罪な味・【ピザ】 リック&シェーン
日付が変わったばかりの町は静かだ。ほとんどの者がベッドに入って眠りの世界にいる時間。
そんな中、リックは親友の家に居た。その家にある古ぼけたソファーの背もたれに背中を預け、しかめっ面で腕組みをする姿からは不機嫌さが滲む。基本的に人当たりの良いリックのそのような態度を見れば普通は戸惑ってひどく気を遣うだろう。
しかし、リックの親友であるシェーンはリックの様子を気にする素振りも見せずにクラフトビールをソファーの前にあるテーブルに置いた。その様を視線で追いかけたリックは視線をビール瓶からシェーンの顔へと移す。
「シェーン、お前、何を考えてるんだ?」
リックが睨んでもシェーンは飄々とした表情を崩さない。
「自分に正直になってるだけだ。何か問題でもあるか?」
「あるに決まってるだろう。俺は反対したはずだぞ?こんなの……だめだ。許されることじゃない。」
苦々しげに吐き出すリックを見てシェーンは呆れたように肩を竦めるとキッチンの方へ歩いていった。
その後ろ姿を眺めながらリックは唇を噛む。
こんなことは許されない。とんでもなく罪深いことだとシェーンも理解しているはずなのに。
リックは顔を正面に戻してテーブルの上にあるビール瓶を見つめた。
そんなリックにキッチンからシェーンの声が飛ぶ。
「リック、いい加減に諦めろよ。たまには欲に忠実になったっていいんじゃないか?俺はとっくに諦めた。」
リックは親友の声を聞きながら溜め息を吐く。
彼のように自分に正直に生きられたら楽だろう。それができないから自分は葛藤するというのに、簡単に言ってくれるものだ。
シェーンに対して妬みのような感情を抱きながらもリックはその場を去ろうとはしなかった。
*****
「ほら、リック。これを見ちまったら降参するしかないぞ。」
シェーンは弾んだ声と共にテーブルの上に大きな皿を置く。
運ばれてきたのは熱々のピザだ。たっぷりと乗せられたチーズに混ざるようにして薄切りのベーコンと玉ねぎのスライスが敷き詰められている。チーズの香りと合わせて鼻をくすぐるのはピザソースの魅力的な香りに他ならない。
オーブンレンジから出てきたばかりのピザを前にしてリックは顔を引きつらせた。小腹の空く深夜に焼きたてのピザは卑怯だ。視覚も嗅覚も刺激するそれを前にして「食べるのを我慢する」という選択肢は拷問以外の何ものでもない。
しかし、深夜にカロリーの塊のような食べ物を口にするのは勇気がいる。これを食べてしまえば脂肪となって己の身にのしかかるのは目に見えていた。だからリックは「今からピザを食べよう」というシェーンの提案に反対したのだ。リックの必死の反対も虚しく完成してしまったピザは今、渾身の魅力を振りまいてリックに迫っている。
ピザを凝視しながら固まるリックの隣に座ったシェーンは「兄弟、楽になっちまえよ」と肩を叩いてきた。
「何時に食べたってピザは脂肪になるさ。」
シェーンは何の解決にも慰めにもならないことを言ってからほぼ均等に切り分けられたピザを一つ手に取った。
シェーンがピザを持ち上げると蕩けたチーズが糸のように伸びる。そのチーズの蕩け具合がリックにとどめを刺した。
「──お前って奴は本当に最低だよ、シェーン!」
降参の意を込めて言い捨ててからリックはピザに手を伸ばした。
右手でピザを取り、垂れ下がりそうな先端を左手の指で支えながら口の近くまで持っていく。口に近づければ美味しそうな香りが鼻を直撃して口内に唾が溢れた。
そして思いきって噛みつけば自然と頬が緩んだ。ベーコンの塩気と玉ねぎの甘みが口の中で絶妙なハーモニーを奏でている。やはりベーコンと玉ねぎの相性は最高だ。それを包み込むようなチーズの濃厚さが堪らず、チーズに負けじとピザソースの旨みが追いかけてくる。チーズとピザソースが絡み合えば抗うことなどできない。
要するにシェーンが作ったピザは非常に美味しいのだ。スーパーで安売りしていたピザ生地で作られたピザであっても具材が揃って焼き加減が良ければ問題ない。深夜の小腹を満たすには十分すぎる味に仕上がっている。
リックはピザを頬張りながらビールを一口飲んで深く息を吐いた。
「……旨い。」
リックが零した呟きを聞いたシェーンは得意げにニンマリと笑う。
「我慢しなくて正解だろ?それにな、食べちゃいけないと思うほど旨くなるもんなんだ。」
「わかってるさ。わかってるから我慢しないといけないと思ったんだ。本当にお前は困った奴だよ。」
リックは呆れ顔をしながらも二切れ目のピザを取った。
その様子を見つめるシェーンは目を細めて微笑む。
「だが、俺と一緒にいると退屈しない。だろ?」
その言葉にリックは一瞬キョトンとして、次に苦笑いと共に深く頷いた。
リックは学生時代からシェーンにいけないことを教えられ、少しの罪悪感と共に大きな楽しさを味わってきた。それは大人になった今でも変わっていない。
リックは垂れそうになるチーズを舌で受け止めてからシェーンの方に顔を向ける。
「退屈しないのは確かだな。こうなったら深夜のアイスクリームにも挑戦するか?」
「任せとけ。アイスクリームは常備してある。バニラでいいか?」
「……シェーン、こういうのは時々にしておけよ。」
リックは「親友にとって高カロリーな夜食は珍しいことではないのではないか?」という一抹の不安を抱きながらもピザを口の中に放り込んだ。
End
・【ケーキ】 リック&カール
カールは父と二人、玄関先に立つ。友人との数年ぶりの旅行に出かける母を見送るためだ。
旅行鞄を車のトランクに入れた母は「お土産を楽しみにしててね」と微笑んでから運転席に乗り込み、ゆっくりと車を発進させた。
「母さん、いってらっしゃい!」
「楽しんでおいで!」
カールと父はそれぞれに見送りの言葉を口にしながら車に向かって手を振った。
カールは車が見えなくなるまで手を振り続け、腕が疲れた頃に手を下ろすと隣に立つ父を見上げる。
「父さん、今日は何するの?」
「まずは買い物だ。スーパーに行って今日と明日の分の食材を買おう。俺は簡単なものしか作れないが頑張るよ。」
「僕も手伝う。じゃあ、出かける準備してくるね。」
「頼むぞ、相棒。」
父はそう言ってカールの頭を撫でてくれた。
その手も嬉しいが、「相棒」と呼んでもらえたことがカールには何よりも嬉しかった。保安官として活躍する父の姿は憧れの対象で、そんな彼から「相棒」と呼んでもらえる自分がとても誇らしかった。
出かける準備のために自分の部屋に向かうカールの足取りは軽かった。
スーパーでの買い物を終えた親子は乗ってきた車に乗り、自宅のある方向に向かって走り始めた。
しかし、このまま真っ直ぐ自宅に戻ると思っていたカールの予想は外れることになる。父が運転する車は途中にあるケーキ屋の駐車場に入ったのだ。
そのケーキ屋はカールもよく知っている店だ。カールが生まれるよりも随分と前にオープンしたケーキ屋の評判は良く、この辺りに住んでいる者ならば何度も食べたことがあるだろう。それはグライムズ家も例外ではない。
誰かの誕生日やクリスマスでもないのにケーキ屋に立ち寄ることに疑問符を浮かべるカールに父が車を降りるよう促したので、カールは頭の中を疑問符で埋め尽くしたまま父の言葉に従う。
カールが父と共に店内に足を踏み入れると既に何組もの客がいた。どのケーキにしようか悩む客たちの姿は馴染みの光景だ。
カールが他の客たちの様子を眺めていると肩に父の手が乗せられる。それに釣られて隣を見上げれば、いたずらっぽい笑みを浮かべる彼と目が合った。
「カールの好きなケーキを選んでいいぞ。ちなみに、買うのはワンホールのケーキだ。」
「え!ワンホール⁉」
カールは目を丸くして父とケーキを交互に見た。
今日はカールと父の二人だけだ。それなのにワンホールのケーキを買うのはなぜなのだろう?
カールは戸惑いながら尋ねる。
「今日は誰か来るの?おじいちゃんとおばあちゃんとか、シェーンとか。」
その質問に対して父はゆっくりと首を横に振った。
「誰も来ないよ。俺たち二人だけで大きなケーキを食べたらきっと楽しいと思うんだが、どうだろう?」
カールは父の提案を頭に染み込ませながらショーケースに並ぶケーキを見つめる。
いつもは切り分けられたケーキを一つ食べるだけなので物足りなさを感じていたが、ワンホールを二人で分けるとなれば満足するまで食べることができる。それはカールにとって非常に魅力的なことだ。
カールは父の方に顔を戻して勢い良く頷いた。
「最高のアイディアだよ!お腹いっぱいケーキを食べてみたかったんだ。ありがとう、父さん。」
カールの返事に父は嬉しそうに笑った。
そしてカールは父に軽く押し出されるようにしてショーケースの前に立ち、二人で食べるケーキをじっくりと選ぶ。
ショーケースに並ぶケーキはどれも美味しそうだ。食べたことのあるものを見れば味を思い出して溢れる唾を飲み込み、まだ食べたことのないものはその味を想像するだけでワクワクする。こうなるとケーキを選ぶのは簡単な仕事ではない。真剣にショーケースの中を見つめるカールを微笑ましく見守る大人が父だけではないことを当の本人は気づいていなかった。
時間をかけて選んだカールは父を見上げて意中のケーキを指差す。
「これ。これが食べたい。」
カールが示したのは果物がたくさん乗せられたケーキ。ふわふわのスポンジケーキに程良い甘さの生クリームがたっぷり塗られ、その上に果物が美しく並ぶケーキはカールのお気に入りなので何度も食べたことがあった。
父は「予想通りだった」と笑いながら店員に注文する。
会計が終わって品物を受け取るのを待つ間、カールはワクワクする気持ちを抑えられずにソワソワと体を揺する。その様子を店員や他の客たちが微笑ましげに見ていたことを知っているのはカールの父だけである。
*****
買い物から戻り、カールは父の手伝いをして午前中を過ごした。
昼食後は自分の部屋で遊んでいたが、突然部屋のドアがノックされる。
「入っていいよ。」
カールがそう告げるとドアが開いて父が顔だけを覗かせた。
「カール、もう三時だからティータイムにしよう。お待ちかねのケーキだ。」
「すぐに片づけるから待って!」
カールが遊んでいたおもちゃを慌てて片づけ始めると父は「準備して待ってるよ」と言って去っていった。
おもちゃを片づけ終わってからダイニングルームに行ってみればテーブルの上には既にケーキの入った箱が置かれていた。キッチンでは父が二つのティーカップに紅茶を淹れている。
テーブルにはフォークと皿がなかったのでカールが食器棚からそれらを出そうとすると父の声が飛んでくる。
「皿は出さなくていい。フォークだけ出してくれ。」
「フォークだけ?」
カールは皿に向かって伸ばしかけた手を止めて首を傾げる。
切り分けたケーキを乗せる皿が必要なはずだが、なぜ出さなくていいのだろう?
カールは頭を捻りながらも指示に従って食器棚からフォークだけを取り出して各々の席に置く。カールの席は父の向かい側だ。
そしてカールが自分の椅子に座ったところで父がティーカップを運んできてくれた。
「よし、準備ができたからティータイムを始めよう。」
少し弾んだ声の父は箱からケーキを出して自分とカールの間に置いた。予想した通り、ケーキは切り分けられていない。
カールが戸惑い混じりの視線を父に向けると彼は楽しげな笑みを浮かべる。
「カール、どうやって食べるのかわからないんだろう?」
「うん。切ってないし、お皿もないし、どうするの?」
カールが尋ねると父はフォークを手に取ってこう言った。
「ワンホールのままフォークだけを使って食べるんだ。」
予想外すぎる答えにカールは思わず「えぇ⁉」と声を上げる。
二人で一つのケーキを、しかも切り分けることなくワンホール丸ごとを皿を使わずに食べるだなんて聞いたことがない。同級生の中にもそんな食べ方をした者はいないだろう。
予想外の展開に目を丸くしているカールに父は「俺が学生の頃なんだが」と話し始める。
「シェーンと二人でワンホールのケーキを食べたことがあるんだ。切り分けないで、それぞれにフォークだけを使ってな。ケーキの山を掘りながら食べているみたいで楽しかったし、いつもより美味しく思えた。だからカールともやってみたいと思ったんだよ。」
懐かしそうに目を細める父の顔はとても楽しそうなものだ。
しかし、その楽しそうな笑みが消えて苦笑が浮かぶ。
「俺にとっては楽しいことだったが、行儀が悪いのは確かだ。汚いと感じるのも無理はない。だから嫌なら正直に言ってくれ。一番大切なのは楽しいティータイムにすること。そうだろう?」
カールは自分がどうしたいのかを考える。考えるといっても何分も悩んだりしない。答えはすぐに出た。
カールは口を大きく開けて「やりたい」と父に告げる。
「すごく楽しそうだから僕もやりたい。父さんとシェーンだけ楽しいことをするなんてズルいよ。僕もやる。」
カールの返事に父は心の底から嬉しそうに笑った。その笑顔にカールは自分も笑顔になったのがわかった。
そしてカールはフォークを手に取って構え、準備ができたことを伝えるために父に向かって頷く。それに応えて父が同じように頷き返した。
「じゃあ、早速食べよう。カール、自分が食べたいように食べればいいんだぞ。好きなところから食べていけばいい。」
「うん、わかった。ええっと、それじゃあ……」
カールは少し悩んでからケーキの端をフォークで掬い上げた。遠慮なくスポンジを削ったため、フォークからスポンジと生クリームが少しはみ出している。
カールはフォークに乗ったケーキの塊を見て胸がドキドキした。こんなにも大きな塊を口に入れるのだと思うと妙にワクワクして、楽しさが全身に流れていくようだ。
カールは口を最大限に開けてケーキを口の中に迎え入れた。ケーキを口の中に入れ、その美味しさを味わうカールの目は徐々に見開かれていく。いつもと同じ店で買ったケーキなのに今までで一番美味しく感じたからだ。
カールは一口目のケーキを飲み込むとすぐに二口目のケーキの塊を掘り出して口の中に放り込む。今度は果物を掘り当てたため爽やかな甘さが口の中に広がっていった。
カールは夢中で大きなケーキにフォークを突き立て、甘くて美味しい山を崩していく。頂上に並ぶ果物ごとスポンジを掬うと他のスポンジが少し崩れ、中に潜む果物が顔を覗かせる様子がとても魅力的だった。それを見ただけでますます食欲が湧いてくる。
大きなケーキの塊を口に入れると、はみ出た生クリームが口の端を汚したので思わず舐め取った。流石に行儀が悪かった、と気まずい思いで父に視線を向ければ彼が自分の唇に付いた生クリームを舐める瞬間を目撃することになった。
(父さんもあんなことするんだ)
初めて見る父の仕草にカールは意外さと親近感の両方を抱き、思わず頬が緩んでしまう。
普段は格好良くて頼りになる父にも少し行儀の悪いところがあったのだ。それはカールにとって嫌なことではなく、父への親しみを強くさせるものだった。
カールは小さく笑みを浮かべ、先程までと同じように再びケーキと向き合う。そしてケーキを頬張りながら父に話しかける。
「父さん、いつもより美味しい。それに楽しいね。」
カールの言葉に父が嬉しそうに目を細めた。
「よかった。……そうだ。言い忘れてたが、母さんには内緒だぞ。」
「内緒?どうして?」
「俺たちがこんな食べ方をしたなんて知ったら母さんは引っくり返るさ。だからカールと俺の二人だけの秘密だ。いいな?」
カールは口の中にあったケーキをゴクンと飲み込んで父の顔を見つめる。向かい側に座る父はなんだか楽しそうに笑っている。
この食べ方は楽しいが行儀は悪い。母が知れば驚き、そして自分たちはひどく叱られることになるだろう。それならば黙っておいた方が懸命だ。それに「カールと父の二人だけの秘密」という言葉がとても魅力的に響いた。大好きな父と自分だけの楽しい秘密があるのは悪くないどころか最高だ。
カールは一切の迷いなく首を縦に振った。そうすると父が拳を突き出してくる。
「よし、約束だ。誰にも言うんじゃないぞ。シェーンにもな。」
「あいつに言うとローリにバラされる」と笑う父の拳にカールは己の小さな拳を触れ合わせた。
「約束するよ。だから、また二人だけの時にやろうね。」
「ああ、もちろんだ。これも約束だな。」
カールは父と拳同士を触れ合わせたまま笑顔を浮かべる。
幸せな思い出と楽しい秘密、そして嬉しい約束。それらのおかげで甘くて幸せな気分がカールの心を埋め尽くした。それは目の前のケーキ以上に甘いということは父にも秘密だ。
End
・【肉】 リック&ダリル
ダリルはいつもより少し早めの昼食を終えた後、リックを連れて調達に出た。今回は他の同行者はいない。
そして今現在の二人は住人のいなくなった家の中で物資を探している。ダリルは荒らされた印象のある家の中を探索しながらも、その頭の中にあるのはリックのことだった。最近のリックは畑と家畜の世話にかかりきりで刑務所の外に出ることが少なく、皆との交流も減っていた。
外出が減ったことは問題ではない。忙しいのであれば仕方のないことだろう。ダリルが心配しているのはリックが自分の子どもたちやハーシェル以外の者たちと積極的に関わろうとしなくなっていることだ。
ダリルにはリックがウッドベリーから連れてきた者たちや新たに刑務所の住人として受け入れた者たちだけでなく、付き合いの長い仲間とも距離を置いているように感じられるのだ。現にダリルは最近リックと会話らしい会話をしておらず、挨拶程度しか言葉を交わしていなかった。こちらから話しに行ってもリックは何かと理由を付けて立ち去ってしまうのだが、これはダリルだけでなくグレンやキャロルたちに対しても同じらしい。
ハーシェルは「リックはリーダーとして重責を担ってきたことやローリを喪ったことによるストレスを癒やしている最中だから見守ってやりなさい」と話していたが、だからといって放っておくことはできなかった。孤立してしまいそうなリックを一人にしておけないダリルはリックを調達に連れ出したのだ。
人手が足りないことを理由に同行してもらったが、少し強引だったのではないかとダリルは今更ながらに気にしている。同行を依頼した時のリックの困ったような顔が目に焼きついていた。
(孤立させたくないってのは俺の独りよがりか……)
リックは大勢の仲間たちに囲まれて笑っている方が似合う。一人で畑にいる彼を見るとダリルは胸が痛くて仕方ないのだ。ただ、それはダリルが勝手に胸を痛めているだけの話であり、リック自身は誰にも構われたくない可能性がある。彼のためを思っての行動だったはずが、結局は自分のためでしかないのかもしれない。
そう考えて落ち込みそうになるダリルは目ぼしいものがないリビングルームでの探索を切り上げてキッチンにいるリックのところへ向かった。
キッチンではリックが調理器具や食器を広げて持ち帰るものを吟味している最中だった。ダリルは床に座り込むリックの傍らにしゃがみ込んで彼の顔を横から覗く。
「どうだ?何か良さそうなものはあったか?」
「食料はないが、調理器具や食器の種類はなかなか多いぞ。木製の食器がそれなりの数があるから、食器はそれを持ち帰ろうと思う。」
「ああ、それいいな。落としても割れにくいし。車に運んでおく。」
「ありがとう。その前に見落としがないか見てもらっていいか?」
ダリルはリックからの頼みに頷いて応え、キッチンの中を観察して回る。
引き出しや流しの下の扉を開けて一つずつ見たが残されているものはない。見落としはなさそうだ。
そう考えたダリルはカウンターの隅に並ぶ瓶詰めの存在に気づいた。いくつも並ぶ瓶の中には様々な食材が濁った液体に浸かっていたり、乾燥したハーブが入っているものもある。この家の住人は中身の入った瓶を並べておくのが好きだったようだ。長く放置された結果腐っているため持ち帰ることはできないが、なかなかに興味深い。
ダリルは単純な興味から瓶の群れを眺めていたが、そのうちの一つを見て目を瞠る。ダリルの目に留まったのはスーパーなどで普通に売られているスパイスの瓶だ。世界が変わる前、数えきれないくらいに目にしたラベルのことはしっかりと覚えていた。
それは肉用のスパイスで、肉の旨みを引き出すために様々なハーブがブレンドされている。それだけでなくローストしたニンニクと玉ねぎが混ざっていることにより味に深みが増すのだ。焼いただけの肉を素晴らしいメインディッシュに変えてくれるスパイスはダリルもよく世話になっていた。
ダリルは惹かれるようにスパイスの瓶を手に取ってじっくりと眺める。スパイスは残り少なく、瓶の底の方に少しだけ残っているそれを見ると思わず溜め息が出た。
刑務所に辿り着くまでの旅路における調達での最優先は食料であり、調味料のことなど頭の片隅にもなかった。今までに立ち寄ったところにもこのスパイスはあったのかもしれないが今更どうしようもない。そう考えても実際に目にしてしまうと「このスパイスがないか探せばよかった」と後悔してしまう。
「ダリル、どうした?」
ダリルの様子に異変を感じたリックが近づいてきたのでダリルは振り返ってスパイスの瓶を見せてやる。
「これ。気に入ってよく使ってた。」
ダリルが掲げた瓶を見てリックが目を丸くした。
「知ってる!焼いただけの肉がすごく旨くなるよな。俺も好きなんだ。」
「あんたもか?俺は凝った料理なんか作らねぇから常備してた。こいつさえあれば問題ないからな。」
「持って帰りたいところだが、量が少なすぎるな。持って帰っても仕方ないか。」
そう苦笑するリックの声には残念さが滲んでいる。その声を聞くとダリルもますます残念な気持ちになった。
ダリルは瓶を元の場所に戻そうとしたが、どうしても手が離せない。スパイスの味が舌に甦ったような気がして惜しむ気持ちが消えてくれなかった。
諦めきれずに瓶の中身を見つめていると残りのスパイスの量から小さい肉なら足りることに気づく。大勢ではなく二人分だけであれば何とかなる。そう思ってしまえば食欲が抑えきれなくなった。
ダリルはスパイスの瓶を持ったままリックの顔を見てこう告げる。
「リック、二人分なら足りる。俺たちだけならこいつを使った肉が食えるぞ。」
「たかがスパイス」にしては異様に熱の籠もった声だが、それだけダリルは必死だった。
スパイスの効いた肉の美味しさを思い出してしまった今、このチャンスを逃せば後悔するのは目に見えている。何度も味を思い出しては「どうにかして食べればよかった、持ち帰ればよかった」と悔やむことになるだろう。
ダリルが食い入るようにリックの顔を見つめていると彼はスパイスの瓶に視線を向けた。その顔は少し切羽詰まったように見えた。
そして、リックの喉が大きく上下に動く。
「──参ったな。味を思い出したら食べたくなってきた。」
溜め息混じりに呟いたリックは視線をダリルの顔に移して苦笑する。
「ダリル、今から狩りをしようか?そんなに長い時間は取れないが。」
リックの提案にダリルはニヤリと笑う。堅物に見えて意外とノリの良い彼のこういったところをダリルは気に入っていた。
「俺に任せとけ。あんたは荷物を車に運んでから火を起こす準備をしてくれ。」
「わかった。頼んだぞ。」
互いに頷き合うとすぐに行動を開始する。
たかがスパイス。たかが肉。それでも二人は真剣だ。
*****
運はダリルとリックに味方した。狩りを始めて一時間も経たないうちにウサギを一匹仕留めることができたのだ。
ダリルがリックのところに戻ると彼は持ち帰る荷物を車に運び終えて焚き火に使う小枝を集めていた。ダリルがウサギを捌く間にリックが火を起こし、その火で新鮮な肉をじっくりと焼いていく。
地面に腰を下ろして肉が焼ける様子を二人は黙って見守っていたが、ダリルは心に引っかかっていることをリックに打ち明けると決め、焚き火に注いでいた視線をリックへ移した。
「なあ、リック。……無理に連れてきて悪かった。」
ダリルの謝罪にリックが首を傾げた。謝罪の理由がわからないらしい。
「あんたは一人でいたいのかもしれないが、俺はあんたを放っておけない。リックが孤立してるのを見るのは辛い。だから今日の調達に連れ出したが……あんたの気持ちを無視してるよな、俺。」
「そんな風に思っていたのか……。俺は自分が孤立していると感じたことはない。だから、そんなに心配しなくてもいい。すまなかった。」
リックの気遣わしげな声にダリルは溜め息を吐いて俯く。自分の方が気遣われてしまうなんて情けない。
その時、リックの手がダリルの肩を軽く叩いた。
「顔を上げてくれ。俯いているなんてお前らしくない。」
柔らかな声音に誘われるようにリックの方に顔を向けると彼は穏やかに微笑んでいた。
「心配してくれる気持ちは嬉しいし、お前やみんなのことは今でも大切な家族だと思っている。ただ、俺の中に決断を迫られるのを避けたい気持ちがあって、話しかけられると身構えてしまうんだ。だから無意識にみんなから離れるんだと思う。」
苦笑しながら自分の状態を説明するリックの顔からダリルは一瞬も目を逸らさなかった。
リック一人に重責を背負わせてきたツケが回ってきているのだと思うと罪悪感で胸が苦しくなる。それでもこの苦しみから目を背けてはならない。救いなのはリックが仲間を拒絶したいわけではないということだ。
「ダリル、俺にもう少し時間をくれないか?自分自身とじっくり向き合いたいんだ。」
リックの目は真っ直ぐにダリルを見ている。そのことがダリルは嬉しかった。久しぶりにリックと視線を合わせて話ができたからだ。
ダリルは笑みを浮かべながら頷いて「わかった」と答える。
「俺が一人で焦りすぎた。もっと落ちついてあんたを見守るようにする。悪かったな、リック。」
「お前が謝る必要はないさ。……さあ、この話は終わりにしよう。そろそろ肉が焼けたんじゃないか?」
リックの明るい声に頷き、ダリルは肉が刺さった枝を火から外す。角度を変えながら焼け具合を確認してみたが問題なさそうだ。
「もう食えるな。切り分けるからちょっと待て。」
ダリルは探索した家から持ち出した皿の上で焼けたばかりの肉を二つに切る。
熱々の肉を切るのは少々苦労するが全く苦にならない。肉に刺さったナイフの隙間から漏れ出る肉汁に思わず唾を飲み込むダリルの横ではリックが「良い香りだ」と声を弾ませる。
そして均等に分けられた肉を各自の皿に置き、その肉にリックがスパイスをかけていく。その手つきは振りかけるというよりも丁寧に乗せていくという方が相応しい。まるで宝物のようにスパイスを扱うリックの手元を見つめる自身の目が子どものように輝いていることをダリルは知らなかった。
「──よし、スパイスを使い切ったぞ。冷めないうちに食べよう。」
リックは号令と共にダリルに肉の乗った皿を差し出してきた。ダリルは感謝の言葉を返しながらそれを受け取り、肉を掴んで口に入れようとした。
その時、リックの手にした肉に目が吸い寄せられる。ダリルはリックの肉を見てから自分の肉を改めて見て軽く目を開いた。スパイスの量が自分の肉の方が明らかに多いのだ。
「おい、リック──」
慌てて声をかけようとしたダリルの目の前でリックが自分の肉に噛みつき、肉に噛みついたままダリルを見て「ん?」と首を傾げた。こうなってしまえば肉の交換を申し出てもリックが首を縦に振ることはないだろう。
ダリルは「何でもない」と頭を振ってから自分の手の中にある肉を見下ろす。
(本当にお人好しな奴だな)
心の中だけで呟き、スパイスと共にリックの優しさもかけられた肉に向かって微笑んでから勢い良く齧りついた。
しっかりと焦げ目の付いた肉は柔らかく、噛む度に肉汁が口の中に広がる。その肉汁と混じり合って程良く香るスパイスが食欲をそそった。肉の臭みを消して旨みを際立たせるためのハーブはその効力を発揮し、ハーブの香りと同時に来るニンニクの風味は最高だ。玉ねぎの仄かな甘みが肉の味と合わされば文句なしの美味しさになる。
一口目を食べた瞬間からダリルは肉に夢中になった。それはリックも同じようで、互いに無言のまま肉を頬張っている。
夢中で食べ進め、やがて残り一口程度の量になったところでダリルは深く息を吐いた。
「久しぶり過ぎるせいなのか前より旨く感じる。」
ダリルの意見に同調するようにリックが頷く。
「俺もだ。……ビールが飲みたい。」
ボソッと呟いたリックに向かってダリルはしかめっ面をする。
そして残りの肉を口の中に放り込みながら携帯している布で手の汚れを拭き、立ち上がるとリックの膝を軽く蹴った。
「せっかく言わないでやったのに言うなよな……。俺だってビールがあったら最高だと思ったのに。」
「あ、すまない。」
ダリルからの苦情にリックは苦笑いを返し、最後の一口分の肉を口に入れてから立ち上がった。
ダリルはリックが手の汚れを拭き取っている間に焚き火に土をかけて火を完全に消す。肉を食べ終わったなら後は刑務所に帰るだけだ。
二人揃って車まで戻り、乗り込む前にダリルはリックに呼びかける。
「おい、リック。今回のことは他の奴らには黙っておけよ。」
「わかってる。『二人だけ狡い』なんて恨まれるのは嫌だ。」
ダリルは「それならいい」と頷いてから運転席に乗り込んでエンジンをかける。そしてリックが助手席に座ってドアをきちんと閉めたのを確認してからゆっくりと車を走らせ始めた。
探索を終えた家から遠ざかっていくと、リックが不意に「ダリル、ありがとう」と感謝を口にする。突然の言葉に驚き、チラッとリックの顔を見てみれば彼は柔らかく微笑んでいた。
「懐かしい味を楽しめて嬉しかったし楽しかった。気が向いたらまた調達に誘ってくれ。」
思いがけない申し出に返す言葉が瞬時に浮かばなかった。
ダリルは前方を見つめたまま何を言うべきか考え、少し躊躇いがちに口を開く。
「俺に構われるの、鬱陶しくないか?」
「鬱陶しいなんて思ったこともない。暇な時は畑にも遊びに来てくれ。歓迎する。」
「手伝いが欲しいだけだろ?」
「バレたか。」
そう言って楽しそうに笑い声を上げるリックに釣られてダリルも笑い声を上げる。
リックを調達に誘って良かった。
ダリルは少しの迷いもなくそう思えた。
End
・【フルーツティー】 リック&ニーガン
今日はとても暑い日だった。照りつける太陽に焼かれ、熱を孕む空気にまとわりつかれ、暑さによる喉の渇きに苦しめられた日。そんな日は普段よりも仕事量を抑えて家の中で静かに過ごしたくなる。
しかし、救世主たちに支配されているアレクサンドリアの住人はそんなわけにはいかない。支配者に差し出す物資を集めなければ待ち受けているのは仲間の死だ。町のまとめ役を担うリックも当然休むわけにはいかず、全身から噴き出す汗に顔をしかめながらも打ち捨てられた家々を回って物資を探した。
調達を終え、暑さのせいでいつも以上に疲労を感じながら町に帰れば救世主たちの車が堂々と停まっていた。
「徴収日はまだ先だぞ」という嘆きを心の中だけで零しながら住人の一人にニーガンの所在を尋ね、返ってきた答えに溜め息が漏れる。「ニーガンはリックの家にいる」と言われたのだ。
リックは重い足を引きずりながら我が家に向かい、怒りを堪えながら玄関ドアを開ける。
家に入ればニーガンがダイニングの椅子に座っている姿が見えた。いつも着ている黒の革ジャケットとルシールという愛称のバットをテーブルの上に置き、白のTシャツ姿で本を片手にリラックスする男に改めて怒りが込み上げる。
ニーガンは家の中に入ってきたリックに気づいて顔を上げた。
「よう、リック!こんなクソ暑い日に調達に行くなんて熱心だな。俺のためだと思うと嬉しくて泣けてきそうだ。」
からかうような口調のニーガンは本をテーブルに置いて立ち上がった。そのニーガンの前にリックは立ちはだかるように立って鋭い眼差しを向ける。
「今日は徴収日じゃない。ここに来る必要はないだろう。何しに来た?」
リックは苛立ちを隠さずに問いかけた。その声の鋭さをニーガンが気にした様子はなく、そのことが更に苛立ちを煽った。
ニーガンは自分を睨むリックの視線を無視してキッチンに入り、食器棚からグラスを二つ取り出す。その勝手な行動を咎めるためにリックが名前を呼んでもニーガンは知らん顔で次は冷蔵庫に近づいた。
リックは大股でニーガンの傍に寄ると間近で男の顔を睨み上げる。
「俺の家のものを勝手に使わないでくれ。」
「俺の?」
リックの主張に対して疑問系で返したニーガンの目を見てリックは背筋が寒くなった。
何の感情も浮かばない目が自分を見下ろしている。それなのに薄い笑みを浮かべる男からは確かな威圧を感じた。
自分の発言がニーガンは気に入らないのだと瞬時に悟ったリックは向けられる眼差しから逃れるように俯いた。
「……この家もあんたのものだ。悪かった。」
リックが謝ると「素直なのは良いことだ」とニーガンが柔らかな声を出した。
己の不甲斐なさを噛みしめるリックの目の前でニーガンが冷蔵庫を開けてガラス製のピッチャーを取り出した。その中に入っているのは紅茶と小さく切った果物だ。
リックがピッチャーを見つめながら首を傾げるとニーガンがそれを掲げて得意げに笑う。
「フルーツティーだ。昨日の調達で茶葉が手に入ったから久しぶりに飲みたくなって、せっかくだからリックにも飲ませてやろうと思ったってわけさ。俺が作ったフルーツティーを飲めるなんてお前は運が良い。」
ニーガンはそう言ってウインクを一つ寄こすとピッチャーの中に氷を入れ、それを二つのグラスと一緒にトレーに乗せてダイニングへ移動する。リックは慌てて後を追いかけて「必要ない」と拒否の言葉を口にした。ニーガンから施しを受けるなんてとんでもない。
ニーガンはトレーをダイニングテーブルに置いてからリックを見つめてきた。眉を下げて悲しそうな表情をしているが、それが非常にわざとらしい。
「おいおい、寂しいことを言ってくれるなよ。お前に旨い茶を飲ませてやろうと思って材料を持ってきて作ったんだぜ?毒が入ってるかもしれない、なんて疑ってる?冗談だろ!俺がそんな奴に見えるってのか?」
ニーガンは悲しげな顔で嘆いているが、その目には全く悲しみの色が見えない。むしろ愉悦が浮かんでいることにリックは嫌悪感を抱いた。
──この男は自分を弄んで楽しんでいる。
その確信はリックの心に怒りを生み出したが、それを本人にぶつけることはできない。黙って耐えるしかないのだ。
リックが拳を握って己の中に渦巻く感情を抑えつけていると、ニーガンが顔を寄せて囁く。
「俺の好意を泥塗れの足で踏みつけるなんて失礼なことをする気はないよな、リック?」
覗き込んでくるニーガンの目がギラリと光る。獲物を甚振って楽しむハンターの目だ。
リックは「あんたのは好意じゃなくて押しつけだ」と怒鳴りたい気持ちを堪えて返事をする。
「あんたの好意に感謝する、ニーガン。ありがたく頂こう。」
そう答えた瞬間、ニーガンが勝者の顔で笑った。
ニーガンはリックから体を離すとリックの近くの椅子を指差す。
「リック、そこに座れ。疲れて帰ってきたお前には俺の作ったフルーツティーを飲んでリラックスする権利がある。」
どこか勝ち誇ったように言葉を紡ぐニーガンからリックは視線を外さないまま椅子に座った。自分は腹を立てていること、ニーガンからの施しに屈辱を感じていることを示すために敢えてそうしたのだ。
しかし、ニーガンは鼻歌交じりでグラスにフルーツティーを注いでいるので気づいているのかどうかわからない。
もしかしたら気づいていても「取るに足らないことだ」と無視しているのかもしれない。
そう考えると虚しくなり、リックの口からは重い溜め息が漏れた。
テーブルに乗せたリックの腕の近くにはフルーツティーが注がれたグラスがある。その中身を睨むように見つめるリックの向かい側にはフルーツティーを美味しそうに飲むニーガンがいた。
リックは視線をグラスからピッチャーに移し、眉間に刻まれたしわを深くさせる。
紅茶の中には様々な種類の果物がゴロゴロと沈んでいた。今が旬のものや保存用に乾燥させたものが混ざり合っているため種類も量も多い。これだけの果物を用意できるのはサンクチュアリが食料や物資に困っていない証拠だ。
つまり、ニーガンたち救世主の本拠地であるサンクチュアリは食料や物資が豊富にあり、それだけの量を確保するための人員が揃っているということである。ぎりぎりの人数で調達に駆けずり回るアレクサンドリアよりも圧倒的に力があるのだ。
(ニーガンは俺に力の差を示すためにこんなものを用意したんだろうな)
恐らく労うためなどではない。リックを押さえつけて反抗させないためだろう。
こんなことをしなくても逆らうつもりはないのに、とリックが苦い思いを噛みしめているとニーガンから声をかけられる。
「おい、リック。怖い顔してないで飲めよ。温くなっちまうぞ。」
ニーガンは中身が半分ほどになったグラスを片手に微笑む。
リックは仕方なくグラスを手に取って「一口だけだ」と自分を宥めながらグラスに口を付ける。
しかし、一口だけでは終わらなかった。リックは半分ほどを一気に飲むとグラスから口を離して驚きと感心の両方を抱きながらそれを眺める。
紅茶の上品な風味と果物の甘みが絶妙に合わさって舌に染み込むのだ。氷が溶けて薄まることを考慮して濃い目に作られた紅茶のおかげで「味が薄くてまずい」という結果にならず、果汁と混ざり合って爽やかな味になっている。
リックは半分残っているグラスをテーブルに戻す気になれず、再びフルーツティーを口にした。その様子をニーガンが満足げに見つめていることも知らずにリックはフルーツティーを堪能する。
フルーツティーを口の中に迎え入れると紅茶の風味が先に来て、その後に次々と果物の味がやってくるのが楽しい。甘みがあるのにベタついた感じがないのは砂糖の甘さではなく果物の甘さだからだ。そのおかげでクドさがなく、さっぱりしているのが嬉しい。
程良い甘さと冷たさが疲れた体に染み込む心地良さにリックは思わず吐息を漏らした。
「旨いだろ?」
ニーガンから味について尋ねられ、リックは首を縦に振る他なかった。否定しようがなく美味しかったのだ。
リックは空になったグラスをテーブルに置いてニーガンを真っ直ぐに見つめる。
「美味しかった。だが、こういったことは遠慮してもらえないか?俺だけが良い思いをするのは嫌だ。」
もちろん、リックは自分が良い思いをしているとは感じていない。今回のことはリックへの遠回しな牽制であって贔屓ではない。こうしてニーガンと同じ空間で過ごすのも苦痛だ。
そうであっても「ニーガンがリックにだけ特別なことをしている」という事実に間違いはない。ニーガンが自分のコミュニティーの食材を支配地域の住人であるリックのために使っていることには変わりなく、第三者から見れば立派な特別扱いだ。リックがそれを受け入れることはできない。
これも反抗的な態度だと受け取られてしまうだろうか、とリックが少しだけ不安に思っているとニーガンが目を細めて笑う。機嫌が悪くなった様子はない。
ニーガンが「グラスを寄こせ」と手を差し出してきたのでリックは戸惑いながらも空のグラスを渡す。
「リック、今のは俺の期待通りの反応だ。お前がそういう奴だから俺は安心してお前を特別扱いできる。」
ニーガンは受け取ったグラスにフルーツティーを注ぎながら言葉を続ける。
「気に入ってる奴には少しぐらい特別扱いをしてやりたくなるもんだ。だが、大抵の奴はすぐ調子に乗っちまう。それじゃあ困る。その点、お前は特別扱いされることを嫌うタイプだ。そこがいいね。」
リックは予想外のニーガンの反応に困惑して眉を下げた。
単純に特別扱いが目的だったのだと言われても信じられず、浮かんだ疑問を口にする。
「力の差があることを見せつけるためじゃないのか?」
フルーツティーで満たされたグラスをリックに差し出そうとしたニーガンは目を丸くし、次の瞬間には堪えきれないといった様子で笑い出した。
「リック!全く、お前って奴は最高に面白いな!そんな風に考えるとは思わなかった!」
気の済むまで笑ったニーガンは笑いの余韻を引きずりながらもリックにグラスを渡してくる。リックはそれを受け取ると「ありがとう」と言って口籠った。
ニーガンはテーブルに肘を突いて顎を支え、もう片方の手で自分のグラスを弄ぶ。
そして楽しげに目を輝かせながら言う。
「俺のお気に入りの中で特別扱いしても調子に乗らないのがお前だ、リック。これからも俺の気まぐれを受け入れて俺を満足させるのがお前の仕事さ。そういうわけだから遠慮なく飲め。」
ニーガンの主張を聞いたリックの感想は「やはりニーガンは理解できない相手だ」というもの。
自分のお気に入りの相手に気まぐれで特別扱いをするのがニーガンの趣味ということだろうか?ただ、それをする相手は特別扱いされても調子に乗らない者に限る。
調子に乗らない相手かどうかを考慮してまで誰かを特別扱いしたいだなんて、特別扱いするのはそんなにも楽しいことなのだろうか?
どれだけ考えてみてもリックには理解できないことだった。
(この男の考えを理解するのは無理だな。もう考えるのは止めよう。疲れるだけだ)
リックはそのように結論付けてグラスを口に運ぶ。
フルーツティーを口の中に流し込めば「美味しい」と称するしかないそれが喉を潤していく。二杯目のフルーツティーも美味しい。
大嫌いな男の作ったものなのに美味しいという事実を前にして、リックはこっそりと溜め息を吐くしかなかった。
End