雛の巣作り サンクチュアリの長い廊下。リックがこれを見慣れたと感じるようになったのは数ヶ月も前のことだ。
リックがニーガンの番になってから、もうすぐ一年が経とうとしている。その間にアレクサンドリアの土を踏んだことは一度もなく、我が子や仲間たちの顔も見てはいない。
ニーガンはリックがサンクチュアリの外に出ることを絶対に許さなかった。リックの戦闘員としての能力に問題はないというのに「外は危険だから」と内部の管理しか任せようとしない。
その上、監視兼護衛として三名の部下をリックに付けたのだ。ニーガンの部下の中でも能力・人格的に優れた者を付けてくれたのだということは三人と接してみて強く感じた。この三人の人選に関してだけはリックは感謝している。
ニーガンの対応を過保護だと言えばいいのか支配欲の具現と言えばいいのかリックは判断しかねている。ニーガンを憎む気持ちは消えていないが、番になってからニーガンの言動を好意的に捉えるようになった自分にリックは悩んでいた。
三人の部下以外は遠ざけようとするのを「守られている」と思ってしまう。
外に出ることを許可してくれないのは「心配してくれているからだ」と胸がときめく。
体を重ねるたびに「お前は俺のものだ」と囁かれると喜びに胸が震える。
番になってしまえば憎い相手への感情も変化してしまう。その恐ろしさをリックは嫌というほど味わっている。
アレクサンドリアに帰りたい、家族が恋しい。
そう思う気持ちも変わってしまうのだろうか?
そうなる前に解放されることを願うしかないが、余程のことがない限り番は解消されないだろう。死ぬまで解放されることはないと言ってもいいのだ。
リックは小さく溜め息を落としながらニーガンに会うために廊下を進んでいった。
リックがニーガンの部屋に入るとニーガンは着替えの最中だった。
ノックをして入室の許可を得たから部屋に入ったというのに、これではリックが失礼なことをしたようだ。からかわれたのだと悟ったリックは眉根を寄せる。
「出直した方がいいか?」
リックの嫌味にニーガンは楽しげに笑い声を上げた。
「お前なら構わない。俺の裸は見慣れてるだろ?」
ニーガンは脱いだTシャツをベッドの上に放り出し、新しく出したものに着替える。
リックはニーガンから逸らした視線を部屋の中に彷徨わせた。何気なく巡らせた視線はベッドの上に放置されたTシャツに固定される。
ニーガンが脱いだTシャツの存在が無性に気になった。何の変哲もない白いTシャツに興味を持ったことなど一度もないのに、今はそのTシャツに視線と関心を奪われている。
触れたい、とリックは密かに喉を上下させた。
ニーガンが着ているTシャツに触れたことは何度もあるので感触も柔らかさも知っているが、それでも触れたくて仕方ない。
手に取って、抱きしめて、それに鼻を埋めてみたい。
リックは心臓の音が大きくなっていくように感じながらTシャツを凝視する。
「リック、そいつが欲しいのか?」
ニーガンから声をかけられ、Tシャツに向いていた意識が途切れた。
ぎこちなくニーガンに顔を向ければ探るように目を細めてこちらを見ている。
「物欲しそうに見てたぞ。」
「あんたの気のせいだ。」
「そうか?」
ニーガンはニヤニヤと笑いながらTシャツを拾ってリックに近づき、それを目の前に掲げてきた。
「まあ、どっちでもいい。これはお前にやろう。洗って返してくれてもいいけどな。」
そう言ってニーガンはTシャツを床に落とした。床に落ちたTシャツがリックのブーツの爪先に被さったのをリックは身動きせずに見つめる。
屈辱的だ。拾い上げて「こんなものはいらない」と投げつけてやりたい。
リックはTシャツを拾ってニーガンの顔を睨んだ。
しかし、言葉は何一つ出てきてくれなかった。投げ返したいと思うのに体が言うことを聞いてくれない。
リックはニーガンに背を向けてドアの方へ向かう。
「……出直す。また後で来るから。」
声を絞り出すように告げてから部屋を出る。
リックはニーガンのTシャツを胸に抱いたまま自分の部屋を目指した。こんなものを持っていることが恥ずかしくて、誰にも会わずに部屋に戻ることを願いながら足を速める。
運良く誰とも擦れ違わずに部屋に戻るとTシャツを手にしたまま立ち尽くした。
捨ててしまえばいいと思うのに手放すことができない。どうしてもこれを手元に置いておきたい。
リックは自分がどうしてそう思うのか全く見当がつかず、途方に暮れて溜め息を吐いた。
とりあえず保管しておくことに決めたリックは貰ってきたダンボールにTシャツを入れ、ベッドの下に隠すように押し込んだ。
己のテリトリーにニーガンの私物を置くなんてどうかしていると思うが、これをどうするか考えるのは後にして、今はニーガンのところへ行かなければならない。出直すと言った以上、約束を破るわけにはいかないのだから。
リックはドアノブに手をかけたものの、ドアを開けずに振り返って室内に視線を向ける。
「本当に、どうかしているな。」
浮かべた苦笑いは自身に向けてのものだった。
Tシャツを与えられた日からリックの日常には変化が起きていた。それはリックに起きていることではあるが、ニーガンに起きていることだとも言える。
まず、リックに関して言えばニーガンの持ち物を欲しいと思うようになったことだ。
ニーガンが身に付けているものや、ニーガンの部屋にあるものが気になって仕方なく、触れたいと思ってしまう。指を伸ばしそうになったことが何度あるのかわからないくらいだ。
その上、「手元に置いておきたい」と望んでしまう。どうして欲しいと思うのか理由はわからないが、とにかくニーガンの持っているものを自分のものにしてしまいたい。
そんなことを考えているとそれを凝視してしまうらしく、そのたびにニーガンから「そんなに欲しいなら持っていけ」と掌に押し付けられるのだ。
与えられたものは数え切れない。Tシャツ、ベルト、靴下、タオル、ジーンズ……。下着を与えられた時は顔から火が出そうなほどに恥ずかしかったが、それもダンボールに入れて保管してある。
情けなさと恥ずかしさを抱えながらもニーガンの持ち物を欲しいと思ってしまい、与えられたものを返す気にもならない。
リックの溜め息が増えると共にダンボールの中身も増えていくのだ。
ベッドの下のダンボールが満杯になりそうな頃のこと。
リックが自分の部屋で休憩しているとドアがノックされた。
「リック、ダーリンが会いに来たぞ。」
ニーガンのふざけたセリフに顔をしかめながらもリックはドアを開ける。
ドアを開ければニーガンのいつもの笑み。リックはその笑みを見上げながら「何の用だ?」と問う。
その素っ気ない質問にニーガンは肩を竦めながら中に入ってきた。
「お前が寂しがってると思って会いに来たのに素っ気ないな。俺のオメガはなかなか素直になってくれない。」
「……用事があるのか、ないのか。どっちなんだ?」
リックが溜め息混じりに言うとニーガンはリックの顎をすくい、顔を近づけてきた。
間近で目を合わせてもニーガンの考えは読めない。他の人間は目を見れば何を考えているのかある程度わかるのに、この男に限っては全くわからなかった。
何を考えているか読み取れない目をしたニーガンが口を開く。
「お前、そろそろ発情期じゃないか?」
質問を投げかけてきたニーガンの口調はひどく真面目なもので、その顔も常とは異なり笑みがなかった。
いつもと様子の違うニーガンに戸惑いながらもリックは小さく頷いた。自分でも記録を付けているが、部下から「発情期が近いので私室以外では一人にならない方がいい」と忠告されたばかりだった。
納得したように頷き返したニーガンはリックから手を離すと部屋にあるソファーに腰を下ろした。
居座るつもりなのか、とリックが表情を曇らせてもニーガンは全く気にしていないようだ。
その後しばらく、ニーガンはリックの部屋でくつろいでいった。部下の働きぶりを賞賛したり、外出したときの話などを身振り手振りを交えて語っているのだが、リックはそれに対して相づちを打つだけにした。それでもニーガンが楽しそうにしていることがリックには腹立たしい。
ニーガンは一人で勝手にしゃべり倒し、満足するとあっさり部屋から出ていった。しゃべっている途中でジャケットを脱いだことを忘れたのか、ニーガンお気に入りの黒のジャケットがソファーの上に取り残されている。
届けてやらなければ、とリックはジャケットを手に取った。
使い込まれた革はなめらかだ。
いつも身に着けているためか、他の何よりもニーガンの匂いが濃い。
ジャケットに手を這わせるだけで持ち主の存在を強く感じる。
トレードマークとも呼べるジャケットはニーガンの分身のようだ。
リックは頭の中に靄が広がっていくのを自覚しないままニーガンのジャケットを掻き抱く。
ジャケットに頬を寄せて匂いを吸い込むように深く息を吸うと頭の奥が痺れるような気がしたが、それを不快だとは思わない。
(もっと、欲しい)
ニーガンの存在を感じられるものが欲しい。
その欲は強烈なもので、今のリックはそれ以外のことを考えられない。
リックはニーガンのジャケットを抱きしめたままベッドに近づき、ダンボールを引っ張り出して中身を床にぶち撒けた。そして与えられた数々のものを見つめて笑みを浮かべる。
(こんなに、たくさん……全部ニーガンのものだ)
嬉しい、と呟きたくなるほどにリックの胸は喜びで満たされている。
リックは床に座り込み、ニーガンから与えられたものを全て並べることにした。一つ一つ手に取って眺めてから自分の周りに並べていくと徐々にニーガンのものに囲まれていく。それが楽しくて仕方なかった。
じっくり時間をかけて全て並び終えると鳥の巣のようなものが完成した。これは自分を守ってくれる巣なのだと感じたリックは満足げに微笑む。
リックはニーガンのジャケットを抱きしめ直し、目を閉じて深呼吸を繰り返す。
この巣は心地が良い。とても安心する。ずっと、ずっとこうしていたい。
リックはフワフワとした不思議な感覚を味わいながらその場に座り続ける。
自分が心の底から幸せそうに笑んでいることに気づかぬまま。
ーーー 予想通り、いや、予想以上だ。
リックの部屋に静かに足を踏み入れたニーガンは、床に座り込むリックを見て笑みを浮かべる。
自分が与えた様々なものに囲まれて幸せそうに目を閉じているリックは雛のようだ。
ニーガンのオメガとしての成長を続ける美しき雛。
リックは一年ほど前にオメガとしての性に目覚めたばかりだというのに、滅多に見られない『オメガの巣作り』を行うとは驚きだ。自分がリックのオメガとしての本能を引き出しているように思えて、ニーガンは喜びで背筋がゾクゾクした。
ニーガンは自分の脱いだTシャツをリックが凝視しているのを見て『オメガの巣作り』の可能性に気づいた。
「発情期の近いオメガは稀にアルファの衣服などで巣作りをすることがある」という話は有名で、リックにもその兆候が出ているのではないかと考えたのだ。
そこでニーガンはリックに自分の私物を与えることにした。リックが自分の持っている何かを見つめていることに気づいた時は必ずそれを与えた。そうするとリックは恥じるような、戸惑うような表情を浮かべつつも、しっかりとそれを受け取る。その様子を見ているだけでもニーガンはとても楽しかった。
そして、発情期がかなり近づいたことを確認した上でジャケットを与えてみた。自分の匂いが最も染み付いているのはそれだと思ったからだ。
案の定、そのジャケットがスイッチとなってリックは巣作りを行ったというわけだ。
ニーガンはリックの姿を存分に堪能してから名前を呼んでやる。
「リック。……リック、お前の愛しいアルファだぞ。」
優しく呼んでやればリックはゆっくりと目を開けた。その目は幸福に蕩けている。
ニーガンの姿を認めた途端にリックは目を細めて嬉しそうに笑い、「ニーガン」と甘えるように己のアルファの名前を口にする。
その様子にニーガンはクスッと小さく笑みを零し、リックの正面にしゃがんで目を合わせた。
嫌悪と憎しみをぶつけてくるリックは今はいない。それも最近では減ってきていること、そのことを自覚してリックが悩んでいることもニーガンは知っていた。
オメガの本能がアルファに惹かれていることも原因だろうが、リックという人間は情に脆い男だ。リーダーの仮面の下にお人好しの顔を隠して生きてきた男は、共に過ごすうちにニーガンにさえ情を抱き始めている。
そんなところが愛しい、とニーガンはリックの頬を撫でる。
リックに惹かれているのが本能だろうが心だろうが、ニーガンにとってはどうでもいいことだ。リックを手放すつもりは少しもないのだから。
「初めてなのに上手く作れたな。だが、こんなものでお前は満足なのか?」
そう言ってリックの手からジャケットを取って羽織らせてやる。驚いたように瞬きをするリックは己の体を見遣り、自身がニーガンのジャケットに包まれていることを認識すると幸せそうに微笑んだ。
ニーガンはジャケットを羽織ったリックを立ち上がらせて腰を抱き寄せた。
「俺自身で包んでやる。その方が嬉しいだろう、リック?」
その言葉と共に唇にキスを落とすとリックはうっとりしながら頷き、ニーガンの首に両腕を回した。
互いを抱きしめながらキスを交わし、ベッドに倒れ込むとリックが再びニーガンを呼ぶ。潤む瞳に浮かぶのは確かな情欲であり、鼻をくすぐる甘い匂いは発情期のオメガが放つフェロモンだ。リックのフェロモンを感じ取れるのは番となった自分だけなのだと思うと強い優越感がニーガンの胸を満たした。
ニーガンはリックに覆い被さって頬に触れながら囁く。
「発情期が来たみたいだな。傍にいてほしいか?」
ニーガンの言葉にリックは切なげに眉を寄せて頷いた。
「傍にいてくれ。ニーガンが、欲しい。」
発情期でなければ決して聞くことのできないリックの言葉にニーガンの顔が雄のものへと変わる。
自分のジャケットに包まれたリックからそんな可愛らしいことを言われては欲望を抑えることなんてできない。
首に舌を這わせると小さく声を漏らすリックがニーガンには可愛くて仕方なかった。
「今回の発情期は抑制剤はなしだ。いいな?」
有無を言わせぬ響きがあったが、リックは素直に「わかった」と答える。
発情期が終わった時にリックが絶望したとしても関係ない。
自分たちはアルファとオメガであり、番なのだから。
ニーガンは己のオメガを愛でる時間の始まりの合図代わりにリップ音を立ててキスをした。
End