞こえてくる。まるで外界から遮断されたようにのどかな場所だが、今のリックにはその光景を楽しむ余裕はない。
広い農場に建つ一軒家に向かって走っていくと家の外にいた若い女がこちらの存在に気づき、家の中に向かって「父さん!」と叫ぶ声が聞こえた。その後に家から数人が出てきた。その先頭に立つのは初老の男だった。突然の来訪者に驚いた様子の男はリックの腕に抱かれたカールを見て厳しい顔つきに変わる。
「噛まれたのか?」
男からの問いかけにリックは息を切らしながらも必死に声を絞り出す。
「オーティス、という男に撃たれたっ。あなたがハーシェルか?オーティスに言われて、ここへ来たんだっ。頼む、息子を……息子を助けてくれ!」
リックの懇願にハーシェルは頷いて「中に入ってくれ」と言って歩き出した。家に入るとハーシェルは次々と指示を出す。
「パトリシア、道具を用意してくれ。マギーは鎮痛剤と凝固剤を頼む。」
指示を受けた彼女たちはテキパキと頼まれたものを用意していく。リックもハーシェルの指示を受けてカールをゲストルームに運んでベッドに寝かせ、枕を用意したり傷口を手で押さえて止血した。
ハーシェルは聴診器を使ってカールの状態を確かめるとリックの方に顔を向けた。
「君の名前は?」
「リック……リック・グライムズだ。」
「リック、我々は最善を尽くしたい。だから場所を空けるために部屋から出てくれ。」
付け加えるように「今すぐ」と言われてリックは震える足で部屋を出た。外から「急げ!」と怒鳴るシェーンの声が聞こえたため導かれるように家から出ればシェーンとオーティスが息を切らしながら立っていた。
オーティスに「彼は大丈夫か?」と尋ねられたものの、リックは言葉に詰まって何も言えない。思わず額の汗を拭うと粘着性のある液体が額に付着した。カールの血だ。
「リック、血が付いてる。」
気遣わしげな眼差しのシェーンがハンカチを取り出して顔を拭ってくれた。その手付きと「大丈夫だ」と言う声の優しさに少しだけホッとする。
シェーンはリックの顔を拭き終わるとカールの状態について尋ねてきたが、リックは何も答えられずにフラフラと家の中に戻った。
(カール……俺の大切な子……カール……!)
カールを運び込んだ部屋に再び入るとハーシェルがカールの傷口を手で押さえて止血していた。
ハーシェルはリックとシェーン、そしてオーティスが来たことに気づいて顔を上げる。
「リック、この子の血液型は?」
「俺と同じA型だ。」
「それはよかった。輸血が必要になる。ところで、一体何が起きたんだ?状況を説明してくれ。」
説明を引き受けたのはオーティスで、彼は「鹿狩りをしていたんだが……」と話し始めた。
「鹿の反対側に男の子が立っていたことに気づかずに鹿を撃って、その弾が鹿を貫通して彼に当たった。本当に気づかなかったんだ。」
最後の方は涙声になったオーティスにパトリシアが寄り添い、「事故だったのはわかってるわ」と彼を慰めた。
オーティスの報告にハーシェルは頷き、カールに視線を戻すと止血する手を離して傷口を再度確かめる。その表情の厳しさが増していくことにリックの不安は大きくなった。
やがてハーシェルは厳しい表情のままリックを真っ直ぐに見る。
「鹿の体を貫通して弾の速度が落ちたおかげで命拾いしたが、銃弾が体内に残ってしまっている。しかも砕けているから厄介だ。六個の破片を取り除かなければ、この子は助からない。」
これは何かの罰だろうか?
そのように思いたくなるほどカールの身に降りかかった困難がリックを苦しめる。
銃弾の破片を取り除く作業は難航した。器具が十分にない状態で体内に飛び散った破片を取り除くのは難しく、麻酔なしで行われたために激痛がカールを襲った。痛みに泣き叫びながら父を呼ぶ我が子にリックがしてやれるのは輸血用の血液を提供することだけ。歯がゆさと無力感に全身を蝕まれる。
治療がある程度まで進むとカールは大人しく眠り、それにより少し落ち着きを取り戻したリックはローリがカールの状態を知らないことが気にかかるようになった。
「ローリに……妻に知らせないと。彼女はカールが撃たれたことを知らない。」
独り言のように呟いたリックにハーシェルはカールの血圧を測りながら視線を寄越した。
「リック、君はここに居てくれ。血液が必要だ。」
「だが、ローリに知らせなきゃならない。ローリに……」
輸血のために血液を抜いたせいで目眩がする。それにより正常な判断ができなくなっていることにリックは気が付かない。
フラフラと歩きながらカールがいる部屋を出るリックをシェーンが追いかけてきた。
「リック、少し落ち着け。とりあえず座ろう。」
宥めるようなシェーンの声を聞きながらリックは近くの椅子に腰を下ろす。足に力が入らず、崩れ落ちるように座る姿をハーシェルの娘のマギーが心配そうに見ていた。
マギーの近くに座っていたオーティスからカールの容態を尋ねられたが、リックは返事をすることができなかった。今のカールの状況を言葉にしようとするだけで辛い。それを察したシェーンが代わりに「今は落ち着いてる」と答えた。
そしてシェーンはリックの前に跪いて「よく聞け、兄弟」と話し始める。
「輸血が必要ないとしてもお前はここに留まるべきだ。カールがお前を、父親を必要としてるんだぞ。」
「だが、ローリに知らせたいんだ。」
「ローリに知らせなきゃいけないと思う気持ちはわかる。でもな、リック。……もしカールが死んでしまった時にお前が傍にいなかったら、お前は死ぬまで自分を許せないし、ローリはお前を恨むぞ。」
真剣な眼差しのシェーンの言葉の一つひとつがリックの頭に染み込んでいく。
もしカールの命が失われる瞬間に彼の傍に家族が誰もいなかったら、それは一人ぼっちで死なせることと同義だ。まだ幼い息子にそんなことをさせてしまったならばリックは自分自身を殴り殺したくなるほどに許せない。そして、ローリも絶対にリックを許さないだろう。
リックは涙を零しながらシェーンの言葉に何度も頷く。
「リック、ローリは昏睡状態のお前の回復を信じてた。俺でさえお前は助からないと諦めかけてたが、ローリは違った。彼女は本当に強い。だから今度はお前が強くなれ。カールは助かるんだと信じろ。」
そう言って微笑むシェーンにリックは微笑み返す。
「そうだな、シェーンの言うことが正しい。」
涙声で返せばおどけたような笑みが返ってきた。
「そうさ、俺はいつも正しい。……なあ、リック。」
名前を呼ばれると同時にシェーンに顔を引き寄せられ、額同士が触れ合わされた。目を閉じてシェーンの体温を感じるだけで心が落ち着いてくる。
「今は大変な時だ。だから他のことは全て俺に任せろ。大丈夫だから。な?」
優しく心強い親友の言葉にリックの目から新たな涙が流れ落ちた。
励ましてくれる声の優しさが、辛い気持ちに寄り添ってくれる気持ちが、包み込むように温かな眼差しが嬉しかった。
最近、シェーンとの間に感じていた距離が一気に消え去ったような気がした。以前と変わらない友情を感じられたことが大きな喜びと安堵をもたらした。
リックは笑みを浮かべながら親友に感謝の言葉を捧げる。
「ありがとう、シェーン。」
リックの感謝にシェーンが小さく頷いた時、ドアが開いて部屋からハーシェルが出てきた。それと同時にシェーンはリックから離れて立ち上がる。
リックは離れてしまった温もりに僅かな寂しさを抱きながらもハーシェルを見上げた。
「ハーシェル、カールに何かあったのか?」
治療のために部屋から一歩も出てくることのなかったハーシェルがカールの傍を離れたことに不安が過ぎる。
リックの問いにハーシェルは首を横に振ったが、その表情は渋い。
「今は落ち着いてるが、内出血のせいで腹部が膨らんで血圧が下がっている。奥に入り込んだ銃弾の破片が血管を傷つけているんだ。それを取り除くには手術が必要だが、カールを大人しくさせないと。暴れたら動脈が傷ついて死んでしまう。だから意識を失わせないとならない。」
「全身麻酔はできないのか?」
「可能だが、自発呼吸ができなくなって死ぬ可能性が高い。」
厳し過ぎる現実を前にしたリックは視線を辺りへ彷徨わせる。
動揺しているせいで上手く考えがまとまらない。それでも必死に考えなければたった一人の我が子が死んでしまう。
リックは唇を震わせながらも「何が必要なんだ?」と尋ねた。それに対してハーシェルは思案するように宙を見つめる。
「人工呼吸器。それから手術道具やチューブ、縫合用の布と糸も足りない。それに凝固剤と抗生物質も追加したいところだ。必要なものが揃えば最善を尽くせる。誰かに調達してきてもらいたい。」
それを聞いてオーティスが立ち上がった。
「近くの病院は焼けて全滅だが、高校に行けば物資がある。緊急避難所になってたんだ。ウォーカーが多くて近づけなかったが、今なら大丈夫だろう。」
その時、黙って話を聞いていたシェーンが「俺が行く」と申し出た。シェーンはリックとハーシェルを見ながら告げる。
「リックは輸血っていう大事な仕事があるが、俺は座って待ってるだけだ。それなら俺が行くのが一番いい。地図とリストをくれ。」
それを聞いてリックは黙っていられない。すぐに「俺も行く」と言うとシェーンが顔をしかめた。
「俺の話を聞いてたのか?リック、お前は残らなきゃだめだ。」
「お前に危険なことを任せて自分は安全な場所にいるなんてできない。一緒に行く。」
「だめだ、お前は来るな。」
シェーンは厳しい表情でリックの申し出を跳ね除ける。
「輸血のための血液を提供できるのはリックだけなんだぞ。それに、貧血でフラフラしてる奴とは一緒に行動できない。これ以上わがままを言うなら両脚を折ってでも置いていく。」
睨むようにこちらを見るシェーンの目を見て、彼が本気なのだとわかる。リックはそれ以上の反論は諦めた。
しかし、シェーンが頼りになる人間だからといって一人で行かせるのは不安が残る。リックがそのように考えているとオーティスが手を挙げた。
「俺が一緒に行こう。救命士の経験があるから物資の見分けがつく。素人には難しいだろ?」
それを受けてシェーンは苦笑いと共に頷いた。
「ああ、その通り。来てくれると助かる。」
「じゃあ、すぐに準備しよう。」
シェーンとオーティスは話をまとめて頷き合う。それを見てハーシェルがリックを見た。
「必要な物資はオーティスとシェーンが取りに行き、君は家に残る。これで進めよう。出血が続く限り輸血は不可欠だ。君がいなければカールは血液が足りないせいで死んでしまう。」
ハーシェルの拒否を許さない眼差しにリックは首を縦に振る。
出血は止まっていない。この場にいる人間でカールと血液型が同じなのはリックだけなのだから、リックがいなくなればカールは輸血ができずに死んでしまう。これしか道はないのだ。
そのように考え方を切り替えてからリックはシェーンとオーティスの方に顔を向けた。
「二人とも、危険なことを頼んですまない。……カールのために、頼む。」
リックの心からの言葉に二人は揃って頷き、出かける準備をするために動き出した。
調達の準備は慌ただしく進み、出発しようとする二人を全員で見送る。オーティスの妻であるパトリシアは涙ながらに無事を祈る言葉をオーティスに贈り、ハーシェルとその家族たちも抱擁と共に「絶対に帰ってきて」と願いを伝えた。リックはその様子を眺めてからシェーンと向かい合う。
「一緒に行けなくてすまない。暗くなってくるから気をつけろ。」
「任せておけって。お前こそ貧血なんだから無理するな。大人しく座ってろ。」
「ああ、そうするよ。」
「それでいい。絶対に物資を持ち帰るから俺たちを信じて待ってろよ、リック。」
シェーンの力強い宣言に対してリックも頷き返す。
「ああ、二人が帰ってくるのを待ってる。」
シェーンは頼もしげな笑みを見せると「行ってくる」と言って車の方に歩いていった。
シェーンとの挨拶が済んだので次はオーティスの元へ向かう。車に乗り込もうとしたオーティスはリックが近づいてくることに気づいて足を止めた。
「オーティス、これを持っていってくれ。」
リックは愛用の拳銃を差し出す。それにオーティスは目を瞠ったが、慎重な手つきで拳銃を受け取った。
「ありがとう。大切に使うよ。」
「これはあんたの手で返してくれ。……必ず無事に帰ってきてほしい。大切な人のためにも。」
無事の帰還を願う言葉にオーティスが小さく微笑む。
「あの子が元気になったら、あんたの身の上話を聞かせてくれ。」
「ああ、そうしよう。」
リックが頷くとオーティスは車に乗り込んだ。
シェーンとオーティスが乗った車はゆっくりと走り出し、徐々にスピードを速めていく。勢いに乗った車はすぐに見えなくなった。
車が見えなくなった時、リックはマギーに声をかけられる。
「リック、あなたの奥さんを私がここに連れてくる。彼女はどこにいるの?」
「この近くの大きな道路だ。たくさんの車が停まっているから足止めを食らっていたんだ。そこで俺たちの帰りを仲間と一緒に待ってる。」
リックの返事にマギーは頷き、ハーシェルの方に振り返った。
「父さん、リックの奥さんと仲間を呼んでくるから馬を借りていい?」
それに対してハーシェルは「気をつけて行ってきなさい」と許可を出した。それを受けてマギーは馬小屋に向かって歩き出す。
リックはマギーの後ろ姿を見送りながら、手を差し伸べてくれる人々に対する感謝を深くした。
皆がこんなにも力を貸してくれているのだ。だから自分にできる最大限のことをした上でカールの回復を信じる。「それが自分に課せられた使命だ」とリックは自身を奮い立たせた。
──リックたちの戻りが遅い。
ニーガンは翌日の出発に備えて荷物を車に積み込みながら、森の方に顔を向けて何度目かの溜め息を落とす。
リックがシェーンとカールを連れて食料調達に出かけてから二時間ほどは経過しているだろう。時計がないため正確な時刻はわからないが、太陽の位置が下がってきているので夕方が近づいていると判断できる。それなのに三人が戻ってこないことが気がかりだった。
ニーガンは視線を森から仲間たちに移すと、作業の手を止めて森をジッと見つめるローリの姿が目に留まった。その顔に滲む不安の色は見たことがないほどに濃い。
ニーガンは荷物を車に押し込んでからローリに近づいた。
「ローリ、手を動かした方が気が紛れるぞ。心配し過ぎるとぶっ倒れちまう。」
普段通りの笑みを作って話しかけるとローリがこちらを見る。その顔に微かに笑みが戻った。
「ありがとう。そう考えるようにしてるんだけど、つい森の方が気になって。……あの日のことが頭を過ぎるせいなのかも。」
「あの日?」
そう尋ねるとローリは「リックが撃たれた日」と答えて再び視線を森の方へ戻した。
「朝からケンカして、和解できないままリックは仕事に出かけて……次に会ったのは病院。彼は管に繋がれたままベッドの上にいた。あの時のことが頭から離れないせいで余計に心配になるの。彼に何かあったんじゃないかって。」
今のニーガンにはローリの不安を「考え過ぎだ」と笑い飛ばしてやることができない。リックたちが出かけて三十分ほど経った頃に森の方向から銃声が聞こえたのだ。辛うじて聞こえた程度なので聞き間違いだと思いたいのだが、銃声を耳にしてから胸騒ぎがする。そのためにニーガンはローリの不安を消してやれなかった。
ニーガンが慰めの言葉を言えずにローリの肩を軽く叩いた時、こちらに向かってくる音が聞こえることに気づいた。それは森の方からではなくグループの進行方向とは反対側から聞こえてくる。耳を澄ましてみれば馬の蹄の音だとわかる。
ニーガンは思わずローリと顔を見合わせた。
「この音って馬が走る音よね?」
「やっぱりそう思うか?アスファルトの道路を馬が走るなんて世紀末って感じだよな。クールだ。」
ニーガンは冗談を言いながらも近くに置いたルシールを手に取って近づいてくる足音に向かい合う。
敵意や悪意のある人間か?相手の人数は?今の状況で戦力として当てになるのは誰か?
それらのことを瞬時に頭の中で考えながらルシールを持つ手に力を込めた。
やがて姿を現したのは馬に乗った若い女だった。右手でベースボールバットを握る姿は勇ましい。彼女は馬から降りずにローリを見て口を開く。
「あなたがローリ?ローリ・グライムズ?」
ニーガンは自分の斜め後ろにいるローリを振り返った。彼女はニーガンを見つめながら首を横に振る。知り合いではないということだ。
ローリは見知らぬ相手が自分の名前を知っていることへの驚きと警戒心を顔に浮かべたままニーガンより前に出て女と向かい合う。
「ええ、私がローリ。なぜ私の名前を知ってるの?」
「すぐに私と一緒に来て。リックが待ってる。」
女の言葉にニーガンは眉根を寄せる。リックたちにアクシデントが起きたことが今の言葉で確定したからだ。
ローリは顔を引きつらせながらも質問を重ねる。
「彼に何があったの?無事なの?」
「カールが撃たれた。いいから早く一緒に来て。説明は走りながらする。」
カールが撃たれたという知らせにローリの肩がビクンッと跳ねた。それとほぼ同時に後方から「カールが撃たれた!?」という悲鳴が上がったのでニーガンは後ろを振り向く。いつの間にか仲間たちが集まってきており、それぞれの顔に驚きや悲痛を浮かべている。
ニーガンが再び顔を正面に戻すとローリが女に近づいていくところだった。
カールの状態を知らせてくれたとはいえ初めて顔を合わせた相手だ。簡単に信用できるほど今の世界は甘くはない。
ニーガンは「ローリ、待て」と呼び止めて、こちらに振り向いた彼女に問う。
「今は初めて出会った人間を信用するのが難しい世界だぞ。それでも行くんだな?」
ローリはニーガンと目を合わせて深く頷いた。覚悟を決めた目を見て、ニーガンはそれ以上引き止めるのをやめて馬上の相手を見る。
「俺たちも準備を終えたら後を追う。どこに行けばいい?」
その質問に女はローリを馬に引き上げてから答える。
「道を引き返して少し走ると農場があるから、そこへ来て。郵便ポストにグリーン農場って書いてあるところよ。」
女はニーガンの質問に答えるとローリを連れて走り去っていった。遠ざかっていく馬を見送りながらニーガンは短く息を吐く。
初対面の相手を簡単に信用するわけにはいかないが、物資を奪うことが目的であれば回りくどいやり方はしないだろう。武力で押さえつける方が簡単なので、カールが撃たれたという話は事実だと判断して良さそうだ。
そうであれば息子が撃たれたことにリックはひどく動揺しているだろう。重傷である可能性は高く、命が危うい状態だとも考えられる。息子のことで手一杯なリックにリーダーとしてグループ全体に指示を出す余裕はないはず。しばらくの間、リックの代わりにリーダー役を担う者が必要だ。
(リックを支えるのは俺だ。あいつと約束した。何でもやってやるさ)
ニーガンはリックの代わりを担うと決めた。決めたならば早く皆をまとめてリックのところへ向かうのみだ。
ニーガンは体の向きを変えて仲間たちに向かい合い、全体を見回しながら指示を出す。
「今の話は理解できたな?すぐに荷物をまとめて移動する。デールとグレンは見張りだ。少しでも変なことがあったら報告しろ。重い荷物は俺とTドッグの二人で積み込むからアンドレアとキャロルは細かい荷物を頼む。ソフィア、君は母さんを手伝え。さあ、始めるぞ。」
口を挟む暇なく指示を出せば全員が一斉に動き出した。
しかし、グループ全体に広がった動揺は大きい。共に過ごした期間は一年に満たずとも、家族同然に過ごしてきた仲間の身に起きた悲劇は皆の心に強い衝撃を与えた。この余波はカールがある程度回復するまで続きそうだ。
ニーガンは「ここが踏ん張りどころだな」と呟いた。
ニーガンは皆を連れて教えられた通りに来た道を戻り、グリーン農場に辿り着いた。広い敷地の中にポツンと佇む家を目指して車を走らせる中で農場の風景に目を奪われる。
夕日に照らされてキラキラと輝く牧草地は絵画で見るよりも美しい。その穏やかな光景の農場を取り囲む森が外界を遮断しているので夢物語の中に迷い込んだ気分になる。
(夢みたいな場所って奴だな。……そうさ、安全な場所なんて夢みたいなものだ。世界は何一つ変わっちゃいない)
目の前の光景に目を奪われながらもニーガンはひどく冷静だった。
この農場が崩壊する前の世界と同じ状態を保っているのだとしても、死んでしまえば誰もが転化して他者を襲い出すという現実は変わらない。ウォーカーを寄せ付けない魔法の結界が存在するはずもなく、きっかけがあればウォーカーは群れを成して押し寄せる。世界の過酷さや残酷さは相変わらず生者の喉笛を食い破ろうと狙っているのだ。
考えに耽るうちに目的地に到着したので車を降りると、家の前にはローリを迎えに来た女がニーガンたちを待っていた。
ニーガンが家に近づくと女は「ゲートは閉めた?」と尋ねてきた。
「ああ、閉めてきた。さっきは名乗る暇もなかったな。俺はニーガン。君は?」
「マギー。全員の挨拶は後にして中に入って。疲れた顔をしてるから少し休んだ方が良さそう。」
「助かる。」
ニーガンは振り返って皆に中に入るように伝え、全員が中に入るのを見届ける。
家に入ろうとしないニーガンにマギーが訝しげな顔で近づいてきた。
「どうしたの?」
「リックたちがこの農場に留まるなら俺たちも留まることになるが、全員が家で寝泊まりするわけにいかない。テントを建てても問題ない場所が知りたい。」
ニーガンの言葉にマギーは納得したように頷くと、家から少し離れた場所にある木の密集地帯を指差した。
「木が密集してる場所があるでしょ?あそこなら大丈夫。仲間がいるって話を聞いたから父さんが場所を決めておいたの。」
マギーが示した場所は木が集まっているものの程良く空間があり、枝葉が広がっているので日差しが強くても影ができて涼しそうだ。雨も多少は防ぐことができるだろう。テントを建てるには申し分ない場所だ。
「良い場所だ。しばらく世話になる。」
「できる限りで力になるから、何かあったら父さんか私に言って。」
「ああ、そうしよう。」
場所を確認し終わったニーガンはマギーと共に家の中に入る。他の仲間たちは既にカールの様子を見に行ったようで、友人の痛々しい姿にショックを受けたソフィアが肩を震わせて泣いていた。そのソフィアを慰めるキャロルの目も潤んでいる。他の者たちも沈んでいるようだ。
ニーガンはマギーに案内されて一室に足を踏み入れる。真っ先に目に飛び込んできたのはベッドに力なく横たわっているカールだ。
「カール……」
無邪気に笑いながら父親の食料調達に同行したはずの少年が青白い顔で眠る姿を見てニーガンは言葉を失った。消毒液の匂いに混じって微かに漂うのは血臭だ。血の臭いが消えないということはカールの傷の状態は悪いのだろう。
部屋の中にはカール以外にリックとローリ、そして見知らぬ白髪の男がいた。聴診器を使ってカールの心音を診ている姿から彼が医者なのだとわかる。
ニーガンはカールの状態に胸を痛めながらもリックとローリの傍に行った。
「二人とも、大変だったな。」
ニーガンが声をかけるとリックは顔をくしゃくしゃにして泣き始める。ニーガンはリックの頭を撫でて苦笑いを浮かべた。
「こら、今は泣くな。泣いたら冷静に考えられなくなるぞ。」
「ん。」
頷いて必死に目元を拭うリックだが、涙の勢いは衰えない。その涙を優しく拭ってやりたいが、今のリックに必要なのは甘やかすことではない。
ニーガンは抱き寄せて慰めてやりたい気持ちを抑えつけてリックから手を離す。
「頼りがいのある俺が来て安心したのはわかるが、しっかりしろ。お前とローリがカールを支えなきゃならないんだから泣いてばかりいられないぞ。お前の代わりに俺が他の奴らの面倒を見るから、お前はカールのことだけを考えろ。」
「……ありがとう、ニーガン。」
リックは鼻をすすりながらも涙を止めた。
そしてローリに「少し席を外す」と告げて立ち上がり、ニーガンに目配せしてから先導するように部屋を出る。ニーガンはリックの後に続き、彼と共に玄関を出てポーチに立った。向かい合うとリックが状況を話し始める。
「カールは鹿狩りの弾に当たったんだ。弾が鹿を貫通したから勢いは落ちたが、砕けた銃弾が体の奥に残っていて血管を傷つけてる。そのせいで出血が止まらないんだとハーシェルが──カールの傍にいた人がハーシェルといって、彼がそう話していた。」
「手術して取り除けないのか?」
「医療道具が足りないから今はできないが、シェーンがオーティスという男と一緒に調達に行ってくれている。二人が戻ってくるのを待ってるんだが……戻りが遅ければ道具が足りない状態で手術をすることになる。」
「医療道具が揃えば助かるのか?」
「……最善を尽くせる、としかハーシェルは言わなかった。」
ニーガンは顔を強張らせながら話すリックの姿からカールに残された選択肢の少なさと厳しさを痛感する。手術をしなければ助からず、医療道具が不足した状態で手術を強行すれば成功率が限りなくゼロに近くなる。そして、調達に向かった二人が戻って万全の状態で手術ができても必ず助かるとは言い切れないのだ。
「そうか」としか返せないニーガンはリックの次の言葉に目を瞠る。
「ハーシェルは獣医であって人間相手の医者じゃないんだ。それもあって迂闊なことは言えないんだと思う。」
医者は医者でも動物の医者。そのことに驚きを隠せないニーガンにリックが微かに苦笑を浮かべた。
「息子の命を獣医に預けるなんて無謀だと思うだろう?だが、彼の処置は的確だったし、医学の知識が皆無の素人というわけじゃない。現状ではカールを救えるのはハーシェルだけだ。ローリも納得して彼にカールの命を託すと決めた。」
「確かに驚いたが、今は医者を選べる状況じゃない。お前たちが納得して決めたなら俺は何も言わない。」
「ありがとう。後はシェーンたちが無事に戻ってくるのを待つだけだ。」
リックはそう言って、どこまでも続く轍に視線を向けた。その顔に不安が横切る。
ニーガンはリックがシェーンを心配しているのだと察して「心配するなよ」と彼の肩に手を置いた。
「シェーンはタフな野郎だ。二人で行ったんだから何かあってもフォローし合える。無事に帰ってくると信じてやれ。」
ニーガンの励ましにリックは小さく頷いたが、それでも彼の顔から不安の色が消えることはなかった。
ニーガンはリックと話をした後、他の仲間たちと共に農場内にテントを建てた。テントでの寝泊まりなのは昨日までと同じだが、柵に囲まれた農場の中ということでグループ全体に「ここは安全だ」という雰囲気が漂っている。
ニーガンは仲間たちの気の緩みを引き締めるために話をしようと作業が落ち着いた頃に全員を集めた。そこへリックが姿を見せる。
「みんな、何もかも任せてしまってすまない。」
仲間の様子を見に来たリックの顔色は先程よりも悪い。歩いてくる時も足取りが不安定だったので貧血が悪化しているようだ。一目で具合が悪いのだとわかるリックに皆が心配そうな眼差しを向ける。
体調不良のせいで笑みがぎこちないリックに近づいたのはグレンだ。
「リック、さっきより顔色が悪いよ。家で休んでなきゃだめだ。さあ、戻ろう。」
グレンがリックの背中を支えながら家に戻るよう促したが、リックは「平気だ」と首を横に振った。
そしてリックはニーガンに顔を向ける。
「テントの設営は終わったみたいだな。」
「ああ。お前たちのテントも建てておいたから、家の中で休みにくいならこっちで休め。」
「ありがとう。」
リックはニーガンに微笑んでから仲間たち全員の顔を見回した。
「みんなには迷惑をかける。本当にすまない。俺は基本的にカールの傍にいることになるから、その間はニーガンに俺の代理を任せることにした。だから彼に協力してあげてくれ。俺もなるべく様子を見に来るから何かあったら相談してほしい。」
リックがグループのところへ来たのはリーダーの代理について話すためなのだ。テントの設営くらいであれば問題ないが、他のことについてニーガンが指示を出せば「リーダーではないニーガンが指示を出すのはおかしい」と考える者が出てきても不思議ではない。反発はグループに亀裂が入る原因となる。それを防ぐためにリックは「代理をニーガンに任せる」と宣言しに来たのだろう。
ニーガンは自身に余裕のない状態でグループのことにまで気を回すリックに感心しつつ、今の状況でも他者のことを考えずにいられない彼を哀れに思った。
ニーガンが複雑な思いで見つめるリックはリーダーの顔で話を続ける。
「この農場は森に囲まれていて道路からも離れているからウォーカーが中に入ってくることは少ないらしい。だが、全く入ってこないというわけじゃない。油断せずに夜間の見張りは今まで通り続けよう。もし異変があったらハーシェルにも知らせてほしい。」
リックの提案に誰も異を唱えることなく頷く。それを見てリックがホッとしたように笑みを零した。
「ありがとう。よろしく頼む。」
感謝を告げるリックにアンドレアが「ねえ、リック」と声をかけた。
「お礼はいいから早く戻って休みなさいよ。すごく体調が悪そう。また輸血したの?」
アンドレアの質問にリックは「少しだけだ」と答えた。少量であってもリックは既に何度もカールに血を分け与えているので体へのダメージは大きい。これ以上無理をさせるべきではない。
ニーガンはリックの体を支えるグレンに顔を向ける。そして「リックを連れて行け」という意味を込めてハーシェルの家を指差した。それを受けたグレンがニーガンに向かって頷き、「リック、行こう」と言ってリックの体を支えながら歩き出した。
グレンに付き添われて家に戻っていくリックの後ろ姿をグループ全員が見守る。
「大丈夫かしら?リックまで倒れてしまいそう。」
心配を滲ませながら呟くキャロルにデールが答える。
「俺たちが支えないと。今までも助け合ってきたんだ。それを続ければいい。」
「そうね。リックとローリを私たちで支えましょう。」
そう言って微笑むキャロルに皆が同意して笑みを浮かべる。ニーガンはその様子を見つめながら少しだけ安堵する。
最近はグループ全体にリックに寄りかかろうとする様子が見受けられたので、この緊急事態であってもリックを頼ろうとする気持ちが抜けないのではないかと危惧していた。そのような気配があれば厳しく指示することも考えていたが、そこまでしなくても良さそうだ。昨日の出来事が皆の意識を変えるきっかけになったのかもしれない。
しかし、まだまだ甘さの抜けない集団であることは事実。注意深く見ていく必要がある。
とりあえずは様子見だ、とニーガンは目を細めた。
物事が動き出したのは辺りが暗闇に包まれた刻限だ。勢い良く走り込んできた車の音に気づいてテントや家の中から皆が飛び出してくる。
車から降りてきたのはシェーンで、彼は医療道具の詰まったリュックサックを背負っていた。物資調達は成功したのだ。そのことに喜ぶ人々の中で一人、ハーシェルが落ち着いた口調で問う。
「オーティスは?」
その一言に全員の顔から笑顔が消え失せる。車から降りてきたのはシェーンのみ。助手席にも、荷台にも、どこにもオーティスの姿がない。それが示すのは残酷な結末だ。
親しい人の死を悟ったマギーが涙を流すと同時にハーシェルが「パトリシアには言うな」と声を絞り出す。パトリシアはカールに付きっきりで外に出てきていなかった。
「手術には彼女の助けがいる。終わるまで黙っていてくれ。」
ハーシェルはそれだけを言い残すとリュックサックを持って家の中に戻っていった。その後ろ姿からニーガンは深い悲しみを感じ取った。
嗚咽に釣られてマギーの方に顔を向ければ、彼女は幼子のように顔をくしゃくしゃにして泣いている。オーティスとは家族ぐるみの付き合いだったようなので喪失感が大きいのだろう。労るようにローリが彼女に寄り添っている。
そして、ニーガンはシェーンに目を向けた。シェーンは視線を彷徨わせたり自分の正面に立つリックを見つめたりと落ち着きがない。その様子から彼がひどく動揺していることがわかった。そのシェーンはリックに調達先での出来事を語り始める。
「高校には奴らがうじゃうじゃいた。俺たちには弾が十発しか残ってなくて、オーティスが『援護するから先に行け』と言ったから言う通りにした。少しして後ろに気配がないことに気づいて振り向いたら……」
そこでシェーンは黙り込む。言葉に詰まっているらしく、何かを言いかけては口を噤んだ。その痛々しい姿を見てリックがシェーンを抱きしめた。リックは動揺の収まらない親友に優しく声をかける。
「彼は罪滅ぼしをしたかったんだ。」
その一言を告げる声が少し震えていた。自分の息子のために命を落とした者がいるという事実にリックも罪悪感と胸の痛みを感じている。
やり切れなさにニーガンは溜め息を吐いたが、何気なく巡らせた視線を一点で留めた。それはシェーンの頭だ。
(あれは──無理やり髪を毟り取られた痕だ)
シェーンの頭の一部分は頭皮が露出しており、それはどう見ても強引に髪を毟り取られた痕だった。髪を毟り取られるほどウォーカーに接近された人間が無事でいるのは奇跡に近い。
妙に引っかかる、とニーガンが注意深くシェーンを観察し始めたところでシェーンがリックに拳銃を差し出した。それはリックのものだ。
「……オーティスから渡された。彼の代わりに返す。」
シェーンの話から察するに、リックは己の拳銃をオーティスに貸したのだろう。それをシェーンが所持していることにニーガンの中に芽生えたシェーンへの疑惑が大きくなる。
シェーンの話では彼らは多くのウォーカーに襲われて弾切れ状態に陥ろうとしていたのだ。そのような状況で他者に拳銃を譲り渡す余裕があったとは考えられない。
考え続けるニーガンの視線の先ではリックが差し出された拳銃を見下ろしていた。しばらく沈黙が続いた後に彼は視線を上げてシェーンを見る。真っ直ぐにシェーンを見つめるリックは何も言わない。その表情は何かを探ろうとしているように思えた。
やがてリックはシェーンの手から拳銃を受け取り、何も言わないままローリと共に家の中に入っていった。
シェーンはリックとローリを見送ると車を背もたれに座り込む。その際に彼は右足を庇うような素振りを見せた。車から降りる時も歩く時もシェーンは右足を庇っているので足にケガをしているようだ。
ニーガンはゆっくりとシェーンに近づいて彼の正面に立つ。見下ろせばこちらを見上げてくる相手と視線がぶつかった。
「右足をケガしてるな。挫いたのか?」
その問いにシェーンは「そうだ」と肯定した。
「高いところから飛び降りた時にな。情けない話だ。」
「なるほど。その足だと走るのは無理そうだな。本当によく無事に帰ってこられた。」
ニーガンが話す度にシェーンの肩が小さく跳ねる。まるで怯えているかのように。
シェーンが気まずそうに視線を外したのを見て、ニーガンは更に質問を重ねることに決めた。
「なあ、シェーン。──その頭の傷、痛くないのか?」
その問いにシェーンの目が見開かれる。
シェーンはこちらを見ることもなく一点を凝視したまま何も言わない。いや、言わないのではない。声を発することができないのだ。
凍りついたように身動きせずに黙り込んだシェーンにニーガンはニヤリと笑いかける。
「後でケガの手当てをしてもらえよ。」
それだけを言い残してニーガンは他の仲間を連れてテントの方に戻る。カールの手術が終わるのを待つのに大勢が家の中にいてはハーシェルたちの邪魔になるからだ。
ニーガンは自分たちのテントに向かって歩きながら、オーティスという顔も知らぬ男に起きた悲劇について考える。
確たる証拠は何もない。あくまでも個人的な心証に過ぎないので誰にも話すつもりはない。それでも導き出された結論は間違いではないだろう。
オーティスは自ら犠牲になったのではない。シェーンが犠牲にしたのだ。
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リックにとって今日はとても長い一日だった。その終わりを安堵と共に迎えられたことを心から嬉しく思いながら、穏やかな寝顔を晒すカールを椅子に座って見守る。
シェーンが持ち帰った物資のおかげでカールの手術は万全の状態で行うことができた。それもあって手術は大きなトラブルもなく終わり、ハーシェルの「手術は成功だ」という言葉にローリと抱き合って喜んだのは一時間ほど前の出来事になる。ハーシェルを始めとしてグリーン農場の人々にはどれだけ感謝しても足りないくらいだ。
喜びと感謝の気持ちで満たされているリックの隣ではローリがカールの頭を優しく撫でている。リックは妻と息子を見守りながら小さく笑みを浮かべたが、我が子の命と引き換えに失われた命を思い出して笑みを消す。手放しで喜ぶには犠牲が大き過ぎた。
手術が終わった後、ハーシェルはパトリシアにオーティスの死を伝えた。それにリックも立ち会って哀悼の意と感謝の気持ちを伝えたが、それが何の役に立つというのだろう?愛する人の死を知らされて泣き崩れるパトリシアには慰めの言葉は無意味だった。
事故とはいえカールを撃ったのはオーティスだ。それでも彼はカールのために最大限のことをしてくれた。無事に帰ってきてほしいと心から願い、彼の死を知った瞬間は言葉では表せないほど辛かった。「自分も一緒に行っていればオーティスは生きて帰れたかもしれない」という罪悪感はリックの心に一生残る。
(神が存在するとしたら……きっと誰も救うつもりはないんだろう)
リックは心の中だけで呟いた。
カールは死にかけた。そのカールを救おうとしたオーティスが死んだ。二人とも悪い人間ではなかったはずなのに神は二人を救おうとはしなかった。少なくともリックにはそのように思える。
誰のことも救おうとしないのなら神など必要ない。神に救いは求めず、縋ることもせず、自分と大切な人たちを信じて進むだけだ。
リックが密かに決意を固めているところへドアのノック音が響く。開け放たれたドアをノックして部屋に入ってきたのはニーガンだった。
「カールはどうだ?」
ニーガンの質問に答えたのはローリで、彼女は微笑みながら「大丈夫よ」と返した。
「出血が止まったからお腹の異常な膨らみもなくなったわ。貧血状態だから顔色は良くないけど、きちんと食べて寝たら回復するってハーシェルが言っていたから大丈夫。」
「そうか。本当によかった。若いから傷はすぐに治るさ。」
ニーガンの言葉にリックとローリは笑顔を浮かべて頷いた。
部屋の出入り口付近に立っていたニーガンはこちらに歩いてきてリックの傍らに立った。そしてリックの目元を親指でサラリと撫でる。その顔には苦笑が浮かんでいた。
「ひどい顔だぞ、リック。疲れが出まくりだ。」
ニーガンの指摘にリックも自身に向けて苦笑する。
「今日だけで一週間分の疲れが溜まった気がする。」
「だろうな。お前もローリも今夜は休め。他の奴らもお前たち夫婦が疲れ切ってることを心配してた。」
ニーガンの提案にリックは首を横に振った。カールの傍を離れるわけにはいかない。
「気持ちはありがたいが、カールの傍を離れられない。俺たちが寝ている間に状態が変化しないか心配なんだ。」
そう答えてローリを見ると、彼女は何度も頷いてリックに同意した。
ローリの反応を確かめたリックは再びニーガンの方に顔を戻す。彼は呆れたように笑った。
「そう言うと思った。カールが心配で傍を離れられないのはわかってるから、俺がここでカールを見ててやる。何かあったら呼びに行ってやるさ。それなら大丈夫だろ?」
「それだとあんたに負担がかかる。そこまで甘えるわけにはいかない。」
「俺は手術の間に少し仮眠しておいたから一晩くらい問題ない。今は俺の言うことを聞いて休め。いいな?」
提案を引っ込めるつもりのないニーガンにリックは溜め息を落とした。
ニーガンが自分たちを心配している気持ちが強く伝わってくる。彼はリックが首を縦に振るまで待つつもりに違いない。このまま押し負ける自分の姿が容易に想像できて、リックは思わず笑ってしまった。
リックはニーガンの言葉に甘えて休息を取ることに決めて、ニーガンに向かって頷いてみせた。
「せっかくの申し出だから少し休ませてもらう。ローリ、それでいいな?」
ローリの方に振り返って問うと彼女も「わかった」と頷いた。そのローリの顔にも疲れの色が見える。心配し過ぎたせいなのだろう。
リックは椅子から立ち上がってローリと共に部屋の出入り口へ向かう。ローリを先に部屋から出すと立ち止まって振り返り、リックと入れ替わりで椅子に座ったニーガンを見た。
「どうした?」
こちらに顔を向けたニーガンが不思議そうに首を傾げる。その顔を見つめながら、リックはニーガンの存在に改めて感謝の気持ちが込み上げるのを感じた。
昼間、ニーガンの顔を見ただけで涙が溢れたのは心からホッとしたからだ。ニーガンに今の状況を変える力はないと理解していても彼の存在はリックを安心させてくれた。傍にいてくれるだけで心強いと思える相手に巡り会えた奇跡にはどれだけ感謝を捧げても足りない。
ニーガンがいてくれて良かった、と思いながらリックはニーガンに微笑みかける。
「何でもない。おやすみ。」
「ああ、しっかり眠れよ。」
寝る前の挨拶を交わしたリックは今度こそ部屋を後にした。
用意された部屋に入ると既にローリがベッドに横になっていた。素朴ながらも温かみのある内装が安らぎをもたらしてくれるおかげで彼女はリラックスしているようだ。
リックもブーツを脱いでローリの隣のベッドに寝転がる。天井を見上げながらゆっくり息を吐き出すと今日のことが一気に脳裏に甦った。
辛かった。恐ろしかった。絶望した。悲しかった。苦しかった。こんなにも様々な負の感情が全身を駆け巡った経験は昏睡状態から目覚めて我が家に戻った時以来だ。
しかし、最後には喜びを得ることができた。この喜びを与えてくれた全ての人々に感謝して、その気持ちを忘れないようにしよう。
また明日から頑張ろう、と自身を奮い立たせてからリックは目を閉じた。そして、目を閉じてから数分も経たないうちに眠りの世界に落ちていく。それほどに大変な一日がようやく終わりを告げた。
To be continued.