魔法のあなた バタン、と玄関の扉が開閉する音が聞こえた。けれど私はそんなことには気づかなかったふりをして、せっせと向かいの鍋を木ベラを使ってかき混ぜる。
「ただいまあ。はあ〜、出張帰りからの会食は疲れたよ〜」
本当にへろへろと芯のない声を発しながら廊下を歩いてくる音が続く。その足音が近づくにつれて、私の中にあるくつくつとした不快感が迫り上げてきた。
「おかえり、」
だからだ、私はその気配が私の背後――キッチンの入り口――に立ったとて、そのまま背中を向け続けた。不快感の中に紛れ込む空腹感がごろ、と唸った。
こんなに苛立っているのに、それでも目の前の鍋からはそれなりに香ばしい匂いが漂っているのがわかる。……それがなおさら、不快感を煽っているのかもしれない。
「……うん? アニ?」
背後にあった気配が、おずおずと近寄ってくる気配がする。私は絶対に振り返ってやるもんかと心に決めて、じっと鍋の中でかき混ぜられるごろごろとした野菜たちを見つめた。
とうとう私の態度の正体が気になったその気配が、さらりと横から私の顔を覗き込んだ。
いつものひょうひょうとしたアルミンの気配だ。
「……あんた、いい根性してるね」
それでも目なんか合わせてやらなかった。
「え、どうしたの? 何をそんなに怒ってるの」
引っ張りだこになるくらいいい頭をお持ちのくせにわからないという。そんなの絶対嘘に決まっている。
「……なんでもないよ」
「……そう?」
自分から言うのが癪だったので、木ベラを置いて、私はわざとアルミンに背中を向けるように食器棚に手を伸ばした。鍋の蓋を取るためだ。
せっかくそれなりにいい匂いが漂っていたとしても、こんなに腹の虫が鳴るほど空腹だったとしても、今はこれに口をつける気にはなれなかった。
「――あんたが今日疲れて帰ってくると思ってたからって、別に私の料理が美味しくなるわけでもないし、何も期待なんかしてなかったから大丈夫」
鍋に蓋を被せてから火を止め、あまり出番のないエプロンのリボンを解いた。
そう、私が苛立っていた理由とは、アルミンが私を放ったらかしにしていたからだ。長期間の出張に出ていたアルミンが午後に帰ってくるというので、午後の休みを取ったというのに、どうやらアルミンは事務所に帰ってそのまま呼ばれた会食に出かけてしまったらしかった。なかなか帰らないので業を煮やして再度事務所に赴いた私に、可哀想な眼差しを向けたピークが教えてくれた。……そして、この引っ張りだこの代表閣下様は今何時だと思っているのか。
ふい、とわざと顔を背けて、私は扉にかけてあるフックにエプロンをぶら下げた。
考えれば考えるほど納得が行かなくて、そのままアルミンのことなんか気にも留めないようにキッチンから出ようとした。
「……アニ、ごめんよ。急に会食の予定を入れられちゃったんだ。僕だって君に早く会いたかったのにさ」
やっぱり私の苛立ちの原因に心当たりがあったアルミンが、唐突に言い訳を始めた。キッチンを出る前に足を止めてやった私は優しいと思っていいだろうか。……こんな子どもじみた拗ね方をしているけれど。
「……僕がどれだけ君に会いたかったか、伝わってない気がするんだけどさ……、」
私のほうへ気配が寄ったと思ったが、
「これ、もしかして野菜のバター煮? 僕のために作ってくれてたの?」
その気配は遠ざかって、私が蓋をしただけで放置された鍋のほうへ向かったようだ。ちらりと盗み見ると、その鍋の蓋を少しだけ持ち上げて、中身を確認していた。
そして私の回答を待っているのか、私へ視線を向ける。
もちろん当たり前だ、バターの野菜煮はアルミンが割と好きだと言っていたパラディの家庭料理だ、アルミンのために作ったに決まっている。だが、そんなことをこの苛立ちの中で素直に認めることなんてできず、私はまた子どもじみた意地を張ってしまった。
「……そんなんじゃない……」
しかし聡明なアルミンはそんな上辺の言葉に惑わされることなく、にこりと笑む。
「ありがとう、少しいただいていいかな」
さっと食器棚からスープ皿を取り出した。
「明日もまた朝から忙しくなりそうでさ」
気づいてくれたことだけでは機嫌を戻せなかった私に対して、アルミンはさらに付け加えた。
そしてその情報のせいで私は、いっそう、む、と口元に力を入れてしまった。
「そうだね。代表閣下様はお忙しいですもんね」
ああ、明日も私はアルミンと過ごせないのか――そう思ったら、更なる落胆が襲ったのだ。この一ヶ月ほどアルミンと会えていなかったというのに、アルミンは久々に帰ったからといって特段私との時間を守ってくれるわけではないらしい。……そう思ったら、なんだかすべて馬鹿らしくなってしまったのだ。
私はアルミンがその料理を皿に注ぐところを見届けることなく、改めて踵を返した。
「……アニ?」
またアルミンが私を呼び止める。
「……なに」
不機嫌全開の気難しい顔で振り返った。
アルミンはそのスープ皿に持っていたお玉を置いて、そろそろと私の顔を覗き込みにやってくる。
「……ねえ、君もしかして、拗ねてる?」
怒髪天を突かれたのは、それが図星以外の何ものでもなかったからだ。もちろんそんなことを簡単に認められるほど素直ではない私は、
「は!? そんなわけないでしょ! あんたがいなくて清々してるよ!」
思ってもないことを口にしてしまった。それからじわじわと、自分が発してしまった言葉に気持ちが揺れた。なんて天邪鬼なんだ、素直にアルミンともっといたいと言えばいいのに、こんな言い方しかできない。
けれど今さら私の〝天邪鬼〟を真に受けるわけもないアルミンは、そのまま熱くなった目頭を隠すために背中を向けた私のほうへ顔を寄せてくる。
「……アニ、ごめんってば。次の出張は断るよ」
――ああ、ほんとに私はどうしようもない。すべてはアルミンの選択ではなく、彼に押し付けられた仕事なのだとちゃんと頭ではわかっているのだ。
それなのに私はまた、アルミンを困惑させるような言葉を溢してしまった。
「……そんなこと、頼んでない……」
じゃあどうしろというのか、そうアルミンが怒っても誰も責めないだろう。……わかっている、私が大人気なく駄々を捏ねているだけだということ。
私はそれが耐えられなくて、そのままアルミンを振り払うようにキッチンを後にした。
なんでこんなに苛立つのか、その苛立ちのせいでまたしてもキリリとした鋭い痛みが込み上げてくる。
私はそのまま寝室に行くわけでもなく、狭い居間のソファにどかりと腰を下ろした。アルミンに追ってきてほしいような気もするが、今のこんな醜態を晒し続けるのも嫌な気がした。……自分がどうしたいのかもわからない、どうしてほしいのかもわからない。
すると深呼吸を何回かするくらいの時間が経って、のそのそと背後に気配を感じた。アルミンがキッチンから出てきたようだ。そのゆっくりとした足取りは、おそらく手におかずいっぱいのスープ皿でも持っているのだろう。
案の定、私の後ろにある食卓の上に木製の皿を置いた音がコトリと鳴った。
「――アニ、君もまだなんでしょう? 一緒に食べようよ」
こんな無愛想な天邪鬼だというのに、アルミンは構わず私を誘ってくれる。
もう一度深呼吸をして身体を食卓のほうへ向けると、アルミンは二つのスープ皿を向かい合わせに並べていた。いつも私とアルミンが座る位置だ。さらにその脇の戸棚の上にあったバスケットごと、買い置きしておいたパンを引き寄せる。
準備を終えたアルミンが私に視線を合わせ、目が合ったところでにこりとまた笑う。……穏やかで優しい笑みだ、私が大好きなアルミンの、柔らかく細められた目元。
観念した私は、それでも無言のままソファから立ち上がり、仕方なさを装って食卓に着いた。
それに合わせてアルミンも私の向かいに腰を下ろす。彼を前にすると、やはりどうしても落胆が勝って苛立ちのようなものが湧いてしまう。不機嫌な様を改善できないでいる、天邪鬼な私に、アルミンは飽きもせず笑いかけて「いただきます」と声をかけた。
そしてすぐに皿に沈めていたスプーンを持ち上げる。
――お偉方との会食でお腹いっぱい食べて帰ってきたくせに、私が何も知らずに用意していたからと言って、無理に食べているのだ。そうに決まっている。
それの何がこんなに気に障るのかわからない。もしかしたら無理をさせてしまっている自分に歯痒さを覚えているのかもしれない。私がもっとしっかりアルミンのスケジュールを確認していれば、無駄な期待も無駄な料理もかけずに済んだのに。
そうやって内省していると、アルミンが「うん、美味しいよ」とまた気を引くように笑いかけた。
あー、もう、本当に私はこの笑顔に弱い。
自分が抱く苛立ちを顧みているくせに、いざアルミンにそれを削がれそうになると、それはそれで受け入れられずそっぽを向く。私は本当に救いようもない。
仕方なく私もスプーンを持ち上げ、一口野菜を口に運ぶ。美味しいのか美味しくないのか、それすらよくわからない。もう私は今日はだめかもしれない。
「――どんなに腕のいいシェフが作った料理よりも、こうやってアニと食べるいつもの夕飯のほうが、僕は好きだな」
しばらくわざとらしく楽しそうに頬張っていたアルミンが、そう語りかけてきた。これはわかりやすく、私の機嫌を取ろうとしているようだ。
それに対して素直に「嬉しい」と返事ができるなら、こんな救いようのない天邪鬼に嫌気が差したりしないはずだ。そう、私はそのアルミンの語りかけに返事すらできなかった。
「今回の出張も一ヶ月あったでしょ? もうさ、こういう落ち着いた料理が恋しくて恋しくて。一緒に食べるのもおじさんばかりでさ、仕事なのはわかってるけど、ほんと――、」
返事をしない私に気遣いを重ねてか、アルミンは一人であれやこれやと話題を垂れ流しにしている。
おしゃべりなのはいつものことだが、今日のは明らかに私に対する機嫌取りの要素が大きいだろう。
……長い出張から帰ってきて、そのまま楽しくもない会食に出席させられ、挙げ句の果てに疲れて帰宅したら恋人が不満たらたらで待っているなんて、一体どんなに面倒なことだろう。……私ならもう知らないってベッドに潜り込んで寝こけてしまうだろうなと思ったら、不甲斐なさや申し訳なさが突沸して、ずっと胃の辺りにあった蟠りを飲み込んでしまった。
アルミンは、なんでこんな面倒な天邪鬼と一緒にいるのか、唐突に理解できなくなる。こんな人間、捨ててしまえばいいのに。――そう思ったそのときだ、一気に私の中の血の気が引いて、目の前が真っ暗になった。……そうだ、いつまでもこんな態度でいたら、そのうちアルミンに捨てられてしまう。いくらアルミンだって、もっと素直でかわいい子がいいに決まっている。
私はそんなことになったらと思うと居ても立っても居られなくなって、アルミンが言葉を垂れ流している最中だというのに、慌てて口を開いた。
「……別にさ、」
私が言葉を発したことに驚いたように、言葉をとめてはたはたと瞬きをした。
「別に仕事で疲れてるあんたを困らせたいわけじゃないんだ……そ、それくらい……私だってわかってる」
わかっているのにこんなに苛立ってしまったのは、それは、アルミンとようやく時間が持てると期待してしまったからだ。私はアルミンともっといたい。一緒に過ごせないのは――、
「ただ……さ、」
「……うん?」
「……私だって……寂しくなるときも……ある……」
自分の中にいる天邪鬼を力いっぱい押さえ込んで、私は私の持ち得るすべての羞恥心を拭い捨てて、なんとかこの気持ちを絞り出した。こんなことを真っ向から伝えるのは情けなくて、だんだん声が小さくなってしまったが。
そのまま俯いた私に、アルミンは心配そうに「……アニ……、」と呼びかけた。それに引かれて顔を上げると、その声色通りに困ったような顔でアルミンが私を見ている。
なんだかもう、一気に私の中にあった情けなさが膨れ上がった。アルミンにこんな顔をさせたいわけじゃない。なんでこんな……私は……、
「あー! もう! 信じられない!」
自棄を起こした私が突発的に声を上げて、それにアルミンはまた驚きを重ねたようだ。それでも私の頭を掻きむしりたいような衝動は治らず、
「なんで私こんな駄々こねてるわけ!? わかってんのにイラつく!」
こんな自分でいたくないのに。もっとアルミンが〝帰りたい〟って思える人でありたいのに。
「……こんな……情けない……」
耐えられずに頭を抱えて俯いた。視界が歪みそうになるのを必死に堪える。こんなところで泣いてしまっては、またいっそうアルミンに心配をかけてしまうだけだ。……もっと余裕を持ちたい、もっとアルミンみたいに穏やかでありたい。
「……アニ、」
私と同じようにスプーンをお皿に置く音がして、続け様にアルミンの優しい声が降った。いつもの、いや、いつもよりも優しげな声色だ。
私は抱えていた頭をちらりとだけ上げて、こちらを真っ直ぐに捉えていた海のような瞳を見返す。
「……なに」
「……手を握ってもいい?」
アルミンがそっとその右手を伸ばした。私はこんなに天邪鬼な自分に嫌気が差していたというのに、それでも素直になることはできず、おずおずと左手を食卓の上に差し出しながら、
「……す、好きにすればいいでしょう」
なんて、可愛げのない言葉を発した。
私の強張った指先にそっとアルミンの温もりが触れて、それは柔らかく私の拳を包んだ。
そしてアルミンの瞳は再び私の視線を捉える。
「あのね、君がそうやって苛立ってくれるの、僕のことを想ってくれてるからだって、わかるよ。僕こそさ、そういうときに側にいてあげられなくてごめんね」
その温かく優しげな眼差しのせいで、突如としてまた泣きたくなってしまった。……私は本当に、なんてバカなのだろう。こんなにアルミンはいつも優しいのに。
「……あはは、恋人甲斐がないな」
苦虫でも噛み潰したように空笑いを浮かべたアルミンを見て、咄嗟にそれに被せていた。
「そ、そこまでは言ってない……!」
だって、そんな、恋人甲斐がないなんて言ったら、それはどう考えても私のほうじゃないか。疲れて帰宅したら、こんな苛立った恋人がいるなんて、そんなの誰が喜ぶというのか。
それでもアルミンは頑なで、私の手のひらに重ねた指先に少し力が入った。
「いや、そうだよ。これじゃあアニに捨てられても文句は言えないね」
またぐら、と視界が歪む。何をアルミンは言っているのか、私があんたを捨てるわけがない。むしろ反対の可能性が大きすぎて血の気が引いたくらいだというのに。
しかしそれを口にしてしまうと喉が震えてしまいそうだったので、それすら結局言えないままになってしまった。
あー、もう、私はこんなにもアルミンが大切なのに。何も伝えられないし、何も上手く受け取れない。こんな私こそ、恋人甲斐なんてこれっぽっちもない。
「アニ、」
「……なに」
先ほどと同じように声をかけられたが、今回はそこに手のひらの重なりが意識された。
歪みそうな口元をやっとのことで隠しながら顔を上げると、未だにアルミンは真っ直ぐに私のことを見ていた。
「……抱きしめていい?」
その眼差しはいつになく真摯なものだった。それに見入ってしまって返事ができなかったなんて、信じてもらえるだろうか。
「……キスもしたいな」
何も返さないままの私に、アルミンはさらに追い打ちをかけた。
私はこんなにどうしようもないのに、アルミンは抱きしめたいと言ってくれる。キスしたいと、尋ねてくれる。
私はアルミンがいつも無限に降らせてくれる愛に溺れそうになり、その大きさを実感してしまう。それは途方もなくて、こんなに幸福なことで。……私もアルミンにとって、そういうものを与えられるひとになりたい。
「いいかな」
自分の目指しているところと現時点での差を目の当たりにして、また泣きそうになった。俯いてそれを隠した私に、アルミンはさらに念を押した。
本当はその温かな腕の中に包まれたいし、その優しく触れる柔らかさにくすぐられたい。
ああ、でも、だめだ。やっぱり私は、救いようのないほどの天邪鬼なのだ。
「……そうやって、どうせ私の口から言わせたいだけでしょう」
確認するように盗み見てやると、今度は大袈裟なまでに息を吸い込んだアルミンだ。
「え、そんな! そんなことまったくないよ! そんなわけないじゃないか!」
やけにわざとらしく否定すると思ったら、どうやらこれは戯れの一種らしい。私がひたすらに重たくした場の空気を、また軽くしてくれようとしているのだ。だから私はそれに乗るように、「白々しいね」とわざとらしく責めるような視線を送ってやった。
そのおふざけに満足したらしく、アルミンは今度は自然に笑って、
「えへへ、半分冗談だけど」
種明かしをした。
つまりそれに乗っかった私も間違いだったわけではなく、私も「やっぱり」と呆れたように笑ってしまった。
こういう〝気遣い〟が本当に一流なのだ、アルミンは。
「……で、アニ、君の気持ちを確認したいのも本心なんだ……どうかな」
少し空気が軽くなったところで、本題にまた乗り上げる。アルミンが作ってくれた軽い空気のおかげで、私は先ほどよりは素直になれているはずだ。
私は彼に甘えたい気持ちのままに、何かを含めた笑みを見せてやった。
「……まだ、口説き足りないんじゃない?」
そんな無茶振りにも動揺することなく、アルミンはスマートに切り返してくる。
「君をもっと口説くために、抱きしめたいな」
いたずらっぽく笑っている。自分で振ったくせに、どんな顔をしてその要求を受け入れたらいいのかわからなくなり、私は頬の燃えるような感覚と共に視線を避けた。
するとアルミンはすぐに席を立って、私の横に場所を移した。そのまま両手を広げて、私に飛び込んでおいでとでも言うように、また優しく笑うのだ。
……私は本当に……、私は本当にこの男に弱い。
その仕草が嬉しくて、けれどそんな素振りは見せたくなくて、結局、仕方ながないなと演技するようにその腕の中に飛び込んだ。
ふうわりと鼻を掠める、久しぶりの大好きな香り。腕を回せば大好きな温もりに、大好きな抱き心地。私はあっという間にその陰謀に絡め取られていた。
さわり、と優しい手つきが私の後頭部に触れ、この身体ごと抱き寄せてくれた。ぴたりとくっついた二つの身体は、私をこんなにも深く安心させてくれる。
「……アニ、僕は本当に毎日毎日、君に会いたかったよ」
「……うん」
アルミンが〝約束の〟口説き文句を唱え始めた。
「夜一人でいるとさ、ときどきこれは夢なんじゃないかって思えてしまって……不安になる。朝起きたら、君がまだ結晶の中にいるんじゃないかって、さ」
「うん」
愛おしそうに撫でてくれる優しい手のひら。私を包むように愛でてくれるその柔らかい声。すべてがすべて、私が抱いていた苛立ちを嘘だったかのように解きほぐしてくれる。
「でも、違うってわかると、すごく安堵する。この長い旅が終われば、僕は君の元に帰れる、君に会えるって、そうわかると、きらきらした希望が湧いてくるんだ」
……こんな天邪鬼なのに、アルミンは私に希望を見出してくれるという。……私の元に〝帰って来たい〟と言ってくれる。
「……うん」
こんなどうしようもない自分でも許されたようで、私はどんどんアルミンの深いところに落ちていってしまうのだ。
「だからアニ、寂しい想いをさせてごめんね。でも僕の心はいつでも君の側にあるから。目に映る距離に惑わされないで」
「……うん」
――『目に映る距離に惑わされないで』
その言葉は、私の中にやけに響いた。……そうだ、どんなに距離があっても、アルミンはいつも私の側に心を置いていてくれる。
「……アニ、大好きだよ」
「……うん、」
本当は、どれだけ私もと伝えたかったか。私がこんなに天邪鬼でなければ、アルミンだけでなく、私も幾分も楽だっただろうにと思う。……けれど、アルミンはそんな私でも想っていてくれるといっているのだ。
こんなに、こんなに、大好きだ。
私はいっそう強く、アルミンの背中に回した腕に力を入れた。
すると、ふふ、とアルミンのほうから小さな笑みが溢れる。
「不安になったらすぐに会話ができる装置があればいいのにね。無線みたいなさ」
突然変わった声色に引かれて、私も顔を上げた。
「そんなの、軍人のお偉いさんしか持ってないよ」
「はは、そうだね。でも頼んだら支給してくれたりしないかなあ」
「……無理だろうね」
そんな都合のいいもの、特別な階級の人間にしか許されないだろう。そんなものがあったら、この寂しさや不安はすぐに拭えるのだろうけど。
「――あ、じゃあ、これを君に預けるよ」
たった今、声色を変えたときと同じくらい唐突に、アルミンは動作を見せた。自身の胸ポケットに入っていたものを取り出しているようだ。
もぞもぞと動くその手を見ていると、それはそろりと紐のようなものを引っ張り出した。……それは、調査兵団の勲章として授与されたループタイだった。――アルミンがパラディ島を出てからも、肌身離さずに持っていた、いわば彼の宝物の一つだ。
私の右手を持ち上げて、そのループタイを私の手のひらの上に落とした。そんな大事なものをと目を瞬かせている私にゆっくりと握らせて、
「これを持ってる君のところに、僕は必ず帰ってくるからさ。だから、寂しくなったらこれを見て、今日の僕の言葉を思い出してほしい」
そして改めて、私の身体を抱き寄せた。
別にこれがアルミンのループタイでなくてもよかったのだと思う。この巧みなレトリックを魔法の言葉に変えるものは、きっと、なんでもよかったのだ。
どこからともなく湧き立つこの窮屈なほど幸福な感傷のままに、私はまた力いっぱいにアルミンを抱き返していた。
「……うん、わかった」
もう、本当に。本当に、あなたがアルミンでよかったと思ってしまう。意味なんてわからないけど、とにかく、ここにいてくれるのが、アルミンでよかったと泣きたくなった。
「……どうかな。口説き足りた?」
またアルミンはいつものひょうひょうとした笑みを覗かせて、私に戯けて尋ねた。またしてもその戯けに乗ってやるように私はつん、と高飛車な声を作って、
「うん、及第点ってところじゃない?」
そうやってわざとらしく笑ってやった。
アルミンはそんな私の笑みを見るなり、
「はは、それはよかった」
その笑み以上の何かを感じ取ったらしく、また愛おしげに抱きしめてくれた。
再び包まれるアルミンの温かさに、私は一瞬にして心がほぐれてふわふわになった。
「……ごめんなさい、」
先ほどまでの私の苛立ちを顧みて、私はやっと聞こえるくらいの小さな声でアルミンに言った。
さわり、またその大きな手のひらが私の後頭部を優しく撫でる。
「アニがアニで本当によかったよ。大好き」
そしてそのまま、その言葉を閉じ込めるように私の額にキスをした。
――〝アルミンがアルミンでよかった〟
私が先ほどそう思ったことを思い出して、アルミンもあんな風に感じてくれているのだとしたら、こんなに贅沢なことはないと思った。
ああもう本当に、この人の言葉に、温もりに、心に、……弱いなあ私。
おしまい
あとがき
根津さん、お誕生日おめでとうございましたー!!
いかがでしたでしょうか?(*´꒳`*)
お楽しみいただけていたら幸いです( ´ ▽ ` )
アニちゃんを甘やかすミンくん……とのリクエストを受けたとき、
アニちゃん大好きちゅっちゅ、みたいなのを思い浮かべたのですが笑、
冷静に考えて、やっぱりアルミンくんにはその上手な話術で甘やかしてほしいなあと思い至りました。笑
上手く表現できているといいのですが……!
それでは、素敵な一年をお過ごしください^^
お誕生日おめでとうございました🎉✨