辰男と清二郎 憑物筋、というものがある。「何か」に憑かれている血筋のことだ。例えば気狂いを出した、例えば急に富を得た、そういった家を外からそんな風に呼ぶのだが……巳継の家はそれらとは違う。あの家には本当に「蛇」が憑いている。
俺の家はその巳継の家を守るために存在している。守ると言っても現代においてその範囲は複雑化していて、肉体や精神、呪術的な攻撃からは勿論のこと、社会的な問題からも守らなければならない。そのため俺の家には政治家や警察関係者、医者などの様々な工作に都合の良い職に就いている者が多い。俺もいずれはそちら方面に進むだろう。幸い俺は勉学に励むのが苦手なたちではなかったし、決められた道を歩くことに然程抵抗もない。うちも一枚岩ではなく、巳継の家のために生きて死ぬことに反発する者もいるが、少なくとも俺はそうではなかった。
巳継辰男。それが俺の仕える主人の名前だ。俺とあいつは同じ年に産まれ、同じ学校に通い、恐らくこの先も同じ道を歩く。あいつに選ばれた日から俺という存在は俺のものではなくなった。それを不満に思ったことはなく、いつだって俺はあいつのことを優先している。それで困ったことは今のところない。
俺はそんな俺を異常だとは思わないのだが、周囲から見ると俺は少しおかしいらしい。兄にもよく指摘された。お前には自己の意思というものがない、お前は巳継辰男に飼われる化け物だ。
わからない。俺にだってちゃんと意思はあるし、その意思でもって辰男の隣にいることを選んでいるつもりだ。その意思は育ちのせいだ、洗脳めいた教育の結果だ、と言われてしまうと反論は出来ないが……誰だってそういうものじゃないだろうか。今の自分の意思が外部から来るものか内部から来るものかなんて、誰にも明確に区別は出来ないだろう。
初めて辰男に会ったとき、まだ俺が従者になることは決まっておらず――むしろ兄の方が有力候補だった――、だというのに俺には「俺はこいつのために死ぬだろう」という確信に近い予感があった。俺はそれに怯えも疑問も感じず、ただ納得した。俺はそういう風に産まれたのだ、と落ち着いた気持ちであいつを見ていた。この感情が俺の内部から産まれたものかそれとも外部からもたらされたものかなんて、わかる人間がこの世にいるだろうか?
……待ち時間を潰すために巡らせていた思考はどんどん飛躍し、哲学めいた領域に至ろうとしたところで中断された。閉じていた目を開く。丁度目のあるべき位置に縦長の切れ目が入っている女が俺の顔を覗き込んでいる。
「えらにのくみにさたわ」
そう言ったように聞こえたが違うかもしれない。そのつもりがない時は怪異の言葉を認識するべきではないため、普段は耳を閉じている。がりがりと氷砂糖を噛み潰すような音が聞こえる、こちらは言葉ではなく周囲の環境音のようだ。
「あぬりえてらろちののもなこふおむ」
女の口らしき位置には箸であけた程度の大きさの穴があいており、細かく震えている。そこから聞こえるのは怪異の言葉、異界の音、聞いてはならないもの。……なのだが、人間は意味のない音にすら意味を聞き取ってしまう生き物だ。耳を塞ぎ続けるのは難しい。
「私のものにおなりよ」
明瞭に、女の声が聞こえた。その瞬間、胸が締め付けられるような感覚と同時に息が奪われる。ぐにゃりと歪んだ視界で女の体全体が震え始めるのを、笑っているようだと思った。
……どうしてこんな状況になっているのかといえば、今朝まで話は遡る。朝から遠方へ出掛けることとなり不機嫌な辰男をなだめすかしながらその屋敷へ向かっていた俺は、今回の仕事について思い返していた。
今向かっている家の一人息子に怪異が憑き、その対処が巳継の家に回ってきたのだという。田舎とはいえ名家であるその家に恩を売るのは巳継の家にとっても重要と判断され、辰男にお鉢が回ってきたのである。最初は渋っていた辰男だったが、何やら交換条件を呑ませることに成功したらしく、最終的にはこうして現地へと向かうことになった。
到着した屋敷の門構えはなるほど立派で、辰男も少し感心した様子で門をくぐったのだが、くぐった瞬間素早くこっちを振り返りその手をこちらへ伸ばしてきた。
「駄目だ清二郎、入るな、」
「え?」
しかしその時すでに俺は門をくぐってしまっており、敷地内に入ってすぐのところで足を止めるやいなや耐え難い悪寒を感じて思わず自分の腕を擦った。それから視界の端で何かが動いた気がしてそちらを見ようとすると、辰男の両手が俺の顔を挟んで無理矢理己の方に向けさせた。
「見るな。あの女、お前の方に移りやがった」
一瞬言葉の意味がわからなかったが、すぐに察した。俺はどうも怪異のたぐいに好かれるたちで、そのあたりをうろついているものが寄ってくるのは勿論、他の人間に憑いていたものがこちらに鞍替えすることすらある。どうやら今回もそうらしい。どうせ祓わなければならないのだからこちらに憑いたところで問題はないし、面倒が減って良いくらいだと思うのだが、辰男はそうは思っていないらしく険しい顔で俺を――正確には俺の背後を――見ていた。
「分社に行ってそこで始末する。行くぞ」
「声かけていかなくていいのか?」
もう心配ないということくらいは伝えていった方がいいのではと思ったのだが、辰男はふんと鼻を鳴らして俺の手を引いた。辰雄が構わないなら、まあ、いいだろう。俺たちは屋敷を後にした。
『分社』と言っても実際に巳継の家に憑いているものが分けられた社があるわけではない。あれは巳継の家に憑くものであるから、よその土地にはうまく根付かない。この場合の分社とは、巳継に憑いているものがうまく動けるように整えられた設備、くらいの意味だ。
最寄りの分社――俺の家が掌握している病院の一室だ――へ連れてこられた俺は部屋の真ん中に座らされ、辰男が祓いの準備を始める。手伝おうとしたら睨まれたため、おとなしく待つことにした。目を閉じ、益体のない思考を巡らせる。
そうして俺は、彼女と対面することになったのだった。
息が出来ない。寒気がする。頭がぐわんぐわんと揺れるような感覚がある。耳元で女が囁いている。
「あの男のことなぞ忘れておしまい、私と一緒に深い底へおいで」
首が熱い。痣が熱を持っているようだ、きっと女の呪いと巳継の呪いが反発しているのだろう。だが声を出してはいけない。怪異の言葉を聞くだけでも良くないというのに、こちらの言葉を聞かせるのは更に良くない。
俺が床に片手をついたその時、不意に周囲から色が消えた。真っ暗な闇の中に放り込まれたようだ。そして周囲の闇がざわざわと蠢き一斉に女へと群がった。
蛇だ。数十、数百の蛇が女に群がり、這い上がっている。身をよじる女の肌を食い破り、穴という穴から中へと潜り込んでいく。背に何かが触れたと思うと息が戻り、顔を上げると辰男がいた。目をぎらぎらと光らせ女を睨み付けていた。
「辰男、」
思わず名前を呼んで、しまった、と思うと同時に女のなれのはてが――蛇の食べ残し、ぼろぼろに崩れ落ちそうなそれが――こちらへと一気に飛び掛かってくる。
次の瞬間、俺の目の前で女が弾け飛び四散した。辰男が片手を前に突き出していた。舌打ちをしてから俺を見た辰男は、いつものような仏頂面に戻っている。
「大丈夫か」
「ああ」
辰男の目が俺の体を確認し、首元で止まると細められた。俺には見えないがなにか異常でもあるのだろうか。伸ばされた手、その指先が俺の喉に触れるとぴりぴりと痛む。
「痛むか?」
「少しな」
辰男の歯が食い縛られた音が聞こえた気がした。それからぐいと俺の腕を引いて立ち上がらせると、部屋の出口へと向かう。
「さっさと帰るぞ」
辰男が妙に不機嫌な理由が、俺にはいまいちわからなかった。