麩菓子のやうに思い出は脆くなんだか特別なことでもなかったけど。思い返せば日常みたいな当たり前にあったこと。
傍にあった当たり前は、実はとんでもない非日常で。
そんな非日常と隣り合わせで走り抜けた自分もまた、非日常の住人だったんだ、と。
自覚は今でもないけど、他人が見たらきっとそうだと言う。
だからなんだと口にするわけでもないけど。
自分は、あの非日常と称される日々を否定も肯定もしてない。
ただ、ある日突然上司が行方知れず。
前教皇、トールダン7世とともに何処かへ行って、それからは知らない。
知りたいとも思わない。
残念だけど人とはそう言うものだから仕方がない。
自分に残されたのはパワハラと呼ばれるシゴキと、たまに移ったような口調。忌々しいかと聞かれたら、それほどでもない。普通。真ん中。なにも。
「あー、」
非常に間抜けな声だ。
新居。なんやかんや自称事件屋ヒルディとともにイシュガルドに潜む闇と呼べるのかどうかわからないものを解決して、代わりに得たのは尋問局からの破門。
あんな人をボロ雑巾のように扱う最低な、いわゆるブラックからやめろと言われれば、大手を振ってありがとうと、もうこの世の何もかもから解放された顔でやめてやった。
行った先は冒険者とゴブリン族が集うイディルシャイア。
ここでは出自がどうだろうと誰も何も言わない。
出自。元の職場が職場だけに色々腹を探られると痛い。
仕事をして街の発展に協力してくれれば誰だって受け入れる。
そんな街は、とても都合が良かった。
「あ、あー」
新居内で1人、言葉を漏らす。
簡素なテーブルに粗雑に置かれた袋。
たまたま買い物に行った時、重そうな荷物を持ってる人がいたから手伝ったら、そのお礼に、ともらった、いわゆる粗品。
キールはその粗品に何度か見覚えがあった。
中身は、酢イカだろう。
袋を開けば酸の香りが鼻腔をくすぐる。
彼は、そのもの自体を何回か見たことがある。昔、非日常を必死で駆けていたあの頃。
大規模な異端者捕縛作戦の後、ヘトヘトになってる時にこれと同じのを渡された記憶がある。
宝杖通りの見えない場所。
カウルのフードを深く被った老婆の営むよくわからない店。
たまに貧民街の子供が粗悪な硬貨を1枚握りしめて何かを買っていくのを見た。
そこで上司によくそんなものを買ってもらった。
酢漬けのイカの日もあったし、薄い甘辛い板切れみたいなやつとか。
あとスライムみたいなねばついた飴に、手のひらに収まる発酵食。
他にもいっぱいもらった。
紐のついた、イチゴの味がする飴。あれが一番好きだった。
労いは、高価な料理でも、高価な装飾品でもない。
粗悪な硬貨で買える、安価な菓子。
でもそれを渡す上司は、嘲笑うこともなかったので、本当に、渡したかったもの。と言うのはわかった。
「雲霧街の子はネ」
不意に隣に座った上司が言葉を発する。
「食べ物って言っても、酒場や貴族の残飯。石畳を走るネズミを捕まえて焼いて、それが1番のご馳走」
上司がどこぞの学院の出ではなく下層の、貧民街の成り上がりだと言うことは、尋問局には周知の事実だ。
「だから、粗悪な硬貨で買える『食べ物』がある場所は、その子達にとっての最後の誇示。」
渡される硬貨を見れば、確かにそうだ。
食べるものなんて何一つ買う価値がないじゃないか!
「アタシも、オセワになったのヨ」
爪楊枝で小さな桃色の四角なにかを突き刺し口に入れた。
あれもたしか、食べた。
ちょっともちもちしてて、甘いやつ。
人は、鞭と飴を使い分けると言うが、飴の部分が高価な料理や金銀財宝ではなく、粗悪な硬貨で買えてしまう。
見劣りするような粗悪なもの。
それでも下層の子供たちは目を輝かせていた。
小さなお菓子を大勢で集まって交換して。
そんな様子にふ、と笑みが溢れた。
「ヤダ!アンタ疲労でおかしくなっちゃったの?!」
「な、なってないです!そう思うならもう少し労ってほしいですよね!」
す、と目の前に差し出された細長い袋。
感じる重さとしては麩菓子の系統か。
「もっと頑張ってアタシが楽になれればこれよりもっと高いもの奢ってやるから、我慢しなさいよ。」
ありがとう、も言わずに黙って受け取った。
その翌日。
上司は前教皇トールダン7世とともに、どこかへ消えた。
もらった酢漬けのイカの袋をどうしようかと、とりあえず隅に寄せた。
まだ家の整理は終わってない。
異端尋問局にいたときの青い生地のローブを出す。
これもいずれ、捨てねばならぬ。
燃やして。
ポケットを探るとどうでもいいメモの切れ端とか、コインが数枚落ちてる中で、つる、くしゃ、とした感触。
あ。
口が空いた。
ポケットから出てきたのは、上司に最後に奢ってもらった、麩菓子。
長年ポケットの中にあったので、袋の口をひらいだら、全部が粉々に崩れ去っていた。
嗚呼、まるで記憶のよう。
あの必死で駆け抜けた日々は、形としてあったのに。
いざなくなると、小さく粉々になって、あったことさえわからなくなる。
結局、上司が消えて、それでどうなったかというのは知りたくもない。
敬愛なんてなかったから。
粉々に砕けた麩菓子。
袋の入り口からじっと見る。
これだけ崩れ去れば、食べることもできない。
残しても何もないので、最終的に、ゴミにすることにした。
ゴミ箱には尋問局時代に使っていた本が既に先客としていた。
かなしさも。
なごりおしさも、ない。
テーブルの端によけたイカの酢漬けを口に含んだ。
「やっぱり、酸っぱいなあ」
イシュガルは終戦を迎え、旧体制を排除し、前へ進んでいく。
けれども、それは自分自身には関係ない。
イシュガルドがどうなろうが、自分はイディルシャイアにいるのだから。
ちらりとゴミ箱を見やる。
本と、粉々に砕けた麩菓子の袋。
「おいしかったですよ」
広い、1人の部屋に、声が寂しく響いた。