赤い糸の憂鬱 左手の小指同士を繋ぐ赤い糸。
それが見えることを自覚したのは僕が四歳ぐらいの頃。
よく家に遊びに来ていた父さんの親友──シェーンの指から伸びる赤い糸は父さんに繋がっていた。
父さんとシェーンの間に存在する赤い糸に腹を立てた僕は、ある日、父さんに駄々をこねる。
「どうしてシェーンと赤い糸を結んでるの?ずるいよ、僕とも結んで。」
父さんの左手の小指を引っ張りながら訴えると、父さんは困ったように眉を下げた。
「カール、赤い糸なんてないよ。そんなものはどこにもない。」
赤い糸なんてものは存在しない。
そのことを理解した時、苦笑いを浮かべて頭を撫でてくる父さんを見上げながら呆然とするしかなかった。
ハッキリと見える赤い糸が父さんには見えない。よく考えてみれば母さんもシェーンも、他の誰も赤い糸について何も言っていなかった。
その時点でようやく「赤い糸は自分にしか見えていない」と知ることができたわけだ。
それ以来、赤い糸のことは一度も話していない。他の誰かに「赤い糸が見える?」なんて聞いたこともないし、赤い糸で結ばれていると指摘したこともない。
その結果、いろんな人の赤い糸を観察するのは僕の秘密の趣味になった。
観察したことから推測すると、赤い糸で結ばれるのは相手に一番強い感情を向け合う人間同士だと思う。夫婦や恋人同士、親友、ライバルのような関係にある人たちの赤い糸はよく見かけた。時々、嫌い合ってる人たちが赤い糸で繋がっているのも見た。
愛情や友情だけじゃなく、憎しみや怒りみたいな負の感情も該当するらしい。不思議だと思う。
ただ、なぜか血の繋がりのある人間同士だと赤い糸が存在しないんだ。だって、親子や兄弟同士の間に赤い糸を見たことは一度もないし、当然僕と父さんの間にも見えない。……父さんが一番強い感情を抱いたのがシェーンだから、かもしれないけれどね。
そんなわけで、いろんな人の赤い糸を観察するのが日課だった。赤い糸が見えるおかげでグレンとマギーが想い合ってることは誰よりも早く気づけたと思うよ。
だからといって良いことばかりじゃない。知りたくないことを知ってしまう時もある。
父さんがシェーンを殺した後、二人の間にあった赤い糸は切れた。そして赤い糸は切れたまま父さんの指に巻きついて、その色を深い青色に変化させたんだ。
感情を向け合う相手が死ぬと切れた糸が指に残って青い糸になる。それは死んだ相手に囚われたままであることの証拠だ。僕はそういう人を何人も見てきた。
父さんがシェーンに囚われたままでいることを見せつけられるのは辛かったけれど、僕にはどうすることもできなかった。糸は見えるだけで触れることはできないし、人の心を変えることもできない。
父さんの小指に巻きつく青い糸に胸の奥が痛むのを自覚しながら、僕はずっと彼の傍にいた。
青い糸が消えたのは刑務所での暮らしが落ちついてきた頃だったと思う。青い糸も赤い糸もない父さんの左手を見て僕がどれだけ嬉しかったか、それは誰にもわからない。
青い糸が消えたのは父さんがシェーンへの感情に区切りをつけて囚われることをやめたから。
赤い糸が巻きついていないのは父さんが一番強い感情を向けるのが──きっと僕だから。
自惚れだと言われても仕方ないけれど、父さんが一番愛しているのは自分だという自信はある。父さんが誰よりも守りたいと望み、失いたくないと願っているのは僕だ。彼をずっと見つめてきた僕だからわかることなんだ。
父さんの指に赤い糸なんて必要ない。彼が一番強い感情を向ける相手は僕であってほしい。
その思いを強く抱くようになった時、自分が息子としてではなく一人の男として父を愛しているのだと知った。
*****
朝食の席、溜め息が一つ。
向かいの席に座る父さんがフォークを置いた。皿の上には半分しか手の付けられていない野菜のソテーとパンが残されている。
僕はソテーを口に運ぶのをやめて父さんに声をかける。
「まだ半分も残ってるよ。もう食べないの?」
僕の問いに父さんは小さく頷き、皿を持って立ち上がる。
「食欲がないんだ。また後で食べるよ。無駄にはしないから。」
父さんはそう言って微笑むとキッチンに足を向けた。その後ろ姿を見つめながら密かに唇を噛む。
食べ物が無駄になることを咎めたんじゃない。最近、食の細くなった父さんの体が心配なんだ。
ただ、食べる気がしないというのは仕方ないことだとも思う。特に今日は忌まわしい日だから。
──救世主たちによる徴収の日。
「救世主」と名乗る集団の存在を知り、被害に遭う前に奴らの拠点を襲撃し、そして救世主たちの本当の怖さを味わった日から僕たちは悪夢の中に取り残されている。
救世主たちのリーダーのニーガンという男はとんでもなく頭のおかしい奴で、でも恐ろしいほど賢くて、そして圧倒的な支配者だった。
定期的に貢物を差し出さなければ誰かが犠牲になるという理不尽なルールを押しつけられた僕たちは奴らに従うしかなかった。その徴収日が今日で、父さんの食欲不振の原因はどう考えてもそれだ。
憎い相手が我が物顔で町に来るのは憂鬱だけれど、それ以上に僕にとって憂鬱なのはニーガンが父さんに会いに来ること。
僕は出かける準備を始めた父さんの左手に視線を向ける。
(本当に嫌になる。あの、赤い糸)
眉間にしわが寄るのを自覚しながら父さんの左手の小指に巻きつく赤い糸を見つめた。
一度は消えたはずの赤い糸。それがまた現れたのは悪夢の夜だった。
忘れもしないあの夜、姿を現したニーガンの顔に向けた視線が左手に吸い寄せられたのはそこに青い糸が存在していたから。
青い糸は死者に心が囚われている証拠。ニヤケ顔で偉そうにしゃべる男にも忘れられない相手がいることに場違いだけれど笑いたくなった。
ニーガンは青い糸を漂わせながら僕たちの大切な仲間二人をベースボールバットで殴り殺し、僕たちを侮辱し続けた。
そのうちに父さんの前にしゃがんだニーガンに父さんが「必ずお前を殺す」と宣言する声が響いた。その瞬間、僕は信じられないものを見た。
ニーガンの青い糸は赤く染まり、その糸が父さんの左手の小指に絡まった。
錯覚だと思った。だから何度も瞬きをした。それでも二人を結ぶ赤い糸は消えてくれない。
ニーガンが父さんを引きずってキャンピングカーに乗り込み、どこかへ行ってしまった後も僕の目には赤い糸が焼きついていた。
父さんが一番強い感情を向ける相手は僕ではなくニーガンになり、ニーガンが一番強い感情を向ける相手は死んだ誰かではなく父さんになった。その事実を打ち消したくても二人の小指同士を繋ぐ赤い糸がそれを許さない。
二人の間に通う感情が愛情や友情のような優しいものじゃなくても彼らが強烈な感情で結びついたのは確かだ。
つまり、僕はニーガンに父さんを奪われたんだ。
あの日以来、父さんの左手に赤い糸が見える。あの男と父さんを結ぶ糸の存在が憎くて堪らない。その糸を切ってやろうと何度思ったかわからない。
でも、赤い糸に触ることはできないからそんなことは不可能だ。それが悔しさを大きくする。
また見せつけられるのかと思うと気分が塞いで、大きな溜め息が出た。
「カール、大丈夫か?」
心配そうな父さんの声にハッとして顔を上げると気遣いを滲ませた視線が向けられていた。
安心させるために「何でもないよ」と笑ってみても父さんの表情は晴れない。彼は何か言いたげな素振りを見せて、それでも結局は何も言わずに準備を続ける。
その姿を見つめながら、改めて彼をニーガンに会わせたくないと思った。町に来る度にあいつは父さんと二人だけでこの家に引きこもって彼を蹂躙するんだ。父さんは何をされたか話してくれないけれど、父さんを見るニーガンの嫌らしい目を見れば誰だって察するだろう。あの男が父さんに触れる度に全身の血が沸騰しそうなくらいに怒りが湧く。
どうすれば守ってあげられるんだろう?一人で抱え込もうとするあの人の力になるには何をすればいい?
歯がゆさを感じながら視線を父さんの左手に向ける。存在を主張し続ける赤い糸を見ていて、僕はあることを思いついた。
立ち上がって文房具を入れてある引き出しを漁り、赤いマジックペンを取り出す。そのペンを持って父さんに近づくと彼は僕を見て目を瞬かせた。
「父さん、左手を出して。」
「……こうか?」
僕はペンの蓋を外してから差し出された手を取り、小指に巻きつく赤い糸の上から線を引く。糸を辿って線を引けば赤い指輪のようになる。
僕の突然の行動に驚いたのか、父さんは目を丸くして左手を見つめている。その表情が面白くて小さく笑うとしかめ面が返ってきた。
「カール、これは何だ?」
「魔除けのお呪いだよ。」
そう答えながら自分の左手の小指にも彼と同じように赤い線を引く。
「見て。お揃いだよ。僕がいつでも父さんを守るっていうお呪い。」
父さんの顔の前に左手を持っていくと彼の視線がその手に吸い寄せられた。
父さんは僕の左手の小指をじっと見つめてから自分の左手に目を落とし、じっくりと見つめている。
やがて顔を上げた父さんの目は潤んでいたけれど表情は明るかった。
「お前が守ってくれるなら心強いな。」
「うん。魔除けの効果バッチリだよ。」
「ありがとう。嬉しいよ。」
僕たちが笑い合っているところへ玄関のドアを激しく叩く音が響いた。
父さんが表情を引き締めて玄関のドアを開けると、そこには強張った表情のトビンがいた。父さんは厳しい表情で口を開く。
「ニーガンが来たんだな。」
「ああ、来た。」
「ジュディスを教会へ連れて行ってくれ。俺はニーガンのところへ行く。」
「任せてくれ。カールは……」
そう言ってトビンが僕を見たので首を横に振る。この家を離れようとは思わない。
父さんも僕を見て迷うように一瞬口を噤んだけれど「後を頼む」とだけ言って足早に出ていった。
トビンは急いで二階へ上がってジュディスを連れてくると教会へ向かい、家には僕一人が残される。
あんな奴に好き勝手されるのは許さない。
父さんは僕が守るんだと示さなきゃ。
ダイニングの椅子を外に持ち出して背もたれのある方を道路側に向けて玄関ドアの前に置く。そして跨ぐように椅子に座り、背もたれを抱きかかえると道路を睨む。
しばらくするとニーガンの不快な声が聞こえてきた。話の合間に馴れ馴れしく「リック」という名前を口にするのは奴が父さんと一緒にいるからだ。
すぐに二人の姿が見えてきたので僕はニーガンを睨みつける。僕が玄関前を塞いでいるのに気づいたニーガンはバカにしたような笑みを浮かべ、父さんは僕を見て青ざめた。父さんたちは足を止めることなくポーチの階段を上がって僕の前に立った。
父さんが何か言う前にニーガンは彼を制し、一歩前に出て見下ろしてくる。
「よう、kid。パパに対する反抗にしてはやることが小さすぎやしないか?」
ニーガンが下に下ろしていたバットを肩に担ぐと父さんの体が小さく震えた。この男が僕に凶器を振るうのではないかと恐れているんだ。安心させるために顔を少し彼の方に向けて瞬きで「大丈夫だよ」と告げる。
それから顔を正面に戻してニヤけた笑みを浮かべる男を睨みつける。
「徴収に来ただけなら家に入る必要はないだろ。父さんと二人きりになる必要もない。」
「俺は長い時間をかけてここに来てるんだぜ?疲れを癒やすために少しくらい家で休憩したっていいだろ。」
そう言ってウインクを飛ばしてくる男にしかめ面を向けながら「ふざけるな」と返す。
「部下に任せてあんたは来なきゃいい。そうすれば疲れることもないよ。救世主のリーダーが単なる支配地域の人間に会いに来る理由なんてないはずだ。」
その言葉を投げつけてやるとニーガンが目を細めた。
怒ったように見えるけれど何かを探ろうとしているようにも見える。細めた目の奥に宿る光が不気味で、自分の頬を冷や汗が伝うのがわかった。
やがてニーガンは喉の奥で笑うと体を前に折って僕の耳元に顔を近づけてくる。
そして囁くような声量でこう言った。
「リックに俺の存在を刻み込むためってのがここに来る理由だ。お前の望みと同じようなもんさ。」
そう言われた瞬間、頬がカッと熱くなった。
父さんが最も強い感情を向ける相手は自分でありたい。
父さんにとって誰よりも大きな存在でいたい。
父さんの心を僕だけで埋め尽くしてしまいたい。
僕の中に存在する彼への欲望をニーガンに見透かされたことに恥ずかしさと悔しさがこみ上げる。それと同時にニーガンも僕と同じ欲望を父さんに対して抱いていることに怒りが噴き出す。
「お前は父さんに何を望んでるんだよ?お前にとって父さんは何なんだ?」
堪え切れない怒りを吐き出しながら問う。
ニーガンは体勢を元に戻して父さんの隣に並び、左手で彼の腰を抱いた。二人の左手同士が近くなったことで赤い糸が存在感を増したように思えた。
父さんは僕とニーガンの顔を交互に見遣った。戸惑っているのがわかったけれど今はニーガンとの話に集中する。
ニーガンは僕から目を離さないまま口を開く。
「魂ごと奪いたい存在だな。こいつの中を俺で埋め尽くしたい。それだけだ。」
余裕を漂わせながらそう言ったニーガンはバットを肩から下ろし、その先端を僕の顔に突きつけた。
父さんが悲鳴に近い声で「ニーガン!」と呼んでも奴は腕を下ろそうとせずに僕を見ている。その顔から笑みが消えて鋭い眼差しが僕を刺す。
「カール、お前とのおしゃべりは楽しいが、いい加減にそこを退け。俺はお前の大好きなパパとfuckしたいんだ。お前が見たいならこの場でしてもいいんだぜ?」
この男は本気だ。そう感じた。
玄関の前から退かなければ本当に僕の目の前で父さんを犯すだろう。それは僕も父さんも望まないことだから退くという選択しかない。
のろのろと立ち上がり椅子をドアの前から動かして玄関の脇に立つ。そうするとニーガンは満足そうに「後でキャンディーをやろう」と笑った。
父さんを連れて家に入ろうとする奴を僕は「ニーガン」と呼び止めた。
そして呼び止められたことに意外そうな表情をする男を睨み上げる。
「絶対に父さんの中からお前を追い出す。父さんの心にお前の居場所なんてないんだ。」
彼を世界で一番愛し、存在を欲しているのは僕だ。
だから赤い糸なんて断ち切ってやる。
父さんが一番強い感情を向ける相手をお前じゃなくて僕にする。
父さんに赤い糸なんて、いらない。
*****
家の中に入るなり、リックは俺の正面に回って「ニーガン、すまなかった」と謝罪の言葉を口にした。さっきのカールの態度のことを言ってるのはわかってるが、わざと首を傾げてやる。
「カールのことだ。あの子は俺を心配していて……あんたに逆らう気はない。だから許してほしい。」
いつもの不機嫌そうな面はどこへ行ったのやら?
俺に許しを乞うリックは今にも泣きそうなのを必死に堪えている。その姿に俺が嗜虐心をくすぐられているなんて考えもしないんだろう。
「どうしようかな」なんて言いながら奴の頬を撫で、首に指を滑らせれば怯えたように肩が跳ねた。
そんなに可愛い反応をされるとこの後手加減できなくなりそうなんだが、それは黙っておくとしよう。
俺はリックの左手を取って顔に近づけ、その小指に視線を注ぐ。
マジックペンで描かれた赤い線は指輪のように存在感を放つ。カールの左手にも同じような赤い線があったことを思い出して思わず笑みが零れた。
(赤い糸の上に引いたような線だな)
俺とリックを結ぶ赤い糸にピッタリと合わせたような線の引き方を見て、カールも俺と同じく赤い糸の見える人間なのかと疑いを持つ。
もしかしたら本当にそうなのかもしれない。だからあいつは自分とリックの左手の小指に赤いマジックペンで線を引いたのだと考えれば納得がいく。
リックは自分のものなのだと俺に示すために。
「お前も苦労するな、リック。」
「何の話だ?」
訝しげに眉を寄せるリックに答えを教えることはせずに小指の赤い線の上にキスを落とす。
自分の息子が家族としてではなく一人の男として自分を愛していると知ったなら、この男はどうするだろうか?
カールが煮えたぎるように熱い欲望を腹の底に抱え、他の男に嫉妬の炎を燃やしているなんてリックはこれっぽっちも思っていない。それを知った時の顔を見てみたい気もするが、俺から教えるのはやめておこう。それが勇敢な挑戦者への敬意ってもんだ。
ルシールを持ったままリックの腰を抱いてその体を引き寄せると俺たちの顔はグッと近くなった。
「リック、お前は俺のものだ。」
ゆっくりと告げればリックは顔を逸らした。
「わかってる。」
「いいや、わかってないね。お前はまだ理解できてない。」
俺はリックの顎を掴んで顔をこっちに向かせた。戸惑いと怯えに揺れる瞳が俺を映し出す様子が美しい。
初めて会った夜と同じ、美しい瞳だ。
その瞳を見つめながらリックの頭に染み込ませるように呪いの言葉を紡ぐ。
「お前の肉体も、心も、魂も、感情も、その全てが俺のものだ。お前の全ては俺の方に向いてなきゃならない。憎しみも怒りも殺意も絶望も何もかもが俺のもの。それ以外は許さない。」
リック、あの夜に俺たちの左手の小指が赤い糸で結ばれた瞬間、俺がどれだけ嬉しかったかお前は知らない。
美しく彩られた赤い糸に背筋が震えるほどの喜びを感じたことをお前は知らない。
ルシールを喪って誰とも結ばれることのない青い糸と共に生きてきた俺が再び赤い糸を得た意味を、お前は何も知らないんだ。
「俺からお前を奪うなんて誰にもさせない。お前の息子でもな。」
その言葉にリックが何か言おうと口を開き切る前に唇で塞ぐ。
カールは優秀な少年だ。見込みがあるし、将来はきっと良い男になる。個人的に彼は好きだ。
だが、リックに関しては別だ。カールが全力で俺からリックを奪おうとするなら俺は全力でそれを跳ね返す。俺からリックを奪える可能性が唯一あるのは彼だからだ。
リックの存在を──魂を世界で一番求めているのは俺だ。カールじゃない、俺なんだ。
だから、この赤い糸を永遠のものにしてみせる。
俺たちの赤い糸は、切れない。
End