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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    Blood Queen01.非日常的な日常02.鈍色の剣03.血塗れの天使04.造られた仔05.うたかた 壱06.緑の瞳07.薔薇が一輪08.はがれてゆく09.うたかた 弐10.宴前夜11.宴 ―使者天使×闇―12.宴 ―大将天使×光―13.宴 ―守護天使×鴉―14.宴 ―門番天使×剣―15.宴のおわり16.器17.彼女の手紙18.うたかた 壱之続19.取り戻すべきもの20.貴女のために出来る事21.しあわせになりたい22.焔23.見えないもの24.歯車は廻る01.非日常的な日常 風に弄ばれる黒髪を片方の手で押さえ、彼方を眺めて嘆息する女。切れ長の瞳に、瞬きをする度長い睫毛が影を落としていた。
     ――僅かに漂う、血の、香り。
     女は瞳を細めて彼方を眺めていた。立っているのは洋館のテラス、見下ろす彼方は洋館の周囲を囲む森の中。
     ――森のあちこちで、戦闘が行なわれている。それは、この洋館を攻めようとする者達と、それを阻もうとする者達の。今のところは、後者が優勢のようである。
    「環希さん」
     突然響いたのは、低く落ち着いた男の声。環希と呼ばれた女がそちらに視線を流せば、テラスに足を踏み入れる一人の男。仕立ての良い上品なスーツに身を包んだ、中年の。恐らく三十歳前後だろう、落ち着いた風貌。
    「……政臣、部屋に居ろと言っただろう」
     嘆息しながらの言葉にも、男――政臣は柔らかな笑みを浮かべるばかり。環希が頭を振ってテラスの手摺りにもたれかかろうとすれば、彼の腕がさり気なく彼女の腰に回り抱き寄せられた。
    「……政臣」
     環希の声音が剣呑さを帯びても、怯まない。それどころか、その顔がゆっくりと近付けられる。
     環希が口付けの気配に半ば諦め、応えようと瞳を閉じた、その瞬間。
     ――敵奇襲部隊、『門』突破!
     それは女王―環希の頭にだけ響く声。女王のしもべ、『従僕』の声。
    「政臣、下がっていろ」
     政臣から身体を離し、庇うように数歩足を踏み出す。それに、彼は困ったように呟いた。
    「環希さん、さすがにそれは情けないんだけど……」
     それを黙殺し、周囲の気配に全身を耳にする、ように。――空気が、変わった。
    「……来る」
     呟きに、政臣が問い返す暇すら無かった。『それ』は一陣の風、否、嵐。
    「が、っ!」
     その嵐に政臣は成す術も無く薙ぎ払われ、手摺りに背中を強かに打ち付けそのまま倒れこむ。
     一方の環希は、その嵐――見た目は未だ年若い青年に、首元を掴まれ壁に押し付けられていた。
    「女王の騎士が種馬一人たァ、お粗末なんじゃないか?」
     青年の目が細められ、唇が歪められ、笑みを形作る。その笑みは普通の人間がするのとほぼ同じものだったが、決定的に違うものが一つあった。それは、額にて、やはり笑むように細められた第三の目。
    「……躾がなっていない従僕だな、百瀬の家も堕ちたものだ」
     環希の言葉に、青年がその手に力を入れた。――少しずつ、気管が締め上げられてゆく。
    「今の立場わかってるの、女王様? アンタを殺せばあの吸血鬼どもも無力化するし、紅の家も滅ぶ。アンタ達が守り続けてきた栄光も終わりだ」
     くらり、と環希の視界が霞む。伸ばした手は爪先で青年の手に傷を付けただけ。
    「環希、さ……」
     倒れていた政臣が、擦れた声で彼女の名を呼びながら立ち上がろうとするが、叶わない。それを視界の端で捉えた瞬間、環希の頭に響く、声。
     ――敵確認、迎撃開始許可を……
     力の入らない手を伸ばし、親指で地面を指す。……地獄へ落ちろ。
     次の瞬間、どっと肺に流れ込む空気にむせ返る環希。解放され座り込む彼女の目前で、青年は、忽然と消えた己が両腕の肘から先を見つめ、それから背後を振り返った。
    「馬鹿につける薬は無いな。百瀬の従僕風情が御館様に手を出すなど、正気の沙汰とは思えん」
     古風な言い回しをする低い声。まるで喪に服しているかのような古臭い漆黒のスーツを身に纏い、片手には冴々と光る日本刀を持った壮年の男――否、女王の従僕である吸血鬼。その足元には、肘からすっぱりと切断された片腕が転がっていた。
    「その通り。馬鹿だよねー、アンタもさ」
     軽薄な調子の声。そこかしこにジャラジャラとぶら下げられた鎖やアクセサリー、様々な色の筋が入った銀髪、夜闇にも浮かび上がる派手な若い男。同じくこちらも吸血鬼。やはりその足元には本来の持ち主から切り離された片腕が転がっていたが、こちらは肘の辺りで捻り切ったようである。
    「な、……!」
     一度に両腕を失った青年は、酸欠の魚のようにぱくぱくと口を動かし、青ざめた。痛みよりも、驚愕と……恐怖。絶対的強者への、恐れ。
    「御館様に……紅家に剣を向けるという事がどういう事か、その身に刻み込んでやろう」
    「首でも送り付けてやればイイんじゃない? 二度と噛み付いてこようとは思わないだろうよ」
     目の前で交わされるやりとりに、青年はじりじりと後ずさる。だが、それを見逃すほど、この従僕達は間抜けではない。
    「逃がさない」
     二人の声が、重なって。死体が一つ、転がった。
     それから従僕達は主人の……女王の方を振り向く。
    「大丈夫ですか、御館様……あぁ、首に跡が」
     壮年の従僕が環希の前に屈み、落ち着いた声音で淡々と世話を焼き始め、
    「マスター、どうするんスかこれ。埋葬してやる義理も無いですよねぇ?」
     派手な頭をかきながら、もう一人の従僕が死体の前にしゃがみ込む。
    「私は大丈夫だ。その馬鹿者は、棺桶にでも入れて百瀬の家に送ってやれ」
     環希は少しだけ擦れた声で、それでもはっきりと、命令し慣れた様子で言葉を紡いだ。それから視線を動かし、座り込んで己の脇腹に手を当てている男――嵐に吹き飛ばされた、政臣――を見やる。
    「政臣、平気か?」
     環希が歩み寄るのに、政臣は手を振ってみせる。いつもと同じ、穏やかな笑みを浮かべて。
    「ああ、大丈夫。……自分で帰れるから、環希さんはお勤めに行っておいで」
     環希は僅かに眉を潜めたが、それも一瞬。「そうか」と短く呟いた後、きびすを返してテラスを後にした。二人の従僕もそれに続く。
     一人残された政臣は溜め息をついた。背中から脇腹にかけてが鈍い痛みを放っている――二、三本骨に罅が入ったかもしれない――。
     服のポケットから携帯電話を取り出し、何処かへ連絡する政臣。電話し終わって携帯電話を仕舞い込むと、再び深々と溜め息をついた。
     ――情けない。相手がバケモノだったとはいえ一回り以上年下である彼女一人守れず、なけなしの自尊心を守る為に、実際は立ち上がる事すら出来そうにない癖に余裕があるように振る舞う……この強がりだって、きっとあの従僕達には気付かれている。
     政臣は痛みを堪えながら、天を仰いだ。……少し待てば部下が来る筈だ。それまでは、それまでは少しだけ、弱気になっていよう。
    02.鈍色の剣 ずきん、と男の脇腹が痛んだ。彼――政臣は、僅かに表情を歪めて、手に持っていた一枚の紙を机の上に置いた。
     机の上には、他にも沢山の紙が並べられており、白々とした蛍光灯の光に照らされてそこに書かれた文字を浮かび上がらせていた。……予算申請、業務報告、企画案件、等々。
     綾乃小路家は、綾乃小路グループを全国規模で展開させている。その一部、綾乃小路電子の代表取締役が彼、綾乃小路政臣である。
     ――闇に沈み、人外達を従える紅家。それとは裏腹に、陽の光のあたる場所で権力をふるう綾乃小路家。一見、後者が表舞台の役者のようだが、事実は違う。綾乃小路家は、紅家が闇に沈みやすいようにする為の身代わりに過ぎない。
     政臣が、脇腹の痛みを堪えながら再び書類を手に取った時、部屋の扉がノックされた。彼が短く返事をすると、スーツを着た若い女が部屋に足を踏み入れた。
    「社長、お薬をお持ちしました。……少しお休みになられては?」
     女がグラスと水差し、粉薬の包みを机の上に置きながらそう言うが、政臣は唇を僅かに歪めて皮肉げな笑みを浮かべた。
    「休む? ふん、お前達が無能だから、僕はおちおち休んでもいられないのだろうが」
     粉薬を水で流し込み、再び書類に目を落とす。拒絶する空気。女は一礼すると、静かに部屋を後にした……が、少しも経たない内に再びノックの音。
     政臣が不機嫌な声で返事をすると、扉を開いて部屋に入ってきたのは、少なくなり始めた頭髪を後生大事そうに撫で付けている中年の男。
    「社長、太陽鉄鋼の社長が来ていますが……」
    「追い返せ」
     書類から顔すら上げず、言い捨てる政臣。それに男が何やら口を開こうとしたが、それに重ねるように、
    「あそこを切るのは決定事項だ。家族がどうの、従業員がどうの、その類の台詞は聞き飽きた」
     冷たく言い放つ。その瞳には一切の揺らぎも同情も憐愍も存在していない。それに男は慣れた様子で一礼し、部屋を後にした。
     漸く一人になった政臣は、小さく溜め息をついた。彼も人の子である、情が存在しない筈が無い。だが、綾乃小路たる者、保身は紅を守る事にも繋がるのだから、躊躇も容赦もしてはいられない。……紅の女王、環希の婚約者としては尚更だ。
     政臣は、環希を守る為にバケモノを切り伏せる事は出来ない。ごく普通の人間に過ぎない彼は、いざという時、肉体的な剣となる事は出来ないのだ。……大分弱くなったものの、未だ脇腹が疼いていた。
     だから彼は――政臣は、自分に言い聞かせる。敵を物理的に切り裂く銀色の剣になれないのなら、敵たり得る者を絡め手で葬る鈍色の剣になれば良いと。……幸いと言うべきか、紅家の従僕である吸血鬼は、肉体的にも精神的にも直接戦闘向きの種族である。だから、肉体的な守りについては然程心配は要らないのだ。
     政臣が書類に目を通しながらとりとめのない思考を巡らせていると、みたびノックの音。扉を開いて部屋に足を踏み入れたのは、先程薬を持ってきた若い女。
    「……今度は何だ」
     不機嫌を声で表現すればきっとこうなるだろう。地を這うような声音で紡がれた政臣の台詞に、女は顔色一つ変えずに答えた。
    「紅家当主様がおいでになりましたが、如何なされますか?」
     ……返答など聞くまでもない。疑問文にする必要すらないだろう。女の言葉を聞いた途端、政臣は書類を机の隅に纏め、机を離れた。
    「通してくれ。……彼女が帰るまでは誰も通さないように」
    「了解しました」
     女が一礼し部屋を出てから少し、戻ってきた女はもう一人の女――紅の女王、紅環希を連れていた。
    「いらっしゃい、環希さん。……どうしたの?」
     明らかに豹変する政臣の態度。先程までの、苛ついた冷たい空気は一気に霧散し、環希を見やる瞳は愛しげに細められている。
     対する環希は別段普段と態度を違える事も無く、扉を入った所から動かないまま口を開いて、
    「近くに用があったから寄っただけだ。忙しいようだな、じゃあこれで……」
     そう、きびすを返そうとする。それを寸前で阻んだのは、素早く距離を詰めて、彼女を背後から抱き寄せた政臣だった。
    「つれないなぁ……久しぶりに会えたっていうのに」
    「三日前に会ったばかりだろう」
    「三日前に会ったきり、だよ」
     抱き締める腕を緩める素振りすらない政臣に、呆れたような溜め息をつきながらも抵抗しない環希。……彼女をこの部屋まで連れてきた女はとっくに退室している為、人目も無ければ止める者も居ない。
    「……ねぇ、環希さん」
     環希の耳元で熱っぽく囁く政臣、
    「予想は付くが一応聞いてやる、何だ?」
     今にも溜め息を吐きそうな風に問い返す環希。
    「……して、いい?」
     後ろから環希の顎を持ち上げて、覗き込むように、唇が触れ合う寸前まで顔を近付けて。囁く、政臣。
     環希は今度こそ盛大に溜め息を吐いたが、近付けられた顔から逃れようとはしない。
    「ここで私が拒んでも、うまくいった試しが無いんだが?」
     ふ、と。その言葉に政臣が黙って笑みを浮かべ、触れるだけの口付けを落とした。
    「……嫌じゃないよね?」
     自信に溢れたその台詞に、思わず口籠もる環希。政臣は益々笑み深く、角度を変え深さを変え口付けを降らせて……少しずつ、彼女を甘やかな夢へ堕としてゆく。
     かくりと環希の膝が折れて、政臣はその彼女の身体を抱き上げる。――向かうのは、直ぐ隣の部屋、彼の寝室。
    03.血塗れの天使 血と、雨と、鉄と、硝煙の匂い。悲鳴と、怒号と、断末魔。
    「父と子と精霊の御名において、以下略!」
     よく通る男の声と同時、閃光と轟音が奔り、次の瞬間そこ――森の中にぽっかりと開いた……開かれた空き地――には原型を留めていない肉塊。
     表面が吹き飛ばされた地面に降り立つのは、純白のロングコートを羽織った男。甘めの、人好きのしそうな顔立ちと対照的に、その手に抱えられていたのは巨大で武骨な鉄の塊――のような、長銃――。
    「エイメン、っと」
     男は胸元から引っ張りだした銀のクロスで適当に十字を切り、頭上を仰いだ。鬱蒼と茂る木々の合間からのぞく、漆黒の空。
    「……そろそろ近い筈なんだけどなぁ。いい加減飽きたよ、」
     愚痴りながら銃口を背後に向けて引き金を引く。――轟音がした次の瞬間、頭を吹き飛ばされた死体が一つ、転がった。
    「……吸血鬼共をブチ殺すのも」
     は、と吐息をひとつ。男の青灰色した瞳が細められ、木々の間を通り抜ける風に、褪せたブロンドが揺れた。
    「何処に居るのかなぁ、『女王』は」
     ――その同刻、少し離れた場所にて。
     森を行く女――女王、紅環希を取り巻くのは、その忠実な従僕達。
    「三人……いや、四人死んだ」
     息を整えながら呟く環希。――主人と従僕は繋がっている。一方が傷ついたり死んだりした場合、もう一方に伝わる事が多いのだ。
     従僕から差し伸べられた手を無視し、悪路を歩き続ける環希。その背に――さむけ。
    「!! お前達、避け……!」
     ――閃光。轟音。
     一瞬の後、木々の皮が弾け、地面は吹き飛び、周囲には火薬の匂いと――血の、匂い。
    「ったく、森ン中で無茶しやがる。大丈夫ですか、マスター?」
    「……問題ない」
     今この瞬間に吹き飛ばされて肉塊になった従僕達の痛みの何割かをその身に受け、蒼白になりながら頭を振る環希。その体は森の中から飛び出した一人の若き従僕――ダークに抱えられ、突如出現した惨事の範囲からは辛うじて外れていた。
     そしてその惨事――強制的に作られた空き地に、大量の肉片や血が飛び散っている――に舞い降りる、純白の衣に身を包んだ天使……否。
    「女王発見。……やぁっと見付けた」
     翼と見紛ったのは巨大な長銃の一部、純白に見えたロングコートには沢山の紅斑模様。
    「げ、『ミカエル』かよ……!」
     使徒の一人、天使軍軍団長の名を冠する男。その姿を認め、あからさまに顔をしかめるダーク。
     ――『使徒』。その皮肉めいた名で呼ばれる彼らは、闇の眷属に対する戦闘に長けた集団。中でもトップクラスの実力を持つ者は、天使の名を冠している。
    「久しぶりだね、ダーク。……君の所の女王様を渡してくれないかなぁ」
     ガシャ、――ン。銃を構え、安全装置を外し、笑みを浮かべながら使徒ミカエルが口上紡ぐ。
    「できれば君とは戦いたくないんだ。……君の顔に傷でもついたら大変だし、ね」
     ミカエルが瞳を細め、ダークを見つめながら言うのに、
    「手前ェの都合に誰が合わすか、この変態が」
     ダークは顔をしかめたまま、吐き捨てるように言い返す。
    「あは、手厳しいなぁ。それじゃあ……」
     ――銃声、一発。
     ダークの隣に生えていた木の幹が、弾けた。
    「少し手荒になるけど、許してくれよ?」
     柔らかく笑いながら。未だ熱冷めやらぬ長銃を構え。ミカエルが一歩踏み出した、その瞬間。
    「……!」
     ミカエルが一足飛びに後ろへ飛び退いた。刹那、先刻まで彼が居た場所を薙ぐ銀色の光。
    「ほぅ……今のを躱すか」
     ダークとミカエルの間に突然現れたのは、――漆黒。未だ消え切らぬ霧を纏い、鈍銀色に煌めく片刃の剣――冷気纏うように冴々とした一振りの日本刀――を構えた喪服の吸血鬼、カラス。
    「……久しぶりに楽しめそうだな、『烏天狗』」
     囁きに答えるように、刀の刃が鈍く煌めいた。
    「ははっ……やっぱり来たか……」
     じり、と間合いをはかるように後ずさる、ミカエル。落ちていた小枝を踏み折る音がして、その、刹那。
     ――ギィン ッ!
     金属が噛み合い、厭な音をたてる。カラスの刀が、とっさにかざしたミカエルの長銃と。
    「……じゃ、後は頼んだぞ!」
     その隙を突いて、環希を抱えたダークが森の奥へと姿を消す。
    「ああっ、ダーク!」
    「……余所に気を取られている余裕があるのか?」
    「くっ……!」
     苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら、ミカエルはその巨大な長銃を構え……カラスは、黙って半身を引き構えた。
     ――それから数刻後。焦ったような、怯えるような男の声が響いた。
    「なんでっ……どうして倒れないんだよっ……!」
     熱を持ち、銃口から薄らと白い煙を立ち昇らせる長銃を構えた使徒ミカエル。
    「聖遺物を錬り込んだ銃弾だぞ? 普通なら掠めただけで消滅なのに……!」
     それと対峙するのは従僕カラス。悽絶な笑みを浮かべ、言葉紡ぐ。
    「結構痛いぞ? ……普通の銃弾では私に傷すら付かないのだ、これでも十分だろう?」
     ――刀を持つ腕は何発もの銃弾を撃ち込まれた所為で千切れかけ、身に纏う喪服は殆ど原型を留めておらず、それでも立ち続ける、カラス。
    「……くそッ!」
     なおもミカエルが銃の引き金を引こうとした、その、刹那。――カラスの姿がミカエルの視界から掻き消えた。
     そして。
    「お休み、使徒ミカエル。……なかなか楽しめた」
     ミカエルの背後で銀色が閃き、致命的な疾さで刄がその命を刈り取ろうとした、瞬間。
     ――ギィ ン……!
     金属同士の噛み合う高い音。
    「ダメだよぅ、ミカりん殺しちゃ」
     この場に不似合いな、幼い少女の声。カラスの刀を止めたのは、突然現れた少女だった。年の頃は十四、五、たっぷりとフリルの付いた華やかな洋服に桜色の髪が映えていたが……不釣り合いなのは、その両手に一振りずつ握られている短剣。右手のそれで、カラスの刀が止められていた。
    「ガブリエル……!」
     自分と同じく『使徒』の一人である少女の姿を見、驚きの声をあげるミカエル。
     少女……ガブリエルはミカエルの腕を掴むと、カラスにウィンクをしてみせた。
    「ごめんね、オジサマ。ミカりん連れてくから」
     噛み合ったままの刄を滑らせて、カラスの刀を受け流し。ミカエルと共に一足飛びに間合いを広げ、木々の間へと姿を消すガブリエル。
     残されたカラスはそれを深追いしようとせず、取り出した懐紙で刀を拭ってから仕舞い、一つ溜息をついた。
     ――それはどこか熱に浮かされるような、興奮を抑えきれないような……そんな、吐息。
    04.造られた仔 紅家本邸、地下。何処か緊張した面持ちである部屋の前に立つ女王、環希。その背後には影のように佇む従僕カラス。
     扉にかけられた仰々しい鎖と錠を外し、環希はゆっくりとその扉を開いて部屋に足を踏み入れた。その後ろで、カラスは深々と頭を下げた。
    「どうかお気をつけて……」
     それに応える声は無く、扉が静かに閉まる。廊下に一人残され直立不動、カラスは僅かに俯いて、幸運を祈る文句を短く呟いた。
     ――そして、部屋の中で従僕の『作成』が始まった。
     薄暗い室内で蝋燭の火が揺れ、床に処女の血で画かれた魔法陣の中央には生け贄の兔。……では無く。部屋の中は明るく蛍光灯で照らされ、床は真っ白いタイル張り。壁ぎわに幾つもの奇妙な機械が設置されていた。
     水晶と鋼と黒耀で作られたその複雑な機械は、環希が歩み寄ると、まるで目覚めたかのように低い唸りをあげた。
    「……モード01、『新規作成』」
     環希の声に反応し、機械はその表面の硝子板をスライドさせた。そして現れたスペースの中にあったのは、何本ものコード。その内の一本を、環希は手に取った。
     それから片手で自らの長い黒髪を纏め上げ、あらわになった白い首筋、そこにコードの先端を押し付ける。
     ――ず、ず。
     コードの先端から現れた針が、首の奥へと潜り込んで『接続』してゆく。環希は僅かに眉を歪め、その異常な感覚に耐える。
     完全にコードとの接続が完了すると、環希は傍らの椅子に腰掛け、一言呟いた。
    「開始」
     途端、機械の唸りが変わる。高く低く、ごうごうと鳴くように。そして、環希から機械へ、コードの中を流れてゆく液体……深紅の血潮。それが向かう先は、部屋の中央に据え付けられた大きな円柱状の水槽。水槽の中には、透明な液体が満たされている。
     ――作業が進むにつれて、水槽の内部に変化が訪れた。水槽の中心部の液体が泡立ち、そこに小さな肉塊のような物が生成されたのだ。肉塊は見る間に大きさを増し、その正体を明らかにした。それは、……胎児に酷似していた。
    「…………」
     環希は、自らの体内から血液が減少していく事から来る倦怠感を覚えながら、ぼんやりと水槽を見つめていた。
     ――従僕の作成も、昔はもう少し儀式じみた方法だったらしい。だが矢張り、魔法陣だの生け贄だのからは遠い、錬金術的な方法だった。それでも現在の方法に比べれば不衛生で、時間もかかり、何より危険だった。
     数刻が経過する頃には、水槽の胎児は大分大きくなり、既に胎児というよりは幼児……人間で言う二、三歳児程度に成長していた。
     通常ならここでコードを外し、水槽内での成長に任せる筈なのだが、環希はそうしなかった。――従僕の能力は、作成時に使用した主人の血の質と量に依存する。その為、単純に血を多く送り込めば、能力の底上げが出来る。だが、リスクも大きい。
     まず、単純に危険だ。送り込む血の量……即ち主人から抜き取られる血の量が増える程、少し判断を誤るだけで死の危険と隣り合わせである。
     次に、依存性の高さによる暴走の問題。従僕における主人の血の割合が高ければ高い程、血への依存性が高まり、少し欠乏しただけで血を求めて暴走してしまう事があるのだ。
     また、血が濃くなる事による畸形発生の問題や、作成失敗の危険。
     これらのリスクを負う事を知った上で、環希は自らの血を送り込み続ける。少しずつ、脱力感に負けて瞼が上がらなくなる。
     ――ふ、と。意識の糸が、途切れた。何処かで何かの壊れるような音がした。
    「……ママ?」
     ……幼い子供の声。
     深く深く沈み込んだ環希の意識は、その声を捉えて浮上した。
     部屋の中にはアラームが鳴り響き、緊急事態を報せている。覚醒直後のまだぼんやりとした意識のまま環希が周囲を見回すと、目に飛び込んできたのは信じられない光景。
     部屋の中央の水槽が、大破していた。拳銃の弾程度なら弾いてしまう強化ガラスが、尋常ではない衝撃を「内側から」受けたように粉々になって飛び散っていた。
     床は水槽内に満たされていた液体で水浸しになっており、その水溜まりを、ぴしゃん。小さな足が踏んだ。
     それは、未だ幼い子供だった。年の頃は十に届くか届かないか、金色の髪先から雫を滴らせながら、澄んだ翠の瞳を真直ぐに環希へと向けていた。……そして、大破した水槽の中から床へと降り立ったその子供は、環希へと向かう。
     この状況から判断するに、子供は環希が作成しようとしていた従僕であり、何らかの要因で装置が破壊され、育ちきる前に外気へと触れて覚醒してしまったのだろう。
     だが、……と、環希は身震いした。今こちらに歩み寄ってくるその子供から感じる気は、他のどの従僕よりも不安定で、禍々しかった。外見は未だ年端もゆかぬ子供であるにも拘らず、である。
     少しの後、子供は環希の目前まで距離を詰め、環希を見上げていた。
    「ママ」
     子供は環希をそう呼ぶと、ふわりと笑みを浮かべた。環希は頭を振り、未だ刺さったままだった――当然血の流れは止まっているが――コードを己の首筋から抜きながら唇を開く。
    「私はお前の『母親(ママ)』ではない。『主人(マスター)』だ」
     突き放すようなその言葉に子供はきょとんと瞬いたが、小首を傾げて再び口を開けば、
    「……ママ」
     この台詞。
     環希は溜め息を吐くと、部屋の扉へ向かって歩き出そうとしたが、くい、と服を引かれ足を止めた。……子供が服の裾を掴み、眉を下げて環希を見上げていた。
    「置いてっちゃ、やだ」
     真直ぐな、何の曇りも無い目。環希はその言葉に僅かに眉をひそめると、片手を子供に向けて差し伸べ、口を開く。
    「……お前、名は?」
     その問いは、主人と従僕が契約する際の決まり文句。たとえ造り出されたものとはいえ、縛るにはそれなりの手順が必要なのだ。――造り出されたばかりの存在が、何故記憶を持ち合わせているのかは定かではないが。
    「僕? ……僕の名前は、ルネ」
     子供……否、従僕ルネはそう答えると、環希の手を、掴んだ。
    05.うたかた 壱 それは現か夢か、過去か未来か。たゆたう幻実は、『終わり』を紡ぐ――

     ――男は急いでいた。銀色の髪をなびかせ、真紅の瞳は食い入るように前方を見つめ、馬を駆り、全速力で。
     戦場(いくさば)において敵前逃亡は恥であり、男はそれを堪え難いと思う種類の人間だったが、今回ばかりは敵前逃亡も止むを得なかった。
     野火の如く速やかに駆ける男に、味方達が次々と声を投げる。
     ――ここは我々が、
     ――どうか御館様を
     ――早く……!
     駆ける男の障害を排除しながら、彼らは祈るように男を見送る。その彼らが纏う鎧兜は、血と砂埃に塗れていた。
     敵方三千に対し、こちらは六百。最初から負け戦ではあった。だが、出来得る限りの策を施し、何とか耐えしのごうとしていた矢先の謀反。味方だったものからの予想外の攻撃に、易く防衛部隊は崩壊し、敵が城へと攻め入った……という伝令が届いたのがつい先刻。その瞬間、男は交戦状態の敵を直ぐ様蹴散らし、駆け出していた。
     男は今回の戦の主戦力であり、敵陣深く迄攻め込んでいたのが仇になった。数刻駆けて、漸く城が見え始めたのだが……
    「な……っ!」
     城が、燃えていた。
     慌てて馬を乗り捨て、抜き身の刀を片手に下げたまま男は門を駆け抜けた。自らの前に立ちふさがる敵を斬り伏せながら、奥へ奥へと。
    「御館様ッ!」
     叫びながら男がその部屋に飛び込んだ時、彼の視界に入ったのは主人の姿。だが、それは――出来るなら一生見たくなかった姿だった。
     絹糸の如き白髪を一分の乱れも無く腰の辺りまで下ろし、紅色の瞳で男を真直ぐ見つめるのは、……純白の着物を纏った少女。その腰には脇差し、死出の旅支度。
    「……お、やかた……さま」
     男の声はひどくかすれていた。刀を握った右手には無駄な力がこもり、かたかたと震えていた。だがそれも束の間、彼は浅く息を吐くと、主人である少女の前へと跪いた。
     ――理解していた、一目見た瞬間から。ただ、認めたくなかっただけなのだ。
    「鴉津(かづ)」
    「はい、御館様」
    「父も兄も死んだ。残りは私だけだが、憎き敵方に私をくれてやるわけにはゆかぬ」
    「はい、御館様」
    「一人も此処へ通すな、私の死体は城と共に燃やせ」
    「はい、御館様」
    「……鴉津」
    「はい、御館様」
    「最後の我儘だ、……抱き締めて、くれ」
     男は、驚いて少女を見つめた。少女は……震えていた。思わず立ち上がり、そのまま強く少女を抱き締めそうになった男だったが、現実には跪いたまま微動だに出来なかった。
     ――男は血に濡れていた。着物は紅斑になり、銀色の髪は一部が紅黒く染まっていた。その九割九分は敵からの返り血で、残りは自分と味方の流した血。少女に少しでも触れようものなら、その紅が移ってしまう事は想像に難くなかった。
     少女を……主人を汚すわけにはゆかなかった。旅立ちの前なら尚更。
     男が躊躇していたのはほんの僅かな間だったが、その間に少女の震えはおさまり、彼女は穏やかな笑みを浮かべた。
    「……最後まで困らせて済まなかったな。今迄よく仕えてくれた」
    「……勿体ないお言葉です」
     ――自分は自ら望んで仕えていた。貴女の傍に在る事がしあわせだったのだと、そんな男の言葉は紡がれないまま飲み込まれた。
     少女が襖を引き、奥の間へと消える、最後の瞬間。
    「……私はお前と居てしあわせだったよ、鴉津。もし生まれ変われるなら、お前の居る世が良い」
     言葉だけを残して、少女は襖の向こうへと消えた。
     ――男はゆっくりと立ち上がった。その紅色の瞳は冷たく、虚ろ。引き摺るように刀を持ち上げて、俯いたまま歩き出す。
    「お前は鴉津! そこになお……」
     何か煩く騒いでいた侵入者の首を斬り飛ばし、そのまま男は駆け出した。
     ――殺す。殺して、殺して、殺して、殺し尽くすのだ。あの御方が安らかに旅立てるように、私はあの御方の為なら鬼に


    「…………」
     見慣れた暗闇。幾度か瞬きをすると瞳が闇に慣れ、見慣れた天井が視界に入る。
     何時もと同じ寝室、何時もと同じ夜、何時もと同じ月明かり。ただ一つ違う事があるとすれば、寝台の上で目覚めた女が全身に汗をかいていた事。
    「夢……?」
     女は呟いたが先刻まで見ていた夢の内容は覚えておらず、ただとても悲しくて、痛くて、苦しかった事だけが残っていた。
     鈍く痛む頭を押さえながら女は身体を起こし、長い黒髪を掻き上げた。
    「……もう少し、だ」
     唇から零れたのは無意識の呟き。何がもう少しなのか女にはわかっていなかったが、わかっていた。もう少しで何かが終わる――或いは始まる――のだと。
     女は緩くかぶりを振り、寝台から下り立った。……寝間着が汗で張り付いて気持ちが悪い。夢の内容を思い出せないのも矢張り気持ちが悪いし、何が「もう少し」なのかわからないのも気持ちが悪い。
     だが、その居心地の悪さを解消する方法が見つからず、女は溜め息混じりに上着を羽織り、部屋を出ようと扉を開いた。――と、丁度、従僕が目の前に居る。白の混じった銀髪を揺らし、冷たい紅色の瞳で怪訝そうに女……環希を見つめる、従僕カラス。
    「どうかなさいましたか、御館様」
    「いや……」
     ――その瞬間、ずきり、と環希の胸の奥が痛んだ。その理由を探ろうとする前に痛みは消え、環希はふるりと頭を振った。
    「……汗をかいたから風呂に入ってくる」
     それだけ言い残して環希は廊下の向こうへと歩み去った。
     ――その背を見つめるカラスの瞳。深く、昏い、紅の色……
    06.緑の瞳 寝台の上、薄い夜着のみを纏った姿で眠っている女――環希。真っ白いシーツの上に広がるのは漆黒の絹糸、艶やかな長い髪。……それを愛しげに指で梳く、男が居た。環希の婚約者、政臣である。
     ふと眠ったままの環希が身じろぎし、寝台が小さく軋む。彼女の瞳がうっすらと開かれ、政臣の姿を捉えた。
    「お早う」
     政臣がそう囁いて、環希の額に口付けを落とす。普段なら、ここで彼女が憤慨して起きだすのだが、今回は少しばかり様子が違った。
     かすれた声で、何か呟いて。政臣の手を引き寄せ、甘えるように、縋るように。細めた瞳で彼を見つめる、環希。
    「……どうしたの」
     政臣が顔を近付けると、再び環希の呟く言葉。今度は先刻よりもはっきりと、耳に届く。
    「か、づ……」
     惚けて焦点の合っていない瞳で政臣を見つめながら、環希の紡いだ音。……それは、彼女が政臣の腕に抱かれ、甘やかな夢に酔いながら彼の名を紡ぐ時と同じ音。
     ――嗚呼、これは、いけない。彼は気付いてしまうから。今の音が、自分以外の誰かを呼ぶ名だと。
    「……誰、だい?」
     ぎり、と。歯噛みの音。政臣の、環希の手首を握る力が無意識に強くなった。その痛みの所為か、環希の瞳に常の如き光が戻ってくる。――深い深い黒。意志の強い黒曜……。
    「ん……?」
     幾度か瞬きをし、怪訝そうに政臣を見上げる環希。何時もなら、その瞳に見つめられるだけで彼女が愛しくて仕方がなくなる政臣なのだが、今回ばかりはそうは問屋が下ろさない。
    「『かづ』って、誰?」
     寝惚けていたのだとしても、否、寝惚けていたからこそ。無意識に呼んでしまう――それもあんな声音で――人物が自分以外に存在しているなど、政臣には許せなかった。
    「か、づ? ……何の事だ?」
    「……わからないなら、いいよ」
     怪訝そうに眉をひそめた環希に、政臣は僅かに冷静さを取り戻した。かろうじてそう言ったものの、政臣のこころは、醜い炎は、未だ燻っていた。環希の手首をきつく握ったまま、離す事が出来ない――
    「政臣、痛い……」
     環希の言葉に、ようやく政臣の手から力が抜けた。解放された手首には、僅かに指の跡が残って。
     ――情けない。これが三十路越えた男のする事か? ……自問する政臣。男か女かもわからない名前を、寝惚けた彼女が呼んだぐらいで、この有様。
     紅家を繁栄させる為の縁組。子を成し、血脈を受け継ぐ為の、愛情など抱く必要はない婚約者、の筈なのに……それなのに、愛してしまったから。
    「……政臣?」
     不安げな環希の声に、政臣は我に返った。――どうやら、考え込んでいる間中ずっと彼女を見つめていたらしい。
     政臣は、なんとか何時も通りの穏やかな笑みを浮かべ、環希に覆いかぶさるように寝台へ上がった。そのまま、彼女の首筋に口付ける。
     ――政臣の悪い癖だ。嫉妬、不安、その他諸々の醜い情念に襲われた時、身体を重ねる事で安定をはかろうとする、悪い癖。
    「あ……政、臣……」
     ――寝台がぎしりと軋む音に、彼女の消え入りそうな呟きは掻き消された。
     口付けて。二人で、夢へと沈んでゆく――切なげな吐息、寝具の軋む音、淫らな言の葉、密やかな水音……――。
     ――どれぐらいの時が経っただろうか。
     声にならない声をあげ、身体を仰け反らせ、環希が達するのと同時。政臣の白い情欲が、彼女のなか、『腸内』に吐き出された……。
    「は、ぁ……」
     荒い息を整えながら、環希から自身を抜き出す政臣。ずるりとそれが引っ張り出され、次いで白く濁った液体が零れ落ちる。
    「後始末、大変なのに……」
     未だ体内に残っている白に身震いしながら、環希が呟いた。……通常男女が繋がるのとは違う方法、当然不便も多い。
     それなのに何故わざわざこんな方法で繋がらなければならないのかといえば、それは環希が『紅の女王』だからである。従僕たる吸血鬼達を従えるには処女である方が色々と都合が良く、処女を散らさずに繋がる事の出来る方法……という事で政臣が提案したのがこれだったのだ。
     吸血鬼の『始祖』は処女の血を糧とするとされ、従僕たる吸血鬼も処女の血を好み、処女の血を受ければかなりの重傷も治癒出来る。従僕を従える能力も、処女である方が高まる事が確認されている。
    「後始末なら手伝うけど?」
     政臣が、環希の腰に腕を回そうとしながら言うと、僅かに頬を染めた彼女は身を躱して寝台から下りた。政臣はくすりと笑って、
    「どうして逃げるんだい? ……ちゃんと掻き出してあげるよ?」
     これ見よがしに自分の指を舐めてみせ、それを見た環希は益々身構える。床に落ちた夜着を拾い上げ、それで身体を隠しながら。
    「……いい、自分でする。シャワー借りるぞ」
     そう、言って。環希は隣室、風呂場へと姿を消す。その姿を見送る政臣の顔には、満足気な笑みが浮かべられていた。――そんな政臣の耳に届く、部屋の扉を叩く音。
     政臣はベッドから立ち上がり、上着を羽織ると扉を薄く開いた。そこに居たのは、
    「……環希様はおいででしょうか」
     感情の読めない真紅の瞳で政臣を見つめる、従僕カラス。その表情がどこか苦々しげに見えるのは、政臣の気の所為だろうか。
    「昨夜お帰りになられなかったものですから、こちらかと。矢張り……そうでしたね」
     上着一枚羽織ったところで、身体から立ち昇る情事の余韻は隠せない。口には出さぬものの、カラスはすべて気付いているようだった。
     ――そう、総て。
    「あまり無理をさせないで下さい、……本当に貴方は『緑の瞳』が似合う方だ」
     口元を僅かに歪め、意味ありげな笑みを浮かべるカラス。政臣はひとつ瞬き、そしてその言葉の意味するところに気付いて眉をひそめた。
     『緑の瞳』。昔の詩人が、「嫉妬とは、緑色の目をした怪物だ」と作中で記した事に引っ掛けたのだろう。――まるで、政臣が醜い情念に突き動かされていたのを知っているかのような口振り。
    「……お前、いつから居た?」
     政臣の問いに、カラスは芝居がかった礼をひとつ。
    「私はあの御方の下僕、名を呼ばれれば直ぐにでも馳せ参じましょう」
     ――そう、名を。『あの御方』が呼ぶならば、応えよう。今は忘れられた名とは言え、あの御方がその御心で呼ぶのなら。
     政臣は怪訝そうに眉を寄せ、甘やかな一時の夢の記憶を手繰る。カラスの名が呼ばれた覚えなど――
     ……まさか、な。政臣は内心呟いた。環希が夢現つに呼んだ、知らない名前。それが、頭の片隅に引っ掛かる。
    「……兔に角、今日は午後から夜会裁定委員長がいらっしゃるので、お早めにお戻りになるようお伝え下さい」
     カラスはそう言うと再び頭を下げ、一陣の黒い霧となって立ち去った。
     残された政臣は瞳を細め、頭の片隅から退いてくれない厭な予感をなんとか追い払おうとしていた――
    07.薔薇が一輪 風が、通り過ぎた。
     長い黒髪を結い上げ、右手に花束を持つ女――環希が、邸の裏手にある一族の墓地、そこにあるひとつの墓標の前に立っていた。
     磨き上げられた御影石の表面には何人もの名前が刻まれており、その一番下、最も新しい名前が刻まれた場所を指先でなぞりながら、環希はほとりと吐息を零した。
    「ママ、ここ何? なんだかざわざわする……」
     その足元にしがみ付いて神妙な面持ちで黙り込んでいた幼子、従僕ルネが、堪え切れずに訊ねたのに、
    「……私の母親達が眠っている場所だ」
     そう、早口に答える環希。それから右手の花束を墓前に供えようとして、その動きが一瞬止まる。
     墓前には、既に一輪の花が手向けられていた。深い紅色の絹のような花弁に、黒と見紛う暗紅の飛沫模様。そう、まるで、血の雫が滴り落ちたような……一輪の、薔薇。
    「今年も、か……」
     環希はそう呟き、その薔薇を手に取った。――未だ瑞々しい。
     この場所にこの薔薇が手向けられているのは毎年の事。それも、環希の母親である先代当主の命日にである。
     この薔薇を誰が手向けているのか、環希は知らない。だが、心当たりはあった。
     母親が死んだ後、当主の座についた環希は、家の者に命じて母親の痕跡をことごとく排除した。――その頃の彼女は未だ幼かった。母親の思い出に耐えられなかったのだ。
     母親に関わる写真や肖像画は一部を残して全て処分し、執務室の家具は全て取り替えさせた。そして、母親が手をかけていた薔薇園を焼き払おうとした時。強硬に反対し、一株の薔薇を残す事を条件に引き下がった人物が居た。
     その時残された薔薇がこの手向けられていた薔薇――Bloody Prinsessである。
     そして、その時、強硬に反対した人物が……当時環希の母親に作成されたばかりの従僕、年若き吸血鬼ダークだった。
     彼と母親の間に何があったのか、環希は知らない。だが、母親が死んでから彼はどこか変わった。軽い調子は相変わらずだったが、何か事が起こると絶対に環希を守ろうとした。
     ――環希は考え込む。
     従僕なのだから当然ではあるのだが、そこには「従僕である」という事以外の何かが加味されているように思えてならなかったのだ。
    「……ママ?」
     くい、と服の裾が引かれ、環希は我に返った。ふるりと頭を振ると、不安げに己を見上げるルネの頭を軽く撫で、墓標をじっと見つめてから踵を返す。
     ざ、と。再び、風が通った。
    「マスター!」
     慌ただしい足音と共に、一人の従僕が駆け寄ってくる。未だ年若き吸血鬼、ダークだ。
    「……どうした」
     環希が怪訝そうに眉をひそめると、ダークは息を整えながら口を開き、
    「『使徒』からの宣戦布告です……!」
     ……紡がれた言葉に、環希は瞳を細めた。


     ――同刻、別の場所にて。
    「……あれ、ミカりんは?」
     桜色の髪を揺らしながら、少女は首を傾げた。絹のリボンもふわりと揺れる。ゴシック調の、フリルが飾り付けられたスカートの裾を摘みながら不満げに頬を膨らませて、
    「せっかくオシャレしたのに」
     と。
     そんな少女を細めた目で見つめながら、白衣の男が苦笑する。
    「あの男なら、いやに張り切った様子でね。早々に出立したよ。……今日の君がどんなに素敵でも、それを気に掛けるほど、あの男は気が利いていないと思うけれど」
     年の頃、三十を少し越えた程度だろうか。艶の無い黒髪を無造作に肩まで伸ばし、くたびれた白衣を着た猫背のその男は、含み笑いをしながら少女へと歩み寄る。
    「私にしておきたまえよ、ガブリエル君。ゲイを好いたところで、生産的な展開は期待できないだろう?」
     そのまま少女――ガブリエルを抱き締めようとする男の腕から、彼女はするりと抜け出す。
    「ごめんね、メタトロンのおじさま。……私、それでもミカりんが好きなの」
     フられたか、と男は肩を竦めるが、特に腹を立てた様子はなく、むしろこの展開には慣れた雰囲気。それを承知のガブリエルも、笑みを浮かべたまま。
     ……ふと、男は壁の時計を見上げた。
    「……ああ、そろそろ行かないとラファエルあたりが煩いんじゃないか?」
     それに続いてガブリエルも時計を見上げ、きょとりと瞬く。
    「ん、そだね。……メタトロンのおじさまは?」
    「私は留守番だよ。知っての通り、私が行ったところで足手纏いにしかならないからね」
    「そっか。じゃ、行ってくるね」
     ふわりとスカートを翻してガブリエルが部屋を後にし、一人部屋に残された男は、白衣のポケットから携帯電話を取出しどこかへと連絡を取り始めた。
    「……ああ。主要メンバーはそちらへ向かったよ。……ククッ、今更だよ『告死天使』。私は……そう、君も知っているだろう?」
     デスクの上へと腰掛けて、足を組む。瞳を、いやらしく細めて。
    「彼女さえ無事ならば構わない。……ああ、わかっているよ。命さえあれば、手足の一、二本飛ばしても構わない。私が再生するから……ああ。ああ。わかった。それじゃあ、また」
     短い電子音の後、通話が終わる。携帯電話を握り締めた手をだらりと下ろし、俯く男の肩は、震えていた。
     ……そして、部屋には低い笑い声が響く。くつくつと、ひどく、楽しげに。
    08.はがれてゆく 携帯電話の電源を落とし、ポケットに滑り込ませたところで部屋の扉が開く。男は跪き、部屋へと足を踏み入れた女、環希へと頭を垂れた。
    「カラス、状況は」
     環希の言葉に、男……カラスは顔を上げ、常と変わらない仏頂面のまま言葉を紡ぐ。
    「『使徒』は現在本国を出立したようです。本隊が邸に到着するのは明後日かと」
     環希はそれを聞きながら、歩き回り何やら思考を巡らせている様子。かつん、と足を止めれば振り向いて、口を開いた。
    「配置はいつも通り。カラス、お前が指揮しろ」
    「了解致しました」
     カラスが一礼するのを視界の端だけで捉えてから、今度は自らの足元できょとんとした表情を浮かべているルネを見下ろして、
    「お前は遊撃部隊だ、ルネ。基本的にはカラスの指示に従っていればいい」
    「うん……」
     歯切れの悪いその返答に、軽く頭を撫でてやってから、
    「ダーク」
     背後へと、振り返る。
    「お前は綾乃小路家へ向かえ。そちらの防衛は任せる、何人か連れていっても構わん」
    「はいはい、了解でーす」
     ひらりと片手を振るダーク。それを一瞥してから環希は胸の前で腕を組み、溜め息を吐いた。
    「……ほら、行け」
     ぱん、と手を叩いて行動を促す環希。ダークは出立の準備と綾乃小路家への連絡をしに、ルネは何やら緊張した面持ちで自室へと。
     だが、カラスはそのまま部屋に残り、ちらりと壁の時計を確認してから、環希に向き直った。
    「御館様、そろそろお食事の時間ですが……」
    「……わかった、すぐに行く」
     短く答えて、カラスを部屋から出させる環希。ひとつ溜め息を吐いてから、部屋の机へと歩み寄り引き出しを開けた。
     ――引き出しの中を見下ろし、再び溜め息。
     そっと引き出しを閉めると、結い上げた髪を解き、上着を脱いで、部屋を出た。
     そして……食堂へと到着し、大きな机にひとりでついて、運ばれてくる華美すぎず質素すぎない料理を口に運ぶ。
     広い部屋の中に時折食器の触れ合う音が響くだけの、静かな食事。……ひとりきりの、食事。
     ひどく事務的なそれが終わり、環希が口元を拭っていると、目の前に置かれる水の入ったグラスと薬の包み。影のように佇むカラス。
    「明後日は戦ですから、少し前回からの間隔は狭いですが飲んでおいた方が宜しいかと」
     それは、カラスが調達してくる薬。増血剤のようなもので、かなりの失血に耐えられるようになり、血のちからも増す。ただ、強い薬の為、半月に一度の使用が限度。この薬を、環希は何年も服用している。
    「……そうだな、この間飲んだばかりだが……」
     慣れた様子で包み紙を開き、中の粉薬を水で流し込む。こくり、と喉が動いて、薬を飲み込んだ。そして、ほとりと吐息をこぼすと呟く。
    「これを飲むとよく眠れるから、その意味でも助かるな」
     一息置いてから、立ち上がって机から離れようとした環希の足元が、ふらつく。ぐらりと身体が傾いたのを、傍に立っていたカラスが抱きかかえるようにして支えた。
    「大丈夫ですか、御館様」
     低く囁くようなカラスの声。聞き慣れた筈のそれに、環希は妙な感覚を抱いていた。
    「……御館様?」
     ――心臓が、跳ね上がる。耳元を擽る声が、胸の奥をざわめかせる。触れている手が、身体が、熱い。
     駄目だ。頭がくらくらする。早く、早く離れなければ、私が剥がれてしまう……!
    「離さないで……」
     朦朧とする意識の狭間で、今まで聞いた事のないぐらい切なげな、苦しげな女の声が聞こえた。
    「……鴉津」
     それが自分の口から出た声だという事に、気付く前に。環希の意識は、闇へと沈んだ……。
    「…………」
     カラスは、眉を寄せた仏頂面のまま腕の中の環希を見下ろしていた。
    「剥離の速度が速すぎる、明後日まで保つのか? ……全く、あの気狂いめ……」
     どこか愚痴めいた呟きをこぼしながら、意識を失い力の抜けた環希の身体を抱き上げるカラス。見下ろす瞳は真紅の氷。
     ――その奥に封じ込められているのは、ちりちりと燻る炎。
    「幾百年の夜を待った。……逃す訳には、いかない」
     自らに言い聞かせるように紡がれた言の葉を聞く者は居らず、環希を抱くその手に不必要なぐらい力が込められたのに気付く者も居なかった。
    09.うたかた 弐 それは現か夢か、過去か未来か。たゆたう幻実は、『始まり』を紡ぐ――

     ――男は死に瀕していた。銀色の髪はくすみ、元は上質な絹だっただろう服も焼け焦げたように破れ、そこからのぞく肌は醜く焼け爛れていた。
     ……だが、食い入るように前を見る真紅の瞳は、未だ生命の輝きを失ってはいなかった。
    「『地獄の釜』とは、よく言ったものだな……海を渡るなんて、無茶をしすぎたか……ッ」
     咳き込む度、赤黒い塊が砂浜に落下する。握った拳で口元を拭いながら、男は這いずるように前へと進んでいた。
     ――波の音が、ひどく耳障りだ。それを拒絶するように、意識に靄がかかってゆく。
     男は砂浜に倒れ伏した。浅い呼吸を繰り返し、そのまま眠りにつこうとした……その、時。
    「生きているのか?」
     降ってきた、凛と通る少女の声。うっすらと瞳を開いた男の視界に飛び込んできたのは、――白。
     僅かに首を傾げて男を見下ろしているその少女は、絹糸のような真っ白い髪を腰の辺りまで下ろしていた。肌は血の色が透けるほど白く、ぱちぱちと瞬いた瞳は深い紅色をしていた。
     少女はどこか大人びた、近寄りがたい雰囲気を纏っていたが……ふ、とその雰囲気がゆるんだ。
     そして男の瞳を覗き込み、口元を緩めて、こう言った。
    「お前、変わった目の色をしているな。……私と、同じだ」
     少女がしゃがみ込み、こちらに手を伸ばしてくるのを感じながら、男は再び瞳を閉じた。
     ――そして、再び瞳を開けた時男の視界に入ったのは、見慣れない天井だった。
     目だけを動かして周囲を見回すと、やはり見覚えの無い部屋。起き上がろうとした男は、自分の服が着替えさせられている事、怪我が手当てされている事に気が付いた。
     見慣れない型の服だった。止め金の類がひとつも無く、胸元で布が閉じ重ねられて、腰に幅の広い布製の帯が巻かれている。
     そして、皮膚の焼け爛れた部分には軟膏のようなものが塗られて、白い布で覆われていた。
     置かれている状況を理解出来ないまま、男は床に直に置かれた寝具の上から起き上がる。全身に痛みはあったが、海辺で意識を失った時よりは幾分ましになっていた。
     部屋の出入口らしい、男には違和感のある横に滑るようになっているらしい扉の前に立つと、向こう側から複数の人間の声。
    「姫様はいつもそう。何もかも全てご自分一人でお決めになる」
    「あのような何処の馬の骨ともしれぬ異人、何故お拾いになどなられたのです……!」
    「私と、同じ目の色をしていた」
    「……は?」
    「だから……」
     扉の向こうの会話が途切れ沈黙が訪れた所で、男は静かに扉を開いた。そこにはまた部屋があり、何人かの人間が座って話をしていた。――というよりも、一人の少女を二人の大人が言い包めようとしているのだが、当の少女はまるで平気な顔をしているという不思議な図式。
     大人達は男が着せられているのと似た服を着ていた。ひとりは男性、ひとりは女性。乱入した男を、驚愕の表情で見ていた。
     一方の少女は、海辺に居た時よりも鮮やかな色合いの、男が着せられているのと型は似ているがもっとたっぷりと生地を使った服を着て、長い白髪を背の中程で束ねていた。そして、男に気付くと一瞬口を開きかけたが、結局何も言わずに口をつぐんだ。
     ――静寂。それに耐えかねた男が口を開こうとした瞬間、『それ』は現れた。
     ずるり。壁を、物質を無視して、異形の生物が部屋へと侵入した。
     それは男の知る『龍』に似ていたが、より細長く蛇に似た形状をしており、黄色い爬虫類じみた瞳が白髪の少女を見つめていた。
     ひらり、と黒色の鱗が煌めいて、その異形は少女へと襲い掛かった。……否、襲い掛かろうとした。
     咄嗟に、本当に何の思惑も無く、男が異形の首根っ子を片手で鷲掴みにしなければ、それは少女を鋭い牙で切り裂いていただろう。
     異形は身体を捩り暴れたが、その抵抗も男の片腕で易く封じ込められた。
     その一部始終を見つめていた少女は、ゆっくりと口を開いた。
    「……お前、『それ』が見えるのか?」


     ――この出会いが、喪失への始まりにしか過ぎないなんて。
     女は、未だゆめうつつにぼんやりと思った。熱があるらしく、ひどく喉が渇いている。傍らの机に置いてある水差しからグラスに水を注ぎ、口をつける。温い水が僅かに喉を湿すが、気分は良くならない。
     ……何故だろう、自分の存在がひどく希薄になっているような気がする。
     私は……紅環希、紅家の当主。その筈なのに、何処かの誰かが私を『私』という存在から引き剥がそうとしている。身に覚えの無い筈なのに、何の意味も無い夢の筈なのに、胸の奥がずくん、と鈍く痛む。
     女は――環希は、ひとつ溜め息を吐いてから寝返りを打った。
     ……もうすぐ戦が始まるというのに、身体も心も不調では話にならない。
     汗ばんだ肌に服が張り付くのに不快感を覚えながら、環希はきつく瞳を閉じて、眠りについた……。
    10.宴前夜「どうしてお前がここに居る」
    「……心配で飛んで来た婚約者にそれはないんじゃないかな、環希さん」
     ベッドに横になっている環希、その傍らの椅子に腰掛けている政臣。常と変わらぬ調子で台詞を紡いではいるが顔色の悪い彼女を、政臣は苦笑しながらも気遣わしげな様子で見ていた。
    「連絡は行っている筈だろう、じきに『使徒』との戦争が始まる。生命線二人が同じ場所に居るのは賢くない。……さっさと帰れ」
     環希はあくまで淡々と、どこか突き放すようにも聞こえる響きで言い放つ。……だが、その瞳は政臣の方を見ようとはしない。
    「……それ、卑怯だよ」
     そんな環希の顎に指を添え、ぐい、と自らの方を向かせる政臣。
    「ちゃんと僕の目を見て。目を逸らしたままなんて、許さない」
     厳しく追い詰めるような語調とは裏腹に、環希の顎に添えられた指先は力なく、瞳の奥にはどこか切なげな光。その瞳を正面から捉えてしまった環希は、息を呑んで黙り込んだ。
    「僕だって馬鹿じゃない、今どういう状況かはわかってる。……だからこそ、君の傍に居たいのに……」
     真剣な瞳に気押されかけていた環希が、ふと。一瞬何かを言いかけて、唇を引き結ぶ。そして政臣の手首を掴んで押し返し、頭を振った。
    「……駄目。……帰るんだ」
     少しの間、沈黙が部屋を支配する。……先に動いたのは、政臣だった。
     立ち上がると、そのまま黙って部屋の扉へと向かう政臣。見送る環希が、彼の片腕――少なくともスーツの袖口から見える範囲すべて――に包帯が巻かれている事に気付いて問い質そうとする前に、その背は扉の向こうへと消えた。
     しん、と再び静まり返る部屋。
    「…………」
     ――これでいい。間違っては、いない。
     さっきまでよりひどく広く感じる部屋、冷たく感じる空気。
     環希はひとつ溜め息をつくと、布団を肩まで引き上げベッドへと沈み込んだ。そのまま身体を丸め、瞳を閉じる。――だが、欠片も睡魔が訪れない。
     身体は本調子ではなく、ふわふわと浮かぶような感覚が消えない。鼻の奥がつんとして、それで漸く、ああ、「寂しい」のだと気が付いた。自ら突き放しておいて、結局は彼を求めているのだと。
     だが今更気付いたところで、プライドの高い環希が政臣を呼び戻す筈も無く。
     頭の天辺まで布団を引き上げ、手足を縮めて丸くなる。きつく瞳を閉じて、羊水の海に浮かぶ胎児のように。
     ――だが。その状況は唐突に破られる。
     いきなり布団を引き剥がされ、突然感じた外気に環希が瞳を開くと、そこには先刻帰った筈の政臣。
    「……怒るよ」
     政臣は布団を投げ捨ててから腰を折り、そのまま環希の目元に口付けた。――いつの間にか滲んでいた、涙を拭うように。
    「一人で泣くなんて許さない、君が泣く場所は僕の腕の中だ」
     咄嗟に抵抗しようとした環希を押さえ込み、幾つも幾つも口付ける。……抵抗が止んだところで、漸く政臣はその行動を止めて、環希の瞳を覗き込んだ。驚きで乾いた涙が、再び彼女の目の縁に溜まる。
    「どうして、戻って……」
     ようやくそれだけ搾り出した環希に、政臣は笑みを浮かべてみせた。
    「いつからの付き合いだと思ってるんだい? ……君が、泣いている気がしたから」
     背とベッドの間に腕を差し入れ、環希を抱き締める、政臣。彼女の耳元に唇を寄せ、穏やかな声で囁く。
    「本当は心細いんだよね?」
    「……あぁ」
    「明日は戦争なのにこんな状態で、不安で、それでも気を張って……」
    「……よくわかったな」
     いつになく素直な環希に、政臣はこっそり苦笑する。それから、更にきつく彼女を抱き締めた。
    「もうバレてるんだから、さ。……強がらなくて、いいよ」
     その言葉に一瞬強張る環希の身体。……だが、すぐに力が抜けて、おずおずとその腕が政臣の背に回された。ぎゅ、と縋り付くのに、政臣がからかい混じりの言葉を紡ぐ。
    「意外に寂しがりやだよね、環希さんって」
    「……うるさい」
    「責めてるつもりはないよ、そういうところも好きだから」
    「う……」
     頬を染め口籠もった環希に、触れるだけの口付けを。それから至近距離で囁くように訊ねる。
    「傍に居てほしいんだよね?」
    「……あぁ」
    「僕のこと、好きだよね?」
    「あぁ、……え?」
     誘導尋問に気付いた時には既に遅し。政臣はひどく嬉しそうな笑みを浮かべると、愛しげに環希の髪に触れた。
    「違う、いや、今のは……」
    「それじゃあ僕のこと、嫌い?」
    「う、……」
     追い詰められた環希は視線を彷徨わせ、なんとかこの状況を打破しようと考えを巡らせる。
     ふと政臣の手に巻かれた包帯の事を思い出し、慌てて話題を逸らす。
    「手、どうしたんだ?」
     環希のその言葉に、政臣は一瞬きょとんとした顔をしたが、ああ、と片腕を見やる。
    「ちょっとね。……心配してくれるの?」
     ――藪蛇だ。
     政臣の笑みが微塵も崩れないのを見ながら、環希は内心溜め息をついた。
    「……もういい、寝る」
    「そう、お休み」
     環希の宣言に政臣は身体を離したが、その瞬間、咄嗟に環希は政臣の服を掴んでいた。
     怪訝そうな表情の政臣に、照れ隠しだろう、ぶっきらぼうに台詞を吐く環希。
    「……私が眠るまでここに居ろ」
     その台詞に一瞬目を丸くした政臣だったが、すぐに笑みを浮かべ、
    「仰せのままに、お姫様」
     おどけた台詞で応えた。
     ――眠りについた愛しの姫君を見下ろして、政臣は穏やかな笑みを浮かべた。
     一房彼女の髪を摘み上げて口付けを落とすと、立ち上がり、部屋の外へと向かう。
     廊下へ出て、そっと扉を閉め、曲がり角の向こう側まで歩いて……壁へともたれかかった。瞬間、顔をしかめ、包帯の巻かれた片腕を抱え込む。額には脂汗まで浮いていた。
    「糞ッ……いい加減に俺に従え……ッ!」
     珍しく荒げた声、乱暴な口調。爪が食い込むぐらい強く、包帯の上から腕を押さえ付ける。
    「もうあんな化け物共には任せておけない……俺が彼女を守らなければならないのに……ぐ、っ」
     どくん、と。包帯の下で、異質な「何か」が脈打つ。不穏な、不吉な、胎動にも似た……。
    「環希さん」
     ぽつり。
    「……愛してる」
     呟かれた言葉は、廊下に蹲る闇に溶けた。
    11.宴 ―使者天使×闇― 鬱蒼と茂る木々、合間を縫うようにして進む青年。多彩なメッシュの入った銀髪を木漏れ日が照らし、青年――従僕ダークは不機嫌そうに眉をひそめた。
    「……結局あのボンボンはうちに泊まったらしいし、俺無駄足じゃん」
     綾乃小路家には護衛兵だけ残し、ダークは紅家へ戻るように……そんな指示が下ったのが昨夜。それからダークはとってかえし、現在は紅家本邸近くの森の中に居た。
    「あと一走りってトコか……俺も飛べたら楽なんだけどなァ」
     とん、と爪先で地面を蹴り、前屈みになって駆け出そうとしたダークは、前に踏み出そうとした足を突然その場に踏み下ろし、後ろへと飛び退いた。
     その刹那、疾風が空を切り裂いた。
     はら、と銀髪が幾筋か千切れ飛び、ダークの頬に一筋の傷。
    「残念、外しちゃった」
     響いたのは、幼い少女の声。
     ダークが睨み付けるその先に立っていたのは、「愛らしい」と形容しても差し支えのない少女だった。
     ――年の頃は十四、五。桜色の髪を頭の両横でおさげにし、絹のリボンで飾り付け。ゴシック調の、レースやフリルでたっぷり飾り付けられた洋服のスカートが風で揺れていた。
     ただひとつ、異質なのは……その両手に、それぞれ一振りの短剣が握られている事。
    「こんにちは、吸血鬼さん。私は『使徒』ガブリエル。……あなたの、死よ」
     まるで邪気の無い笑みを浮かべ、その少女――ガブリエルは、短剣を構えた。
    「『使徒』にはネジの飛んだ奴しか居ないのか? まあいい、俺はダーク……大人しくヤられてやるつもりは無、ッ!」
     ダークが構えた直後、ガブリエルが地を蹴った。唸りをあげて空を切り裂く鈍銀色の刄。伸び上がったダークの脚が刄と交差し、振り抜かれると同時にガブリエルの身体が吹き飛んだ。
     が、直ぐ様跳ね起きダークを睨み付ける瞳、それはぎらぎらとした感情に満ちた「女」の瞳。
    「ダーク……あなたが、ミカりんの……何よ、頭の軽そうなチャラ男じゃない……っ!」
     ダークが問い返すより疾く、ガブリエルの姿が掻き消える。
     次の瞬間、ダークに向けて振り下ろされる二本の短剣。一本は肩口を浅く切り裂き、一本はそれを握る手首ごとダークに握られ――引き戻した時に、何かが千切れるような音。
     小さな肉の塊を地面に投げ捨て、爪先に残る紅色の欠片を舐めとるダーク。
    「手首ごともぎ取ってやろうと思ったのに……ん、美味い」
     手首の肉を抉り取られ、ぼたぼたと地面に紅を滴り落としながら、ガブリエルは悲鳴ひとつ、苦悶の声すら洩らさなかった。 それどころか、口元を歪めて幼い顔には似合わない凄絶な笑みを浮かべ、血にぬめる指でしっかりと短剣を握り締める。
    「いい事思いついちゃった……あなたの頭をミカりんのお土産にするの、きっとミカりん喜んでくれるわ」
     ころころと鈴を転がすように笑う、ガブリエル。
    「もしかしたら嬉しすぎて壊れちゃうかもしれないけど……そうしたらミカりんは私だけのものよね」
     そんなガブリエルをダークはどこか痛ましげな目で見やり、頭を振りながら両の手を構えた。
     ――そして、地面を、蹴った。
     ガブリエルの手を、脚を、腰を、首を、ダークの手が。指先が変形し鋭い爪の生えた手が、狙う。それはガブリエルの剣に阻まれ、或いは受け流され、フリルを切り裂き薄皮を剥ぎ取るだけ。決定打には至らない。
     硬質なもの同士が触れ合う音。
     腕や脚が軋む音。
     短く吐き出される呼吸音。
     ただ、相手を倒す――殺す為だけに研ぎ澄まされてゆく。
     ――均衡が、崩れた。
    「さっさと、その首……よこしなさいよッ!」
     首筋を狙って放たれる一撃を、硬化した手で受け止めて。
    「はいそうですか、ってくれてやるわけにはイかないんだよ!」
     刄が手に食い込むのも構わず握り締め、引き寄せ、相手の脇腹に回し蹴りを叩き込む。小柄な体が吹き飛ばされるその先に回り込み、鋭い爪を振り下ろし――
     ……肉の千切れる鈍い音。
     ガブリエルの心臓を狙う筈の攻撃が僅かに逸れ、左腕を切り飛ばしていた。
     ――更に攻撃を続けようとしたダークの動きが、止まる。肩越しに背後を振り仰ぎ、瞳を細める。
    「……マスター?」
     ダークは呟き、それから地面に転がっているガブリエルを見下ろし……肩を竦めた。
    「放っておいても死ぬか。……それより、マスターの方が……」
     とん、と踵で地面を蹴り、次の瞬間、その場に残されたのは抉れた地面と土煙、それからひとりの少女だけ……。

    「いたい、……痛いよぉ……」
     顔を歪め、両の瞳からぼろぼろと涙を流しながら、立ち上がろうとするガブリエル。
     左腕、二の腕の中程あたりから先が千切れ、地面に無造作に転がっていた。
    「ひ、うっ……やだ、やだよ、死んじゃう……!」
     無事な右腕で左腕を押さえ付け、懸命に立ち上がろうとするも、バランスを崩して再び地面に倒れ込む。
     涙と、血と、泥で汚れ、啜り泣く。
    「死にたくないよ……ミカりん……」
     ――じきに、啜り泣く声もしなくなった。
    12.宴 ―大将天使×光― ぐしゃり。堅い物の潰れる音。
     『それ』は無造作に投げ捨てられ、地面に転がった。
    「これで五人目、かぁ……あと何人殺せば、ママ、誉めてくれるかな」
     胴体の半分千切れかけた男の死体からはすっかり興味を失い、年端もゆかぬ少年は……従僕ルネは、大きく欠伸をした。
     ほんの数時間前まではおろしたてで糊のきいていただろうシャツは、血やその他の体液ですっかり汚れていた。手の甲で頬を拭えば、血糊が伸びて筋を描く。黄金色の柔らかな髪は、紅をたっぷりと含んでごわついていて。
    「……お腹空いた」
     暫らくぼんやりと立ち尽くしていたルネは、そう呟くと周囲をきょろきょろと見回し、ふと先刻自ら投げ捨てた死体へと目を留めた。
     今この場所が戦場である事などまるで感じさせない何気なさで、その死体――というよりも、肉塊――に歩み寄るルネ。その傍らにしゃがみ込むと、その装備を探り始める。暫らくごそごそやっていたかと思うと、目当ての物を見付けたらしく、何かを引っ張り出した。
     ――それは、一振りの大きなサバイバルナイフ。
    「いっただきまーす!」
     この状況にはそぐわない掛け声と共に、真直ぐ振り下ろされる、刄。横たわる死体の、胸の真ん中へと。肉に潜り込んだ刄をそのまま下へと滑らせれば、ぶつり。切り口がぱっくりと口を開ける。
     その切り口に、躊躇せず片手を突っ込むルネ。そして、何か肉塊のような物を掴み出した。未だ湯気を立てているそれは、大人の握り拳ほどの大きさで、深い血の色をしている。人の、――心臓だ。
    「ん、おいしそ」
     ぺろりと舌なめずりをし、ルネはその肉塊に噛り付いた。途端、溢れる鮮やかな紅の液体を、喉を鳴らして飲み下す。唇の端から、つぅ、と一筋伝い落ちた。
     瞳を細め、心底美味しそうに食事をしているその異常であり日常でもある光景。
     引き裂いたのは、一発の銃声だった。
    「……え?」
     ぽろ、と口元から食事を取り落とし、己の肩を見やるルネ。丁度左腕の付け根辺り、肩口に大きな穴が空いていた。
     更に続けて三発。
     銃声が響く度、ルネの身体が跳ね、肉が弾け血が飛ぶ。
     ――そして、ゆっくりと身体を傾け地に伏すルネに、歩み寄るひとりの男。
     真っ白いロングコートの裾を翻し、硝煙の匂いと熱が未ださめていないショットガンを地面に投げ捨てながら、背に背負っていた巨大な鉄の塊――銃を引き抜いた。年の頃は二十歳前後だろう、褪せたブロンドが風に揺れていた。
    「バケモノが……悪趣味にも程がある」
     嫌悪に顔を歪めながらそう呟き、男は――使徒ミカエルは、地面に転がっている小さな身体を足先で引っ繰り返そうとした。
     ……が。
    「……いきなり何するのさ」
     『それ』から響いた声に、ミカエルの動きは途中で止まる。そして、ゆっくりと銃の照準を合わせ直す彼の目前で、『それ』は……ルネは立ち上がった。
    「いくら僕が特別だからって、こんなにされたら痛いよ」
     喋る度、ひゅうひゅうと喉が鳴る。左の腕は千切れかけてだらりと垂れ下がり、腰の肉はごっそりと抉れて骨がのぞいていた。その傷口から内蔵らしき物がはみ出して、垂れ下がっている。
     そして。
     ――ぼご、ン。
     傷口周辺の肉が歪に盛り上がる。独立した生物のように蠢いて内臓を掬い上げ、千切れかけの左腕を絡め取る。そのままその醜く変形した左腕をミカエルへ伸ばしながら、血に濡れた唇を歪めるルネ。
    「おにーさんも『使徒』だよね? ……ごめんね、」
     ――死 ん で ?
     その唇が言葉を紡ぐのと同時、左腕が更に膨れ上がりまるで粘菌のように変形して、ミカエルへと襲い掛かった。 舌打ちしながら飛び下がり、銃弾でカーテンを作ってその攻撃を防ぐミカエル。
     だが、急場凌ぎにしかならない。迫り来る変形した肉塊は、一部を銃弾で吹き飛ばされたところで、その動きを止めるのは一瞬だけ。
    「おにーさんを殺して、ママに誉めてもらうんだ。……ママを守るのは、僕だ……ッ!」
     びゅる、!
     突如、ルネの腹部で蠢いていた肉塊が鞭のようにしなり伸びて、ミカエルの左肩を貫いた。
    「あぐっ……!」
     呻き声をあげて体勢を崩したミカエルに、ルネが一息に距離を詰め左腕を振り上げて――
     ――轟音が、響いた。
    「あ……」
     か細い声をあげて、ふら、とよろめいたのはルネ。
     ――銃口からゆらめく硝煙の匂い。
     ――ルネの胴体の真ん中に、巨大な穴が空いていた。
     周囲の肉が盛り上がり、その穴を塞ごうとするがどうやら追い付かない。めりめりと、自重に耐えかねた胴体の裂ける音。
     存外軽い音をたて、ルネは地面へと崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなった。
    「…………」
     息を荒げながら、ミカエルはそれを見ていた。じっと、見ていた。――暫らく経ってから銃を背負い直し、頭を振ると踵を返す。
    「哀れな子、闇の眷属に赦しは無けれども……」
     ……ただ、祈りの言葉だけが残った。

    「……ルネ?」
     同刻、紅邸の一室。
     己の直系従僕の名を呼び、窓の外……邸周辺を囲む森の方向を見やる環希。
     その黒曜の瞳を細め、暫らく森を見つめ続けていた……。
    13.宴 ―守護天使×鴉― 森の中、鬱蒼と茂る木々に紛れて走る複数の人影。中央の一人が片手を上げて立ち止まり、それに従い他の人影達も足を止める。
    「孅滅戦を開始する。この機に『使徒』共を再起不能に追い込むのだ。……全ては我らが主の為に」
     その号令の後、人影達は森へと散ってゆく。その場に残ったのは、号令放った一人の男だけ。
     ――雲と木々の隙間から陽の光が手を伸ばして、その男を照らす。
     白の混じった銀髪、冷たい紅色の瞳、年令を感じさせない引き締まって均整の取れた身体……腰に提げられた一振りの刀。
     その男――従僕カラスは眩しそうに顔をしかめ、腰の刀に手を伸ばしながら呟いた。
    「『我らが主』、か。……欺瞞だな」
     素早く刄を抜き放ち振り向き様に袈裟。――鋭い金属音。
    「おや、いきなり攻撃ですか。それに『孅滅』だなんて、随分と殺気立っていますね」
     その男は柔らかな笑みを浮かべていた。振り下ろされたカラスの刄を日本刀で受け止めて、その男は、笑みを、浮かべていた。
     ……緩くウェーブのかかった淡い金色の髪も、瑠璃の瞳も、刀の不粋な輝きにはひどく不似合いだったが、裏地に紅色が映える黒い外套だけは妙に不吉で、似合っていた。
     未だ齢三十にも届くまい、その男……使徒ラファエルは、柔らかな笑みを崩さぬままに言葉を続ける。
    「今夜こそ終わりにしましょう。神の子たる我々と闇の僕たる貴方達の、戦いを」
     ――ギ ィン!
     鋼と鋼のぶつかる音、刹那、二人の男は跳び退き互いに見つめ合う。
    「ラファエル……やはり、お前が来たか」
     刀を構えながら口を開くカラス。それに答える返事はなかったが、カラスは薄い笑みを浮かべながら続けた。
    「私を殺せば従僕の士気も落ちる、連携も崩れる。あわよくば……『純血』たる私を捕らえ、対吸血鬼兵器の研究でもするつもりだったか?」
     立て板に水を流すかのような口上。ほんの僅かに、だが確かに熱をおびた瞳。
    「甘い。極めて甘い考えだ、哀れな使徒。……もう、お前達は用済みなのだから」
    「下らない演説は沢山です」
     痺れを切らしたように、ラファエルが口を開く。
    「紅家従僕の長たる『カラス』らしくもない。殺すか、殺されるか……私達に与えられた選択はそれだけでしょう?」
     ふ、と短く息を吐くラファエル。
    「貴方から来ないのなら、私からいきますよ」
     ――それは、一瞬の出来事。
     鋭い踏み出し、二人の男が擦れ違ったその瞬間。
    「な……っ!」
     甲高い金属音、宙を舞う鋼の欠片。――ラファエルは一瞬愕然とした表情を浮かべたが、すぐにそれを打ち消し、中程で折れた刀を投げ捨てた。
     ――カラスは相変わらず悠然と、無造作に佇んだまま……既に熱の冷めた瞳で、ラファエルを見つめている。
     そして。短く息を吐く、音。
     ラファエルの姿が掻き消えて……――刄が肉を貫く鈍い音。
    「……腕一本と、命、ですか……分の悪い、取引ですね……」
     絞り出すような声音で呟いたラファエルの背から、刀の刄が生えていた。
    「哀れだな。……そして、愛しい」
     無感動に囁くカラスからは、左腕の肘から先が失われていた。切り落とされた片腕はどこか寂しげに地面に転がっていたが、何故か一滴も血は流れていなかった。
     ずるり、と崩れ落ち動かなくなったラファエルを見下ろし、その片手に握られた短剣をちらと見やってから、カラスはきびすを返す。
     ――聖別加工された短剣。腕の切断面が焼け焦げたようになって、血すら流れないのはそのせいだろう。未だ切断面は焼け焦げ続けて、じくじくと痛み続けている。カラスは僅かに顔をしかめると、手足の先から霧と化し、そのまま空へと飛び去った……。
    14.宴 ―門番天使×剣―「…………」
     男はふと目を覚ました。傍らには愛しい女、その体温と寝息を感じながらベッドに沈み込む……なのに、この厭な気配は何だ?
     彼女を起こさないようにそっとベッドから降り、乱れた服を整え、寝室の扉を開いて隣の部屋に足を踏み入れる。矢張り、厭な気配は消えない。
     ――剣呑に瞳を細め、男はひとつ息を吐いた。
    「不粋だな、恋人達の蜜月を邪魔するなんて……」
     額にかかった前髪をかきあげ、男は廊下へと続く扉へと向かう。
     その片腕、隙間無く包帯の巻き付けられた右手の指が、ぴくりと動いた。
     ――廊下に出た政臣は、腕の包帯をするすると解き始めた。その下から露になるのは、重度の火傷を負った右腕。……いくつもの水膨れとケロイドが痛々しい。
    「……出番だぞ」
     政臣がそう囁き己の右腕に触れると、どくん、と右腕の奥で何かが蠢く。
     その、直後。先刻から政臣が感じていた厭な気配がはっきりとその輪郭を現わし、更にこちらへと近付いてきた。
    「使徒、か……」
     ぼそりと政臣が呟き、そして、その気配の主が廊下の向こうから姿を現わした。
    「あっれー? 随分とヤバげな気配がしたから来てみたのに、アンタ、ヴァンプじゃないよねぇ?」
     甲高い、癇に触る男の声。政臣の姿を見てぱちぱちと琥珀色の瞳を瞬かせたその男は、派手な女物のドレスをその身に纏い、身長ほどもあろうかという巨大な血塗れの戦鎚を持っていた。
    「……俺をあんなバケモノどもと一緒にするな」
     その奇妙な風体に眉をひそめながら、政臣は苦々しく吐き捨てる。
     男は――使徒ウリエルは首を傾げてその様子を見ていたが、ああ、と何かに思い至ったような声をあげた。
    「アンタ、女王の婚約者か。……もっと情けない優男を想像してたんだけど」
     にぃ、と口元を歪めるウリエル。その手に持った戦鎚から、紅色の雫が、ひとつ。
    「俺の大好きな目をしてる。……何かに正気をくれてやった目だ」
     舌なめずりでもしそうな調子で、ウリエルは戦鎚を構えた。
     政臣は一歩身を引き、そして、一言。
    「……来い、『レーヴァテイン』」
     差し出した右手から、剣が生えた。ずるり、と肉を内側から引き裂いて、文字通り「生えた」のだ。――赤みがかった銀色の刀身を持った両刃剣。
    「アンタ『魔剣使い』か……!」
     ウリエルが一足飛びに距離を詰め、政臣に向けて戦鎚を振るう。致命的なまでに重く、疾い一撃。
     だが。
     その攻撃は、政臣の剣が止めていた。そして次の瞬間、その刀身を紅煉の炎が包み込む。
    「ハズレくじ引いたかと思ってたんだけど……あッは、潰しがいがありそうだ!」
     戦鎚を大きく振るい、後ろへと一旦下がるウリエル。
     それを見やり、政臣は黙って剣を構えた。剣から燃え上がる炎の舌は腕を舐めて皮膚を焦がし、火の粉は肩まで舞い上がり髪にまで届く。
    「ぐ、うっ……」
     苦痛に顔を歪めながら機をうかがう政臣に、
    「アンタ、剣と同化しきれてないな……『人工』だなァ?」
     ウリエルはにたりと笑い、戦鎚を担ぎ上げる。
     ――「人工」の「魔剣使い」。本来は適性者のみが先天的に持つ魔剣を、後天的に埋め込んだ存在。
    「どうしてそこまで? 身体を半分バケモノにしてまで、アンタは何を……」
    「煩い」
     政臣が言葉を吐き捨てる。
    「彼女を守る為なら、正気も……ヒトである事も、要らない」
     ごう、と炎が激しさを増した。周囲に蛋白質の焦げる嫌な匂い。
     ――一拍ほど間を空けてから、甲高い笑い声が響く。戦鎚を床に突き立て、頭を仰け反らせて……
    「やっぱりアンタ最高だよ! たかが一人の女の為に、人間捨てるか?」
     笑いがおさまりきらず、なおも咳き込む、ウリエル。ゆら、と身体が傾いた。
    「アンタは特別丁寧に殺してあげるよ。原型留めないぐらいぐっちゃぐちゃのミンチに、ね。それから、女王も同じところに送ってあげる」
     ダ、ン!
     ウリエルは床を蹴り、ドレスの裾を翻し、戦鎚を振りかぶって――

     ――ふと目を覚ました女は、隣に居る筈の男が居ないのに気が付いた。
    「政、臣……?」
     男の名を呼び、女は――環希は、ベッドから降りた。上着を羽織り、扉に手をかけようとしたその動きが、止まる。
     仄暗い、霧。
     扉や窓の隙間から侵入してきた霧が、環希の周囲に絡み付く。……触れるか触れないか、曖昧な距離感。
     ――お時間です。
     頭に響くのは、低く囁くような声。
     す、と腕を下ろす環希。眉を寄せ、何かに耐えるような表情。
     その背後で霧が凝り固まり、人の姿を形づくる。片腕の無い、男の姿。
    「……珍しいな、お前がそこまでてこずるなんて」
     環希の台詞に、カラスは黙り込んだまま。残った右腕には、未だ血に濡れた刀が握られていた。
     ――鍔鳴りの、音。
     環希は、瞳を、閉じた。
    15.宴のおわり「なんだよ、コレ……!」
     紅家本邸、玄関から一歩足を踏み入れたその男……従僕ダークの第一声はそれだった。
     邸には従僕の中でも精鋭を選び出して配置した筈なのに、そこに居た、否、在ったのは、既に物言わぬ肉塊と化した従僕達だった。
    「使徒か? ……糞ッ、マスター!」
     急いで邸の奥へと駆け出したダークは、気付いていなかった。
     床に転がる死体達は、あるものは頭を潰され、あるものは胸を斬り裂かれ、――鈍器と刃物の両方を使い熟す稀有な者が殺戮者でなければ、殺戮者は二人、存在するという事に。


     ――鬱蒼と茂る木々。
     紅家本邸の周囲に茂る森の一角に、一人の少女が倒れていた。……桜色の髪をした、左腕の無い、少女。
     その身体はぴくりとも動かず、呼吸をしているのかさえ定かではない。地面には無造作に千切れた少女の左腕が転がり、土に紅が染み込んでいる。
     ――ずるり。そこへ、何かを引き摺る音。
     「それ」は、動かない少女へと近付いていく。もやもやとした闇、或いは赤黒い肉塊、……ひどく不吉な「それ」。
    「……死にたくないんだね」
     「それ」から響く、幼い少年の声。少女の身体に覆いかぶさりながら、囁く。
    「君を助けてあげる。その代わり……」


     その男は、円柱を斜めに切断したような形の金属塊に腰掛けていた。
     その男は、荒い呼吸を整えながら自らの右腕を抱え込んでいた。
     ――肉の焦げる匂い。ぶすぶすと燻る音。
     その男は、皮下組織にまで達した「剣」の炎を思い、そして、鞘……つまりは自分の右腕の修復が始まったのを見て、顔をしかめた。
     その男は、改めて、自分がもう人間ではない事を思い知った。
    「……何を、今更」
     その男――政臣――は、少しだけ泣いた。


    「この馬鹿げた茶番に、ようやく幕が下りるのか」
    「馬鹿げてなどいない。この数百年、私は総てを捧げてきた。あの御方にお戻り頂く為なら、紅家も、貴女も、この国でさえ捧げましょう」
    「それが、彼女の望みだと?」
    「ええ」
    「……哀れだな、お前も、彼女も」
     ――交わされた言葉は、虚ろな響き。
     鍔鳴りの音がして、冴々と光る一振りの刄が女の胸元へと突き付けられた。
    「退場の時間です、御館様。……『その場所』は、本来あの御方にこそ相応しい」

      ず
        ぐ  。

    「Good-bye and hello,my MASTER.」
     ……女の背から、刄の切っ先が生えていた。びく、と女の身体が震えて倒れ込むよりも先に、男がその身体を抱き抱える。
     一滴の血すら流さずに突き立てられた刄、女を抱き抱える隻腕の男、それはまるで何かの儀式を描いた宗教画。
     男がうっすらと唇を開き、何事か囁こうとした、その時。――きぃ、と妙に響く音をたてて、部屋の扉が開いた。
     部屋に足を踏み入れた男――政臣は、見てしまった。
     自分の愛しい女が、紅家の当主たる紅環希が……その従僕に、銀髪の吸血鬼カラスに抱きかかえられ、背中から刄の切っ先を生やしている、とても凄惨な、とても異常な、とても――うつくしい、その光景を。
    16.器 男の、獣のような咆哮。
     普段の穏やかな表情を脱ぎ捨てて、その男は……政臣は、他の男に抱かれている愛しい彼女――瞳を閉じたまま、その胸を刀に貫かれて微動だにしない環希――に向かって悲痛な叫びをあげた。
    「環希さんッ……!」
     そして政臣は、その焼けただれた右腕を突き出し、冷静さの欠片も無い声音で絶叫する。
    「来いッ、レー……」
     だが、それは途中で遮られた。部屋に飛込んできた銀髪の吸血鬼、従僕ダークが、政臣の右腕を掴んで押さえ込んでいた。
    「馬鹿、そんな状態で『魔剣』なんか呼んだら腕が吹き飛ぶぞ!」
    「……ッ、離せ!」
     暴れる政臣を羽交い締めにして、ダークは改めてその部屋の状況を見やる。
     ――部屋の中央で壮年の吸血鬼、従僕カラスが、紅の女王たる環希を抱きかかえている。それだけならそれほどおかしくはない。異常なのは、……環希の胸を貫いて背中から生えている、銀色の刃。
    「遅い。また、間に合わなかったな」
     カラスがそう呟き、ダークはそちらを睨みつけながら口を開く。
    「……いつからだ。いつから企んでやがったこの狸爺ィ……!」
     ふ、と。カラスが口元を緩める。それは、とても……冷たく。
    「『はじめから』だ、愚かな道化。はじめから私は、あの御方の為だけに」
     そのまま片腕で環希を抱え込み、深い紅色の瞳を細めるカラス。
    「さようなら、二人とも。……『器』は完成した」
     ぶわ、とカラスの周囲に霧が渦巻き、それはカラスの背に収束して翼を形作る。――その姿は、まるで贄を拐う悪魔。
     政臣がダークを振り払い、必死に手を伸ばしたが、その手は虚しく空を掴む。
     乙女を抱いた悪魔は――環希を抱いたカラスは――窓から外へと飛び去った……。


     ――とても、くるしい。
     私はここに居たいのに、誰かが私を引き擦ろうとしている。
    『……すまない』
     誰?
    『その身体借り受ける。……私の、遠い遠い娘』
     駄目、来ないで。私の居場所、とらないで。
    『少しの辛抱だ、眠って……』
     とらないで、「私」を……「私」を、とらないで……。
    『……哀れな娘』
     ずるり、と。引き擦られて――


     ――数刻後、何処かの屋敷の一室、寝台の上にて、ひとりの女が意識を取り戻していた。女はゆっくりと上半身を起こし、胸に走った鈍痛に顔をしかめる。
     艶やかな長い黒髪をかきあげてぼんやりと宙を眺める女の姿形は、紅の女王たる紅環希そのひとだったが、その纏う雰囲気は決定的に違っていた。
    「……お、やかたさま」
     突如響いたのは、低く途切れ途切れの男の声。部屋の扉を入ったところで足を止めて、女を見つめる銀髪の吸血鬼の声。
     ――ばさ、と床に落ちたのは、その腕に抱えられていた着物。
    「御館様……!」
     女へと一息に距離を詰め、寝台の前に跪く男。頭を垂れてから、感極まったように声を震わせる。
    「貴女が逝ってしまわれてから、ただ、この日の事だけを……」
     その言葉を遮るように、女がそっと手を差し伸べ、男の頬に触れて顔を上げさせる。
     戸惑うような紅色の瞳で女を見上げる男に、女はゆっくりと顔を近付け、そして、口付けた。
     ――ひと呼吸ほど置いてから女が身体を離すのに、男はその腕を掴んで引き止める。……そして、再びふたりの影はひとつになった。
    「すまない、鴉津……」
     唇が離れて第一声、女は男の左腕が在るべき場所に視線を流しながらそう呟いた。
     男も一瞬そちらに目を向けたが、唇を緩めると頭を振る。
    「いえ……この程度なら、御館様の血を頂ければ……」
     男の口元から覗くのは、鋭い犬歯。女はひとつ頷くと自らの襟元に手を伸ばしたが、眉を潜めると手を止めた。
     怪訝そうにそれを見ていた男は、何かに思い至ったような顔をすると、女の襟元に手を伸ばした。
    「……失礼致します」
     そのまま、服をはだけさせてゆく。鎖骨のあたりが露になったところで、手を止めた。
    「後で御着物に着替えましょうか」
     女は頷き、それから頭を傾げて首筋を男に向けた。――男は瞳を細めると、女の首筋へと顔を埋める。
    「……頂きます」
     す、とそこに舌を這わせてから、牙を突き立ててゆく。皮膚を突き破り潜り込むそれに、女の身体が強張る。男は瞳を閉じたまま、どこか恍惚としているようにも見える。……上下する、喉。
    「あ、……鴉津……」
     僅かに震えた女の声に、男ははたと瞳を開いて、女の首筋に突き立てた牙を抜く。そのあとに残った傷をぺろりと舐めあげてから、顔を上げた。
    「申し訳有りません、久方振りだったものですから……その、とても美味しくて……」
     ――言い訳は途切れ、身体の周囲に霧が舞う。男の左腕が在った場所に霧が集まり、徐々に腕の形を作ってゆく。
     数刻後、完全に左腕が再生され、男は軽く手を握ったり開いたりしてから、口元を緩めた。
    17.彼女の手紙「言い訳はいらない、結果を持ってこい」
     ただそれだけを電話口に吐き棄てて、男は受話器を置いた。――その表情は苛立っているようにも、憔悴しきっているようにも見える。
     綾乃小路電子本社の一室、冷たい蛍光灯に照らされた部屋で深く溜め息を吐きながら椅子の背もたれに体重を預けると、背もたれが悲鳴をあげる。男は……政臣は、くしゃりと己の髪を掻き混ぜた。
     彼女が、政臣の愛しい婚約者である環希がカラスに拐われて――『殺された』とは言わない、言いたくない――から半月近くが経とうとしていた。それから、紅家の従僕達や綾乃小路家の総力を挙げて環希の捜索が行われていたが、未だ手掛りは掴めずにいた。
    「環希さん……」
     政臣は頭を抱えて机へ突っ伏した。立場と身体の事を考えると、こうして待つしか出来ない事が歯痒い。――酷使した右腕、「剣」の鞘は完治には程遠く、包帯が巻かれ三角布で肩から吊されていた。
     その時、ノックの音。
     政臣は顔を上げ、乱れた髪を整えると、何事も無いような表情を顔に張り付けて口を開いた。
    「入れ」
     部屋の扉を開いて足を踏み入れたのは、若き銀髪の吸血鬼。その姿を見やると、政臣は僅かに眉を潜めた。
    「……何の用だ、ダーク」
     酷く冷たい、地を這うような声音。それにダークは頭を振ると、片手に持っていた小さな箱を投げて寄越す。
    「アンタにだよ。……マスターの机の引き出しから出てきた」
     ダークの言葉に、政臣は僅かに目を見開く。受け取った箱を見つめ、一瞬不安げに瞳を揺らしたが、小さく息を吐くと手早く箱を開けた。
     ――箱の中には、一通の手紙と、カフスが入っていた。
    「…………」
     眉を寄せたまま、封筒を開く政臣。飾り気の無い白い封筒に白い便箋、綴られているのは見覚えのある文字――

    『お前がこれを読む日が来なければ良いのに。

     私は近々お前の前から消えるだろう。
     そもそも私はその為に生まれ、育てられたのだから、文句を言うつもりは無い。
     それなのに、私が消えた後、お前がどうなるかを想像して少し恐くなった。お前に会えなくなる事を想像して、とても恐くなった。
     お前のせいで、私は「私」を諦められなくなった。

     だが、幾百年の年月を重ねて整えられた舞台に既に上がってしまっている私達では、この茶番劇を止める事は出来ないだろう。
     だから、幕が閉じてしまう前に、どうしてもお前に伝えておきたかった。

     愛している。
     私はお前が思うよりずっと、お前の事を愛している。

     追伸
     このカフスは、お前の誕生日に渡しそびれた物だ。
     渡せる気がしなかったから、同封しておいた。』

     ――手紙を読む政臣の手は、僅かに震えていた。二度、文面を読み返してから、カフスを手に取る。精緻な細工の施された、アメジストのあしらわれたカフス。
    「どうして……!」
     カフスを握り締め、震える声で絞り出すようにそれだけ言うと、政臣は顔を覆った。……その拍子、封筒の中からひらりとこぼれる一枚の小さな紙。
     それを拾い上げ、――政臣は瞳を細めた。手紙とは違い、走り書きの文章……けれど、確かに彼女の文字。

    『もしも、お前が私を失いたくないと思ってくれるなら。
     私を奴の舞台から引きずり下ろしたいと願うなら……』

     最後まで目を通すと、政臣は突然立ち上がった。椅子の背もたれに引っ掛けてあったコートを片手に掴み、部屋の扉へ向かって歩き出す。
     政臣の様子を眺めていたダークは怪訝そうに瞳を細め、続いて紡がれた政臣の台詞に瞬いた。
    「ダーク、お前も来い。……環希さんを取り戻す」
     コートに袖を通し靴音も高く廊下へと歩み出す政臣の後を、肩をすくめながらダークが追う。――物問いたげにしているダークを横目で見やり、政臣は苛ついたように口を開きかけたが……廊下を歩く己の部下である若い女を発見しそちらへ言葉を投げる。
    「今から出る、車を回せ。……彼女絡みの事以外は各自の判断で処理しろ」
     突然の言葉にも女は慣れた様子で一礼し、足早にその場を後にした。それから政臣はダークへと視線を戻し、先刻封筒からこぼれ落ちた紙を差し出す。
    「……お前も、環希さんを救いたいだろう?」
     受け取った紙に素早く視線を走らせ、次いでその蒼い瞳を見開いたダークは――深く、頷いた。


     ――そしてそれから数刻後、二人は紅家本邸に居た。人気の無い、床の角にうっすらと埃が積もった廊下を歩きながら政臣は眉を寄せる。幾ら環希の捜索に人員を割いているとはいえ、邸内の管理すら行き届かないとは思えない。
    「……ダーク、」
    「あの爺、従僕にも手ェ回してやがったんだよ」
     政臣の言葉を遮り、苦々しげに吐き捨てるダーク。
    「半分が向こうについた。マスターの捜索と、まだ諦めていない使徒の奴らを撃退するので手一杯だ」
     自嘲するように口元を歪める。そんなダークに政臣は口を開きかけるも、何も言わずに歩みを進めた。
     目的の場所、カラスが使っていた部屋に到着し足を踏み入れるまで会話は無く――男二人は微妙な空気を漂わせたまま捜索を始める。
     主にうち捨てられたその部屋の空気は寒々しく、必要最低限の家具しか無い為か生活感も消えていた。二人は机の引き出しを探り、本棚の本を開き、部屋の隅から隅まで調べ上げる。
     そして、本棚の前に立っていた政臣が何かに気付いた。
    「これ……動く、な」
    「あ?」
     しゃがみ込み床を調べていたダークが政臣の呟きに立ち上がり、本棚へと歩み寄る。政臣の隣に並んで、本棚を軽く叩いてから手をかけ力を入れると、音も無くそれが横にスライドした。
     下から現れたのは、古びた扉――どこか人間を拒むような――。二人は顔を見合わせると、ゆっくりと扉に手をかけた……。
    18.うたかた 壱之続 ――殺す。殺して、殺して、殺して、殺し尽くすのだ。あの御方が安らかに旅立てるように、私はあの御方の為なら鬼にでも修羅にでもなろう。

     ――その男は、城門の前に立っていた。全身を血に染め真紅の瞳を慧々と輝かせるその姿は、鬼か、修羅か……。
     男が片手に提げている刀は血と油でてらてらと輝いていたが、不思議と刃こぼれはしておらず、何やら黒い霧のようなものがその刀身にまとわりついていた。
    「ここは、通さない」
     男の声は、存外に落ち着いた低い声。取り囲む何百人もの兵達に怯むそぶりも見せず、静かに刀を構える。
    「怯むなッ、相手は一人ぞ!」
     将の号令に兵達が刀を抜き、一斉にその男へと斬りかかった。そしてその次の瞬間、……兵達の腕が宙に飛んだ。
     男へと刀を振り下ろそうとしていた兵達の腕が男の刀の一振りで斬り飛ばされ、更に返す刄で悲鳴をあげる隙も無く首を落とされる。噴き出した紅が男の身体を更に染めて、そこに立つのはまるで、ひとの形をした紅色の鬼。
    「紅の鴉津は鬼神の如くと聞いてはいたが、まさかこれほどとは……!」
     将の呟きにも、兵達のざわめきにも、男は何の反応も示さずに佇んでいた。男の周囲に広がる死屍累々、それらにさえ。
     ――無造作に構えた刀の切っ先から、紅色の雫が滴り落ちる。虚ろな紅色の瞳が、兵達を見やる。
    「……I am your DEATH,understand ?」
     男が呟いた異国の言葉を皮切りに、その一方的な虐殺は始まった。
     男が刀を一度振るうと肉が斬られ、二度振るうと骨が断たれる。兵達の間を縫うように駆けたかと思えば、その背から闇色の翼を生やして空を舞う。―― 一瞬きの間にひとつ、どころではない。一瞬きの間に片手では足りぬ程のいのちが喪われ……否、毟り取られ搾取される。
     ――主の為ならば、どれほど汚れようと構わない。あの御方を、守る為ならば……。
     男はふと、その動きを止めた。
    「……私は、……」
     無造作に刀の切っ先を下げ、その全身から発せられていた切れるような殺気が薄れる。
     ――あの御方を守る為なら、幾ら血に汚れても構わない。だが今、この瞬間、あの御方は死のうとしている。……あの御方を守りたかった。その筈なのに、ただそれだけが自分の望みだった筈なのに、何故……今、自分は、戦っている? あの御方を、……殺す、為に?
    「戦場で呆けるとは、愚かなり!」
     男の背後から斬りかかってきた兵は、視認出来ない程の速度で振り抜かれた男の刀に斬り倒される。
     男は何処か憑き物の落ちたような、愕然とするような表情を浮かべてくるりと振り返り、つい先刻己が出てきた城を見やる。燃え上がる炎が激しさを増し、今にも崩れ落ちそうなその城を。
     ――そして突然駆け出した。城の中へと、向かって。
    「御館様!」
     叫びながら城内を駆ける男。もうもうと渦巻く熱と煙と火の粉をものともせずにあの襖の前へと辿り着き、向こう側へ声をかける。
    「御館様、何も御館様が死なれずとも良いではありませんか。……逃げましょう、御館様を害する者など居ない場所へ。そして、穏やかに暮らして……」
     男の声は震えていた。……男は気付いていたのだ。襖の向こう側から漂う、自分のものでも無く、自分が殺した敵兵のものでも無い――甘美なまでに芳しい血の、香りに。
    「御館様……」
     男は震える手を伸ばし、ゆっくりと襖を開けた。血の香りは更に強くなり、そこに現れた光景に男は泣き出しそうな笑みを浮かべた。
     ――物言わぬ死体と化した、男の主がそこにいた。
     もう動かない体は横倒しになり、力の抜けた右手の近くには短刀が転がっていた。床に広がる元は純白だった髪は血に濡れて、……白い喉がぱっくりと割れ、そこから赤黒い固まりが溢れていた。
     男はふらふらとその死体に歩み寄り、躊躇無く抱きかかえると座り込んだ。それからとても静かな声で、独白を続ける。
    「御館様、私が……私が、もう少し早く……申し訳有りません……」
     その独白はひどく穏やかで。
    「……この償いは、必ずや……嗚呼、御館様……」
     その独白はひどく悲しげで。
    「……必ずや」
     その独白は、
    「私が」
     ひどく、
    「貴女を生まれ変わらせて差し上げますから……」
     ――狂っていた。


    「…………」
     政臣は黙ってその日記らしき本を閉じた。隣で一緒にそれを覗き込んでいたダークはひとつ溜め息をつくと、天井を見上げながら静かに言葉を紡ぐ。
    「……そう言えば先代が言ってたな。紅の家のはじまりは、何百年も前に居たアルビノのお姫様だって……」
     ――カラスの部屋の本棚裏から見付かった扉、それを開くと現れた階段を下り辿り着いた場所。ひんやりとした空気に満たされた、石造りの部屋。
     その部屋の中央に置かれていた棺――恐らくはカラスの物だろう――の中にあったのが、先程の日記だった。
    「……好きだったんだな。立場とか種族とか、そういうの全部飛び越えて」
     何処か苦しげな、切なげな様子でごちるダークをちらりと見た政臣は、鼻を鳴らすと日記を棺へと投げ捨てた。
    「哀れだとは思うがそれだけだ、僕から環希さんを奪う理由にはならない」
    「アンタ、なぁ……」
     呆れた様子で言うダークに、政臣は更に続ける。
    「この『御館様』とやらが生まれ変わる為に環希さんが『器』にされたのなら……急げばまだ間に合う」
    「……え?」
     怪訝そうなダークを見やり、政臣は眉を寄せると髪の毛をかきあげ、部屋の出口へと向かいながら説明口調で言葉を紡ぐ。
    「生まれ変わる『器』にするのなら、『中身』はどうする? 『中身』……魂は極めて安定した存在だ、世界に存在する魂の総数が一定である以上……まあ、これは長くなるからいいか……とにかく、魂を『器』である肉体から追い出す事は出来ても、無理矢理消滅させる事は出来ない。……魂が輪廻の輪に乗る前に、『器』を取り戻せれば……在るべきものは在るべき場所へ」
    「そうか……! あ、だけどどこに居るかがわからなきゃ……」
     扉へと手をかけた政臣は動きを止め、振り返らずに言葉を吐いた。何処か苦々しげな声色。
    「……奴は、僕に似ている。僕がもし、永い間離れていた大切な人と久し振りに共に過ごすなら……」
     そこで言葉を止めて、暫し黙り込んで待つような仕草をしてから再び口を開き、
    「ヒントは三つ。海の近くで、戦で焼け落ちた城があって、今は人気の無い場所。……これで見付からなければ、うちの部下とそっちの従僕は余程の無能揃いだ」
     それから扉を開き、部屋を後にする政臣。その後を追うダーク。
     冷たい石室の空気は、再び静寂を取り戻した……。
    19.取り戻すべきもの ――やっと取り戻したのだ。もう、離さない。
    「……来る」
    「ええ、どうやら見付かってしまったようです」
     紅家当主の身体を器とする「彼女」が何処か遠くを見やりながら呟くのに、白髪混じりの銀髪の吸血鬼は大して気にとめていない風に応えた。
     ――ちらちらと揺れる行灯の光に照らされる畳敷きの部屋。
     吸血鬼……カラスの膝の上に座っている女は軽く首を傾げてカラスを見、カラスはそれにひどく穏やかな――ように見える――笑みを向ける。そして、女の腰に回した腕に僅かばかり力をこめ、その肩口に頭をもたれかからせて、囁くように呟いた。
    「心配は無用です、御館様。……もう二度と、貴女を手放しはしない」
     女とは親子ほども年の離れた外見をした――実年齢でいえば更に離れているだろう――男の、まるで子供のような仕草。女はそっと腕を伸ばし、そんな男の頭を抱えるようにしてから瞳を閉じた。
    「……鴉津」
     男の名を紡ぐ女の声は、消えそうな程細い。
    「私は、……」
     何処か哀しげにも見える表情を浮かべたその女の言葉は、紡がれる事無く消えた。


     ――それと同刻、海岸線に程近い場所に位置する今は使われていない城に向かう二つの人影があった。……政臣とダーク、紅家当主の婚約者と従僕である。
    「この近辺で、カラスについた従僕共が目撃されている。条件も合致した。……恐らく間違い無いだろう」
    「……なァ、やっぱりアンタは残って……」
     ダークの台詞に振り向いた政臣は、苛立たしげに自らの髪を片手でかき上げながら口を開いた。
    「今更だな。……環希さんの居場所がようやく分かったのに、じっとしていられるか」
     予想通りといえば予想通りの政臣の言葉に、ダークは呆れたように肩をすくめてからちらりと視線を流した。……未だ包帯が指先まで巻き付けられている、政臣の右腕。
     いくら「魔剣使い」と言えども、肉体的には普通の人間とさほど変わらない。皮下組織まで焦がした炎の名残は、未だ政臣の右腕を蝕んでいた。
     ――再び訪れた静寂の中、無言で歩む二人。木々が途切れる手前でその足が止まる。
    「……やはり感付かれていたか」
     呟く政臣。その視線の先には古びた城……そして幾つかの人影。一見何らおかしい所など無い人間の姿をしているが、その気配は間違いなく従僕のもの。
    「……ちっ、面倒だな」
     舌打ちをしてから自らの右腕に手を伸ばした政臣の肩に、ダークが片手を置いた。怪訝そうに振り向いた政臣に、片目を瞑ってみせる。
    「ここは俺が行く、アンタの『剣』は多対一には向かないだろ?」
     政臣が文句を言う前に一歩足を踏み出し、悪戯っぽい笑みを浮かべ――ダークは、
    「マスターが待ってるのは、『綾乃小路政臣』って名前の騎士サマなんだ。……そんな騎士サマの行く道を開くのは、介添え人の役目だろ?」
     その両手を、鋭い爪の生えた獣のようなそれに変形させた。
    「派手に暴れてやるから、その間にカラスん所に行け」
    「おい、」
     瞬間、ダークは地面を蹴って飛び出していた。一瞬きの間に城へと距離を詰め、浮足だつ従僕達に向かってゆく。
     ――その騒ぎに紛れて政臣は城へ。その様子を確認すらせず、ダークは両腕を芝居がかった仕草で広げる。
    「主を見失った馬鹿な従僕崩れが、さっさとかかって来いよ。劣化コピーが『直系』にかなうわけが無いッて事、体に教えてやる」
     従僕の数は見える範囲で十人強。それがじりじりと包囲網を狭めていく。――ダークの唇が歪み、笑みが浮かんだ。それは妙に穏やかで、
    「……『マスター』、娘を助ける為だ。許して、くれるよな」
     何かを決意したような笑み。ダークは、鋭く伸びた爪を自らの鎖骨の辺りに突き立てた。そのままきりきりと肌を裂き、十字を刻む。
    「限定、解除」
     ――ぶわ、と。闇の気配が増した。
    20.貴女のために出来る事 人を凌駕する存在である吸血鬼を従僕として従えるのは、普通なら不可能である。
     だが、紅家はそれを行っている。「純血」であるカラス、そこから複製体を作成する技術、そして――主の器を越えた従僕に対する「限定封印」。これらの存在がそれを可能にしたのだ。
     「純血」から直接作成した複製体――なおかつ主の血を一定の割合以上含むもの――である「直系」は、得てして主の器を越えやすい。主の器を越えた従僕は従えられない為、そのような従僕には能力に対して限定的な封印が行われる。それが、「限定封印」だ。
     「限定封印」を解除するには、その封印を施した主の許可が必要である。――ただし、その主が既に存在していない場合は別だ。その場合は、従僕の意思で封印を解除する事が出来る。
     そして、ダークにかけられていた「限定封印」は「不死性の封印」――失血しすぎれば身体の動きが鈍くなるし、腕でも落とされようものならショック状態に陥る可能性が高い――。この封印が有効である限り、ダークは己が肉体の損傷を気にしながら戦わなければならない。
     ――だが。「限定封印」を解除した今、ダークの身体は不死性を取り戻している。例え腕が千切れ足がもげても、意識を保ち続ける事が……戦い続ける事が、可能なのだ。
    「……どうした、俺はまだ動けるぞ。かかって来ないのか?」
     城前の広場、己を取り囲む従僕たちを前にダークは不敵な笑みを浮かべた。
     己が身体へのダメージを考えなければ、多対一の戦いは楽だ。――全員倒すまで身体がもてば、だが。
     腕を犠牲にして相手を一人倒す。足を犠牲にして相手を一人倒す。それを繰り返すうち、ダークの左腕はなかば千切れかけていた。 残る相手は五人。だが、恐らくまだ増えるだろう。
    「……来ないなら、こっちから行くぞ……ッ!」
     増員を考慮するならば、頭数は出来うる限り減らしておいた方が良い。相手を倒せば倒す程、こちらに人員を割かざるを得なくなり……結果、城内は手薄になるのだから。
     ――地面を蹴って跳ぶ。赤黒い雫がぼたぼたと滴り、地面に軌跡を描く。
     ダークが取り戻したのはあくまで「不死性」であり「不死」ではない。肉体の損傷が限界を越えれば、当然死ぬ。
     だが。
    「…………」
     目前の一人の腹を裂き内臓を引きずり出す、それを掴んだまま相手を蹴り飛ばす、最期の一撃は甘んじて肩に受け牙が食い込み肉の千切れる音、痛み、それを凌駕する意思、続いて掴んだままの内臓をもう一人に投げ付け目くらまし、振るおうとした右手は避けられる間合い、とっさの判断、千切れかけた左腕を掴む、嫌な感触、引き千切る、それを掴んだまま突き出して喉笛を貫く――
    「は、……」
     一連の動きは一瞬。その一瞬の後、ダークは息を荒げ、ひゅうひゅうと喉を鳴らしながら立っていた。
     右手に持って突き出していた左腕を相手の喉笛から引き抜いて周囲を見回す、残っている敵は三人。その筈なのに――ダークの視界に入っている影は二つ。
    「……!」
     気配は頭上。ダークが振り向くよりも先に膨れ上がる殺気、攻撃を左腕で受けようとして――ああ、左腕は千切れている。
     間に合わない。
     ――だが、その瞬間。
     肉の裂ける音、骨の砕ける音、……何者かの足が地を踏む音。
     振り向いたダークの目に飛び込んできた姿は、見覚えのある……だがここに居る筈の無いものだった。
    「な、ッ! ……ガブリエル、?」
     桜色の髪、ゴシック調のドレス――そして「両手」にそれぞれ一振りずつ握られた短剣。その足元には、両腕と胸を切り裂かれた従僕が倒れている。
     ダークは瞳を見開いて硬直しかけたが、直ぐに今の状況を思い直した。
     周囲には従僕が二人。突然の乱入者に戸惑ってはいるようだが、戦意は失っていない。そしてその乱入者は、何日も前に倒した筈の――死亡は確認していないが、人間は片腕を切られたまま放置されれば大抵死ぬだろう――「使徒」ガブリエル。そもそも切られた筈の片腕が復活しているのもふに落ちない。
     ――余計に混乱しそうな頭を振り、ガブリエルを見やるダーク。ガブリエルはゆっくりと振り向き、ダークを見た。その瞳は本来紅色をしていた筈なのだが、何故か左目が翠色に染まっていた。
    「何やってるの、そんなズタボロになって。しかも私に助けられてちゃ世話無いわ」
    「お前、どうして……」
     やっとの事でかすれた声を絞り出したダークは瞬いて、それから随分様子の変わったガブリエルを見つめた。
     片目の色が変わっただけではない。ガブリエルの桜色一色だった髪に、金色が幾筋か混ざっていた。
     ――翠の瞳に金の髪。それは見慣れた色。
    「……ルネ?」
     思わず呟いたダークに、ガブリエルは首を傾げぱちぱちと瞬いて。そのまま一歩足を踏み出すと、
    「あの子、ルネっていうの?」
     ダークの背後に居た従僕を斬り倒した。それと同時にガブリエルに向かってきた最後のひとりを、ダークの腕が貫く。
    「翠色の目をした吸血鬼。死にかけていた私にチャンスをくれた。条件はふたつ。ひとつは私の体にその吸血鬼を間借りさせる事で……」
     そっと、翠色の片目に手を伸ばす。
    「……もうひとつは、『ママを助ける』事」
     侮然とした表情を浮かべながらも、ガブリエルはくるくると短剣を回してから鞘へと収めた。
    「約束は守るわ、あなたに協力する形になるのはすごくイヤだけど」
     首を傾げて笑みひとつ、それはとても無邪気で愛らしく――
    「よろしく、ダークお兄ちゃん」
     ――何故かダークは寒気がした。
    21.しあわせになりたい ――しあわせになりたい。
     あなたと一緒に、しあわせになりたい。

     ダークが城の外で暴れているおかげで、城内の警備はザルだった。政臣は戦闘らしい戦闘もしないままに城の深部まで潜り込む事が出来、右腕の消耗は皆無に近かった。
     ――壁にもたれかかり息をひそめる。
     鍔鳴りを起こそうとする「剣」を――右腕を押さえ込み、政臣は浅く息を吐いた。
     ――この件にカタがついたら旅行にでも行こう。彼女と二人で、何処か静かな場所で過ごそう。それから今までの日常に戻るのだ。騒がしくも愛しい、しあわせな日々に。
     そのしあわせを取り戻す為ならば、己の全てを捨てたって構わない。そのしあわせを取り戻す為ならば、他者のしあわせを犠牲にしたって構わない。
     壁から背を離し、深呼吸。一瞬だけ己が拳を握り締めて――政臣は、更に城の奥へと足を進めた。

     ――ひとつ、息を吐く。カラスは、城の最奥に位置する部屋に居た。二間が襖で繋がれ、奥の間には環希の身体を器とした「彼女」が座っている。
     「限定封印」を解除するという暴挙に出たダークのおかげで、城内の人員を何人か外へ回さざるをえなくなった。結果、この部屋にはカラスと彼女の二人しか居ない。
     ――奥の間で、彼女が身じろぎする気配。
    「……鴉津」
     細く消えそうな声。頼り無げに伸ばされた手を、駆け寄ったカラスが絡め取る。
     微かに震える白い手。以前より華奢になった体つき、赤みをおびた瞳。ものの本質は魂で決まる、中に宿る魂が「環希」でなくなれば、姿も「環希」ではなくなってゆく。
     ――震える手をそっと握り締め、彼女は唇を震わせ瞳を迷わせる。紡げぬ言葉を絞り出すように、見たくないものを見るように。
    「鴉津、……もう、このような事……」
    「御館様は何もご心配なさらなくて良いのです」
     その言葉を遮るようにして、カラスは囁いた。穏やかな笑みを浮かべ、彼女の手を握り締めて。
    「じきにあの男がここへ来ます。あの男さえ始末してしまえば、『器』の魂が戻る事も無い……貴女を縛り続けた家も滅ぶ」
     すり、と彼女の白い手に頬を擦り寄せるカラス。触れるだけの口付けを手の甲へ降らせ、
    「そうすれば、貴女を脅かすものは何も無い。……ふたりで、しあわせになりましょう」
     囁くのは甘やかな言葉。――どこか歪な言葉。深紅の瞳は静かな光を、愛しさを湛えて彼女を見つめているのに……彼女は、頭を振る。
    「鴉津、ちがう、私は……」
     何度も何度も頭を振って、
    「私は……――」
     ――こんな事望んでいなかった。
    「……え?」
     彼女の言葉を聞き取れず、カラスは怪訝そうに眉を寄せた。そのカラスを真っ直ぐに見つめて、彼女は再び唇を開く。
    「私は、こんな事望んでいなかった」
     ――ひどく辛そうに。愛しいひとを突き放す、残酷な言葉を吐いた。
    「……私の遠い遠い娘、その生を犠牲にしてまで、私は……しあわせには、なれない」
     ――奇妙な沈黙が流れた。
     感情の消え失せたような顔で彼女を見つめていたカラスは、我にかえると頭を振り苦笑いを浮かべた。
    「……何を仰っているのですか? 御館様も、私の事を想って下さっているのでしょう? 私と共に在りたいと、思って下さっていますよね……?」
     彼女の手を握り締めるカラスの手に力がこもる。見つめる瞳は熱をはらみ、彼女は何も言えなくなる。
     黙り込んだ彼女を抱き寄せて、その肩口に顔を埋めるカラス。きつくきつく抱き締めて離れないように。
    「……もう、貴女を失いたくはない。だから」
     す、と身体を離し立ち上がる。その腰に下がっていた刀を抜き放ち――
    「その為なら、何だって……」
     部屋の入り口へと向き直る、カラス。静かに襖が開いて、部屋へと足を踏み入れるのは一人の男。
     ――上品なスーツに身を包んだ一見会社員風のその男の右手には、一振りの剣。赤をおびた銀色の刀身を持つ、両刃の剣。
    「騎士様の登場、か」
     静かに刀を構え、呟くカラス。その目前で男が――政臣が――構えた剣から、めらりと炎が立ち昇った。
    22.焔 その部屋に足を踏み込んだ政臣の右手で炎が揺れる。剣から立ち昇る炎が肌を舐め、焼け焦げた包帯は熱気でゆらゆらと揺らめいていた。
    「私を殺しに来たのか、『騎士様』?」
     皮肉げに唇の端を歪め、カラスは一歩足を踏み出して、
    「お前の姫はもう居ない。『器』は御館様と馴染み始めている」
     刀を水平に構えると、そこからぶわりと闇のようなものが溢れ出す。刀身へとまとわりついて禍々しい様相を呈するそれは、まるで漆黒の炎。
     それに怯む素振りすら見せず、政臣は――凶悪ささえ感じさせる笑みを浮かべた。
    「お前の口数が多いのは、感情が乱れている証拠だ。恐れているんだろう? 僕を……いや、僕という存在がもたらす不確定な揺らぎを」
     カラスの笑みが僅かにこわばる。政臣は剣を突き出し、噴き上がる火の粉が二人の間に舞った。
    「僕が存在する事によって、環希さんの魂が呼び戻されるかもしれない。そうすれば、その身体は……」
     一瞬、ほんの一瞬だけ政臣の視線がカラスから逸れ、奥に座る「彼女」の姿を捉える。既に「環希」とはかけ離れた姿になりつつある、その姿。
     ――切なげに瞳を細める政臣。それはすぐに元の表情を取り戻し、カラスを見やる。
    「だからお前は逃げなかった。大事な『御館様』と共に闇の底へ隠れる事よりも、僕を消去する事を選んだ」
     炎が照らすのは二人の男。……愛する者としあわせになる事だけを望む、二人の男。
    「その身体は彼女のものだ。……返して、もらうぞ」
     しあわせになれなかった一人の娘が見守る中、しあわせになりたい二人の男の戦いが幕を開けた。

     ――二人の力量の差は、明らかだった。

     政臣自身を薪として、「剣」が燃え上がる。一撃毎に腕の皮膚が裂け肉が焦げ骨が軋むのに、その攻撃には何の迷いも怯えも無く――カラスに対する殺意のみを纏う。
     だが。
     その攻撃のことごとくを、カラスは正確に防いでいた。
     例え避けてもその炎による火傷からは逃れられないその攻撃を、刀で巧みに反らし、或いは弾いて、未だ負傷らしい負傷はしていなかった。
    「ちィッ……!」
     舌打ちをした政臣の手元が僅かに狂った。――その乱れを見逃すほど、カラスは甘くなかった。
     間合いを半歩踏み込まれた政臣の足元が乱れ、その刹那銀光が疾る。
     硬質な物同士がぶつかりあう音。
     次の瞬間、政臣は襖に突っ込んでいた。襖を突き破り、木と紙の残骸が飛び散る。政臣はうめき声をあげながらも立ち上がろうと身じろぎしたが、その肩口をカラスが踏みつけ押さえ込む。
     冷たい瞳で政臣を見下ろし、振り下ろしたその刀が政臣の身体を切り裂き紅を撒き散らす――前に。
     凄まじい勢いで振り抜かれた剣がカラスの刀を弾き、へし折った。
    「な……ッ」
     腕の力だけで繰り出された、有り得ない体勢からの攻撃。それはカラスの刀を砕き、……政臣の腕を砕く。「剣」の炎で脆くなった腕の腱が千切れる音――
    「ぐ、うぁあっ……!」
     怯んだカラスの足を退け、政臣は立ち上がる。右腕ごと剣を抱き構えて、突進するかの如くカラスへと剣を突き出す。
     ド、ン。
     鈍い音。肉を刃が貫く音。――それから液体の滴る音。畳に滴る紅色の液体は量を増し、その源は男の身体を貫き背から生えた刃。その刃は、――紅く、燃えていた。
    「……、…………」
     己が身体を貫いた政臣の剣を驚いたような表情で見つめるカラスの唇から、空気の漏れる音がした。
    23.見えないもの 政臣が更に一歩踏み込む。燃え盛る剣が互いの――政臣とカラスの身体を焼き、肉の焦げる嫌な音と匂いが辺りに広がる。
    「は、はは……」
     静寂を乱したのは笑い声。燃える刃に身体を貫かれたカラスがあげた、笑い声。
     違和感を憶えた政臣がカラスの身体から剣を引き抜き飛び退くよりも先に、カラスの手が政臣の腕を掴み力任せに投げ飛ばした。
    「あぐ、っ!」
     畳に叩き付けられ、うめき声をあげる政臣。丁度、この戦いを眉ひとつ動かさず静観していた「彼女」の足元。彼女が僅かにうつむくと、さらりとその髪が滑り落ち表情を覆い隠した。
     ――一歩踏み出したカラスの足元で、砕かれた刀の欠片がじゃりりと音をたてる。刀の切っ先部分にあたる大きな欠片を拾い上げ、小首を傾げるその表情は何処か狂気めいて。
    「その程度の! その程度の炎で私を滅ぼせると? ……笑わせる! 私を殺すなら、」
     親指で自らの左胸を示し、
    「しっかり狙え、ここを貫けば……かりそめの死ぐらいは与えられる」
     また一歩、距離を詰める。政臣は未だ動かない。
     刀の欠片、それでも十二分に人を殺せる殺意を纏ったそれを握り、カラスは笑みを浮かべていた。
    「これで、終わりだ……!」
     刃の欠片を握ったカラスの右手が振り下ろされる。肉を切り裂く鈍い音。散る紅。――空を舞う、黒。
    「な……っ!」
     カラスは目を見開き、そして目の前の光景を凝視する。当然起こるべき光景、政臣の首が切り裂かれるその光景は、上映されなかった。
     小さな、だが確かな殺意の刃を受け止めたのは白い手。その手の主は真っ直ぐにカラスを見つめ、その黒耀は一点の曇りすら無く冴えざえと――
    「貴様、……御館様ではないな……!」
     憎々しげに彼女を睨みつけるカラス。その刃を握った手に力がこめられると、彼女の手から血が滴り落ちる。
     その痛みを。カラスから叩き付けられる憎悪を。真っ向から受け止めて、彼女は、否、既に「彼女」ではなく――紅環希そのひとは、己が手に食い込む刃を握り締めた。
    「いい加減にしてもらおうか。……私たちを、もてあそぶのは」
     畳に紅が滴り落ちて染みを作る。したしたと、静かに。
     動かそうとしたカラスの腕は、何故か動かない。華奢で、吸血鬼の力に敵う筈が無い環希の手に――刃ごと握られ、動かす事が出来ない。
    「どうなって、……Sit!」
     舌打ちし、掴まれていない方の腕を振り上げるカラス。それを哀しげに見上げ、環希は呟いた。
    「……お前には、見えないんだな」
     ――カラスには見えていなかった。その真紅の瞳には、最も写したいものが写っていなかった。
     カラスの手を握る、血まみれの環希の手に重なるもうひとつの手。白く華奢な手に、白い着物。風も無いのに揺れる白い髪、紅い瞳――カラスが総てを犠牲にしても取り戻したかった少女。環希の身体を器として顕在化していた彼女が、半顕在化した状態で、環希と共にカラスの手を握っていた。
     ――やめて……。
     彼女の言葉は空気を揺らさず、カラスの耳を打つ事も無い。
     だからカラスはそのまま環希に向けて腕を振り下ろし――肉を貫く音がした。
     心臓を貫く不快な音。肉の焼ける、脂のような嫌な匂い。
     熱く燃える剣が、カラスの心臓を貫いていた。
    「これで、」
     畳に片手を付き、身体を捻って更に剣を付き出す政臣。
    「終わりだ!」
     カラスの背から剣の切っ先が生え、次いで引き抜かれる。噴き出す血から環希をかばうように立ち、肩で息をする政臣の目の前で、ゆっくりと床に膝を付くカラス。――何かを言おうとして、ごぼりと口から紅色の塊が溢れた。
    「な、ぜ……」
     眉を寄せ、手で口元を押さえる。しかしその手は力無く畳の上に落ち、その瞳は自分にとどめを刺した相手すら見ていなかった。
     急速に光を失いゆくカラスの瞳は虚空を見つめ、立ち上がろうとするも叶わず畳に倒れ伏す。
    「お、やかた……さま……」
     血まみれの手が宙に伸ばされる。くしゃりと歪んだ表情には、常の余裕や狂気は欠片も無く――涙が、頬を伝っていた。
    「御館様、……紅姫、さま……」
     そしてカラスは呼吸を止める。
     宙に伸ばした手を、呼んだ相手が……愛しい彼女が握っていた事を知らないままに。
     ――その彼女が、環希と政臣の方へ振り返る。環希は小さく頷いたが、政臣は怪訝そうに眉をひそめる。
     彼女はひとつ頭を下げると、そのまま空気にとけるように消えた。
    『すまない』
     二人の耳に届いたのは穏やかな少女の声。
    『……ありがとう』
     そして、その部屋は、静寂に包まれた。
     ――緊張の糸が切れたように、溜め息を吐き座り込む政臣。
    「……政臣」
     だが、己を呼ぶ声に素早く背後を振り返る。
    「環希、さん?」
     おずおずと尋ねるのに環希が頷いて、次の瞬間、政臣は自らの腕が痛むのも構わずに環希を抱き締めた。
    「環希さん、環希さん……!」
    「政臣、痛い……」
     環希が苦笑しながら身をよじっても、身体ごと擦り寄せるようにきつく。漸く力を緩めたかと思えば、泣き出しそうな顔で環希を見つめ――ふ、と。そのまま環希にもたれかかるようにして、意識を失った。
     政臣を抱きとめて、環希は愛しげにその頭を撫でた。それから、畳に転がるカラスを、瞳を細めて見つめてる。
     ――そこへ、何者かの駆けてくる音。襖を勢い良く開けて飛び込んで来たのは、二人。ダークと、ガブリエル。
    「終わったんですね、マスター……」
     ボロボロの服を手で払いながら、環希の前に跪くダーク。環希の腕の中にいる政臣を見て、表情を緩めた。
    「『騎士様』は間に合った、ってワケか……にしても、子供じゃあるまいし」
    「『戦士の休息』だ、構うまい。……それより、彼女……」
     そう言った環希の視線の先にはガブリエル。その視線に気付いたガブリエルは、きょとりと首を傾げた。
    「ん? ……あ、こうして会うのはハジメマシテ?」
    「『使徒』……いや、……ルネ?」
     血まみれのスカートの裾を摘んで一礼したガブリエルに、環希はひとつ溜め息を吐いた。
    「……まあいい、この件が落ち着いたら詳しく聞かせてもらおうか」
     らじゃー、とふざけた調子で返事をしたガブリエルは、ダークと共にカラスの方へ歩み寄り、その様子を確認する。
    「……あれ?」
    「マスター、これどうします? ……マスター?」
     怪訝そうなダークの声を最後に、環希は意識を手放した。
    24.歯車は廻る 綾乃小路家、本邸にて――
     廊下を慌ただしげに歩くのは一人の従僕、銀髪の吸血鬼ダーク。カラス無き今、事件の裏側の処理――表側の加工は綾乃小路家の担当である――や従僕の統率を一手に引き受け、多忙な日々を送っていた。
    「相変わらず忙しそうね」
     そんなダークに声をかけるのは、窓枠に腰掛けていた少女。桜と金の混ざった髪を風に揺らし、紅と翠の瞳を細める――ガブリエル。
    「なんだかんだ言って、ウチはあの爺に頼りっぱなしだったからな……」
     ダークは溜め息を吐きながらそうごちり、横目でガブリエルを見やる。
    「お前も、ハッキリしないな。いつまでもここに入り浸るぐらいなら、いっそ従僕契約でもすれば……」
    「んー、イマイチ気乗りがしないのよね。半分だけ、ってわけにはいかないかしら?」
     しれっと紡がれた台詞に、ダークは苦笑した。
     ――あの事件以降もガブリエルは紅家の周りをうろついており、つかず離れずの位置を保っていた。少女の一部があの幼い従僕だからなのか、それとも他に理由があるのか、わからないままに。
    「お前なァ、仮にも『使徒』なんだから……」
    「私、もう『使徒』じゃないよ」
    「……は?」
    「『使徒』、本部が解散したから。なんかね、トップが失踪したらしくて……」
     あ、電話、などと言いながらガブリエルはポケットから携帯電話を引っ張り出して着信名を確認し、眉をひそめ――
    「おい、ちょっと待て。ちゃんと説明し……」
     慌てたダークの言葉などどこ吹く風、そのまま携帯電話片手に外へと飛び下りた。
    「ガブリエル!」
     呼ぶ声にダークを見上げ、ガブリエルは笑み混じりに叫ぶ。
    「あんまり色々考えすぎると体に悪いわ、もうすぐ『おじいちゃん』になるんだから長生きしなきゃね!」
    「な……ッ!」

     そして風が通りすぎる。その風は別の場所へと駆け込んで――

    「環希さんは休んでいて、って言っただろう?」
     そう言いながら、寝室の扉を開いて部屋へ入る政臣。続いて、それに手を引かれて部屋へ入ってくる環希。
    「だが、……手もちぶさたで……」
     不満げに言う環希を椅子に座らせ、その唇に触れるだけの口付けを落としてから、言い聞かせるように政臣は囁いた。
    「もうすぐ忙しくなるんだし、……今は大事な時期だから、ね?」
     愛しげに、環希の下腹部に触れる政臣。
     ――未だ事後処理に終われる日々の最中、環希の妊娠が発覚。それからというもの、政臣は前にも増して過保護になっていた。
    「娘か、息子か……どっちだと思う?」
    「……娘、だ」
     心底幸せそうに尋ねた政臣に、何故か環希は確信めいた答えを返す。
    「……母親の勘、って奴? なんだかずるいな」
     怪訝そうに眉を寄せる政臣を見やり、唇を柔らかく緩め――環希は、未だ膨らんでもいない下腹部を撫でながら、歌うように呟いた。
    「この子はしあわせになる。……しあわせになる為に、産まれてくるんだ」
     政臣は瞬き、それから環希をそっと抱き締める。
    「ああ、……三人で、幸せになろう」
     ――窓のカーテンが揺れる。風は木蓮の香りを運び、遅い春の訪れを告げていた。



     ――これが、ある闇の華族に纏わる物語。
     一人の愚かな吸血鬼と、それに運命の歯車を組み立てられた女と、その歯車を壊そうとした男の話として人の記憶には残っているが……記録には殆んど残っていない物語。

     そしてこれから語るのは、それとは何ら関係の無い、少し未来の物語、その、はじまり。

     ――一人の少女が、とある洋館のとある一室でまどろんでいる。
     少女の母親譲りの艶やかな黒髪は黒耀に似て、少女が椅子で船を漕ぐ度、さらさらと流れ落ちていた。
     びく、と肩を震わせ少女が目覚めると、開かれた瞳は鮮やかな真紅。眠たげに幾度か瞬くと、瞳は澄んだ光をおびて――それから思案げに細められた。
     ――少女はここ最近変わった夢を見続けており、このまどろみの最中にも同じ夢を見たのだ。
     知らない男。けれどどこか懐かしい、いとおしい男がその夢の登場人物。白髪混じりの銀髪、深紅の瞳――ひとではないその男が、ただ「お帰りなさいませ、御館様」と言う、それだけの夢。
     「呼ばれている」のだと感じたのはいつからか、その夢を見始めてから少女はこの館に足しげく通っていた。
     この館は、少女の母親が昔住んでいたもので、ある事件が起こってからは誰も住んでいなかったらしいが、何故か少女は、この館のこの部屋にひどく落ち着きを感じていた。部屋の主の趣味なのか、殺風景で生活感の無いこの部屋には、落ち着く要素など無い筈なのに……。
     再びまどろみ始めた少女は、どこからか吹き込む風を感じて眉をひそめた。椅子から立ち上がり部屋を調べ――本棚に仕掛けがある事に気付く。

     少女は地下室への入り口を見付ける。

     少女はその奥で棺と対面する。

     少女は棺の蓋を開ける。

     そして、少女は――

    「……ただいま、鴉津」
    「お帰りなさいませ、御館様……!」



    《完》
    新矢 晋 Link Message Mute
    2018/08/11 21:26:41

    Blood Queen

    #小説 #オリジナル #現代ファンタジー #吸血鬼
    ある男は大切なものを守るために自らを犠牲にし、ある男は大切なものを取り戻すためにすべてを犠牲にする。

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