課外秘資料第三架四段の一:『見るなのタブー』についてのとある事例 0.
その山にはヌシや山神、その他怪異の伝承が存在しなかった。極めて珍しい事例である。帯刀課の要警戒リストにも登録されておらず、ごく平和な山だと思われていた。
夏のある日、山に入った登山客が一人戻らなかったのがすべての始まりだった。
青年団による捜索隊が結成され山へ向かったが、彼らもまた戻らなかった。
次にプロの山岳救助隊が派遣され、山へ入り、一人だけが戻った。
戻った隊員はひどく衰弱しており、病院へ運ばれる途中、「見るな」とだけ言って昏睡状態となった。
――帯刀課の人間が送り込まれたのは、その次の日のことだった。
1.
“帯刀課”。嘘のような名称だが、警察に実在する部署である。その名の通りそこに所属する捜査官はもれなく一振りの刀を所持しており、それを使って“空”と呼ばれる人に仇なす怪異を斬る。……そう、この世には、人知の及ばない世界の存在が確かに息づいているのだ。
そして今回の事件は尋常ではないと判断され、その帯刀課の人間へ出動命令が下った。
まずは捜査官、千々輪カタリナである。野外活動が想定される今回、若く身体能力に優れた彼女に白羽の矢が立ったのは妥当と言えた。手の空いている捜査官がいなかったというのも多分にある。
その補佐をする監察官は、吉部永友。固定の補佐役……“バディ”がいないカタリナを臨時のバディとして援護するにあたって、既に顔見知りであり何度か組んだこともある彼女が選ばれた。既に被害者が出ているというのもあり、カタリナが暴走する可能性はけして低くはない。
カタリナと永友は命令が下るやすぐに出発し、次の日には現地入りしていた。
「来たな」
駅で二人を出迎えたのは、たまたま近場に来ていた別の捜査官と監察官のバディである。今回は山という広い範囲が調査対象であるため、複数のバディがこの事件にあたることとなっていた。
そのバディは二人ともカタリナの顔見知りであった。白樫イスミは見た目こそ幼くさえ見える若者だが実際のところはベテランの捜査官である。その臨時バディとして配属されていた監察官の加藤吉常もまたベテランの監察官であり、今回の任務では吉常監察官が四人のとりまとめ役としての立場になることが求められていた。その吉常が駅から移動する車の中で口を開く。
「情報分析班によると、山には特にそれらしい言い伝えなどは無いらしい」
「珍しいですね、山なんて怪異の宝庫じゃないですか」
カタリナが後部座席で眉を上げると、助手席でイスミも頷く。
「そうなんだよ、町で聞き込みもしてみたんだけどめぼしい噂なんかもなかったし……」
そう言いながらも難しい顔をしながらイスミは地図を見て吉常のナビをしている。カーナビもついていない小さな車の乗り心地はけして良くはなく、カタリナの隣で永友は不機嫌そうに口を噤んでいた。
……駅から大分走ってようやく山のふもとにある駐車場に到着した四人は、車から降りるとめいめい伸びや屈伸をして体をほぐした。それから靴を履き替える等、装備を整える。まだ日は高い。今から山に入ることは十分可能に思われた。
ごく普通の、特に禍々しい気配もない明るい登山道が目の前にある。
「気を抜くなよ」
吉常が静かにそう言ったのを合図にしたかのように、カタリナが先陣を切る。その腰にある刀をいつでも抜けるよう、油断なく周囲に気を配る様は一見公務員めいたスーツ姿とは不釣り合いである。その後ろに監察官の二人が続き、殿にイスミがつく。
木漏れ日に眩しげに目を細めた永友は、先ほどから感じていた違和感の正体にふと思い至った。
鳥の声が、どこからも、聞こえなかった。
2.
「『見るなのタブー』か……」
「なんですかそれ」
山道を歩きながらふと呟いた吉常に、カタリナは周囲に気を配りながら問うた。
「鶴の恩返しや青髭、イザナギとイザナミの黄泉帰りのような、『見てはいけない』とされるものを見てしまうことによって何らかの災いが起こる物語モチーフだ」
「そういえば唯一の帰還者は『見るな』って言ってたらしいですね」
登山道沿いにゆるやかに山頂へ向かう四人にはまだ余裕がある。今のところ空の気配はかろうじてあるかないか程度で、位置まではわからない。
「見付けたら念のため正面からは見ないようにしろ」
吉常の言葉に、イスミとカタリナは一瞬顔を見合わせた。それから困ったように眉を下げたカタリナが口を開く。
「努力はしますけど、難しいと思います……」
「お前そういう搦め手の戦い方苦手だからなあ……吉部、フォローできるか?」
「……ああ、私がやる」
永友の返事が少し遅れたのは山全域の探知を試みていたからだが、どうにもうまくいかないようで眉間に皺が寄ったままだった。空の気配は妙に掴み難く、どこにもいないようでいて、そこここにいるようにも感じられる。
しばらく進むと道が別れており、四人は地図を広げた。それぞれ景色や道のりに多少の差がある程度で、要する時間はそれほど違わないだろうと思われた。
「そちらは東回り、こちらは西回りで調査しよう。……ここで落ち合うか」
二組は合流地点を決めてからそれぞれ別の方向へ向かった。山はそこまで大きくはなく、本来であれば遭難者が出るような規模ではない。夜までには十分再合流できる広さである。
東回りのルートへ向かったカタリナと永友の二人は鳥の声ひとつしない山道を慎重に進んだが、獣にすら出くわすこともなく合流地点へと到着した。一方西回りのルートを通ったイスミと吉常の二人も特に異常が見当たらないまま進み、合流地点でカタリナたちに頭を振ってみせた。
「……獣の気配がない以外の異常は見受けられないな」
「時間帯変えてみます?」
「夜の山狩りは危険だが……やむを得ないか」
一度戻って態勢を整えるべく山を下り始めた四人の周囲に、「突然夜が来た」。周囲は一気に暗くなり、空気がじっとりと湿ってゆく。
「……え?」
頭上を見上げたカタリナは、枝々の隙間から見える夜空に困惑した。
「さっきまでまだ夕方でしたよね?」
「……違う、夕方だと誤認させられていたんだ」
永友がそう言い捨て、忌々しげに目を細める。刀の柄に手を伸ばしながら周囲を見回す捜査官二人に庇われるような配置でそれぞれ術の触媒となる札などを構える監察官二人。
彼らの頭上からじわじわと夜が広がっていく。……正確には、隠されていた夜が露になっているだけなのだが。生ぬるい夜の空気が肌にまとわりつき、しんとした山の不気味さが際立つ。
「でも、この規模の空ならどうして気配がほとんどしなかったんでしょう」
「山全域に『広がって』いたんだろう。泉に一滴だけ毒を垂らしたようなものだ、拡散して知覚が難しくなったんだ」
「……これに惑わされてみんな食われたんだろうな」
ぽつりと呟いた永友に、カタリナがぴくりと眉を動かした。
「まだわかりません! どこかに隠れてるかもしれないじゃないですか!」
「千々輪、気持ちはわかるけど」
宥めようとしたイスミの手を振り払い、カタリナは金色に燃えるような目で永友を見詰めた。希望的観測などではなく、心の底から奇跡を信じている目だ。……奇跡だと思っていないのかもしれない。この状況での民間人の生存者など、奇跡でも起こらなければ期待できないというのに。
「死体はみつかってないし、実際一人は生還してる。今もどこかで怯えて震えているのかもしれない!」
「思うのは自由だ、……ちゃんと尻は持ってやる」
指で札を弾きながら、カタリナとは対照的に落ち着いた低い声で言う永友の本心は読みづらい。カタリナはぐっと言葉を飲み込んで、それ以上は食って掛からなかった。
その様子を見ていたイスミと吉常は、顔を見合わせると小さく頷いた。
3.
広がりきった夜が山を支配した。空の気配はまだ遠いが、当初よりははっきりしており、方向もわかる。吉常が片手で合図をし、カタリナが先行する。最後尾はイスミが持ち、挟まれる位置に監察官たち。
……イスミ・吉常はカタリナと永友がまた対立しないようフォローするつもりではいたが、今のところ二人とも冷静なように見えた。切り替えが早いたちなのが幸いしたのだろう。
少しずつ空の気配が近付くにつれ四人の足取りは慎重になり、進む速度は落ちる。そして、肌の一点が針で刺されるような感覚──これはカタリナの感じ方であり、個人差がある──をおぼえて足を止めた。
前方、数メートル先に揺れる影。念のため真正面からは見ないようにしながら確認したそれは禍々しく、ゆっくり前後に揺れながら移動していた。まだこちらには気付いていないようだ。
カタリナが吉常を確認すると軽く頷かれる。それから永友に目配せし、ゆっくりと距離を詰めてゆく。
近付くにつれはっきりしてくる空の姿は、二足歩行ではあるものの人間とは違い、手が妙に長く地面に引きずりながら歩いていた。ちらりと永友の方を見たカタリナは、少し怪訝そうな顔をする。
顔色が悪いように見えた。
カタリナの視線に気付いた永友は、大丈夫だとでも言うように頭を振る。カタリナが刀を握って空の方へ目配せすると、頷いて札を構える。
次の瞬間、カタリナが飛び出す。ざ、ざ、と茂みを踏み分けながら一気に空へと肉薄し刀を振るおうとしたそのとき、「真正面から空の顔を見た」。
ぐら、と目眩がする。空の姿がぐにゃりと歪み、形を変える。二足から四足へ、巨大な狼に似たそのフォルムにカタリナは見覚えがあった。あの時見た恐ろしいものそのものの姿だ。頭がひどく痛む。「何か」を食い散らかしていた、違う、あれは……。
「千々輪!」
呼び掛けに我に返ったカタリナの目の前に小柄な影が割って入り、空へ斬りかかって間合いを切り開く。
「なにやってる、こんな小型相手に!」
──小型? これは大型とまではいかないが、中型クラスに見える。
困惑するカタリナの視界で、巨大な狼と切り結ぶイスミ。急いでフォローに入ったカタリナであったが、その動きに精彩は無い。何故か間合いがうまくはかれない。目測よりも手応えが浅かったり、逆に入りすぎたり。そのカタリナを支援する永友もどこか様子がおかしく、それらを見ていた吉常がぐっと眉を寄せると声を張り上げた。
「カタリナ、吉部! お前たち何を見ている! 『見るな』!」
ひゅ、とカタリナの喉が鳴る。一旦空から距離を取り、思い切って目を閉じる。あれだけ巨大に感じられていた気配が、す、と小さくなるのを感じた。それからゆっくり目を開け、正面から見ないように注意しながら空の方を窺う。……二足歩行の、人間大の影。気付きを得てしまえば簡単なことで、つまりあれは、「見た者が恐ろしいと思っているもの」の姿を借りる空なのだろう。
「すみません、大丈夫です!」
その後方で永友も立て直したらしく、戦線復帰したカタリナに自分の不利を悟ったのか空が跳躍し木の枝へと飛び移った。逃げるつもりだろう。イスミが舌打ちをする。
その時、カタリナが空の方向へ駆け出してから振り向いてイスミの方に体を向け、腰を落とし、両手を前で揃え指を組んだ。……丁度バレーボールのレシーブの際の姿勢に似ている。
「イスミさん!」
その意図をすぐに理解したイスミは迷わず駆け出し、カタリナの手に足を乗せ、その手を振り上げる勢いに合わせて跳躍した。その先にあった木の枝でもう一度踏み切り、空へと一気に距離を詰め体当たりするように刀で核を貫く。金切り声のような、笛の音のようなものを響き渡らせながら空の姿は霧散し、イスミは体勢を崩したまま落下する。
その落下するコースに何枚かの小結界が浮かび、突き破りながら落ちることで勢いを殺し着地したイスミの元へ、カタリナが駆け寄った。
「大丈夫ですか」
「ああ。そっちの手は?」
「平気です」
立ち上がり、スーツの汚れを払い落とすイスミに怪我をしている様子はない。
──逃がさず倒しきるべき状況だったし、体格的に踏み台は自分で跳ぶのはイスミであるべきだったし、着地のフォローは監察官二人がしてくれる。
その発想はカタリナにとってはまったく無理のないもので、実際イスミもすぐその意図を理解して乗ったわけだが、この二人に比べれば比較的慎重派である監察官たちがどう判断するかについてはまた別の問題である。はたと気付いて振り返ったカタリナは、少しだけ眉を下げた。
……その後、山から空の気配が完全に消えたことを確認して、帯刀課の仕事は終わる。帰還してから数日後、行方不明者が全員死体で発見されたというニュースが流れることとなり、そのニュースにそれぞれ思うところはあるだろうが悼む暇は無い。
また別の場所で空が人間を食らい、帯刀課が出動する。悲劇はやまず、それでも彼らは戦い続けるしかないのだ。