夢の残骸 人間の見る夢には種類がある。
自分が夢を見ていると気づかない夢と、自分が夢の中にいると自覚する夢。俺が今見ている夢は後者だ。
俺はリックの家のダイニングにいて、皿の並んだテーブルの前に座っていた。前にカールにスパゲッティを食べさせてやった時と同じ席に座っているせいで、あの日のことが一瞬頭を過ぎる。
「どうしてこんな夢を?」と思考の海に沈みかけたが、近くに気配を感じてそっちに顔を向ける。
気配のする方……斜め左を見れば手前の空席の隣に少女が座っている。七歳ぐらいに見える少女は長く伸びた髪が印象的だった。
彼女はジュディスだ。本人に確かめるまでもなく俺はそう確信した。
少女は俺に顔を向けるとニコッと笑った。
「お腹空いたね、おじさん。」
親しげに笑う彼女に戸惑いながらも「そうだな、腹ぺこだ」と頷く。
そこへパンの入ったかごを持ったカールが現れた。その顔を見て俺は目を見開く。彼の顔に包帯はなく、そこには美しい両目が存在していたからだ。
カールはかごをテーブルに置いてから少女の隣の席に座り、その小さな額を突っついた。
「お腹が空いたなら僕たちの手伝いをしなよ、ジュディス。父さんと僕がスパゲッティもパンも作ったんだぞ。」
兄が呆れたように言った言葉に妹は無邪気に笑いながら「えへへ、ごめんなさい」と謝った。
「やっぱりこの子はジュディスなのか」と思いながら兄妹のやり取りを眺めていると、トマトソースの美味そうな香りが鼻をくすぐる。
その香りに導かれるように振り向けば予想通りの相手が立っていた。リックだ。
トマトソースを絡めたパスタが盛られた大皿を持って現れたリックはジュディスに声をかける。
「ジュディスは食べ終わったら皿洗いをしてくれ。ニーガンおじさんと一緒にな。」
「はーい。」
素直に返事をするジュディスを微笑ましそうに見ていたリックが今度は俺に顔を向けた。怒りも憎しみも浮かんでいない目に釘付けになる。
「で、ジュディスは快く引き受けてくれたがあんたはどうなんだ?ニーガンおじさん。」
リックがからかうような口調で俺に話しかけたことはない。そのことが「これは夢なんだ」と更に実感させる。
夢の中なんだから思うように振る舞えばいいじゃないか。
そう思った俺は「わかったよ、パパ」と答えてニヤリと笑ってみせた。
「やったね、父さん。後片付けは二人に任せて僕と父さんは散歩に行こうよ。」
弾んだ声のカールにジュディスが不満を訴えるのを聞きながら俺はリックの手から大皿を受け取り、テーブルの真ん中に置いた。まだ湯気の立つスパゲッティはとても美味そうだ。
両手が空になったリックは俺の右側の椅子に座った。それは以前、俺がルシールを座らせた椅子だ。
そのリックの隣の席には写真が飾られている。その写真の中ではルシールが幸せそうに笑っていて、リックたちと彼女が揃っていることに胸がいっぱいになった。
喉の奥に熱い何かが詰まっているようで言葉が出てこない。そんな俺に三人の視線が集まった。
「さあ、食事にしよう、ニーガン。」
リックがそう言って朗らかに笑った。
カールとジュディスの笑顔に一つの負の感情も見当たらなかった。
写真の中のルシールの笑顔も変わらない。
だから俺も自然と笑顔になった。
*****
目を開けると冷たい印象を抱かせる床と壁が目に映った。
ベッドから体を引き剥がすように身を起こし、硬いベッドの縁に座ってヒンヤリした床に両足を着地させる。そうすることで薄暗い独房を見渡すことができた。
温かな夢から醒めれば寒々しい現実が待っている。
そのことは理解しているはずなのに心がズシッと重くなるのを自覚して苦笑いが漏れた。
視線を落として掌を見てみる。夢の中ではスパゲッティで温められた大皿の感触をハッキリと感じたのに、それが遠いことのように思えた。三人の明るい笑い声を確かに耳にしたのに、今では幻聴のようにあやふやだ。
わかってる。わかってるさ。
カールはとっくの昔に死んだ。出会ったばかりの他人を救って死人に噛まれた。「カールが死んだ」と俺に教えたのは彼の父親であるリックだ。
そのリックも、死んだ。
「……俺が誰かに殺される方が先だと思ったぜ。」
リックが俺よりも先に死ぬことはないだろうと勝手に思い込んでいた。
だから何日経っても姿を見せないからといって「リックは死んだかもしれない」なんて考えもしなかった。
一人で責任を抱え込んで走り回っているんだとしか思わなかった。
そんな俺がリックの死を知らされたのは昨日だった。
『リックは死んだ。』
俺のところへ来た神父──ゲイブリエルは疲れきった顔でそう告げた。悲しんで悲しんで、悲しみ抜いた疲れなんだろう。
だが、そんなことは俺には関係ない。奴がどんな状態だとしても知りたいことを知るために問い詰めるだけだ。
『いつ死んだ?』
その質問には「四日前」という答えが返ってきた。
四日。四日も前だとさ。俺はその間、来るはずのない男を待っていたわけだ。そう考えたら腹が立って仕方なかった。
俺は鉄格子にぎりぎりまで近づくと奴を睨みつけた。
『どうして死んだ?』
『それは……』
ゲイブリエルは苦しそうに顔を歪めると拳を震わせた。
苛立ちを抑えられなくなった俺は奴を怒鳴りつける。
『言えよ!俺はリックが死んだ理由を教えろって言ってるんだ!』
『──私たちのためだ!』
俺が怒鳴るとゲイブリエルも感情を爆発させるように叫んだ。
数秒の静寂の後、ゲイブリエルが「すまない」と謝ってきた。
その弱々しい声に罪悪感にも似た苦味が込み上げ、俺は目の前の男から顔を逸らす。
『リックは、ウォーカーの群れが町に向かわないように、建設中の橋へ誘導した。……彼一人で。だが、橋は群れの重さでは壊れてくれなかった。だからリックは……自分が巻き込まれることを承知で橋を、爆発させたんだ。』
ゲイブリエルは途中で何度も言葉を詰まらせた。泣きそうになるのを堪えていたんだろう。
俺はゲイブリエルから目を逸らしたまま奴の言葉を脳みそに染み込ませる。
「大事な仲間を守るために自分一人が犠牲になる」のはリックの性格を考えればちっとも不思議じゃない。
仲間が無事ならリックに悔いはないだろう。誰のことも恨まないし、寧ろ嘆き悲しむ奴らに向かって微笑むことすらしそうだ。リックの気持ちを汲もうとするなら冥福を祈るだけにしておいた方が良いのかもしれない。
だが、俺はそうじゃない。心の奥底から怒りが滲み出るのを感じる。
俺は怒りを吐き出したくて頭に浮かんだことを目の前の男にぶつける。
『お前らはタマなしの役立たずばっかりだ。偉そうに説教を垂れやがったくせに、リック一人救えもしない。』
そう吐き捨ててゲイブリエルを睨みつければ奴は萎びた顔で再び「すまない」と謝った。
それでも俺の怒りは治まらない。腹が立って腹が立って、どうしようもない怒りが腹の底で渦巻く。
だが、一番腹が立つのはリックのお仲間になんかじゃない。
『くそったれ!こんなところに居て肝心な時に何もできなかった俺が一番の役立たずじゃねぇか!』
怒りと一緒に目の前の鉄格子に拳を叩きつける。
派手な音にゲイブリエルは一瞬怯えたが、一歩近づいてきて「止すんだ」と呼びかけてきた。
『ニーガン、自分を責め過ぎてはいけない。神が救えなかった者は誰にも救えない。』
何だ、その理論。
「笑えねぇな」と思うのに蔑むような笑みが浮かぶのを自覚する。
俺は笑みを浮かべたまま鉄格子を掴んだ。
『下手くそな慰めなら必要ない。犬の餌にでもしておけ。いいか、神は誰も救わない。人間を救えるのは人間だけだ。……リックはバカだな。俺をここから出しておけば良かったのに。』
一気に疲れた気がして溜め息を吐く。
足を引きずるようにしてベッドに向かい、腰を下ろしてもう一度ゲイブリエルを見た。ガキみたいに泣きそうな顔をしている奴にこれ以上きついことを言う気にはならなかった。
泣きそうな顔を見るのも嫌になって視線を床に落としたが、一つだけ疑問を投げかける。
『どうして今日になって俺に知らせた?』
返事はすぐには返ってこなかった。
少しの沈黙の後、深呼吸する音が聞こえた。
『本当はすぐに知らせたかった。だが、反対する人が少なくなかった。』
『リックが死んだことを知った俺がとんでもないことを企てるんじゃないかって?』
『ああ、そうだ。反対する人々を説得するのに時間がかかったから今日になってしまって……すまない。』
心の底から申し訳なさそうにしているゲイブリエルに苦笑が漏れた。
俺とアレクサンドリアとの間にあったことを考えれば、ここの住人たちが俺を警戒するのは当たり前だ。それぐらいの警戒心がなけりゃ困る。
『謝るな。知らせてくれて礼を言う。』
そう言うとゲイブリエルは首を横に振った。
『礼を言う必要はない。人が死んだ時、その人に関わった全ての人が故人を思い、悼む権利を持つ。それに例外はない。私はそう思っただけだ。』
穏やかな口調で話すゲイブリエルは今までで一番神父らしく思えた。
素直に頷くことができたのは、そのせいだったのかもしれない。
昨日のゲイブリエルとのやり取りを思い出すと胸の奥が苦しくなる。
リックの死を知らされてから、俺はそのことだけを考え続けてきた。
あいつと俺は友だちじゃない。支配する側と支配される側で、殺し合いもした。宿敵と呼ぶのが一番似合う。
それなのに俺はバカでかい喪失感を抱えてる。その証拠がさっき見た夢だ。
俺は彼らが恋しい。
「冗談じゃないぞ、リック。何でお前たちを恋しがらなきゃならないんだ。」
情けない声が出て、思わず目を閉じる。そうすると心の底にある本音が顔を覗かせた。
リックとカールに俺のやり方を理解してほしかった。
リックとカールに俺の考え方を理解してほしかった。
リックとカールに俺の描く世界を理解してほしかった。
俺の隣にいて、俺が築き上げる世界を見届けてほしかったんだ。
だが、他にも望んでいたことがある。それは到底叶うことのない夢だ。夢の、そのまた夢。
「間抜けな親子だ。俺の許可なく勝手に死にやがって。」
溢れた涙が頬を伝って、伸びっぱなしの髭に染み込む。
段々と水分を含んでいく髭なんかどうでもいい。俺は今、泣きたい気分なんだ。
「一緒に飯を食うぐらい、してくれてもいいだろうが。」
リックとカールが必死に守ろうとしたのは温かな家族の輪だ。
リックがいて、カールがいて、ジュディスがいる。優しくて温かい家族の輪。そりゃ守りたくて必死になるさ。
有り得ないとわかっていても俺はその輪の中に入りたかった。
温かな輪の中に俺を受け入れてほしかった。
一度でいいから、あの三人と一緒に飯を食って笑い合いたかった。
叶うはずのない夢は砕け散っていった。俺にはもう何の夢も残ってない。
ガキみたいに泣き喚きたい気分だったが、妙な部分で大人になり過ぎた俺は静かに涙を流すしかなかった。
*****
どれだけの時間ボーッとしていたんだろう?
この薄暗い独房には小窓があるが、それでも時間の感覚は鈍る。
その時、小窓から声が流れ込んでくる。
「……──。」
微かに聞こえたのは幼い声。
「──。──!」
この声を、俺は知ってる。
リックは独房へ来た時、この声が聞こえるといつも顔を小窓へ向けた。その声の持ち主が誰よりも大切な存在だからだ。
俺はその声の主の名前を小さく口にする。
「──ジュディス。」
リックは俺に話している途中でもジュディスの声が聞こえると必ず小窓の方に顔を向けていたが、あれは無意識だったんだろう。
あの男がいつも子どもたちを想っていたことの表れだ。あいつにとっての夢や希望ってのは、きっと我が子だ。
俺は立ち上がって小窓に近寄り、外の音に耳を澄ます。
ジュディスのはしゃぐ声がまた聞こえた。まだ父親の死を理解できていないのかもしれないと思うと胸が痛む。
それでも彼女の無邪気な笑い声が俺の心を優しく撫でた。
──ジュディスの成長を見届けたい。
不意に湧いた思いはすぐに大きく育っていく。
リックとカールが必死に守り、全力で愛した彼女の成長を見届けたい。あの二人は望んじゃいないだろうが、代わりに見守ってやりたい。
これは救えなかったことへの贖罪かもしれないし、縋るものが欲しいだけなのかもしれない。
だが、生まれた思いは全身に流れ込んでいく。これを止めることはできない。
直接関わることができなくてもいい。ジュディスが届けてくれる声に耳を澄ますことで彼女の成長を、命を感じられたらそれでいい。
俺は胸を満たす思いに感じ入りながら壁に寄りかかった。ジュディスの声はまだ離れていかない。
明るい笑い声を耳にしながら、いつか見たリックの顔を思い出す。
この独房で向かい合っていた時。俺に向けていた厳しい表情が一瞬和らぎ、優しく笑うあの顔。愛する娘を思う一人の男の顔。
きっと今の俺も同じような顔をしているんだろう。
そんなことを思いながら、初めて「リックが安らかであるように」と祈った。
End