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    私のプロメテウス 川辺に座り込んで顔を洗った。
     もう三日はまともに寝ていない。体のあちこちが悲鳴をあげている。だがまだ休めない、前線からひっきりなしに負傷者が送られてきている。
     師は私よりも前線に近い場所で治療行為をしている際に戦闘に巻き込まれて死んだ。死体の顔だけ確認させられたが、悼む暇はなかった。
     時々、天使が空を旋回しているのが見えた。徳の高い聖職者の魂でも迎えに来たのだろう。死体を狙う猛禽のようだ、と思った私は地獄に落ちるだろうか。
     ゆっくりと深呼吸をしてから、持ち場に戻るべく立ち上がり振り返る。と、重症者がいる天幕の中に人影が入っていくのが見えた。後ろ姿は法衣でも医者の格好でもないように見え、妙に胸がざわついた私は走ってそちらへと向かい、幕を捲って中に入った瞬間感じた甘い香りに目眩がした。
     少年、である。だが明らかに聖職者ではないどころか、人間ですらなく、真っ白い花を背負い佇むその頭上には光輪が輝いていた。
     ──天使?
     何故こんなところに、と考えて一気に血の気が引く。畏怖に凍りついていた筈の私の足は勝手に動いて、ほとんど転ぶようにその天使の足元へ平伏していた。
    「お戻りください! ここには貴方様がお連れになるような魂はおりません……!」
     不敬どころではないが、勝手に体と口は動き続けた。
    「ここにいる者たちはまだ死にません、お迎えは不要です……!」
    「……ここの責任者はお前か」
     その天使は目を閉ざしたままだというのに、こちらを向かれた瞬間雷に打たれたような気がした。次の瞬間、その目が開く。赤い。見惚れるよりも先に、
    「なんだこの劣悪な環境は!」
     怒声が飛んできた。
    「こんな環境では治るものも治らない! 今すぐ人を集めろ、それからありったけの布と水、火を用意させるんだ」
    「え、あの、」
    「早く!」
    「はいぃっ」
     飛び起きた私は天幕の中から飛び出した。

     それからのことはよく覚えていない。

     負傷者を診て、治療して……時折飛ぶ怒号に追われながら走り回っていた、ような気がする。ようやく人心地ついた時、天幕の下は治療済みの患者で埋まっていた。
     まだ頭ががんがんしている。が、治療中に垣間見た天使の手管を、得た知識を忘れないように頭の隅で反芻する。書物でも見たことのないような治療法たち。
     不意に、ざわ、と幕の中に動揺が広がった気がしたため振り返ると、比較的軽傷の──それでも安静が最も有効な薬である──患者に向かって、見覚えのある顔が詰め寄っていた。
     今回の作戦で部隊をひとつ率いている某神父。私は彼が嫌いだ。聖職者としてはベテランであるし、勇敢で敬虔な神の戦士なのだろうが……彼は我々の患者を連れていく。……そして大抵の場合死なせる。
     近寄っていくとそのやり取りが聞こえ、予想通りの内容に思わず己の表情が歪むのがわかった。
    「動けるのなら立て、一体でも多く悪魔を送り返すのだ」
     差し出された剣を患者が受け取ったのが見え、慌てて間に割って入る。
    「いけません、やめて下さい! まだ戦場は無理です! ……死なせるために生かしたんじゃない……!」
     一介の医者──ですらない、私はまだ若く聖職者としては見習いですらある──の言など聞き入れられる筈もなく、患者がベッドから引きずり出されようとしたその時、ふわりと甘い匂いがした。
    「俺の患者をどこへ連れていくつもりだ」
     若い少年の声だというのに、ひれ伏したくなるような圧力を感じる。……他の天幕へ回診に向かっていた天使が戻ってきたのだ。神父は慌てて跪き、頭を垂れる。
    「彼はまだ治療中だ。その彼に、何を、させる気だ?」
     閉ざされた目。背で揺れる白い花で形作られた翼。威圧感とは縁遠い筈の姿が、宙に浮かび見下ろしてくるそれが、神父を圧倒し地に縫い止めていた
     結局神父はもごもごと言い訳のようなことを言ってからその場を去り、私は天使に礼を述べようとしてそちらを見て息を飲んだ。
     赤い光。鮮烈な、心の奥まで照らすような目。
    「貴様の患者は貴様が守れ」
     ──天使はいつまでも地上にはいないのだから。
     凛とした声に、無意識の甘えを切って捨てられた気がした。


       ※   ※   ※


     ……戦場の夢を見ていた。
     私は若い頃天使と肩を並べて患者の治療にあたったことがある、と言うと大抵の者は冗談だと思って笑い、ごく一握りの──あの時代を知る──者だけが詳細を訊ねてくる。
     天使は地上を去り、姿が目撃されることはほとんどない。これで良いのだろう、とあの時の天使の台詞を思い出す。
     あの天使はあるいは私にとってのプロメテウスだったのかもしれない。ひとを愛し、ひとのために火を盗み与えた巨人。……巨人というにはかわいらしい姿ではあったが。
    「先生! 急患です!」
     あの時の私とそう年の変わらない若い弟子が部屋に駆け込んできて、私は腰を上げた。
     ──天使様、私は貴方のようにはなれないかもしれませんが、それでも。
    「主のご加護がありますように。我らの指が、鈍らず彼らを助けられるように」
     私は人間を助け、生かし続ける。その傲慢を抱いて、私もまた生きていく。
    新矢 晋 Link Message Mute
    2019/01/19 23:13:30

    私のプロメテウス

    #小説 #Twitter企画 ##企画_トリプロ
    エルダフラウくんと一人の医者。

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