プリンシパルとアンサンブル(後編)【注意】
・夢小説とCP小説を合わせた作品です。どちらかが苦手であれば読まない方が良いかと思われます。
・主人公がキャラクターと恋愛関係になることはありません。CPはニガリクのみです。
・ご都合主義全開です。チート主人公と感じられる場合があるかもしれません。
・主人公の出番が多いためニガリクのみを楽しみたい方は読まない方が良いかと思われます。
【主人公の紹介】
女性。リックより年下。
他の生存者と共に放浪していたところをニーガンに救われ、ニーガンに感謝している。
救世主として頑張ろうと奮闘しているが、支配地域の住人に対する罪悪感を捨てきれずにいる。
次のページから本編になります。
リックがサンクチュアリに滞在するようになって一週間が経った。その頃になると名前は彼の世話にも慣れてくる。
傷口の消毒や体を拭いてやること、着替えの手伝いは手際良くできるようになった。眠っているリックの体の向きを変えるコツも掴めてきた。トレーでは食事がしにくそうなので廃材を使ってミニテーブルを作ってみると、拙い出来であってもリックは喜んで使ってくれた。
世話に慣れると同時に名前もリックも互いの存在に慣れ始め、他愛ない会話を楽しむことができるようになってくる。リック自身が本調子ではないため長時間の会話はできないが、彼との会話は楽しみの一つになった。
リックと一緒に過ごしてわかったのは彼が仲間を守ることに関しては非常に厳しい考え方の持ち主だということだ。彼との会話の中で冷酷さや残酷さを感じることもあるが、その根底にあるのが「仲間を絶対に守りたい」という思いなのは強く感じる。
その一方で、リーダーという役割を外したリックは穏やかで優しい男でもあった。親しみを感じさせる笑みを見ていると釣られて微笑んでしまうし、意外と冗談の通じるタイプでもある。名前の勘ではあるが、きっと彼を慕う人間は多い。
名前は「リックがアレクサンドリアに帰る日が来たら寂しくなるだろう」という思いを抱く自分に苦笑しつつ、今日もリックと共に朝食の時間を楽しみ、食事を終えると医薬品のセットを取り出した。
朝食の後は傷口の消毒を行うのが一日の流れの一つに組み込まれている。これをきちんと行わないと傷口が化膿してしまうので責任重大だ。
消毒に必要なものとリックの着替えを準備し終わり、次は彼が服を脱いで包帯を外すのを手伝う。傷に負荷をかけないためにも補助は欠かせない。リックは最初のうちは名前に裸を見せることへの躊躇いが強く、手伝いや体を拭くことを拒む素振りを見せたが、名前が黙々と世話をする姿を見るうちに素直に任せてくれるようになった。
上半身裸になったリックがベッドに座ったので名前は傷を覆うガーゼを慎重に外す。露わになった傷は痛々しいが状態は良くなっている。化膿せずに順調に来られたことは喜ばしい。
名前は清潔な布で傷口周辺の肌を拭きながら微笑む。
「順調に治ってきてますね。明後日には抜糸できますし、よかったです。」
その言葉にリックも笑みを返しながら頷いた。
「抜糸したらシャワーを浴びられるな。早く全身を洗いたい。」
「もう少しの我慢ですよ。……消毒しますね。」
名前は傷口周辺をきれいに拭き終わると一声かけてから消毒液を含ませたコットンを傷口に触れさせる。
消毒液の独特な匂いの漂う中、慎重な手つきで傷口の消毒を行っていく。抜糸後も消毒を行う必要があるのでリックはもうしばらく面倒な作業に耐えなければならない。名前は「早く傷が治ってほしい」と思いながら消毒を続け、それが済むと傷口をガーゼで覆って包帯を巻いた。
消毒が終わったので名前は使った医薬品を片づけ、その次は小さなバケツを持って部屋を出る。厨房に行って湯を貰い、それに水を足して適温にした上で体を拭くのに使うのだ。そして名前が厨房に行っている間にリックは下着を履き替えるというのが流れとして出来上がっている。
適温にした湯を持って部屋に戻れば下着一枚だけになったリックがベッドの縁に座った状態で「おかえり」と迎えてくれた。
名前はベッドの傍にバケツを置き、キャビネットからタオル数枚を取り出してベッドに置く。
「準備ができたので体を拭きますね。」
名前の声かけにリックは「頼む」と頷いた。
「体を洗えないのも辛いが、頭を洗えないのもな……。頭が痒くなる。」
「美容室に置いてあるようなシャンプー台があれば頭だけでも洗えるんですけどね。」
「もう少しの我慢だと思うとますますシャワーが恋しくなるよ。」
名前はリックと共に苦笑しながら湯で濡らしたタオルを絞り、それを持ってリックの正面に立った。
その時、ドアがリズミカルにノックされる。そのような個性的なノックをするのはニーガンしかいない。
リックが下着姿であることをドアの向こう側に伝える前にドアが開き、コミュニティーのトップが部屋に入ってきた。その顔には面白がるような笑みが広がっている。
「おいおい、リック。俺のために脱いでくれるのは嬉しいが、そういうことは傷が治ってから──って、冗談だ。冗談に決まってるだろ?怒るなよ。」
眉を釣り上げて自分を睨むリックにニーガンは両手を挙げて「悪かった」と謝った。その謝罪が口先だけなのは普段と変わらない笑みと口調でわかる。
ニーガンはベッドに近づくとリックの全身に視線を巡らせてから名前に顔を向けた。
「消毒は終わったのか?」
「はい、終わりました。今から体を拭こうと──」
「部屋から出ていってくれないか、ニーガン。」
ニーガンからの質問に答える名前の声に被せるようにリックが会話に割り込んだ。
「俺の裸なんて見ても仕方がないだろう。それに、裸の状態を観察されたくない。出ていってほしい。」
リックはニーガンの顔を見上げながらストレートな言葉で退出を促した。
誰だって裸の自分を観察されるのは嫌だろう。リックがニーガンに退出を望むのは当然だが、その物言いにニーガンが怒り出さないかと名前は心配になった。
しかし、ニーガンは怒るどころかニヤッと笑うと長身を折り曲げてリックに顔を近づけた。間近で視線を重ねる二人に名前の目は釘付けになる。
「観察だけなんてつまらないことはしない。俺がお前の体を拭いてやる。」
「何だって?」
ニーガンの言葉にリックが目を瞠る。
ニーガンは姿勢を元に戻すと名前に向かって手を差し出してきた。
「タオルを貸せ。」
そのように命じられ、名前は無意識にリックの顔に視線を向ける。彼は名前に縋るような眼差しを寄越した。
宿敵に触られたくない気持ちは理解できる。それでも名前はニーガンの部下だ。
名前はリックに対して申し訳なさを感じながらもニーガンにタオルを渡してリックの正面から退く。
「お願いします。」
「ああ、任せろ。名前は俺のやり方を見ておけ。」
ニーガンはタオルを受け取るとリックの正面に移動して顔から拭き始めた。ニーガンの手が顔に近づいた際にリックの肩が小さく跳ねたが、拒む素振りも見せずに大人しくニーガンの手を受け入れている。諦めがついたのだろう。
ニーガンはリックの顔を丁寧に拭き、続けて首をタオルでなぞった。汚れの溜まりやすい部分を集中的に拭き、耳の裏側を拭くことも忘れない。
顔と首周辺が終わると次は腕だ。ニーガンはタオルを取り替えるとリックの手首を軽く掴んで安定させ、手首から肩に向けてゆっくりタオルを滑らせる。マッサージするような優しい手つきにリックが戸惑ったように眉を下げた。
「おい、名前。体を拭く時は心臓に向けて手を動かすのが基本だ。胸と腹は円を描くように拭けよ。」
「覚えておきます。」
名前は頷き、ニーガンの手の動きをしっかりと観察した。
両腕を拭き終えたニーガンは新しいタオルを湯に浸けて絞り、今度は上半身の前側をタオルで撫でる。先程の説明通りに動く手には迷いがない。
体の前が終わるとニーガンはリックの後ろ側に移動し、ベッドの上に膝で乗って背中を拭き始める。ニーガンが腰から肩に向けて手を動かすとリックが息を漏らした。気持ち良さから思わず出てしまったようだ。それをニーガンが聞き漏らすわけがなく、ニーガンはニヤニヤと笑いながらリックの顔を背後から覗き込む。
「気持ち良いか?イきそう?」
からかわれたリックは顔を正面に向けたまま無視を決め込んでいるが、それさえもニーガンは楽しんでいる。楽しげに口笛を拭きながら手を動かすニーガンにリックが溜め息を吐いたのを名前はしっかりと見ていた。
そして、ニーガンは背中を拭き終えたところで名前が用意した着替えをリックに差し出す。
「上だけ着ろ。体が冷える。」
リックはニーガンが差し出したシャツを受け取り、小さな声で「ありがとう」と告げた。それを受けてニーガンが目を細めて笑う。
「随分と素直だな。いつもそれくらい素直だと可愛いのに。」
笑うニーガンとは反対にリックは唇を尖らせて拗ねた表情を見せた。
「……可愛いと言われても嬉しくない。」
「やっぱり素直じゃないな。」
そのようなやり取りを交わす間にリックがシャツを着終えた。
ニーガンは再びリックの正面に戻ると足首を掴んで膝を曲げさせ、足首から太腿に向かって手を動かした。脚全体を拭き終わってからは足首や足の指などを細かく拭いていく。その慣れた手つきにリックは何も言わずに視線を注いでいる。
ニーガンは目線を上げてリックの顔を見つめて笑った。
「何か言いたそうだな、リック。」
ニーガンの指摘にリックは一瞬言葉に詰まったようだったが、すぐに目を逸らして「あんたの気のせいだ」と返した。ニーガンは小さく肩を竦めただけでそれ以上は何も言わない。
両足を拭き終えたところでニーガンはバケツにタオルを入れた。それはリックの体を拭き終えた合図だ。
お礼を言わなければいけない、と名前はニーガンに一歩近づく。
「ニーガン、ありがとうございました。」
名前の感謝の言葉にニーガンはウインクで返す。
「どういたしまして。お前はきちんと感謝できて偉いな。……さて、リック?」
ニーガンはリックを見下ろしながらニヤニヤと笑っている。リックが「ありがとう」と言うのを待っているのだ。
リックは姿勢を変えずに上目遣いでニーガンを睨み、少しの沈黙の後に口を開く。
「体を拭いてくれてありがとう、ニーガン。」
渋々といった様子の感謝にもニーガンは笑顔で頷き、親しげにリックの頬を軽く叩いた。まるで飼い犬を褒めるような手つきだ。
「きちんとお礼を言えて偉いぞ、リック!ご褒美にクッキーを焼いてやろう。楽しみにしておけよ。」
ニーガンはリックの頬から顎にかけてサラリと撫でると足取り軽く部屋を出ていった。リックが「作らなくていい」と慌てて訴えた声も聞こえていないようだ。
ドアが閉まり、リックの呻く声が響く。
「ああ、本当に……何なんだ、あいつは。」
リックは額に手を当てて深々と息を吐いた。名前はその様子を見ながら使用済みのタオルを入れたバケツとリックが脱いだ服を手に取る。
「ニーガンはリックを構いたくて仕方ないんですよ。」
その言葉にズボンを履き始めたリックが顔を上げ、しかめ面を見せた。
「それが理解できないんだ。俺はあいつが支配するコミュニティーの住人というだけだろう?ここまでする必要はない。」
「それはそうかもしれませんが……ニーガンはあなたを気に入ってます。だから構いたいんだと思います。」
「そこがわからないんだ。あいつの気に入る要素が見当たらない。気に入ってるんじゃなくて嫌がらせしたいだけなんじゃないか?」
リックはそのように言いながらベッドに戻り、毛布を腰の辺りまで引っ張り上げると窓の方に顔を向ける。
名前はリックの横顔に「洗濯してきます」とだけ告げて部屋を出た。
名前が洗濯を終えて洗ったものを外に干してから部屋に戻ると、リックはベッドの上で体を起こしたままだった。深く考え込んでいたのか、名前が部屋に入った途端にハッとしたようにこちらを見た。
「ああ、おかえり。いつも悪いな。」
「私の仕事だから気にしなくていいんですよ。それより、考え事をしてたんですか?」
その問いにリックは「そうなんだ」と頷く。その顔がどことなく沈んだ表情に見えて気になる。
名前はベッド脇の椅子に座ってリックと顔を合わせた。
「元気がないように見えます。アレクサンドリアのことですか?」
リックは首を横に振ってそれを否定した。
「アレクサンドリアのことはいつも気にかかっているが、今考えていたのはそのことじゃない。……ニーガンのことだ。」
「ニーガン?」
リックは名前から視線を外すと顔を正面に向けた。彼は正面の壁を見つめているはずなのに名前には遠くを見ているように思えた。
「ニーガンは俺にとって悪魔だ。仲間を殺して、俺たちを支配して、俺たちからいろんなものを奪っていく悪魔だ。……それだけじゃない。あいつは人殺しを楽しんでいる。人間じゃない。」
リックはそこまで話して息を吐き、憂うつそうに話を続ける。
「ずっとそんな風に思ってきたのに、ここに来てからその気持ちが変わりかけているんだ。あの男も俺と同じ人間なんだと思い始めてる。」
「それがだめなんですか?」
「俺にとっては良くない。ニーガンが自分で作った料理を俺たちと一緒に食べる姿を見ると、あいつにも一緒に手料理を食べて過ごす相手がいたのかもしれないと考える。俺の体を拭く時の手際の良さは、あいつが誰かの看病をした経験があるのかもしれないと思わせる。──あの男にも大切な誰かがいたのかもしれない。そう考えてしまう。」
リックは膝にかけてある毛布をギュッと握り込む。その顔には葛藤が見えた。
「それに……ニーガンがこの部屋に来る時はルシールを持っていない。それだけでも奴が俺と何も変わらない普通の人間に見える。」
その言葉に名前はハッとした。
思い返してみれば、ニーガンはこの部屋に来る時にバットを持ってこなかった。料理を乗せたトレーや差し入れの品を持ってくるか、そうでなければ手ぶらだ。トレードマークの革ジャケットも着ていない。
ある意味、ニーガンは無防備な姿を晒していると言ってもいい。だからこそリックは戸惑っているのかもしれない。
しかし、名前にはリックの戸惑いや葛藤が不思議だった。ニーガンを憎く思うならば普通の人間であった方が良いのではないだろうか?その方が「ニーガンをいつか倒す」という希望が持てるのではないだろうか?
そのように考えて、名前は自分が想像以上にリックに肩入れしていることに気づいた。
名前はリックに肩入れし過ぎてはいけないと思いつつ、疑問をぶつけてみたくなった。
「ニーガンが普通の人間ではいけないんですか?こんなことを私が言うのはどうかと思いますが、彼が普通の人間なら『倒せるかもしれない』と希望を持てそうな気がします。」
名前の大胆な発言にリックがこちらを見て目を丸くした。そして次の瞬間には苦笑を滲ませる。
「名前は意外と大胆な奴だな。もっと気が小さいかと思っていた。……あ、すまない。」
リックの謝罪に名前は頭を振る。
気が小さいのは本当だ。だからこそ救世主として働いていても他のコミュニティーに対して申し訳なく思ってしまう。それなのにリックに関することだと大胆になるのだから不思議なものだ。
リックは苦笑いを引っ込めると真剣な表情を浮かべる。
「俺はニーガンを悪魔だと思うからこそ躊躇いなく憎しみをぶつけられる。だが、あいつも普通の人間だと認識してしまったら……俺の中の何かが鈍る。そんな気がする。」
「憎しみが薄れてしまう?」
「わからない。実際にはそうならないかもしれないが、それでも俺の中にあるニーガンへの気持ちは確実に変わる。それが嫌なんだ。」
リックの話を聞き、名前は彼がニーガンを自分と同じ人間だと思いたくない理由がわかった気がした。
「ニーガンを自分と同じ人間だと思ってしまったら憎しみや怒り以外の感情──例えば哀れみとか、そういった感情を抱いてしまうかもしれません。リックは自分がニーガンに対して憎しみや怒り以外の感情を抱くことが許せないんですね。」
名前の言葉にリックは目を瞠り、「ああ、そうか」と納得したように呟いた。そして微かな笑みと共に頷く。
「俺にとって、あの男に憎しみや怒り以外の感情を抱くことは仲間に対する裏切りも同然だ。だからニーガンに対して自分たちと同じ人間だと感じてしまうのを許せない。そういうことなんだ。」
リックは言い終わると俯いて黙り込む。沈んだ表情は先程よりも憂いの色が濃い。
名前は今はリックを一人にしておくべきだと判断し、立ち上がってドアの方に向かう。
すると、名前が部屋を出ていこうとしていることに気づいたリックが顔を上げ、不思議そうな眼差しを向けてきた。「どこに行くんだ?」と問いかけてくる視線に名前は笑みで返す。
「あなたには一人の時間が必要みたいなので部屋の前に居ます。適当な時間になったら戻りますから気にしないでください。」
名前はリックが何かを言う前に部屋を出た。そして、ドアの横に背中を預けると足下に視線を落とす。
一人の時間が必要なのは名前も同じだった。いろいろなことを一人でじっくりと考えたかったのだ。
(リックの部屋で過ごすニーガンは人間らしさを感じる。それは私もそう思う)
ニーガンは他者を寄せ付けないタイプではなく、表情の変化に乏しいわけでもない。側近のサイモンと笑い合ったり、己の妻たちや部下たちに話しかける姿をよく見かけた。そうであっても名前にとってニーガンはどこか人間らしさを感じられない存在だった。
圧倒的な支配者としての姿が人間らしさを消していることは否定できず、名前にとって遠い存在であることが与える印象に影響している可能性もある。もしかするとお馴染みの皮肉めいた笑みが感情を隠しているのかもしれない。そして、自身の過去を一切匂わせない部分も彼から人間らしさを遠ざけていた。
しかし、リックの部屋で過ごすニーガンは感情の動きがわかりやすい。リックの反応一つひとつに感情が変化するのが表情や雰囲気でわかる。それだけでなく過去を想像させるような言動を取るのだ。
(……違う、リックの部屋に居る時かどうかは関係ない。リックが関わるとニーガンは今までと違う彼を見せる)
普段のニーガンは尊敬と畏怖を向けるべき人間を超えた存在のように感じられるが、リックに関することになると様々な感情を見せて執着を示し、予想もつかない行動に出る。つまり、ニーガンはリックに関わることだと途端に人間臭くなる。
このことでリックが戸惑うのは当然だ。考えの読めない悪魔のような存在だと認識していた相手の人間らしい一面に触れて戸惑わずにいるのは難しい。
(こういうことに気づけたのは、それだけ私もニーガンを近くで見てるってことなんだろうな)
名前は自分のスニーカーの爪先を見下ろしながら小さく苦笑した。遠くから眺めているだけだったニーガンが身近にいるということに改めて不思議な感じがする。
始めのうちは緊張してばかりだったが、今では普通に会話することができるようになった。ニーガンの手料理は何度も食べさせてもらっており、「暇潰しに使え」と本やパズルなどの差し入れもある。他の救世主と比べればかなり親しくなったと言えるだろう。
しかし、「ニーガンに気にかけてもらえるようになった」と浮かれるほど名前はお気楽な性格ではない。ニーガンが自分に関心を持ったのはリックと関わったからなのだと認識している。そのくらいは弁えているつもりだ。
ニーガンは名前自身に興味があるのではなく、救世主という立場でありながらリックと友好的な交流を持ち、ニーガンが初めて見るリックの表情を引き出した存在に興味があるだけだ。三人でいる時にニーガンの意識が常にリックに向いているのは何となくわかる。
そして、それはリックも同じ。ニーガンが現れると彼の意識は常にニーガンに向けられる。彼らが相手に意識を向け合っている間は声をかけることも躊躇ってしまう。入り込めない空気を感じるのだ。
(二人の間には他の人間の立ち入りを許さない領域が存在してるのかもしれない)
相手に対して芽生えた感情が何であれ、リックとニーガンは互いに特別な存在になっている。ニーガンはその自覚がありそうだが、リックはまだ気づいていないように思える。
もしリックがそのことを自覚したなら──彼は自分を許せないかもしれない。
ついさっき見たリックの憂い顔を思い出し、名前はそのように考えた。
きっと、どれだけ考えてもリックの悩みに対する答えは出ない。答えが出るまで待っていては永遠に部屋に戻ることはできないだろう。
せめて話だけでも聞いてやるべきだろうか、という思いが名前の中に芽生えた。思わず顔を上げてドアノブに指を伸ばす。
しかし、定まりきらない心を表すように指は中途半端な位置で止まった。その後しばらく身動きできなかった。
******
リックが抜糸をする日、彼の部屋にはどこか落ちつかない雰囲気が漂う。それは抜糸をするリック本人だけでなく名前も目覚めた瞬間からソワソワしているせいだ。
傷口を縫い合わせた糸を取り除くことができればリックの行動の幅は広がる。シャワーを浴びることができるようになり、軽い運動ならば許可されるだろう。そのことをリックが心待ちにしていたのは近くで見てきただけによくわかる。
名前は普段とは異なる気分でいつもと同じように朝の支度を行い、いつもと変わらない時間に運ばれてきた朝食をリックと共に食べる。
「朝食を抜いてもいいから今すぐにでも抜糸してもらいたい気分だ。」
リックがナイフとフォークを使ってパンケーキを切りながら零した一言に名前は小さく笑った。
「それはカーソン先生が嫌がると思いますよ。」
「そうだろうな。ただ、本当に待ち遠しくて……こんなにも長い間大人しくしていなきゃならなかったのは初めてだから。」
「午前中に抜糸することになってるので、朝食が終わって少ししたら呼びに来てくれると思います。」
リックはそれに対して頷きながらパンケーキを口に入れる。同じタイミングで名前もパンケーキを口の中に迎え入れた。
リックはパンケーキを咀嚼して飲み込むと視線を窓に向ける。
「……今日はアレクサンドリアの徴収日でもあるんだったな。問題なく済むといいんだが。」
名前はパンケーキが喉に詰まったように感じながらリックの顔を見つめる。心配そうな表情の彼に何を言ってあげたら良いのかがわからなかった。「きっと大丈夫」と言ったところで気休めにもならない。
徴収のための物資集めは日毎に厳しさを増しているはず。徴収に必要な量を集めることができたのか心配するのは当然であり、仲間たちの先頭に立って活動してきたリックには今の自分の状態が歯痒くて仕方ないだろう。
そうであっても彼はこの場所で傷を癒やすべきだ。中途半端な状態で現場復帰をすれば今度こそ命を落とすことになりかねない。
名前はじっくり考えた上でリックに励ましの言葉をかける。
「何もできずに心配ばかりするのは辛いと思います。でも、今は仲間を信じて辛抱してください。あなたがしなければならないのは傷をしっかり治すこと。傷が治ったら仲間のために頑張ればいいんです。」
名前の言葉にリックは目を瞠り、真っ直ぐにこちらを見た。そして穏やかな笑みと共に「そうだな」と呟く。
「今の俺にできるのは君が言った通りのことだ。みんなを信じて、一日でも早くケガを治すことを考える。抜糸したからといって無理はしない。」
「はい、無理はだめです。」
名前はリックと顔を見合わせて笑い、食事を再開した。
ソワソワした空気が消えて和やかな雰囲気の中で食事を進めているとドアをノックする音が響き、ノックとほぼ同時にドアが開いてニーガンが「おはよう」と顔を覗かせる。黒の革ジャケットを着ているニーガンの手にはルシールがあった。
ニーガンはリックに顔を向けてニッと笑う。
「今日はいよいよ抜糸の日だな。抜糸したからって暴れるんじゃないぞ。」
「わかってる。」
そのように応えて頷いたリックの顔は微かに強張っている。久しぶりに「仕事の時のニーガン」の姿を見たせいだろう、と名前は思った。
「それならいい。いい子にしてたらアレクサンドリアの土産話を聞かせてやる。じゃあな。」
ニーガンはルシールを肩に担ぎながら立ち去った。リックは閉められたドアを睨むように見つめている。
「リック?大丈夫ですか?」
名前が尋ねるとリックはこちらに顔を向けながら頷いた。
「大丈夫だ。それより、この前の徴収を延期して今日になったんだよな?」
「そうです。リックがいないとアレクサンドリアが混乱するのは間違いないので、態勢が整う期間を与えるために今日になったそうです。」
本来は一週間前に徴収を行う予定になっていたのだが、リックがしばらくサンクチュアリに滞在することになり、まとめ役不在の状態ではアレクサンドリアが混乱して徴収どころではないと判断したため延期したのだ。そのことはドワイトがリックの件で話しに行った際に伝えたと名前は後から知った。
名前の返答を聞き、リックは悔しそうにフォークを握りしめる。
「俺がケガなんてしなければな……今更悔やんでも仕方ないが、ここで大人しくするしかない自分が情けない。」
名前はリックの表情を見て釘を刺しておく必要があると感じた。
そのため、敢えて厳しい表情を作って「リック」と彼の名前を呼ぶ。
「無理は絶対にだめですからね。無理してケガが悪化したら町に帰るのが遅れます。それが嫌なら抜糸した後も慎重に行動してください。」
強めの口調にリックが目を丸くした。普段、名前が強い口調で話すことはないので驚いたようだ。
いつもより厳しい態度なのは「無理は許さない」ということを示しておきたかったからだ。自分を情けなく思ったり早く町に戻ろうと焦れば、無意識だとしても無理に体を動かしてしまう。そのせいで順調に治ってきている傷を悪化させては意味がない。リック自身のためだけでなく彼の仲間のためにも無理は厳禁だ。
名前が厳しい表情を崩さないままリックを見つめていると、リックが「わかってるよ」と苦笑する。
「心配してくれてありがとう、名前。無理するつもりはない。だが、俺を見て無理をしていると感じたら教えてほしい。」
「任せてください。」
名前が頷いて応じたのを見て、リックは再びパンケーキに手を付け始める。落ちついた様子で朝食を食べているのでとりあえずは大丈夫だろう。
名前はパンケーキを頬張るリックを見てそのように判断し、引き締めていた表情をようやく緩めた。
リックの抜糸が行われたのは朝食が済んでから一時間ほど経ってからだった。
カーソンの手伝いをしている労働者が呼びに来たので名前はリックに付き添って医務室に向かった。その道中、名前は常にリックの隣に並んで体を支えてやらなければならなかった。一週間以上もベッドの上で生活していれば肉体が衰えるのは当然であり、何度もふらついたり足がもつれそうになったリックの表情は渋い。
医務室に到着すると今日の体調の確認をした後、速やかに抜糸が行われた。処置は一時間と少しで済み、最後に注意事項を言われてお終いとなった。
傷口の消毒はこれまで通りに行うこと、シャワーを浴びる際は傷口を絶対に擦らないこと、運動は散歩程度に留めることをカーソンはリックに対して言い含めるように告げていた。カーソンが注意事項を話す前にリックが少し思い詰めた様子で「どの程度なら動いても問題ないのか?」と聞いたため、彼が無理をするのではないかと不安視したようだ。名前にも「くれぐれも無理はさせないように」と言ったほどである。
名前とリックはカーソンと手伝いの労働者たちに礼を述べてから医務室を後にした。階段を下るだけの往路とは逆に階段を上っていかなければならない復路は今のリックにはきつかった。傷を庇いながら歩くため普段より疲れるらしく、途中で何度も休憩を必要とした。体力が落ちているのだろう。
時間をかけて部屋に戻るとリックはベッドに座って深々と息を吐き出した。
「想像以上に衰えたな。流石にショックだ。」
「ケガをして体が弱ったことも影響してるんだと思いますよ。少しずつ運動していけば元に戻ります。……お水をどうぞ。」
名前はリックを励ましながらコップに水を注いで手渡す。リックは「ありがとう」と言ってそれを受け取り、味わうようにゆっくりと飲み干した。
一息ついたリックに名前は今後の方針を提案する。
「リック、運動は散歩だけにしましょう。まだ体力が戻っていませんし、散歩以外の運動は傷に響くかもしれません。まずはこの部屋の中を周回しませんか?」
名前の提案にリックは素直に頷いた。
「俺もそう思う。部屋の外で歩くにはニーガンの許可も必要だしな。しばらくは部屋の中を歩くことにするよ。」
「はい。でも、運動を始めるのは明日からにしましょう。抜糸しただけでも疲れたはずです。」
「これだけ体力が落ちているとその方がいいか……。わかった、そうする。」
当面の方針が決まったおかげでリックの表情はスッキリしていた。
その後は昼食の時間まで休憩し、リックがシャワーを浴びるのは昼食を食べてからということになった。
昼食が終わって少し休憩してから名前とリックはシャワー室へ向かった。シャワー室の前に到着すると、名前はニーガンから預かった袋をリックに差し出す。
「ニーガンから預かったシャンプー、リンス、石鹸が入ってます。これを使ってください。」
リックは袋を見下ろして嫌そうに顔をしかめた。
「シャワー室に備え付けてないのか?」
「いえ、あります。ただ、ニーガンはこれをリックに使ってほしいみたいです。」
「そうは言ってもな……」
リックの表情は相変わらず渋い。必要以上の施しだと感じているのだろう。このままでは「必要ない」と断られてしまいそうだ。
しかし、自分が与えたものをリックが使わないことをニーガンは許さない。名前はリックを説得するための言葉を懸命に考えた。
「リック、それを使った方がいいです。使わないとニーガンの機嫌が悪くなります。機嫌の悪いニーガンが傍にいるのは嫌ですよね?」
脅しにも似た言葉にリックがハッとした表情をする。そして深々と溜め息を吐くと袋を受け取った。
「……シャワーを浴びてくる。」
「ここで待ってます。何かあったら呼んでください。」
シャワーを浴びる際も介助があった方が良いのだが、異性である名前がシャワー室の中まで付き添うわけにいかないのでシャワー室の前で待つことになっていた。
リックは名前の声かけに一つ頷いてシャワー室に入っていった。
リックの姿が見えなくなると名前はシャワー室の出入り口の横に立って息を吐く。
(リックを管理したい、か。彼が使うシャンプーやリンスまで決めたいんだな)
食事の管理は「栄養のあるものを食べさせたい」という理由が考えられるが、シャンプーやリンス、石鹸を指定する理由はわからない。そこに関しては拘る必要性を感じなかった。
その他にも様々な事柄に思いを巡らせているうちにシャワーを浴び終えたリックが姿を見せた。
「待たせてすまない。」
謝りながらも笑みを浮かべるリックはとてもスッキリした表情をしている。全身を洗い流すことができて気持ち良かったのだろう。
名前はリックに釣られて微笑みながら彼と並んで歩き出した。隣を歩くリックからはシャンプーなどの爽やかな香りが漂ってくる。
(この香り、どこかで嗅いだことがあるような……最近だと思うんだけど思い出せないな)
名前は首を傾げながらも香りのことは頭の片隅に追いやり、満足そうなリックの横顔を見つめた。
「リック、とてもスッキリした顔をしてますよ。」
「ああ、久しぶりに全身を洗えたから気分が良い。」
明るい表情のリックと言葉を交わしながら部屋に戻り、部屋に戻ると傷口を消毒した。シャワーを浴びた後の清潔な状態で消毒した方が良いということでシャワー後に消毒することになったのだ。
消毒の後は部屋の中で静かに過ごしていたのだが、夕方近くにニーガンがアレクサンドリアから戻ってきたことにより賑やかになる。
「リーック!いい子で待ってたか?」
上機嫌な様子で部屋に入ってきたニーガンは革ジャケットを着ておらず、ルシールも持っていなかった。
ニーガンはベッドの上で体を起こしているリックの傍らに座り、リックの顔を覗き込む。
「抜糸は問題なく終わったらしいな。軽い運動なら構わないって?」
「ああ、そうだ。しばらくは部屋の中を歩く程度にしようと思う。調子が良ければ廊下を散歩したいんだが、許可してもらえないか?」
リックの頼みにニーガンは「どうしようかな」と言ってニヤニヤと笑い、考え込む素振りをする。その様子を見守るリックの顔には苛立ちが見えた。
やがてニーガンは「いいぞ」と歯を見せて笑った。
「この階だけなら散歩してもいい。ただし、一人だけで出歩くのはだめだ。名前が必ず付き添え。いいな?」
最後の一言を言う時、ニーガンは名前の方に顔を向けた。口元には笑みを浮かべているというのに目が笑っておらず、名前は背筋に寒気が走るのを感じた。
名前が「わかりました」と頷くとニーガンの顔はリックの方に戻った。
そして、ニーガンの指がリックのふっくらとした唇を軽く押す。
「リック、お前の頼みを聞いてやった俺に言うことがあるんじゃないか?」
そう問いかけながらフニフニとリックの唇を押すニーガンはとても楽しそうだ。それとは対照的にリックの眉間に刻まれたしわは深い。それでもリックは目の前の男に「ありがとう」と感謝した。その感謝の言葉が苦々しげなものであってもニーガンは全く気にならないようだ。
ニーガンはリックの唇の感触を楽しんだ後、リックの髪に鼻を突っ込みそうなほどに顔を近づけ、少し経ってから今度は首に鼻先を近づけた。その距離はとても近く、どこからどう見ても匂いを嗅いでいるとしか思えなかった。リックが身動きできないのと同様に名前も全身を硬直させたまま異様な光景を目に映している。
ニーガンは動物のように匂いを嗅ぎ、満足した様子でリックから顔を離したが、次は指でリックの髪の毛を弄ぶ。
「ちゃんと俺が贈ったやつを使って全身を洗ったな、リック。俺と同じ匂いだ。」
「な、に?」
リックは目を見開いてニーガンを凝視した。その口が中途半端に開いていることも自覚していないだろう。
ニーガンは自分を凝視するリックの髪で遊びながら衝撃の事実を披露する。
「あのシャンプーもリンスも石鹸も、全部俺が使ってるのと同じなんだ。お前とお揃いにしてみたくて。……リックから俺と同じ匂いがするってのは最高だな。」
囁くニーガンの笑みは妖艶だ。その笑みを向けられたリックは言葉を失っている。
(これはマーキングだ)
名前は二人を見つめながらそのように確信した。
同じ種類のシャンプーやリンス、石鹸を使えば身に纏う匂いは同じものになる。それは特別な関係であることを匂わせる手段であり、相手が自分のものであることを暗に示すこともできる。ニーガンはリックに自分が使っているのと同じものを使わせることによってマーキングしたというわけだ。
そこまでしてリックは自分のものだと示したいのか、という驚きと恐怖が心に湧き上がるのを実感しながら名前は気持ちを落ちつけるために息を吐いた。
ニーガンのリックに対する執着を感じる度に名前は恐怖を覚える。第三者の視点から見て、ニーガンのリックへの執着は尋常ではないと思えた。その強い執着がリックを丸呑みにしようとしていることに恐怖を感じるのだ。
例えるならば、暗くて底の見えない沼に一人の人間が引きずり込まれる様子を見せつけられているような心地がする。
名前はじっとりとした何かが胃の中に淀んでいるように感じながら、汗ばむ掌をジーンズに擦りつけた。
そんな名前を余所にニーガンはリックの肩を抱いて彼の顔を覗き込む。
「ああ、そういえばアレクサンドリアの話をする約束だったな。気になってただろ?」
それを聞いてリックは真剣な表情に変わり、首を縦に振った。それを合図にニーガンが話し始める。
「徴収については合格。まあ、ギリギリでの合格だな。畑はまだ危なっかしい感じだし、早いところ何か生産できるようにしないとこれから先がきついぞ。」
「……わかってる。手探りでもやっていくしかない。」
「頑張れ。で、お前の代わりはカールが務めてる。」
「カールが?」
ニーガンの報告はリックにとって意外なものだったようで、彼は瞳に嫌悪も怒りもなく純粋な驚愕のみを宿してニーガンを見る。そんなリックを見るニーガンの目が一瞬だけ眩しいものを見るように細められた。
「意外か?俺はそうは思わないね。彼は優秀だぞ、リック。子どもだからって低く見積もるべきじゃない。あそこにいる連中の中で誰が一番お前の代理に向いてるかと聞かれたら、俺は真っ先にカールの名前を挙げる。」
ニーガンの口は緩く弧を描いているが、その目は真剣そのものだった。そのことがカールへの評価が本物であることを示している。
それをリックも感じたのだろう。彼はニーガンと同じく真剣な目つきで頷いた。
「他の奴らへの指示も俺への対応もしっかりしてた。大したもんだ。お前の話になると少し冷静さに欠けるが……そいつは仕方ないな。大好きなパパが心配で堪らないんだ。」
「あんた、余計なことは言ってないだろうな?」
「余計なこと?お前の状態が良くなってきてることと、俺たちの仲が順調だってことしか話してないぞ。」
ニーガンの返答にリックは顔をしかめ、距離を取ろうと少しずつ体の位置をズラしていく。
「俺のケガのことはいいが、俺たちの仲って何だ?変なことを息子に吹き込まないでくれ。」
リックの言葉にニーガンはわざとらしく眉を下げて「冷たいな」と溜め息を吐く。その溜め息もわざとらしさが全開だったため、リックは冷ややかな眼差しを向けた。
ニーガンはリックからの視線の冷たさを気にすることなくベッドに深く座り直して距離を詰めた。
「そういえば、お前の可愛いジュディス嬢に会ったぞ。元気にしてた。一緒に積み木で遊んだら喜んでた。」
その報告にリックは目を釣り上げる。
「あんたがジュディスに会う必要はない。あの子に構うな。」
「おいおい、それはひどいな。俺はお前があの子を心配してると思って様子を見てきたんだぜ?ついでに小さな子ども用の菓子も置いてきた。栄養が足りてるか心配だったからな。俺は何か悪いことをしたか?」
「いや、それは……」
怒りを滲ませていたリックはニーガンの反論を受けて気まずそうに俯いた。
幼い子どもの様子を見に行って一緒に遊んでやり、栄養面の補助のためにお菓子を与える。ニーガンの行動は何も間違ってはおらず、今の状況を考えれば感謝してもいいだろう。適切だと評すべき行動に文句をつけるのは良いことではない。それを理解しているからこそリックは悔しそうに唇を噛む。
リックは心を落ちつけるように深呼吸をしてから顔を上げてニーガンを見た。
「ジュディスを気にかけてくれてありがとう。」
感謝の言葉を告げるリックの声に柔らかさはない。名前にはリックが必死に冷静さを装っているように思えた。彼の拳が震えているのが見えたのだ。
ニーガンに「ありがとう」と感謝する度にリックのプライドは削り取られていくのかもしれない。
そんなことを考えながら、名前は二人のやり取りを黙って見守り続けた。
リックは抜糸した翌日から体力作りのために部屋の中を歩くようになった。狭いわけではないが、いくつもの家具が置かれた部屋は歩きやすいとは言えない。それでも何周も歩いていればある程度の運動量になる。
部屋の中での歩行を一週間続けると体力回復の兆しが見え、傷の治りも順調であることから廊下を散歩する許可が下りた。
廊下での散歩には名前が付き添うことになっている。傷が完全に治ったわけではないのでサポートは欠かせず、余所者であるリックが一人で歩き回れば厄介事に巻き込まれる可能性もあった。そのため、名前はリックと共に限られた範囲での散歩に勤しんでいる。
リックは名前を自分の運動に付き合わせることに対して申し訳なく思っているようだが、室内に籠もっているために運動不足なのは名前も同じだ。名前は自らの体力低下を痛感しながらリックの隣で毎日歩いている。
そして、リックの運動に付き合っているのは名前だけではない。ニーガンもタイミングが合う時はリックと並んで廊下を歩いた。
ニーガンが特定の人物のために時間を割く。彼を遠くから眺めているだけだった名前でもそれが珍しいことなのは理解できる。しかも、その相手が支配下に置いたコミュニティーの人間なのだから尚更だ。
リックという存在がニーガンにとって他の人間とは異なる存在になっているのは誰が見てもわかることであり、それについて皆がどのように感じているのかということは名前の最近の考え事の一つだった。
******
太陽が沈み始めた夕刻、名前はリックに付き添って廊下を散歩していた。夕食前の散歩は日課だ。朝食後と昼食後、そして夕食前の散歩をリックが欠かしたことはない。
リックが廊下を歩くようになって一週間以上が過ぎ、始めた当初よりも散歩の時間は長くなった。それは彼が体力を付けてきていることの何よりの証拠だ。傷もかなり治ってきており、「消毒をしなくてもよい」との診断が出たのは二日前のこと。リックがアレクサンドリアに帰る日は遠くないだろう。
傷の治りが順調なおかげで最近のリックは表情が明るい。今も晴れ晴れとした顔で腕と足を動かしている。そのリックが顔だけをこちらに向けて「名前」と話しかけてきた。
「最近、体力が付いてきたんじゃないか?前は俺より疲れた顔をしていたぞ。」
からかうような響きを含む言葉に名前は苦笑いを返す。
「元々、体力はない方だったんです。放浪したり救世主として働くようになって少しは体力が付いたんですが、リックと一緒に引きこもっていたら元に戻ってしまいました。」
「そうだったのか。俺は一人じゃ部屋から出られないんだから、空いた時間に運動しに行ってもよかったのに。」
リックが申し訳なさそうに眉を下げたので名前はますます苦笑いを深くする。
リックがベッドから離れられない状態であっても彼を放置して運動しに行くなど考えられない。ニーガンから「リックは逃げると決めたら必ず逃げ出す」と聞かされており、その上でリックを長時間一人きりにする度胸はなかった。
名前はそのことについてリック本人に伝えるべきではないと考え、「つい怠けてしまった」とごまかした。
リックが名前のごまかしに気づくことはなく、彼は何かを思いついたようにニヤッと笑った。
「俺がトレーナーになってあげようか?保安官式のトレーニングを特別に教えるぞ。どうする?」
その提案に名前は全力で首を横に振る。リックは他者を鍛えることに関しては厳しそうな気がしたのだ。
「遠慮します、保安官がやるようなトレーニングなんてできる気がしません。気持ちだけ受け取らせてください。」
「……すごく嫌だということはよくわかった。」
こんな風に話に花を咲かせながら歩く時間がとても楽しい。味気ないコンクリートの廊下を見ながらであっても誰とどのように過ごすのかが重要だ。
その後も会話を続けながら歩いていると、後方から「よう、お前たち」というニーガンの声が響いた。名前とリックは揃って足を止めてニーガンの方へ体を向ける。
ニーガンはお馴染みの革ジャケットを着ているがルシールは持っていなかった。距離が縮まると微かに化粧品の匂いがしたので彼の妻たちの部屋で過ごしていたのだろう。リラックスした雰囲気を漂わせているのも納得できる。
ニーガンは名前とリックを眺めながら問う。
「散歩中なのか。始めたばかりか?」
その問いに答えるのはリックだ。
「いや、三十分は経っていると思う。そろそろ部屋に戻ろう、名前。」
リックは散歩を切り上げることを提案しながら名前を見た。
実際には散歩を始めてから三十分も経っていない。散歩終了の話は全く出ていなかった。それなのにリックが散歩を切り上げて部屋に戻ろうとするのはニーガンに付き添われることになるのが嫌だからだ。
しかし、ニーガンがすんなりとリックを逃がすわけがない。
「いつもは一時間くらい歩いてるだろ?もう少し歩くべきだぞ、リック。今から俺が付き合ってやる。」
ニーガンはにこやかに笑いながらリックの腕を掴んだ。腕を掴まれたリックは自身を掴むニーガンの手と顔を交互に見遣り、嫌そうに顔を歪める。ニーガンとの散歩を嫌がっていることを隠そうともしていない。
ニーガンはそれには構わず、名前に顔を向けてこのように告げる。
「名前、俺がリックに付き添うからお前は自由に過ごせ。部下が休憩できるように配慮してやるのが良いボスだ。」
その言葉にリックの眉間のしわが深くなっていく。
リックは「ニーガンに付き添われるだけでも嫌なのに二人きりだなんて勘弁してほしい」と思っているのだろうが、ニーガンが望んでいることなのだから仕方ない。名前は頷いてニーガンに感謝するだけだ。
「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
「任せておけ。リック、行くぞ。」
リックは渋い表情を崩さないまま頷き、ニーガンと共に歩いていった。名前は二人の後ろ姿を見送ってから深く息を吐く。
ニーガンがリックとの散歩を望んだ際にリックがそれを回避できたことなど一度もない。散歩だけでなくニーガンがリックの部屋で過ごそうとする度にリックは理由を付けてニーガンを部屋から追い払おうとしたが、言葉巧みな男は最終的にリックを言いくるめてしまうのだ。
言葉のやり取りでニーガンに敵う者はいない。
(しばらく戻ってこないだろうし、自分の部屋の掃除でもしようかな)
名前が自室で過ごす時間は少なく、人気のない部屋は埃が溜まりがちだ。キャビネットやサイドテーブルには薄っすらと埃が乗っている。たまには掃除すべきだろう。
名前はリックが部屋に戻るまでの間に自室を掃除することに決め、掃除用具を借りるために用具室へ向かった。
用具室は名前の自室がある階の一番端にある。長い廊下を歩いて辿り着いた用具室のドアを開けて照明を点け、明るくなった部屋の中を見て思わず声が漏れる。
「えっ……ひどい。」
目に飛び込んできたのは乱雑に並ぶ掃除用具やその他の用具の数々だ。様々なものが床の至るところに無造作に置かれていたり、棚に入れてあるものも「適当に突っ込んでおいた」という表現が相応しい。どこに何があるのか全くわからない状態に開いた口が塞がらない。
この階の用具室がこのような有り様なのは救世主しか使用していないからだ。労働者の出入りが可能な階は限られており、この用具室は労働者が使うことがない。整理整頓には無頓着な者が多い救世主しか使わないのであれば、用具の保管が雑になるのは避けられないだろう。
名前は部屋の中を探し回って必要な掃除用具を取り出し、それを持って自室へ移動して掃除をした。家具の上に薄っすらと積もった埃を払って水拭きし、ホウキで床を掃くだけの簡単な掃除ではあるが、部屋の中の埃を一掃すると気持ちが良い。普段は閉め切っている窓を掃除のために開放すると空気が入れ替わるので気持ち良さが増した。
部屋の掃除が終わり、名前は清々しさと共に掃除用具を用具室に返しに行った。
しかし、用具室の中を再び目にすると先程まで感じていた清々しさが消え失せてしまう。やはり、このぐちゃぐちゃな用具室を見過ごすことはできない。
名前は「よし、やろう」と自身に気合を入れて用具の整頓を始める。
棚に置くものと床に置くものを分けて種類ごとにまとめる程度のことなのだが、数の多さと無造作過ぎる置き方のせいで苦労する。数々の用具に苦戦しているうちに開け放しておいたドアがいつの間にか閉まっていた。しっかり開けておいたはずだが、開け方が甘かったのかもしれない。
もう一度ドアを開けようと名前がドアに近づいた時、外から足音が響いてきた。二人分の足音だ。
「だから、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて──」
「わかった、わかった。とりあえずここで話そうぜ、リック。」
足音と共に聞こえてきた声の主はリックとニーガンだった。
名前は上の階にいるはずの二人がこの階にいることに驚く。リックは彼の部屋がある階しか出歩かないように言われているため、医務室に行く時以外は下に行くことがない。その彼が階を移動したのはニーガンが一緒にいるからなのだろう。
リックとニーガンは用具室の前で立ち止まったようだ。名前が部屋の中に居るとは知らない二人は話を続ける。
「ニーガン、さっきも言ったが、消毒をしなくてもよくなったから俺がここに留まる必要はなくなった。だからアレクサンドリアに帰らせてくれ。」
「俺もさっきと同じことを言おう。もうしばらく様子を見るからアレクサンドリアに帰るのはまだ先だ。」
「……もっとわかりやすく言わないとだめか?これ以上俺のために物資を使うな、と言っているんだ。ここの物資はここの住人のために使うべきで、部外者の俺に必要以上に使うべきじゃない。」
リックの声には怒りが滲んでいる。自分の主張をまともに取り合ってもらえないことに苛立っているのだ。
「消毒しなくてもいいならアレクサンドリアでも静養できる。俺が無駄に滞在するせいで物資を浪費してほしくない。だから帰らせてほしいと頼んでいるんだ、ニーガン。」
「それならお前が俺の部下になればいい。救世主として働くんだ。そうすれば部外者じゃない。だろ?」
ニーガンが言い終わると同時にドンッという壁を殴りつけるような音が響いた。その後にニーガンの「落ちつけよ」と苦笑混じりの声が聞こえてきた。リックが怒りに任せて壁を殴ったのだろう。
声だけでも緊迫した空気が伝わってくるため、名前は部屋の外に出ることができなくなった。彼らの話の内容は非常に大切なことであり、絶対に邪魔をしてはいけない。そう思うと同時に盗み聞きするような状況を心苦しくも思う。
どうすればよいのかわからずに名前が途方に暮れている間にもリックとニーガンの会話は続く。
「冗談だ。もう少し肩の力を抜けよ、リック。」
「俺は真面目に話しているんだ。」
「じゃあ、俺も真面目に返事をしよう。前に名前が言ってたことを覚えてるか?お前を救おうとした理由を聞いたら『リックがニーガンのものだからだ』と答えた。俺の答えも同じさ。」
少しの間があり、リックが「どういう意味だ?」と問う。
「お前は俺のものだからサンクチュアリの物資を使うのは何の問題もない。お前がここに滞在する間に使う物資は俺が必要だと判断したから与えてるんだ。それについての文句は受け付けない。誰であってもな。」
「何だ、それ……理解できない。名前も同じようなことを言っていた。」
ニーガンの答えを聞いたリックの声から怒りが消え、代わりに戸惑いが混ざった。
リックとは対照的にニーガンは楽しそうな笑い声を上げた。顔を見ずとも彼が笑顔なのがわかる。
「名前は本当にできた奴だ!リック、せっかくあいつが教えてくれたんだったら、お前は言われたことの意味をよく考えて理解しておくべきだったな。」
それに対するリックからの返事はない。難しい顔で押し黙っている姿が思い浮かび、名前は二人を目の前にしているわけでもないのに居たたまれなくなった。
ニーガンは何も答えないリックの名前を呼び、言葉を重ねる。
「リック、俺はお前とお前の子どもたちを気に入ってる。お前と一緒だと退屈しないし、カールはどんな男に成長していくのか見ていたい。ジュディスはタフな子だから見込みがあるしな。だからお前たちに物を与えたり食事も作ってやる。そのことにお前が口を挟む権利はないんだ。──理解できるか?」
その声には威圧するような響きがあった。それなのに妙に艶めいたように聞こえるのは気のせいなのだろうか?
名前の心臓が少し騒いだ時、リックの絞り出すような声が響く。
「……理解した。」
リックの返事を受けてニーガンが拍手をしたらしく、手を打ち鳴らす音がした。
「お互いに理解が進んだな。良いことだ。さて、そろそろ部屋に戻るぞ。つい話し込んじまった。」
その声かけを合図に足音が再び聞こえた。今度は足音が遠ざかっていく。
名前は足音に混じって流れてくる口笛の音に耳を澄ませながら深呼吸を繰り返す。二人が話している間は呼吸を抑え気味にしていたのだが、今になって息苦しさを感じた。
息苦しさが消えてくる頃には足音も口笛の音も全く聞こえなくなったので慎重にドアを開けてみる。当然ではあるが、ドアを開けた先には誰の姿もない。寒々しい夕暮れ時の廊下がそこにあるだけだ。
名前は用具室を出てドアを閉め、思わずその場に立ち尽くす。
(話し声が聞こえただけで直接見たわけじゃないけど、見てはいけないものを見てしまった気分……)
名前はリックとニーガンが二人だけでいる場面に遭遇したことがなかった。他の誰の目もない状態での二人のやり取りを初めて耳にして、その独特な空気感に呑まれてしまったように感じる。それを証明するように脈が普段よりも速い。
名前は「もう少し落ちついてから部屋に戻ろう」と決め、その場に留まったまま胸に手を当てる。今すぐ部屋に戻ったとして、二人の顔を見て冷静でいられる自信がない。挙動不審になれば「何かあったのか」と追及されそうな気がした。そして、それを上手くごまかす自信もない。
名前は未だに速い鼓動を掌に感じながら重い溜め息を吐いた。
******
ある日の昼下がり。ベッドに横になって寝息を立てるリックを見て名前は笑みを零す。
昼食を終えてしばらくするとリックは眠たそうに目を擦り、「少し休む」と宣言してベッドに寝転んだ。そして横になって五分も経たないうちに眠り始めた。今日はよく晴れてポカポカと暖かいので眠くなるのは無理もない。
名前は窓の外の様子を見て、今朝干した洗濯物のことを頭に思い浮かべる。
(洗濯したのは薄手のものばかりだし、今日は天気が良いからもう乾いたはず。取りに行ってこよう)
名前はリックが昼寝をしている間に干した洗濯物を取り込むことに決め、音を立てないように慎重に動きながら部屋を出る。リックは物音に敏感で、サンクチュアリに来たばかりの頃は些細な音ですぐに目を覚ましてしまっていた。今は環境に慣れたおかげなのか小さな音では起きなくなったが、リックが寝ている時はどれほど小さな物音も立てないよう慎重に行動する癖が染み付いている。
名前は部屋を出るとドアに鍵をかけ、一階まで下りるために階段に向かおうとした。
その時、名前を呼び止めるニーガンの声が響く。
「名前、どこへ行くんだ?リックはどうしてる?」
名前は立ち止まってニーガンの方に振り返り、目の前まで来た男の顔を見上げる。
「洗濯物が乾いた頃だと思うので取りに行くんです。リックが昼寝中なので、その間に行ってきます。」
「そうか。急ぎってわけでもないなら、ちょっと俺に付き合え。話がある。」
「わかりました。」
名前が頷くとニーガンは体の向きを変えて歩き出す。その後ろに付いていくとニーガンの部屋に通された。
二度目であってもニーガンの部屋に入るのは緊張する。先にソファーに腰を下ろしたニーガンに促されて彼の正面に座ったが、その動きがぎこちないことが自分でもわかる。
ニーガンは脚を組みながら小さく笑った。
「緊張するなよ。お説教なんかじゃない。リックのことだ。」
「リックのこと?もしかして、アレクサンドリアに帰ることについてですか?」
ニーガンは「正解だ」と頷く。
「明後日の徴収日にあいつを戻らせることにした。リックがここに来て一ヶ月以上になるが、ケガの治りは順調だ。そろそろ向こうへ帰らせないとな。」
明後日のアレクサンドリアの徴収日にリックが帰る。
その決定が名前の頭に染み込むまでには少し時間がかかった。急に帰宅日を提示されたせいでリックがサンクチュアリから去るという実感が湧かない。ケガの治り具合から考えれば不思議ではないのだが、そのことが頭から抜け落ちていたのだろう。
自分はリックが帰ってしまうのが寂しいのかもしれない、と名前は己の心を探りながら「そうですね」と返した。
「当日はお前は残って部屋を片づけろ。部屋をあのままにしておくわけにいかないしな。」
「わかりました。当日までにやっておくことはありますか?」
「荷造りと言いたいところだが、リックの私物は少なかったな。」
「ブーツと腕時計、後は手斧ですね。手斧はこちらでは預かっていませんが……」
「当日に返す。他にやることは特にないから今まで通りに過ごせ。」
「はい。」
これで話は済んだと思ったが、ニーガンは名前に退出を促さなかった。
目を細めてこちらを見つめるニーガンは無言のままで、その唇は微かに笑みを形作っている。今のニーガンの表情をどこかで見たような気がしたので名前は記憶を辿った。
そして、記憶の中から答えを見つけた。
(──リックを見つめる時の顔だ。きっとニーガンはリックのことを考えてる)
ニーガンがリックを見つめる時の楽しそうで嬉しそうな、どこか恍惚とした表情を名前は数えきれないほど目撃していた。リックが不在の今、なぜ彼はその表情を浮かべているのだろう?
困惑する名前の視線の先でニーガンの唇が動く。
「俺は自分が観察力のある人間だと思ってる。だからリックのこともよく理解してるつもりだった。だが、この一ヶ月ちょっとで初めて気づいたことがある。俺はあいつがあそこまで無防備な奴だとは知らなかった。」
無防備という言葉に名前は首を傾げた。
今のリックは敵の本拠地に滞在しているのだから大なり小なり警戒心はある。その彼の姿を見て無防備という言葉が出てくることが不思議でならない。
名前は疑問を解消するために恐る恐る口を開く。
「あの、私には彼が無防備には見えません。ここに来たばかりの頃に比べれば警戒は緩んでるとは思いますが……」
「ああ、そういう意味の無防備じゃない。他人を信頼することに関してだ。」
そう言ってニーガンは立ち上がり、名前の傍らに立つと長い指で名前の顎をすくって顔を上向かせる。
こちらを見下ろす形になったことによりニーガンの顔に影が差した。そのせいでニーガンの目が真っ黒に見え、全てを飲み込むような漆黒に背筋が震える。名前はニーガンと目を合わせながら自分の怯えが伝わらないよう必死に祈った。
ニーガンはそのままの体勢で話の続きを語る。
「慣れてきたからって自分が敵だと認識してる相手の本拠地で昼寝ができるか?普通は無理だ。気を緩めることができないからな。それができるのはリックがお前をアレクサンドリアの連中と同じくらい信頼してるからだ。あいつは救世主であるはずのお前を心から信頼してる。」
「それが、無防備なんですか?」
その問いにニーガンは数秒の間もなく頷いた。
「そうだ。あいつにとっては相手が何者なのかも付き合いの長さも関係ない。『こいつは信頼できる』と思ったら完全に信頼して心を許す。殺られる前に殺ると決めて俺の部下の寝込みを襲った野郎にしては無防備すぎる。」
「それが彼の甘さだと?」
「そうとも言えるな。リックは甘い。冷酷で無慈悲で、仲間を守るためなら自分の手を血で汚しても構わないって覚悟を持ってるくせに、あいつの根っこには甘ったれたところがある。リックがお前を信頼したのもあいつ自身が甘ったれだからだ。あいつは信頼した相手に裏切られて後ろから刺されても不思議じゃない。」
「……捨てるべきですか?リックがこの世界で生きていくためには、その甘さを捨てるべきなんでしょうか?」
名前はそのように問いかけながらも、リックがその甘さを捨ててしまえば彼が彼でなくなるような気がした。名前にも見せてくれた本来のリックが消えてしまうように思えた。
だからこそリックには変わらないでいてほしいと思う。無責任なのかもしれないが、ニーガンが指す「甘ったれたところ」を持ち続けてほしい。リックが「リック」という人間であるために。
名前が食い入るようにニーガンを見つめると彼は悠然と微笑んだ。
「あいつはそれを捨てられないさ。だが、それでいい。あいつは甘ったれな自分のせいで苦しみながらも必死に戦う。俺はそんなあいつを気に入ってる。」
そう話すニーガンの表情はとても甘やかなものだった。
愛おしむように。慈しむように。憐れむように。初めて見るニーガンの表情はリックに向けられたもの。
一見すると優しげに見えたニーガンに名前が底知れない恐ろしさを感じた理由は、いくつもの感情が浮かんでは消える瞳の奥に最後に見えたもの──燻り続けるリックへの執着だ。
言葉を失う名前の顎からニーガンの指が離れ、その指は慰めるように名前の頬を掠めた。頬に触れられた瞬間に怯えたように肩が跳ねてしまったが、ニーガンは少しも気にしていないようだった。
ニーガンは部屋の出入り口の側に立ってドアを開け、そのままドアを押さえながら名前に顔を向ける。
「時間を取らせて悪かったな。もう行っていいぞ。」
そのニーガンの顔に浮かぶのはいつもの笑みだ。サンクチュアリの皆が見慣れた支配者の顔。
名前は震えそうになる足を叱咤して立ち上がり、部屋の出入り口に向かって歩いた。
そして、「失礼します」と言いながらニーガンの前を通り過ぎて部屋を出る。部屋を出ると背後でドアが閉まった。
名前は背後を振り返り、閉ざされたドアを眺めてハアッと息を吐き出す。緊張から解放された途端に両足から力が抜けそうになり、フラフラと歩いて近くの壁にもたれかかった。
「……疲れた。」
辛うじて自身の耳に届いた掠れ声により喉の渇きに気づく。ひどく緊張したせいだ。
名前は少し休憩してから当初の目的地を目指して歩き始めた。
ニーガンのリックに対する感情に触れるといつも疲れてしまう。彼の感情は余りにも強大で、それに飲み込まれてしまいそうになる。そうならないように心が必死に抵抗するから疲れるのかもしれない。
リックはニーガンの自分に対する執着や感情に気づいていないようだが、彼は気づかないままでいた方が良い。当の本人が気づいてしまえば飲み込まれるのは容易いだろう。
名前は妙に重くなった体を引きずりながら廊下を歩き続ける。目的地である一階までの距離を普段よりも長く感じながら。
前触れなく決まった、リックがアレクサンドリアへ帰還する日。当日になるまでの時間は驚くほど早く流れ、リックが去ることの実感を持てないまま名前は一日の活動を開始する。
起床してからの流れは今までと変わらない。リックが着替える間に名前も自室に戻って着替えと洗顔を終えてからリックの部屋に戻る。ちなみに今日の服装はグレーのパーカーとダークブルーのジーンズだ。
名前が部屋に戻って少し経った頃に朝食が運ばれてきて、二人で和やかな朝食の時間を過ごすのも日常の一部だ。
しかし、それも今日が最後。会話を楽しみながらリックと食事をする機会は二度とないだろう。
名前はほんの少し寂しさを感じながらサンドイッチを食む。
「名前、どうした?今日は口数が少ないな。」
リックはサラダを食べる手を止めて名前に気遣わしげな眼差しを寄越した。そのリックの様子を見て、心配させてしまったことに対する申し訳なさが込み上げる。
名前は自身に対する苦笑いと共に「心配させてすみません」と謝った。
「リックとこんな風に過ごすのも最後だと思うと名残惜しくて。……あなたのケガが治って仲間のところへ帰ることは嬉しいんです。それでも少しだけ寂しく思います。私がここに来て一番親しくなれたのはリックだから。」
「名前……ありがとう。君は命の恩人というだけじゃなく俺にとって大切な友人だ。救世主だとかそういうことは関係ない。心からそう思うよ。」
思いがけない言葉に名前は目を瞠った。驚いて声が出ない名前をリックは優しい笑みを浮かべながら見守ってくれている。
リックから「大切な友人」だと言ってもらえるなんて考えたこともなかった。名前自身がリックに対して特別な親しみを感じているので嬉しさは格別だ。
名前は胸に湧き上がる喜びを噛みしめながら感謝を伝える。
「ありがとうございます。そう言ってもらえたこと、大事にします。絶対に忘れません。」
「大げさだ。二度と会えないわけじゃない。」
その言葉に対して名前は曖昧に頷くことしかできなかった。
「二度と会えないわけではない」というのは間違いではない。名前がアレクサンドリアの徴収に参加する可能性はあるので、その時に顔を合わせることはできる。
しかし、この一ヶ月間のように親しく言葉を交わすことは難しい。名前は救世主の一員であり、リックはニーガンが支配するアレクサンドリアの住人だ。互いの立場を考えれば気安く声をかけることは躊躇われる。せいぜい挨拶程度のものだろう。そうなると「二度と会えないわけではないが、友人として接することはできない」というのが正しい。
互いに余所余所しい態度になってしまうくらいなら二度と会えない方がマシなのかもしれない。それならば楽しい思い出だけが残るのだから。
そんな風に考えてしまうのも寂しい、と心の中だけで零しながら名前はサンドイッチを頬張った。
朝食後は最終的な準備を済ませると何もすることがなかった。出発の準備ができたら呼びに来てもらえることになっているので部屋で待機するしかない。
名前はリックから「少し話そう」と呼びかけられたため、彼と並んでベッドの縁に座った。
「君には本当に世話になったな。俺のせいで君まで部屋に缶詰め状態になってしまって本当に悪かった。」
「謝らないでください。意外に思うかもしれませんが、私は楽しかったですよ。」
「そう言ってもらえると助かる。」
リックは明るく笑い、名前も釣られて笑い声を上げた。笑いが治まると互いに相手の目を見つめる。
リックの目は初めて会った時と変わらず美しい。曇ったり濁ったりせず、いつまでも澄んだままでいてほしいと心から願う。
リックの目に見惚れる名前の目の前でリックが優しく微笑んだ。
「無理はするなよ。名前は頑張りすぎてしまいそうだから心配だ。」
「それはリックも同じですね。」
「否定できないな。」
そう言ってリックは苦笑した。
苦笑していたリックは名前に向ける視線の位置を顔から下に移動させ、何かに気づいたようにハッとした顔をする。
「見覚えのある服装だと思っていたんだが、君が着ているのは俺を助けてくれた時に着ていたものだよな?そのシミは俺の血だろう?」
「そうです。あの状態でよく覚えていましたね。」
痛みと出血のせいで何かに注目するのは難しい状態であったはずなのに、他人の服装を覚えていたリックに名前は驚く。
目を丸くする名前とは反対にリックは申し訳なさそうに目を伏せた。
「服を汚してすまない。服の一着だって貴重なのに……」
リックは名前が血の染み込んだ服を手放さないのは物資の節約のためだと考えているのだ。血で汚れたからといって貴重な服を捨てられず、シミが残った状態で仕方なく着ていると思われているに違いない。それだけでなく、服を汚してしまったことに対して罪悪感を抱いているのだろう。
それに気づいた名前は慌てて「違います」と頭を振る。
「この服を捨てないのは私にとって特別だからです。大切なものだから捨てないだけで、仕方なく着ているわけじゃありません。」
「特別?」
リックは不思議そうに首を傾げる。
「このパーカーとジーンズは私がサンクチュアリに来て初めて与えられた服なんです。これを貰った時の嬉しさと感謝の気持ちを忘れたことはありません。だから特別な日に着ると決めました。」
「……今日は特別な日なのか?」
「はい。ケガの治ったリックが仲間のところへ帰る日ですから。」
名前は胸を張って答えた。
大切な友人であるリックのケガが治り、彼が大切な人たちのところへ帰るのは名前にとっても喜ばしいことだ。その特別な日に着るのはこのパーカーとジーンズしかない。
リックは「そうか」と目を閉じて俯き、しばらく黙り込んだ。
暫しの沈黙の後、顔を上げたリックが名前を真っ直ぐに見る。
「俺にとってニーガンは仲間を殺した憎い相手だ。だが、君の命を救って守ってきたのもニーガンなんだよな。君だけじゃなくて他の人たちも。……それも一つの事実なんだと、ここに滞在して初めて理解した。」
リックは自分の言葉を噛みしめるように話した。その顔には複雑さが見えたが、どこか納得しているようにも思えた。
「ニーガンはサンクチュアリで暮らす多くの人々を守っている」という事実はリックにとって受け入れ難いことだ。ニーガンに感謝している人間がいることも同じだろう。それでも彼はそれらの事実を事実として認めて納得しようとしている。
目の前で複雑そうに笑うリックを見て、名前は「彼をここに連れてきたことは間違いだったのだろうか?」という疑問を抱いた。
サンクチュアリに連れてきて治療しなければリックは助からなかったので連れてきたことは間違いではないはず。
しかし、サンクチュアリに滞在したことでリックは今まで知らずに済んだことを知った。ニーガンに命を救われた人の存在やニーガンに感謝して生きる人の存在、そしてニーガンが弱い人々を守る姿など、今まで知ることのなかったそれらを知ることになったのだ。ニーガンを憎んできた彼は「ニーガンに救われて守られている人々の存在」を知りたくなかっただろう。
サンクチュアリに滞在する前のリックと今のリックとではニーガンの見方が異なる。その違いはリックの中にあるニーガンへの何かを鈍らせ、時としてリック自身を苦しめるかもしれない。そのように考えるとリックをここに連れてきたことが正しかったのかわからなくなるのだ。
リックにかけるべき言葉が見つからずに名前が黙り込んでいるところへドアをノックする音が響く。慌ててドアを開けるとドワイトが立っていた。ドワイトが呼びに来るとは考えていなかったため、驚いて反応が一瞬遅れる。
「──お疲れ様です。もう出発なんですね?」
「ああ、そうだ。準備はできてるな?」
「はい、問題ありません。」
名前がドワイトの問いに答えてからリックを振り返ると彼は既に立ち上がっていた。そのリックに向かってドワイトが告げる。
「あんたの武器はこっちで預かってる。アレクサンドリアに着いたら返す予定だ。」
それに対してリックは無言で頷いた。
ドワイトが「行くぞ」と促して歩き出したので、リックはその後に付いていく。名前もリックと並んで歩みを進める。
誰も声を発しないので名前は妙な気まずさを感じた。名前はリックと親しく会話ができるが、リックとドワイトはそうではない。彼らは支配する者と支配される者という関係でしかなく、ドワイトの前でリックに親しげに話しかけるのは躊躇がある。
気まずさを抱えながら歩くうちに一階に到着し、ドワイトは外へ続くドアを開け放してからこちらに顔を向けた。
「リック、車で移動する間は目隠しをしてもらう。これはニーガンの命令だ。」
ドワイトはジーンズのポケットから長い布を取り出した。それでリックの視界を塞ごうと言うのだ。名前がリックの顔を見ると彼は落ちついた表情で「わかった」と頷いた。
リックの了解を得られたので、ドワイトはリックの背後に回って目隠しを始める。ドワイトがドアの前から退いたことで外の様子が見えるようになり、出発の準備をする部下たちを見守るニーガンの姿が目に留まった。
その時、ニーガンがこちらに顔を向けた。ニーガンがこちらの存在に気づいたので名前は挨拶をしようとしたが、ニーガンが唇に人差し指を当てて「黙っていろ」と指示してきたため口を噤む。
ニーガンは気配を殺しながらこちらに近づいてきた。ドワイトはリックの目隠しをしながら視線だけをニーガンに向けたが、特に何も言わない。リックだけがニーガンの存在に気づいていない状態だ。
ドワイトは目隠しが終わるとリックの正面に立つニーガンの隣へ移動し、何かを確認するようにニーガンの顔を見る。ニーガンはドワイトの方に顔を向けて目配せをした。目配せだけでニーガンの意図を察したドワイトがリックに「移動するぞ」と声をかけた。
しかし、ドワイトは声をかけただけで動こうとしない。名前がドワイトに訝しげな眼差しを向けた時、ニーガンが動いた。
ニーガンはリックの隣に並んで彼の手を掴むと自身の腕を掴ませる。そのようにすることで車まで安全に誘導できるのだが、その行動を見て名前はニーガンがやろうとしていることをようやく理解することができた。ニーガンはリックに相手が自分であると気づかせないまま車まで誘導しようとしているのだ。リックがどのように反応するのかが見たいのだろう。
「ニーガンは本当にリックへの探究心に溢れた人だ」と名前が密かに苦笑した瞬間にリックが思いがけない反応を示す。
「──ニーガン、だよな?」
目隠しをしたままのリックは顔を微かにニーガンの方へ向けた。疑問系でありながらも半ば確信を持った口調で呼ばれ、ニーガンは目を丸くした。それだけでなく口が開きっぱなしになっている。
ニーガンは目を丸くしたまま「見えてるのか?」と尋ねた。それに対してリックはゆるゆると首を横に振る。
「全く見えない。だが、何となく気配であんただとわかった。」
その答えを聞いた途端にニーガンの表情が緩む。目尻が下がって口角が自然に上がる様子を目撃し、名前はニーガンから視線を逸らした。今のニーガンの表情は自分が見るべきものではない気がしたからだ。
ニーガンは嬉しそうな顔でリックの耳元に己の唇を近づけた。
「気配だけで俺のことがわかるようになったのか。ふーん、なるほどねぇ。」
耳元で囁かれたリックは鬱陶しげにニーガンから顔を離す。
「含みのある言い方はやめてくれ。」
「そんなことはない。お前の気にしすぎだ。さーて、出発の時間だぞ、リック。」
ニーガンは上機嫌な様子で言い、普段よりゆっくりと歩き始めた。緩めな歩調のおかげでリックが歩きにくいということはないようだ。
ニーガンに連れられて歩き出したリックがこちらに少し振り向いた。
「名前、本当にありがとう。元気でいてくれ。」
今度こそ最後の言葉だ。そう思うと胸がいっぱいになる。
名前は一歩踏み出しかけたが、その場に留まってリックの後ろ姿を見送った。そして、遠ざかる背中に向かって声を張り上げる。
「リックも!お元気で!」
名前の呼びかけにリックが小さく頷くのが見えた。
遠くまで移動したリックがニーガンの車に乗り込む姿を見つめていると肩を叩かれる。振り向けばドワイトが微かに笑みを浮かべていた。
「……一ヶ月、よく頑張った。行ってくる。」
労いの言葉と出発の挨拶を置いてドワイトは外へ出ていった。
名前は予想外の出来事に驚いたものの、すぐに笑顔を浮かべる。
「行ってらっしゃい。」
見送りの挨拶にドワイトからの反応は返ってこなかったが、きっと届いたはずだ。
アレクサンドリアの徴収に向かう救世主たち全員が車に乗り込むと、救世主たちの乗った車はニーガンが乗った車を真ん中に挟んで出発する。次々と走り去っていく車を名前は立ち尽くしたまま見送った。
そして、最後の一台が見えなくなると深い溜め息が溢れた。
遂に、リックがアレクサンドリアに帰っていった。
******
名前はリックとニーガンを見送った後、リックが使っていた部屋の片づけに追われた。
大型の家具以外を倉庫に運び、部屋の隅から隅まで掃除した。今後しばらく使用する予定はないだろうが、ニーガンの私室と同じ階の部屋であれば彼の新しい妻が使う可能性もあるため、徹底的にきれいにしておかなければならない。
部屋の片づけが完了したのは午後になってからだった。片づけが終わった後は自由にしていいと言われているので自室に戻り、ベッドにゴロンと転がる。
仰向けで寝転びながらボーッとし始めるとリックのことが脳裏に浮かんだ。
「帰っちゃったんだなぁ。」
この一ヶ月、名前はリックの世話に全力を注いできた。全力を注いできた対象がいなくなったために胸にポッカリと穴が空いたような感じがする。
この穴をどうやって埋めたらいいのだろうか、と名前は溜め息を吐く。
名前はしばらく寝転んでいたが、体を起こすとリックが使っていた部屋の鍵を掴んで部屋を出た。リックの部屋の鍵はニーガンが戻ってきたら彼に返さなければならない。その前にもう一度だけ中を見ておきたかった。
名前は目的の部屋の前に着くと深呼吸し、鍵を開けてドアを開け放つ。
片づけの済んだ部屋はひどく寒々しかった。今朝までは部屋に入るとリックが「おかえり」と微笑んでくれて、その度に心が温かくなったものだ。そのリックはアレクサンドリアに戻り、名前を出迎えてくれる者はいない。そのことが寂しくて仕方なかった。
名前は寂しさに胸を締めつけられながら自嘲する。
「……何やってるんだろう、私。」
リックの不在を寂しがる自身を情けなく思いながらも足が床に縫いつけられたように動かない。
名前が誰もいない部屋の中をぼんやりと見つめて立ち尽くしているところへ足音が近づいてきた。足音の方向に顔を向けるとこちらに向かって歩いてくるニーガンの姿が見えた。
開け放たれた部屋の前で突っ立っていれば不審に思われてしまう。名前は慌てて「お疲れ様です」と言ってドアを閉めようとした。その動きをニーガンは手振りで制する。
「そのままでいい。何をしてた?」
ニーガンはゆったりとした足取りで近づいてくると名前の前に立った。興味深げに光る目に見下されて緊張が全身を走る。
「鍵を返す前に部屋を見ておきたかったんです。片づけてしまったのでリックのものは何も残ってませんが……なんとなく。」
そう答えて再び部屋の中に視線を戻す。
部屋の中に視線を向けたまま黙っている名前の耳にニーガンの笑い声が届いた。
「寂しそうだな。置き去りにされた子犬みたいな顔をしてるぞ。」
ニーガンの指摘に名前は俯くしかなかった。寂しがっていることが顔に出ているなんて情けない。そんな情けない顔を見られたくなかった。
「リックは私にとって友人であり、兄のような人でもありました。だから彼がいなくて寂しい。それは否定できません。情けない話です。」
名前が声を絞り出すと労るように肩にニーガンの手が添えられる。ほんのりと感じる手の温もりに慰められたような気がした。
温もりに励まされて顔を上げれば、ニーガンが微笑みながらこちらを見ている。
「寂しいのはもう少しだけ我慢しろ。そのうちにリックは戻ってくる。」
当たり前のように言われた言葉の意味がすぐには理解できず、名前はニーガンの顔を凝視したまま「え?」と小さく声を漏らした。
「リックは戻ってくる」というのは「リックは再びサンクチュアリにしばらく滞在する」という意味なのだろうか?それとも全く別の意味なのだろうか?──例えば「リックは救世主としてサンクチュアリで生きる」というような。
名前の心臓が嫌な予感に騒ぎ始めると同時に目の前でニーガンがニヤリと笑う。それは支配者の笑みだ。
「お前もアレクサンドリアの状態を見ただろう?あそこは生産性がない。だから今の徴収量のままだと俺たちに差し出す物資は必ず足りなくなる。駆けずり回って集めるには限界があるからな。」
名前はニーガンがアレクサンドリアの現状を理解した上で今の徴収量を続けていることに大きな衝撃を受けた。彼は敢えてアレクサンドリアを追い詰めようとしているのだと知り、ショックで足が震えそうになる。
ニーガンは言葉の出ない名前には構わず楽しそうに話し続ける。
「差し出す物資が足りなくなったら俺は罰として奴らの誰かを殺さなきゃならない。それがルールだ。さて、そうなった時にリックはどうすると思う?」
質問を投げかけられた名前は必死に頭を働かせる。
「次の徴収で埋め合わせをするから待ってほしい、と頼むかもしれません。死んでしまったら仲間を守れなくなるので、始めから自分を犠牲にすることは考えない気がします。」
「いいね、俺もそう思う。リックにそんなお願いをされたら心の広い俺はそれを受け入れてやる。だが、次の徴収までに不足分まで集められると思うか?」
その問いに名前は首を横に振った。
必要な量の物資を集めきれなかったために不足分の徴収を次に回すのだから、奇跡でも起きない限り物資を大量に集めるのは無理だろう。どれだけ足掻いてもリックはニーガンの前に跪くことになる。
「量が足りなきゃ俺は罰を与える。今度は延期しない。誰かが罰を受けるのを避けられない状況であいつはどう動く?」
ニーガンは楽しそうに笑っている。まるでリックを相手にしている時のようだ。
名前は声が出しにくく感じながらも唯一の答えを口にする。
「彼なら自分の身を差し出すと思います。自分はどうなっても構わないから仲間を助けてほしいと頼むはずです。……リックはそういう人ですから。」
名前の答えにニーガンは満足げに頷いた。
「その通り。だから、リックがそう言ったら俺はこんな提案をするのさ。『お前が俺の部下として働くなら罰を免除して徴収量も軽くしてやる』ってな。」
名前は顔に笑みを浮かべたままのニーガンを凝視する。ニーガンを見つめる自身の目に彼の考えを否定する色が宿っているだろうが、それでも目を逸らそうとは思わない。
名前はニーガンという男に対して心からの感謝を捧げてきた。彼に対する畏怖はあったが、それでも尊敬し続けてきた。彼のやり方を否定しようとも思わなかった。
しかし、今回だけはニーガンの考えを受け入れられない。
名前は覚悟を決めて両の拳を握りしめた。
「──生産性がないからこそアレクサンドリアにはリックが必要だと思います。彼なしであの町はやっていけない。」
名前は声が震えそうになるのを堪えながら反対意見を述べた。その途端にニーガンの顔から笑みが消え、感情のない眼差しが注がれる。
ニーガンは名前の肩から手を離し、その手を己の腰に添えた。
「お前はリックを連れてくることに反対か。理由を聞こう。」
名前は「はい」と頷く。
「アレクサンドリアは他のコミュニティーと違って畑は未熟で、家畜の飼育もしていません。道具や工具を生産することも現状では無理です。何かを生産できるようになるまで凌ぐにはきちんと指揮を執る人間が必要だと思います。」
「それならリック以外の奴でも構わない。あいつに拘る理由がないぞ。」
「リックの代理は彼の息子が務めていました。子どもがリーダー代理をしなければならないのはリーダーに向いた人間が他にいないということでは?それなら──」
「名前、お前は勘違いしてる。」
そのニーガンの声はとても落ちついた声音だった。それなのに喉元に刃物を突きつけられたような恐怖を感じる。
名前が顔を強張らせるとニーガンはうっそりと笑った。
「アレクサンドリアのリーダーはリックじゃない。俺だ。」
それを聞いた瞬間にサッと血の気が引いた。
アレクサンドリアはニーガンの支配下にあるコミュニティーだ。支配下に置かれた瞬間からあの町のリーダーはリックからニーガンに変わった。コミュニティーの運営方針を決めるのはニーガンであり、リックの役割はそれが上手くいくように補佐するものでしかない。つまり、「アレクサンドリアのリーダーはリックにしか務まらない」という主張は意味がないのだ。
名前は必死に考えて別の反論材料を探す。
「申し訳ありません、アレクサンドリアのリーダーはあなたです。とんでもなく間違った認識をしていました……。ですが、彼をアレクサンドリアから取り上げることには賛成できません。」
ニーガンは変わらぬ笑みのまま「次の理由は?」と尋ねてきた。
感情が全く読めない相手というのは本当に恐ろしい。感情が読めないということは行動を読むこともできないため、次の瞬間には首を締め上げられてもおかしくないのだ。
名前は恐怖から込み上げる涙を散らすために瞬きを繰り返す。
「ダリルを見て思いましたが、リックと彼の仲間との結びつきは強いものです。彼らからリックを取り上げれば反発は大きなものになると思います。もしかしたら反乱にまで発展するかもしれません。そのリスクを犯してまでリックを手元に置く必要がありますか?」
名前は持論を展開しながら「なんて弱い理由だろう」と心の中で嘆く。
ニーガンはアレクサンドリアの住人たちを徹底的に打ちのめした上で支配下に置いたのだから反乱を起こす可能性は極めて低い。その上、皆をまとめるリックがいなければ更に反乱の可能性は低くなる。説得力は皆無に等しい。
それでも抵抗せずにいられないのはリックの仲間を想う気持ちを知っているからだ。リックを彼の大切な者たちから引き離したくなかった。
そして何よりも、ニーガンのリックに対する執着が恐ろしかった。底のない執着がリックの全てを絡め取った時、リックがどうなってしまうのかが恐ろしくて堪らない。
名前は恐怖心を抑えつけて懸命にニーガンを見据える。ニーガンは無言で視線を返してきたが、やがて掌を名前の頭に乗せた。
「お前は意外とガッツがある。俺は好きだぞ。」
ニーガンは子どもに対するような手つきで名前の頭を撫でるが、その目には温もりがない。ただ闇が広がっているだけだ。
感情の窺えない笑みを浮かべたニーガンは名前にとって最後の一撃となる言葉を口にする。
「いいか、名前。リックが仲間を救うために俺の部下になることを望んだら、それに文句を言える奴は誰もいない。なぜか?──リック以外に自分たちを救える人間がいないと理解してるからだ。」
大切な秘密を打ち明けるように囁いた男の顔を名前は呆然と見上げた。
「リックは簡単に諦めるような男じゃない。仲間の頭を潰されても俺に向かって『お前を殺す』と言った奴だぞ。そんな奴が跪いて許しを乞う時は本当にどうにもならない時だけだ。それをあいつの仲間は理解してる。」
「だからアレクサンドリアの住人は反抗しないと言うんですか?」
「そういうことだ。多少は揉めるだろうが、奴らは最終的にリックが決めたことを受け入れる。信頼関係があるからこそ、そうなるんだ。」
その主張に対する反論材料を名前は持っていなかった。
リックが彼の仲間に寄せる信頼は厚く、彼の仲間からのリックに対する信頼も同じはず。強固な信頼関係があるからこそリックの仲間は彼の決断を退けられない。その読みは外れていないだろう。
名前は敗北感に打ちのめされながら声を絞り出す。
「……リックを放っておくことはできませんか?彼は仲間を守りたいだけです。あの場所で、自分の周りにいる大切な人たちを守りたいだけなんです。」
懇願の響きを含んだ声にもニーガンの心が動いた様子はなく、ただ苦笑を滲ませるだけだった。
名前の頭を撫でるニーガンは「よーく聞けよ」と諭すように話す。聞き分けのない子どもに言い聞かせるような口調だと感じながら、名前は小さく頷いた。
「リックにはちっぽけな町のまとめ役でいてもらっちゃ困るんだ。あいつには俺の手伝いをしてもらわなきゃならない。」
「手伝い?」
「世界を救う手伝いだ。あいつはリーダーには向いてないが、優秀な人材なのは間違いない。リックみたいな男があの町を守るだけで済ませるのは俺が許さない。だから、どんな手を使っても町から引きずり出す必要がある。」
ニーガンの言葉は名前にとって意外なものだった。ニーガンがリックを手元に置きたいのはリックへの執着心が理由だと思っていたが、それだけではなかったのだ。
返す言葉もなくニーガンを見つめる名前の頭からニーガンの手が離れ、それと同時にニーガンの視線は部屋の中に移った。その視線の先にはリックが使っていたベッドがある。リックはサンクチュアリでの滞在中、多くの時間をベッドの上で過ごした。そのため、ベッドはサンクチュアリでの彼の居場所だったとも言える。
空になったベッドを真剣な面持ちで見つめるニーガンの脳裏にはリックの姿が浮かんでいるのだろうか?
そんなことを考える名前にニーガンは語り続ける。
「さっきも言ったが、リックは諦めが悪い。時間が経てば今の状況を変えたいと考えるようになるはずだ。だから奴の心をもう一度折らなきゃならない。俺の手でリックの心をもう一度折ってやれば、今度こそあいつは自分から進んで俺に跪く。」
ニーガンは名前に語りかけているように見えるが、そうではないことを名前は知っている。彼の心は遥か遠くのリックの下にあるのだ。
名前はニーガンの横顔に問う。
「リックの心を折るための手段が徴収での失敗ですか?」
ニーガンは名前の問いにすぐには答えなかった。視線だけをこちらに寄越し、しばらく無言のままだった。
そして再び視線を空のベッドに戻すと微かに口角を上げる。
「その通りだ。徴収の時に差し出す物資が足りなかったらアレクサンドリアの誰かの死に直結する。それはリックが仲間を救えないって意味で、仲間の死はあいつにとっての敗北だ。そうなった時、あいつは俺に二回目の敗北をすることになる。」
「そうなればリックは二度と立ち上がれませんか?」
「ああ、そう思う。俺に二回も『お前は誰も救えない』と突きつけられるんだからな。だが、俺ならリックを救ってやれる。」
ニーガンはその言葉と共に名前に顔を向けた。こちらを向いた彼の目の力強さに名前は息を呑む。
自信に満ちた──いや、確信を持った目だ。不確かで不安に覆われた世界における唯一確かなものだと信じたくなるようなニーガンの目の力強さに名前は心を奪われ、呼吸をすることさえ忘れた。
そんな名前にニーガンは堂々と言い放つ。
「俺は世界を救うと決めた。そんな俺ならあいつ自身も、あいつの守りたい連中も救える。だから──」
ニーガンはそこで言葉を切って思いを馳せるように視線を宙に動かした。
しかし、その視線はすぐに名前を捉える。
圧倒的な支配者の視線に全身を縫い止められてしまった名前の視界の中で、その人は誇らしげに笑った。
「──リックは俺の隣にいるべきだ。そうだろう?」
******
世界が鮮やかな夕焼けの色に染まる中、名前は自室のベッドに腰を下ろして俯いていた。力なく項垂れる様は敗戦者の姿そのものだ。
「リックを救いたい」と挑んだニーガンに名前は負けた。始めから勝負になどなっていなかった。ニーガンという男は常人が考え及ばぬことにまで手を伸ばし、思考を巡らせることができる。そんな相手に敵うわけがなかったのだ。
ニーガンは本気でリックを自分の隣に置きたいと望み、それがあるべき姿だと確信している。それほどにリックの存在を望むのならば彼はリックを手に入れるだろう。リックが全力で抗っても逃れられるかはわからない。
名前は力なく投げ出した己の足を眺めながらニーガンに言われたことを思い返す。
『嬉しい誤算はお前だ、名前。お前はリックの枷になる。』
それを言われた時、どういうことなのか意味がわからなかった。自分の存在がリックの枷になると言われても今の名前はリックから離れた状態だ。
訝しげに首を捻る名前にニーガンが告げた言葉は衝撃的だった。
『今日、リックからお前のことを気にかけてやってほしいと頼まれた。それぐらいにお前はリックにとって大切な仲間だってことさ。アレクサンドリアの連中と同じで、お前はあいつにとって家族なんだろう。だからお前がここにいることがリックの枷になるんだ。』
衝撃が全身を駆け巡った後に訪れたのは深い後悔だった。
リックにとって名前が大切な仲間であればアレクサンドリアの仲間を人質に取られているのと同じだ。ダリルに代わって今度は名前がリックの枷になってしまった。
名前は自分がリックの枷になっているという事実に溜め息を吐き、ニーガンから言われた言葉の続きを声に出してなぞる。
「お前をリックの補佐役にする……か。」
ニーガンはリックが自分の部下になったら名前を彼の補佐役にすると宣言した。
サンクチュアリに滞在している間のリックが名前を頼りにしていたことは名前自身が一番よく理解している。ここでのリックの味方は名前だけなのだということも明らかだ。もしリックがニーガンの部下としてサンクチュアリに来た場合、名前が補佐役にならなければ彼は孤立するだろう。だから名前が補佐役の話を断ることは有り得ないとニーガンは確信している。
そして、名前が補佐役になればリックは監視役も兼ねていると解釈するはず。そのように解釈すれば「自分が反抗したり逃走すれば罰を受けるのは監視役の名前だ」と思い、リックはニーガンに抗えなくなる。
つまり、リックは名前という仲間を得たことによってニーガンに翼を折られるのだ。
「……リックの重荷になりたくない。でも、もし彼がここに来たら放っておくことなんてできない。」
名前は本音を吐き出しながら両手で顔を覆う。そうしないとみっともなく泣き出してしまいそうだった。
負傷したリックを助けた時はこのような展開が待ち受けていると考えてもみなかった。自分たちの友情がリックの枷になると想像できるはずがない。
恐らくニーガンは名前がリックを助けた時から計画していたのだろう。名前とリックが共に過ごす時間を多く持てば友情が芽生え、それはリックを自分に縛りつけるための道具になると踏んだのだ。その計画は順調に進み、後はアレクサンドリアが徴収のための物資調達に失敗するのを待つだけとなった。
顔を覆う両手の隙間から消え入りそうな声が漏れる。
「お願いだから……徴収を乗り切って。」
名前は震える声で祈った。それだけが今の名前にできる唯一だった。
一人きりの部屋には苦悩に満ちた呻き声が響く。
しかし、名前にはそれと同時にニーガンの思い描いた未来が近づいてくる足音が聞こえるような気がした。
END