ショートショート集風の強い日 耳元でごうごうと風が鳴っている。
逆立つ髪をいくら撫で付けても意味は無く、終いに私は諦めて、風に髪をなぶらせるままにしておく事にした。
足先を掠める家の屋根。軽く頭を下げると、頭上を電線が掠めた。
私は今、飛んでいる。否、正確には『飛ばされて』いた。
家を出た瞬間強風に煽られて、何がどうなっているのかを理解した時には既に私の身体は宙を飛んでいた。
最初こそ私は混乱し、地面に戻ろうと四苦八苦悪戦苦闘したが、風に抵抗する術など無く、終いには諦める事にした。
空中で身体を安定させる方法さえ覚えれば、飛ばされるのも悪くない。全く止む気配の無い風に身体を預け、下らない事を考える余裕すらある。
そう云えば今朝の天気予報では、この辺りに暴風警報が出ていた。傘や荷物を飛ばされないように注意しようとは思ったが、まさか自分の身体が飛ばされる羽目になるとは夢にも思わなかった。
はは、と笑う。傘も荷物も、とうに落としてしまった。妻にはどう言い訳しよう。
更に、風速が上がった気がした。否、確実に上がっている。
周囲の景色は凄まじい速度で後方へと通り過ぎてゆき、やっとその景色に目が慣れた時には周囲を高層ビルに囲まれていた。
正面には見慣れたガラス張りのビル。『A証券株式会社』と書かれた看板がみるみる内に迫ってくる。
飛ばされて通勤すれば、毎朝毎朝満員電車に揺られる必要も無いな、と素晴らしいアイディアを思い付いたのだが。
――ああ、目の前が、ガラスの壁だ。
或る者の日常
この世は匂いで満ちている。
高層ビルの谷間を歩いていても、様々な匂いが私の鼻を刺激する。
人々は『最近の世界には匂いが無い』と言うけれど、私はそうは思わない。いい匂いもいやな匂いも、こんなに溢れているじゃあないか。
横断歩道を渡って来るのは、K氏だ。
彼はとある会社の営業マンで、顧客の心証を良くする為だろう、軽いオーデコロンを付けている事が多い。そして今日の香りは――タイム・サツレオイデス(Thymus satureioides)。タイム(Thymus vulgaris)の爽やかさに渋みと苦みを加えた、シャープな香りだ。無気力感を取り払う効果があり、……催淫効果も期待できる。きっと、今日の顧客は彼のタイプの女性なんだろう。
K氏は私に気付くと軽く片手を上げ、それから足早に立ち去った。彼の仕事がうまくゆくと良いのだけれど……きっと、無理だろう。
彼に合う香りは、タイム系よりもむしろ、ウッディなベチバー(Andropogon muricatus)やサンダルウッド(Santalum album)だ。特に今回ならサンダルウッド。ウッディでしっとりとした芳香は、官能的な気分を高める効果もある。
――私がこんな事を考えたところで、せんなき事ではあるけれど。
足取りは緩やかに、日傘をさして歩いて来るのはS嬢。
彼女は名家のお嬢さんで、いつもどこか甘い香りをまとっている。
私が近付くと、彼女は穏やかな笑みを浮かべ……その拍子、私の鼻先をクラリーセージの香りがかすめた。
……クラリーセージ(Salvia sclarea)。ナッツをイメージさせるまろやかでしっとりとした香りだ。気分を高めて陶酔感を与え、幸福感を運んでくる効果がある。
――事実、彼女はとても幸せそうな笑みを浮かべている。けれど。
クラリーセージのもう一つの効能は……ホルモン系のバランスを整える事。つまり、生理不順や生理痛などを改善するのだ。だから、『妊婦が使用してはいけない』。
S嬢の下腹部は緩やかに膨らんで、私の記憶が正しければ、今妊娠三ヵ月程だったと思うのだけれど。
まあ、私がこんな事を考えたところでせんなき事。子供が産まれると困る者がどこかに居るのだろう。あるいは、彼女自身か?
そして。 私の視界に飛び込んできたのは、愛しい愛しい『彼女』の姿。
私は彼女の名前も住んでいる場所も知らないけれど、彼女の匂いならばどれだけ離れていても嗅ぎ分けられる自信がある。イランイラン(Cananga odorata)もジャスミン(Jasminum officinale)もかなわない、官能的な匂い……
その匂いが鼻に届くだけで、私の胸は高鳴り、呼吸は荒くなる。
近付いて彼女の匂いを深く胸に吸い込むと、彼女も私の匂いを嗅いでくれた。互いの匂いを嗅ぎ合うと、気分が高揚し、思わず彼女に抱きつきそうになった。が――
彼女の首輪に繋がるリードが引かれ、彼女は名残惜しそうに私の前から立ち去った。
取り残された私は尻尾を下げて、一声ワンと鳴いてから、散歩を再開した。
※作中の香りは実際に存在しますが、効能は個人的に調べた物であり信頼性は保証しません。
時間に関する考察
Q1.
時間の流れを遅くするにはどうすれば良いだろうか?
A1.
時間というのは何者にも平等に流れるものではない。「子供の頃は日が暮れるまであんなに長かったのに」「年をとるほど一年があっという間」というのは、紛れもなく事実なのだ。
それは、人間が時間を「相対的」に感じる生物だからだ。何故子供の頃は時間の流れがあんなに遅いのか、君は考えた事があるだろうか?
考えてみよう。一歳の子供は、生まれてからこの瞬間までに一年が経過している。日数にして三百六十五日、時間にして八千七百六十時間、分にして五十二万五千六百分。つまり、一歳の子供にとっての一分とは、彼の今まで生きてきた人生の五十二万五千六百分の一なのだ。
一方、八十歳の老人は、生まれてからこの瞬間までに八十年が経過している。日数にして二万九千二百日、時間にして七十万八百時間、分にして四千二百四万八千分。つまり、八十歳の老人にとっての一分とは、彼の今まで生きてきた人生の四千二百四万八千分の一なのだ。
その差は甚大。年をとればとるほど、「今」と「過去」との相対比率は大きくなり、時間の流れる速度は上昇してゆく。一歳の子供にとっての一分と、八十歳の老人にとっての一分は、まったく別のものなのだ。
ここで発想を逆転してみよう。年をとればとるほど時間の流れる速度が上昇するのなら、若ければ若いほど時間の流れる速度は下降するという事になる。そう、生まれた瞬間の赤ん坊にとっての一分は、今まで彼が生きてきた人生よりも長い、永遠にも近い時間なのだ。
長く生きれば生きるほど、流れる時間の速度は上昇し、飛ぶように駆け抜けてゆく。ひとは時間の有限性を嘆き長寿を求めるが、仮に長寿を得たところで時間は凄まじい速度で駆け抜けてゆくだけ、ひとびとの望みは永遠に叶う事は無い……。
ああ、質問の答えがまだだったかな。「時間の流れを遅くするにはどうすれば良いか」だったね。答えは実に明白だ。長く生きなければ良い。蓄積し「今」と比較される「過去」を出来うる限り少なくすれば良い。つまり、君がなるべく早く……例えば今ここで死ねば良いのだよ。
どうしたんだい、真っ青な顔をして。私は君の望む方法を提示したのだよ。感謝こそされても、怯えられる筋合いも「狂人」と罵られる筋合いも無いと思うのだが。
……そうだね、私は本来方法を提示するだけなのだが、今回は特別に実行まで面倒を見てあげようか。なるべく苦しくないように逝く方法を幾つか提案しよう。
切られるのが良いかね?
殴られるのが良いかね?
それとも毒をあおるかい?
――さあ、好きな死に方を選びたまえ。大丈夫、君はもうすぐ死ぬのだから、時間は幾らでもあるよ……。
Q2.
時間を止めるにはどうすれば良いだろうか?
A2.
答えはそこの床の上に。
籠の鳥、若しくは
男は鳥籠のような形の檻の中に居た。
出られない訳では、ない。何故なら檻の鍵はとうに壊れ、錆び付いた扉は開け放たれているのだから。
「いつまでそうしているつもりですか、我が父」
男には名前が無く、ただ《父》や《主》と呼ばれる事がほとんどだった。それは、男がこの鳥籠に入った時からずっとそばに居る白い翼を背に負った使徒からも例外では無い。
「……いつまでそうしているつもりですか」
使徒は、もう幾度となく繰り返している問掛けを続ける。
――男が最後の子を創り出したあの日から、男は檻の中に居る。
「……どうしてあの子たちは世界を憎むのだろうね」
男は頭を振りながらそうごちる。背を丸め、溜め息混じりに呟くその姿を、元は最も尊き者の姿だと誰が思うだろうか。
「あの子たちが知恵の実を食べ、私の手を離れた時、私はほんとうに嬉しかった……あの子たちの持つ可能性が、私を越えたのだと」
翼持つ使徒は黙って男の話を聞いている。どこか遠くで、地鳴りの音がした。
「けれど……知恵を手に入れたあの子たちは、この世界を憎んだ。まるで憎しみをぶつけるかのように、世界を壊してゆく……」
悲しげに呟いた男は、瞳を細めると檻の外の世界を眺めた。
「……世界はまだ、こんなにも美しいのに」
地鳴りの音が少しずつ近付いて来る。使徒が、焦ったように幾度目かの問いを繰り返した。
「いつまでそうしているつもりですか、我が父……!」
男は立ち上がると、扉の前まで歩み寄ってから足を止めた。迷うように、惜しむように一度、檻の外の世界を眺める。
「どうしてあの子たちは、この世界を憎むのだろう」
「我が父」
「……あの子たちも、昔はそう呼んでくれた」
男は一度頭を振ると、壊れた扉から檻の外へと歩み出た。
――そして、この世界から《神》は姿を消した。
その日、世界は崩壊の音に飲み込まれた。
魔女と鏡の精のお話
一人の若い女性が、うきうきと荷造りをしていました。彼女は魔女でしたが、その美貌をこの国の王に見そめられて、王妃として迎えられる事が決まったのです。
魔女が荷造りするのを見ている人物が居ました。それは魔女が使う鏡に宿っている鏡の精。鏡の精は何度も鏡を叩いて魔女を呼んでいたのですが、その言葉は外には聞こえません。鏡の精の言葉が外に聞こえるのは、「質問に答える時」だけなのです。
それでも鏡の精は必死に魔女を呼び続けました。鏡の精は、魔女にどうしても伝えたい事があったのです。
――鏡の精は、全てを知っていました。
魔女が美しい娘を産むこと。王の寵愛はその娘に向けられてしまうこと。嫉妬した魔女が娘を殺そうとして失敗すること。そして――魔女が処刑されること。
鏡の精は全て知っていたのです。だから、もし魔女がこの結婚について「質問」してくれたなら、絶対に止めさせようとしたでしょう。けれど、魔女が鏡の精にした質問は……
「祝福してくれるでしょう?」
というただ一言。鏡の精は、泣きそうな顔を隠して頷くことしか出来ませんでした。
それでも鏡の精は内側から鏡を叩き続けます。自らの手から血が滲んで、鏡が紅く染まっても。
鏡の精は、魔女を呼び続けます。たとえその喉が裂けようとも。
* * *
魔女が王の元へ嫁いでから幾年もの歳月が流れました。彼女は王の寵愛を受けたい一心で、毎日のように鏡の精に尋ねました。
「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?」
鏡の精は、この先に待ち受ける運命を憂いながら、魔女の求める答えを出し続けました。
「それは貴女です、王妃様」
鏡の精がそう答える度、魔女はとても嬉しそうな顔をしました。鏡の精は、そんな彼女の顔を見る度に、胸が締め付けられて苦しくなりました。
そして魔女は、女の子を産みました。女の子は、雪のように白い肌、黒檀のように黒い髪、薔薇色の頬をしたとても美しい娘でした。
魔女は娘を大切に育て、愛しました。時には鏡の精に子育てについて尋ね、その度に鏡の精は真摯に答えました。もしかしたらあんな恐ろしい運命は変わってしまったのではないか、そう鏡の精は思い始めました。けれど、ある朝魔女がいつもの質問をした時から、何かが始まってしまったのです。
「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?」
いつもと同じ答えを返そうとした鏡の精は、思わず口ごもりました。鏡の精は真実しか言えません。ですから、真実が変わってしまえば、答えも変えざるをえないのです。
「……それは貴女の娘です、王妃様」
その答えを聞いた時、ほんの一瞬魔女の顔に暗い影が差しました。けれどその時はまだ、魔女は娘を心の底から愛していました。ですから、その影はすぐに消え、鏡の精は胸を撫で下ろしました。
* * *
それから更に年月が経ちました。
娘が美しく成長し日の下で照らされるにつれて、魔女は陰に追いやられるようでした。王は滅多に魔女の部屋へ通わず、魔女はいつも寂しそうにしていました。
そんなある夜、一人寝の寂しさをまぎらわせるために城を散歩していた魔女は、娘の部屋の扉が薄く開いているのに気付きました。その隙間からうめき声のようなものが聞こえて、魔女は心配になり部屋を覗き込んで――気が付くと、自分の部屋に戻って床にへたりこんでいました。
甘えるような女の声。
寝台の軋む音。
雪のように白い肌。
見覚えのある背に回された細い腕。
――許されざる、行為。
魔女は寝台に顔を埋め、声を押し殺して泣きました。そんな魔女の姿を、鏡の精は悲しそうな目で見つめていました。
夜通し泣いて、泣いて、そして――泣き止んだ魔女の顔は、何かを決意したような表情をしていて。鏡を必死に叩く鏡の精に気付きませんでした。
それから魔女は変わりました。あんなに愛していた娘を、亡き者にしようと画策し始めたのです。深く深く愛していた分、それがどうしようもない憎しみに変わってしまったのでしょう。
狩人に命じて森で娘を殺させて、その心臓を持ち帰らせようとしました。
娘の暮らす小屋へ、持ち主を絞め殺すよう呪いをかけた飾り紐を売りに行きました。
また、それで髪を鋤くと皮膚から猛毒が染みる櫛を売りにも行きました。
更には、一口食べるだけで死に至る毒を仕込んだ林檎を食べさせました。
――全て、失敗しました。
魔女が狩人を呼び付けた時、飾り紐を編んでいる時、櫛を彫り出している時、毒林檎を作っている時、いつも鏡の精は鏡を叩いていました。必死で叫んでいました。鏡の精には、全て――わかっていたのですから。
* * *
「……もうすぐ異端審問官が来るわ」
魔女は鏡の前に立ち、すっかり紅く染まってしまった鏡面をそっと撫でました。
「皆が私を憎んでいる。
……もう、私を好いてくれる者など居ないのでしょうね」
「そんな事は無い!」
鏡の精は直ぐ様答えました。その言葉に、魔女は自嘲混じりの笑みを浮かべました。
「じゃあ、……鏡よ鏡、私を好いてくれている者は誰?」
「……それは俺だよ、魔女。貴女のことが好きなのは、俺だ」
鏡の精は質問に答えることしか出来ず、嘘をつくことが出来ません。ですから、その言葉は簡潔なものでしたが、心の底からの言葉でした。
「……ありがとう。誰にも好かれずに死ぬのではなくて、良かった」
嬉しそうに、けれども悲しげに笑みを浮かべた魔女に、鏡の精は頭を振りました。鏡の精は魔女に死んで欲しくなく、また、魔女が助かる方法も知っていたのです。
「……俺は鏡の精、君が訊いてくれるなら何だって答えられるのに」
鏡の精が呟いた言葉は、いつものように魔女には聞こえませんでしたが――ふと、魔女は顔を上げました。
「……鏡の精、貴方は……鏡から解放されたいと思う?」
その魔女の表情を見た鏡の精は、とても嫌な予感がしました。けれども鏡の精は確かに鏡から解放されたいと願っていて――そうすれば魔女を抱き締めることだって出来ます――、鏡の精は嘘をつくことが出来ません。
「ああ、思っているよ」
そう答えた鏡の精に向かって、魔女は微笑みました。そして、懐から短剣を取り出し、自分の喉に押し当てました。
「火炙りにされるぐらいなら、……今までありがとう、鏡の精。貴方は、幸せになってね」
そして鏡の精が止めるより前に、自分の喉を切り裂きました。吹き出した血潮が鏡を紅く染めました。
――鏡の精が鏡から解放されるには、主である魔女の血が必要なのです。けれどもそれはほんの少し、死に至る程の量が必要なわけではありません。
ゆっくりと床に崩れ落ちる魔女を、華奢な腕が抱きとめました。
そこには、鏡から解放された鏡の精がいました。愛しいひとを失って涙を溢す、ひとりの人間がいました。
「……ここから出られたら、君に言おうと思っていた言葉がある」
優しい手付きで魔女の頬に飛んだ血を拭いながら、鏡の精は呟きました。
「……愛してる」
その言葉は、魔女には聞こえませんでした。――もう鏡の精は鏡の中にいるわけではないのに、聞こえませんでした。
* * *
それは昔々のお話です。一夜の間に死の城と化した城がありました。馬番も兵士も大臣も、一人残らず死んだのです。
死んだ時間、場所は様々でしたが、皆に共通することがひとつだけありました。それは、「鏡の近くにいた」ということ。ある者は寝室で、ある者は台所で、ある者は硝子窓の前で――鋭い剣のようなもので切り裂かれて死んでいました。
一番無惨な死に方をしていたのは姫でした。母親譲りの美貌の持ち主だった姫は、その面影が残らないぐらいに顔をめちゃくちゃに切り裂かれていました。
そして、その城から死体が見付からなかった人間が二人。王と、王妃です。
異変に気付いた近隣の人間が城に入った時、死体だらけのその場所に、何故か王と王妃の死体だけがありませんでした。王の間と王妃の間には、血の跡だけが残されていました――
* * *
「……君の愛したひとだよ。一緒に眠れて幸せかい?」
その言葉に答える者はいない。
「ねぇ、……俺、幸せになんてなれないよ」
その言葉に答える者はいない。
「だって……君が、いない」
その言葉に答える者はいない。
「俺に話し掛けて。俺に訊いて、質問して……」
その言葉に答える者はいない。
「……君が、いないよ……」
その言葉に答える者は、いない――
ひと喰う森
その森は、人を食うらしい。
スギノはその灰色の森で途方にくれていた。どちらを見ても灰色灰色灰色、もしかしたら自分はこの森で一生迷い続けるのかもしれない……そんな思考まで浮かんで来る始末である。
故郷の大人たちは昔から「《森》はお前を食いものにするから気を付けろ」と口を揃えて言っていた。当時のスギノはまだ子供で、大人たちの言う事なんてハナから信じちゃいなかったのだが、やはり亀の甲より年の功、年長者の忠告は素直に受け取っておくべきだったと後悔しきりだ。
森が自分に覆い被さってくるかのような圧迫感と閉塞感。スギノは頭を振ると、この灰色の森から脱出するべく歩き出した。
灰色の木々をかきわけ、スギノは歩き続けた。だが、行けども行けども森の出口は見付からない。辺りに茂る木々すらも、自分を食いものにしようとしているように見える。
そんな妄想を頭の中から追い出して、スギノは重たい足を引きずる。ざわざわと蠢く木々は、それ自体がひとつの巨大な生物のように思えた。
それにしても、とスギノは考えた。一体全体どうして自分はこんな森をさ迷う羽目になったのだろう。……故郷を出た時の自分は希望に満ち溢れていた。退屈な村を出て、森で何か素晴らしいものを見付けようとしていたのだ。
――今では、それが何だったかすら思い出せない。
灰色の森。
味もそっけも無いこの場所に、昔の自分はひどく憧れていた。ここへ来れば何か素晴らしいものが見付かると信じていた。
……だが、今の自分はどうだ。何も見付けられず、今もこうして森を右往左往するばかり。あの頃の自分が今の自分を見たら、何と言うだろう。
知らず、スギノの口から溜め息がもれた。歩き続ける足も鈍る。
妙な息苦しさを感じて首に手をやったスギノは、自分の首に巻き付いている細長い布のようなものを緩めた。それから固まった肩をほぐそうと、上着を脱いで脇に抱える。
つくづく窮屈で動きにくい格好だと、スギノは思った。どうしてこんな格好をしなければならないのか。
「……、ノ……」
遠くから何か聞こえる。獣の鳴き声だろうか、それとも風の音だろうか、それとも木々の擦れる音だろうか。スギノは眉を寄せ、凝り固まった肩を回してほぐしながら歩き続けた。
「ス、……」
また聞こえる。何故か呼ばれているような気がして、スギノは足を止めた。ふと足元に目をやると、灰色の落ち葉。それを拾い上げようと腰を曲げ、
「スギノ!」
響いた声に、森が揺れた。
* * *
「スギノ、お前どうしたんだよ。いくら呼んでも返事しないし……」
怪訝そうにスギノを覗き込んでいる男。スギノはぱちぱちと瞬きをすると、周囲を見回した。
灰色の森。灰色の木々。いつからこの森は色を失ったのだろう。いつからこの木々は色を失ったのだろう。
沢山の人間がこの森へやって来て、沢山の人間がこの森に食われてゆく。自分もいつかその仲間入りをするのだろうか、とスギノは身体を震わせた。
「……スギノ?」
「あ……いや、なんでもない」
不審げに眉を寄せる男に、スギノは頭を振って見せる。男はスギノを眺めた後、別れの挨拶もそこそこに走り去って行った。
――スギノは空を見上げた。空は青かった。泣きたくなるぐらいに、青かった。
そしてスギノは……杉野は窮屈なジャケットに袖を通し、ネクタイで首を締め付け、歩き出した。
拾い上げたくしゃくしゃのチラシを握り締め、スクランブル交差点の真ん中で、歩き出した。