隣の芝生は春春子には味方も多いが敵も多い。
春子がかつて働いていたロビンソン百貨店も、業績は上がったものの、その傍若無尽な振る舞いをよく思わない人間もいたりした。
そして2020年のS&Fにハケンされる前の前の職場で、春子のことを強く敵視する人物がいた。
「お久しぶりですね、大前さん」
昼休憩を一緒に取ろうと強引についてきた東海林とそれを無視して1人で向かっていた春子の前に現れた女性。
穏やかそうに挨拶するが目は明らかに笑っていない、その女性は春子と東海林の前を塞ぐように立ちはだかった。
「…どちら様でしょうか?」
「あら?2年前のことももう忘れたの?お年かしら…私は大手アパレル、ダダタウンの企画部に勤める服部郁乃よ」
春子より少し年下だろうか、肌はきれいだが首のシワを見ると年齢がわかる。
背が高くモデル体系だが顔つきは少しきつそうなつり目をしていた。
「こんなところで偶然ね、あなた今丸の内で働いているの?私は新作をリサーチするためにOLさんにアンケートを取ってるの。でもあなたみたいにファッションに無頓着な人にはお答え頂いても無駄かしら?」
「そうですね、貴重な休憩の時間を無駄にしたくないので…失礼します」
そう一礼して郁乃の壁をするりとかわして去っていった。
「おい、とっくり!失礼なのはお前だろ!すみませんね、うちの大前があんな態度で」
そう言いながら東海林は郁乃に謝った。
「あなた、大前さんの派遣会社の担当さん?」
「いや、俺は職場の上司で…一応、恋人というか、彼氏だよ」
東海林は照れながら首に手を回しながら言う、この年で自分を恋人や彼氏と言うのはなんだか恥ずかしいと思いながら。
「か…彼氏!?あの女に!?」
郁乃のつり目が飛び出すかのように驚きの表情を見せた。
「貴方の名前は!?年齢は!?あの人が他人に興味を持つだなんて…!!」
動揺のあまり質問を何個も投げつける。東海林は困りつつも春子の昔のことが知りたくて、郁乃と別の店で昼を取ることにした。春子はどうせ1人で勝手に食べて1人で帰るだろうと思いそのままにしておいた。
「大前さんの働きっぷりはそれはもう素晴らしかったです。企画部でも斬新なアイデアでファッションショーをウェブ配信して、視聴者から人気投票で新作を決定するなど、流行の最前線を常に意識していました」
褒めているのにどこかトゲのあるような言い方をしていると東海林は思った。
「あいつ、アパレル関係でも活躍してたのか。たしかにそっち系の資格ももっていそうだもんな」
「でも!!あの人はいつもあんなタートルネックに地味なジャケットに地味なボトムスで会社に来ていました。そんな人が3か月でうちの業績を倍近く上げて…私なんて20年働いていても業績は上がるどころか落ち込むばかりだったと言うのに!!」
郁乃は興奮してテーブルをドン!!と叩いた。
東海林はその様子を見て、まるで昔の自分を見ているようだと感じる。春子にやられてばかりでプライドを打ち砕かれたかつての自分を。
「でも、あんたも大前春子の凄さを認めてるんじゃないのか?」
東海林は見透かしたように郁乃に告げる。
お互いまだ口をつけていないベーグルサンドを郁乃は掴んでしばらく黙々と食べていた。
少し面倒そうな人だなと感じつつもそこまで悪い人ではないと思いながら東海林は自分のバジルチキンサンドを口に運んだ。
そしてアイスコーヒーで一気に流し込んだ郁乃は
「私は認めません、3か月でさっさと去るようないい加減な人…私のことを仕事ができないのに20年も居座りつづけるお局さんだと……みんなの前で言われて笑い者にされた屈辱、あなたにわかりますか!?」
感情が高ぶったのか、また机をバン!と叩いた。
「あいつまたそんな余計な事を…代わりに謝るよ、すまなかった」
東海林は郁乃に頭を下げた、すると郁乃は財布から千円札を取り出してバンと机に叩くように置いた。
「あなたに謝られても私は大前さんのことを許していません。あの人をギャフンと言わせるくらいのことがないと…私の心は晴れませんから」
そうつり目をさらに鋭くしたような目で言い放ち、郁乃は東海林のスマホを奪い、電話番号を打ち始めた。
「私の電話番号に発信させてもらいました、また後日あなたを介して大前さんと話をつけさせてもらおうと思います。それでは失礼しました」
そうして郁乃は店を出て行った。東海林はその後ろ姿を見つめながら、ああ言うタイプは根に持つから春子が変なことに巻き込まれないかと少し不安になっていた。
「ーっていう事があったんだが」
東海林はようじ屋から帰ってきた春子にさっき起きた出来事を説明した。
「それで、あなたはあの人の話を親切に聞いていたという事ですか?」
「何、俺が来なくて心配してた?あれだけ邪魔だからくるなとか言ってたくせに…」
「そうではありません、あの人は…少し面倒なところがあって、周りを巻き込む癖があるんです」
「ああ、そんな感じはしたなぁ」
「あなたも下手に関わると酷い目に遭いますよ」
「酷い目って…ボコボコに殴られるとか?」
「そんな感じです」
「ってマジかよ!?」
そんな会話を続けていたら事業のチャイムが鳴った。
「それでは業務に戻ります」
春子はデスクに座り頼まれた書類を打ち込んでいた。
東海林も大人しく座って仕事モードに切り替えるが、あの時電話番号を教えてしまった事を地味に後悔していた。
5時に春子は退勤して、東海林は打ち合わせなどがあり8時前に会社を出た、するとスマホに着信があることに気がついて電話に出る。
「こんばんは、服部です。夜分遅くすみません」
思わず電話を切りそうになった。
「ああ、昼間はどうも」
「今そちらの会社の近くなんですが少しだけお話しできませんか、昼間感情的になってしまったことを謝りたくて…」
昼とは違ってしおらしい口調で話す、その声にまんまと騙されて東海林は指定された場所へと向かってしまった。
そこは会社から10分ほど歩いた小さい公園だ、夜なので子供もおらずしんとしている。
そこの入り口で郁乃は東海林を待っていた。
「東海林さん、こんばんは」
昼間のつり目がやけに弱々しくなっている。どうしたのかと東海林は郁乃に近づいて、訳を問う。
「どうしたの、謝りたいなんて…」
「私、昔のことを思い出して感情的になってしまって…あれから反省したんです、大前さんの恋人に八つ当たりしても意味ないのに…すみませんでした」
そう言うと深々と頭を下げた。
「いや、俺の方こそちゃんと話を聞いてあげられなくてすまなかった。でも大前春子はいいやつなんだ、思ってることと反対のことを言うような女だから誤解されやすいけどさ………」
東海林は郁乃の謝罪をまんまと信じ込んでしまっていて、スキだらけだった。そして郁乃は術中にはまった東海林の腹部を思い切り肘打ちして、気絶させた。
すると近くに止まっていたタクシーを呼び運転手に担ぎ込まれた東海林と一緒にどこかへ向かって行った。
そこは広い和室で古びているものの綺麗に掃除され清潔感が感じられた。奥には床の間に墨絵の掛け軸が飾られていた。
郁乃は横に箱を置いたまま瞑想しているかのように目を閉じていたが、東海林の意識が戻ったことに気がつくと、体の向きを変えて話し始めた。
「ここは私の家の離れです、母屋には家族がいるのでしばらくそのままでいてもらいます」
東海林は紐で手足を縛られて口に粘着テープを貼られていた。昼間の春子からの忠告を思い出し今更後悔しする、油断して会ったりするんじゃなかった。それよりどうやって自分をここまで連れてきたのか。
東海林は郁乃に質問しようとするが
「うーうっ、ううん、ぐ、ふふっふう」
口を閉じられているせいで全く言葉にならなかった。
「先程あなたの携帯をお借りして、大前春子を呼び出しました。あなたを拉致したと言った途端声が動揺していたので、やはり恋人というのは本当のようですね、そして『ハエを1匹駆除しに行くだけです』と言ってましたが結果的に私との勝負を受けるそうです」
自分の質問とは全く違う答えを返された。
そして、またハエ呼ばわりされてムカっとしたものの、春子が自分を助けに来てくれるとわかり少し嬉しくなった。それよりも勝負とは何なのか。
「ああ、その縄はダイソーで買いました。あと背広は邪魔だったので脱がせてもらいましたから。」
そっちじゃねぇーと心の中で突っ込みつつも、アイコンタクトで伝えようと箱の方に目線を合わす。
「ああ、これですね。そう、大前春子との勝負をかけた1戦…百人一首です!!」
そう言いながら郁乃はドヤ顔でかるたを見せた。
(仕事の対決じゃねーのかよ!!!!)
東海林は口を塞がれていなければ絶対口にしていただろう。
そしてふと百人一首で思い出す、昔桐島部長と春子が名刺カルタ対決をしていたことを。あの時もかなり早い手つきで名刺を取っていた。あのくらいの速さならこの女に勝つことくらい容易だろう。
ハッキリと負けたらこの女も諦めがつくかもしれない。東海林はこの対決は春子が勝つとその時は思い込んでいた。
そして、しばらくすると春子がやってきた。
ふすまを開けてこちらを睨むように見つめていた。
「大前さん、来てくれたんですね」
郁乃が挑発するように言うと、春子は眉間にシワを寄せながら
「あなたも相変わらずですね…人を巻き込んで、己の鬱憤を晴らす」
そう言い放つと、郁乃は立ち上がり
「相変わらず嫌味な物言いしかできないのね、かわいそうに。この方もこんな女のどこがいいのか…趣味が悪い」
東海林を哀れむように見下ろして言う。
「そうですね、私もなんでハエの為にここへ来たのか…自分の趣味の悪さに呆れます」
春子も負けずに論争しようとするが、どちらにも貶されている東海林は段々イライラが募ってくる。
「それよりも本題に入りましょう。大前さん、私とかるたで勝負しなさい。そうすれば勝ち負け関係なくこの方をお返しします」
「……わかりました」
春子は畳の敷居を跨いで郁乃の前で正座をする。そして郁乃は箱からかるたを取り出して畳の上に広げて撫でるように札をシャッフルしていた。その中から50枚を選び、次に25枚ずつ丁寧に3列で並べていく。
その様子を見ていると郁乃は慣れた手つきで、経験者だと言うことが素人から見てもわかる。だが春子もルールを理解しているようで迷うことなく同じ動作を繰り返していた。
読み手はスマホのアプリで流すと言い、スマホから
「なにわずに〜さくやこのはな〜」
まるでブランコで揺れているような声が響く。
そして次の言葉が流れた旬感、畳にドスンと響くような重低音が体に伝わってきた。
郁乃の右手がかるたを払った音だ。
思った以上の速さに東海林は体が痺れるような感覚になる。春子も目を左右に動かし次に読まれる札はどれかと待ち受けている。
そして2度、3度と続けて郁乃が自陣から札を取っていく、その度につり目がどんどん鋭くなっているような気がした。
「大前さん、遠慮しなくていいんですよ」
「遠慮などしていません」
春子は表情を崩さず、右手を素振りしながら返事をする。春子からは焦る様子が見受けられない、何か戦略があるのだろうか。それでも郁乃の鋭い手を見てしまっては春子が勝つだろうと言う予感はぐらぐらと足元が揺れているように落ちてしまいそうになる。
だが、そんな不安はそのあと一気に吹き飛んでしまう。
次に読まれた札は春子の自陣にある札で、囲い手で郁乃の手をガードした。
「あなたは、敵陣の札を取るのが遅いー」
春子は口角を微かに上げて呟いた。
それから取って取られて五角の戦いを続ける。
そして最後、互いの札が1枚ずつ残り取り札も同じ24枚ずつだった。
すると、郁乃がスマホを一時停止してセイムを取った。
「大前さん、前の時のように…わざと負けるのはやめてね。私にはわかってました」
「あの時の勝負ですか…?私はわざと負けたりしてません」
あの時とはいつなのか東海林にはわからなかったが、多分一緒に働いているときにやりあったのだろうと想像した。そして、わざと負けたという言葉でふと自分とやりあったホチキス対決のことを思い出した。
あの時春子は焦るあまりミスをしたと思ったが、後で思えばわざと負けていたのかもしれないと思っていたからだ。
「私は子供の時からかるたをしていて、仕事も22歳からずっと会社に尽くしてきたのよ。だからあなたみたいな片手間で器用にこなすような人が大嫌いなのよ。努力するしか方法がない私に取って…あなたはとても疎ましい存在だったわ。だから、あなたに同情されて勝っても嬉しくないの」
郁乃は淡々と話すが、最後の方は涙声になっていた。郁乃の春子に対する嫉妬心や時間をかけて努力しても叶わない事への虚しさなどが、東海林の心の中にも染みてきた。
面倒で感情的でめちゃくちゃな人だと思ったが、本質はとても繊細な心を持っているのかもしれない。
そんな郁乃を見て、春子はジャケットを脱ぎ身軽になり、腕まくりをする。
「もちろん、私も全力で挑みます」
そして再びスマホを起動して2人は前のめりになり、読まれるのを息を止めて待っていた。
「すみのえのーー」
2人の手が同時に風を切る。
「ありがとうございました」
そう言いながら、2人は深々と頭を下げた。
そして春子は顔を上げて、唇を動かす。
「あなたは強くなりましたね、参りました」
「…あなたの陣地なら負けてたわ、最後は運だったのよ」
「とりあえず、あのハエを持ち帰っていいでしょうか?」
そうして指をさしたのは、勝負が長くて疲れてしまい壁にもたれていた東海林だった。
「まだ腹が痛いんだけど、ヒビでも入ってんじゃないのか…」
帰り道、腹部を手で撫でながら愚痴をこぼす東海林に
「あの方空手もやってましたからね、瞬発力を鍛えるためとか」
「空手!?こええよ…あの人」
「私のせいであなたにも迷惑をかけてしまいましたね、申し訳ありません」
春子は珍しく東海林に謝罪の言葉を向けてきた。
「何だよ、さっきまでハエだの散々言ってたくせに…でも、あの人の気持ちも分かるんだよな。お前には敵わないって思うところとか」
「そうですか?私はあなたや服部さんのように一生大切にできることを持っている人に憧れます」
そんな春子の何気ない一言に東海林は胸が震えた。
もしかして、自分や郁乃に突っかっていたのは春子にも羨む気持ちがあるからかもしれないー。
そう考えると、生意気な言葉もなんだか子供のように可愛く思えてきた。本当の気持ちを素直に伝えない、面倒な女だけどその面倒がとても心地よい。
「じゃあさ、お詫びに今日はうちに来ないか…?」
「今日は資格の勉強があるので帰ります」
「資格なんて一夜漬けでいいじゃねーか」
「あなたみたいな適当な人と一緒にしないで下さい」
腰に回してきた東海林の手を春子は札を払うようにはねのけた。