風と海の半分神様は親友から目が離せない ある日、モトゥヌイの船職人ロトは恐ろしい話を聞いた。それは先月のことだという。
それは荒々しく生きてきた元海賊のカカモラの話だ。長い間、漂流し続けてきた彼らはモトゥフェトゥ付近の潮流が落ち着いたあと故郷の島へ帰った。とはいえ彼らの生き方が即座に変化するものではない。故郷の島に戻って平穏な日々を得たものの、悲鳴に飢える者たちも少なからず現れ始めていた。
件の先月、カカモラの住む島にタウタイ・モアナ率いる船がやってきた。彼女に連れられて怯えた表情の村人が三人ほど浜辺へ降りてくる。カカモラのお頭は武器で村人たちを指し、指折り数えてモアナに村人の数を確認した。
「ええ、今日はこれで全員よ……」
モアナが真剣な面持ちで重たく頷く。多くのカカモラは待ち侘びていたように村人たちの手首を縄で拘束し始めた。村人はこれから待ち受ける恐怖に抵抗どころか声も出せない。
カカモラのお頭が棍棒で部下たちに合図をする。彼らはぶよぶよとした黄緑色の魔物をゆっくり押し出し始めた。その魔物はパンノミのように垂れ下がった巨大な鼻をしている。そして別のカカモラ数体が羽のこよりを用意して、その大きな鼻をくすぐり始める。すると魔物は大きなくしゃみをした。その鼻から凄まじい勢いで紫色の粘液が飛び出してくる。粘液を受け止める器を用意していたカカモラは大量の粘液を浴びて倒れ込んでしまった。しかし器には必要量の粘液が満たされていた。哀れな同胞には目もくれず、気絶を免れたカカモラは器の中を見て確認し合うかのように殻を軽く叩いた。彼らは薬草と思しき植物をすりつぶして紫色の粘液に混ぜ始める。そして混ぜ終わった粘液を小さな器に少量入れて村人へ近づいてきた。列の先頭にいた村人は後退りする。しかしモアナが村人の腕を掴んで固定した。
「ひっ……ひぃ……!!」
「ごめんなさい……わたしには、もうできることが……」
怯える村人に対して、モアナは心苦しそうに謝罪した。溶岩の魔物、嵐の神の呪い……そんな脅威に立ち向かってきた勇敢なタウタイから見放される絶望は計り知れない。村人の肝は冷えていく。
「頼む、一思いに……!」
村人の悲痛な声を聞き、カカモラはそれぞれ頷き合う。そして彼らは村人の口に紫色の粘液を流し込んだ。村人はガクッと体が動かなくなった。
「クケケ」
カカモラのうち一体が意地悪く笑うような声を出す。もう村人はなすがままだ。カカモラの一体が台に乗って意識を失った村人の口を開ける。このカカモラは白塗りのシンプルな顔つきをしている。だが、その赤い戦闘化粧を施してない平和そうな面が却って見ている者の恐怖を増幅させた。何を考えているか読めないまま、ピンク色の弾力のありそうな手や指で村人の口を弄っていく。そして彼は隣のカカモラから木製の──はるか未来の道具で言うならペンチに近い道具を手渡された。白塗りの面のカカモラがペンチを構える。その後の光景はどんな言葉を使っても足りないほどに陰惨たるものだったそうだ。次は自分がこうなるのか。まだカカモラの餌食になっていない村人たちは膝を振るわせた。
「……どうなったんだ?」
そんな恐ろしい話を聞くには明るすぎる昼間のこと。船小屋で農家のケレがロトに質問した。彼は別の島の民に交易の対価として渡すための植物を船へ積み終えたばかりだった。
「みんな、粘液を口の中に塗らないといけないって言ってた。毎日。長かったら半年」
ロトの答えを聞くとケレは目をつむり、首を横に振った。
「うへぇ……」
ケレと共にロトの話を聞いていた語り部のモニは顔をしかめながら、木版で刷ったばかりの絵を干した。
「まぁ他の薬と混ぜて薄めたやつらしいし、我慢するより抜いた方がラクだって言ってたよ!」
「ひょうひょう、ひょっふぁいのだけがまんひゅれふぁいいよ!」
先月に歯を抜かれた最初の犠……村人がロトたちを横切り、笑顔で話しかけてきた。村人は浜辺に停留していたカカモラたちの船へと軽快に歩いていく。村人は特製の止血剤兼痛み止めが作用して呂律が回っていないようだ。だが、モニたちはロトの話と合わせて不幸にも内容の大半を理解することができた。
「『他の薬』ってのは何が入ってるんだ……?」
「『しょっぱい』……味なんて聞きたくなかったよ」
ケレやモニが不快そうな顔をした。
「せめて緑色の粘液みたいにココナッツの味ならいいのにね。口に長いこと入れるのに、しょっぱいのは大変だし」
「いや、そういうことじゃなくて……」
平然と話し続けるロトとは対照的に、モニは目を伏せて口を押さえる。
一方、抜歯を受けた村人はペンチで歯を抜いた白塗りの面のカカモラから樹皮布を渡されていた。その樹皮布には異なった表情の十個の顔の絵が描かれている。今後の薬の量の参考にするべく、痛みを十段階に示したものらしい。
「えっお、いみゃはほれだね」
村人のひとりは一番落ち着いた表情の絵を指差す。白塗りの面のカカモラは村人の指差した絵に赤い塗料で印をつけた。そしてそのカカモラは船に乗っていたカカモラのお頭の息子コトゥにその樹皮布の診断書を見せた。コトゥは診断書を確認すると船に積んであった特製の薬を詰めたひょうたんを白塗りの面のカカモラに渡した。そしてカカモラは村人に薬を渡す。
「ありがほう。もうふぁいふぉうふぉうだよ」
村人が礼を言うとカカモラは右掌を軽く掲げて楕円を描くようなハンドサインを見せた。
「『あなたの健康を守ります』とでも言わんばかりだな」
マウイが船小屋の近くにいるカカモラと村人の交流を眺めていると、モアナとよく似た服装の三人の少女、モアナーズに声をかけられた。
「マウイおはよう!」
「相変わらず元気だな」
「マウイ帰ってきたら髪貸して!」
髪をひとつ結びにした少女がそう言った。
「カツラにでもする気か?悪いが髪は貸せないな。自慢の髪なんだ。何千年伸ばしたと思……」
マウイが大げさに長髪をかきあげると三人は不機嫌そうな顔をした。
「ちーがーう!髪を編みたいの!」
ひとつ結びの少女が反論する。
「なんだ。最初からそう言えばすぐ引き受けるのに。この風と海の半分神の髪を編めるなんて滅多にないぞ」
「やったー!!」
三人は嬉しそうに顔を見合わせた。
「じゃあ帰ってきたら引き受けよう」
そう言ってマウイは鷹の姿になり島を飛び立った。
「あ、マウイ出発しちゃった?」
ちょうどマウイが飛び去った頃合いにモアナが現れ、モアナーズに話しかけた。
「モアナ!」
「マウイに用があった?」
ひとつ結びの少女が空を飛ぶ鷹を数回指差す。
「まだ近いよ!呼んだら戻ってきてくれるんじゃない?」
「見送るだけだったから大丈夫。いざというときは海を光らせて知らせればいいから」
モアナは左腕のタトゥーとオールを夕焼け色に輝かせてウィンクして見せた。三人の少女は羨望の眼差しでモアナを見つめる。
「あ、そうだ。マウイに何か話してたね」
「うん!帰ってきたらマウイを新しい髪型にするの!」
「へぇ、楽しみね!……そうだ」
モアナはいたずらっぽく笑った。
「よかったら、ちょっと協力してもらってほしいことがあるの」
憧れのモアナからの頼みにモアナーズは目を輝かせる。
「え!?なになに!?」
「なんでも協力するよ!」
モアナが三人の目線に合わせ、少し前屈みになった。
「もし、マウイが早く帰ってきても秘密にしてね?」
鷹の目ともなると、見える世界が普段の姿と変わってくる。マウイは幾多の島々や海を渡る船を眺める。行き先は長年多くの神々から放置されていた神々の通り道だ。彼は先日夢の中で、とある神から用事を押しつ……頼まれたのだ。長年人間からも神からも放置されていたとある神々の通り道を調べて欲しいとのことらしい。長年と言っても人間の感覚であって半分神にとっては大した期間には思えなかったが。
『いくつか確認したい。放置するような門を調べるだけでいいのか?埋め立てても問題ないはずだ。それと他の奴らに頼まないのか?蜘蛛を連れてる奴とか魔物を倒した双子とか。あとコウモリ女』
マウイは夢の中で神に質問した。頼んできた神は饒舌だったが『コウモリ女』という言葉を聞いてから、やや言葉の歯切れが悪くなった。
依頼主の神の様子を見るに、その神はモトゥフェトゥの呪いが解けたあとコウモリ女もとい半分神のマタンギを見ていないのだろう。そしてマウイには、その神にとってマタンギの夢の中に出ることが難しい状況であることを察することができた。
『……ナロや手先が使った痕跡がないか確認しろってことか』
マウイの指摘に神は頷いた。マウイも神もナロがノコノコと姿を見せて誘き寄せられると思ってはいなかった。しかし手先の魔物や半分神が使っていれば尋問もできるだろう。
マウイ個人としてはマタンギのことを信用できなかった。ただモアナの話では彼女はナロと縁を切りたいと言っていたようだ。
マタンギはナロもモアナも騙すつもりだった可能性もありえる。しかし、それなら今頃マタンギはナロから解放されてマウイやモアナの元に現れタネ明かしに来ているだろう。マウイはもう一方の可能性も考える。マタンギがナロに忠誠を誓い、モアナだけを騙していた場合だ。嵐の神の忠実な手先としてマタンギの動きが活発になれば神々の間で噂になってもおかしくない。しかし良くも悪くも、いまのところ彼女に関する音沙汰は神々にも届いてなさそうだ。
「あの島か」
風と海の半分神は目的地へと降り立った。普通の人間なら飛び降りたらひとたまりもない上空で変身を解き、浜辺へと着地する。浜辺から少し歩き、巨大な岩場へと辿り着いた。その岩場には顔の形が彫られている。マウイはそこに足を踏み入れると雄叫びをあげて門を開けるべく力強く踊り始めた。門が開こうとする振動で手応えを感じたが口に当たる部分が何か引っかかって開こうとしない。
「なんだ?」
マウイが門の口のあたりを観察すると歯の彫刻の間に何かねじれて絡みついている。門の歯の間に挟まっているものを釣り針で引っかける。釣り針の先を凝視するとねじれた樹皮布がかかっていた。引っかかっていたものが取れて門が動き出す。マウイは樹皮布を広げた。思っていたより大きくマウイの両掌に余るぐらいの幅だ。
その樹皮布の上部にはカカモラがペンチのような道具で歯や牙を抜いたり、小さな銛を持って人間や魔物の歯の間を掻き出すような絵が刷られていた。樹皮布の下部は丸い飾りのペンダントと腰に法螺貝をつけた長髪の女性が人間たちの相談を受けて、オールでカカモラの住む島の形の絵を指す様子が描かれている。確かに先月あたり、カカモラの島で村人が歯を抜いたという話をモアナから聞いた。この宣伝チラシを見るにカカモラはこの新たな分野に力を入れているらしい。この絵は不運にも風で僻地に飛ばされてしまったようだが。
「しばらく使われてなさそうだし、あいつもここ以外の神々の通り道は後でいいって言ってたな」
しかし歯の治療の宣伝チラシが神々の通り道の歯の形の彫刻に引っかかるとは皮肉なものだ。
「これは土産に……なるのか?」
おそらくチラシはカカモラと交易の頻度が低い島に向けた宣伝だろう。彼らが定期的に訪れるモトゥヌイにこの樹皮布を持ち帰るのもあまりメリットがないように思う。そもそも木版がモトゥヌイで作られたものだ。半分神のマウイも歯の治療とは無縁だし、仮に喉に何か刺さるようなことがあってもカカモラに頼るなら自力で取り除きたい。彼はとりあえず樹皮布を神々の通り道から遠ざけて風を受けにくい場所に置いた。一定の時間が経過し、門がガチッと堅く閉ざされる。何度も開閉していたら歯のあたりが摩耗してくるが、この門に摩耗は見られなかった。
マウイは植物の生い茂る場所を見つけて数種類の花の色や香り、花弁の状態や枚数などを吟味した。
「よし、今回の土産はこれで行こう」
マウイの左胸にいるタトゥーが親指を上げてみせた。
「だよな?巻き毛ちゃんもきっと喜ぶ」
風と海の半分神は親友へのお土産を腰の縄に括り付けた。
「で、さっきのチラシをどうす……」
マウイがさっき樹皮布を置いた場所に目を向ける。が、いつのまにか樹皮布は跡形もなくなっていた。この短時間で風が吹いた覚えもない。ミニマウイがぽかんと口を開けた。
「まぁいいか。さっさと帰ろう」
マウイは青く光る釣り針を振りかざした。
「マウイ!帰ってきたの?早かったね」
マウイの帰還に気づいてモアナが駆け寄る。彼女の両手には複数の枝を組み合わせた道具が握られていた。
「巻き毛ちゃん、その枝はどうした?」
マウイはモアナに質問した。
「これね、波のうねりについて学ぶ道具なんだって。子供たちに教えるときにも使うらしいの!」
モアナは枝に通した貝か木の実でできたビーズを動かしてみせた。
遠洋航海がままならなくなった千年間でも、航海術の基礎的な知識が受け継がれたり新たに開発しようとしてきた島があったようだ。
「さっき作り方を教えてもらって、見本になるからって貸してもらっちゃった!枝はかなり集まったから明後日あたりに三つぐらい作るつもり!」
モアナが目を輝かせてマウイに熱弁する。航海術に長けた海の民がモアナと友人になるのは喜ばしいことだと受け止めたい、のだが……。
遠方にいた人物がモアナを見て手を振った。呪いが解けた直後のモトゥフェトゥに最初に現れた青年である。
「あっ、ごめんマウイ!約束してて、少し話しないと……」
モアナは青年に手を振り返してマウイにそう言って離れていた。マウイはふたりの様子を眺めていた。
どうやらモトゥフェトゥと星、人間の姿が描かれた土器について盛り上がっているようだ。マウイは耳を澄ませた。お互い故郷の島から何日間かけてモトゥフェトゥにたどり着いたかについて会話が聞こえてくる。マウイは青年を一瞥した。千年単位で鍛えてきた半分神と比べれば華奢だが、それでも少人数の航海には十分な筋肉を身につけている。あいつは……いくつだったか。まぁ、いくつであれマウイより年下でありモアナと年が近いことは確かだ。彼は人間だが、直前まで嵐で荒れていたモトゥフェトゥ付近に来ていた。しかもあの船には青年と船職人の女性のふたりだけだった。両者ともに卓越した航海の技能を身につけている。モアナは何度も青年の話を聞いて頷き、青年もまたモアナの話に聞き入った。
モアナに道の見つけ方を最初に教えたのはマウイだ。それは変わらない。しかし別の島から来た海を渡る者たちもまたマウイが閉じ込められていた千年、そこからテ・フィティの心が戻って数年で独自に航海術を発展させたことだろう。モトゥヌイの中では航海術の先達だったモアナにとって、自分と同等に海の渡り方について詳しい船乗りたちと交流するのは楽しいはずだ。わかってはいる。
「あ、長くなっちゃったね!あなたも他に用があったのに」
「いいよ、大丈夫」
「また話しましょう!」
モアナは話を切り上げて青年に別れを告げた。
「マウイおかえり!」
モアナーズがマウイの元へと駆けてくる。モアナーズが可愛がっているブタのブアも続いてゆっくり歩いてきた。
「おっお嬢さんたち、サインは後だ。ベーコンニ号も含めてな」
三人の少女は不服そうな顔を見せた。
「わざと言ってるでしょー!」
「髪編む約束したよね!?」
「この子はブアだよ!」
「そうだったな」
マウイは三人を見て顎に手を当てた。
「……なぁひとつ俺の話を聞いてもらってもいいか?」
「じゃあ今度、釣り針に絵を描く方法を教えて!」
お団子頭の少女が小さい釣り針を見せてそういった。モアナを真似てつけていた貝のペンダントに新たに追加されたものだ。
「もちろん。そこに描けるようになるには時間がかかるが、覚悟はいいか?」
「うん!」
「いい返事だ。交渉成立だな」
マウイがモアナと海の民たちと話す機会が増えたことについて話し終えると髪をひとつ結びにしている少女が口を開けた。
「マウイ、寂しい?」
「少し」
「モアナと一緒にいたいんだね」
お団子頭の少女が話した。
「マウイの気持ち、わかるよ」
ひとつ結びの少女が頷いた。
「あたしたちもモアナと話したいのに最近別の島の人と話してばっかりだし。あっそれは食べちゃダメ!」
髪を下ろした少女が花に近づいてきたブアに注意した。
「わかってるとは思うが、俺は巻き毛ちゃんが人気者なのは理解して受け入れている。心の底からな」
マウイが三人にそう言った直後、ミニマウイが彼を見つめて頭を掻いた。
「マウイって寂しいって思うのも嫌だったりする?」
「相手を困らせなければ寂しいって思っていいんだよ!あたしたち話聞くからね!」
「あ、ねぇ!ふたりともそろそろ……」
髪を下ろした少女が他のふたりに小声で耳打ちしたあと残りの花と植物を持って走っていく。
「別の用事か?」
「そう!モ……」
ひとつ結びの少女が口を開けた瞬間、お団子頭の少女が手で彼女の口を塞いだ。
「むー!」
「まだ言っちゃダメだよ!」
「なんだ?俺には言えないのか?」
「そう!ぜーったい言っちゃダメ!髪このあたり結ぶね!」
「絶対なら仕方ない。カッコよくしてくれ」
今後モアナが人間に戻りたがったら自分は受け入れられるだろうか。髪を結んでもらっている途中マウイは自問した。彼女には一緒に時を過ごしたいと思う人間がたくさんいることだろう。一方、マウイは多くの人間に愛されたいと願ってきたものの、その生涯で同じ時の流れのなか過ごしたいとまで思った人間は長らくいなかった。
……モアナと会うまでは。
モトゥフェトゥの呪いが解けた日、モアナと別れる絶望と彼女と長く一緒にいられる幸せの両方を知ってしまった。もしも彼女がモトゥフェトゥに触れる直前にナロの雷撃が当たっていたら、彼女の先祖霊は彼女に永遠に近づけないままだったろう。自分は息が続くまで、体が朽ち果てるまでモアナに寄り添っていたかもしれない。モトゥフェトゥの旅に同行していた三人にとっては甚だ迷惑かもしれないが。
マウイはモアナの左腕に光り輝くタトゥーが現れたとき、驚愕と安堵の気持ちが同時に押し寄せた。先祖霊の祈りが神に届いたのだ。一方で、自分にタトゥーが現れないまま、彼女が自分の左腕の金色に輝くタトゥーに見入っている様子は心に針が刺さるように痛んだ。たとえ自分が人間のままでも、モアナと同じ時間を生きることができるなら構わないと思っていた。自分が人間でモアナが半分神になる可能性なんて予想だにしなかった。結果的には一瞬だったが、異なる形で同じ時を生きられない可能性に深く悲しみを覚えた。それでも、モアナがマウイの体にタトゥーが戻ってこないのを見て心配そうに眺めていたことは心から幸せにも思えた。おそらくモアナは自分にタトゥーが刻まれたのなら、マウイも半分神に戻れるはずだと思ったのだろう。大切な親友からそう思われるのはマウイにとってあらゆる賞賛より自尊心を柔らかく満たしてくれるものだった。
もし親友が人間に戻りたいと思うようになったら?いままでの自分なら考えられなかった選択肢が浮かぶようになっていた。モアナとともに人間となる道を選べないか。神々にそう聞くかもしれない。
「まぁ、お前たちがいないと味気ないけどな」
マウイがミニマウイを見た。そして心臓の位置にあるモアナの姿のタトゥーも。
「動くタトゥーを持つ、どこにでもいるムキムキボディの人間として生きるのは悪くない。巻き毛ちゃんは大事なことを俺に教えてくれた」
「どこにでもいる、かなぁ……?」
ひとつ結びの少女が怪訝そうにマウイを見つめた。
「できたよ!」
お団子頭の少女が声をかけた。マウイは水鏡で自分の姿を見る。彼の髪型は三、四種類の花を編んだ髪飾りで編み込みやねじりの混ざったハーフアップになっていた。
「やるな」
マウイはふたりにニヤリと笑いかける。
「あたしたちのヘアアレンジ大好評なんだよ!」
「何人ぐらいにやってきたんだ?」
「マウイで二人目!」
「二人目?少ないな。チラシ作ったり口コミで宣伝したほうが──」
マウイの言葉が止まる。彼の視線の先には、モアナーズのもうひとりのお客がいた。細かく波打つ巻き毛に色とりどりの花が編み込まれた後ろ姿。半分女神はゆっくりマウイの方を振り向いた。
「……どうかな?」
麗しの巻き毛の親友がはにかむ。マウイは彼女の愛らしい表情につられて微笑んだ。タトゥーの相棒は釣り針にもたれたままモアナを見つめ、口元を緩ませた。
「マウイがこの子達に髪編んでもらう約束してるの見て、わたしもやってみようかなって……」
「モアナと約束してた日にマウイが帰ってきちゃったからどうしようかと思ったよ!バレないかヒヤヒヤしたんだから!」
髪を下ろした少女が不満そうにマウイに文句を言った。
「それは悪いことをしたな?」
そう言いながらもマウイの表情に悪びれる様子は見えなかった。早く帰ってきて正解だった。彼の視線はモアナに注がれる。種々の花が彼女の肌や髪をより引き立たせて内側から輝いているように見える。モアナと自分が同じ花をいくつか付けていることもマウイの胸の高鳴りに拍車をかけた。
「その花、よく似合ってる」
マウイの褒め言葉にタトゥーの相棒が力強く数回頷く。
「俺の次に」
マウイが自分の髪にも編まれていた花をつまんでモアナに見せびらかす。彼の余計な一言を聞いた途端、頷いてたはずのミニマウイの頭がガクンと垂れ下がる。彼は大きな相棒を見上げて呆れ返ると、モアナに判断を委ねた。当の彼女ははにかんでいた表情からやれやれという表情を浮かべた。そして何か企んでいるかのように笑ってマウイに近づき始める。
「まぁ、つまり俺が今まで会ったなかでは一番……」
「マウイかっこいい、すごく」
モアナが目を細めた。
「……そうか?」
マウイは夢のようなモアナの言葉を聞き、一瞬だけ時が止まったような錯覚に陥った。一方でモアナは左胸にいるミニマウイが自分のスコアボードに加点すると確信した。
「そうか。ははっ、嬉しいよ」
人間たちの英雄は普段の決め台詞や表情を取り繕うのを忘れ、素直な気持ちが口や表情からこぼれた。それは人間はおろか魔物、半分神、神さえなかなか見ることのない等身大のマウイだった。モアナはさっきの確信が外れ、それどころかマウイの意表を突かれたかのような柔らかな笑い方を見て心臓がドクドクと脈打った。
「なるほど半分神ふたりなら宣伝効果バツグンだ。よく考えたな」
マウイの言葉を聞いてモアナーズは誇らしげに腰に両手を当てた。
「そうだ、これをつけると更に良くなる」
「ん……?」
モアナはマウイに手渡された白い花を見つめた。ティアレだ。しかし、島でよく見かける七枚の花弁のものではなく八枚の花弁のものだ。花の香りがモアナの鼻腔をくすぐる。
「それを見たとき三年前お前がつけていた花冠を思い出したんだ」
花の香り、そしてマウイの言葉とともにモアナは三年前、船団を率いて船出した時の記憶が蘇った。帆柱に登り後方から鷹の鳴き声が聞こえ、振り向くと滑空するマウイが横切った。あのとき人間だったモアナでさえ一瞬と思えるほどの短時間の目配せ。あれから三年の月日が流れた。三千年生きている彼が一瞬見ただけの自分の花冠のことを覚えているなんて夢にも思わなかった。
「……覚えてくれてたんだ」
モアナが感極まったように息を深く吸い込んだ。
「もちろん」
マウイも顔を綻ばせる。親友が満面の笑みで花を見つめる。そんな彼女に見つめられれば白いティアレも真っ赤に染まってしまうように思えた。
「できるだけ枯らさないように気をつけるね」
モアナの言葉を聞いてマウイは大げさに咳払いした。
「巻き毛ちゃん、ひとつ忘れてないか?半分神が身につけていれば千年は枯らさなくて済むんだ。つまり、俺が身につけてた葉っぱのよゔっ」
マウイが言い切る前にミニマウイが肘鉄する。
「……やっぱりお前は脇の下に行ってもらうか」
タトゥーの相棒は己の人差し指と中指を自身の目の付近にかざしたあと、その指をマウイに向けた。
「お前はいつだって俺を監視してるだろ」
マウイが苦言を呈する。ミニマウイはモアナを見て笑顔を見せたのち、彼は両手で人差し指と親指を小さく交差させるポーズを披露した。
「?」
モアナにはそのポーズの意味が細かく読み取れなかった。相棒が笑顔でその仕草を見せるということはポジティブな意味なのだろうが。
「それが流行るのは二千年以上先だ」
マウイがミニマウイを軽く突っついて背中へ行くように促した。
「……よかったらこの花、髪につけてもらってもいい?」
モアナがマウイの手渡されたばかりの白い花を差し出す。
「半分女神様の頼みとあれば断るわけにはいかない」
マウイはティアレをモアナの左耳の上に差した。マウイの指がモアナの耳に一瞬触れ、彼女の耳が熱くなる。
「自分の姿を水辺に映して確認してくれ」
マウイが鼻歌混じりにモアナに言ったかと思えば、間髪入れずに彼女に耳打ちする。
「気に入るまで何度も付け直すからな、モアナ」
親友の不意の囁きにモアナはビクッと肩を震わせた。
「じ、自分でできるってば……」
モアナは耳どころか頬や首元までジンジンと熱を帯び始め、まだ熱くない手の甲で少しでも冷やそうとした。
モアナは気を取り直して水面に自分の姿を映す。鮮やかな花に髪が彩られている様子は心が躍った。
「綺麗だよな」
水面越しにモアナの隣にマウイが現れる。
「……花が?」
モアナは水鏡から実際のマウイの方を見て片眉を上げた。
「花も」
先手を打ったつもりがまたもや不意打ちを食らってしまった。もはや顔から溶岩が噴きあがりそうな勢いだ。顔から首まで真っ赤に染めながら少し悔しそうに唇を噛み締める親友にマウイが得意げに口角を上げた。
「そういえばマタンギも花を髪にたくさんつけてたね」
「あの花はコウモリたちから貰ってたんだろ」
「うーん……そう?」
モアナは先ほどマウイがつけてくれた白い花に触れた。マタンギにも大切な人間がいたりしたのではないか。ナロに閉じ込められる前、彼女はどう過ごしてきたのだろう。モアナはまだ素性の知らない半分女神に思いを馳せた。
「なんだ?あいつのことだ。上手いこと隙を突いてナロから逃げ回ってるさ」
モアナの思い詰めた表情を見てマウイは冗談を言った。しかしモアナはマウイの励ましに翳りの声色を感じとった。彼女はマウイの反応を見越した上で元気よく提案した。
「……マタンギに会えたら、宴やろうね!」
人間や魔物の大半は到底辿り着けない神の領域。数え切れないほどのコウモリが宙を舞う中、一体のコウモリが何かを咥えてどこからともなくやってきた。数多のコウモリがそのコウモリを避けるように形を変えていく。そこからオレンジ色の羽と動物の歯が使われた留め具のマントと黒い装束を纏った女性が姿を現す。
「おかえりなさい。ペカ」
半分女神マタンギは肩に留まったペカの顎を優しくくすぐった。
「外出制限なんてひどいわよねぇ?あなたたちは悪いことしてないのに」
マタンギはペカたちに話しかける。巨大な貝にいた頃は貝が海に浮上しているときを見計らって自由にコウモリたちを外出させていたのだが、いまでは彼らさえナロの許可がないと出られない。
今回はどうにか言いくるめてペカ単身で外の世界を偵察させたが次回からはどんな言い訳でも難しいだろう。そもそもナロの単なる気まぐれだったのかもしれない。今後は勝手に出ようものなら雷が飛んでくるだろう。マタンギはため息をつくと、ペカから樹皮布を渡されて広げた。
「あら」
樹皮布の上には人間や魔物の歯に荒療治をするカカモラたちの絵、下にオールを持って人間から相談を受けている人物の絵が載っていた。ペカが誇らしげにオールを持った人物の絵を前脚で数回つついた。
「……歯科検診って言えばナロも出してくれるかしら」
マタンギは絵を見たあと虚空を見つめる。ペカが悲しそうに首を横に振った。
「ペカたちのね」
マタンギの後付けにペカは目を丸くして口元を翼で隠した。
「悪かったわ、冗談よ」
ふとマタンギは生臭さを鼻に感じ取り、においの方向を向いた。魚のいないこの領域で?まさか……。
「暇そうだな。……オレの、よいっしょっ……新作の歌でも聞かないか?脚がなくなったときの話を」
またか。マタンギが振り返った先には巨大な蟹の魔物タマトアがよじ登ってきていた。また地道に神の領域まで登ったらしい。この場所はナロが強力な術をかけており他の神さえも入れないように施しているのだが、彼は何も特殊な力を使ってないためそのまま入れてしまったようだ。ナロも何か対策すればいいものを。マタンギはそう思ったが再度ここまで体力だけで登ってくるような魔物なんて想定してなかったのだろう。
「ばあちゃんを食った話でもいい。即興はお手のものさ。それとも豪華にメドレーか三年前の歌のマッシュアップとでもいくか?」
タマトアはフジツボだらけの歯を見せつけるように笑う。鬱陶しいが、魔物の中では情報通の部類だしモトゥフェトゥに触れて呪いを解いた人間が三年前自分のねぐらにやってきた人間だと理解している。モアナと接触するためのナロの交渉材料にはなるだろう。
「じゃあ、あなたがモアナに出し抜かれた時の話をリクエストしたいわ」
するとタマトアが至近距離までマタンギに両目を近づけ左右の鋏をガチガチと鳴らした。巨大な魔物が強靭な鋏を鳴らすとなると地面に響く。コウモリたちは力なく落ちていき、ペカは鋏の音に耐えられず前脚で両耳を塞いだ。
「この前言っただろう?あの子に恥をかかされたって」
マタンギは怯むどころか鼻で笑い、タマトアに持っていた樹皮布を突きつけた。タマトアは頑丈な鋏で器用に樹皮布をつまみ凝視する。
「これは……」
「リクエストを受け入れてくれたらお代として素敵な光り輝くコレクション候補と、いい歯医者を紹介するわ」
マタンギはココナッツの戦士たちの新たな副業の宣伝チラシを手放す。しかし、奇妙な偶然もあるものだ。神々の噂によればモアナの左腕のタトゥーは金色に輝くようだ。光り物のコレクションを無くしたこの魔物なら再び食いつくかもしれない。もちろんモアナを金ピカなだけのコレクションとしてこの魔物に渡すつもりは微塵もない。あくまで歯医者とセットで紹介しただけだ。嘘はついていない。これでモアナの船出する機会を伺う偵察としてコウモリたちを外に出し、自分も彼女と話をする口実が──。
「あの人間とココナッツのやつらがオレのお眼鏡にかなう光り物を持ってるのか?本当に?」
タマトアの発言に違和感を感じ、マタンギは眉をひそめた。
「……まさか半分神になったこと知らないの?」
「誰が?そのコウモリが?」
マタンギとペカとタマトアは噛み合わない会話に交互に顔を見合わせた。