失態 ――しまった、ツイていない。これほどまでにツイていないことがかつてあっただろうか。
いや、戦士候補生時代から考えれば、こんなことはへでもないほどの難関は確かに経験はしていたように思う。……いやいや、今はそんなことはどうでもいい。
私は高い木の上から地面を見下ろし、くらくらと揺れる視界に焦っていた。
一昨日、任務遂行のために夜通し王都で調査をした。ウォールローゼ南部に位置するこの訓練兵宿舎に戻ったのは朝方のことで、ろくな睡眠をとる前に起床時間となった。
しかし私はどうしても昨日も王都に向かわなかればならなかった。現在調べている最重要人物が夜会に招待されて出席するそうで、私はそいつを探る絶好の機会だと踏んでいたからだ。
夜会は無事に開かれて、私も無事にそいつの調査を遂行した。だがその夜会が長引き、王都を出る時間が予定より大幅にずれてしまった。
宿舎に帰り着いたのは既に日が昇り切ったあとで、宿舎がもぬけの殻になるよりもさらにあとだった。私は一睡もできないまま、朝食を摂る時間すらなく、講習室へ向かった。憲兵団への切符を手に入れるため、模範生さながらの振る舞いが求められたからだ。
――私がこんな無理を押し通したのには理由があった。幸いなことに、今日一日は座学の予定だったからだ。一日座学なのだから、私は多少の無理をしてもいいと思った。無理をするだけの価値がある調査になると思っていたから。
だが誤算だったのは、講習室にやってきたのは座学の教官ではなく、実技の教官のキース・シャーディスだった。
抜き打ちで立体機動装置の試験を始めると言い出したのだ。二日間に渡りほぼ睡眠をとっていなかった私は、それだけで拷問のような時間を過ごしていたというのに、身体を休める時間は与えられなかった。すっからかんになった腹も気持ちが悪い。
試験は二組に分かれることになった。一組めが試験をしている間、もう一組は試験の援助で巨人の模型の操作を任された。
――それが今、私が高い木の上に立っている理由だ。ぐらぐらと時折前後不覚になりながら、私は必死にその場で持ち堪えていた。巨人の模型に繋がれた紐を握りしめて。
……眠い、けれど、眠るわけにはいかない。気持ちが悪い、けれど、うずくまるわけにもいかない。私は先ほど〝拷問さながら〟と称した苦境の中、必死にこの時間が過ぎることを待っていた。
一組めの時間が終われば、二組めの試験までの間に昼食を摂るための休憩が入る。もう空腹も限界だったが、私にはそれ以上に仮眠が必要だった。私はそのわずかな休憩時間を思い、必死に潰れそうな意識を保っている。
「集合ーっ!」
森の向こうからシャーディス教官のがなる声が聞こえた。同時にカランカランと手持ちの鐘が鳴らされる音も響く。
私はようやくかと安堵に満ちていた。……これで、これでようやく仮眠がとれる。
眠気と気持ち悪さのせいで覚束ない手元だったが、それでも必死に立体機動装置を操作して集合場所に向かった。そこにいたほかの百四期生の間にこの身を混ぜ込む。なるべく目立たないように後列に場所を構えた。
シャーディス教官が一組めの講評を叫んだりしているようだ。遠かったことが原因ではなく、私は今にも手放しそうな意識を捕まえていることに必死だった。何も教官の言葉が頭に入ってこないのはそのためだった。
ぐらり、と再び足下が揺らぐ。誰かに見られたような気がして周りを見回したが、焦点が上手く合わない。反対に地面を見下ろすと、そこでもぐにゃりと空間が歪む。……そして捩れるような空腹感が胃を抉るように込み上げる。私は気づかれないよう首を振って、必死にこの時間を耐抜く。
すると、ようやく同期たちがだらけた顔をしてあちこちに散らばり始めた。いや、だいたいは森の入り口のほうへ向かっているようだった。
私はとりあえずシャーディス教官がこちらに背中を向けたことを確認して、それからそろりと一歩を引いた。
私の周りにいた同期たちも森の入口のほうに向かうため、私はその固まりの最後尾となった。それをまた確認し、今度は慌てて踵を返す。
おえ、とまた空腹感が込み上げて、私は最悪な気分の中で口元を押さえながら歩いた。
同期たちに見つからないような死角を求めて、大きな幹を持つ木はないかと探したのだ。
気を抜けば今にも意識を手放してしまいそうだった。よれよれともはや不確かな足元を踏み締めて、私は少し歩いた。
寝てしまえば……一度寝てさえしまえば、すぐにこの不調はよくなる。私はそれが約束されたバケモノだったから、とにかく休めばいいとそればかりを考えていた。
そして己の限界を悟ったところで、そのとき手をついていた木の根元にうずくまった。――ああもう、ここでいい。
パーカーのフードをぐっと引っ張り頭に被せ、そしてすぐに目を閉じた。この距離ならまた同期たちが集まり始めれば気配に気づいて起きられるだろう。とにかく今は、少しでも睡眠を取らなければと、自分を必死に説得した。
気持ち悪さのせいか、どくどくと心臓の鼓動が早く脈を打っているように感じた。落ち着け、今は落ち着いて寝てしまうんだ、そう自分に語りかけ続けた。
ふわりと身体が苦しみから浮かび上がったような感覚に陥る。意識を手放してしまう寸前でその端っこを握りしめているような、そんなふわふわと曖昧な認識で瞼をぱちぱちと瞬かせる。視界はぼやけていて、音も一気に飽和した。
「――アニ、ここにいたんだね」
「!?」
思い切り肩を震わせてしまった。
「あ、ごめん……って、大丈夫!?」
飽和した音の中で驚くほど鮮明に聞こえた声は、アルミンのものだった。見上げてその顔を認識してようやくわかった事実に、それでも状況はわからず混乱する。
――私は今、どこで、何を、していた?
一瞬のうちに忘れ去ったすべてのせいで、アルミンの心配そうな顔を見ながら困惑の渦に絡めとられる。
「すごい顔色だよ。君、なんかふらふらしてたから気になってたんだ。体調悪いの? だめだよ。医務室行こう」
はっと驚きのあまり息を吸い込んでいた。咄嗟のことで私は腕を伸ばしていた。……私の腕を掴んで立たせようとしたアルミンに対して、反対の手を伸ばして振り払ってしまっていたのだ。
「え、あ、アニ?」
「……その、医務室は、行かない」
そうだ、ここで医務室に行っていたら、無理を通して行った調査に傷がつく。憲兵団への切符を手に入れるために、マイナス評価に繋がることは極力避けなければならない。自己管理ができてないなんて、そんなこと思われるべきではない。
なのにアルミンは、はあ、と呆れたようにため息をこぼした。それのせいかはわからないが、ドッと脈が激しくなったように感じる。
「それはだめだって。そもそもそんな顔色で試験を受けるなんて。ちゃんと申告すれば日程を見直してくれるかも、」
「いやだ、いかない」
これは焦りだ。――何に対する焦りだ? とにかく、私は焦りを感じていた。このままアルミンに教官に告げられてしまうことへの焦りだったのだと思う。
私は気持ち悪くてもう動けもしない、まともに回ってすらいない頭で、アルミンの腕を強く掴んで握り込んだ。
「だい、じょうぶ。……少し寝たら、たぶん、だいじょうぶ」
「……ほんとに?」
「ほんとう」
そしてその場でうずくまって、もうわけがわからない内に目を瞑っていた。……これでいい。これで、私は仮眠をとって、そうしたら、私はまたいつもの調子に――、
――すると、ぐらっと身体が揺れて、たちまち力が抜け落ちた。それでも私の身体はしっかりと安定を保ったままで、何かにゆっくりと抱き止められたような、支えられているような……――そうか、これは、何か温かいものに寄りかかっているような、そんな感覚を理解した。
必死に目を開いても、もう視界からの情報は質が落ちて、自分の投げ出した脚がかろうじてわかるくらいだった。重すぎる瞼を何度も開くことはできず、鍵がかかったようにそれを閉じた。
ぐぅ、と自分でもわかるほど深い息が肺を膨らませる。いつも香る洗濯洗剤の匂いがやけに近くに感じた。
「――」
誰かの話し声が遠くのほうで聞こえる。その旋律は心地よく、もはや子守唄のように耳を傾けた。
ああ、温かくて安心する。匂いと、旋律と……そして、自分の心臓が聞こえてきそうなほどの、安堵感。私はいつの間にやらそれらに溺れて、意識をそこらじゅうに漂わせていた。
温かな暗闇に抱かれて、赤ん坊のようにすべての警戒心を手放し、そして与えられる平和をひたすらに享受した。
「――アニ、」
また遠くから誰かが私を呼ぶ声が聞こえる。
誰の声だろう。
「……アニ、アニ、」
優しく紡がれるこの音色は、なぜか父さんのことを思い出させた。どこかで父さんのものではないとわかっているのに、縋りたくなるような、駆け出したくなるような、そんな……〝やすらぎ〟を孕んだ呼び声だった。
「アニ。ねえ、アニ――、」
名前を呼ばれる度に心地よく感じて、唸りたくなる。うん、今行くよと心の中で幼子のような返事をして……この旋律も鼓動も温もりも匂いも、いつまでも溺れていたいようなやさしさを――、
「……ハッ」
私は自分の吸気音で目を覚ました。
驚きのあまり、一時焦点が合わなかった。
……ここは、どこだ……?
目の前には木製の天井があって、私は温かいが柔らかくはない布団の中で目を覚ましたらしかった。
ここに至るまでの記憶がない。動悸が激しくくり返している。状況がわからないため、警戒心が硬質化より強く身体を強張らせた。
……私は今朝、調査から帰還して、もう誰も宿舎にいないことを確認して……そうだそれから、講習室に向かった。……えっと、それから……、
考えている内に、誰かの気配が歩み寄ったことに気づいた。
「レオンハート、起きたか」
そこにいたのは、この兵団の医務担当で、私たちに救急対応の授業を行う教官だった。
「えと、わ、私……!?」
「倒れてるところを同期生が見つけたらしい」
「えっ!?」
未だ記憶が曖昧で、まったくその辺りが思い出せなかった。そうだ、確か、講習室に行ったのち抜き打ちで立体機動装置の試験をすると言われ、裏の森に入ったのではなかったか。
いや、今はそんなことはどうでもいい。……私は、試験中に倒れてしまったのか? 考えただけで血の気が引いた。
既に横になっているというのに、私はさらに頭を抱えてうずくまる。
……やらかしてしまった。憲兵団に入るためには傷ひとつ許されない成績を、こんな、無茶をしたばかりに……やってしまった、私は……なんてへまを……、
「……レオンハート」
「……はい」
教官が少し呆れるような息を混ぜて私を呼んだ。
「いいか。体調が悪いことはお前の落ち度でないときもある。だが、それを報告しないことはお前の落ち度になるぞ。今後はきちんと報告をすること。いいな?」
「…………はい」
その顔を見るといつになく心配そうだったので、なんとも言えない気持ちになって目を逸らした。
「ほら、顔色もだいぶいいみたいだな。そろそろ夕食の準備ができる時間だから、しっかり食べてきなさい」
「……はい」
そして私は医務室から追い出された。
あの教官は元々心配性なのか、眉尻を下げることが多いが、今日は殊更だったなと不思議に思いながら振り返った。
言われたように医務室から食堂までの廊下を下っていく。まだ少し踏み込みに違和感があるだろうかと、自分の中で加減を調整していた。それから人の気配がして、ふと頭をあげる。
……どき、と心臓が跳ねたのは自分でも理解する前だった。
「あ、アニ! よかった、元気になったんだね!」
「アルミン……、」
アルミンが歩いている方向から考えて、どうやら医務室に向かっていたらしいことは容易に想像がついた。……いや、それは別に私の様子を見るとかそういうことではないだろうとは思った。
しかしアルミンは嬉しそうに私のほうへ駆け寄ったかと思うと、
「ごめんね、あのあと休憩終わるまで様子を見てたんだ。けど、君がさ、いくら声をかけても起きなくて、それで僕、心配になっちゃって。……その、余計なことをして、ごめん」
口ぶりから、なんとなくことの経緯を察した。私を医務室に運んだのは、あるいは運ぶよう働きかけたのは、アルミンだったのだろう。
――そうか、そういえばうっすらとした記憶の断片で、アルミンの顔を見たような気がする。その顔はひどく心配していたような気がして、寝れば大概なんでも解決してしまうバケモノに対して、余計な気を使わせてしまったなと、そんな卑屈なことを考えていた。
「あ、えっと、私こそめいわ、」
「でもさ、アニ」
私が言葉を終えるより先に、アルミンは珍しく芯の通った声色で私に釘を刺した。
どくり、とまた不可解な鼓動が身体の中で脈を打つ。
「やっぱり無理はだめだよ。いくら君が強いひとでも、僕たちは人間なんだから」
……思わず見開いてしまった。一瞬だけアルミンが霞んだように見えて、目を擦りたくなった。
――私たちは……人間。……そうか、私も……人間だったか。
なんとも突拍子もなく、そんなへんてこな実感を得ることになった。
「……ぼくだって、頼りないけどさ、つらいときくらい頼ってくれていいし……」
そしてまた何の前触れもなく、アルミンの声から芯が抜けて、やさしく、柔らかく紡ぐ普段の声に戻った。言葉通り少し頼りなさそうに、しかし優しく微笑むさまを見て、私はまたなんと表現すればいいのかわからない心地になった。
ああ、これは――。
……これだ、私が意識をふわふわと漂わせている間に聴いていた声は、これだったのだ。あの、心地よく傾聴していた子守唄のような旋律も、鼓動も、嗅いでいた匂いも、溺れていたやすらぎも……そうか、すべてこいつのものだったのだ。
「とっ、とにかく、ご、ご飯できるころだしっ、い、行こうか!」
アルミンは私の袖を引っ張って歩き始めた。私は連れられるがままに、同じ歩調であとを追った。
……わからない。何だろう。たくさん寝て気分もすっきりしたはずなのに。
何か正体のわからない窮屈感がこの胸に溢れて、とても苦しく感じた。目の前の背中を見て、……ああ、こんな〝やすらぎ〟もあるんだなと、泣きたくなっていた。霞んだ視界を取り戻すように、乱暴に目を擦る。
――この名前のない感情は、のちに私に『失態』と呼ばれる感情へと発展していく。私がそれに気づくころには、もう手遅れになっているとも知らずに。
おしまい