【Joyeux huit Mers号の口福】クレイン編◆第一話
◇聞き込み@聖職者ファウスト
ファウストという名の聖職者の部屋にひとりの来客があったのは少し前のこと。その客人は大柄でいかにも逞しくはあったが穏やかな所作をしていて、失われた命について静かに語っていた。
「あの長い戦いを共に戦い抜いたきょうだいが、まさかこんな形で失われるとは……」
憂鬱げに目を伏せたまま十字を切った客人……クレインは、少しかすれた低い声で話を続ける。
「ファーザー・ファウスト、ジョンは貴方の弟子だった。その心痛たるやいかばかりか……どうかお心を強く持ってください」
「気遣いに感謝する。だが問題はそれだけではないのだ」
「というと」
その年老いた聖職者は気鬱げに溜め息を吐き、膝の上で手を組んだ。
「……あれに持たせていた聖典がなくなっていたのだよ」
「犯人が奪ったのではなく?」
「ああ、今のところどこにも見当たらない」
クレインは少し考え込むような仕草をする。ファウストは深刻な様子で続けた。
「ファーザー・クレイン、わが同士よ、どうか手を貸してくれまいか。消えてしまった聖典を探し出してほしいのだ」
「……ええ、勿論、私の出来る限りのことはしますとも」
大きく頷いたクレインは安心させるようにファウストの手を握り、それから思い出したような素振りで付け加える。
「……そういえばファーザー・ファウスト、私はまだジョンに別れの挨拶をしていないのです。彼がどこで眠っているのか教えて頂けませんか」
囁くような声は内緒話のようでもあったが、その本来の意図が何であるかはクレイン以外知る由もなかった。
◇聞き込み@女記者キャノン
「何だった?」
ある聖職者の部屋から出てきたクレインに、部屋の前で待っていたチュスが声をかけた。どこか心配げに眉を下げている。
「なんでもありませ、……いや……少しこっちに」
言葉を濁したクレインはチュスを連れて人気のない物陰へ行くと、周囲を確認してから囁くような声で話し始めた。
「殺された聖職者の所持品から、貴重な聖典がなくなっていたそうです」
「……物盗り目的だったのか?」
「いえ、それが犯人の手には無いようで」
そう語るクレインの目はなにかを思案するように泳ぎ、落ち着かなげにロザリオを手繰る手元からは微かな音がしている。
「折角こうして休暇をすすめてもらったのにごめんなさい。俺、色々と調べてみようと思います。チュス、貴方は……」
そこでクレインは言葉を切った。暗い緑の目が様子をうかがうような、別れ話を切り出そうとする男のような、いたずらを白状する子供のような……そんな眼差しでチュスを見る。
「……貴方が構わなければ、ですが。……俺と一緒に来てもらえますか。他に行きたいところがあるならそちらを優先してもらっても……」
「君と行くよ」
即答であった。
「君の助けになるなら、どこにだって連れ回してくれていい」
チュスはクレインがこうして自分に助けを求められるようになったことを好ましい変化として受け入れていた。いつだって大切なひととの間には一定の距離を置き、自分の属する世界から相手を遠ざけようとしていたクレインが自分の都合に相手を巻き込めるようになったのは、あの数年間の動乱以降である。
「……ありがとうございます」
ほっとしたように表情をゆるめたクレインの二の腕をチュスが軽く叩いた。
「それで、どうするんだ?」
「……被害者について調べようと思っています、少し気になることがあって……人間関係を洗うのは難しいにしても、この船上での足取りを追うことは可能でしょう」
……それから被害者ジョンの足取りを調べるべく船内の様々な場所を移動した二人は現在甲板に来ていた。吹いてきた潮風にチュスが帽子を片手で押さえ、クレインは僅かに目を細める。
「ねえねえそこの貴方、フロレンツィアの方でしょ?」
不意にかけられた声に振り返ったクレインのつま先が少し震えたのを、隣にいたチュスだけが気付いた。
明るい雰囲気の若い女がにこにこと人懐っこい笑みを浮かべてそこにいた。豊かなブロンドと柔らかそうな白い肌が惜しげもなく日の光に晒されている。
「少しお話ししない?」
一瞬唇を引き結んだクレインの少し警戒する――怯えと言い換えてもいい――様に、チュスがそっと間に割って入ろうとしたがそれはクレイン自身によって止められた。
「……ええ、構いませんよ。外からいらした方には俺も興味があります」
大丈夫なのかと言いたげなチュスの顔に、クレインは僅かに頷く。
「『こんな事件』が起こっては、落ち着いて食事も出来ませんしね」
そうして、女に向かっていかにも人当たりのいい聖職者然と微笑んだ。
こちらに続く
◆第二話
◇調査@甲板
まだ若く美しい娘の死は、大きな衝撃を乗客たちに与えた。一目見ただけでも無惨な死体だとわかる状態だった娘の苦痛はいかばかりかと考えると、死んだ後にはらわたを食い荒らされたことを願ってやまない。
二件目の殺人は一件目と死体の様子が似ていたため、同じ犯人によるものだと考える者が多かった。大海の上で逃げ場はなく、猟奇的な死体の様に人々は犯人像を好き勝手に妄想しては恐怖に戦いた。まだ大規模なパニックが起こっていないのは奇跡的であり、少し均衡が崩れれば船上からは容易く平穏が失われるだろう。
その中でなお冷静さを保っていられる人間は限られており、かつてフロレンツィアで起こっていた動乱の経験者などがそこに含まれていた。理不尽な死も、惨い死も、抗いようのない死も、かつてのフロレンツィアではありふれていた。
――主よ、われらを見守りたまえ。
――われらの道から光が失われぬように。
そう祈りを捧げたのは、あの動乱の経験者であり、悪魔討伐の知識がある人物でもあり、敬虔な信仰者である……クレイン・オールドマンだった。
クレインはただの聖職者であり、殺人事件の調査をするような人種ではない。表向きは聖典の回収を目的としている。……ただ、他にも思惑があるようで、特に一人目の被害者であるジョンを気にしているようだった。
だが二人目の被害者が出たことで状況は変わった。先程まで会話していた娘の無惨な死。クレインは、本来荒事からは遠ざけられているべき相手――たとえば子供、一般信徒、ごく普通の市民――の暴力的な死に強く憤りを感じる気質だった。
――この一連の事件に犯人が存在するならば、正当な裁きを受けさせるべきである。
クレインはそう思考を切り替えた。
甲板の隅に二人の男――聖職者クレインと天使チュスだ――が佇んでいる。そのうち片方はどこか足元がふわふわしているような様子で落ち着かなげに腕を組んでいた。
「……チュス、大丈夫ですか? 気分が悪いようなら部屋に戻っても」
「いや……大丈夫だ」
青ざめた顔で頭を振ったチュスの唇は少し震えている。クレインは心配そうにそれを見ていたが、少し考えてから甲板の舳先へ向かった。
「うええん……なんで僕が……」
そこには半泣きになりながら掃除をしている給仕モッブスがいた。飛び散った血を海水で洗い流してはモップがけし、なんとかきれいにしようと試みているようだが完遂は遠そうである。
「君、大丈夫か? よければ手伝おうか」
そこに声をかけたクレインの声色は気遣わしげで落ち着いたそれだった。だが目は静かに凪いでいて、周囲になにか手がかりが残っていないかをさりげなく探していた。
「ありがとうございます……! でもお客様にそんなことをさせるわけにはいかないのでお気持ちだけ! お気持ちだけ頂いておきます!」
涙目で頭を下げるモッブスにクレインは軽く微笑んでみせ、それから今気付いたといった風に口を開く。
「そういえば君、さっき何かを見ていなかったか? メモのような……」
「? これですか?」
片手に紙切れを握って首を傾げたモッブスに、クレインは頷く。
「そう、それだ。現場に落ちていたんだろう? 俺にも見せてくれないか」
クレインの声は低く落ち着いていて、浮わついた様子など欠片もない。少し顔色は悪いもののそれはこんな恐ろしい事件に出会えば当然だろうと判断できる範囲内で、……彼が少し平常時からは外れた思考をしていることはきっと誰にもわからない。わかるとすれば多分、少し離れた場所で溜め息を吐いた天使くらいのものだろう。
メモへと差し出された手は、ごく自然な所作をしていた。
◇聞き込み@天使イグネイシャス
「お気持ちはお察ししますが、どうかご協力頂けないでしょうか」
「……」
部屋を訪ねてきた聖職者は悪人には見えないが、かといって善人かどうかを判断する材料もない。イグネイシャスは難しい顔でその聖職者……クレイン・オールドマンを見ていた。
「不幸な……暴力的な死を迎えた友人を静かに眠らせてやりたいという気持ちは私にも経験があります、かつてのフロレンツィアではそんな死もありふれたものだった」
クレインの表情が曇り、静かに頭を振ってからイグネイシャスを見る。緑色の目はどこか暗い。
「死者を辱しめるようなことはしないと約束します、隣で見ていて下さって構いません。……ご友人の遺体を改めさせて頂けませんか」
……クレインは一人目の被害者であるミアプラキトスの死体を調べるためにここに来ていた。ジョンの死体が消えた今、一度目の事件についての手がかりは限られている。事件が発生して以降誰の目にも触れていないミアプラキトスの死体に何かが残されている可能性は低くない。
ミアプラキトスの連れであるイグネイシャスに話を通すのが筋だろうと考えたクレインはチュスと共にその部屋を訪れ、快く迎え入れられはしたが部屋の空気はけしてなごやかなそれではなかった。
沈黙が流れる。イグネイシャスは何かを考えている様子で己の髪に触れてから腕を組んだ。クレインはただ返答を待つ姿勢をとっており、チュスもまた無言で口元に手を当てていた。
「……少しいいか」
だが、少しの時間が過ぎた後口火を切ったのはクレインでもイグネイシャスでもなく、二人を静観していたチュスであった。
チュスは少し迷うように目を泳がせてから、イグネイシャスの方を見た。じっとこちらを見ている相手の目に少し怯むような素振りをみせたが、一度唾を飲んでから改めて口を開く。
「ミスター・イグネイシャス、君は……僕と同じような生き物じゃないか? 猶予期間を頂いた死者、あるいは、讃歌のために作られた……『天使』と呼ばれているもの」
イグネイシャスの眉がぴくりと動き、クレインは息を飲むとイグネイシャスとチュスを見比べた。
「君の魂は、人間には見えない。……そして君が天使であるなら、その友人である彼もまたそうなんじゃないか……?」
「チュス、何を……」
「天使は人間よりも死ににくい。なにより君は……友人を永遠に失った人間には見えない」
イグネイシャスは黙ってチュスの言葉を聞いていたが、その表情はどこか面白そうな、興味深そうな……楽しげな様子を隠しきれなくなってきている。
「つまり僕たちが君に言うべき言葉は『ご友人の遺体を確認させてほしい』ではなく……」
静かに輝く一対の夕陽が、黎明の空を見ている。
「『ミアプラキトスさんと話をさせてほしい』ではないかな」
どうだろう、と問うチュスの声は落ち着いているように聞こえるが、普段より少しだけ声が揺れていることにクレインは気付いていた。
◆最終話
◇邂逅@聖職者ファウスト
「こっちです! 落ち着いて、でも走って!」
パニック状態の乗客を誘導しているのは船員だけではなかった。聖職者クレイン・オールドマンもその一人であり、乗客の誘導をしながら逃げ遅れがいないか確認して回っていた。
そして客室のある区画で、一人の老人が何やら大きな荷物を持って足早に歩いているところを発見した。
「ファーザー・ファウスト! まだこんなところにいたんですか、早く避難を」
呼び掛けられて顔を上げた老人……中央区所属の聖職者ファウストは、相手がクレインであることに気付くと真剣な表情で口を開いた。
「君か……そう、思い出したんだよファーザー・クレイン、……クレイン・オールドマン。君は『第二部隊』の隊長だったな」
……クレインは中央区に所属する神父であり、同時に対悪魔の討伐部隊にも所属している。通称「第二部隊」。正式名称を「広域悪魔対策室第二遊撃部隊」というそれは、現在こそ滅多に稼働しないもののかつては前線を飛び回り剣を振るっていた。
「……今は実質解散しているようなものですが。それがどうかしましたか?」
怪訝そうに眉を寄せたクレインの手に、ファウストは布にくるまれた細長い何かを押し付けた。受け取ったそれはクレインの足元から腰くらいまでの長さをしていて、ずしりと重い。
「これを使いなさい。老いた私より君の方がうまく扱えるだろう」
「これは……」
問おうとしたクレインの声を、人々の悲鳴が遮る。それを聞いたクレインは、ちらとファウストを見たもののすぐに悲鳴の方へ向かって駆け出した。
「すみません、お一人で避難してください!」
……渡された包みを抱えたまま。
◇交戦@悪魔アウァールス
こちらの流れをふまえて
走りながら布包みの中を確認したクレインはわずかに眉を寄せたが足は止めなかった。階段を駆け上がり甲板へと到着し、そして、そこにいたものを嫌悪も露に睨み付けた。
寒気がするような気配を発している醜悪な肉の塊は四足歩行ではあったが獣には見えない。ぬるりとした粘液に覆われた触手がのたうち、手当たり次第に乗客たちを襲っていた。獲物に絡み付き、持ち上げ、体の上部にある口のような場所へ放り込む。……骨の砕けるおぞましい音。
クレインは舌打ちをすると片手でタイを緩め、ジャケットを脱ぎ捨てながら甲板の床を蹴り飛び出した。そして今まさに触手に捕まりかけていた乗客を掴んで乱暴に後方へ投げ飛ばす。びたん、と触手が床を打った。
「こっちだ、くそったれ!」
ぎょろりと動いたその悪魔の目がクレインを見、触手の群れから何本かがクレインへ向かって襲いかかる。次の瞬間、ばっ、と布が飛び、……触手が切り飛ばされていた。
クレインの持っていた布包みの中から現れたのは、ひとふりの剣だった。細身で長く、やや反りのある片刃の剣である。投げ捨てられた鞘はどこか古びており、聖なる言葉が刻まれていた。
……この剣が何処から来訪しいかにして聖なる武器へと至ったかには絵巻物一本ほどの物語があったが、クレインにとってこの剣はただ「悪魔に有効な武器」でしかない。
――攻撃を防ぐほどの強度は恐らくなく、殴打より斬撃に特化した武器だ。
触手を切った際の手応えでそう判断したクレインは、慎重に構えながら相手との間合いを模索する。が、じりじりと距離を詰めようとしたそのとき、誰かの悲鳴が聞こえた。
悪魔の長い舌に捕らえられ、逆さ釣りで持ち上げられている青年の姿を確認したクレインはそちらへと目標を変える。床の上を薙ぎ払う触手を足場にし、ぬめつく体表に何度か足を滑らせながら駆け上がり、構えた剣を思いきり悪魔の舌へと突き刺した。
「――――!」
人間には出すことの出来ない種類の声が響き、巨大な舌が波打つ。拘束が緩んで悪魔の口へ滑り落ちそうになる青年を掴んで引き寄せたクレインは、大きく揺れた悪魔の体の上でバランスを崩し青年もろとも床へと振り落とされた。
「ぐ、っ……ありがとう助かっ……あ」
したたかに体を打ち付けはしたが大きな怪我もなく、青年は起き上がりながらクレインを見上げると相手が見知った人間であるということに気付き複雑な表情になる。それを知ってか知らずかクレインは剣を構えて悪魔の動向を注視しており、青年の方を見もしない。
「いいから下がってろ、イーノク神父。あのxxxxを地獄に叩き返してやらなきゃならん」
口汚い罵倒語を吐き捨てるその様は普段の穏和な様子とはかけ離れており、その手の神聖かつ鮮烈な気配をまとう剣には似合わない。
「どうやらこの船には天使様もおわすようだからとどめはお任せせざるをえないとしても、人間の敵は人間が殺さなきゃいけないんだよ」
低く掠れた声は憎悪とも憤怒ともつかない何かを孕んでいて、暗緑の瞳は静かな闇を抱いていた。