Restart 外出先から戻った時、部屋の出入り口で立ち尽くした回数は何度目になるんだろう?
「ただいま」と言えば「おかえり」と返ってくる日常は過去のものになった。一人暮らしの狭い部屋は色がくすんで見える。「前はメイおばさんの存在が彩りを与えてくれていたんだ」と今さら気づいて苦笑いが漏れた。
後ろ手にドアを閉めてベッドに座り、リュックサックからスマートフォンを取り出して通知をチェックしてみてもメッセージは来ていない。世界中の人の記憶からピーター・パーカーが消え去った今、親しい人たちからの連絡は途絶えてしまった。
あの時の選択を後悔したことはない。みんなを救うために自分で決めたことだから。それがみんなの記憶から自分を消すことだとしても。
悔やむことがあるとすれば、ドクター・ストレンジ──スティーブンに辛そうな顔をさせてしまったこと。僕の頼みを聞いてくれた彼は魔術を使って世界中の人々から僕の記憶を消してくれた。本当に辛いことだったと思う。これも全部、僕が未熟だったせいだ。
MJもネッドもハッピーも他のみんなも、親しかった人たち全員が僕を忘れている。それなら関係を築き直すしかない。僕を思い出すことができないなら、もう一度「初めまして」から始めればいい。前とは違う形になったとしても構わない。今でも僕はみんなのことが大好きなんだから。
ただ、そう考えていても寂しくなる瞬間がある。みんなとの数え切れないほどの思い出は僕一人だけのものになってしまって誰とも共有できない。親しく言葉を交わすことも気安い態度も失われてしまった。そのことが寂しくて、孤独に押し潰されそうになる。
「……だめだ。パトロールに行こう。」
寂しさが膨らんだ時はパトロールに行くことにしている。守るべき人たちや街並みを目にすれば不思議と気分が上向いてくるんだ。
僕は勢いをつけてベッドから立ち上がり、机の上にある手縫いのスパイダーマンスーツを掴む。僕がスパイダーマンだということをハッピーが忘れてしまったから、僕とスターク社を結びつけるものはない。それはつまり、今までのスーツが使えなくなることを意味する。だから手作りのスーツを着て活動しているんだ。これはこれで愛着があるから悪くない。
昨日縫い終えたばかりの新品のスーツを身につければ少しだけ気分が軽くなった。
「いってきます!」
その言葉を言うと同時に窓から外へ飛び出す。頭の中ではメイおばさんの「気をつけてね」と送り出してくれる声が響いた。
*****
屋根や壁を伝って移動しながらパトロールする最中、「ひったくりだ!」と叫ぶ声が聞こえた。声が聞こえてきた方向に移動してみるとバッグを掴んだ男が全力疾走する姿が見える。その男を一人のお年寄りが必死に追いかけているけれど、息切れを起こしてよろけているから追いつくのは無理そうだ。
「僕が捕まえるから無理しないでー!」
僕は被害者のお年寄りに呼びかけながらいろんな場所に跳び移って進む。もう少しでひったくり犯に追いつけそうだ。
ところが、距離がかなり縮まってきたところで犯人が道端に停めてあるバイクに跨った。逃走手段を用意しておいたんだろう。
(まずい!逃げられる!)
バイクで走り出されたら追いつくのが難しくなる。その前に捕まえないと。
今にもバイクで走り出そうとする男に向けてウェブシューターを構えた瞬間、信じられないようなことが起きた。ひったくり犯の跨がるバイクが縮んでおもちゃサイズになったんだ。
僕も驚いたけれど、一番驚いているのはひったくり犯本人。目を丸くして呆然としている。そりゃそうだよね。まさかバイクが縮むなんて誰も思わないから。
……いけない。驚いている場合じゃなかった。
「逃さないぞ!」
男が立ち尽くしているおかげで狙いを定めやすくなり、ウェブシューターから発射された糸は少しの狂いもなく男に命中した。ついでに糸でぐるぐる巻きにしてやれば逃げるのは不可能だ。警察への通報は済んでいるみたいだから僕の仕事はこれでおしまい。
すぐに退散しようと思った時、僕の目の前にいきなり人が現れた。
「うわぁ!」
驚いて思わず声を上げたら相手が慌てて「ごめん!」と謝った。
いきなり登場した相手は全くの初対面じゃない。その人の名前はアントマンと言って、本名はスコット・ラングだ。ドイツの空港では僕が彼を倒して、サノスとの決戦では味方として戦った。トニーの葬儀には彼も参列していたから互いの素顔も知っている。
でも、今の彼に僕の記憶はない。スパイダーマンの正体を知らないままなんだ。
どう対応したらいいのか迷っていると、アントマンが両手を上げて自己紹介を始める。
「驚かせて本当にごめん。怪しい奴じゃないよ。俺はアントマンだ。君とは何回か会ったことがあるけど話したことはなかったよな。よろしく。」
「ああ、えっと、こちらこそよろしく。僕はスパイダーマン……って、それは知ってますよね。……あの、手、下ろしてください。」
僕が促すとアントマンは「ありがとう」と言って両手を下ろした。
「さっきのひったくり犯を捕まえてくれた礼を言いたかったんだ。ひったくる瞬間を見たから急いで追いかけたんだけどさ、バイクで逃げられたら追いつけなかったかもしれない。ありがとな。」
「いえ、お礼を言われるほどじゃ……。もしかしてバイクを縮めたのはあなたですか?」
「ああ、そうだ。逃亡を防ごうと思って。その後すぐに君が糸で犯人を拘束してくれて、連携プレー大成功!って感じだよな。」
ヘルメットの下の顔が見えなくても彼が嬉しそうなのは声から伝わってきた。それに釣られてじんわりと嬉しさが湧いてくる。
「あなたがバイクを縮めてくれなかったら犯人に糸を命中させられなかったかもしれません。ありがとうございました。」
その言葉にアントマンは「そんなことない」と首を横に振った。
「君の戦いぶりは二回しか見てないけど、君ならあいつがバイクで走ってる最中でも糸を命中させたさ。保証するよ。」
そう言って胸を張る彼がなんだかおかしくて笑いが零れた。ああ、久しぶりに「楽しい」と思えた気がする。
すると、アントマンが「嫌じゃなかったら」と話を切り出す。
「俺にドーナツを奢らせてくれない?近くに良さそうな店を見つけたんだ。俺が買ってくるから……うーん、どこがいいかな……あっ、あそこ!あのビルの屋上で待っててくれ!」
彼が指差したのは周りの建物よりも際立って高いビルだった。そのビルを見つめながら考える。
スパイダーマンは「親愛なる隣人」で、その正体は秘密だ。これ以上一緒に過ごせば僕の正体を知られてしまうかもしれない。過去に正体を知られた時の苦い経験が足を竦ませる。どうしたらいいんだろう?
僕が迷っていると、それを察したようにアントマンが僕の肩を軽く叩いた。
「心配いらない。強制はしないよ。それに君のマスクなら口元だけ出すこともできるんじゃないか?俺はヘルメットを外すけど、君は口元だけ出せばいい。どう?」
アントマンの優しい声と手が僕の胸を温めてくれる。一歩踏み出しても大丈夫なんだと思わせてくれる。気づけば「お願いします」という返事が口から滑り落ちていた。
目の前の彼は「よかった!」と喜んでから、もう一度僕の肩を軽く叩く。
「先に行っててくれ。すぐに買ってくる。アレルギーとか食べられないものはあるか?」
「ありません。」
「了解。じゃあ、また後で。」
そう言って片手を上げた彼は一瞬で姿を消した。何か虫みたいなものが飛んでいったような気がするけど、もしかして小さくなったアントマンなんだろうか?
彼の能力については知らないことばかりだ。聞いたら教えてくれるのかな?
僕は浮ついていることを自覚しながら、待ち合わせ場所として指定されたビルを目指して跳んだ。
「ささやかな祝勝会ということで──乾杯!」
二人しかいないビルの屋上にアントマンの陽気な声が響く。フェンスにもたれて座る僕たちはカフェオレで乾杯した。
アントマンは小さくなった状態で羽蟻に乗って屋上まで飛んできた。アントマンとして活動中の移動手段は蟻で、蟻に乗って空を飛ぶのは楽しいらしい。カフェオレとドーナツは大きさを変える機能の付いた特別製の鞄に入れて運んできてくれた。任務の時はいつもその鞄を使っているとも教えてくれた。
口元だけマスクを捲った僕とは違って、アントマンはヘルメットを完全に外して素顔を晒している。これまでに彼の素顔を見た時は笑っていられるような状況じゃなかったから、彼の人懐っこい笑顔は初めて見た。この笑顔を見たら誰もが彼を好きになるんだろうな。
ドーナツを頬張るアントマンの横顔を見つめながら僕もドーナツを齧ると、砂糖と生地の甘さが口いっぱいに広がる。その優しい甘さにホッとした。
「美味しい。」
僕がポツリと漏らした一言をアントマンが拾い、「よかった」と笑みを深めた。
「人助けをした後とか任務の後ってお腹空かない?俺は一緒に頑張ってくれた蟻たちへの労いも兼ねて何か食べることが多いんだ。」
彼はそんな話をしながらドーナツの欠片を屋上の地面に置く。そうすると蟻たちが寄ってきてドーナツの欠片に群がった。
「アントマンさんは蟻を操ることができるんですか?」
「そうだよ。特殊な装置で指示を出すんだけど、蟻は種類によって能力がいろいろだから状況に応じて手伝ってもらう蟻が違うんだ。」
「面白いですね。あっ、他にも聞きたいことがあるんですけど──」
それからしばらくは僕からの質問タイムが続いた。アントマンの能力は興味深いことばかりで次から次へと質問したいことが浮かんできて、聞きたいこと全てが口から飛び出してくる。それでも彼は嫌な顔をしないで僕の質問に丁寧に答えてくれた。
カフェオレとドーナツが胃袋へ消え失せた頃になってようやく僕の質問は終わった。僕ばかり質問してしまったことに今になって申し訳なさが湧いてくる。
気まずさを感じながら「すみませんでした」と謝ると、彼は「何のこと?」と首を傾げた。
「たくさん質問しちゃったから迷惑だったかもしれないと思って……本当にごめんなさい。僕、昔から落ち着きがないんです。」
「なんだ、そんなこと?迷惑なんて思ってないよ。楽しかったから気にしないでくれ。」
明るく笑い飛ばす彼を見て自然と笑みが浮かぶ。この人の隣は居心地が良い。まともに会話をしたのは初めてのはずなのに、昔から付き合いがあるように思える。
その時、アントマンが「俺からも質問」と言って僕の顔を覗き込んできた。
「スパイダーマン、君はかなり若いよな?もしかして十代なのか?」
その問いに僕は答えられなかった。どう答えればいいのかがわからない。
黙り込んでいると近くにある彼の顔に穏やかな笑みが広がった。
「答えたくないなら答えなくていい。無理やり聞き出したいわけじゃないから。俺は君が一人きりで活動しているんじゃないかって心配なんだ。ヒーローとして活動していることを周りに知られたくないと思うのは当然だけど、プレッシャーとかそういうものまで一人で抱え込んでいないか……それを心配してる。若いなら尚更ね。」
優しく語りかけてくる彼の言葉に嘘はないと思う。真っ直ぐに見つめてくる目には誠実さが滲んでいて、本気で僕を心配してくれていることが伝わってくるから。
彼も僕についての記憶を失った人だから全てを打ち明けることはできない。それでも少しだけ、ほんの少しだけ思いを吐き出しても許されるだろうか?
僕は胸に込み上げてくるものを感じながら口を開く。
「……僕の正体を知っていて、支えてくれる人たちがいました。でも全員失ってしまった。僕のせいです。僕の考えが足りなくて、自分が行動した結果がどうなるのか深く考えなかったから。」
そこまで話してから自分の手に視線を落とす。幼い頃よりも大きくなった手。いろんなものを掴むことができるように思っていたけれど、自分で思っていたよりも僕の手は小さかった。そこから零れ落ちていったものは二度と戻らない。
でも、変わらず僕の中にあるものだってある。
「『大いなる力には大いなる責任が伴う』。これは僕の大切な人がくれた言葉です。僕は大事なものをたくさん失ったけど、大切な人たちがくれたものは僕の中に今でも残っているんです。それを守りながら前に進んでいきます。だから僕は大丈夫です。」
視線を上げて、隣に座る彼を見る。そうすると優しい眼差しが返ってきた。「そうか」と頷く彼の表情は穏やかで優しくて、思わず僕の顔にも笑みが浮かぶ。
アントマンは僕の肩を一つ叩いてから立ち上がった。
「君を信じるよ。でも無理はするな。自分を大事にしてくれ。」
思いやりに満ちた言葉に頷きながら僕も立ち上がり、彼と視線を重ねる。
「今日はありがとうございました。お話できて良かったです。」
「俺も。それじゃあ、ここでお別れだ。」
「そういえば、ここには何をしに来たんですか?」
「ちょっと頼まれごとをしてさ。それが終わって帰ろうとしたらひったくりの現場に遭遇したってわけ。戻ってくるのが遅いって叱られる前に帰るよ。」
そう言って明るく笑う彼を見ていたら少し寂しくなってきた。これでお別れなのだと思うと名残惜しくて、もう少しだけ一緒にいたくなる。
でも、彼には帰るべき場所がある。引き留めちゃだめだ。
自分の唇が震えているような気がして、それを隠すためにマスクを下げて口元を隠した時、アントマンが二つに折りたたんだメモ用紙を差し出してきた。
「これ、俺の連絡先。ドーナツを買った時にメモとペンを借りて書いたんだ。受け取ってくれ。」
そう促され、差し出されたメモ用紙を受け取ったものの、彼が僕に連絡先を教える理由がわからなくて戸惑う。
「どうして……」
「俺の自己満足かな。君が誰かに頼りたくなった時や手助けが欲しい時に俺が力になれたら嬉しいってだけさ。……俺には年頃の娘がいるから若者は放っておけないんだ。おじさんのお節介を頭の片隅にでも置いてもらえたら嬉しい。じゃあな。」
彼が一瞬だけ見せた照れ笑いに見惚れている間に彼はヘルメットを装着した。その直後に姿が消えて、蟻が飛び去っていく。
今の出来事が夢の中の出来事のように思えて瞬きを繰り返した。それでも手の中にあるメモ用紙は消えていない。
折りたたまれたメモ用紙を開くとそこには彼の本名と連絡先が載っていた。それだけじゃなく、可愛く描かれた蟻の横の吹き出しには「雑談したい時も気楽にどうぞ!」と書いてあった。
クセのある文字を見つめながら、自分が笑みを抑えられないことに気づく。胸がポカポカと温かくて、嬉しくて幸せで笑みを零さずにいられなかった。
僕は大切なものをたくさん失ったけれど、新たに得られるものもある。アントマンとの再会はその一つだ。これから先もきっと、僕は新しく大切なものを見つけるのだろう。また前みたいに大切なものをたくさん手に入れるのだろう。彼はそのことを教えてくれた。
「……今度、連絡してみよう。友だちになれるかも。」
そう考えるだけで楽しくなってきた。
まずは僕の名前を教えなくちゃ。今の彼はスパイダーマンがピーター・パーカーってことを覚えていないから。
「僕の名前はピーター・パーカーです」と言ってから、その次にはこう伝えよう。「スコットさん、僕と友だちになってください」ってね。
END