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    勘違い ひんやりとしたこの場所の空気にはなにか異物が混ざっているのではないか、という妄想に取り憑かれるのも仕方がないような場所だ。明かり取りの窓もない地下室は照明器具をもってしても照らしきれず、壁際の棚に並んでいる正体不明の標本や薬瓶たちが薄暗がりに沈んでいる。
    「今日は何だ」
     椅子に深く腰掛け背もたれへ体重を預けながらそう言った壮年の男は部屋の主ではないが、この陰鬱な雰囲気に気圧される様子もなく落ち着いた様子で、遊戯室か食堂にでもいるかのように無造作な仕草で足を組み直した。ヘルムート・チェルハ、熟練の黒騎士である彼は度々この部屋を訪れては部屋の主ととある行為に及んでいた。
    「これだ」
     部屋の暗がりから浮かび上がるように現れた女は片手に小瓶を持っていた。ヘルムートよりいくらか年下の、だが少女と呼べる時期は十年以上前に通り過ぎているであろう女だ。ベラドンナ・ヴェレーノ・カンタレラという名のその女はヘルムートと同じく黒騎士であり、この部屋の主でもあった。
    「ほら、口を開けろ」
     小瓶の蓋を外すとスポイト状になっており、それを差し出しながらベラドンナは顎をしゃくった。そちらへ視線を寄越したヘルムートは背もたれから背を離し、目を細める。
    「薬効は?」
    「睡眠薬だ、そんなに長時間はもたないから安心しろ」
     ヘルムートは少しだけ何かを考える様子を見せたが、結局素直に口を開くと舌を差し出した。その上に一滴、薬液が垂らされる。舌をしまい込んでからもごもごと口内で動かし、僅かに眉を寄せるヘルムート。味がお気に召さなかったらしい。
    「……この味じゃあ食べ物に混入するのは無理だな」
    「その辺りは追々な。……今日は安静時の経過を見たいから、適当に過ごしてくれ」
    「了解」
     部屋の中を見回したヘルムートは、慣れた様子で書架から本を一冊引き出すとページを捲り始めた。ベラドンナはちらりとそのタイトルを確認したが特に何も言わず作業に戻る。この部屋に置かれているということは勿論その本は薬毒物に関する本でありある程度専門的なことにも言及していたが、ヘルムートは特に問題なく読んでいるように見える。
     しばらくして、何かが床に落ちる音がした。ベラドンナは席を立つとそちらへ歩み寄り、ヘルムートの膝から滑り落ちた本を拾い上げると書架へと戻した。そして、椅子に座ったまま寝息をたてているその男の首筋に触れて脈と体温を確認する。脈はいつもと変わらず遅め、体温は同年代男性の平均とそう変わらない。
     それから経過観察の時間が始まる。砂時計をひっくり返しては体温と脈を確認、時折胸元に耳を当てて心音と呼吸音のチェックもして、書類にペンを走らせる。砂時計の砂が落ちる音さえ聞こえそうなくらい静かなその部屋の空気を、ヘルムートの寝息が揺らしている。
     一時間後、想定していた効果時間を迎え、ベラドンナはヘルムートが目覚めるのを待った。死んだように、ぴくりとも動かず眠っていたその体が僅かに身じろぎし、寝返りを打とうとして椅子から落ちかけてびくりと肩が跳ねる。開かれた目は眠たげに濡れていて、ゆる、と視線を動かすとベラドンナを見た。
    「ああ、……おはよう、どれくらい寝てた」
    「一時間くらいだな、想定通りだ。気分は?」
     眉間を指で揉みながら息を吐いたヘルムートは、寝起きの良いこの男にしては珍しく億劫げである。
    「あまり良くないな、少し吐き気がする」
    「ふむ……」
     書類に何やら書き付けて、それからベラドンナはその白い手でヘルムートの額に触れた。熱はないな、と呟いてから離す。その手の冷たさが心地良かったのか僅かに目を細めていたヘルムートは離れる手を目で追ったが何も言わず、伸びをすると椅子から立ち上がった。特にふらついているような様子はない。
    「指導があるからそろそろ行くぞ」
    「もし異変があったら」
    「すぐに来る。……毎回それだな、お前の作った薬なんだから大丈夫だろう」
     苦笑するヘルムートを見るベラドンナの表情は真剣なもので、一瞬口ごもった後、ぼそりと呟いた。
    「……数少ない友人として、心配しているんだ」
     それはおそらくベラドンナにとってかなり勇気を要した言葉だった。ヘルムートは、相手の紫紺の目の奥に切実なものが揺れていることに気付かない男ではない、筈だった。
     だというのにヘルムートは一瞬、ほんの一瞬だけ、表情を取り落とした。大抵穏やかな表情をしているその顔から、表情が消えた。……それは本当に一瞬の出来事だったが、ベラドンナの心にナイフを差し込むには十分だった。
    「そうか。……そうか、ありがとう、ベラドンナ」
     すぐにヘルムートの顔には笑みが浮かべられたが、ベラドンナはじっとその顔を見ていた。ああ、うん、と気のない返事をしてからふいと目を逸らす。そうして二人はふわふわとした落ち着かない空気のまま別れた。


     それからというもの、ベラドンナはヘルムートを避けるようになった。


     なにかにつけ薬の実験台にするべくヘルムートを追い回す姿も目撃されなくなり、ヘルムートが自らベラドンナの部屋へ足を運んでもすげなく追い返された。ヘルムートは戸惑ったがしいて相手を問いただすようなこともせず、その状況を受け入れていた。
     この様を不思議に思っていたのはヘルムートだけではなく、ヘルムートの友人もそれに気付いていた。ヨヨという名のその黒騎士は、食堂で相席になったヘルムートにあくまで日常会話の単なるいち話題としてその件を指摘した。
    「最近あの毒のお嬢とご無沙汰みたいだが、喧嘩でもしたンか?」
     その指摘にヘルムートは溜め息を吐きながら頭を掻き、困ったような顔をした。
    「そういうわけじゃあないんだが……どうも何か下手を打ったらしい。追い回されないなら追い回されないで寂しいもんだな」
    「へえ、お前さんでもそういうことがあるんだねェ? ま、昨日今日の付き合いでもないんだ、来月にはまた追いかけっこしてるだろうサ。ヒヒ、一杯賭けてもいいヨ」
     だといいけどなあ、と頬杖をついたヘルムートは、皿の上に一枚だけ残っていたビスケットを口へ運んだ。




     プライベートでどんな状況にあろうが、仕事には関係ない。
     その日同じ任務に派遣されることとなったヘルムートとベラドンナは問題なく任務を遂行していた。今回の任務は一般には取り扱いの禁じられている毒物に関するもので、毒に精通しているベラドンナが選抜され、そのサポートとしてヘルムートがつけられたのだ。他にも数名同時に動いてはいるが、あくまで主部隊はこの二人である。
     対象を追って人気の無い路地に入った二人はやはり無言で、視線で合図をしてから慎重に足を進める。
     ……突如何の前触れもなくベラドンナの視界が大きな影に塗り潰され、体が何かに引っ張られて横合いに吹っ飛ぶように移動させられた。建物の陰に転がされ、受け身を取って体を起こしたベラドンナは目の前にある背を──己を軽々と抱きかかえて物陰へと飛び込んだ男のそれを──見た。それから先程まで己がいた場所を確認すると、一本の矢が地面に突き立っている。
    「……一撃で離脱したみたいだな。まあ後はサイモンあたりがなんとかするだろ」
     周囲の様子を確認してから振り返ったヘルムートの右肩、二の腕に近い部分の服が大きく裂け、そこから見える肌にわずかに血が滲んでいる。素早く矢を回収してきてその矢尻を確認し、鼻を鳴らす。
    「何も仕込まれていないようだが……一応確認頼む」
     差し出された矢を受け取ったベラドンナは手早く隠しから試薬の類いを取り出して薬毒検査を始める。それを横目にヘルムートは傷を確認し、皮一枚裂けただけだったため急いで手当をすることもなく検査の結果を待った。結局毒の類いの反応はなく、傷口には小さな湿布一枚貼っただけでよしとしたが、ベラドンナは硬い表情をしていた。おもむろに開いた口から出た声もどこか冷たい。
    「……悪い、助かった。だがもしお前になにかあったら皆が心配する。次からはこんな魔女なぞ見捨ててくれ」
     ヘルムートの顔を見ず早口にそう言ったベラドンナは、相手の表情が変わったことに気付かなかった。その手が己の二の腕を不意に掴んだのに驚いて顔を上げると、射竦めるような目がそこにあって息を飲む。
    「そんなこと出来るわけないだろうが。俺がどういう男かはよく知ってるだろ」
    「だけど、」
     二の腕を掴む手に力が入る。僅かに痛みを感じるほどに。ベラドンナが戸惑っているのに気付いたのかすぐにその手からは力が抜けたが、葡萄酒に似た色の目はじっとベラドンナの顔を見ている。その表情が、僅かに歪んだ。苦しい、悲しい、寂しい、いずれの感情でもあっていずれの感情でもない。
    「……俺を友人だと言った癖に。お前は、……お前は友に自分を見殺しにさせるのか」
     奇妙な沈黙が流れる。ベラドンナがぱちぱちと瞬きをして、恐る恐る口を開いた。
    「友人……? えっ、だってお前、嫌なんじゃなかったのか?」
     今度はヘルムートが目を瞬かせた。眉を下げ、怪訝そうに声が揺れる。
    「は? 友人だと言われて嫌がるほど俺はひねくれちゃいないぞ?」
    「えっ?」
    「ん?」
     お互いに困惑した顔のまま動きを止めていた二人は、どちらからともなく気の抜けたような溜め息を吐いた。ヘルムートはがしがしと頭を掻き、ベラドンナは己の二の腕を擦った。拗ねるような詰るような調子で先に口火を切ったのはベラドンナだった。
    「お前……お前、以前私がお前を友人だと言ったとき、物凄い顔をしたじゃあないか。そんなに友人と呼ばれることが嫌なのかと」
     ベラドンナは、馬鹿みたいだ、と自分自身に呆れたような口調で呟いた。それからさっと顔を上げる。その紫紺の目はようやくヘルムートを正面から見ていた。
    「おい、皆殺し。ここまで私を悩ませたからにはその代償は身体で払ってもらうぞ。今度からまた治験に付き合えよ」
    「はいはい」
     ヘルムートは肩を竦めると、僅かに口角を上げる。どこか攻撃的な笑みだ。
    「じゃあまずはこの仕事を終わらせないとなあ」
    「おうとも」
     それに倣ったわけではないが、ベラドンナが浮かべた笑みもまた攻撃的なそれだった。


     ……無事に任務が終了してから数日後。


    「皆殺し! 今日はどれを使う? 私のおすすめはこれだ、お前でも飲めるように無味無臭だぞ」
    「なんだその言い方」
    「うん? 苦い薬は嫌なんだろう?」
    「俺は子供か!」
     騎士団の敷地内、黒騎士管轄の訓練場を足早に通り過ぎていく二人を横目に、とある黒騎士がそっと笑った。……どうやら賭けは勝ちのようだ。
    新矢 晋 Link Message Mute
    2019/10/06 1:41:57

    勘違い

    #小説 #Twitter企画 ##企画_オルナイ ##おじベラ
    お互い勘違いをしていた黒騎士たちの話。

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