背中のトライアングル「あたしと結婚してくれる?」
「…しようか」
こんなやりとりで俺は結婚をすることになった。相手はスナック『五月雨』のママのサツキさんだ。
いつも着物をピシッと身につけて、優しく包容力のある女性だ。でもたちの悪い酔っ払いには毅然とした態度で立ち振る舞う。1度チンピラもどきに水をぶっかけて追い出したこともある。
そんなサツキさんの店に来るようになったのは、会社の仲間に連れてこられたのがきっかけだった。
あの頃の自分はセミの抜け殻のように干からびて誰かに踏まれたら粉々に潰れそうだった。
「おい、いつまで落ち込んでるんだよ!女に逃げられたからって何だ、女は星の数ほどいるんだぜ!!」
そんな風に言われても気持ちの整理なんてできなかった。
俺にとって星は1つしかなかったから。
そんな俺をサツキさんは厳しく言い放った。
「アンタのつまんないプライドで女のプライドを傷つけたんだね。自業自得だよ」
全くその通りでぐうの音も出なかった。どうしてあの時社長賞を辞退したのか、こんなことになるなら素直に受け取ればよかった。自分のプライドなんてどうでもいいと思えばよかった。
ウイスキーのロックを一気飲みして、サツキさんに叫んだ。
「そうだよ、俺は馬鹿なくるくるパーマだよ!!」
するとサツキさんは笑いながら
「自分で髪のこと言うんだね、こんなに可愛い髪なのに」
そう言って俺の髪を優しく撫でた。
「あんたが今やることはもっといい男になって、その女を見返してやることだよ。俺から逃げたことを後悔しなってね」
サツキさんは自分用にウォッカをグラスに注ぎ込み始めた。そして俺の隣にいた運ちゃんのグラスを下げて、また同じ酒を作っている。
カウンター腰からお酒を渡す時、着物の袖を押さえながらテーブルのコースターにゆっくりと置く姿が、なんだか色っぽくて見惚れてしまった。
気がつくと俺は朝5時までずっとサツキさんと話をしていた。
寝不足の顔で仕事をしていると、昨日一緒に飲みに行った運ちゃんが来た。
「お前、朝まで飲んでたのか?まぁサツキさんはいい女だからな。やっぱりいい女と一緒にいると気分も上がるだろ!」
頭を強く叩かれて、二日酔いの頭に響くがたしかに昨日は楽しかった。サツキさんはバツイチで12歳の息子がいるらしい、息子は元旦那に引き取られ将来医者になる予定だそうだ。そんな身の上話まで聞くとどんどん親近感が湧いてくる。
昨日まで、あんなに落ち込んでいたのが嘘のようだった。
それから、俺は毎日のようにサツキさんの店へ行った。そしてサツキさんのことをたくさん知った。サツキさんの左手首にはホクロがある、年齢は俺より2歳上で、実家は滋賀にあり鳥人間コンテストを毎年見に行くのが楽しみだったなど、知れば知るほど面白い、きれいな女性だと思った。
そしてあの日ー。
サツキさんの店に行くと臨時休業という張り紙があった。
何かあったのだろうかと気になったがサツキさんの連絡先は知らない。仕方なく帰ろうとしていたら、中からグラスが割れる音がした。
入口には鍵が閉まっていたが、裏口は空いていたので不法侵入になると思いつつも心配で中に入ると、サツキさんがテーブルにうつ伏せになって声を殺すように泣いていた。
そして右手にはガラスのかけら、ホクロの手前には血が滲み出ていた。
「あの人が、再婚するから…もう2度と息子に会わないでくれって言われたのよ……渡していた養育費も全部返されたわ………何のために生きているか、分からないのよ」
アイシャドウが落ちてぐちゃぐちゃになるほど涙を流して俺に告げたサツキさんはただ左手首を握りしめたまま動かずにいた。
俺はとりあえず止血しようと、鞄からハンカチを取り出して傷口に巻いた。幸い出血は少ないようでほっとした。
サツキさんがスナックのママをしていたのは息子のためだったのだと、その時初めて気がついた。離婚して離れて暮らしていてもかけがえのない大切な存在だったのだろう。
その息子と2度と会うななんて、どれだけ勝手でひどい元夫なんだ。俺は拳を強く握り殴りに行きたい衝動にかられた。
どれだけ時間が過ぎただろう。端にある熱帯魚の水槽の機械音だけがずっとゴポゴポと鳴り続けていた。
そして、サツキさんの後ろ姿がかつて春子を失った自分と重なった。
「サツキさん………俺に出来ることがあれば言ってよ、俺は…サツキさんのおかげで立ち直れたから…今度は俺がサツキさんのために何かしてあげたい」
そして、突然求婚されてそれを受け入れることになった。
それからすぐに一緒に暮らすことにした、サツキさんを1人きりにさせるのは心配だったからだ。また衝動的に自傷行為をしないかと不安だった。
そして賢ちゃんにも結婚することを報告したら、すごく驚いていた。でも「おめでとう!今度会わせてね」と優しく言ってくれた。
サツキさんは意外にも料理が苦手だった、たしかに店ではあまり料理はせずつまみも市販のものが多かった。
でも、味の薄い肉じゃがは不思議と美味しく食べることができた。
「これからは酒だけじゃなく料理の勉強もするよ」
そう話すサツキさんのために休みにふたりでショッピングモールへ行き、調理道具を買いに行くことにした。
春子がいなくなったときに、ほとんどのものは処分してしまった。僅かに残したマグカップなどは棚の奥へ隠している。
「サツキさんは名前からして緑のイメージなんだよね、だから緑のエプロンとか欲しいよな」
「武くんって単純よね、私は紫が好きなのよ、菖蒲のような深い紫が」
サツキさんは俺を「武くん」と呼ぶ。もちろん髪の毛のことで馬鹿にしたりはしない。
左手にはこの間買った指輪、ホクロの近くの傷ももうほとんど消えている。その手を繋いで俺は歩幅を合わせて歩く。
すると、携帯が鳴りパカっと開くと本社からの電話だった。こんな休日にどうしたのだろうか?
俺はサツキさんに近くのソファで待っててと伝えて近くのトイレ前まで行き電話に出た。
「もしもし、東海林です」
「…休みの日にごめんね、東海林さん」
「賢ちゃん、どうしたんだ?休日出勤か?」
「今日イベントの準備で来てるんだけど、東海林さんが電撃結婚したって話したら販売企画課のみんなが電話しろって言い出して…とりあえず変わるよ」
「東海林くん!!あんたいつも突然いなくなったり結婚したり……おめでとう!!」
その声は久しぶりに聞く匡子の声だ。
「匡子…ありがとう、また東京いったらみんなで飲もうな」
「東海林さんの奥さん美人なんですか?スナックのママさんだからきっと美人でしょうね〜写メ送ってくださいよ!!」
かつて本社で共に働いていた仲間たちが祝福してくれて、少し涙が出そうだった。
結婚すると、こんなに人から祝ってもらえるのかー。
そして、俺が突然のサプライズで感激しているとき。サツキさんはソファに腰掛けて化粧崩れがないか確認しようと鏡を出そうとしたら、誤って床に落としてしまったらしい。
すると、それをすかさず拾ってくれた女がいたそうだ。
「落ちましたよ」
「ああ、ありがとう」
その女はサツキさんをじっと見つめて、呟くように
「おきれいですね、お顔も、指輪も」
そう突然言われて戸惑ってしまったそうだが、店で鍛えた営業スマイルで
「ありがとう、この間入籍したばかりなの」
そう答えたらしい。
「そうですか……どうぞ、お幸せに」
その女は深くお辞儀をして去っていったそうだ。
どこか儚く寂しそうな背中が、あの頃の自分と重なったと、俺にその出来事を話してくれた。
その時の俺はそれが誰なのか深く考えずにいた、きっと同僚たちにちやほやされて浮かれていたからだろう。
「そっか、かわった人もいるもんだな。まぁ早くエプロン探しに行こう!」
そう言ってもう1度手を強く握った。
今度はもう2度と離したりしないと誓いながら。