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    死んだ騎士は走るか0.

     ■月■日、作戦開始。
     ■月■日、定期報告。問題なし。
     ■月■日、定期報告。問題なし。
     ■月■日、定期報告途絶える。
     ■月■日、ヘルムート・チェルハについて「作戦行動中行方不明」と判定。次の人員を用意する。
     ■月■日、後任にサイモン・リドフォール。
     ■月■日、定期報告。問題なし。
     ■月■日、定期報告。問題なし。
     ■月■日、定期報告。作戦完了。ヘルムート・チェルハについては発見出来ず。
     ■月■日、ヘルムート・チェルハの「作戦行動中行方不明」を「戦死」に更新。



    1.

     葬儀の日は朝から雨だった。空っぽの棺が濡れ、神官の聖句は雨音に掻き消されかけていた。参列者はいずれも式典用の濃紺のマントを羽織り、濡れた布の重さがより気分を憂鬱にさせていた。
     ヘルムート・チェルハという黒騎士が死んだ。騎士になってから二十五年、常に最前線に立ち続けてきた騎士だった。後輩たちをよく可愛がっていた情深い男で、人当たりがよく友人も多かった。啜り泣いている者は何人かいたが、参列者における黒騎士の占める割合が大きいからか、全体で見るとそこまで動揺の気配は強くなかった。
     死体がない、というのもこの静けさに影響しているのかもしれない。作戦中に行方不明となってから一定期間がすぎたため戦死と認定された彼の葬儀は、黒騎士だけを集めた小規模なものだった──無論、他部署の騎士であっても参列が禁じられているわけではないため、少数ではあるが黒騎士以外の騎士も存在している──。
     参列者たちのやや後方にいるその騎士も、落ち着いた様子で目を伏せ黙っていた。火傷の跡で引きつっている左頬を雨の雫が伝い落ちている。聖騎士である彼ジェラルド・バイロンはヘルムートとは所属も立場も違い葬儀に参列する義務はなかったが、こうして自発的にここにいる程度には親しかった。
     少し目線を上げ、周囲の様子を確認したジェラルドは、見覚えのある──そしてこの場においては自分よりよほど彼と近しい──青年の姿を見付けて瞬きをした。
     サイモン・リドフォールがそこにいた。黒騎士であり、ヘルムートの補佐を任せられることも多かった彼は葬儀の段取りに関わってもいるようで、今は司祭の隣で傘を差し掛けていた。雨に濡れた金髪が陽の光に照らされる時とはまた違った輝きを帯びている。
     視線に気付いたらしいサイモンがふとそちらを見た。ジェラルドと目が合う。雨天ゆえかそれ以外の理由かはわからないがそのあおい目は強く輝いてはおらず、しばらくジェラルドを見たあと再び神妙に伏せられた。物憂げな表情さえ彼の美しさを陰らせはしない。ジェラルドは彼の表情からその本意を読み取ろうとしたが叶わず、雨音に紛れて低く響く聖句を聞き流しながら前髪を一度撫で付けた。
     そうして葬儀は滞りなく終わり、天候が天候であるため葬儀場からは速やかに人が減っていった。ジェラルドもその場を後にし、サイモンは何やら他の騎士を交えて司祭と打ち合わせをしていた。まだ残っている参列者といえば木陰で雨宿りをしながら死んだ彼の思い出話などをしていて、降り続く雨を気にする様子もなくじっと立っているその男はひどく目立った。
     壮年の男である。その隣には、まだ少年を脱したばかりに見える青年が立っている。男は静かに目を閉じていて、その様子を青年がちらちらと見ていた。
    「あの、サー・ディミトリエ……」
     恐る恐るといった風に青年が声をかけると、男は目を開けた。霧がかるような、陽炎のような不思議な艶のある紫色の目が青年を見下ろす。青年は男の義理の息子であり──息子にしては年がやや近すぎるが──、義父が友人を亡くして深く傷心しているのではないかと心配しているのだ。男は特に普段と変わらない様子の仏頂面で青年を見ていたが、重々しい声で「先に戻っていろ」とだけ言って棺の方へと足を向けた。
     男の、火傷の目立つ手がそっと棺に触れ、記された名前をなぞる。「Hellmut Cerha」。
    「……そういえば貴様は我輩に約束しなかったな」
     ──向こう十年は保障してやる。
     酒にふわふわと浮かされた状況ではあったが、男は……ディミトリエ・フェニングはヘルムート・チェルハと約束をしていた。簡単に死んではやらないと、十年は生き延びてやると、そう約束をしたのだ。所属こそ違えど──ディミトリエは魔導騎士である──二人は付き合いの長い友人であり、寮で相部屋だった時期もある。大抵楽しげに仲間とつるんでいるヘルムートと一人ですごすことの多いディミトリエは一見正反対で親しいようには見えなかったが、確かに友人だった。
    「これで我輩が約束を守ったところで、見届ける相手がいなくては意味があるまい」
     苦々しげに呟く。結わえられた髪の先から雫が落ちた。棺の蓋に落ちたそれを指で拭っても、後から降る雨がまたすぐに染みを作る。ディミトリエは何度か棺の蓋を撫でてから踵を返し、まだ待っていた息子の姿に少しだけ眉を上げてから葬儀場の出口へと向かった。


     ……一方、葬儀場へと続く道端に一人の男が佇んで、葬儀の様子を眺めていた。金色の目は雨天の中においても輝きを失わない。
     ──死んだ? あの男が? まさか。
     その男、ウォルター・ブラッドフォードは葬儀に参列してはいなかった。聖騎士であり彼とは所属が違うから、ではない。彼が死んだと思っていないからだ。空っぽの棺の前で祈るなんて、それもその棺がヘルムート・チェルハのものだなんて、白々しすぎて滑稽なくらいである。……何をするでもなく参列者たちが葬儀場から出てくるのを見詰めていたウォルターは、その人々の中にサイモンの姿を見付けると足早に近付いた。
    「死体も無いのに葬式だなんて」
     開口一番そう言ったウォルターに、サイモンはちらりと視線を寄越した。その冷えた碧眼からは彼が何を思っているかはわからなかったが、部署違いの先輩が不本意げな表情をしているのが映り込んでいた。
    「あのおじさんがそうそう死ぬとは思えない。そんなに簡単に死んでくれるなら、敵も苦労しないでしょ」
     ヘルムートの生存を確信している様子のウォルターであったが、サイモンは緩く頭を振った。冷酷にさえ思える拒絶である。
    「単独かつ危険度が一定以上に設定された任務時における『行方不明』は、発生から一月で『死亡』扱いになる。あのひとだからって例外にはならない。……アンタたちのところがどうかは知らないが、俺たちはそういう風に運用されるんでね」
     まだ仕事があるんだ、失礼、と立ち去りかけたサイモンの背にウォルターがどこか鋭く声を発した。
    「まさか本当に死んだと思ってるのか?」
     その声に足を止めたサイモンは、振り返らないまま口を開く。
    「うちでは死体のない葬式なんてありふれてる。ただ、」
     一度言葉を切ってから、初めてサイモンは迷うような素振りを見せ、囁くように呟いた。
    「……ただ……」
     明言こそしないものの、言葉に迷うその様はサイモンの疑念を表している。それを見たウォルターは僅かに口角を上げた。……この青年は心のどこかで己の先輩の死を信じきれていない。ただ、彼の補佐として、黒騎士として、不確かなことは口に出来ないのだ。サイモン・リドフォールは聡明で冷静な青年である。
    「きみはやらない……『やれない』に近いか。だから、おれがやる」
    「何を」
    「あの男の行方を知りたいだろう?」
     サイモンは振り返ると呆れたようにウォルターを見た。溜め息をひとつ吐いてから、聞き分けのない子供を見ているような顔をする。
    「アンタは本当にどうしようもないお節介焼きだな。作戦中行方不明になった黒騎士なんて一体何人いると思ってる。そもそもアンタあのひとが苦手なんじゃなかったのか」
    「それとこれとは別だ。それにおれはあのおじさんが苦手だが、憎いわけじゃあない」
    「はあ……好きにすればいい、俺は手伝わないぞ」
     やれやれといった様子で頭を振りながら頭痛でも堪えるようにこめかみに指を当てたサイモンは、今度こそその場を立ち去った。それを見送ったウォルターは少し何かを考えるような顔をしていたが、不意に小さくくしゃみをした。随分体が冷えてしまっている。葬儀に参列していないウォルターは式典用のそれではなく雨避け用のマントを羽織っていたが、それも今ではぐっしょりと濡れて重たくなっていた。もう一度くしゃみが出たところで、ウォルターは宿舎の方へと足を向けた。
     雨はまだ止まない。



    2.

     ウォルター・ブラッドフォードは行き詰まっていた。「死んだ」黒騎士の足取りを追うのは思いの外難しかったのだ。通常閲覧が可能な作戦報告書には異常があったかなかったか程度しか書いておらず、詳細な資料を請求すると機密だと突っぱねられた。公的なアプローチが無理ならば彼の後輩や部下の情に訴えて聞き出すかと方針を変えてみても、彼の危機管理能力の高さ──たとえ可愛がっている後輩であろうと仕事については一切漏らしていない──を知らしめられるばかりだった。
     その日もろくな収穫は得られず、食堂の隅で遅めの夕食を食べていたウォルターは近付いてくる青年の姿に表情を和らげ片手を挙げた。青年はわずかに眉を動かし、真っ直ぐウォルターの元へ来ると腕組みをして相手を見下ろした。
     青年、サイモン・リドフォールはひとつ溜め息を吐いてから口を開く。
    「まだ諦めていないんだな。後輩たちが話してたぞ、黒騎士じゃあないのに妙に色々聞いてくる奴がいるって」
    「おれは諦めが悪いって知ってるだろ? そうだ、君ならおじさんから何か」
    「機密だ、部外者には教えられない」
     具体的な質問をされる前に切り捨てるサイモンに、ウォルターは苦笑した。サイモンの方はといえば呆れ顔からほとんど表情を変えなかったが、不意に少しだけ表情を引き締め目線を壁の灯りへ向けた。ちらちらと揺れる光に照らされた碧眼が瞬く。
    「……これは独り言だが、彼の定期報告は二度目までは問題なく行われていて、三度目で途絶えた。つまり二羽目の伝書鳩がいる場所と、三羽目の伝書鳩のいる場所の間で何かがあったと考えるのが妥当だろうな」
     ウォルターは黙ってそちらを見た。サイモンは少し言葉を途切れさせたが、更に続ける。
    「作戦を引き継いだある黒騎士は遺体の捜索もしたが見付からず、彼の痕跡は道中の森で消えていたらしい」
     そしてそれきり口を噤んだサイモンの横顔をウォルターは見ていた。涼しげな表情からは読み取りづらいが、彼とて己の先輩が中途半端な状態にあることをよしとはしていないのだろう。いくら手続き上は死んだことになっているとはいえ、ヘルムート・チェルハは死体もなしにその死を受け入れられるような存在ではない……ウォルターにとっても、サイモンにとっても。
     それにしても、この青年の、鼻筋から唇へ向かう稜線の美しいこと! 通り過ぎていった女中がちらちらとその姿を眺めていくのを見て思わず笑みを浮かべたウォルターに、サイモンは不思議そうな顔をした。それに頭を振ってみせ、軽く首を傾げる。
    「独り言を言いにわざわざ?」
     そう言ったウォルターに、サイモンの表情がほんの僅かに変わる。すっと温度が下がったような、醒めたような、そんな顔だ。
    「いや、これを渡しに来た」
     サイモンが服の隠しから取り出したのは一通の手紙だった。「ウォルター・ブラッドフォードへ」と表に書かれたそれを受け取ったウォルターは、ラブレターか?などと軽口を叩きながら裏を確認するが、その笑みはすぐに消えた。「H・C」のサイン。
    「……これは?」
    「あのひとの部屋から見付かった遺書だ。どうも付き合いのある人間全員分あるらしくてな、配って回るのも一苦労だ」
     戦死判定に伴い彼の部屋は整理されつつあり、その際発見されたという。友人や同僚、後輩などに宛てられた何通もの手紙はいずれも読みやすく整った文字で綴られており、また、宛先のジャンル別──上司宛、後輩宛、その他の個人宛など──に仕分けて保管されていて、死んだ男の存外几帳面な一面を表していた。
    「……そうだ、ついでだからこっちも。アンタの先輩宛だ、渡しておいてくれ」
     もう一通、同じ封筒に「ジェラルド・バイロンへ」と書かれたものを受け取るとウォルターは小さく笑った。
    「しっかし、これは戻ってきた時のおじさんの顔が見ものだな。遺書を読まれちゃった後に帰還なんて」
     いたたまれないだろうなあ、と笑いながら言うウォルターは本気でヘルムート・チェルハの生存を信じているのだ。あの愉快で優しく、無慈悲で過激な暴力装置の生存を疑っていないのだ。あの怪物が死体も残さず失踪、のち戦死? 冗談にしたって現実感がなさすぎて笑えない。
    「あの人はあれで対面を気にするというか、格好をつけるタイプだからな。生きていると思うなら読まないでおくのが慈悲じゃないか?」
     僅かにその唇に笑みを乗せながら言うサイモン。彼とヘルムートの付き合いはそこそこ長く、また、同じ黒騎士かつ後輩であるということもあってそれなりにヘルムートという男の気質は把握している。作戦に随伴して適切に援護──あるいはコントロール──したことも何度もある。であるから、彼が死ぬ筈はないという気持ちと同時に、死ぬかもしれないという気持ちも抱くのだ、彼が圧倒的な力で敵を蹂躙するところも、血を流し傷付くところも、同じくらい見てきたのだから。
    「酒の肴にするくらいは許されてもいいと思うけど、ま、どうするかはちょっと考えるかな。君はどうする?」
    「さあ、どうするかな」
     言葉を濁したサイモンは、前髪を指先で横へ払ってから踵を返す。それを見送ってから、ウォルターは夕食を再開した。今日のメニューは羊肉といんげん豆の煮込みだ。
     一方のサイモンは次の目的地へと向かった。……騎士団の訓練場は広い。複数の訓練がぶつかることによる事故を防ぐためだ。大体は部署ごとに分けられているが、それ以外の条件で分けられている場所もある。それがここであった。一列に並んだ騎士たちはまだ若く、マスケットを構える手つきも初々しい。囲いで他の訓練場とは区切られたその一角は、射撃用の訓練場である。
     そこに、ディミトリエ・フェニングはいた。並んだ騎士たちの後ろをゆっくりと歩き、構えの修正などを行っている。指摘は厳しく、重々しい声は若い騎士たちに容赦なくプレッシャーを与えている。一通り指摘を終えてから射撃準備をさせようとしたディミトリエは、囲いの外に人の姿を見て足を止めた。片手で手招きをすると、囲いを抜けてサイモンが近付いて来る。
    「訓練中に申し訳ありません、フェニング卿」
    「何の用だ」
    「これを。……ヘルムート・チェルハの遺書です」
     差し出されたものと付け加えられた言葉に、ディミトリエの眉がぴくりと動く。受け取った封筒の裏表を確認し、服の隠しへと入れる手付きに迷いはない。表情もほとんど動かなかった。
    「ご苦労」
     労いの言葉は短く、声の調子に優しさも無い。が、サイモンは特に気にした様子もなく一礼すると訓練場を後にした。……彼が完全に囲いから離れたのを見て、ディミトリエは再び訓練へと戻る。騎士たちに銃を構え直させ、片手を挙げた。ぴんと空気が張り詰める。
    「……放て!」
     号令と同時に響く轟音。濃厚な火薬の匂い。ディミトリエは表情ひとつ変えなかったが、一度、手紙の入っている場所を服の上から撫でた。


     夜が更け、宿舎の門が閉ざされる。騎士たちも夜は眠るのだ。普通の人間と変わらない。
     それはサイモンにおいても例外ではなく、彼もまた自分に割り当てられた部屋で寝台に入ろうとしているところだった。既に室内着に着替えており、柔らかで薄手のシャツが張りのある筋肉を包んでいる。そして寝台へと入る前、ランプの灯りを落とそうとしたサイモンは一度手を止め机の上を見た。
     そこには未開封の手紙があった。表には「サイモン・リドフォールへ」の文字。筆跡は彼の先輩のもので、つまるところ、これも彼の残した遺書である。遺品の整理をしている最中にこれを見付けた時、なんともいえない感情に襲われたことをサイモンは覚えている。 
     サイモンは結局手紙を開封しないまま、灯りを落とすと寝台へと潜り込んだ。



    3.

     ヘルムート・チェルハの葬儀から更に少しの時間が経った。墓への参列者も落ち着き、花の量もそれほど多くはなくなった。騎士は常に忙しく、痛み悼みは速やかに治療される。まだ少し気持ちが沈みがちな者はいたが、それもすぐにいなくなるだろう。ウォルターは未だに調査を諦めてはいなかったが、彼もまた騎士である、そればかりをしてはいられない。
     そんなある日、ベテランの魔導騎士であり部隊を率いることも多いディミトリエ・フェニングを部隊長に、幅広い戦闘対応が可能な聖騎士を二人、補佐として黒騎士を一人、計四人で構成された部隊がとある町へと派遣された。近くで野盗が確認されたのだ。日程は五日、野盗の出現まで町に滞在して町の警護をする予定であった。
     が、町に到着したその日に野盗が出現、騎士たちは危なげなくそれを捕縛しその町の自警団へと引き渡した。そしてその日は酒場で軽く打ち上げをし、今後の予定を話し合うこととなった。
    「まだ三日余裕があるな」
     酒の入ったマグを傾けながらそう呟いたのは聖騎士ジェラルド・バイロンである。その向かいで同じように飲んでいた黒騎士サイモン・リドフォールが相槌を打った。
    「そうだな。もう少し長引くかと思ったが」
    「ついて早々出現したのは運が良かった」
     少し離れた位置でチーズと葡萄酒を口にしている魔導騎士ディミトリエ・フェニングは特に歓談に加わるつもりはないらしく、飲み終えたら早々に部屋へと戻るつもりだろう。そして聖騎士ウォルター・ブラッドフォードは、羊のあばら肉をきれいにたいらげて皿に骨を置いてから、どこか真面目な顔をして口を開いた。
    「……この町からは、あの森が近いな」
     その言葉にジェラルドは怪訝そうに眉を寄せ、サイモンも同じような反応をしてから何かに思い至ったように眉を下げた。呆れたような溜め息がその唇から漏れる。
    「アンタ、こんなところに来てまでそのことを考えてたのか。……確かに近いが」
    「何が近いんだリドフォール?」
    「……ヘルムート卿が消えたと思われる森だよ」
     ふっと場の空気が変わる。ディミトリエがその手を止めて三人の机を見たのには誰も気付いていない。ウォルターが頷いた後、顔を上げてディミトリエの方を見た。こちらを見ているとは思わなかったからか、予想外にしっかりと目が合ってしまい面食らった様子で肩を跳ねさせた後、恐る恐る口を開く。
    「フェニング卿、帰路で少し寄り道をすることは出来ませんか」
    「何をするつもりだ」
    「チェルハ卿の痕跡を探しに、森へ」
     ディミトリエは僅かに目を細めた。ウォルターは少し気圧されたが、一度出した言葉を取り消すことはしなかった。……ディミトリエ・フェニング。フェニング家の当主であり、フィエル竜騎兵連隊の指揮を執る魔導騎士。常に泰然自若としたその態度と崩れることのない鉄面皮、親しみやすさなど欠片もないその男がヘルムート・チェルハの友人であることをウォルターはここしばらくの調査で知っていたが、果たして友人のために──日程に余裕があるとはいえ──作戦に関係の無い行為を許可するタイプの人間であるかどうかまでは判断出来なかった。
     であるから、これは賭けである。不許可なら不許可で別のアプローチを考えてはいたが、それはあくまで次善の策でしかない。
    「一日だけだ」
     重々しい声で述べられた答えに、ウォルターはぱちぱちと瞬きをした。
    「……寄り道しても良いということですか?」
    「そう言っている」
    「ありがとうございます!」
     表情を明るくしたウォルターは、今度はジェラルドとサイモンの方へ振り返った。ジェラルドは苦笑しており、サイモンはあきれ顔をしていた。
    「お前は本当に諦めがわるいなあ」
    「先輩に似たんですよ」
    「俺たちに相談もせずにいきなり隊長に許可を取るやつがあるか」
    「いやあ悪いね、でもサイモンくんも来てくれるだろ?」
     やいのやいのとじゃれるようなやり取りを始める三人を横目に、ディミトリエは晩酌を終えたらしく席を立った。
    「明日は早いぞ、ほどほどにしておけ」
     それだけを言って酒場を後にするディミトリエの背にウォルターは再度礼を言ったが、ディミトリエはちらりと振り向いただけで何も言わずに去っていった。


     次の日、四人は件の森に来ていた。そこまで広大な森ではなく、徒歩で一日とかからず抜けられる規模だ。凶暴な魔物がいるなどの情報もない。道を大きく外れなければ遭難するようなことはまず無いと町の人間も言っていた。
    「ごく普通の森に見えるが」
     サイモンを斥候として先頭に、続いてウォルターとジェラルド、ほぼ変わらずディミトリエが続く。周囲を見回しながらそう言ったジェラルドに、サイモンも頷いた。
    「だからヘルムート卿の後任者も問題なく森を抜けた。何かあるとは思えないが……」
    「だがここくらいしか可能性はないだろ。……一旦解散して調べてみるか」
     四人は二人ずつ──ウォルターとジェラルド、サイモンとディミトリエ──に別れて森を調べることにした。時間と待ち合わせ場所を決めてから彼らは捜索を始めたが、特に何も見付からず、お互い何の手土産もないまま合流することとなった。
     疲労感が強い。本当にこの森は静かで、何かが潜んでいるようにも思えなかったため余計に不安感を煽った。……この森は静かだ。
    「どうしたもんだか、……サイモンくん? どうした?」
     溜め息を吐きながら頭を振ったウォルターは、サイモンの様子に違和感を覚えて声をかけた。サイモンはどこか緊張したような面持ちで一点を見詰めていた。
    「……すまん、少し待っていてくれ」
     草を踏み分け、一本の木に近付くとその幹をまじまじと眺めるサイモンを他の面々は不思議そうに見ていたが、振り返ったサイモンの表情が険しいことに気付くとぴんと空気が張り詰める。
    「何があった」
    「……黒騎士の符丁だ、道筋の目印に使ったりする……」
     サイモンが示した木の幹──根元に近く、下生えに隠されるような位置だ──には焼き印のような焦げ跡がある。×印の下に横線が一本。
    「以前ここを黒騎士が通ったということか?」
    「ああ、だが問題はあの作戦の後任者がここを通った時にはこの印は無かったし、あの作戦以降ここに黒騎士は派遣されていない、ということだ」
     サイモンは焼き付けられた符丁を指でなぞった。そして囁くように述べる。
    「また、現状行方不明の黒騎士はおらず、最後に行方不明になったのは……ヘルムート卿だ」
     喜びとも期待ともつかない表情が一瞬だけ彼らの顔に浮かぶ。だが、それはすぐに打ち消された。彼らは年齢やあるいは気質のため冷静かつ現実的で、彼が無事である可能性が低いか高いかすらもわからないその痕跡に期待をしすぎないようにしていた。一人を除いて。
    「よし、こっちの方を重点的に探してみよう。よく見付けてくれたなサイモンくん!」
     ウォルターの声に張りが戻っていた。サイモンの背を叩く力は少々強く、少し迷惑げな素振りを見せたサイモンは結局文句は言わずに曖昧な返事をした。ジェラルドは二人のやり取りを見て少しだけ表情を緩め、それから隣のディミトリエの様子を確認して一瞬違和感を覚えた。
     笑って、いる?
     二人の様子を見ていたディミトリエの表情がわずかに柔らかなような気がして瞬きをしたジェラルドは、次の瞬間には仏頂面になっている相手を見て先ほどの感覚は気のせいだったのかと思ったが、己の見たものは幻覚ではなかった……とも思った。森に入ってからこの方ずっとぴりついた空気をまとっていたディミトリエが、どこか落ち着いた様子になったのも気のせいではない、と思った。
     ──チェルハ卿の無事の可能性が浮上したことが、何らかの影響を?
     推理ですらない、想像、捏造に近い理由がジェラルドの脳裏を過ったが、それを確認するすべはない。彼らはたいして親しくもなく、それでなくてもジェラルドは相手の私的な感情に踏み込むタイプではなかった。
     ジェラルドの視線に気付いたのかディミトリエがそちらを見る。怪訝そうな眼差しには威圧感すら覚える。なんでもありません、と頭を振ったジェラルドは二人の方を示した。行きましょう。
    「ちなみにそのマーク、なんて意味なんだ?」
     捜索を再開するにあたって何気なく尋ねたウォルターに、サイモンはちらと木の幹を見た後、静かに答えた。
    「『要警戒』だ」



    4.

     次に発見した符丁は「危険」であった。木の幹に焼き付けられたそれを、サイモンは神妙な面持ちで調べている。
    「僅かだが火のマナが残存している。森だとそう多くは発生しない筈だから、何らかの外的要因が予想される」
    「チェルハ卿は確か火属性の魔法が扱えたな」
    「……ウォルター、まだ早計だ」
     ジェラルドが釘を刺し、ウォルターは少しばかり不満そうに口を噤む。その後ろからぐいと二人を押しのけるようにして進み出たディミトリエが、怪訝そうにそちらを見たサイモンの隣にしゃがみ込んでその符丁の真上で指先を動かす。空中にくるりと円を描くようなその動きに反応したかのように、小さく火花が周囲に散った。
    「術式が雑……というかただマナを活性化させて武器にでもまとわせて押し当てただけだな。魔法と呼ぶのもおこがましい、我輩が評価するなら『1』だ」
    「フェニング卿?」
    「魔痕はあの男……ヘルムート・チェルハのものに近い。計器の用意がないからこれ以上の断言は控えるが」
     魔法を使った後には必ず痕跡が残る。同じ材料を使って料理をしても料理人が違えば全く同じ味にはならないように、同じ場で同じように魔法を使ったとしても術者によってその痕跡は変わる。専用の計器を使えばかなりの精度で個人の識別をすることも出来る。ディミトリエの鑑定は計器なしでのものではあるが、よく知る相手の魔痕であること、ディミトリエの術式の精度が高いことなどから信頼性は十分にある。
     サイモンとディミトリエはちらと視線を交わし、ディミトリエが鷹揚に頷いた。再びサイモンが調査を開始し、他の面々を先導する。森は静かで、時おり小動物の気配を感じたり鳥の声が聞こえるくらいである。
    「待て」
     不意にサイモンが緊張した声をあげる。他の面々が足を止めたのを確認してから己だけ先行し、少し大きな木へと歩み寄る。……その幹に大きく符号が──縦に二つ×印を並べたものだ──焼き付けられているのが、待機中の面々の位置からも見えた。
    「サイモンくん、それは」
    「……『即時退避』もしくは『近寄るな』……こっちに方角の指定があるな、これ以上東へ向かうなという意味だろう」
     足元を見ながらそう言ったサイモンに、三人が視線を交わす。……この先に何かがある。それが探している人物か、それとも他の何かかはわからない。だがここまで来たからには引き返す選択肢の優先順位は低く、彼らは慎重に足を進めようとした。
    「止まれ」
     不意に声が響く。それは彼らのうちの誰の声でもなく、低く落ち着いた男性の声で、……特にサイモンとディミトリエがよく知っている声だった。前方の木々の間から姿を現した長身の影。服は汚れ、髪はべたつき、無精髭は伸び放題の壮年男性。
     ヘルムート・チェルハがそこにいた。
     森での暮らしが長かったのだろう、体のそこかしこに葉や花が貼り付いている。少しやつれてはいるが外傷は見られず、五体満足であるようだった。その姿をまじまじと見ていた面々の中で、最初に口を開いたのはウォルターだった。
    「やはり生きてたんですね! 殺したって死なない人だと思って、」
    「待てウォルター」
     歩み寄ろうとしたウォルターをジェラルドが引き留める。怪訝そうに振り返ったウォルターは、ジェラルドがどこか深刻な表情を浮かべているのを見て胸がざわついた。……何だ? 何か問題でも起こっているのか?
    「青い花がよくお似合いですね、チェルハ卿」
     己の袖口を指差すジェラルド。ヘルムートの同じ場所には青い花をつけた蔦のようなものが巻き付いており、薄汚れた身形の中で禍々しさを感じるほど鮮やかな色を発していた。
    「女王陛下に頂いたんだよ」
     それだけ言って、ヘルムートは曖昧に笑う。ジェラルドは細く長く息を吐くと、どこか沈痛げにぐっと目を閉じてから開いた。その眼差しは静かな海だ。さざ波ひとつない。
    「マリオンアイヴィーの生育地だったんですね、この森は」
    「ああ。だからそれより先には進んでくれるなよ、攻撃域に入る」
     お互いに何かを理解しあった様子で話す二人に、ウォルターがじれったそうに「なんですかそれ」と尋ねる。他の……サイモンとディミトリエは何かを考え込む様子で黙っていたが、どちらも表情は硬い。この空気は、もう手の施しようがない仲間を戦場で見付けた時のそれに似ている。
    「……マリオンアイヴィーは獣に根を張って『兵隊株』として操る魔物だ。その兵隊株に獲物を狩らせたり、『女王株』……本体を外敵から守らせたりする。人間に根を張った例はほとんどないんじゃなかったかな……チェルハ卿、論文にしてはいかがです」
    「はは、考えておくよ」
     マリオンアイヴィー。主にマナが豊富な場所に発生する魔物だ。蔦植物のような見た目をしており、ペンキででも塗ったかのような毒々しい青色の花が特徴である。狼や熊などの捕食者寄りの獣に寄生し、根を張り、その行動を支配する。マリオンアイヴィーに寄生された獣は「兵隊株」と呼ばれ、本体──「女王株」と呼ばれる──を守るために働かされることとなる。
     一見ヘルムートには異変などない。こうして普通に会話も出来るし、見た目だって変わらない。突然襲いかかってきたりもしない。だというのにその体は魔物によって支配されているのだとジェラルドは言うし、ヘルムートも否定しない。そのくせごく普通にやり取りをしている二人の態度が、この状況の深刻さを減じさせている。
    「しかしチェルハ卿、意識があるとは驚きですよ。卿が行方不明になってから一月以上が経つ。どのタイミングで根を張られたにしろ、一日二日ではないでしょうに。大体三日とせずに背や首、頭など中枢にまで根が張るとされていますが」
    「恐らく強化外骨格アトラース・スパインのおかげだろう。これは背骨に沿った広範囲に接続するから、既に塞がった場所には根が張れなかったんだ」
     強化外骨格。黒騎士などが身に着けることの多いそれは身体を強化するための魔術式が組まれた装備であり、大抵は鎧の下に着ける薄手のボディスーツのような形態を取る。素材は様々だが、共通しているのはある程度の防御性能があることと、マナの伝導率が高いことだ。
     中でもヘルムートが使用しているアトラース・スパインと呼ばれる型のものはかなりの広範囲、背骨の全域から肩甲骨や肋骨、骨盤に接続して運用され、全身の身体能力の向上を目的としているが代わりに反動も大きい。型としては第一世代の後期に属し、接続範囲が広いせいで後遺症の可能性が高く、現行の安全基準も満たしていないため、現役で使っている者はヘルムートくらいのものだった。……ただ、これを装備していたおかげでマリオンアイヴィーの寄生を遅らせることが出来たのだから、何がどう役立つかはわからないものである。
    「さて、久し振りに顔が見られて良かったよ。このままいい子で帰って……はくれなさそうだな」
    「当たり前でしょう、卿は死んだことにされているんですよ? さっさと戻って後輩たちを安心させてやったらどうです」
     憮然と言ったウォルターに、ヘルムートは眉を下げて笑った。子供にわがままを言われた大人の表情に似ている。ちらと視線を流してサイモンとディミトリエ、ジェラルドを確認したがいずれもおおむねウォルターに同意しているような雰囲気であり、この年嵩の黒騎士は己の幸福と不幸を思った。
    「今の俺は兵隊株だ、意識はともかく体は女王株の支配下にある。もしお前たちがそこより前に出て攻撃域に入ったなら、俺の体はお前たちを外敵とみなし襲うだろう。……お前たち相手に勝てはしないだろうが、それでも一人くらいは殺せるぞ」
    「ヘルムート卿、ですが」
    「なまじ俺の意識が残っているから希望を抱く」
     ヘルムートは溜め息まじりに己の服に手をかけ、上半身だけはだけると強化外骨格を露出させた。そして四人に背を向ける。ひゅ、と誰かが息を飲んだ。
     うなじから背筋に沿って隆起している黒曜石のような艶のある素材は強化外骨格と装着者とを接続するためのパーツであり、異質ではあるが問題はない。……問題なのはその周囲、パーツに阻まれ背骨に到達はしていないが強化外骨格の背面全体を這う蔦のような物体だ。血管のようにも見えるそれは強化外骨格の途切れている場所から皮膚下へ潜り込んでいた。
    「意識が残っているのが奇跡的なだけであって、軽度はとっくに通り過ぎてるんだよ。本職の魔術師なら治療も可能だろうけど、ここまで連れてくることも出来ないだろ?」
     特に重要な地位にあるわけでもない騎士一人のために、既に戦死判定も出ている黒騎士のために、わざわざ魔術師を派遣する──当然護衛も必要になる──だなんて、許可が出るとは考えにくい。それは皆わかっている。黙って服を着直すヘルムートに誰もなにも言わなかったが、ふとウォルターが口を開く。その顔はヘルムートではなく、己の先輩へ向けられていた。
    「先輩、どう思います」
    「どうもこうも、詳しく調べてみないとわからん。どの程度深くまで根が張っているかはこの距離じゃわからないし、治療するにしてもやはり実際に触ってみないと」
     ジェラルドの言葉にヘルムートは顔をしかめた。髪をぐしゃぐしゃと掻く仕草は少し苛立っているようにも見える。
    「俺の話聞いてたか? もう手遅れだって」
    「チェルハ卿はちょっと黙ってて下さい。フェニング卿」
    「……何だ」
     何かを考え込んでいる様子だったディミトリエは、不意に呼ばれて顔を上げた。ウォルターが真剣な眼差しでそちらを見ている。
    「今回の隊長は貴方ですよね。どう思われますか」
    「どうとは」
    「チェルハ卿の処遇についてです」
     ディミトリエは緩く瞬きをしてからヘルムートを見た。彼との付き合いは十年どころではない。部署こそ違えど互いの気質は把握しているし、情もある。……ディミトリエは彼の遺書を結局読めずじまいであった。
    「奴の判断は信用出来る。大抵のことにおいては間違わないし、最善が無理でも次善の結果は出してくる男だ」
     ヘルムートがほっとしたように肩の力を抜き、ウォルターが少し表情を険しくしたが、ディミトリエは気にした風もなく淡々と言葉を続ける。
    「……ただ、『自分の命だけが担保になっている場合』の判断力には疑問が残るな。奴は自分の命を簡単にチップにしてベットする。今のところはそれで生きて戻ってきているから問題が無いだけで、理想としては奴の命は奴自身に判断させるより他人が判断した方がいい。つまり、」
     一度言葉を切ったディミトリエは、その煙水晶のような紫色の目でヘルムートの目を見た。ヘルムートは一瞬それと睨み合ったが、すぐにどこか気まずげに目を泳がせ視線をやや下へ向けた。
    「貴様の処遇については我輩が決める。ヘルムート・チェルハ、そもそも貴様は現在『戦死』扱いだ、作戦に対する提案権は無い」
     ウォルターが満足そうに笑みを浮かべたのをよそに、ヘルムートは大きな溜め息を吐いた。こめかみのあたりを指で押さえる。
    「……それで? 俺をどう処理するつもりなんだ」
    「まずは生かしたまま捕縛、状態を確認後方針を決める」
    「俺を生け捕り?」
     きょとんとしたヘルムートは大袈裟に肩を竦め、頭を振った。
    「やめろやめろ、確実に死人が出る。手足の一本くらい落とすつもりならまあわからないけど……そこまでしないだろ、お前たち」
    「貴様は本当にどうしようもなく自信家だな」
    「じゃなきゃ二十五年もこんなことやってない」
    「その自信は今ここで折ってやる」
     ディミトリエは若者たちに頷いてみせる。各自足を前へ進め、ヘルムートが焦るような表情になる。一歩後ずさったその足首でも青い花が揺れていた。
    「待て。それ以上近寄るな。待てったら……!」
     木の幹に大きくしるされた「近寄るな」の符号。それを彼らが通りすぎた瞬間、ヘルムートの顔が歪んだ。



    5.

     地を蹴り飛び出したヘルムートは獣に似ていた。
     まずそれを迎え撃つことになったウォルターは、剣を抜こうとして躊躇した。相手は武器を持っていないどころかろくな防具もつけておらず、一太刀でも入れば致命傷になる可能性が高い。理性がある相手であればそれを警戒して防御に入りがちになって攻撃が鈍りもするが、今のヘルムートは魔物に体の操作権を奪われている状態である。防御体勢が取れるとは思えない。
    「剣を抜け、ウォルター!」
     接敵する直前にヘルムートがそう叫んだが、ウォルターはその言葉には従わず素手でヘルムートと打ち合いに持ち込んだ。
     ──以前やりあったときとは、違う。
     ヘルムートの動きはいつもの無駄のないそれではなく、過剰に攻撃的だった。が、高い身体能力に加えて──恐らく寄生による影響で──己の身をかえりみない体捌きはいつもとは違う種類の脅威であった。……中途半端に反撃をすると殺してしまう。
    「ああもう! だから言ったんだ、『死人が出る』って! 俺を殺しそうでまともに攻撃出来ないんだろうが!?」
     容赦のない攻撃をくりだしながらもヘルムートの言葉は途切れない。いつの間にか背後に回り込んでいたサイモンの拳を回避し、腕を掴むとウォルターの方へと押しやる。
    「サイモン、お前もか! 今のは首を落とせる位置取りだっただろう!」
    「今回は落としてはいけないものですから」
     澄まし顔で言うサイモンは、現状を打破するために状況の把握に努めた。敵は一人、ヘルムート・チェルハ。ただし殺してはならず、出来れば重傷を負わせることも避けたい。味方は己を含めて四人、うち二人が直接前に出て戦える人員で、残りの二人は後衛である。後衛の二人のうち一人は直接敵とぶつけることは避けさせたい頭脳労働タイプで今は視界の外、もう一人はマスケットに火を入れるところだった。……マスケットに火を?
     ディミトリエが躊躇する様子もなく狙いをつけ、ヘルムート目掛けて発砲した。
     射撃を察知していたヘルムートがその場から飛び退いたため銃弾は地面を抉るだけにとどまったが、他の面々は驚きの表情を浮かべていた。……銃器は手加減が出来ない。撃ち出された弾は等しく破壊を与えるし、傷に残った弾は毒を生む。部位を外せば致命傷にこそならずに済むかもしれないが、後々引き摺る可能性は高い。
    「フェニング卿……!?」
     驚いたような咎めるような声で呼びかけられてもディミトリエは表情を変えず、またマスケットへと弾込めを始めた。
    「我輩たちが負傷するのと、貴様が負傷するの、お前がどちらを望むかは聞くまでもないだろうヘルムート?」
     一旦距離を取って動きを止めていたヘルムートが、その言葉に一瞬きょとんとしてから破顔する。
    「はは、俺に決まってるだろ、よぉく俺のことを理解してくれてて助かるよ!」
    「威力は絞っておいてやる、悪運が強ければ後遺症も残るまいよ」
    「それには自信がある。……けど、ああ、次はそっちか……!」
     ヘルムートの足がディミトリエの方へ向く。そちらへ距離を詰めようとしたところで割って入ったウォルターがヘルムートに一撃入れ、ぐらりと体が傾いだところへ更に力任せに足払いを入れて地面へと組み敷こうとする。
    「フェニング卿、ここは若手に任せてちょおっと待ってて頂けますかね……ッ」
     単純な力比べであればウォルターに分がある。じりじりとヘルムートを押し切ろうとするウォルターが、一気に力を入れて相手の背を地面に付けようとしたそのとき、薄くヘルムートの口が開いた。
    「!」
     がちん。先ほどまでウォルターの喉があった場所を伸び上がったヘルムートの口が噛む。上体を起こしてしまったウォルターにヘルムートは手を伸ばそうとしたが、その首に背後から腕が回される。サイモンだ。そのまま締め上げられそうになった腕と首との隙間になんとか手を入れ引き剥がそうともがくヘルムートへ掴みかかろうとしたウォルターだったが、勢いをつけて持ち上げられた両足で胸を蹴飛ばされる。その反動でサイモンも僅かに足元が乱れ、拘束が緩みかけるがまだ離さない。
     三人による攻防は永遠に続くかと思われたが、不意にヘルムートがぴくりと体を震わせると目の前の二人ではなく、別の場所へ向かおうと身をよじった。……その隙を見逃すわけがなく、ヘルムートの腕が背中側へ捻り上げられ地面へとうつ伏せに突き倒された。サイモンが拘束用の特別なベルトで手早くその体を拘束していく。
    「ジェラルド……はは、お前、そうきたか」
    「やあ、やはりこちらでしたか」
     ヘルムートの視線の先で、ジェラルドが笑った。戦闘が行われている場所を大きく迂回するように歩いて、東の方角に向かおうとしている。
    「女王株に近寄ろうとしている不埒者を優先して攻撃しないといけませんからね、兵隊株は」
     両腕と両足を拘束されながらヘルムートはおかしげに笑う。マリオンアイヴィーには知能はあるが高くはない。そもそも本能的に外敵を攻撃しているだけであって、戦略など組み立てられよう筈もない。「今相手しているものを先に倒してからあちらを追いかけよう」という判断が出来ず、女王株がある区画へ向かおうとしているジェラルドに反応してしまったのだ。
    「サイモン、もう少しきつく縛れ」
    「筋を痛めますよ」
    「万が一抜け出せたらどうする。何時間も縛るようなら緩めればいい」
     拘束されてはいるものの、ヘルムートの手足は時折ぴくりと動いているし、暴れようとしている。サイモンは溜め息を吐くと拘束を強めた。
    「フェニング卿、終わりました」
    「ふむ」
     火を消したディミトリエはマスケットを下ろし、東の茂みを覗き込んでいたジェラルドは一旦戻ってくる。ディミトリエが目配せをすると、ジェラルドはしゃがみ込んでヘルムートの体に触れた。皮膚を押し込んでその下にあるものを探ったり、マナの巡りを調べたりしているうちにその表情が少し曇る。
    「……先輩?」
    「ジェラルド」
     呼ばれて顔を上げたジェラルドは、深刻そうな顔をしていた。
    「……チェルハ卿の言っていた通り、初期段階は過ぎていますね。全身に回りかけているのを強化外骨格で押しとどめているだけで、かなり深くまで根が張っているようです。初期段階ならこのまま連れ帰って治療術士に見せるという手もあったが……これじゃあ女王株から引き離せないな」
    「ここで治せないんですか? こう……本体を倒すとかで」
    「無理だ。ジェラルド、お前見ただろ?」
     断言したヘルムートに、ジェラルドが軽く頷く。それから東の方向を見た。
    「さっき女王株を確認しましたが、かなりの規模でした。あれはこの森の主でしょう。下手に処分するとマナが一気に解放されてこの森が死ぬ」
    「人間一人のために森を殺すことは出来ない。この森に生かされている人間だって大勢いるんだ。……だからもう俺のことは置いて行け。攻撃域に人を近付かせないようにすれば被害は出ないし、そのうち俺も寄生に耐えきれず死ぬだろ」
     その場に沈黙が流れた。ウォルターがどこか苛立たしげに口を開く。
    「帰るつもりはないということですか。このまま諦めて、ここに骨を埋めると」
     その問いにヘルムートは答えず、少し困ったように眉を下げた。ジェラルドは深刻な様子で何かを考え込んでおり、ディミトリエはただ黙ってヘルムートを見ていた。その紫がかった瞳を、ヘルムートはけして見ようとはしなかった。……どこか怯えているようにも見えた。
    「セリーヌ」
     不意に、サイモンが誰かの名を口にする。その場においては彼とヘルムートしか知らぬだろう名だ。
    「ティモア、ヘンドリック、ジャクリーン」
     ゆっくりと視線を上げたヘルムートを、アイスブルーの目が見ている。落ち着いた声は彼を追い込むようでいて、どこか切実な響きもあった。
    「あなたの葬儀で泣いた後輩の名です。葬儀以外のものも含めると恐らくもっと増える」
     サイモンは一度目を伏せ、それからしゃがみ込んでヘルムートの顔を覗き込んだ。本意を探るような目だ。聡明で、落ち着いた、けれども確かな情のある目だ。
    「彼らを見捨てるんですか」
     ヘルムートが僅かに表情を歪める。苦しげに、あるいは泣くのを我慢しているように唇が震えた。しかし彼はなにも答えず僅かに頭を振ると、目を伏せる。……サイモンは大きく溜め息を吐いた。
    「ヘルムート卿、俺の目を見て答えて下さい」
     答えはない。
    「あなたが本当に帰りたくない、ここで人知れず死にたいというなら、俺が今ここで介錯して差し上げますよ。でも違うでしょう。……俺たちの家に、帰りたくはないんですか」
     ヘルムートはぐっと強く目を閉じた。少ししてから瞼を持ち上げ、そして、消え入るような声で呟く。
    「……帰りたい……」
     その言葉を聞いたサイモンは他の面々を見上げ、軽く頷いてみせる。彼らもまた頷いた。そこでようやくジェラルドがゆっくりと口を開いた。
    「チェルハ卿にやる気があるなら……方法は、なくはない」
     三対の目がジェラルドを見る。小さく咳払いをしたジェラルドは、腕組みをして軽く爪先で地面を叩きながら、少し迷うように言葉を続けた。気が向かない、あまり好ましくない、といった様子が如実にあらわれている。
    「……チェルハ卿の体内に張っている根をすべて焼き切るんだ。幸いチェルハ卿は火属性だから他の属性よりは耐性があるし、ここには火属性の魔法を高い精度で扱える人間がいる」
     探るようにディミトリエを見やるジェラルドに、ディミトリエは特になにも言わず眉を上げた。
    「焼き切る? え、体内に灰とかが残っちゃうんじゃないですか」
    「マリオンアイヴィーは見た目こそ植物だが、性質としては精霊に近い。活動を停止すると直接マナに分解されて大気中に拡散するから、体内に異物が残ることはない筈だ」
     後輩の疑問に答えたジェラルドは、その後、言葉を濁しながら続ける。
    「……ただまあ、死んだ方がいいと思うくらい、苦しむだろうな。体内の組織にがっちり絡み付いている筈だから、根だけを焼くにしたってどうしても多少は周囲の組織も傷つく。焼きごてを突き刺されるどころか、体の奥深くで捏ね回すようなものだ」
     ウォルターとサイモンが想像してしまったのか身震いし、ヘルムートはなんともいえない表情で沈黙していたが、ディミトリエは特に表情を変えないまま何やら服を探りながらヘルムートの傍らへしゃがみ込んだ。
    「ヘルムート、これを噛んでいろ」
     そして隠しから取り出したハンカチを折り畳んでヘルムートの口元に差し出す。それを見てジェラルドは目を瞠った。
    「フェニング卿? 失礼ですがその、」
    「聞いていたとも。この男は痛みに耐えるのが得意だ、耐えさせるしかあるまい。他に方法はないのだろう?」
    「ですが」
     ちらとヘルムートを見やるジェラルド。ヘルムートは眉を下げたままハンカチとディミトリエとジェラルドを見比べていたが、諦めとも決意ともつかない様子で口を開いた。
    「やるさ。帰りたいって言っちゃったからなあ」
    「……わかりました。ではフェニング卿、あなたにお願い出来ますか。私も火の魔法は扱えますが、あなたには敵いません」
    「ああ」
     ジェラルドの説明を受けるディミトリエを見上げていたヘルムートは、ウォルターとサイモンの方へと視線を移動させた。目が合ったウォルターはぱちくりと瞬きをしてから肩を竦め、次に目が合ったサイモンは気遣うような眼差しをしていた。ヘルムートの唇が僅かに綻ぶ。……これだけ盛大に迷惑をかけておいて今さらではあるが、心配しなくていい、俺はちゃんと帰るとも。
     説明が終わったらしく、うつ伏せに転がされていたヘルムートの体が仰向けにされる。その傍らにディミトリエが座って右手を握り、他の面々が暴れられないように体を押さえつける。口にはハンカチが噛ませられ、拳を握り締め爪が手のひらを傷付けないように布を手に巻かれる。
    「……やるぞ」
     ディミトリエの言葉に、ヘルムートが僅かに頷く。ディミトリエが意識を集中して周囲のマナを手繰り、そして、ヘルムートの体内へ流し込んだ。
    「ん、う゛――――ッ!?」
     大きくその体が跳ねる。ウォルターですら撥ね除けられそうになるほどの力で暴れようとするヘルムートを全員で押さえ込み、その体内の根をディミトリエがひとつひとつ焼いてゆく。血管の一本一本に毒を流し込まれるような、内臓を選り分けるような、全身を蹂躙されぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような感覚。見開かれた目から涙が溢れ、体の末端は痙攣している。呼吸をするのも必死といった様子だ。葡萄酒に似た色の目がほとんど絶望のような色を浮かべている。
    「もう少しだ、ヘルムート、耐えろ」
     低く言い聞かせながら術式──と呼ぶのもおかしなくらい力技だが──を続けるディミトリエ。ヘルムートのあまりの苦しみぶりに他の面々も表情を強張らせており、体を押さえつける手は震えている。そのうち叫びも聞こえなくなり、息も絶え絶えに体を痙攣させるだけになった彼に治療が続行され、しばらくして、完了した。
     朦朧とした様子のヘルムートに今のところ異常はない。何度か呼びかけると涙に濡れた目が四人を見上げ、そしてふっと意識を手放した。
    「……もう根の気配は無い、連れ帰って大丈夫だろう」
    「じゃあ俺とサイモンくんで交代な」
     念のため拘束したままのヘルムートを担ぎ上げ、その重みに眉を寄せるウォルター。滑り落ちないようにサイモンが隣につく。精密なマナ操作による疲労で痺れる指先を擦り合わせながらディミトリエがその後に続き、最後にジェラルドが一度東の茂みを見てから歩き出した。
     ……こうしてとある作戦報告書に記されていた一人の黒騎士の情報が、「行方不明」から「戦死」、そして「帰還」へと書き換えられることとなった。



    6.

     帰還した後すぐに治療術士に見せられたヘルムートは、焼け爛れた体内の再治療などでベッドでの生活を余儀なくされた。起き上がれるようになってからもしばらくは任務には出されず、車椅子で──ある程度回復してからは松葉杖で──騎士団内を移動する姿が目撃された。
     ……騎士団へと戻ってきたその日、病室へ顔を出した後輩や同僚の騎士たちから口々に「おかえりなさい」と声をかけられたヘルムートはそのたび嬉しそうな様子を見せたが、同時にどこか困惑しているようにも見えた。付き添っていたサイモンを所在無げに見上げても相手は澄まし顔で、心配をかけたのだから自業自得だとでも言うかのようだった。
     顛末を報告したディミトリエがどのようなことを言ったのかは定かではないが、五人には休暇の許可が出された。四人にとってはそこまで必要ではないかもしれないが、少なくともヘルムートにとっては必要であった。一月ほどの休暇を申請したヘルムートは、安静にしつつも軽いストレッチなどは欠かさず、中々手をつけられずにいた学術書などを読み崩すなどしていた。


     その休暇中のことである。自室の整理をしていたヘルムートは、不意に慌てた様子でなにかを探し始めた。机の下から引っ張り出した箱を開け、その中が空であることを確認してさっと顔色を変える。
     ……遺書がない。
     ヘルムートは松葉杖を掴むと急いで部屋を飛び出した。不自由な体ながら寮の廊下を移動し、とある後輩の部屋へ向かい、乱暴に扉を叩く。
    「サイモン!」
    「どうされました」
     ノックもそこそこに部屋の扉を開けたヘルムートに、部屋の主であるサイモンは怪訝そうに柳眉を寄せた。
    「お前、俺の……俺の遺書、持ってるか」
    「……ああ、はい」
     本のページをめくる手を止めるとサイモンは立ち上がり、机の一番上の引き出しから封筒を取り出してヘルムートへと差し出す。その封が破られていないのを確認し、ヘルムートは安堵したような様子で己の後輩を見上げた。
    「読んでないな」
    「ええ。……全て回収するつもりですか?」
     サイモンの問いに、ヘルムートは苦笑する。
    「……全部配っちゃったんだろ?」
    「まあ、はい。お手伝いしましょうか」
     こめかみを指で押さえながら思案したヘルムートは、ゆるく頭を振った。
    「いや……これは俺がしないといけないことだ。どうしても無理そうだったら頼むかもしれん」
     そうですか、と相槌を打ったサイモンはヘルムートの顔を少しだけ眺め、それから小さく笑った。
    「あの状況から生還したんです、少しくらいの苦労は仕方ないでしょう。頑張って下さい」
    「あんまり応援されてる気がしないぞ」
    「まさか! 心の底から応援してますよ」
     半眼でサイモンを見ていたヘルムートは、ふ、と息を吐いてから笑う。それから松葉杖を動かし、体の向きを変えながら続けた台詞はどんな表情で言っているのかサイモンからは見えなかった。
    「まあ、お前たちにまた会えた幸運を考えれば、このくらいの不幸は妥当かね。『ただいま』が言える幸福だけが俺を正気に繋ぎ止めるんだから、まったく、どうしようもないな……」
     僅かに目を細めたサイモンが声をかけるかどうするか判断しかねている間に、ヘルムートは扉をくぐって部屋から去っていった。
     ……普段であれば寮の中などすぐに回りきれるが、松葉杖をつきながらではそうはいかない。特に階段などは慎重に上り下りせねばならず、ヘルムートは踊り場で一度足を止めた。
    「チェルハ卿!!!!!!」
     そのとき、周囲に響き渡るような大声で呼びかけられて階下を見たヘルムートは、ずんずんと階段を上って近付いてくる男の姿を見て怪訝そうに眉を寄せたが、その手に握られているものに気付くと参ったなとでも言いたげな表情になった。
    「どうしたウォルター、お前から声をかけてくるなんて珍しいな」
     あくまで軽い調子で会話を始めようとしたヘルムートは、目の前に突き出されたものを見て溜め息を吐く。封の破られた封筒。見慣れた字で書かれた宛名。
    「あのですねえ、こういうことされるとすっごく感情の持って行き場がないんですよね! 本人が死んでたら殴ることも出来ないじゃないですか!?」
    「遺書なんて言い逃げするのを前提として書くもんだからなあ……何にせよ俺はこうして生きてるわけだからそれの内容についてはコメントしないぞ」
     ほら返せ、と封筒を奪い取り懐に入れるヘルムートをウォルターは憤懣やるかたない様子で見ていたが、松葉杖を使っているような病み上がりの人間に掴みかかることも出来ないため苛立たしげに腕を組むにとどめていた。
    「あれはどういうつもり、」
    「コメントしないって言っただろ。他の遺書も回収しないといけないから俺は忙しいんだ、また今度な」
     慎重に一段一段階段を下って立ち去るヘルムートを、結局ウォルターは大人しく見送った。
     一方のヘルムートは寮から出ようとしたところで目当ての人物のひとりと出くわし、ぱちくりと瞬きをしてから笑みを浮かべた。
    「ジェラルド、ちょうどよかった。……お前にも俺の遺書が届いてるだろ、返してくれ」
     事情を説明するとジェラルドはヘルムートを連れて自室へと向かい、本と本の間から封筒を取り出した。封は切られていないし、皺ひとつ寄っていない。
    「中身は……」
    「ご覧の通り開けていません」
     ジェラルドはわざとらしく肩を竦める。
    「卿が死んだなどとどうにも信じがたかったもので。ウォルターのやつもそうだったんじゃないですか?」
    「あいつは開けてたよ、まあ、俺が帰ったらネタにでもするつもりだったんだろうが」
    「ほう」
     ぱちぱちと瞬きをしたジェラルドは面白そうに口角を上げ、差し出しかけていた封筒をひらりと振ってみせた。
    「では私も読んでおいた方が良かったでしょうかね」
    「やめとけやめとけ、生きてる人間の遺書なんて読んだって何の役にも立たん」
     ひょいと封筒を奪い取り──ジェラルドはまったく抵抗しなかった──しまいこんでから、ヘルムートはふと真面目な顔でジェラルドを見た。
    「お前は諦めると思ってた。あそこまで寄生が進んだ人間を、あんな無茶な方法で連れ帰ろうとするなんてな」
    「これでも私は諦めが悪いんですよ、チェルハ卿」
     目を細めてそう言ったジェラルドに、ヘルムートはなにかに思い至ったような顔をした。
    「ああ、なるほど。あいつの諦めの悪さはお前譲りか」
    「さて、誰の話ですかね」
     ジェラルドはそしらぬ顔で言い放ち、ヘルムートはそれを見て愉快そうに笑った。それから軽く頭を掻く。
    「時間取らせたな。じゃあまた今度、久し振りにチェスでも」
     松葉杖を動かして方向転換し部屋を出ようとするヘルムートの前に回って開けた扉を押さえ、軽く会釈をして見送るジェラルドの動きは実にそつがなかった。
     ……そうして一通り遺書を回収して戻ってきたヘルムートは、どこか気が進まない様子でとある部屋の扉をノックした。
    「デミトリ、いるか」
    「ああ」
     扉を開けたヘルムートは部屋の主を見てどこか気まずげに目を泳がせた後、片手を差し出す。
    「お前にも届いてるよな、返してくれ。……俺の遺書」
    「……そういえばそんなものもあったな」
     チェス・プロブレムをしていたらしいディミトリエは席を立つと机の引き出しから封筒を取り出し、ヘルムートへと差し出した。封は切られていない。ヘルムートはほっとした様子でそれを受け取った。
    「読まなかったのか」
    「貴様の目の前で読んでやろうと思ってな」
    「悪趣味だぞ」
     小さく笑ったヘルムートは封筒をしまうと一瞬くちごもったが、結局いつもと変わらない調子で軽口を叩くことにしたらしい。
    「今回は運が良かった。……ま、十年見届けないといけないしなあ」
    「面倒をかけさせてくれるな、まったく」
    「ごめんごめん」
     大きな溜め息を吐いたディミトリエはその霧がかる紫の目でヘルムートを見た。それからおもむろに手を伸ばして相手の額を小突く。
    「あいた! ごめんって言ってるだろ!」
    「精々休暇中は大人しくするんだな」
    「はいはい」
    「はいは一回」
    「はーい」
     わざとらしく唇を尖らせてから破顔したヘルムートは、じゃあ俺戻るわと松葉杖を動かしたが、その背にディミトリエが声をかけた。
    「ヘルムート」
    「ん?」
    「まだ言っていなかったな、……おかえり」
     一瞬沈黙したヘルムートは、振り返らずに片手だけ挙げた。
    「ただいま」


     その後、ヘルムートは回収したものを寮の裏手で焼き捨てた。通りすがりの騎士に、なにを燃やしてるんですかと訊かれ、ラブレターだよと答えた。
    新矢 晋 Link Message Mute
    2019/09/23 10:28:57

    死んだ騎士は走るか

    #小説 #Twitter企画 ##企画_オルナイ
    とある騎士が「死んだ」話。

    ヘルムート@自キャラ
    ウォルター@うん孔明さん
    ジェラルド@識島さん
    サイモン@うるいさん
    ディミトリエ@つむさん

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