ちょっとそこまで逃避行 鳥のさえずりが聞こえる。賑やかなそれは不快なものじゃない。
次に眩しさを感じて目を開けてみるとカーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいた。
すっかり目が覚めてしまったから馴染みのないベッドに寝転んだまま全身を伸ばす。指先が撫でるシーツの感触にも馴染みがないのはこのベッドが僕の部屋のものじゃなくスコットさんのものだからだ。
体が解れたので起き上がって部屋の中を改めて見回してみると、そこら中からスコットさんの気配を感じて妙に嬉しくなる。
「……そういえば、久しぶりにしっかり眠れたな。」
頭に思い浮かんだことを声に出しただけなのに思わず苦笑いをしたくなった。それには大きな理由がある。
最近、よく眠れない。
理由はわかってる。「愛すべきヒーロー・ミステリオを死に追いやったスパイダーマンの正体はピーター・パーカー」というニュースが世界中に広まった日から、悪夢を見ては飛び起きる毎日を送っているからだ。
世界中の人たちが僕のことを「スパイダーマンことピーター・パーカーは最低な人間だ」と責めた。怒りをぶつけられ、悪意が押し寄せ、まるでサンドバックのように言葉で殴られ続ける日々。学校に行っても避けられたり嫌がらせをされたりして通うことができなくなった。押しかけてくる記者やテレビカメラを避けるためには家に閉じこもるしかなかった。
カーテンを閉め切った部屋の中で一人、「自分はどこで何を間違えたんだろう?」と何度も何度も考える。
僕はヒーローとして正しいことをした。ベックの暴走は止めなくてはいけないことだった。それなのに今の僕は世界中の人たちから「悪者だ」と決めつけられて責められている。正しいことをしたはずなのに、どうしてこんなにも苦しい状況にいるんだろう?
一変した世界に耐えきれなくなった僕は「少しの間だけ逃げさせて。わがままでごめんなさい」とメイおばさんに手紙を残して部屋を抜け出し、スコットさんに会うために彼の家を目指した。前に教えてもらった住所に着くまでの間は帽子を深く被って俯き気味で行動した。ピーター・パーカーだということに気づかれるのが怖くて絶えずビクビクしていた自分は本当に惨めだった。
緊張続きの旅を終えてスコットさんの家のドアをノックすると、連絡もなく現れた僕に彼は目を丸くして驚きを隠さなかった。それでもスコットさんはいつもと変わらない笑顔になって「よく来たな」と頭を撫でてくれたんだ。
スコットさんの同居人のルイスさんも僕のことを嫌がらずに泊まっていくように勧めてくれた。
「スコッティは出社するまで休み!つまり無期限の休みってこと!俺って世界一優しいボスだろ?ああ、そうそう!俺は会社に泊まるから気にすんな!冷蔵庫のものは好きに飲み食いして!じゃあな!」
早口で全てを言い終えたルイスさんは僕たちにウインクを飛ばして家から出ていった。彼の早口に圧倒されている僕にスコットさんは「まあ、何回か会えば慣れるよ」と眉を下げて笑っていた。
そんなやり取りをしたのが昨日のこと。
昨夜、スコットさんは僕にベッドを明け渡して自分はリビングにあるソファーで眠った。ベッドを奪ってしまったのはとても申し訳なかったけれど、久しぶりに悪夢を見ずに眠れたのは彼の匂いに包まれていたからだと思う。ぐっすり眠って睡眠不足が解消されると狭まった思考が元に戻ったような気がした。
ふと思いついて膝の上にあるタオルケットを手に取り、顔に押し付けて深く息を吸い込んでみる。そうすると予想通りにスコットさんの匂いがした。
(スコットさんの匂い、安心するなぁ)
変態みたいで恥ずかしいと思いつつ、もう一度だけ鼻から息を吸う。
安心する匂い。大好きな人の匂い。少しだけ泣きたくなる。
僕はタオルケットから顔を引き剥がすと目をパチパチと瞬かせて浮かびかけた涙を散らした。泣いた後の顔を見せたらスコットさんを心配させてしまう。
「よし!」と頬を両手で軽く叩いて気持ちを切り替えるとベッドを降りて服を着替える。着替えを持たずに家を出てきてしまったのでコンビニで買った下着以外は全部スコットさんのものを借りた。何から何まで甘えてしまって情けない。
着替え終わると脱いだものを洗面所の洗濯かごに放り込むついでに顔を洗い、身だしなみを整えてからキッチンに顔を出す。卵やベーコン、パンの焼ける良い香りが廊下に漂っていたからスコットさんが朝食の準備をしていると思ったんだ。
キッチンに入るとそこにはスコットさんがいて、彼は忙しそうに朝食の準備をしていた。彼は僕の存在に気づいて振り向くと明るい笑顔を向けてくれる。
「お、やっと起きたな。おはよう、ピーター。そろそろ起こしに行こうと思ってたんだ。」
スコットさんはベーコンエッグをお皿に盛りながら「もう食べられるぞ」と微笑む。
そんな彼に僕も「おはよう」と返そうとした。挨拶を、返そうとしたんだ。それなのに唇は動いてくれなくて、彼を見つめることしかできなかった。
スコットさんの笑った顔が好きだ。
スコットさんの優しい眼差しが好きだ。
スコットさんのいつもと変わらない声が好きだ。
目の前にいる大好きな人が変わらないでいてくれることが嬉しくて堪らなかった。
スコットさんの態度が前と変わってなかったことは昨日でわかったはずなのに、今になって嬉しさが大きな波のように押し寄せてくる。
「ピーター、大丈夫か?」
心配そうに僕に声をかけるスコットさんの表情を見て、僕は自分が泣いていることに初めて気づいた。
「あ、れ……?ごめっ……ごめんなさい、泣きたいわけじゃなくて……」
何度拭っても涙は後から後から湧いてくる。頬を滑り落ちていく涙の止め方を知らない僕は小さな子みたいに手の甲で目元を拭うことしかできない。
どうしたらいいのかわからなくて泣き続けていると、いつの間にか目の前に来ていたスコットさんが僕の頭を撫で始めた。
「我慢なんてするなよ。俺の前で我慢する必要ないんだから。」
「スコット、さん。」
「好きだよ、ピーター。どんなピーターだって大好きさ。」
そう囁いて照れくさそうに笑う彼を見たらますます泣けてくる。
涙の勢いが増した僕に慌てるスコットさんは僕が泣き止むまで頭を撫で続けてくれた。その手が優しいから余計に泣けてくるんだと伝えるには少し時間が必要だった。
*****
ようやく涙を止めることに成功した僕はスコットさんに手を引かれてリビングへ移動した。
リビングに行くとスコットさんは僕を先にソファーに座らせてから隣に座り、顔を覗き込むようにして目を合わせてくる。
「もう落ちついたか?」
そう尋ねられて小さく頷く。
さっきまでの自分を振り返ってみると恥ずかしくなる。誰かの前でこんなにも泣いたのは久しぶりだ。
溜め息混じりに「恥ずかしいな」と呟くとスコットさんはクスクスと笑った。
「たまにはいいんじゃないか?……それでさ、ピーター。」
スコットさんはそこで言葉を切った。彼は微笑んでいるけれどその顔には真剣さがあった。
きっと彼は大事なことを自分に伝えようとしている。
そう感じた途端に自然と背筋が伸びて、僕は真剣な彼の目を見つめ返す。
「ピーターが望むなら俺はお前と一緒に逃げてもいい。追われるのには慣れてるから今更どうってことない。もちろん、みんなに説明して許してもらわなきゃいけないけど。」
思いがけない言葉に驚いて何も言えない僕に構わずスコットさんは更に言葉を続ける。
「俺はお前が望むなら何でもする。でも、それはお前が本当に望むこと限定だ。なあ、ピーターはこれからどうしたい?ピーターが心の底から望んでることって何だ?」
そう問われ、僕は目の前の瞳を見つめながら自分の心と向き合う。
現状が辛くて逃げ出したい気持ちはある。現に今、僕はスコットさんのところに逃げ込んでいるわけだから。
それでも、その気持ち以上に強く思うことがあった。
「戦いたい。僕はみんなを守るためにベックを……ミステリオを止めたんだと証明して、みんなに理解してもらいたい。そのために今起きてることに立ち向かいたいんだ。」
口に出してみると思いがはっきりと形になったような気がした。
気持ちを再確認するように自分の手を握り込むと、その手にスコットさんの手が重ねられた。スコットさんの優しさに勇気づけられて僕は話を続ける。
「ベックは自分の存在を認めさせるためにみんなを傷つけて怖がらせた。それを許すことはできないし、彼を止めたことは間違いじゃない。それは絶対に曲げない。僕は彼に負けたくない。……でも。」
続きの言葉を口にすることに少しだけ臆病になる自分がいた。そんな僕にスコットさんは微笑みながら「大丈夫」と頷いてくれた。
だから心の中にあるものを隠さずに全て吐き出す。
「逃げ出したいと思う気持ちも心の片隅にあるんだ。だから僕を応援して、見守ってほしい。あなたに。」
少しだけ声が震えてしまったことが情けなかった。それでも彼は笑顔で頷いて「もちろんだ」と言ってくれた。
そして彼は「いいか、ピーター」と僕の両肩に手を置く。
「俺は世界に対して大きな影響力は持ってない。社会的地位や金を使ってピーターを守ることもできない。俺はちっぽけな人間だ。それでも俺にできる全てでお前を支えるよ。泣きたいくらい辛い時は何時間でも話を聞くし、苛立ちを解消したかったらぶつけてこい。全部受け止める。だから遠慮なく頼ってくれ。」
スコットさんの真っ直ぐで優しい思いが心に入ってきて、また目に涙が滲むのがわかる。堪えきれずに彼に抱きつくと背中を撫でてくれた。
僕はスコットさんを強く抱きしめながら決意を口にする。
「明日の朝、家に帰るよ。部屋に閉じこもるのは終わりにする。世界中の人にわかってもらえるまで頑張る。」
「うん、ピーターはそういう奴だって信じてた。でも一人で抱えるなよ?お前には家族や仲間がいるんだから。みんなを信じて一緒に戦っていけ。」
僕はその言葉に深く同意して頷く。
辛い現実に打ちのめされたせいで忘れかけていたけれど、メイおばさんはいつだって「私はあなたの味方」と言ってくれた。ネッドやMJ、他の友だちも心配して毎日メッセージを送ってくれた。ハッピーは「力になりたいからドアを開けてくれ」と僕の部屋のドアを何度も叩いた。素晴らしいヒーローたちは「スパイダーマンは今でも親愛なる隣人だ」と擁護してくれた。
僕を応援してくれる人たちはたくさんいる。だから僕自身が下を向いている場合じゃない。
そのことに気づかせてくれたことへの感謝の気持ちを込めて更に強く抱きしめるとスコットさんが「痛い!」と悲鳴を上げたから慌てて体を離した。
「こら、手加減しろ。」
苦笑するスコットさんに謝ってから、あることをお願いするために上目遣いで彼を見る。
「ねえ、スコットさん。わがままだってわかってるんだけど……今日一日だけ、あなたと一緒にいてもいいかな?」
僕のお強請りに彼は一瞬キョトンとして、すぐに笑顔を浮かべて「いいよ」と許してくれた。
「ありがとう、スコットさん!」
嬉しくて勢い良く抱きつくと彼は楽しそうな笑い声を上げた。その声を聞きながら、この温かくて愛しい時間を噛みしめる。
今日は僕の充電日。今日はスコットさんと二人で楽しく過ごして、明日から頑張るための元気をもらうんだ。
さあ、今日はスコットさんと何をして過ごそうかな?
そんなことを考えて、久しぶりの楽しい気分に浸りながらスコットさんを抱きしめ続けた。
*****
楽しい一日を過ごした次の日の朝。
僕はスコットさんの家から一歩出て太陽の日差しを浴びる。その心地良さを実感しても忍び寄ってくる緊張は振り払えない。
今日、午前の便の飛行機に乗ってニューヨークに帰る。現実に戻るのは少しだけ勇気が必要だけれど、前のような後ろ向きな気持ちはない。「自分の正義を絶対に証明する」と覚悟を決めた今は立ち向かうものが何であっても戦える気がする。
お世話になったスコットさんにお礼と別れの挨拶をしようと振り返った僕は思いがけないものを見て口をポカンと開けた。
「……スコットさん、今から旅行にでも行くの?」
思わずそんな質問をしてしまったのはスコットさんが荷物のパンパンに詰まったリュックサックを背負い、ベースボールキャップとサングラスをしているからだ。ちょっとした小旅行にでも出かけるような格好を見たら質問せずにいられない。
スコットさんは「そうだよ」と答えながら玄関ドアの鍵をかける。
「ど、どこに行くの?」
自分にとって都合の良い予想が頭の中に広がって、期待に声が上擦った。
ドキドキしながら返事を待つ僕にはスコットさんが振り返るまでの数秒がとんでもなく長く感じられる。
そして、僕の方に向き直った彼はこう言った。
「ちょっとニューヨークまで。」
答えを口にしたスコットさんはニッと歯を見せて笑った。
いたずらが成功した時みたいに得意げな顔で僕を見る彼に何も言えない。嬉しすぎて言葉が出てこない。
その僕の横を通り過ぎたスコットさんは道路を少し歩いてから立ち止まり、こっちに顔を向けた。
「ピーター、お前の行き先もニューヨークだろ?一緒に行こう。家まで送るよ。」
こんなのズルい。こんなサプライズ、考えてもみなかった。
嬉しくて泣きそうになるのを我慢してスコットさんの隣まで歩いていった。
そして、立ち止まっている彼の隣に並んで精いっぱいの笑みを浮かべる。
「スコットさん、最高だよ。ありがとう。」
「何のこと?俺は旅行に行くだけだぞ。」
下手な演技でとぼけるスコットさんは僕を置いて歩き出した。
「待ってよ、スコットさん!」
大好きな人の背中を追いかける僕の足取りは軽い。
少し緊張しながらの旅になるはずだった帰り道は、行きよりも遥かに楽しいものになった。
End