家族写真 救世主たちを乗せた車がアレクサンドリアの門を出て遠ざかっていく。その光景を眺めながらリックはホッと安堵の息を吐いた。
今日は徴収日だった。差し出す物資はかき集めてどうにか用意できた程度なので余裕はなく、次回までに必要な量を集められるか不安は残る。それでも今日を乗り切れたことを喜びたい。
リックは救世主の車が完全に見えなくなってから門を閉じて自宅へと足を向ける。
家に戻ると最初に行ったのはニーガンが飲食のために使った食器の片付けだ。救世主たちを率いて一帯を恐怖で支配する男はリックの家で過ごすことを好み、まるで家主のようにくつろいでいく。それは徴収日だけでなく気まぐれにアレクサンドリアを訪れた時も同じで、リックは三日前にもニーガンをもてなしたのだ。
リックは食器を洗いながらニーガンと過ごした時間を振り返って深々と溜め息を吐く。ニーガンはいつも話し相手にリックを指名する。ニーガンと一緒に過ごすだけでもストレスが溜まるというのに、あの男はリックを苛立たせるようなことばかりを言うのだ。それによりストレスが倍増するので調達に出かけた時以上に疲れを感じる。
リックは食器を洗い終えると二階へ向かった。疲れがひどいので少し休みたかった。
自分の部屋に入って何気なく周囲に目を遣った時、リックは違和感を覚えた。違和感の正体を掴むために注意深く部屋の中を見回して驚愕に目を見開く。
「写真立てがない!」
リックはチェストの上に写真立てを飾っていた。それにはアーロンが撮ってくれた親子三人の写真が入れてあり、とても大切にしていたのだ。その写真立てがいつも置いてあった場所から消えていることにリックはショックを受けて呆然とする。
その時、階下からカールの「ただいま」という声が聞こえてきたため、リックは急いで一階へ向かった。
救世主が来る前にジュディスを連れて教会に避難していたカールは父の姿を認めると無事を喜ぶように微笑む。
「ただいま、父さん。ジュディスはあいつらと関わってないから大丈夫だよ。」
カールの腕に抱かれているジュディスはご機嫌な様子で笑っていた。リックはそのことに安堵しつつもカールに質問する。
「カール、俺の部屋に置いてあった写真立てがどこにあるか知らないか?」
その質問にカールは怪訝そうな顔をした。
「僕たち三人で撮ってもらった写真を入れた写真立てのこと?僕は触ってないけど、なくなったの?」
返ってきた答えにリックは眉間にしわを刻む。カールが知らないのであれば写真立ての行方を知っていそうな人物は一人だけだ。
「朝はいつもの場所にあったのに、今はないんだ。……きっとニーガンの仕業だろう。」
「でも、どうして僕たちの写真なんか持っていくの?あいつにとっては何の価値もないじゃないか。」
困惑気味に首を傾げるカールに「嫌がらせだ」と返すと納得したように頷く。
「あの男は俺を困らせたり苛立たせるのが好きみたいだからな。嫌がらせに決まってる。」
「それなら納得。……父さん、どうするの?返せって言うの?」
カールからの問いかけにリックはしっかりと首を縦に振った。
今の世界では写真も貴重品といえる。親子で撮った写真はリックにとって宝物なので何が何でも取り返したい。
リックは表情を曇らせるカールの肩を叩いて「大丈夫だ」と小さく笑みを作った。
「ニーガンは俺がお願いする姿を見て優越感に浸りたいのさ。俺が我慢して頼み込めば返してもらえる。心配するな。」
「でも、父さん──」
「カール、いいんだ。俺にとってあの写真は宝物だから取り戻したい。そのためなら我慢できる。」
リックがそのように言い切ればカールから反論はなかった。カールは苦笑しながらも頷き、ジュディスを彼女の部屋に戻すために階段を上っていった。
リックは子どもたちを見送ると拳を握って視線を足元に落とした。
(奴は写真立てがないことに気づいた俺の反応を一日でも早く知りたいはずだから、次に来るのは二日か三日後だろう)
そのように考えるとニーガンという男の底意地の悪さに怒りと嫌悪が増す。その怒りと嫌悪を堪えて写真立てを返してもらうように頼まなければならないのかと思うと憂鬱になる。
リックはキリキリと痛み始めた胃の辺りを撫でながら溜め息を飲み込んだ。
******
リックが予想した通り、ニーガンは徴収日の二日後にアレクサンドリアの門の前に現れた。
ニーガンは門を開けるリックを見つめたままニヤニヤと笑っている。その笑みを見ているだけで顔を殴りつけたくなった。
門が開くとニーガンは抱擁を求めるように両腕を広げて近づいてくる。
「よう、リック。今日も良い天気だな。俺たちの再会を空も喜んでるみたいだと思わないか?」
まるで親しい友人のような態度のニーガンにリックは背を向ける。
「俺の家に来るんだろう?今日は赤ワインしかない。」
背後にニーガンの気配を感じながら事務的に告げると「気にするな」と声が聞こえた。
「赤ワインも好きだから問題ない。まあ結局のところ、お前の顔を見ながら飲む酒は何でも旨いんだぜ、リック。」
嘲笑うように告げられた言葉にリックは苛立ち、奥歯を噛む力を強めた。そうしなければ苛立ちを怒鳴り声に変えてしまいそうだった。
無言で歩くリックの後ろを付いてくるニーガンは口笛を吹き始める。その楽しげな音色はリックにとって単なる雑音でしかなかった。
リックはニーガンを連れて自宅に戻ると用意しておいたワインボトルとワイングラスをダイニングテーブルに置き、ニーガンが手にしたワイングラスに赤ワインを注いでやった。
ニーガンはワイングラスが美しく輝く赤ワインで満たされたのを満足げに眺めてからテーブルに浅く腰掛けた。「椅子があるんだからテーブルに座るな」と注意したくなるが、注意したところでそれを受け入れるような男ではない。
リックは小さく息を吐いて気持ちを落ち着けてから話を切り出す。
「ニーガン、この前の徴収の時に俺の寝室から写真立てを持っていかなかったか?」
ニーガンは赤ワインに口を付けながら「写真立て?」と視線だけをこちらに寄越した。
「俺とカール、ジュディスの三人で撮った写真が入っている。寝室のチェストの上に飾っていた。」
「ああ、あれなら俺が持ってる。俺の部屋に飾ってみたんだが、なかなか良いぞ。」
「自分が持っている」とあっさり答えたニーガンに対して瞬間的に殺意が沸いたが、それを抑えて返還を要求する。
「何が目的で持って行ったのかはどうでもいい。写真を返してほしいだけだ。俺にとっては大切な写真だが、あんたにとっては何の価値もないものだろう?お願いだ、返してくれ。」
リックは必死に写真の返還を訴えた。それでもニーガンは何も言わずに酒の味を楽しんでいる。何も答えを返そうとしないニーガンを凝視したままリックは待った。
やがて、ワイングラスの中身を飲み干したニーガンがゆっくりと顔をこちらに向けた。その顔に浮かぶ笑みからは感情を読み取ることはできない。
リックはニーガンの唇が動き出す様子を睨むように見つめた。
「そんなに睨むなよ。で、答えだが──却下だ。」
「ニーガン!」
リックが懇願と非難を込めて名前を呼ぶとニーガンは自身の唇に人差し指を当てて「黙って聞け」と微笑む。
「俺はあの写真を気に入ってる。お前たちが幸せそうに笑ってる顔なんてレアだし、何より良い家族写真だ。そうなると俺にとって価値のあるものってことになる。だから返さない。わかるか?」
そのように言われてしまっては返す言葉がない。
ニーガンにとって価値があり、所有を希望するのであれば差し出すしかない。それがリックにとって大切なものであっても逆らうことは許されない。「返せ」と要求し続けた末に仲間の命を奪われることになってはならないのだ。
リックが項垂れて「わかった」と答えるとニーガンはワイングラスをダイニングテーブルの上に置き、そこから離れた。そのまま歩き出したニーガンは玄関に向かう。
「今日はもう帰るのだろうか?」と思ったが、ニーガンは外で見張りをしている救世主に指示を出すために玄関ドアを開けただけのようだ。救世主はニーガンの言葉に頷くとどこかへ去っていった。
五分ほど経つと、先程の救世主が戻ってきて「準備ができました」とニーガンに声をかける。
「リック、外へ出ろ。」
促されるまま家の外へ出れば、家の前にはジュディスを抱き上げて顔を強張らせたカールが待っていた。子どもたちの姿を見てリックは驚く。二人は教会でゲイブリエルと共にいるはずだ。
リックは隣に並んだニーガンを睨む。
「子どもたちは放っておいてくれ。あんたの相手をするのは俺一人で十分だろう。」
怒りを滲ませるリックの肩を抱いてニーガンはニッと笑った。
「家族写真を撮るなら子どもたちも必要だ。だから呼んでこさせた。」
「家族写真?何の話だ?」
リックが訝しげに問うと、ニーガンは己の部下を指差す。その救世主の手にはポラロイドカメラがあった。
「あれで写真を撮る。家族写真がなくなってお前が寂しがるから、新しい家族写真を撮ろうと思ったんだ。良い考えだろ?」
ニーガンから返ってきた言葉にリックの口は半開きになった。驚きと呆れで言い返す言葉が浮かばない。
リックにとって大切で取り返したいと望むのは「アーロンが撮ってくれた家族写真」だ。「ニーガンによって強制された家族写真」など欲しくもない。
どのように断ればいいのかをリックが考えている目の前でニーガンが子どもたちを手招きする。
「カール、ジュディス、こっちに来い。家族写真を撮るぞ。」
父を半ば人質に取られたようなカールは命令に逆らえず、嫌悪を丸出しにニーガンを睨みつけながら近づいてきた。
ニーガンは「俺とリックの前に立て」とカールに指示を出し、カールはそれに従ってリックとニーガンの前に立った。カールの立ち位置が決まるとニーガンは救世主の方に顔を向ける。
「おい、俺とリックの顔は隠れてないか?」
その問いにポラロイドカメラを持つ救世主が「問題ありません」と返す。ニーガンはそれに対して満足したように一つ頷いてからリックを見た。
「リック、お前はカールの肩に手を置け。その方が良い感じの家族写真になる。」
その言葉にリックは目を瞠ったままニーガンを見つめ返した。
影になっているせいでニーガンの目が真っ黒に見える。その底なしの暗さに背筋がゾッとする。
リックは緊張のせいで渇いた喉を潤すために唾を飲み込んだ。
「──俺たち親子とニーガンの四人で、家族写真を撮るのか?」
リックは自ら放った言葉の悍ましさに一瞬だけ体を震わせる。ニーガンはそれを気にした素振りもなく微笑んだ。
「俺たちは家族も同然。そうだろう、リック。」
決して重たい口調ではなかった。軽い口調で、さらりと言われただけだ。それなのに絡みついてくる執着がひどく重い。
リックは言葉を失い、纏わりつく視線から逃れるように顔を正面に向けた。視線の先にはポラロイドカメラを構えた救世主がいた。向けられたレンズを不気味だと感じた瞬間にニーガンの明るい声が響く。
「よし、準備できた!撮る時は合図しろよ。」
リックは己の肩を抱くニーガンの手の力が強まったのを感じながらポラロイドカメラのレンズを見つめた。他のことは何も考えたくなかった。
カウントダウンする救世主の声がどこか遠くに聞こえ、写真撮影はあっという間に終わった。
しかし、その数秒で何かが決定的に変わってしまったような──リックはそんな気がした。
******
ニーガンが帰った後。
リックは自宅の冷蔵庫の正面に立ち尽くして扉を見つめたまま動けないでいた。
冷蔵庫の扉にはマグネットで留められた「家族写真」がある。写真には幼い妹を抱き上げて硬い表情を見せるカールと、自分を抱き上げる兄とは対照的に弾けるような笑顔のジュディスが写っている。その二人の後ろに立つリックは息子の肩に手を置いているが、その顔は無表情だ。そして、そのリックの肩を抱いて笑っているのはニーガン。異物であるはずの男が「家族写真」に収まっている。
ニーガンは四人で撮った「家族写真」を冷蔵庫に貼って「絶対に剥がすなよ」と言い含めてから帰っていった。その機嫌が良かったことは言うまでもない。
結局、リックが返還を求めた家族写真は返ってこなかった。代わりに与えられたのは歪な「家族写真」だ。「こんなものは破り捨ててしまいたい」と写真に伸ばされた指は中途半端な位置で止まり、やがてノロノロと引っ込められた。
リックは改めて写真を眺めてみる。歪だ。ニーガンという異物が混ざっているせいで歪な「家族写真」になってしまっている。
しかし、写真に写るニーガンの笑みを見ていると「これが正しい姿なのだ」と受け入れなければいけないような気がしてくる。そんなはずはないのに、憎い男を家族として迎え入れなければならないと思いそうになる。
リックは頭を振って「そんなことはない」と脳裏に過った考えを追い払おうとする。
まるで写真に囚われてしまったようだ。「こうあるべきだ」と植え付けられて、この写真から抜け出せなくなってしまいそうで恐ろしい。リックは小さく呻いて両手で顔を覆う。
そんな風に苦悩し続けるリックを「家族写真」に写る四人が見つめていた。
END