ニガリクにまつわるお題【ニガリクにまつわるお題】
・キャンピングカー
「おっ!あのキャンピングカーには見覚えがあるぞ!」
我が物顔でアレクサンドリアの中を歩き回るニーガンの弾む声を聞き、その後ろを俯き気味に歩いていたリックは顔を上げる。支配者が見つけたのは一台のキャンピングカーだ。
アレクサンドリアにあるキャンピングカーは一台のみ。突然の腹痛に苦しむマギーをヒルトップへ連れて行くために使い、無惨に頭を潰されたグレンとエイブラハムの遺体を運んだのがその車だ。惨劇の夜の記憶と嫌でも結びつく車を処分したい気持ちはあったが、現役で使える車の台数を考えると廃車にはできなかった。そのため普段は目につかないよう町の奥側にひっそりと停めておき、乗る時だけ引っ張り出してくるようにしていたのだ。
自分や皆のトラウマを刺激する車をニーガンが見つけてしまったことにリックは溜め息を零したくなったが、それを堪えてキャンピングカーの周りを彷徨くニーガンに近づく。そうするとニーガンがこちらを振り返ってニヤリと笑った。
「こいつは俺たちが初めて会った夜に乗ってたやつだろ?死人どもに荒っぽいことをされた割にはピンピンしてやがる!」
ニーガンはそのように言いながら興味深げに車体を小突いた。その様子がはしゃいでいるように見えて苛立ちが募るが、それを表に出してはならない。
リックは冷静さを装いながら「あの時のキャンピングカーで合ってる」と答えた。
「故障していないから今でも使ってるんだ。ニーガン、特に目新しいこともないから他へ行こう。」
ニーガンをキャンピングカーから引き離そうと移動を促しても効果はなく、ニーガンは「焦るなよ」と指を振って車に乗り込んでしまった。こうなってはリックも付き合うしかなくなり、後を追って車のステップを踏む。
リックが車の中に入るとニーガンの姿は奥のベッドルームにあり、彼は両足を投げ出すようにしてベッドに座っていた。
リックはベッドルームの出入り口まで移動してニーガンを睨む。
「ニーガン、この車には何も積んでいない。降りてくれ。」
降車を促す声がどこか切迫しているように聞こえるのは気のせいではない。リックはニーガンと共にキャンピングカーに乗っているという状況が嫌で堪らなかったのだ。
仲間二人が殺された後にニーガンと二人だけでキャンピングカーに乗ったこと。連れて行かれた先で「自分は仲間を守れず、思い描いた未来は来ない」と突きつけられたこと。打ちのめされたまま仲間の遺体を車に乗せてヒルトップへ向かったこと。思い出される何もかもが心の傷を抉る。
忌まわしい記憶を呼び起こすキャンピングカーにニーガンが乗っているということがリックを精神的に追い詰めた。このキャンピングカーにニーガンの姿があるだけでリックの心を惨劇の夜に引き戻してしまうのだ。だから一秒でも早くニーガンをこの車から降ろしたいと望む。
だが、リックの望みは叶わない。ニーガンと出会ってからリックの望みが叶ったことなど一度もない。それを証明するかのようにニーガンの手がリックの腕を掴み、半ば強引に隣へ座らせられた。リックが思わず俯くと顎に指が添えられる。
「リック、顔を上げろ。」
支配者の命令に逆らえずに顔を上げれば視線が絡み合う。一度目を合わせれば逸らすことができない。まるで呪術でも掛けられたようだ。
リックが眼前に迫る瞳から視線を外せずにいるとニーガンが悠然と微笑む。
「この車を処分しなかったことを褒めてやる。これは俺たちの思い出のキャンピングカーだからな。あの時のことは忘れてないだろ、リック?」
「……ああ、覚えてる。」
忘れられるはずがない。この男と交わした言葉も、受けた仕打ちも、全てが魂に刻まれているのだから。
リックの答えにニーガンは満足げに笑い、顔が近づけられた。
「それでいい。お前は俺とのことを全部記憶しろ。今までのことも、これからのことも、全部。」
命じられたことに対して「嫌だ」と答えたくとも口はキスで塞がれた。いや、口を開くことができたとしてもリックに拒否権はない。ニーガンから与えられる全てを受け入れて生きるしかないのだ。
嫌悪を抱きながらもキスに応えようとリックが目を閉じた時、今座っているベッドにグレンの遺体を寝かせたのだと思い出す。そして「そのような場所で自分はニーガンと唇を重ねているのだ」と思い至り、吐き気がした。
END
・ルシール
リックに「ルシール」を手渡したのは思いつきだった。愛する仲間の頭を粉砕した凶器を持たされて、それを憎い相手に向けて振り下ろさずにいられるのか試したいという気持ちもあったが、「面白そうだから」という単純な理由が一番強い。
ルシールを持ったリックは怒りの中にも怯えがあるように見えた。それは仲間の死の瞬間が蘇ったからなのかもしれないし、ルシールを持つことで憎悪に囚われるのを恐れたからなのかもしれない。
アレクサンドリアの中を見て回る間、リックは大人しくルシールを持っていた。──いや、「大人しく」というと少し違う。彼は努力してルシールを振り回さないようにしていたのだ。
俺の放つ言葉に感情が揺さぶられるたびにリックはルシールを強く握った。爆発しそうな怒りを押し殺すように。憎しみに心を渡すまいとするように。宿敵の凶器を振り上げてしまわぬように。込み上げる激情を飲み込むたびにリックはルシールを握りしめた。それを俺は素知らぬ顔で見ていた。
リックは気づいていたのだろうか?渦巻く感情を飲み込めば飲み込むほど自分が目の前の男に屈していくことに。振り上げられることのないルシールが屈服の証拠なのだということに。
結局、どれだけ揺さぶってもリックが俺に向かってルシールを振り上げることはなかった。それは彼の従順を示すもの。これほど愉快で心を満たしてくれることはないだろう。
帰り際、立ち尽くすリックからルシールを取り上げてみた。強く握り締められていたそれは温かく、手汗によって湿っていた。それに不快感を抱くことはない。寧ろその逆で、思わず笑みが零れた。
END
・イチゴ
春が来た。カールを亡くして初めての春が。
救世主との戦いで大きな損害を受けたアレクサンドリアの復興は、共に戦ったヒルトップやキングダムの支援を受けて少しずつ進んでいる。以前よりも発展した町にしようと皆が懸命に働くおかげで復興への足取りは確かなものだった。
アレクサンドリアが美しい町並みを取り戻しつつあることを誇りに思いながらも、この町にカールの姿がないことが寂しい。最愛の息子がいないアレクサンドリアに寂しさを感じるたびに「自分はカールが死んだ瞬間に心が留まったままなのではないか?」と疑念を抱く。
「サンクチュアリを含めた全てのコミュニティと手を取り合って生きてほしい」というカールの願い。それを自分の願いとして前を向いて生きているつもりが、実は過去から一歩も動けていないのではないかと自身を疑った回数は数えきれない。それだけでなく「なぜ敵だった人間が息をしていてカールは冷たい土の下にいるのだろう?」と考えて眠れなくなったこともあった。そして、カールの死に対する怒りを持て余した時は牢屋にいる元支配者──ニーガンの元へ殺意を持って向かう。
しかしニーガンの顔を見るとカールの願いを思い出し、一瞬で殺意が消えた。そして殺意を抱いた自身への嫌悪を感じながら牢屋を後にするのが常だった。それが重なるとニーガンのいる牢屋から自然と足が遠のき、定期的にニーガンの健康チェックを行うセディクから「ニーガンがリックに会いたがっているから顔を見に行ってほしい」と頼まれても足を運ぶ気になれない。
最後に牢屋を訪ねたのは一ヶ月前だ。そろそろニーガンの様子を見に行くべきだと理解していても気が乗らず、今日も「作物の様子を見なければならないから」という言い訳を盾にして畑やプランターを見て回っていた。
順調に育つ作物を見て少し気持ちが晴れたことを感じながら歩いていると、色鮮やかな赤色──イチゴが目に留まる。種から育てたイチゴは食べられるまでに成長しており、つい先日、熟したものを収穫したばかりだった。今実っているのは先日の収穫時点では熟していなかったため穫らずに残しておいたものだ。
イチゴの前に屈んで赤く輝くそれを見つめていると、ニーガンとの和解を求めたカールに「ニーガンと一緒にイチゴを摘めって言うのか?」と返したことを思い出す。当時はニーガンと和解するなんて有り得ない考えだった。今でも和解できたとは言い難く、自分の気持ちも日々変わり安定していない。それでも今この瞬間だけは「ニーガンにイチゴを分けてやってもいいかもしれない」と思う。
今の己の気持ちに従い、しっかり赤くなったイチゴに手を伸ばした。一つ目は自分が収穫した分として。二つ目はカールが収穫した分として。三つ目は……ニーガンの代わりに。
ニーガンの代役のつもりで摘んだ三つ目のイチゴは自分で食べてみたかったので口の中に放り込む。噛めば甘酸っぱい果汁が口内に広がったが、それは甘みより酸味の方が強い。
「……酸っぱいな。」
思わず零れた独り言に苦笑する。少々酸っぱいが、奴も久しぶりのイチゴに文句は言わないだろう。
そんなことを考えながら立ち上がり、迷わず牢屋を目指す。掌の上の二つのイチゴが反動で微かに揺れるのを感じながら歩き、目的地に到着すると牢屋へ続く扉の前で足を止めた。軽く息を吐いてから扉を開け、ゆっくりと階段を下りていく。
一ヶ月振りに訪れた牢屋は記憶の中よりも薄暗く感じられた。その薄暗い部屋の奥にはニーガンが居る。
部屋の奥に進むとニーガンは待ち構えるように鉄格子の前に立ち、以前と変わらない笑みを浮かべた。
「リック!偉大なる王!我が王は薄汚いネズミのことなんて忘れちまったと思ってたが、やっと思い出せたようだ。」
牢の中から皮肉たっぷりの言葉が飛んできたが想定内だ。囚われの身となってからニーガンが皮肉を言わずにいられたことなど一度もない。
「忙しくて来られなかっただけだ。報告はきちんと聞いてる。」
そのように答えながら鉄格子を挟んでニーガンと向かい合う。
久しぶりに顔を合わせて感じることだが、この男の存在感や他者を圧倒する雰囲気は何も変わっていない。救世主として一帯を支配していた頃と何一つ変わらないのだ。どうすればここまで自分を強く持っていられるのだろう?
羨望にも似た感情が心の片隅に芽生えたことから目を逸らし、目の前の男と視線を重ねる。
「診察のたびに俺との面会をセディクに要求していたんだってな。ニーガン、彼は医師としてここへ来ているんだ。困らせるな。」
効果は期待できないと思いながらも注意すると、ニーガンはわざとらしく肩を竦めた。
「囚人だからって何も要求しちゃいけないなんて決まりはないだろ?要求がお前との面会なら可愛いもんさ。お前の家からここへ来るには五分も掛からないんだから。違うか?」
ニーガンがニヤニヤと笑いながら放ったのは嫌味だ。一ヶ月も会いに来なかったことが気に入らないのだろう。
嫌味に対して「俺は暇じゃないんだ」と返し、不毛なやり取りを終わらせるためにイチゴを差し出す。差し出したイチゴに視線を落としたニーガンの顔には珍しく驚愕の色があった。その顔を見つめながら「差し入れだ」と告げると訝しげな眼差しが返される。
「差し入れ?お前が俺に?」
「たまたま収穫時期のイチゴがあったからな。気まぐれだ。」
「気まぐれ、ね。」
ニーガンは小さく呟き、探るようにジロジロとこちらを見るだけでイチゴには手を伸ばそうとしない。その遠慮の欠片もない視線に嫌気が差したので奴を睨みつけた。
「今回みたいな気まぐれは二度とないが、俺からの差し入れは安心して食べられないようだから持ち帰る。邪魔したな。」
素っ気なく言い捨ててニーガンに背を向けると「待てよ、怒るな」と呼び止められる。振り返ればニーガンが掌を上にして手を伸ばしていた。その顔には笑みが浮かんでいる。
「お前が俺に差し入れするなんて思ってもみなかったから驚いただけだ。……まあ、お前が盛った毒で死ぬのも悪くない。」
「何だと?」
ニーガンの言葉はたちの悪い冗談にしか聞こえないが、声は本気であるように感じられた。不謹慎な一言への抗議として強く睨みつけるとニーガンの笑みが深くなる。
「冗談だ。まだまだお前を見ていたいのに死のうなんて思うわけがない。──良い子だから、そのイチゴを寄越せ。」
ニーガンはそう言ってこちらへ手を伸ばし続ける。その様子に溜め息を落としてから奴の掌に二つのイチゴを置いてやった。
イチゴを受け取ったニーガンはイチゴを乗せた手をゆっくりと牢の中に戻し、一つ摘むと目の前へ掲げてじっくりと見つめる。まるで珍しいものを観察するかのように目を輝かせる男の姿は意外なものだった。以前の世界では珍しくも何ともないものであっても今のニーガンにとっては興味を引かれるものなのかもしれない。
そんなことを考えながらニーガンを見ていると、奴は観察していたイチゴを口の中へ入れた。じっくりと味わうように咀嚼するニーガンの顔には穏やかな笑みが広がり、その笑みが幸福を表すものだと気づいた瞬間、奴から目が離せなくなった。
ニーガンがイチゴを飲み込んでから数秒後、奴の声が狭い部屋の中に小さく響く。
「──甘いな。」
幸せそうに。愛を囁くように。甘やかな声が男の唇から漏れた。そして、そのように呟いた時の表情の柔らかさは初めて目にするものだった。
自分はイチゴを酸っぱいと感じたが、ニーガンは甘いのだと言う。それはイチゴの甘さが違うだけなのか心境の違いなのかはわからない。ただ一つ確かなのは、ニーガンの見せた表情や呟いた声に自分の心臓が大きく跳ねたということだ。
もし今のような形ではなくもっと穏やかに戦争を終わらせていたのなら、ニーガンの柔らかな表情や声が日常の一部になっていたのかもしれない。
有り得ない仮定の話を思い浮かべながら見つめる先では、二つ目のイチゴがニーガンの口の中へ消えていった。
END
・革ジャケット
俺が物資調達から戻ったのは夕方だった。早朝に出発して一日中物資を探し回り、疲れた体を引きずって町のゲートを越えてみれば、疲れた表情のトビンから「昼間にニーガンが来た」との報告を受けた。
今日は徴収日ではない。だから物資調達へ出かけたというのに、よりによって今日ニーガンが来たというのだ。俺が不在だと知って少し機嫌を悪くしたそうだが、特に目立ったトラブルはなく、勝手に俺の家で過ごして帰っていったと聞き胸を撫で下ろす。偶然にもカールをヒルトップへ遣いに出していたことや、ジュディスを他の家に預けていたのは運が良かった。
ジュディスを迎えに行く前に家の中をチェックしておこうと我が家へ向かい、中に入って間もなくダイニングチェアに視線が吸い寄せられる。ダイニングチェアの背に真っ黒な革ジャケットが掛けられていたからだ。
俺の知る限りでは黒の革ジャケットを愛用しているのはニーガンしかいない。そして、そのニーガンがこの家で過ごしたということはジャケットの持ち主が奴以外に有り得ないということだ。
革ジャケットを手に取って見下ろすだけで自然と眉間にしわが寄る。脱いだ革ジャケットをダイニングチェアに掛けたまま忘れていったと考えるのが普通なのだろうが、ニーガンの場合はわざと置いていったとしか思えなかった。徴収日以外でアレクサンドリアを訪ねるための口実を作ったのだろう。「そんな口実を用意しなくても遠慮なく来るくせに」と苛立ちが募る。
このままダイニングルームに革ジャケットを置いておくわけもいかず、忌まわしいそれを持って自分の寝室へ移動した。そしてクローゼットを開けてハンガーに革ジャケットを掛ける。自分の服に混じってニーガンの革ジャケットが並んでいることに表現しようのない嫌悪感が込み上げ、クローゼットを閉める手つきが荒っぽくなった。
(どうせ明日にでも取りに来るだろう)
そう考えて頭から革ジャケットの存在を締め出そうとしたが無駄だった。自分の部屋のクローゼットにニーガンの革ジャケットがあるという事実が頭から離れず、何をしていてもそのことが気になって仕方なかった。
眠ろうと寝床に横になってもクローゼットを意識してしまって寝付けない。ニーガンのトレードマークとも呼べる黒の革ジャケットは俺には悪影響なのだ。「明日になればニーガンがジャケットを取りに来る」と自分自身に言い聞かせて無理やり眠ったものの、夢に革ジャケットを着たニーガンが出てきたので睡眠の質は最悪だった。
ところが翌日、ニーガンは来なかった。愛用のジャケットをすぐに取りに来ると思っていたのに、部下さえ寄越さなかったことに愕然とする。そのため奴の革ジャケットは未だに俺のクローゼットの中にあった。
胸にしこりを抱えたまま一日を過ごし、翌日に備えて寝るために部屋に戻った俺はクローゼットの前に立つ。閉めた状態のクローゼットを睨み、深呼吸をしてからクローゼットの扉を開けてみた。当然だが、そこには真っ黒な革ジャケットが存在している。それを目にしただけでニーガンの不敵な笑みが脳裏に甦り、寒気で体が震えた。
この革ジャケットはニーガンの分身だ。それが家にあるだけで俺は奴の存在を意識し続けなければならず、安らげるはずの我が家であっても居心地が悪い。じわじわと毒されていくような感覚に恐怖すら覚える。俺は寒気に震える自身を抱きしめながら「早く来てくれ」と願う。
ニーガンにアレクサンドリアへ来て欲しい。早くここへ来て革ジャケットを持って行ってほしかった。誰よりも会いたくないはずの男の訪問が今はひたすらに待ち遠しい。
俺は落ち着かない気持ちを抱えたまま夜を過ごし、寝不足の状態で朝を迎えた。ストレスと寝不足で精神的に不安定な状態で様々な作業を行っているところへ「ニーガンが来た」との知らせが届く。その瞬間に自分が「ようやく来てくれた」と安堵の息を吐いたことに気づき、自身への怒りに顔が歪んだ。
ニーガンの訪問を待ち望むなどあってはならない。いくら理由があるとはいえ、心がニーガンの訪問を受け入れてしまったことが許せなかった。
苛立ちに任せて「くそっ!」と吐き捨ててから我が家へ向かって走り出す。クローゼットに居座るニーガンの革ジャケットを奴に突き返す、そのためだけに。
END
・ビデオカメラ
アレクサンドリアで見つけたビデオカメラにはお宝映像が記録されている。それは「居住審査」を受けるリック・グライムズの映像だ。
映像の中のリックは髪も髭も伸びきっており、髭に至っては顔の下半分を覆い隠すほど長い。それに加えて薄汚れた肌やヨレヨレの服などから長旅の過酷さが垣間見えた。過酷な旅をしてきたのであれば疲れているはずなのに、彼の目は力強さを保ったまま面接官を見据えている。
面接官の質問に答えるリックは理性的でありながらも野生の獣を思わせた。警戒心を隠そうともしない姿は手負いの獣のよう。その心身に受けた傷は愛する仲間たちを守るために負ったものなのだと察するのは容易い。
リックは審査の中で「家族を守るために人を殺した」と話し、「自分の家族を生かすために相手が死んだ」とも語った。そこに悔いは見られない。淡々と語る彼の冷酷さと家族を守ることに対する執念には感嘆する。
守るべきもののためなら心を揺らすことなく敵の喉を食いちぎる人間。それがリックだ。「守る」ことに特化した本能は獣となって姿を現す。その姿がビデオカメラによって記録されているのだ。
しかし、獣の皮を剥ぎ取ってやればどこにでもいる普通の男に戻る。残酷な現実に打ちのめされてハラハラと涙を零す様子からは強いリーダーを連想することはできないだろう。
そうかと思えば憎しみを眼差しに乗せて真っ直ぐにこちらを見る。腹の底で煮えたぎる怒りを押さえ込みながら貢ぎ物を探し出して走り回る。屈辱に顔を歪ませながらも仲間のために全てを飲み込む強さをリックは持っていた。
リックを何かに例えるならば、カレイドスコープが相応しいだろう。会うたびに新たな一面を見せてこちらを魅了するところがとても似ている。その全てをこのビデオカメラに収めたいが、彼は嫌がるに違いない。それならば自分というビデオカメラで記録しよう。それはきっと何よりも楽しい。
そんなことを考えているうちに、再生中だったリックの映像はいつの間にかエンディングを迎えていた。
END
・スパゲティ
穏やかな日差しが降り注ぐ午後。それと真逆なのはリックの心の中だ。
なぜリックの心の中が荒れ模様なのかといえば、宿敵であるニーガンが用事もないのに訪ねてきたからだ。徴収日以外でのニーガンの訪問はアレクサンドリアの全住民の頭痛の種である。
ニーガンは「暇つぶしに来た」と言ってリックの家に上がり込んで持参した雑誌を読み始めた。読書なら己の本拠地で行えば良いのだが、それを指摘したところで適当にかわされてお終いだろう。それを理解しているからこそ何も言えないストレスが溜まるのだ。
仕方なくリックが読書中のニーガンの傍らで豆の皮むきを行っていると、雑誌に視線を落としたままのニーガンから「おい」と呼びかけられる。
「お前の好きなスパゲティは何だ?」
ニーガンからの問いかけにリックは「何だって?」と眉根を寄せた。その反応に支配者が気分を害した様子はなく、彼は雑誌を捲り続ける。
「お前の好きなスパゲティが知りたい。何が好きなんだ?クリーム系か?それともペペロンチーノ?」
意図の読めない質問にリックの眉間のしわが深くなる。
この男との会話は疲れる、とリックは溜め息を吐きたい気分になった。
「どうして俺の好きなスパゲティを知りたがるのか理解できない。どうでもいいだろう。」
素っ気なく返すとニーガンが視線を寄越す。
「ランチでもして親交を深めようと思ってな。良いアイディアだろ?」
続けて「この前はリック抜きだったからな」と笑う男に、リックは我慢していた溜め息を吐き出した。
「この前」というのはサンクチュアリに侵入したカールをニーガン自ら送り届けてきた時のこと。リックは調達に出ていて不在だったが、その際にニーガンはスパゲティを作ってカールとジュディスと共にランチタイムを楽しんだのだ。その後に起きた事件はリックにとって辛く苦い記憶となっている。
忘れたくても忘れられない事件が脳裏に甦ったせいで顔をしかめるリックをニーガンが気にした様子はなく、それどころか「早く答えろ」と楽しげに急かしてきた。リックは目の前の男に気遣いを期待するだけ無駄なのだと諦め、むいたばかりの豆と皮を別々のボウルに放り込む。
「俺が好きなのはミートソースのスパゲティ。これで満足か?」
半ば投げやりに答えればニーガンが満足げに目を細める。
「定番だな。お前らしい。」
「基本的にトマトベースのスパゲティが好きなんだ。」
義務は果たしたとばかりにリックはニーガンから視線を外して豆の皮むきに集中しようとした。他にも片付けるべき仕事が山ほどあるので憎い男の相手はしていられない。
しかしニーガン相手では思うようにいくはずがなく、忙しくするこちらに構うことなく話しかけてくる。
「ミートソースのスパゲティが好きってことは、この前の俺のチョイスは良い線を行ってたってことだな。いかに俺がお前を理解してるかが証明されたわけだ。」
ニーガンの得意げな話しぶりにリックは自分が苛立ち始めたのを自覚した。だが、それを悟られてはからかうネタを提供するだけなので無言で無表情を貫く。
「まったく、お前はすぐに帰ってくるべきだった!熱々のスパゲティを食わせてやりたかったのに。肉は入ってなかったが最高に美味かったんだぞ?味に深みを出すためにスパイスを──」
「ああ、わかってる!美味かった!」
自分が作ったトマトベースのスパゲティについて語り出したニーガンが煩わしくなり、リックは話を遮って称賛の言葉を繰り出す。
「スパイスが効いてトマトが濃厚で良かった。酸味が抑えられていて好みの味だった。あんたは料理もできる完璧な男だ。」
「これで満足だろう」とリックが苛立ち混じりの視線を向けると、ニーガンは目を丸くしてこちらを見つめていた。純粋な驚愕を向けられて居心地が悪くなると同時にニーガンへの苛立ちが急速に萎んでいく。
気まずさを感じるリックにニーガンが「食べたのか?」と問いかけてきた。
「一応はお前の分を残してやったが、本当に食べたのか?」
そのように問うニーガンは自分の手料理をリックが食べるとは思っていなかったようだ。その証拠にいつもの皮肉げな笑みは消え去り、驚愕だけが浮かんでいる。
リックは「本当に食べると思っていなかったなら残しておくな」という文句を飲み込み、ニーガンを見つめたまま頷く。
「食料は貴重だ。捨てるなんて無駄なことはしない。全部食べた。」
仲間二人を殺された後、失意と共に帰った我が家で目にしたのは鮮やかな赤色のトマトソースがかかったスパゲティ。それを作ったのはニーガンであり、「リックの分だ」と残していったと教えてくれたのはカールだ。
ニーガンが作った料理など捨ててしまいたかった。仲間の命を奪った手によって生み出された料理を食べることを想像すると吐き気がする。それでも「少しの食料も無駄にできない」という現実は重く、針を飲み込むような思いでスパゲティを口に運んだ。──それは、嫌になるくらいに美味しかった。
ニーガンが作ったスパゲティの味は格別で、「美味しい」と感じるたびに己の生を実感して生き残っていることへの罪悪感が心を刺す。それと同時に「生きていたい」という欲も湧き上がり、まだ自分は生にしがみついていたいのだと思い知らされた。憎い相手によって突きつけられた事実を噛みしめながら食べたスパゲティの味はしばらく忘れられそうにない。
スパゲティを食べた日のことを思い出していたリックは、ニーガンの「そうか」という嬉しそうな声により目の前の現実に意識を戻す。改めてニーガンの顔を見遣れば相手と目が合った。
「作った甲斐があったな!よし、また何か作ってやる。次は出来たてを食わせてやるから楽しみにしておけ。」
リックはニーガンの笑みと弾んだ声を黙って受け止めるしかなかった。
リックにとっては苦い出来事であってもニーガンにとってはそうではない。これから先も同じようなことが何度もあり、そのたびに苦さを飲み込まなければならないのだ。それを思うと憂うつになる。
リックは暗い気分で皮つきの豆に手を伸ばす。その時、ニーガンが「その豆をトマトと煮てやろう」と一つ手を叩いた。
END
・「ありがとう」
タイミングの悪さが重なるというのは長い人生において珍しくはない。それがリックは昨日から続いているというだけの話だ。
昨日は晴れていたので予定通り調達に出かけたが、天気の急変による土砂降りのせいで泥だらけになってしまった。どうにか町まで戻れば、取り込むのが遅れたためにびしょ濡れになった洗濯物が待ち受けていた。町の誰もが自分の洗濯物を取り込むだけで精一杯だったので責める気持ちにはならないが、せっかく洗濯したものを洗い直さなければならない事実に疲れが増した。
そして今日は普段の倍の量を洗濯しなければならないというのに朝からジュディスの機嫌が悪く、癇癪を起こす幼子をあやしながら家事を行ったため、洗い終えた衣類を干す頃にはすっかり疲れ切ってしまった。それでも町全体に関係する仕事を休むわけにはいかず、リックは皆と共に作業に励んでいた。
ところがタイミングの悪さは続く。よりによってニーガンが現れたのだ。徴収日でもないのに町にやってきた支配者の姿を見て、リックが思わず「これは試練なのか?」と空を仰ぐのも無理のないことだった。
仕方なくいつも通りにニーガンを自宅へ案内するリックだが、その足取りはいつもより重い。それに気づいたニーガンが訝しげな眼差しを寄越した。
「リック、いつもよりシケた顔だぞ。便秘気味か?それとも酒の飲み過ぎか?」
その問いかけに対して「下品な口を閉じろ」と返したい気持ちを堪え、リックは「そうじゃない」と頭を振る。
「少し疲れているだけだ。あんたが気にする必要はない。」
リックの素っ気ない返事にニーガンは少し不機嫌そうな顔をしたが、「そうか」とだけ答えてそれ以上は何も言わなかった。リックはしつこく絡まれなかったことに安堵しながらニーガンを自宅へ連れていく。
ニーガンが家でくつろぐ間、リックは彼の傍に控えていなければならない。緊急でなければ傍を離れることは許されないので他の用事を済ませることができず、それもリックのストレスの一つになっている。
窓の外を見れば乾いた洗濯物が風になびく様子が見えた。それを見ると洗濯物を取り込むために外へ飛び出したい衝動に駆られる。乾いた洗濯物を取り込み、きれいにたたんでクローゼットや引き出しに入れるのは地味に時間が取られる仕事なので手の空いた時に済ませてしまいたい。それなのに今は我慢するしかないのだ。
リックがジリジリとした苛立ちに耐えているところへトビンがトラブルを知らせに来た。町の近くで野生動物がウォーカーの餌食になり、血の臭いに多くのウォーカーが集まって来ていると言うのだ。町の近くでウォーカーが群れているのは放置できない。
リックはトビンにウォーカーとの戦いに慣れている者たちを集めてゲート前で待つように指示し、ニーガンを振り返る。
「問題が発生したから行かせてもらう。構わないな?」
そのように問えば「早く行け」と返ってきた。それに対してリックは頷く暇もなく家を飛び出し、ゲート前に集まった住民たちとウォーカーの対処に向かう。
現場に到着すると既に十体以上のウォーカーが動物の死体に群がっていた。それとは別に何体ものウォーカーがこちらへ向かってくる姿も見える。これ以上集まる前に片付けなければ町に被害が出るだろう。
リックは皆に指示を出しながら手斧で次々とウォーカーの頭を割る。他の者たちも問題なく対処したので二十分も掛からずに辺りは静けさを取り戻したが、動物の死体を放置したままでは同じことの繰り返しだ。それを防ぐためにトラックで動物の死体を遠方まで運んで燃やした。消火まで完了したのは最初に知らせを受けてから一時間ほど経ってからだった。
リックはアクシデントの連続による疲れを感じながらアレクサンドリアに戻り、皆に後のことを頼むと急いで自宅を目指す。対処に時間が掛かってしまったのでニーガンが機嫌を悪くしていないかが気がかりだった。
「待たせてすまない!」
謝罪と共に家へ飛び込んだリックはダイニングテーブルを見て目を丸くする。そこには丁寧にたたまれた衣類が置かれていたのだ。思わず窓の外へ視線を向けると、干しておいたはずの洗濯物が一枚もない。
ダイニングチェアに座って雑誌を捲るニーガンへ視線を移した時、ニーガンは雑誌から目を離さないまま「外のものは取り込んでおいたぞ」と告げた。
「タオルはしまっておいたが、服は場所がわからないからここに置いてある。後でしまっておけ。」
大げさな言い回しも嫌味もなく、ニーガンは淡々と洗濯物の処理について説明した。その姿が珍しすぎて返す言葉も浮かばない。リックは咎められる可能性を忘れてニーガンを凝視しながら、気に掛かっていた仕事が片付いたという事実を飲み込んだ。
昨日から何かと上手くいかないことが続き、そのせいで洗濯物の処理にさえ焦っていた。ところが、その仕事をニーガンが代わりに片付けてくれた。外に干した洗濯物を取り込んでたたむ作業が既に完了しているという事実はリックの気分を軽くしてくれる。本当に不思議なくらいに気が楽になった。
リックはニーガンを見つめたまま素直な思いを口にする。
「ありがとう。助かった。」
感謝の言葉を述べた途端にニーガンが顔をこちらへ向けた。その顔に浮かぶのは紛れもなく驚愕であり、その珍しい表情にリックは小さく笑う。
普段であればニーガンに感謝することなど有り得ない。この男に「ありがとう」と言うのは半ば強制されるからだ。だが、今は違う。洗濯物を取り込んでくれたのが単なる気まぐれであっても今だけは素直に感謝したかった。
リックが「どうせ笑われるだろうな」と苦笑を浮かべかけた時、ニーガンが「どういたしまして」と微笑む。その笑みは嘲笑でも愉悦でもない。ただただ、穏やかさしかなかった。
普段とは違うニーガンの対応。それはアクシデントと呼べるものかもしれない。そのアクシデントをリックは嫌いになれなかった。
END
・亡き妻
具体的な内容は思い出せないが、悪夢を見たという感覚と共に飛び起きることがある。ニーガンにとっては今がそうだった。
支配下に置いたアレクサンドリアの町を訪問し、リックの寝室で彼との情事後に寝入ってしまったのだが、まさか悪夢を見て飛び起きることになるとは思わなかった。悪夢の詳細は思い出せずともガンで死んだ妻が出てきたことだけは覚えている。世界が変わってから、ニーガンの悪夢には決まって妻が出てくるのだ。
ニーガンは直に床に整えられた簡素な寝床の上で体を起こし、深く息を吐き出した。それは深呼吸というよりも溜め息に近い。
少し乱暴な手つきで額を拭えば掌が汗で濡れた。寝汗にしては量が多すぎる汗は悪夢に苦しめられた証拠に他ならず、思わず舌打ちが漏れる。悪夢は心を乱れさせ、皆が恐れ敬うニーガンの姿を崩してしまうから嫌いだ。
ニーガンは鬱々とした気分のまま視線を隣へ移し、そこにリックがいないことに苛立って再び舌を鳴らした。リックは眠るニーガンを残してさっさとシャワーを浴びに行ったのだろう。普段は気にも留めないことが今は無性に腹立たしい。
ニーガンが苛立ちに顔を歪めた時、寝室のドアの開く音が聞こえ、ジーンズだけを履いたリックが姿を現した。その手には水の入ったグラスとフェイスタオルがあり、リックはそれらを持ったままニーガンの傍らまで足を進める。そして笑み一つ浮かべることなくグラスとフェイスタオルを差し出した。
「水だ。飲むといい。それから濡れタオルも。」
リックから言われた内容を考えれば気遣われているのだとわかるが、その声はひどく素っ気ない。もちろん表情や態度もだ。
ニーガンは差し出されたものを受け取りながらリックの顔を見つめる。自分を憎むはずの相手からの突然の親切には戸惑わずにいられなかった。
ニーガンが様子を窺っているとリックから「何も企んでない」と告げられる。
「目が覚めたら隣であんたがうなされていて、汗の量がすごかったから奴隷の義務として持ってきただけだ。」
「バカげたことを言うな。お前を奴隷にした覚えはないぞ。」
奴隷という言葉に不快感を覚えて反論するとリックが口の端を皮肉げに持ち上げる。
「似たようなものだろう。あんたは俺を服従させて、俺はあんたに貢ぎ物を差し出してる。他にふさわしい表現があるなら教えてくれ。」
ニーガンは特に言い返さず、リックの嘲笑を横目に見ながら濡れタオルで顔と首を拭う。汗を拭き取るとさっぱりして少しだけ気が晴れた。そして汗を拭いたタオルを床に放ってからグラスの水に口をつけ、先程のリックの言葉を振り返る。
皮肉と嫌悪が入り混じった言葉は紛れもなくリックの本心だ。ニーガンが多くのコミュニティを支配下に置いたのは人々を救うためだと説明したところで今は理解できないだろう。それなのに、うなされて汗をかいたニーガンに飲み水と汗を拭くためのタオルを持ってきたことが解せない。普通は放っておくはずだ。
ニーガンは最も嫌な予想を頭に置き、水を一気に飲み干してから立ったままのリックへ問う。
「……俺は寝言で何を口走った?」
その問いにリックが眉間にしわを寄せた。その表情は嫌悪や怒りから来るものではなく何かに葛藤しているように見える。
リックからの返答はすぐにはなく、少し間を置いてから彼は息を深く吐いた。そして躊躇いがちに口を開く。
「──ルシール、と。何度も、何度も……苦しそうに呼んでいた。」
リックの答えはニーガンの予想通りであり、それは溜め息を生み出すには十分だった。「そうか」と溜め息混じりに返すとリックがその場に腰を下ろしてこちらを見る。
「他には何も言ってなかった。あんたとの関係性がわかるようなことは何も。」
「でも、ルシールが俺にとって大事な人間だってことはわかったんだろ?」
その問いに対する答えは無言だ。それに加えてリックが気まずそうに顔を逸したのでニーガンは苦笑するしかない。
寝言で苦しげに呼ぶ名前がニーガン愛用の武器に付けられたものと同じという事実から、ニーガンが得物に己の大事な人間の名前を付けたのだとリックは知った。そして、それがルシールの死を示すのだということにも気づいたのだろう。
大切な人の死を悲しむという一面が憎い相手にもあると知ったリックは複雑な思いを抱いたはずだ。ニーガンの人間らしい部分など知りたくなかったかもしれない。だが知ってしまえば放置することもできず、思わず手を差し伸べてしまったのだ。
ニーガンは空になったグラスを脇へ置き、リックへ手を伸ばすとその頬に触れる。髭のざらりとした感触は不思議と心を落ち着かせた。
意外なほど穏やかな気分になった自分に少々驚きながらも、ニーガンはそれを顔に出すことなくリックに話しかける。
「なあ、リック。ルシールが誰なのか知りたいか?」
そのように問えば「別に」と素っ気なく返され、それを聞いてニーガンは妻の話をリックに聞かせると決めた。相手の望みとは反対のことをしたくなる捻くれた性格だという自覚はある。
「そうか。じゃあ話してやろう。」
ニーガンの返しにリックは軽く目を瞠り、すぐに呆れ顔を見せた。
「……本当にあんたは性格が悪いな、ニーガン。」
ニーガンは顔をしかめるリックの頬から手を離して再び横になった。己の隣を叩いて「お前も横になれ」と命じれば、リックも渋々といった様子で隣に寝転ぶ。
寝転ぶ二人の間には少し隙間があった。ニーガンはそれを嫌い、リックの体を抱き寄せて隙間を埋めると至近距離で彼と向かい合った。そして横向きで見つめ合いながら「ルシールは死んだ女房だ」と語り始める。
「死人が溢れ出す少し前だ。体調が悪いから病院へ行ったらガンと診断された。その時点で余命宣告。検査を受けるのが遅すぎたんだな。」
妻の余命宣告をすぐには受け入れられずに担当医を怒鳴りつけたこともあったが、今思えば不甲斐ない自分への怒りを他人にぶつけただけだ。一番近くにいながら体調の異変に気づかず、早くに受診するよう勧めなかった愚かな夫。そんな自分に腹を立てていたのだろう。そして、最後まで妻に何もしてやれなかった苦さが今でも残っている。
「あいつはガンで死んだが、怪物として蘇った。濁った目で俺を見て、飢えを訴えて手を伸ばしてきた。それで理解した。生きてる人間全員が感染してるんだってな。」
「蘇った奥さんを……どうしたんだ?」
その質問はニーガンの心の傷に爪を立てた。だからといってリックを責める気はない。この痛みは罰だ。
ニーガンは自嘲と共に「置いてきた」と打ち明ける。
「怪物になったルシールをそのままにして病院を出た。あいつを傷つけたくなかった。あの時の俺は根性なしだ。」
今ならばルシールの頭にナイフを突き刺して眠らせてやれるのだろうか?それとも彼女の前では根性なしの自分に戻ってしまうのだろうか?
永遠に答えの出ない疑問に囚われかけた時、リックから「俺も妻を救えなかった」と打ち明けられた。
「拠点をウォーカーの群れに襲われて逃げる最中に産気づいて、ジュディスを産んでから亡くなった。俺はその時、彼女と一緒にいられなかった。」
カールとジュディスの母親が既にこの世にいないことは察していたが、そのような悲劇の末に亡くなったとは想像もしておらず、ニーガンは言葉を失う。
リックは淡々と語っているものの、その顔にはどこか悲しみが滲む。
「遺体を探したが、彼女の体はウォーカーの腹の中だった。守れなかったどころか遺体さえ救えなかった。……ニーガン、俺たちは最低な夫だな。」
リックはそう言って微笑した。悲しくて儚い笑みだった。
ニーガンは自分たちが同じ傷を持っているのだと悟る。最愛の人を救えなかったという心の傷は消えずに残り続け、乗り越えたと思っていても不意に疼いて思い出させるのだ。その傷は死ぬまで存在し続けるだろう。
自分たちを「最低な夫」と評するリックに対して「そんなことはない」と否定することはできなかった。否定できないからこそ傷は癒えずに残り続けているのだから。
ニーガンは否定の言葉も何も言うことなくリックの唇に己のそれを押し当てる。触れるだけのキスをリックは拒まず、応えるようにニーガンの頬に彼の手が添えられた。それを受けて、ニーガンはリックの体に乗り上げて彼を抱き込むとキスを深いものへ変える。それもリックは素直に受け入れた。
これは傷の舐め合いだ。妻を救えなかった男たちの傷の舐め合い。愛などというものではなく、傷の残る心を惨めに寄せ合うだけの行為。
しかし、それができるのが互いしかいないということは事実だ。心の傷を見せ合って舐め合うことができる唯一。ニーガンにとってリックしかいないように、リックにとってもニーガンしかいない。
「なんてお似合いな二人だ」とニーガンは心の中で自分たちを嘲笑いながらリックと唇を重ね続けた。
END
・グライムズ親子
さあさあ、愛すべき民たちよ。お前たちの王が来たぞ。
そんなセリフを並べる代わりに、ニーガンはルシールと名付けたベースボールバットでアレクサンドリアのゲートを叩く。ガンッ、ガンッと鳴り響く音を聞いて壁の中の住人たちは震え上がっているかもしれないが、それはこちらの知ったことではない。
訪問を知らせたいのはリックだ。自分の仲間を殺したニーガンを激しく憎みながらも他の者たちを守るために憎しみと怒りを押し殺し、貢ぎ物を探して必死に駆け回る男のことをニーガンはとても気に入っている。徴収日以外にもアレクサンドリアを訪ねるのはリックに会うのが目的だ。
ニーガンは笑みを浮かべてゲートの正面に立っていたが、ゲートが完全に開けられた瞬間にその笑みを消す。いつもならリックが出迎えるのだが、その彼の姿がどこにもないからだ。リックの出迎えがなかったせいで楽しい気分は台無しだ。
ニーガンは口笛を吹きながら小さな町に足を踏み入れ、慣れた足取りでリックの家を目指す。その顔に表情はない。
「大事な客を放っておくなんて、リックは礼儀ってものを知らないらしいな。俺が直々に教えてやろうじゃないか。」
声量がやや大きめなニーガンの独り言を聞いたアレクサンドリアの住人が怯えの眼差しを寄越したが、それに構っていられるほど暇ではない。忙しい合間を縫ってリックに会いに来ているのだから他事に費やす時間は一秒もなかった。
ニーガンがリックの家に向かって一直線に歩いている途中、前方からお目当ての人物がやって来る。
「ニーガン!」
焦りの滲む声で呼びかけてきたのはリックで、早足で近づいてくるリックの腕に抱かれているのは彼の愛娘であるジュディスだ。ニーガンはリックがジュディスを連れて自分の元へ来たことに目を丸くする。
リックは子どもたちとニーガンとの関わりをひどく嫌がり、ジュディスとその兄のカールをニーガンから遠ざけようと努めていた。それでもニーガンが積極的に子どもたちと関わろうとするので無駄な努力に終わることが多い。だからこそ彼がジュディスを連れてきたことに驚かずにいられないのだ。
ニーガンは驚いたことを隠すためにいつもの笑みを浮かべて「待ちくたびれたぜ!」と腕を広げて親子を迎える。
「リックが出迎えてくれると思ってたのに出迎えがないからガッカリしたぞ。ジュディスと昼寝でもしてたのか?」
からかい混じりに問うと、ニーガンの目の前で立ち止まったリックは微かに眉根を寄せる。それは不機嫌というよりも困りきっているように見えた。
「出迎えられなくて悪かった。ジュディスのことで手間取っていたんだ。」
「ジュディス?」
告げられた遅刻の理由を訝しみ、ニーガンは名前を口にしながら幼子に視線を向けた。その視線の先では父親の腕に抱かれたジュディスが大人たちに無邪気な眼差しを返している。
見た限りではジュディスの体調に問題はなさそうだ。機嫌が悪いようにも思えない。
ニーガンがリックへ視線を戻すと、リックは娘を抱き直しながら答えを告げる。
「カールに預けようとしたら嫌がった。他の人間でもだめで、今日は俺から離れたくないらしい。よりによってあんたが来る日だなんて。」
憂い顔で説明するリックの顔をジュディスの小さな手がペシペシと叩いた。それに対して「ジュディスが嫌なわけじゃないよ」と我が子に笑いかけるリックをニーガンはまじまじと見つめる。
思えば、リックの笑った顔を見るのは初めてだ。ニーガンの前ではしかめっ面しか見せない男も愛する我が子の前では優しく笑うのだと今更ながらに知る。普段はカールとも笑顔で言葉を交わすのだろう。
初めて見るリックの一面にニーガンが興味を引かれているとは知らないリック本人は、ジュディスをあやしながらチラチラと視線を寄越す。
「この子がこんな状態だから、いつものように対応するのは難しい。それでも俺の家で過ごしてくれ。みんなはあんたへの対応に慣れてない……ジュディス、待て。パパの髭を引っ張らないでくれ。」
大人たちの会話に退屈したのだろう。ジュディスがリックの髭を引っ張って遊び始め、それに慌てたリックの意識は完全に娘へ向かった。ニーガンの前だということを今は忘れてしまったらしい。
「アレクサンドリアのリーダー」ではなく素のリック・グライムズに戻った彼の姿はニーガンにとって新鮮だ。自分に翻弄されるリックを愛でるのは好きだが、そうではない姿も悪くない。それが彼の子どもとのやり取りであれば尚更だ。
ニーガンは父と娘のやり取りを眺めながら顎を擦る。
「親子三人まとめて引き取るのも悪くないな。」
リックとカールとジュディス。この親子を手元に置けばきっと楽しいだろう。
冗談とも本気とも取れるニーガンの呟きに気づいた者は誰もいなかった。
END
・「リック」
ダリルがリックの異変に気づいたのは偶然だった。それは「些細なこと」として見落としても不思議ではないほどの小さな異変。
ダリルがリックと二人でニーガン率いる救世主への攻撃の打ち合わせを行っている時、リックは何度も自身の耳を擦るような仕草を見せた。それが気になったダリルは「おい、リック」と話を中断して問いかける。
「耳が変なのか?さっきから何回も耳を擦ってるだろ。」
その問いに対してリックは「大丈夫だ」と笑ったが、その笑みの曖昧さに気づかないほど彼との付き合いは浅くない。ダリルはリックが何かを隠そうとしているのだと直感した。
救世主への反撃を控えた今、仲間に心配をかけたくないと思う気持ちは理解できるが、リックにもしものことがあれば結束が揺らいで作戦そのものがだめになってしまう。それだけでなく、兄弟のように思う相手の体調を心配するのは当然だ。
ダリルが「隠すんじゃねぇ」とリックを睨むと彼は諦めたように溜め息を落とす。
「みんなには黙っていてほしいんだが。」
「そいつは内容次第だな。深刻な状態だっていうなら他の奴らにも話す。」
そのように返せばリックは「体に問題はない」と首を横に振った。そして、様子を窺うように上目遣いでこちらを見る。
「……ニーガンが俺を呼ぶ声が、耳から離れないんだ。」
声を落として打ち明けられた内容にダリルは目を瞠る。予想もしていなかった内容に返す言葉が見つからなかった。
リックは黙り込むダリルの様子を気にする素振りを見せながらも話を続ける。
「すまない、こんな話で。その……作戦のことを考えているせいなのかもしれないが、あいつが俺を呼ぶ声が聞こえるような気がする。『リック』と何度も何度も……あの声で。」
「悍ましい」と言いたげにリックは唇を噛んで腕組みをする。ダリルにはその行為がニーガンから身を守るためのものに思えてならなかった。
ニーガンはリック本人が目の前に居ても居なくてもその名前を数え切れないほど口にしていた。まるで恋しい人の名を呼ぶように。
ダリルはニーガンがリックの名を呼ぶのを何度も聞いたが、どこか熱を帯びた粘着性のある声は思い出しても寒気がする。リックへの執着が滲む声を耳にするたびにダリルも苛立ちを覚えたものだ。ダリルでさえ嫌悪を抱くのだからリック本人は堪ったものではないだろう。
ダリルはリックの肩に手を起き、苦悩に歪む相棒の顔を覗き込みながら「大丈夫だ」と励ます。
「あのクソ野郎を殺せば全部終わる。あんたがあいつの声に悩まされることも、他のことも全部だ。」
ダリルの言葉に対してリックは微かに笑みを浮かべながら頷く。
「そうだな。あいつを殺せば、きっと──」
言葉が途切れると同時にリックの手が耳を擦る。恐らく聞こえるのだ、あの男の忌まわしい声が。
ダリルはリックの顔を見つめながら「ニーガンを絶対に殺す」と憎い男への殺意を燃やす。
リックの魂がニーガンに絡め取られてしまう前に全てを終わらせるのだ。リックへの悍ましい執着を断ち切るため、支配を終わらせるため、ニーガンの命を奪う。それしか大切な家族を救う方法はない。
ニーガンの殺害を自身に誓うダリルの耳の中で、いつか聞いたニーガンの声が響く。憎い男の「リック」と呼ぶ声が耳にこびり付いたような気がして、ダリルは思わず耳を乱暴に擦った。
END