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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    となりのおにんぎょうさん ※執筆中1.

     私の一番古い記憶――綺麗な翠の瞳が二組、優しい光を湛えて私を見詰めている――、今も色褪せない、数百年前の記憶。


      ※  ※  ※


     カサレリアに吹く風は甘い匂いがする。それは学者が書を綴るのに使う墨の匂いにも似て、錬金術師が作る咳止め薬の匂いにも似ている。
     中央で都市面積の三分の一以上を占めている賢者の塔――塔と呼ばれてはいるが、その外観は椀を伏せたような形だ――からは六つの大通りが伸び、その大通りから更に細かな通りが伸び、空から見下ろせば魔法陣のように緻密に入り組んで見えるだろう都市……通称「魔法都市」、カサレリア。
     大陸中の叡智が集い、錬金術師や魔術師が多く住むこの街で生み出された道具や技術は各地に輸出されて街に富をもたらし、賢者の塔は更に大きく高くなる。塔は都市を治め、導き、育む。膨大な知識と技術を盾と剣代わりにして、カサレリアは栄えていた。
     ――その街の片隅、塔から馬車で半時ほど揺られた場所に、特別な住人が居る屋敷がある。
     艶やかな黒髪に絹のリボンを編み込み、白磁の肌は質素ながらも趣味の良い衣服で覆われ、賢者のように知的で涼しげな翠色の瞳を小さな丸眼鏡で半分隠した彼女の存在を知らない者はこの街に居ない。
     それは、彼女が遥か昔に作られた「生きている」人形だから。その白魚のような指先も、造作の整った顔も、遥か昔の魔術師が作り出し命を吹き込んだものだと判明しており、彼女は塔から手厚い保護を受けていた。何故なら、かの偉大なる魔術師が彼女に命を吹き込んでから数百年経った今でも、この偉業を――人形に命を与えるという神業を成し得た者は居ないからである。 彼女が発見……正確には、ごく普通の人間のふりをして各地を渡り歩いていた彼女が人形だと発覚したのは数十年前の事である。当時の人間たちは世紀の大発見に色めき立ち、半ば強制的に彼女を当時の賢者の塔の長――つまりは街の長であり、あらゆる知識に長けた人物である――へと献上した。
     その際彼女と長の間で交わされた言葉は記録には残っていないが、その対話の後、三つの約定が彼女と賢者の塔との間に結ばれた。
     ――ひとつ、甲(賢者の塔)は乙(彼女)の生を無用に脅かしてはならない。
     ――ふたつ、乙はこの街において人間と同等の権利を有する。
     ――みっつ、前記二つの約定を損なわない限り、甲は乙を自由に調査研究できる。 これらの約定は今でも守られ続けており、彼女はカサレリアで平穏に暮らしている。
     彼女の名はクティルカ。
     この大陸で唯一の、たった一人――あるいは一体――の、生き人形である。


     ――カサレリアの甘やかな風はクティルカの髪も他の人間と同じように揺らし、屋敷の庭に出された椅子へ腰掛け書物のページを捲っていた手の動きを止めさせる。
     すん、と鼻を鳴らすような仕草をした後、クティルカは門の方向へ視線を流した。白く塗装された門柱の向こうから現れるのは紙袋を抱えた大柄な男であり、その姿はクティルカにとって見慣れたものだ。
    「おはよう、ナリオ。……いい匂い」
     その容姿に違わぬ透き通った声で挨拶の言葉を紡いだクティルカに、ナリオと呼ばれた男は顔を上げた。
    「おはよう、ルカ。今日もいい天気だ」
     真面目そうな印象を与える彫刻めいた無骨な顔立ちに、恵まれた体躯。まるで戦士か何かのようにも見えるその男、ナリオはクティルカの屋敷にパンを届けるパン職人だ。ナリオの父も祖父も腕の良いパン職人で、ナリオも例に漏れず腕は確かだった。
     椅子に腰掛けたクティルカの元へと歩み寄り、中を見せるように傾けられた紙袋の中には、日持ちのする固パンが少しと小瓶に入ったジャム、それから三日月の形をした表面がパリッと焼き上げられたパンに切れ目を入れて新鮮そうな野菜とチーズを挟んだもの、巻貝の形をした少しもっちりとしたパンにチョコレートクリームをたっぷり詰めたものが入っていた。 紙袋の中を覗き込んだクティルカが怪訝そうに眉を寄せたのを見て、ナリオは巻貝パンをそっと紙袋から取り出す。朝日に照らされ、パンの表面が艶々と光った。
    「これ、俺が作った新作。ルカに感想聞きたくて」
     受け取ったクティルカは、たっぷり詰まったクリームが零れてしまわないよう慎重にパンへとかぶりついた。チョコレートクリームが舌の上で溶け、周囲に甘い香りが広がる。
    「……美味しい」
     短いが感嘆混じりの少し揺れた声に、ナリオは安心したように息を吐き出し、それから小さく笑った。
    「ルカ、クリームが口に付いてる」
    「ん」
     ひとつ瞬きをしたクティルカが自らの唇を拭うより先に、ナリオの指がクティルカの唇をぐいと撫でた。小麦の匂いが染み込んで少しごつごつした、パン職人の指先。クティルカの唇から拭い取ったクリームを自然な仕草でぺろりと舐めてから、ナリオはどこか相手の反応を待つように動きを止める。 今度は瞬きふたつ、少し間を空けてからクティルカは再びパンにかぶりついた。白い頬が僅かに染まっているように見えるのは、太陽の加減だろうか。ナリオの方を見ずにもぐもぐと口を動かす姿は小動物にも似て、ナリオは口元を緩めると黙ってそんな彼女の頭を撫でた。
     その時、ちりん、と小さな鈴の音。
    「そこは接吻のひとつでもかますところである、この朴念仁!」
     突然響いた甲高い子供の声に、クティルカは相変わらず口を動かしながら顔を上げ、ナリオは溜め息を吐きながら振り返った。
     ナリオからすると大分見下ろした位置に揺れるのは、小さな銀色の鈴が一つ。その鈴は杖の先端に付いた輪っかに揺れており、その杖は未だ十かそこらの子供の手に握られている。――鈴の付いた杖は、この街では賢者の印である。賢者の塔に所属する賢者は、その位の高さに応じた数の鈴が付いた杖を持たなければならず、鈴一つは最下位の証。それでもこの街では一定の敬意を払われる存在なのだが、ナリオは気にした風も無くその子供の額を指で弾いた。「お前の知識は偏りすぎだ。そんなだからいつまでも鈴一つなんだよ『賢者様』」



    2.

     この世界唯一の被造物は回想する。それはありふれた家族の情景であり、しかし――


      ※  ※  ※


     私には父が一人と姉が一人いた。父の名はトルンカ、姉の名はクターセク。私たち家族は揃って翠の瞳をしていて、特に私と姉は黙って立っていれば瓜二つだった。
     私と姉……クターセクが似ているのは血の繋がりに依るものではなく、私が彼女をモデルに作られた人形だから。私は魔術師トルンカによって命を吹き込まれた生き人形。
     トルンカは早くに妻を亡くしており、魔術師などという因果な生業であるが故に――当時魔術師は迫害の対象だった――娘のクターセクに苦労をかけている事を気に病んでいた。その道では知らぬ者のいない偉大なる魔術師トルンカもこと娘に関してはただの迷える父親で、しかしとった方法は並外れていた。 娘の為に、母にも姉にも妹にも友人にもなる「生きた人形」を作り出す。言葉にするのは簡単でも、それは秘術中の秘術。未だかつて人形に命を与える事に成功した魔術師は居らず、また、人間が生命を創造すること――それ即ち神の領域に手を伸ばすこと――は禁忌であった。
     けれど矢張り偉大なる魔術師も父親の例に漏れず娘に対しては甘く、そして技術も兼ね備えていた為、こうして私は生み出された。
     私がこの世で初めて目にしたのは父なるトルンカと姉なるクターセクの綺麗な翠の瞳で、それは一生忘れる事は出来ない。そして、目覚めた私を抱き締めた父と姉の温かさも。
     幾ら私の父が偉大なる魔術師とはいえ、目覚めたばかりの私はただ「生きている」という点を除けばただの人形で、細かな感情の機微は全く理解出来ていなかった。 私自身の単純な身体能力や知能は人間よりはるかに高く設計されていたが、父と姉との生活が無ければ今のように人間の真似事をして平穏な暮らしを送る事は出来なかっただろう。
     私の父にあたるトルンカは、私に対してまるで実の娘であるかのように接した。私が姉のクターセクと一人前に姉妹喧嘩なぞした時も、うまく感情の処理が出来なくて熱を出した私を一晩中看病してくれた。
    「人形は、ひとから愛された時はじめて魂を持つんだよ」
     ――だからお前が生きているのは私たちがお前を愛している証なんだと、そんな事を臆面も無く言っていた父。
    「私は貴方の姉だもの、お姉ちゃんが妹を守るのは当たり前でしょう?」
     ――その台詞を残し、私の代わりに連れて行かれた優しい姉。 何度も繰り返す追憶。私の家族は既に何百年も前に死んでいる。人間の命には明確な期限があり、それにより訪れる死なら追憶は僅かな感傷だけを運ぶが、私の家族たちはいずれも穏やかな死を迎えてはいない。そしてそれは、私が生み出された事による罰。
     父であるトルンカは、魔術師である上に生命を創造した大罪により裁判にかけられ――極めて一方的かつ不平等なものだった――、火炙りになった。人の脂肪が焼ける匂いを初めて知り、そしてもう二度とあの匂いは嗅ぎたくないと思った。
     姉であるクターセクは、……罪深い存在である生き人形を処分するという通達が届いた際、素直に向かおうとした私の身代わりとなり――当時は私と人間を見分ける術が無かったのだ――処刑された後に解体され、その肉片は焼かれた上に川に流された。 そして私は一人残された。罪深い存在である私が、残された。私が姉のクターセクではなく人形のクティルカである事を知ったとある青年――彼はクターセクを好いていた――の言葉が、数百年の時を経た今でも鮮やかに耳朶へ蘇る。
    「人形の癖に、人間を身代わりにして生き残ったのか!」
     ――私は返す言葉も無く、逃げ出した。
     それからの暮らしは惨憺たるものだった――回想するのを忌避している私がいる――。自らが人形である事を隠す為、また老化しない身体を不審がられない為に様々な地域を渡り歩き、生活する為ならどんな汚れ仕事にも手を出した。
     私が死んだら、姉が私の身代わりになった意味が無くなる。私が死んだら、父が偉大な魔術師であったという証拠も失われる。その思いだけで私は生き続けるのだ、今までも、これからも。 ――しかし、私の命はいつ尽きるのだろうか。
     父トルンカの言葉を信じるなら、私の命は愛される事によって生まれた物だ。私を愛してくれた父と姉亡き今、私の命はどういう原理で維持されているのか……賢者の塔の研究でもわかっていない。
     死者の思いはどこへゆくのだろう? 死した時のまま固定するのだろうか? それとも生者の思いと同じくうつろうのだろうか?
     私にはわからない。何百年も考え続けているのに、わからない。これが人間と私……人形の違いなのだろうか。
     夜眠りにつこうとすると、このまま二度と目覚めない恐怖が頭を過ぎる。その度何百何千と繰り返される父と姉の追憶。狂いたくても狂えない、壊れたくても壊れない、父の最高傑作の私。
    「……ナリオ」
     そんな夜、私が呼ぶ名は父でも姉でもなく、優しくて不器用なパン職人の彼の名。彼が生まれた日も、彼が職人の修行を始めた日も、彼が一人前になり店を任された日も、つい昨日の事のように思い出せる。私にとって彼は家族同然であり、彼にとってもそうであってほしいと願っている。
     私が、苦い追憶を伴わずに想える唯一の家族。美味しい食事と楽しい時間を運んでくれる彼に私が抱いているこの感情こそが「愛」なのだろうか?
    「あい、している……?」
     唇に乗せるとその言葉は妙に虚ろに響き、私の胸の奥を軋ませる。嗚呼、きっと私には他者を愛する能力までは搭載されていない。いくら父が稀代の大魔術師だったとはいえ、人形に人間と同じこころまでは与えられなかったのだろう。 ――そっと自らの髪に振れる。姉のクターセクと同じ黒髪に、絹のリボン。白い肌、指先、とくとくと胸の奥で音をたてる作り物の心臓。すべてが父からの贈り物、最初にして最後の最高傑作。
     私は「クティルカ」を愛する。何故なら「クティルカ」は私の父と姉が愛してくれた人形だから。「クティルカ」を愛してくれた家族たちに私が出来る事といったら、もうこれぐらいしか残されていないから。
     私は「私」を愛する。私を愛してくれたひとの証を消さない為に。




    3.

     初めてクティルカに対面した時、そのあまりの精巧さと美しさに言葉を失ったナリオは、「舶来の人形みたいだ」と口走りその場の失笑を買った。
     その時のナリオとそう年の変わらない幼き賢者、「鈴一つ」のメルトは同じく初めてクティルカと対面した時、「君が人形であるという証明をしたまえ」と言い放ちその場の空気を凍らせた。
     しかしいずれもクティルカがウィットに富んだ返しをした為大事には至らず、幼い日のナリオが泣きべそをかく事も、メルトが機嫌を損ねクティルカの担当から外れる事も無かった。
     クティルカは外見こそただの女性だが、その機知と知識は賢者でさえ舌を巻く。それは、そもそも設計段階から人間と同じかそれ以上の記憶容量と演算装置を与えられていた事、数百年に渡り人間として生活していた事が大きく影響していると考えられている。そして、記憶の蓄積こそが現在の彼女の人格を形成しており、過去が無ければ彼女は存在していなかっただろう……というのが現在の所の賢者の塔の見解である。 よって、クティルカと同型の人形の再現は不可能である、と断定されたのが十余年前。それ以降は「クティルカ」の再現ではなく、クティルカをベースにして違う型の人形を造り出すのが賢者の塔の研究目標となった。そして、研究方針の転換により、クティルカを観察し記録し続けていた人員は削減され、賢者としての地位の低い「鈴一つ」がこの役割を受け持つ事となった。
     そして現在クティルカの観察を担当しているのが、メルトである。大多数の賢者がそうであるように、その呼び名は彼の賢者名「メルトダウン」の略称だ――ちなみに現賢者の塔長の賢者名は「オーバーライド」、メルトの師匠にあたる人物の賢者名は「ニュートリノ」、メルトを含めたいずれもが古文書に登場する古代言語から由来している――。 観察と言ってもクティルカの生活は平穏極まりなく、たまに街の子供たちが訪れて昔話をせがんだり、古い知識を求めて学者が訪ねて来たりする程度で、メルトの仕事は単調で暇なものになりがちだ。
    「お人形さんお人形さん、お話してー!」
    「してー」
     そして今日もクティルカは庭の揺り椅子に腰掛けたまま、早く早くとせがむ子供たち相手に柔らかな笑みを向けて昔語りを始める。その内容ははるか昔のおとぎ話であったり実際に彼女が体験した話であったりと様々で、今ではほとんど見られない妖精や竜の登場する内容に子供たちはきらきらと瞳を輝かせながら聞き入っている。
     ――そんなほほえましい光景を退屈そうに眺めながら手元の日誌に「異変無し」と書きかけていたメルトだったが、その手が止まる。
    「……それじゃあ今度は、私の父の話をしようか」
    「だいまじゅつしトルンカだね!」
    「してしてー!」
     日常の些末事にこそ真実がある、というのが賢者の思想のひとつである。全くもってその通り、クティルカを塔へ連れて行き格式張った問診をするよりも、こうした何気ない日常から零れ落ちる情報の蓄積の方が真理に迫る可能性は極めて高い。
     メルトはクティルカから少し離れた場所の椅子に腰掛けたまま、意識だけを彼女へ向けた。
    「今からずっとずっと昔、花畑には妖精が舞い、洞窟には竜が眠っていた頃……」
    「それはもう聞いたー」
    「もう、静かにしてよっ」
     お決まりの話し出しに子供たちはわくわくしながら芝生の上に座って膝を抱える。気の急いた一人がぐずるとお姉さんぶった一人が窘めたりして、この街の教育機関であるアカデミアの初等部の授業に似ている。――知的な翠の瞳に丸眼鏡をかけたクティルカは、ちょうど教員のよう。ぐずり出した子供を手招きして膝に乗せる仕草も手慣れており、そうと知らなければ彼女が人形だなんて誰が思うだろう。
    「……ある所に、トルンカという魔術師がいました」
    「お人形さんを作ったひとだよね!」
    「そう、世界で唯一の生きている人形を作り出した大魔術師……」
     言葉を切り、少しだけ懐かしむように瞳を細めたクティルカを見上げた子供の頭を撫で、再び彼女は語り出す。
    「その魔術師トルンカの元に、ある時一通の手紙が届きました。 それは小さな田舎の村から届いたもので、なんと、一匹の竜が次々と子供たちをさらっているので助けて欲しいというものでした」
    「すげー!」
    「なに言ってるのよ、大変じゃない!」
     竜、という単語に色めき立つ子供たちの様子をしばらく見守り、一通り騒ぎ終えたのを確認してからクティルカの涼やかな声が響く。
    「トルンカは急いでその村へ向かい、竜が棲むという洞窟へ向かいました。そこには大きな竜がおり……さらった子供たちと札遊びをしていました。洞窟の奥の方には疲れて泣きべそをかいている子供の姿もあり、トルンカは子供たちを解放しろと竜に詰め寄りました。が、竜はそんな言葉に耳を貸さず襲い掛かってきました」
     ごくり、と誰かが唾を飲み込む音。語り続けるクティルカの声は吟遊詩人のようで、いつの間にか庭はしんと静まり返っていた。
    「竜の大きな口から吐き出される炎のブレスを盾魔法で防ぎ、続けざまに雷魔法で竜の動きを止めたトルンカは、こう言い放ちました。『そんなに札遊びがしたけりゃ、お前が村に降りて村人たちと遊べ!』と」
    「ほんとだ、その方が遊び相手いっぱいいるよね!」
    「……こうして、その村は『竜と札遊びができる村』として有名になりましたとさ。めでたしめでたし……」
    「毒にも薬にもならねぇぇェ!」
     クティルカが語り終えた瞬間、芝生に座る子供たちよりわずかに大人びた、けれど十分子供の範疇に入る甲高い声が庭に響き、同時に何かがクティルカ目掛けて投げつけられた。
    「……危ない、子供たちに当たったらどうする」
     投げつけられたそれ――鈴のついた杖を難無く片手で受け止めて、涼しげな顔でクティルカは声の主を見やる。書きかけの日誌を芝生の上に投げ出したメルトが、肩で息をしながら彼女を指差した。
    「トルンカの話かと思って期待したら眉唾以前の出鱈目ではないか、我が輩を馬鹿にしているのか?!」
    「いや、そもそも今の話は子供たちにしていたわけで……」
    「言い訳無用!」
     ぷんすかという擬音が似合いそうなその光景を呆気に取られて眺めていた子供たちの中から、ぱらぱらと声があがる。
    「俺知ってる、こういうの『めおとまんざい』って言うんだぜ!」
    「違うわ、『ちわげんか』よ!」
    「……『ちじょうのもつれ』……」
     好き勝手に騒ぎ始めた子供たちにメルトはますます怒り心頭、クティルカから杖を奪い返すとチリンチリンと音を響かせながら地団駄を踏んだ。
    「人形なんぞに惚れる変態はナリオ一人で十分なのである、失敬な!」
     散れい!などと言いながら杖を振り回すメルトに、子供たちはけらけら笑いながら逃げ回る。その子供たちを追いかけようとしたメルトの首根っこが何者かに掴まえられ、次の瞬間彼の頭に衝撃が走った。 ――いつの間にか現れていたナリオがメルトをつかまえて、その頭に拳骨を落としたのだという事をメルトが理解するには少々時間がかかった。
    「ナリオ! いきなり何をするのだ!」
    「ルカに謝れ」
     口調こそ静かなものだったが、ただでさえ表情豊かとは言えない顔が普段にも増して仏頂面、眉間の皺も三割り増し。ナリオが激怒している事に気付いたメルトは、怪訝そうに眉を寄せた。
    「何故我が輩が謝らなければならない。我が輩は謝らなければならないような事など何も、」
    「いいから謝れっ! この……」
    「ナリオ、構わない」
     もう一発メルトに手を上げかねない様子のナリオを止めたのは、他ならぬクティルカの穏やかな声。彼女は白い指先で丸眼鏡を押し上げながら、小さく首を傾げた。
    「ナリオが私の事で怒ってくれただけで十分だよ」
    「ルカ……」
     メルトから手を離しクティルカを見詰めるナリオ。ゆっくりとクティルカの髪へと手を伸ばし、触れようとした刹那ぴたりと動きを止める。
     ――事の行く末を興味津々に眺めている幼い瞳たち。
    「なでなでかな?」
    「いや、ぎゅーっと抱きしめて……」
    「ふ、所詮お子様の発想……ナリオにそんな甲斐性を要求するだけ酷である」
     今度は怒りとは別の、……羞恥で顔を赤く染めたナリオの叫びが響いた。
    「お前たち、いい加減にしろ!」




    4.

    「まったく、付き合っていられないのである」
     メルトはぶつくさと文句を言いながら賢者の塔の廊下を歩いていた。――カサレリア最古にして最大の建造物である賢者の塔は、増築や改装を繰り返した所為で様々な建築様式が入り混じっている。外装はある程度統一感を持たせているが、内装に至っては皇国風の豪奢な廊下が突然初期カサレリア風の質素な廊下になったりと、出鱈目にも程がある状態である。
     真っ白い廊下をしばらく歩き、突然現れる異国情緒溢れる毛足の長い絨毯が敷かれた踊場から東方向に進むと、突き当たりに「ニュートリノ」と書かれた名札が下がる扉が現れる。メルトは、一つ深呼吸をしてからその扉をノックした。
    「だぁれー?」
     扉の向こうから返ってきたのは気怠げな女性の声。
    「メルトダウン、只今戻ったのである」
    「なんだメルちゃんかぁ、入って入って」
     メルトが扉を開くと、まず部屋の約半分を占める豪奢な天蓋つきベッドが視界に入る。そしていつもの光景ではあるが、柔らかなクッションのきいたそのベッドの上に部屋の主が横たわっていた。
     陽光を知らぬようなミルク色の肌、踝まで届く髪は輝かしい蜂蜜色で、眠たげな半眼は深海の蒼――メルトの師匠であり、当然賢者でもあるニュートリノその人である。
    「……師匠、レポートは終わったであるか」
    「むー」
     問いに答えずごろりと寝返りを打った自らの師匠の姿に、メルトは諦め混じりの溜め息を吐いた。それから一枚の紙を彼女に差し出す。
    「本日分の『日誌』である。……今日もいつも通り、ナリオの人形馬鹿ぶりには付き合ってられないのだ」
    「まあまあ、そう言わないの」
     受け取った紙に目も通さず文箱に放り込み、ニュートリノは笑う。その艶美な笑みの虜になる者は多いが――特に賢者の塔へ所属するような人物には女性に免疫の無い男性が多い――、メルトは彼女の実態を知っている為、時折怖ろしささえ覚える。
    「ナリオ君がうまい事してくれれば、実験の手間が省けるじゃない」
     この女神のような容姿をした女性が、かつては東方の皇国にて『星落としの魔女』と呼ばれ恐れられた魔術師であり、
    「『人形と人間との性交の可不可』『人形と人間との間に子供を成す事の可不可』、うちでつがう相手を探すのも手間だものね」
     ――生命や愛情すら単なる研究対象のひとつとしか見られない、性格破綻者であるという事を知ればこそ。
     室内に立てかけられたニュートリノの杖には八つの鈴が揺れて賢者の中でもかなり高い地位にある事を主張しており、賢者として優秀であっても必ずしも人格を伴う訳ではないという事を証明している。
     ベッドから起き上がろうともしない師匠をよそに、弟子――メルトは、机の上で雪崩を起こしかけている書類の整理を始める。それを当然のように眺め、ニュートリノは眠たげに瞬きながら弟子に話しかける。
    「メルちゃんもぱぱーっと論文なり何なり発表して鈴増やしちゃえば、お人形のお守りしなくていいのよー?  オリジナルの再現はどうせ無理なんだから、私と同じ量産型研究チームに入った方が出世コースじゃない?」
     間延びした声ながらずけずけと意見を言う美女の姿にも慣れているメルトは、書類の整理をしながら振り返りもせず答えた。
    「……誰かさんが眠り姫なおかげで雑務が全部回されて自分の研究に割く時間は無いし、チームでまで師匠の尻拭いするのは勘弁してもらいたいである」
    「むー。メルちゃん、私の事きらい?」
     メルトより一回りも二回りも年嵩のくせ、子供のような物言いのニュートリノ。その言葉に一瞬ぴたりと手を止めたメルトは、整理を再開しながら背後へ向けて答える。
    「……我が輩は好きでもない女の世話を焼くほど物好きではないのである」
     メルトの返答が予想通りだった事に満足したのか、ニュートリノはふわりと童女のように笑ってからベッドを転がった。転がりながら、ふと、思い出したように口へ昇らせたのは完全にメルトの動作を止めるのに十分な威力を持っていた。
    「あ、そういえば私、長からお呼びがかかってたんだった」
     メルトは動作を止めた後、乱暴に書類を机に置いて、それにより書類の雪崩が発生したのも全く気にせず声を張り上げる。
    「そういう事は先に言うであるこの馬鹿師匠ー!」
     ばたばたと部屋の中を探し回って発掘した化粧箱を小脇に抱え、ニュートリノを叩き起こして椅子に座らせるメルト。そして彼女の目の前に、大きな水鏡――硝子と水銀で出来た立てても使える優れものであり、かなり高価な品であり、かつ異性からのプレゼントでもあるが当のニュートリノ本人はすっかり忘れている――を引っ張り出す。
    「師匠の身支度は半日かかるんだから、自覚するである!」
    「だって、別に急いで来いって言われてないし」
    「長から呼び出されたら普通すぐに馳せ参じるもんである、この社会不適合者!」
     未だ眠たげなニュートリノの顔が鏡に映り、メルトは櫛とブラシを両手に持って彼女の長い髪を丁寧にとかし始めた。そして、痛いだの何だのと騒ぐのを完全に黙殺し、手慣れた仕草で結い上げてゆく。
     ニュートリノの髪は飴細工のように細やかできらきらと輝いている。それは生来の物でもあるが、日頃の手入れの賜物でもある――手入れの八割方は哀れな弟子に押し付けられているが――。そして彼女の踝まで届く髪は酔狂で伸ばしているわけではなく、彼女が魔女と呼ばれる存在である事に起因する。
     魔術師の類にとって髪の毛とは特別な意味を持つ。髪の毛は古くからまじないによく使われてきた。比較的手に入れやすい身体の一部であり、かつ頭部に近い事から魔術の効きが良いと考えられたのだろう。その多数の魔術師の共通認識によって、今日、髪の毛は本当に魔術的要因を孕むに至った――人間の信仰によって神が発生するのと同じ原理だと考えられている――。 よって、魔術師は自らの髪の扱いに細心の注意を払う。もし敵対する術師に自らの髪を手に入れられでもすれば、それは明日にでも呪い殺される可能性を生み出すからだ。逆に、自らの髪に磨きをかければ、自らの魔術的素養を一段階引き上げる事も可能である。
     近世の魔術師は、他者に髪が渡った際のリスクを下げる為、自らの魔術的素養が下がるのを承知の上で髪に脱魔力処理なりを施すのが普通だ。だが、古いまじないを好む魔術師たちは未だ髪の毛を神聖視しており、特に「魔女」と呼ばれる人々に至ってはその髪の質で上下関係まで決まるという。
     ――そして、ニュートリノはカサレリアの東方にある皇国から亡命してきた魔女であり、その古いまじないの知識を提供するのと引き換えに賢者の塔へ入った人間である。彼女にはまさに骨の髄まで古いまじないが染み込んでおり、その髪の毛一本一本が魔術触媒にも等しいちからを秘めている。
    「銀の短剣、葡萄酒、まくらき冥府の森……」
     輝く金糸、ニュートリノの髪を編み上げながら弟子が呟いているのはまじないの言葉。その言葉ひとつひとつがニュートリノの髪の毛一本一本に絡み付き、縛り上げる。また、編み込まれていく真紅の飾り紐は魔除けの術具であり、単なる装飾品ではない。
    「……旅立ちは失われ、夜明けは遠ざかる、貝は黙して語らない」
     そしてメルトがまじないを唱え続けながらも櫛を動かし、金髪は後頭部に小さな団子を作り残りの髪を背に流した形へ仕上げられてゆく。このまじないと術具の力によって、ニュートリノの髪の毛はけして抜け落ちたりしなくなる。魔女は、その髪を守る為のまじないの知識も当然持っているのだ。――それを教え込まれ半日かけて師匠の髪にまじないをかけるメルトにとっては不幸極まりないが。
    「……仕上げを、師匠」
    「はいはぁい」
     見事に結い上げられた髪を水鏡で確認してから、ニュートリノは自らの指先に唇を寄せ短く息を吹きかけた。何の意味があるのかメルトですら知らないその仕草でこのまじないは完成し、そして半日がかりの身支度は完了する。
     ようやく解放された弟子、メルトは溜め息を吐き、ひらひらと片手を振った。
    「さっさと長の所へ行ってくるである」
    「えー、もう夜明けじゃない一眠りしてから……」
     不平を言いかけたニュートリノが、さすがに空気を読んで言葉を切った。……弟子の目が、完全に据わっている。その刺すような視線を背に受けながら、ニュートリノは三日ぶりに自らの部屋から外へ出た。 部屋着ではなく、賢者の正装である濃紺の長衣に肩から腰帯へ向けて斜めにかかる飾り帯。片手に持った杖には八つの鈴が揺れ、その音に振り返った賢者たちはもれなくうっとりと女神の姿に見惚れてしまう。
     入り組んだ廊下を歩み、賢者の塔の中心部、長が鎮座まします部屋の前でニュートリノは膝を付いた。
    「ニュートリノ、只今参上致しました」
     暫くの沈黙の後、平らかな金属で作られた扉が音も無く横にスライドして入室を許可する。部屋の中へと足を踏み入れたニュートリノを出迎え先導するのは、長の手足となり働いている半妖精の少女――もしかしたら少年かもしれない――である。妖精が人間の前から姿を消して久しく、人間と妖精の間に生まれた子である半妖精は今となっては極めて珍しい。この少女も、十数年前に人身売買されかかっていた所を官憲に保護され、行くあてが無かったのを長に引き取られた身である。 ――希少なもの貴重なもの重要なものは塔に集う。須く、塔は強大で絶対的な中立存在でなければならないのだ。


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    5.

     カサレリアの東方に位置する皇国ロイエグリフ。豊かな資源を持つ軍事国家であり、皇帝と少数の官僚による議会によって治められている。
     本来絶対的な存在である筈の皇帝が、老いたる今やただの判子押しに過ぎないという事実は議会の者のみが知っている秘密。最早ロイエグリフは、一握りの有力官僚によって動かされているのだ。
    「……では、陛下。サインを」
    「しかし……余は、」
     金の染料で飾り枠が施された特別な紙を前にして、老人はペン先を迷わせる。あとたった一名の名前さえ記されれば完成するこの書類がどれほどの影響を及ぼすか、それを恐れるように。
     実年齢より一回りは老いて見える彼の心痛たるや皇帝の座についてからおさまる事は無く、その穏やかで争いを厭う心根こそが付け込む隙を与えているのに思い至りもしない。 老皇帝の背を押すのは、甘ったるい媚びに冷たい刃を潜ませた言葉。彼の息子であってもおかしくない若さの青年が、ぱちりと音を響かせ鉄扇を閉じた。
    「陛下、これは議会で可決された……いわば民の総意なのです。かの都市の技術は民に潤いを与え、我らが皇国はより強くなる。それを、民が望んでいるというのに……陛下はまさか、偉大なる先達の事も忘れておしまいに?」
     受け取りようによっては不敬ともとられかねない台詞を吐く青年を咎める事が出来る立場の人間は何人も居るというのに、誰も口を開かない。それを知っているからこそ青年は――父の代から高級官僚であり皇国への影響力たるや他の官僚より頭ひとつ抜きん出ているこの青年、クリス・ルーム・ルームは涼しい顔で口を動かすのだ。
    「さあ署名を、陛下。陛下のお許しあればこそ、皆も志一つになろうというもの」
     神話時代の彫像のように整った笑みが、見えざる力で皇帝の腕を操る。――逃れようは無い、クリス・ルーム・ルームは蜘蛛の如く獲物を糸で絡め取る。官僚達を掌握し、民の心さえ思うが侭に煽動して、後はたった一枚の書状に皇帝の署名を施すばかりの状況をお膳立てする彼は逃げ道など残さない。
     ――皇帝は沈痛な面持ちでその書状に署名を施した。
     そのとても長い一瞬を固唾をのんで見守っていた官僚たちは、ついに完成し年若い青年の手にある書状を見ながら漸く口を開く。
    「……ルーム・ルーム卿、」
     呼ばわる声は高級官僚の一人、クリス・ルーム・ルームからすれば父子ほどに年の離れた男のもの。その声に、皇帝より受け取った書状をくるりと丸めて封を施したものを差し出す手は細く。
    「カテナ卿、ではこれを確かに」
     短い言葉に返礼し、カテナと呼ばれた男は書状の封印を改め懐へと仕舞う。その一連の仕草を一瞬たりとて見逃さず、それからクリス・ルーム・ルームは皇帝へと深々と頭を下げる。それに倣う官僚たちはまるで、……蜘蛛の手足。
    「お手を煩わせました陛下。これで我らが皇国に、より一層の繁栄が約束されましょう」
     こうして、たった一枚の、しかし大きな意味を持つ書状が作成された。
     そして皇国に巣くう蜘蛛は書状の末尾を思い返してひそやかに笑みを深めるのだ。「よって」、――「よって、我が国はカサレリアに宣戦布告する」。


     書状を然るべき場所へ送付する打ち合わせを終えて高等議会室を出たクリス・ルーム・ルームは、強まる西日に瞳を細めた。皇国の上流階級に多い北部出身者においてはありふれた色の金髪が陽光に煌めく。 ――高級官僚用の蒼い礼服を除けば、青年はとても国ひとつを支配下に置きつつある毒蜘蛛には見えない。肩まで伸ばされた髪と、作り物めいて整った顔立ちは舞台役者のよう。
    「ルーム・ルーム卿!」
     自らの執務室へと向かうクリス・ルーム・ルームを呼び止めたのは、若く溌剌とした女の声。城内の廊下を歩いていた背にかけられた声の主は、その場に不釣り合いな格好をしていた。
     服は仕立ての良い軍服で参城するのに相応しいと言えなくもないが、肩から二の腕辺りを覆う部分鎧は物々しく、あろう事か腰には帯剣している。長い髪は燃えるように赤く、ある事実を声高に主張している……即ち、血と焔の赤は皇帝の証。
    「ご機嫌麗しく、皇女」
     姿勢を正し床へ跪くクリス・ルーム・ルーム、その目前に立つのは美しい赤髪のカティア・“クリムゾン”・フォン・ロイエグリフ。皇帝の娘であり、“鮮血の赤”を名に負う者。差し伸べられた彼女の手を取りその甲へ口付けを降らす彼の所作は、皇帝に対するそれより慎重で丁寧。
     ――皇帝の長女であるカティアは確かに敬われるべき存在ではあるが基本的に皇国は男性優位社会であり、皇位継承権自体は弟にある。皇国の支配権を掌握するべく糸を吐く蜘蛛の獲物としては小物だと、二人の関係に意味を見出す者は居ない。少しばかり機嫌を取っておいて都合良く利用するだけに違いないと、官僚たちの間では囁かれていた。
     そう、誰も知らない。 皇国の蜘蛛として裏社会で恐れられているクリス・ルーム・ルームとは別の意味で、皇帝の娘カティア・“クリムゾン”・フォン・ロイエグリフもまた異端視すべき存在だという事を。
    「開戦はいつだ?」
     一切表情を変えず、寧ろ僅かな笑みさえ浮かべて彼女は言い放つ。皇帝家の人間とはいえ、本来政治には関わっていない筈の人間が口にするには違和感のありすぎる、また物騒すぎる台詞。
    「明後日には書状が届く筈ですから、十日とかかりませんよ」
     それに対してクリス・ルーム・ルームの返す言葉も直接的。常のように言葉を二重三重に包んだり、はぐらかしたりはしない。
     ゆるりと立ち上がった男の背は女と変わらない。体つきに至っては、恐らく女の方が筋肉質ですらある。――がちゃり、と鎧が鳴った。
    「卿が言うなら間違いはあるまい、僥倖僥倖。 ……漸く我が軍の働き所が生まれよるか」
     ――彼女は民の模範となる貞淑で気品ある皇女になる事を良しとせず、その上一人の蜘蛛と出会ってしまった。今や、カティア・“クリムゾン”・フォン・ロイエグリフは、この大陸でも有数の練度を誇るロイエグリフ軍の最高司令。その牙を向ける先を求める、誇り高き狼――。
    「人とは戦う獣よ、争い奪い殺し合う事こそ人を高みへと押し上げる。戦わぬ軍に意味は無く、戦わぬ人は人ではない」
    「御高説結構ですが御身は大切になさって下さいね。皇女自ら戦線を切り開かれては、私の心臓が保ちませんよ」
    「どの口がほざくか、卿は殺しても死なぬ男ぞ」
    「……否定はしませんが」
     蜘蛛と狼、蒼と紅。この二人の関係は難しく、断じて男女の甘ったるい色恋とは呼べないが、戦場で背を預け合えるような相棒とも言えない。だが二人が言葉を交わす姿は親しげで、身分の差も感じられない。
    「卿の手腕あればこその展開だ。その成果は確かに我が軍が活かしてみせよう」
    「調子は如何です?」
    「以前とは比べ物にならん。自らの存在意義を得た軍は、大義名分を掲げる攻撃は、……強くなるぞ」
     ただその会話の内容は天気の話でも無ければ仕事の話でも無い、物騒極まりないもの。
     女は獰猛な獣のように笑い、相対する男はそれにほんの僅か息を呑んでから、誤魔化す為に軽く咳払いをした。――始末が悪い、この赤狼はこういう時だけ奇跡のような美を顕現させるのだ。
    「……賢者どもが少し哀れに思えてきましたよ」
    「ふん、我はあやつらの性根が気に食わぬ。平等だの中立だのと耳障りの良い綺麗事をほざいては、己の益を抱え込んでいるだけではないか。……なれば、それに目を付けられるのも詮無き事」
    「宝物を蓄える竜は英雄に狩られるが道理、ですか」
    「英雄なんぞでは無かろうよ、美辞麗句は要らん。どう贔屓目に見ようが単なる侵略戦争だ」
     戦いを愛する狼は、けれど、だからこそその儀礼化や美化を良しとしない。彼女は闘争こそ人の使命であるという信念を持つ夢想家だが、同時に極めて現実的な一面も持ち合わせている。
    「戦を美しく飾り立てたければ終わった後にすれば良い、そういう事は卿らが得意であろう?」
    「ええ、その点は信用して頂いて構いませんよ」
     女の台詞を受け、歌うように紡ぐ言の葉は甘やか。共犯者の密言は蜜言に等しく、天井には薔薇の模様。
    「戦果は甘く、我が皇国を潤すでしょう。より大きく、強く、国が栄える幸いは……素晴らしい」
     瞳を細めてうっとりと囁くクリス・ルーム・ルーム。その様を見てカティアは呆れたように肩を竦めた。
    「……卿の熱心さには頭が下がるばかりだよ」
     皇帝の娘とは思えない他人事のような発言に、男はやんわりと笑いながら冗談にも本気にも聞こえる台詞を吐く。
    「我らが皇国の為に。私はこれでも愛国主義者ですから」
     ――クリス・ルーム・ルーム、蜘蛛はその巣を守り育てる為に策を弄し、
    「なれば愛国心溢るる卿に国守りは任せて、我は存分に剣を振るうとしよう」
     ――カティア・“クリムゾン”・フォン・ロイエグリフ、赤き狼は戦を求め自らの牙を磨く。
     廊下で語らう二人の姿を見咎める者も居らず、戦への足音は静かに響く。太陽は西の空へと早足で去り新たな地平を照らしにゆく。
     ゆっくりと、だが確かに時計の針は動き出していた。




    6.

    「ねえねえ聞いた?」
    「何を?」
    「また戦が始まるらしいって噂よ!」
    「えっ! やだそれほんと?」
    「さあ……でもここまで戦場になる事は無いだろうし、賢者さまたちが頑張って下さるから大丈夫でしょ」
    「そうねえ、カサレリアまで攻め込まれるわけないものね」
     ――カサレリアは長きに渡り専守防衛を謡っている。「カサレリアは無敗にして無勝」という言葉が表す通り、カサレリアはけして他国を攻め落とさず、また攻め落とされないのだ。
     建国以来、多少の領土侵犯や小競り合いはあれど、都市部まで攻め込まれた事は一度も無い。また戦火の粉がかかる事すらまれである。それは、カサレリアの有する知識や技術とそれに付随する利益の貴重さと、カサレリアという街の特色が大きく影響している。
     カサレリアは賢者の塔によって統治されている。そしてその賢者の塔が謳う言葉で代表的なものが「叡智の追究はひとの本質であり、学問の自由は踏みにじられてはならない」である。……賢者の塔は全てに等しく公平で、あらゆる技術を禁じない。人造生命の創造や大規模破壊魔法など、他国では禁じられている術も賢者の塔では自由に研究する事が出来る。他国では研究する事さえ罪になる技術をその手に携えた者が塔の門戸を叩く事はままあり、それこそが塔を大陸最高の知識と技術の集合地にしているのだ。
     ただし、賢者の塔へ入り「賢者」の肩書きを負う者は、同時に相応の責任と義務を果たさなければならなくなる。常備軍を持たないカサレリアにおいて戦うのは軍人ではなく賢者なのだ。賢者の中でも戦闘任務に適性のある者が国境付近にある砦に交代で配置され、有事となれば旅団を組み対応にあたらされる。
     ――カサレリアの賢者旅団は、大陸最強の魔術師団としても名高い。また、戦争では行使しないと取り決められているとはいえ、他国における禁術を所持している事実がかなりのプレッシャーを周囲に与えている。
     こういった様々な事柄がカサレリアを中立国たらしめ、国土に都市を一つしか持たない小国であるにも関わらず攻め滅ぼされる事なく維持させているのだ。
     ……しかし、カサレリアに住む民の大半はそんな事を意識する事なく暮らしている。奇跡的な日々に感謝するのはまれな事で、これがどれほど貴重なものかも知らないし、日々の生活に一生懸命だから。
    「ライ麦パン、焼けたよー!」
     ここは麦の穂通りに面するパン屋。仲むつまじい夫婦とその息子が営んでおり、品揃えが豊富なのが特徴だ。
     焼きたてのパンが沢山並んだトレイを抱えて、厨房へ続く扉からぬうっと現れるパン屋の跡取り息子、ナリオ。棚に「焼きたて!」の札をかけてパンを陳列していく姿も様になっている。
     先ほどまで店先で噂話に花を咲かせていた二人、恰幅の良い婦人がうっとりと深呼吸をして、買い物籠を抱えなおした。
    「いい匂いねえ、お腹が空くわ」
     パンの陳列を終えたナリオはにっこりと笑い、焼きたてのライ麦パンを示す。
    「今日はくるみ入りだから、冷めても美味しいよ」
    「ほんと、美味しそう。それじゃあ一つもらおうかしら」
    「毎度あり」
     ごそごそと紙袋を取り出しパンを詰め込むナリオの背後、厨房に続く扉からまた一つの人影が現れる。干し草のような薄い色の癖っ毛を短く切り揃え優しげな顔立ち、ナリオとは印象が大分違う父親がご婦人方に笑みを向けてから新たに焼き上がったパンを並べてゆく。
    「……はい、どうぞ。食べる前に軽く温めても美味しいよ」
    「ありがと、ナリオちゃん。……すっかりナリオちゃんもパン屋の顔になってきたわねえ、ちょっと前までこーんなに小さかったのに」
     困ったような、少し照れくさそうな笑顔で肩をすくめてからふと壁時計を見やったナリオは慌てた様子で婦人へと一礼し、エプロンのリボンに指先をかけながら父親を呼ぶ。
    「親父、配達行ってくる!」
     接客中にと眉を寄せるも、息子の考えている事などお見通しの父親はすぐに苦笑して片手を振った。奥へと引っ込むナリオと入れ替わりに売り棚の前へ立ち、一言二言ご婦人と言葉を交わしてお見送り。
     一方のナリオは少しの後、大きな肩掛け鞄を二つ提げた大荷物姿で勝手口から出掛けるのだった。
     ――「それ」に跨がりふわりと浮かび上がったナリオに通行人が何人か振り返る。
     それは、脚の無い馬のような、木馬にも似た形をした金属製の魔道具。カサレリアにおいても極めて珍しい、完全魔導力型の小型乗騎だ。白馬を意味する大河語からタレメルと名付けられたそれは、ナリオと配達用のパンを積んだ状態でも軽々と地面から浮かび上がり、握り拳が入るくらいの隙間を開けたまま滑るように移動する。
     魔道具というのは魔力だけでは動力を賄いきれないのが普通で、「銃」はほぼ火薬に動力を頼り魔力で微調整をしているだけだし、「船」もやはりメインの動力は風力だ。しかしタレメルはその動力を完全に魔力のみで賄っており、補給さえ怠らなければどんな状況でも作動する。この画期的な魔道具に値段をつけるとしたら恐らく蔵が建っだろう。
     そんな品を無造作にナリオが乗り回しているのは、タレメルがまだ試作段階であるという事もさることながら、その開発者が賢者メルトダウンであるという事による所が大きい。
     全動力を魔力で賄うが故に使用者を選ぶタレメルは、生来魔道具と馴染みの良い体質であり店に魔導オーブンを導入した時も店で一番に使いこなしたというナリオに目をつけたメルトによって、半ば無理矢理貸し付けられているのだ。ナリオは初めての試運転時にも問題無くじゃじゃ馬を御し、今は使用感の報告も欠かさない模範的なテスターだ。
     ゆっくり走る馬程度の速度で石畳の上を滑るタレメルはすっかり近所の風物詩になり、渋る賢者を説き伏せてその胴に描いたパンの絵と店の名前によって宣伝効果も上々。
     旅籠屋が一件、飲食店が二件。それから馴染みの客の家を回って、最後の目的地に向かう路地の角を曲がった所でナリオは眉をひそめた。
     ――馬車が一台、路肩に停まっていた。
     それも乗り合い馬車や貨物馬車の類いではなく、幌には文字を連ねて描かれた老人の横顔……「塔」の紋章。背筋を伸ばして座っている御者の服にも糸屑ひとつ無く、賢者の塔でもそれなりに高い身分の人間が乗るものだという事はナリオにも明白だった。
     馬車を横目に眺めながらタレメルを停止させ石畳に靴裏をつけたナリオは、タレメル使用後の独特の浮遊感に頭を振りながら石段を登り屋敷の玄関へと向かう。ノッカーに手を伸ばしたところで内側から扉が開き、脇に退いたナリオの鼻先をつんとした匂いが通り抜けていった。
     フードを目深に被ったその人物は性別すら定かではなかったが、その身体から漂う匂いには覚えがあった。鼻を突くような、けれど後には残らない、悪い感じはしない匂い……。
    「……ナリオ?」
     嗅ぎ覚えのある匂いを記憶の底から掘り起こそうと瞳を細めて外套姿の背を見送っていたナリオは、横合いからかけられた声に振り返る。扉を片手で支えたまま怪訝そうな顔でナリオを見詰める屋敷の主、……クティルカが、白いカーディガンを羽織って所在なげに立っている。
    「ん、ああ、配達のついでに寄ってみただけ」
     あとそろそろジャムが切れる頃かと思って、と抱えた紙袋を揺らしたナリオにほっと笑みを浮かべ、クティルカは屋敷の中へと彼を招き入れた。
    「お客さんが来てたみたいだな」
    「うん……古い知り合いが、ね」
     居間に通され紅茶を出されてから口を開いたナリオは、先の客人についてクティルカの口が重い事に気付いて、そしてその事にもやもやとしている自分に気付いて憮然と唇を引き結んだ。
     ――ナリオとクティルカはこうしていれば然程年も変わらないように見えるが、実際はクティルカの方がかなり年上だ。初めてクティルカに会った時、ナリオはまだパン生地もこねられない子供だった。
     ……あの時の初恋を、ナリオは忘れられずにいる。ずっと。
    「リリィベリーのジャムね、おば様のジャムで私これが一番好き」
     紙袋からジャムの瓶を取り出し中身を透かし見るクティルカの横顔を見詰めるナリオの、その目があたたかで尊い何かに満たされている事を、クティルカは随分昔から知っている。
    「ルカ」
     呼ばれて振り返ったクティルカは、何かを思い出すように眩しげに瞳を細めた。
     ――ぼく、おっきくなったら、るかねぇをおよめさんにする。
     ふいに甦った幼い己の声に、ナリオは喉仏を一度上下させてから息を吐き出す。言うべき言葉を見失った末に紅茶を飲み干して、
    「おかわり、貰えるか?」
     片手でカップを持ち上げてみせながら、……ああ、さっきの匂いはシナモンか、と今更ながらに考えていた。
    新矢 晋 Link Message Mute
    2019/01/04 23:40:26

    となりのおにんぎょうさん ※執筆中

    #小説 #オリジナル #ファンタジー
    賢者の街で暮らす、世界で唯一の生き人形の話。

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