バスルーム・モラトリアム◆
しゃきしゃき、しゃきん。銀色に光る鋏の華奢な刃を踊るようにリズミカルに開閉させながら、陽向は目の前にあるやわらかい赤毛の先をひとふさつまんで持ち上げる。
「いーい、動かないでよすばるん」
「おー。りょーかい!」
陽向の自宅の洗面所の床に胡座をかいて座り込み、受け皿代わりに小さなペールを抱えてぎゅっと目を閉じた昴が首肯の代わりとばかりに元気な声を返してくる。昴に膝立ちで向かい合った陽向は、彼がうっかり動いてしまう気配がないことをもう一度確かめてから彼の前髪に刃先を添え当てた。ちゃきん、ちゃきん。金属が擦れる軽い音と、少し伸びた髪の先が切れる音が重なるたび、鋏を握る指先にかすかな感触が伝わってくる。
「……なー陽向、」
「まだ全然。テキトーに切ったら困るでしょ」
「ハイ……」
自分で前髪を切る彼の手つきのあまりの危なっかしさを見かねて陽向が散髪を引き受けたのは、いまから数週間ほど前のことだった。目を瞑ったまま動かずにいることに早々に飽きてきたらしい彼をみなまで言わせず説き伏せて、バランスを確認しながら丁寧に前髪を整えていく。
今日カンパニーであったこと、オフである明日の予定、近ごろテレビのコマーシャルでよく見る新作ゲームの話。無軌道に弾んでいく他愛のないやりとりを交わしながらときおり手を止めて頬や鼻梁に落ちた髪を払ってやれば、かろやかな笑声が転がって耳朶を打つ。
「もー、じっとしててって言ってるのに」
「だって、くすぐったくてさー……!」
まるきり子どものようなそれに思わずつられて笑ってしまいそうになったことを誤魔化すためにいささかわざとらしく息をついてみせたのだけれども、ずっと目を閉じている彼にはどうやらそこまで伝わっていないらしかった。困ったように眉根を寄せながら、それでも昴は律儀に目を瞑ったままでいる。鋏が跳ね返した蛍光灯の光と、無防備に伏せられたままの睫が彼の目元に落としたかすかな影のコントラストになぜだか一瞬どきりとして、空いている手で彼の頬にふれていた。
「陽向?」
不思議そうな呼び声とともに瞼がぱちりと押し上げられて、覗いたまるいカラメル色のひとみが陽向を映す。
まっすぐに前を見る彼らしい眼差しは決して弱々しくなどないのに、陽向にはときおりひどくあやういもののように思える。――あるいはあまりにひたむきなそれが、自分の前でさえ薄い影のひとつも湛えようとしないからだろうか。
「……ううん、なんでも」
ほら、終わりでいいよ。このままお風呂入るでしょ?
知った温度の頬から手を離し、いつも通りの声を繕って返しながら、傍らに鋏を置いて最後に指で髪を梳いてやる。その指先がくすぐったかったのか、それともはらりと落ちた髪がむずがゆかったのか。礼を言いながらわずかに目を細めた彼が、抱えていたペールを横に置いて、立ち上がりかけた陽向の手を取る。
「すばるん?」
「……あの、さ。風呂、一緒に入る?」
「え」
聞こえたそれに、思わず目を丸くする。真剣な色をしたひとみが、じっと陽向を見据えていた。
「なに、すばるんってば大胆じゃん、めずらしー」
「だいっ………ちがっ、変な意味じゃなくて!」
不安定に揺れた胸のうちを見透かされたような心地がして、少しばかり決まりが悪い。ばつの悪さから口をついた言葉は案の定内心とはまるで裏腹なもので、手を握っていた彼の五指が否定を含んでわずかに強まる。
「なんか、もう少し一緒に、いたいから」
陽向のそれよりもしっかりとして大きな手のひらは、天邪鬼な軽い揶揄を寄越されればすぐにほんのりと温度を上げる。持ち主に似て不器用で無防備な彼の手と声が陽向には好ましく、少しだけもどかしい。
「……もう、しょーがないな、」
「うん」
「――そーゆー意味じゃないけど、『そーゆー意味』になっちゃったら、ゴメンね?」
「……っ、陽向!」
「あっはは、冗談冗談」
ふいにわけもなく離れがたくなったのはきっと自分のほうだと、本当はわかっているのだけれども。まっすぐな彼に「桜木陽向」を掬い上げられることが、いまではこんなにも心地好い。
「たぶん、ね」
彼の無防備なあやうさを守るのも、暴くのも自分ひとりであればいい。額にちいさなキスをひとつ落としてからの離れざま、子どもじみた独占欲を込めて付け足した言葉に彼の頬へぱっと朱がさす。動揺を浮かべてわずかに泳ぐカラメル色は、陽向が向けたそれに気付いているのかいないのか。
知っていてほしいような、知らないままでいてほしいような、――けれどもきっと結局のところ彼はどうあっても彼なのだろうから、どちらでも構わないような気さえする。手さぐりに答えを探すモラトリアムのなか、嘘をつかない体温のぬくもりにそっと目を細めて、陽向は彼の大きな手を引きながら立ち上がった。
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20171206Wed.