彼について◆
一、城ヶ崎昴というひと
空調のきいたスポーツジムのエントランスホールから一歩外に出ると、噎せるような夏の匂いと気温がまばたきの間に全身を包んだ。湧太郎の隣を歩く彼が、肩にかけたスポーツバッグを抱えなおして「うわぁ」と小さな声を上げる。
「やっぱり、夕方になってもまだ暑いですね」
「八月も終わりがけだけど、まだしばらくはこの調子かな」
「そうですね……でもオレ、夏好きなんで、いざ終わるってなったらちょっと寂しいかも」
「はは、わかるよ」
今日は午後から彼と待ち合わせて、夕飯の支度をはじめるのに丁度良い時間までジムのプールでたっぷり泳ぎこんできた。あとはこのまま、徒歩圏内にある昴の自宅で夕食を済ませることになっている。他愛のない(彼もすっかり腹を減らしている様子で、話題はもっぱら夕飯のメニューについてだった)やりとりを交わしながら、黄昏どきの街路を抜けていく。
「そういえば、昴くん」
「なんですか?」
「着いてからゆっくり話そうと思うけど、実はこの前のオフにね、『蒼海のプレアデス』をもう一回観に行ったんだ」
「――え、っ」
夕暮れの色に染まったまるい瞳が、驚きに見開かれてぱっと湧太郎を見る。
「来てくれてたんですか!?いつ……っ」
「純粋に観客として行きたくてね。ほら、ちょうどあの……キッズデーだったかな?子どもたちと写真撮影をする。あの日だったから、みんな忙しいだろうと思ってそのまま帰らせてもらったんだ」
「うわ、オレ全然気が付かなくて……!すみません!」
「いや、俺こそ挨拶もせずに悪かったね。キッズデー、とても新鮮で楽しかったよ」
広い肩を窄めて律儀に恐縮してみせる彼に、気にしないようにと笑って軽く手を振る。
開演前から今日は随分と子どもたちの姿が多い、とは思っていたが、『キッズデー』なる催しの日であることを知ったのは開演前のアナウンスを聞いてからだった。ステージ上の登場人物たちを懸命に応援する無邪気な子どもたちの声が湧き上がる客席の空気は新鮮で、けれどもどこか懐かしくもあり――その高揚感を、湧太郎はいまもはっきりと覚えている。
「メールをするより、せっかくだから直接感想を伝えられたらと思ってね」
言うのが遅くなったけど、まずは千秋楽、おめでとう。
彼が主演を務めた『蒼海のプレアデス』は、ほんの数日前に千秋楽を迎えたばかりだ。つかの間の休日のうちのいくらかの時間を、彼はこうして湧太郎と過ごしている。
湧太郎がねぎらいの言葉を渡すのと、彼が自宅の扉に手をかけるのはほぼ同時のことだった。ありがとうございます、という応えを聞きながら、靴を脱いで奥へ向かう。
「そうだ、水着とタオル、預けてもいいかい?家にもうひと組あるから、また今度もらって帰るよ」
「はいっ」
「よろしく。……さ、お米はたっぷり炊いてくれてるみたいだし、すぐできる丼ものとサラダにしよう。お腹空いてるだろう?」
「ぺこぺこです!」
「はは、いいことだ。しっかり食べて」
「はい!……へへ、やった、湧太郎さんのごはんだー!」
これほど嬉しげにされると、いつにも増して作り甲斐があるというものだ。彼は本当によく食べてくれるものだから、気をつけていないとつい作りすぎてしまう。明るく弾んだ声の主がふたりぶんの鞄をひょいと抱えて洗濯機のある洗面所に消えていくのを視界の端で見送って、自宅のそれより少々――否、だいぶ手狭な流しに立って支度を整える。こじんまりとしたキッチンの勝手も、そろそろ馴染んできたところだ。
「湧太郎さん、いまなにか手伝えることありますか?」
洗濯物の始末と食卓まわりの整頓を済ませた彼が、「すみません、飲みものも出さずに」と麦茶の入ったマグカップとともに湧太郎のそばに戻ってくる。お世辞にも小柄とは言い難い体格の男性がふたり並んで作業をするのはなかなか難しいとわかっているはずだが、律儀な性分の彼はいつもそうして湧太郎を気遣う。ありがとう、いまは大丈夫だよ。湧太郎もいつものようにそう礼を述べてから、「ああ、でも」と言葉を継ぎ足した。
「できれば近くで話し相手になってほしいな」
「へ、」
「駄目かい?」
ふいをつかれたように目を丸くしている彼と視線を合わせて、いたずらめかして問いかける。駆け引きの類いは互いに不得手だとわかっているものだから、この程度の戯れがいまは精一杯だ。丼にのせる卵を焼くじゅうじゅうという音が数瞬の間を埋めるのが少し可笑しかった。
「…………、えっと、その、料理の邪魔じゃなければ……」
「もちろん」
おずおずとそう答えるいじらしさにちいさく笑みをこぼしつつ、自身の動線と被らない位置に彼を呼ぶ。ほとんど目の高さの変わらない長身がそこに収まったのを確かめてから、もう一度口を開いた。
「ジェネシスの皆と観劇に行ったときは、どうしても堅めの感想ばかりになってしまったからね。だから、もっと気楽な、ただの俺の感想も話したくて」
冒険の日々、襲い来る波乱、それから最後に残る希望の余韻。湧太郎自身、子どもたちが目を輝かせて楽しめるような物語が好きだということもあり、二度目の観劇でも十ニ分に楽しむことができた。演出、音楽、ダンス、アクションシーン、どれを取ってもふと目を瞠るような仕掛けがされていて、感じたことをひとつ話そうとすればまた次が出てくる。無事に主演を務め上げた彼になにから伝えようかと数秒思考を巡らせて、湧太郎は彼の名前を呼んだ。「昴くん」
「最初に、ひとつ聞いてもいいかな」
「はい!もちろんです」
「……、今回の役、大変だったかい?」
ぱちり。おさなさを残したまるい双眸が、緩慢にまばたく。かちりと、彼の纏うなにかが切り替わったような気がした。
彼の演じたヴェインは、寡黙で冷静な正義漢だ。そのキャラクタ性を貫きながら、内側に秘めた情熱と、仲間に慕われるカリスマ性、さらには海の女神に選ばれたという神秘性をも表現しなければならない。感情を全身で表すようなダンスやアクションは、湧太郎の見る限り必要最低限に絞られていた。
仕草や台詞の間の持たせかた、あるいは声のトーンの微細な変化。そういった、こまやかな演技の表情が必要な役柄であることを、湧太郎は客席から肌身で感じていた。
じ、っと湧太郎を見ながら、湧太郎の投げた問いを咀嚼して飲み込んだ彼が、言葉を選びながらゆっくりと答えを紡ぎだす。
「ヴェインを任されたときは、ホントにオレでいいのかなって思ってました。オレよりもっと上手く演れるひとがいるのに、って」
「……うん」
「稽古でカンパニーのみんなに迷惑かけたこともあるし、……大変じゃなかった、なんて、絶対言えないです」
彼の声を聞きながら、湧太郎はもう一度頷く。
――たとえば。
たとえば自分なら、「ヴェイン」をどう演じるだろうか。自らの最大の武器としている身体能力の利に頼らず、ミュージカル俳優としての藍沢湧太郎はステージの上で如何にして「ヴェイン」を表現することができるだろうか。そう考えたとき、湧太郎は彼が乗り越えたはずの壁の手ざわりと高さを、たしかに感じていた。
「でも、いまは」
湧太郎の思考を遮るように、彼が声を接ぐ。
「ヴェインはオレの役だし、誰にも譲りたくないって、ちゃんと思ってます」
はっきりとそう言いきって、彼はまっすぐに湧太郎を見返した。幼いカラメル色のひとみが、たしかな熱を溶かしてひかる。
「……はは、本当に、参ったな」
ざわざわと、初夏の風に似たなにかがこころを揺らしていくのがわかる。始まりの春と、目眩がするような夏の気配が溶け合った高揚。湧太郎は彼と向かい立つたび、どうしようもなく得がたいひかりにふれているような、――この身のうちにもまだ知らぬなにかがあるのではないかと手放しにただ信じてみたくなるような、そんな心地がする。
「湧太郎さん?」
「いや、なんでもないよ。……ああ、卵が焼けたね」
話をしているうちに、丼にのせる卵焼きが仕上がっていた。半熟ぎみに崩したそれに熱が通りすぎないうちに、火を止める。
丼茶碗に盛った熱い白米の上には、すでに軽く熱して嵩を減らした千切りキャベツがたっぷり敷いてある。さらに卵焼きをつるりとのせて、菜箸で平たく広げた。あとは彼の大好物の肉を焼いて、甘辛く作ったタレを最後にかければ夕飯の完成だ。
「今日は豚丼なんですよね!うー、すっげー楽しみです!」
「昴くん」
「?」
話の切れ目に空腹を思い出したのか、待ちきれない様子で湧太郎の手元を覗き込む彼の眼差しは、先ほどとは別人のようだ。くるくると色を変えるあどけないひかりに思わず笑って、手を止めたのを口実にかすめるように口付ける。
「へ、あ、湧太郎さん!?」
「え?ああ、なんだか、好きだなあ、と思って」
「すっ……!」
「ご飯。すぐできるから、もう少し待っててくれよ」
まだ話したいことがたくさんあるんだ。
ふとあふれた好意を気なしに行動にしてしまったのだけれども、彼にとっては思わぬ不意打ちだったらしい。裏返った声とともにびしりと固まった彼の純朴さが好ましく、湧太郎は肉を焼きはじめながらもう一度声を立てて笑った。