闇を歩く獣 ヘルムートの目を黒い帯が覆う。それをしっかり後頭部で結んでずれないようにしているのは、ヘルムートの後輩であり優秀な黒騎士でもあるサイモンだ。出来ました、と囁いてから一歩下がる。
「うん、全然見えない」
満足げに口角を上げながら周囲を見回すように顔を動かしたヘルムートは、己の前に並ぶまだ少年の名残が抜けきっていないような騎士見習いたちの方へ顔を向けた。見えていない筈だ。見えていない筈だが、その動きに迷いはない。
「じゃあ今からお前たちにはこの建物の中で俺から逃げてもらう。夕食の鐘が鳴った時に一人でも捕まっていない人間がいればお前たちの勝ちだ」
勝利条件はかなりやさしいように聞こえ、見習いたちはほっとしたような空気を出したが、サイモンはこっそり溜め息を吐いた。……あの時の俺たちも最初はそう思った。
「この建物から出さえしなければ逃走方法は問わない。隠れてもいいし走ってもいい、俺を攻撃しても構わない。笛を吹いたら開始だ、十数えた後に俺も出る」
僅かに後ろへと顔を向けヘルムートが頷くと、サイモンが笛を取り出し口に咥えた。見習いたちを見渡して軽く顎を引き、そして、高い音が周囲に響いた。
その視界は闇に閉ざされているというのに、ヘルムートの足取りには不安など微塵も感じられない。片手を前に伸ばして壁に這わせるようにして歩きながら、時折頭を傾げて周囲の音や気配を探る。その後方には、邪魔にならないように気配を極力消したサイモンが随伴している。片手に時間を計測する特別な道具、もう片方に見習いたちの名簿を持っている。
廊下を進んでいたヘルムートは、不意に扉の前で足を止める。扉を撫で、ゆっくりしゃがみ込みながら扉と壁との境に指を這わせる。そして立ち上がり、扉を静かに開いた。埃っぽい空気が鼻先を擽る。
その部屋は棚が幾つも並んでいる物置だった。その棚に手を這わせながらヘルムートは足を進める。サイモンは部屋の入り口で待機し、暗闇に目を懲らした。目隠しをしているヘルムートよりははるかにその視界は開けているが、灯りもなく窓も閉め切られた倉庫の内部を見通すことは出来なかった。
はー、とヘルムートが長く息を吐く。ゆっくり顔を動かし、まるで見えているかのように周囲を見回す。肌に触れる空気の流れ、指先の感覚、全身の感覚器を使って闇を探っていたその男は不意に足をはやめた。足音を高く響かせ大股に向かう先で、何かが動いて離れていく。たまらず逃げ出す何者かがそこにいた。下策だ。じっとしていた方がまだチャンスはあっただろうに。
逃げる何者かは時折棚にぶつかっていたが、ヘルムートはほとんどぶつからずに進んでいた。何者かが棚にぶつかる度ヘルムートの捕捉が精度を上げ、部屋から飛び出そうとした時にはもう手遅れだった。
「はい、捕まえた」
部屋から出た瞬間後ろから突き倒して組み伏せた相手の腕を後ろに捻り上げ、引き摺り立たせる。その顔をヘルムートの背後からサイモンが確認した。手元の名簿と見比べ、ペンを走らせる。
「ジョーイ・ロッソ、147ミニット」
目を封じているヘルムートの代わりに記録係を任せられているサイモンは、名簿を捲り残りの人数を数えた。もう片手で足りるほどしかいない。目隠しの上から目元を揉み、ヘルムートは溜め息を吐く。
「あとの三人、多分建物を出てるな」
「ルール違反ですね」
「こういうやんちゃ坊主は毎年いる、どこかの誰かさんみたいにな。……まあ、『ルールを破るな』ってルールはないからなあ」
とはいえ、と言いながらヘルムートはどこか楽しそうに口角を上げた。サイモンはそれを見て僅かに目を細め、こういう時のこのひとはろくなことをしないのだ、と思いながら言葉の続きを待った。
「向こうがルールを破るなら、こっちも反則しようかな。サイモン、『テッド』を連れてこい」
「……ああ……わかりました」
ヘルムートの意図を理解したサイモンは内心見習いたちに同情しながら、「彼」を連れてくるべく駆け出した。……そして少しの後、「彼」を連れて戻ってくる。
黒々とした目、聡明そうな鼻筋に、大きな三角形の耳。ふさふさとした大きな尻尾を振りながらヘルムートを見上げるのは犬に似た小型――といっても後ろ足で立ち上がるとヘルムートの肩くらいまでの大きさはある――の幻獣スコルである。ぴしりと背筋を伸ばした状態で座っている彼に手を伸ばし、その鼻先が触れてきたのを確認してからヘルムートは小さく笑う。
「テッド、探し物を頼みたい。出来るな?」
わふ、とほとんど犬と同じ鳴き声で返事をしたその幻獣へ満足げに頷いてから、ヘルムートはサイモンに手招きをして呼び寄せる。その手を無造作に――見えていないとは思えないほど迷わず――掴むと、スコルの鼻先に近付ける。
「こいつと俺『以外』の人間を探すんだ。捕まえなくていい、見付けたら止まれ」
サイモンの手に鼻先を近付けてから、スコルはまたわんと鳴いた。
「よし、歩け」
言葉と同時に歩き出すスコルと、ついていくヘルムート。先ほど掴まれた手を握ったり開いたりしながらその後に続くサイモンは、自分がこの訓練を受けた時のことを思い出していた。まだ生意気盛りの見習いだった己を追ってきた彼は獣のように敏感で俊敏だった。恐怖さえ感じた。
そして今、九年経っても彼はまだ衰えを知らず――実際には衰えもあるだろうがそれを誰にも見せず――、こうして毎年見習いを追い立てては楽しげに笑っている。今のサイモンはそれから逃げるのではなく、背を見る立場だ。
――九年。九年か。
サイモンが騎士として過ごしてきた日々は長く、そして短い。優秀な黒騎士である筈の彼がその九年間誰にも見せずに抱えているものを、多分、彼自身すら持て余している。
「サイモン?」
不思議そうな呼びかけに、はたとサイモンは顔を上げた。大分先まで進んだヘルムートが足を止めて振り返っている。すみません、と足をはやめたサイモンは、ふるりと頭を振って脳裏に浮かびかけたものを追い払った。
彼の絶望/希望は、彼とよく似た顔をしている。