S06【黒聖母侵襲事変】クレイン編◆邂逅
中央区に存在するとある小規模な教会の主は、クレイン・オールドマンという名の神父である。彼は常に各地を飛び回っているため留守がちであったが、ここ最近は中央区にいることが多く、教会にもほぼ常駐していた。
その教会に、最近居候が増えた。落ち着いた、地味な雰囲気の中年男性である。クレインの友人であるということになっている彼は、実のところは天使であり、クレインに加護を与えている存在でもあった。
その彼がなぜ居候などということになっているのかといえば、クレインが彼の危機管理の甘さにしびれを切らし、情勢が落ち着くまでは自らの目の届く範囲で保護すると言い出したからである。なにせ彼が……チュス・レオーネがつい先だって“ラヴェンダーの涙”に拿捕されていたのは事実である。それを盾にこんこんと諭すと最終的には彼も折れ、クレインの教会への一時的な引っ越しを了承したのだ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
この家族のようなやり取りにも少し慣れてきていた頃、クレインはこの辺りを取り仕切る大規模な教会の寄り合いに呼び出され、早朝から出掛けることとなった。嫌な予感しかしない、と思いながらも速やかに目的地を訪れたクレインは、そのまま大会議室へと通され、この辺りの教会に所属する聖職者たちがかなりの数集まっていることにますます憂鬱な気持ちになった。今度は一体何が起こったというのだ。
「『黒聖母』ですか……まさか実在するとは」
「あれは聖母などではない、単なる化け物だ!」
「愛を騙り、救いを騙るあれに惑わされてはならない。まことの聖母であれば、見る者に合わせて姿を変えて誑かすような真似をする必要はない筈だ」
「一刻も早くあれを打倒せねば。これ以上人間が脅かされるようなことがあってはならない」
黒聖母。“ラヴェンダーの涙”がそう呼称する存在が実際に現れた、という事実に対する聖職者たちの反応は様々だったが、表情は一様に硬く、ある者は苛立ち、ある者は憔悴し、ある者は沈痛な面持ちをしている。クレインはその一角で、じっと己の指先を見詰めて考え込んでいた。
――救いを求める者の前に現れる黒き母。それを目の当たりにしたとき、果たして自分は拒むことが出来るのだろうか。いや、拒まなければならない。俺は戦い続けると決めたのだから。そうしないと生きていけないのだから。……話し合いが終わる頃、クレインは己にそう言い聞かせながらロザリオを手繰ると強く握り締めた。
その後自分の教会へと戻ってきたクレインは、ただいま、と言いながら教会内へと足を踏み入れた。礼拝堂を通り過ぎようとしたところで、祭壇の敷き布が曲がっていることに気付いて足を止める。そっとそれを直し、軽く祈りを捧げてから再び足を進めようとして、……足が止まった。入り口の方から風が吹き込んできたような気がしたのだ。
振り返ると、そこに立っていたのは見知らぬ女性だった。落ち着いた雰囲気で聡明そうな、クレインとそう年の離れていないだろう女性である。白いヴェールを頭から被り、濃紺の外套を羽織っている。クレインの姿を見ると、女性は柔らかく微笑んだ。
「ようこそ、神の家へ。……何かご用ですか」
――跪いてその足下に縋りたい、あるいは、その胸に抱かれたい。
一瞬頭を過った思考に動揺しながら、クレインは女性へと声をかけた。女性は僅かに首を傾げてから、両腕を少し広げる。
「おいでなさい」
その唇を震わせたのはとても優しく甘やかで抗いがたい言葉。クレインは頭が揺らされたような感覚をおぼえた。女性へ向かって足を踏み出しかけるも何故だか嫌な予感がして立ち尽くすクレインへと、女性の方が歩み寄ってくる。
「かわいいこ、こちらへおいで。ははがだきしめてあげる。すくってあげる」
クレインは母親を知らない。物心つく前に教会の前に捨てられたからだ。クレインを拾った神父はよきひとであり、クレインは彼のことを愛する父だと思っているが、母となってくれるひとはクレインの周りにはいなかった。
――母というものがいたらきっとこんな風に手を差し伸べてくれる。愛してくれる。救ってくれる。
跪いたクレインの頬へ、女性の手が触れた。
家主が帰ってきたような気がして、チュスは料理の手を止めた。客なのだからゆっくりしていればいいと言われてはいたが、なにもせずに過ごすというのは彼にとって苦痛だったのだ。加えてクレインはいつも忙しそうな様子で――教団の件の始末はまだまだ終わりそうにないらしい――、この上自分のもてなしまでさせてしまうのは負担が大きすぎるとも思われたからである。
居住スペースから礼拝堂の方へ向かうと、何やらひとが会話しているような気配がする。中を覗くとクレインらしき人物の背が見えたが、様子がおかしい。
なにか、黒い布のようなものが跪く彼に覆い被さっているように見えた。
しかしそれは瞬き数度のうちに消え、今度は若い娘の姿が見えた。跪いているクレインの頬に手を添えて上向かせ、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた顔を近付けていくその姿は本来ここにあるべきものではなかった。
「ミーナ……!?」
死んでいる。彼女はとうの昔に死んでいるのだ。ここにいる筈がない。チュスの足が凍り付いたように動かなくなったが、さきほどからクレインがぴくりとも動かず――いや、よく見ると小さく震えている――娘の接触を受け入れていることに強い違和感を覚えて無理矢理足を動かした。
娘がなにかクレインに囁いている。口付けでもするかのような距離で、なにかを説いている。その唇がクレインに触れようとした瞬間、チュスの背がぞっと粟立った。
「やめなさい!」
咄嗟に叫んでしまった理由はわからない。だが「それ」に触れてはいけないということだけはなぜかわかった。
びくりと肩を跳ねさせたクレインは我に返ったかのように娘を突き飛ばし、チュスは二人の元へ駆け寄った。そして彼と彼女を見比べ、……既に死んだ大切なひとではなく、青ざめ震えている友人をかばうようにその背に隠した。
娘はいつの間にか無表情にチュスを見詰めていた。それから、その背に守られているクレインが怯えるような目で自分を見ていることを確認し、ふるりと頭を振ると床へ沈み込むようにして消え去った。
突然響いた声にクレインが我に返ったとき、女性の顔が目の前にあったため反射的に突き飛ばしてしまった。そして現れた友人の姿に、彼が自分を守るように立ちはだかっていることに気付いた時には、女性の姿は消えていた。
「クレインくん、大丈夫か」
気遣わしげな声が降ってきた瞬間、クレインの目に涙が滲んだ。落涙するには至らなかったが、両手で顔を覆って溜め息を吐く。
「……吹っ切れたと、思っていたんです……なのに、あんな……あんなのは暴力よりひどい……」
ゆるゆると手を下ろし、じっとその掌を見ながらクレインは独白とも何ともつかない言葉をこぼし続ける。チュスは黙ってそれを聞いていた。
「『救ってあげる』と言われて……彼女の手を取りたいと思ってしまった……俺は、どうして、こんなに」
……こんなにも、弱いんだろう。手の震えを押さえ込むように強く拳を握り、それからクレインはチュスを見上げた。
「……ありがとうございます、チュス……貴方がいなかったらどうなっていたことか。先程のあれは……あれが、『黒聖母』なのでしょう。救いと愛を説く……化け物だ」
――救いを。なにより深い母の愛と安らぎを。それを得たとき、俺はもう戦えなく(いきていけなく)なるだろう。
「戦わなければ。……あれをあのままにしておいては、きっとよくないことが起こる」
立ち上がるクレインの足取りは少しだけ覚束ない。迷いと恐れが滲んでしまっている。
「貴方はここか……以前紹介した彼のところへ避難していて下さい。天使が襲われたという情報も入っているので、くれぐれも気をつけて」
チュスを見る暗い緑色の目はもう濡れてはいないものの、灯がともってはいなかった。