異常であるということ 死なない人間はいない。
俺に殺せない人間は、いない。
「サー、顔が真っ白ですよ。大丈夫ですか?」
宿舎の廊下で軽く挨拶だけして後輩とすれ違おうとした俺は、そう声をかけられて足を止めざるをえなかった。心配そうに眉を下げている後輩に笑みを向けようとしたが失敗して、誤魔化すために顔を背ける。
「……体調が悪くてな。今日はもう部屋で休もうと思う」
「何か必要なものがあればお持ちしましょうか」
「いや、いい。ありがとうな」
片手をひらりと振ってから別れ、部屋へと戻る。扉を開けながら、一人部屋でよかった、と思った。表情を作るのが面倒になりつつあったからだ。
部屋に入るやベッドに倒れ込んで天井を見上げる。日によって色々なものに見える染みをぼんやりと眺めた。今日は何の形にも見えない。
……断片的にではあるが記憶が戻ってきていた。手のひらの下に感じた息遣いだとか、指先で血管を探る感触だとか、殺されかけている人間の激しい抵抗だとか……寒気と同時に感じる熱だとか。
長い溜め息を吐きながら両手で顔を覆う。俺はこの手で彼女の首を絞めたのだ。明確な殺意をもって、この手に力をこめたのだ。
薬が作用していたなんてただの言い訳だ。たとえ薬で朦朧としていようが、意識のどこにも存在しないようなことは行わない。薬は少しばかり俺の理性を削り取っただけで、たったそれだけで、俺はあいつを殺そうとしたのだ。
憎いから殺そうとしたのではない。大事だから、死んでほしくなかったから、殺そうとした。殺しても死なないことを確かめようとした。
俺が殺せなかった人間はいない。殺せないと感じる相手に会ったことすらない。どれだけ大事な相手であっても──大事だからこそ──いずれ来る死を思った。それは俺が与えるものかもしれなくて、彼女だって例外ではない。俺はきっと彼女を殺せるし、殺せば彼女だって死ぬ。
なのに願ってしまった。幻をそこに見た。彼女は死なない、俺が殺してもきっと死なないと、俺の願望にすぎないそれにすがろうとした。
彼女を殺そうとした。本気で殺すつもりだった。だって彼女は死なない、大丈夫、死なない、俺に彼女は殺せない、大丈夫、大丈夫、と頭の中でぐるぐると回っていた気がする。
ああ、俺は間違いなく頭がおかしい。かろうじて希望があるとすれば、俺がいくら異常であろうがそれを実行さえしなければ罪ではなく、理性を友にしている限りまともな社会生活を送れるし、大事な人たちと同じ世界で生きていけるということだが……同時にそれは、理性を手放したが最後俺はまともな人間として暮らしていくことは出来ないという絶望でもあった。
感情に従ってはいけない。俺はおかしいから、常に理性で判断しなければならない。きちんと考えて正しい方を選び続ければここにいられる、大丈夫、俺はまだ正気だ。
寝返りを打ってベッドに顔を埋める。ぼんやりと彼女のことを考えた。痛々しい痣と傷を思い出すと内臓が締め付けられるような心地がした。
──お前は死なないよな?
そう訊ねた記憶が不意に浮かび上がる。その時の答えは思い出せない。答えは、思い出せない。