ある使用人の一日 「起床時間だ!」という声と共にドアが力強く叩かれる。それぞれの部屋のドアを叩いて起床を促すのは見張りを担当する救世主の仕事の一つだ。この起床の合図によって目を覚ますのが俺の日常になったのは半年近く前のことだ。
ニーガンをトップに据える救世主たちの支配から脱するために起こした反乱はジェイディスの裏切りと援軍の遅れにより失敗に終わった。そして俺は仲間の命と引き換えにニーガン専属の使用人としてサンクチュアリで働くことになった。
他に道はなかった。戦いに敗れた以上、仲間を救うためには自分を捧げるしかない。それでも毎日「もっと良い方法があったんじゃないのか?俺は考えが足りなかったんじゃないのか?」と考えてしまう。別の方法を選んでいれば戦いに勝つことができて、俺は今でもアレクサンドリアにいられたかもしれない──そんなバカみたいなことを考えるのをやめられなかった。
俺は溜め息を落としながら定位置にある小さなランプに手を伸ばし、明かりを点けて腕時計を見る。時計の針が指すのは午前六時。いつもと同じ時刻だ。いつも同じ時刻だと理解していても確認するのが癖になっている。
腕時計で時間を確かめた後、床に直に敷いたマットレスの上に毛布を広げた。毛布は干して乾燥させたいが、そのためのスペースが俺の部屋にはないのでマットレスの上に広げておくしかない。
毛布を干すスペースがないのは寝室として使っているのが換気用の小さな窓が一つあるだけの小部屋だからだ。かつては物置として使われていたであろう部屋は狭く、ベッドを置く余裕がないため使い古されたマットレスを床に敷いて寝ている。当然ながら他の家具を置くスペースもないので衣類以外の私物はほとんどない。
だが、このサンクチュアリでは個室を持つ人間は恵まれた方だ。労働者階級の者たちは個室が持てず、大勢が一つの部屋で寝起きしている。仕切りも十分ではなく、個室が与えられる救世主とは大きな差があった。そんな中、ニーガン専属とはいえ使用人という立場の俺が個室を与えられたのは破格の扱いだ。
……いけない。そんなことを考えている場合じゃなかった。優先すべきなのは身支度を整えて朝食を食べることだ。
急いで服を着替えて顔を洗い、食堂へ移動すると既に大勢が集まっていた。食堂で支給される食事を食べるのは役職を持たない救世主であり、ニーガンや幹部クラスは別メニューが部屋へ運ばれることになっている。そのため食事時の食堂は絶えず声が飛び交って騒々しい。
俺は喧騒の中を目立たないよう移動し、朝食のサンドイッチとホットミルクを受け取って自分の小部屋へ戻った。飲食できるのは食堂だけと指定されているわけではないため自分の部屋で食べる者も少なくない。俺もその内の一人で、それは面倒な奴らに絡まれる煩わしさを避けるためだった。
救世主たちにとって俺は自分たちの仲間を殺した男であり反乱に失敗した敗者だ。向けられる感情に好意的なものがあるわけがなく、危害を加えられないだけマシなのだと理解している。それでも悪意のある言葉を吐きかけられるのは鬱陶しい。だから距離を置くのだ。
煩わしさを避けるためではあるが、小さなランプの明かりだけの薄暗い部屋で食べる食事が美味いわけがなかった。それでも大切な人たちを守るために自分の命を繋がなければならない。そんな理由で体を維持するためだけに食べる虚しさに心がじわじわと侵食されていく。
この暗い小部屋に一人きりでいると「俺はいつか狂ってしまうのではないか?」という思いが過ぎることがあった。親しい人間が皆無の場所で憎い相手に尽くして過ごす日々が心に与える影響は大きい。毎日、いや毎秒磨り減っていく自身を癒やす方法も救う手立てもなかった。いつか狂って壊れても不思議ではない。あの男はそれを待っているのだろうか?
虚しさを抱きながらサンドイッチをホットミルクで胃に流し込み、食器を食堂に返却した後は一日の最初の仕事に取り掛かる。それはニーガンの朝食の準備だ。
ニーガンの起床時間は七時頃。それに合わせて朝食の準備を進めていくのだが、朝食の準備と言っても調理そのものは調理担当者が行うので、俺がやるのは食器の用意と最終的な盛りつけだ。調理担当者にメニューを確認してから必要な食器を取り出して磨き、それに料理を盛り付けていく。飲み物はその時の気温に合わせて決めるのだが、今朝は少し肌寒いのでホットコーヒーを用意した。
準備が整う頃には良い時間になっていたので、ニーガン専用の朝食を乗せたトレーを持って調理場を後にする。この時間帯だと何人もの救世主や労働者とすれ違う。大勢が暮らすサンクチュアリは朝早くから動き出すのだ。今になって思えば、ニーガンの支配を受ける前のアレクサンドリアの一日の始動はもう少し遅かった。僅かな期間しか享受できなかった穏やかな日々が恋しい。
郷愁に駆られ、喉の奥に塊が詰まったように感じながら足を進めるうちにニーガンの部屋に到着した。部屋の前に立つ護衛が朝食を持ってきた俺に気づき、ドアをノックして「ニーガン、朝食です」と声をかける。それに対して中から「入れ」と返ってきた。
護衛がドアを開けてくれたので部屋の中に足を踏み入れると、着替え終わったニーガンがこちらに顔を向ける。着替えたと言ってもトレードマークの黒の革ジャケットは着ていなかった。代わりにパーカーをまとっているのが「仕事前」ということなのだろう。
ニーガンは俺を見るなり楽しげに口角を上げた。
「よう、リック。今日もつまらなそうな顔してやがるな。朝からそんなにも陰気な顔をするのはお前くらいだ。」
ニヤリと笑いながら言われた言葉に対して眉間にしわが寄る。この場所で楽しい顔などできるわけがない。
「これが俺の普通の顔だ。」
「なんてこった。そんなんじゃ女が寄ってこないぞ。俺みたいにいつも笑顔じゃないと。」
大げさに目を丸くする男を無視してソファー前のテーブルにトレーを置いた。それを見てニーガンは軽く肩を竦めてからソファーに座り、朝食を食べ始める。
ニーガンが食事をする一方、俺は備え付けのシャワー室から洗濯物が入ったランドリーバスケットを持ち出し、次はベッドのシーツを剥がしに掛かった。シーツを剥がす手を動かしながら「今日の予定は?」と尋ねれば、ニーガンは食事の手を止めることなく答える。
「今日は午前中に打ち合わせが二件入ってるだけだ。午後は何もない。」
「それなら昼食はここに運んで問題ないな?」
「ああ、それでいい。……そうだ、昼にワインを出せ。種類はお前に任せる。」
「わかった。」
俺はそのように返事をしてから剥がしたシーツをランドリーバスケットに放り込み、それを持って部屋を出た。
洗濯するものを回収した後に待つ仕事は当然ながら洗濯だ。あの男の衣類やシーツなどを洗うのも俺の仕事の一つ。ニーガンのものは他の者たちとは別に洗うという決まりがあり、奴のものを洗濯するのが専属の使用人である俺になるのは当然の流れだ。
屋外の洗濯場に到着した俺は必要な道具を取ってきて洗濯を始めた。太陽光発電システムが備わり洗濯機を使えるアレクサンドリアと異なり、この場所では手洗いしか洗濯の手段がない。宿敵であるニーガンの服やシーツを手洗いする俺の姿は傍から見れば滑稽なものだろう。仲間には絶対に見られたくない。
そんなことを考えながら洗濯していると手に感情が移って力任せに布を擦りたくなるが、それを堪えて適度な力で洗うよう自分に言い聞かせた。力が強すぎると布が痛みやすく、下手をすると服やシーツをだめにしてしまう。それが原因でアレクサンドリアが不利になるのは避けたい。
全ての衣類とシーツを丁寧に洗い、指定の場所に干し終えると飛ぶようにニーガンの部屋に戻った。朝食の食器を調理場へ戻さなければならないからだ。
俺がニーガンの部屋に到着した時、奴はソファーに座って本を読んでいた。着ているものがパーカーから革ジャケットに変わっていたので身支度は完了したのだろう。
読書を続けるニーガンを見て「食後の一杯が必要かもしれない」というのが頭を過ぎったので声をかけてみる。
「ニーガン、何か飲み物はいるか?」
空の食器が乗るトレーを下げながら問うとニーガンは首を横に振った。
「そろそろ会議室に移動するからいい。部屋の掃除は午前中に終わらせておけよ。」
ニーガンはそう言って本をコーヒーテーブルの上に放り出し、立ち上がってドアの前まで移動した。そのまま出ていくかと思ったが、奴はドアノブに手をかけたまま振り返る。
「リック、ご主人様が出かける時に言う言葉は?」
ニヤニヤと笑いながら俺を見るニーガンに苛立つ。求められている内容は理解できたが、それを瞬時に実行できるほど人間ができていない。
俺は軽く息を吐いてから睨むように男の顔を見遣る。
「……いってらっしゃい。」
俺が嫌々言ったことは奴も理解しているだろう。それでも楽しげな笑みを浮かべて「ああ、行ってくるぞ」と満足そうに出ていくのだから、あの男の性根は腐っているとしか思えない。
溜め息を吐きながら視線を動かすとニーガンが放置していった本が目に留まった。「取り出したものは元の場所に戻せ」と言ってやりたいが、言ったところで「それがお前の仕事だ」と返されるのは容易に想像できた。
「……先に食器を戻して、掃除の時に本を片づけよう。」
そのように溜め息混じりに呟いてからドアの方へ向かう。
これぐらいのことで苛立っている場合じゃない。やるべき仕事はたくさんある。その全てを疎かにはできない。とにかく今は目の前の仕事に集中しよう。
そう言い聞かせてみたものの、陰鬱とした気分が晴れることはなかった。
*****
「午前中にニーガンの部屋の掃除を終わらせる」といっても単純な話ではない。俺はニーガン専属の使用人ではあるが、他の救世主や労働者が行う仕事も担っているからだ。
例えば、掃除一つを取っても廊下や共用のトイレ・シャワー室など様々な場所を掃除しなければならない。他の者たちと一緒に行っても相応の作業時間が必要だ。その他にも調達や徴収から戻ってきた車があれば荷運びを行い、食堂の配膳の手が足りなければ手伝いに行く。時にはフェンスに括り付けられたウォーカーの処理を行うこともある。それらとは別に一人でニーガンの身の回りの世話をしなければならないのだから時間が足りなかった。
今日は建物全体の廊下を掃除することになっているのでニーガンの部屋の掃除にばかり時間を割いてはいられない。だからといっていい加減な仕事ではだめだ。速さと丁寧さを両立しなければならない。
俺は食器を調理場へ戻した後、頭の中で部屋掃除の段取りを考えながら掃除道具を取りに行き、急ぎ足でニーガンの部屋に戻って仕事に取り掛かる。
まずは棚や窓枠などの埃を隅々まで払ってから床を掃き、その次は窓枠や家具を水拭きした。それが終わると今度は部屋に備え付けのシャワー室の掃除だ。ここに来たばかりの頃、ニーガンから「水回りは特にピカピカにしておけよ」と言われたので徹底的に掃除するようにしている。そのためトイレを含めた水回りの掃除には特に時間がかかった。壁と床、そして便器や洗面台をしつこいくらいに擦っていると全身に汗を掻くし疲れるが、奴にごちゃごちゃ言われるよりマシだ。些細な隙も作りたくなかった。
汗のせいでシャツが背中に貼り付く不快さを我慢しながら手を動かし、ようやくシャワー室がきれいになったものの一息つく余裕もない。シャンプーなどの容器に中身を補充してから狭い部屋を出た俺を待つのはベッドメイクだ。
ニーガンのベッドはキングサイズなのでベッドメイクを一人で行うのは楽ではない。二人で行うのが一番良いのだが、奴の部屋については俺一人で何もかも行うことになっているので無理だ。ニーガンは細かい部分まで見るのでシーツにしわが寄らないよう神経を使う。
速さと丁寧さを心掛けながらのベッドメイクが終わると部屋全体を見回ってやり残しがないか確認した。一通り見たが、特に問題ないはずだ。
「……とりあえずこの部屋は終わり、と。」
そんな独り言を呟きながら息を吐いた。たったのそれだけで疲れが全身にのしかかる。
本音を言えば休みたい。サンクチュアリに来てから気の休まることは一度もなく、精神的な疲れによって肉体の疲れが大きくなるので毎日しんどさを引きずっていた。ニーガンを憎みながらも植え付けられた恐怖のせいで奴の反応を気にせずにいられず、あの男と一緒にいると疲れが増す。それでもこの場所を離れることはできなかった。全ては仲間を守るためだ。
俺は深々と溜め息を吐いた後、掃除道具を持って部屋を出る。
俺には休む時間も考え込む時間もない。待ち受ける仕事を終わらせなければならない。遠く離れた仲間たちに今の自分がしてやれるのはニーガンに尽くすことだけなのだから。
ニーガンの部屋の掃除を終えた後は他の労働者と共に廊下を掃除していたのだが、昼が近づいてきたので作業を中断して昼食の準備のために調理場へ向かう。
昼食のメインディッシュは魚料理だった。それならば白ワインを用意した方が良いだろう。
俺は食品庫に行き、ワインを選ぶために棚に並んだワインボトルを眺める。これらは調達で得たものだけでなく様々なコミュニティーから徴収してきたものも多い。ニーガンに差し出すために多くの人が苦労しているのだと思うと暗い気持ちになる。
気を取り直すように軽く頭を振り、目についたワインボトルを取り出すと調理場に戻ってグラスにワインを注いだ。そして後片付けを他の人間に頼んで昼食を届けに向かう。
ニーガンの部屋の前には護衛が立っていた。それは奴が部屋に戻っている証拠だ。俺が近づくと、朝と同じように護衛が部屋の中に声を掛けてからドアを開けたのでそのまま部屋に入る。ニーガンはソファーにもたれて座っていたが、俺と目が合った途端に前のめりになった。
「お待ちかねの食事だ。ちゃんとワインを用意してあるみたいだな。偉いぞ、リック。」
褒め言葉であってもニーガンから言われるとバカにされているようにしか聞こえないので、言われた言葉は無視して奴の前に昼食が乗るトレーを置いた。
「部屋の掃除は午前中に終わらせてある。他にやることがあれば教えてほしい。」
そう尋ねるとニーガンはフォークを手に取って考える素振りを見せる。
「そうだな……三時ぐらいに果物を持ってこい。言っておくが丸ごとじゃないぞ。食べやすいように一口サイズに切ったものだ。」
こちらをフォークで指して偉そうに告げるニーガンに「それくらいわかってる」と言ってやりたかったが、それを堪えて「わかった」と頷く。
「飲み物は必要か?」
「いや、いい。果物だけ持ってこい。」
その指示に対してもう一度頷き、俺は部屋を出ていこうとした。その時、ニーガンから「リック」と名前を呼ばれる。
振り返れば感情の読めない笑みを浮かべたニーガンが俺を見つめていた。
「三時頃だぞ。いいな?」
その短い言葉が意味深に思えてならず、困惑しながらも頷く他なかった。
今度こそ部屋を出て、自分も昼食を食べるために食堂へ向けて足を速める。まだ仕事が残っているのでのんびりと食事をする余裕はなかった。急いで食べて廊下の掃除を再開し、タイミングを見てニーガンの使った食器を下げに行かなければならない。
急いで歩きながらも先ほどのニーガンの命令を振り返る。妙に時間にこだわっているように感じられたが、何か企んでいるのだろうか?
奴が絡むと悪い予感しかしない、と憂鬱さが胸に広がっていった。
*****
腕時計が指すのは午後三時。ニーガンに指定された時間だ。俺はカットフルーツが美しく盛られたガラスの器を持ってニーガンの部屋を目指す。
自分の手の中にある器を見て溜め息を漏らさずにいられないのは、数種類もの果物が使われたカットフルーツの豪華さのせいだ。
今の世界で生鮮食品は貴重品。ヒルトップや他のコミュニティーでは野菜や果物、そして畜産物が生産されているが、それは簡単にできるものではない。必死に努力した結果生み出されたものだと理解しているからこそ、それを贅沢に消費するニーガンや救世主たちを腹立たしく思う。
そして同時にサンクチュアリで生活している自分も同じなのだと考えると胸が苦しくなった。ニーガンほどの贅沢はしていなくても新鮮な食材が使われた料理を毎日食べている俺だって奴らと変わらない。そのことが心苦しくて仕方なかった。
心苦しさを感じながら歩くうちにニーガンの部屋があるフロアに到着し、部屋の方へ足を踏み出しかけて首を傾げる。いつもはドアのすぐ横に立つニーガンの護衛が部屋から距離を置いた場所に立っていたからだ。
訝しく思いながら護衛の前を通り過ぎてニーガンの部屋の前に立ち、ドアをノックしようとした時に中から女の喘ぎ声が聞こえてきた。それは苦痛ではなく明らかに快楽を含んでいる。それにより、俺は護衛が部屋から離れた場所に立っている理由を理解した。
(……ニーガン、あのクソ野郎。セックス中に俺が部屋に入るように仕向けたな。本当に下品で最低な男だ)
心の中で毒づく自分の顔が険しくなっていることは鏡を見ずともわかる。
ニーガンは妻とのセックスを俺に見せて反応を楽しもうと考えたに違いない。だから「三時頃に持ってこい」と繰り返したんだ。日頃から俺の反応を面白がっているのは知っていたが、こんなバカみたいなことを考えるとは思わなかった。本当に最低だ。
気持ちを落ち着かせるために深呼吸し、表情を消した上でドアをノックすると返事がすぐに来た。
「入れ。」
何が「入れ」だ、この変態。俺は苛立ちを飲み込んでからドアを開ける。
部屋に入ればベッドの上ではニーガンとその妻が裸で抱き合っていた。セックス中に第三者が部屋に入ってきたことに驚いたニーガンの妻は「やだ!どうして⁉
」と悲鳴を上げて顔を背けるが、ニーガンはニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべてこちらへ視線を寄越す。
俺はニーガンへ向ける視線に冷ややかなものが混じるのを自覚しながら口を開く。
「ニーガン、ご希望のカットフルーツだ。テーブルの上に置いて構わないか?」
無感情に問いかけるとニーガンは表情を変えないまま「そうしろ」と答えた。
俺はニーガンから視線を外してソファー前のテーブルに器を置く。その間にもニーガンからの視線が全身に絡みつくのを感じた。この視線が嫌いだ。俺の全てを見透かそうとするような視線が不快で、奴に縛られるような気がして大嫌いだった。
視線を感じながらも敢えて無視して部屋を出ていこうとすると、「なあ、リック」と粘着性のある声が背中に投げられる。仕方なしに振り返れば愉快げな目が俺を捉えた。
「お前、しばらく女を抱いてないだろ。混ざるか?」
余りにもバカバカしい提案に思わず溜め息が出た。言葉を交わすのも嫌になるが無視するわけにもいかない。
「俺は忙しいんだ。失礼する。」
それだけを返して部屋を出ると来た道を戻る。もうすぐ調達班が戻ってくる予定で、荷下ろしを手伝うように言われているので一階まで下りなければならない。
階段を降りる途中、荷下ろしが済んだ後に再びニーガンの部屋に行かなければならないことに気づいてうんざりした。シーツ交換をして使用後のシーツを洗濯しなければならないからだ。
本当にあの男は俺にとって害でしかない。心の底からそう思った。
荷下ろしの手伝いが終わり、再び足を運んだニーガンの部屋には部屋の主の姿しか見当たらなかった。それでも微かに残る性の匂いに顔をしかめる。
ニーガンはジーンズだけを履いた状態でソファーに座っていた。俺が戻ってくることを承知で上に何も着ていないのだから恥じらいも何もあったものじゃない。
ニーガンはフォークでカットフルーツを食べながら俺の方に視線を定めていた。その意味深な視線を無視して必要なことだけを質問する。
「シーツ交換に来たんだが、取り換えても問題ないか?まだだめだと言うならいつ頃なら大丈夫なのか教えてほしい。」
「構わない。今やれ。」
「じゃあ、交換させてもらう。」
ニーガンの許可を得たので早速シーツ交換に取り掛かる。使用済みのシーツをたたんで床に起き、新しいシーツを取り出してベッドの上に広げて整えていった。
シーツ交換を行う間、ニーガンは無言だった。普段は煩わしいほどにおしゃべり好きな男が無言でいることほど不気味なことはない。気になってチラッと視線を向けると奴の視線が自分に貼り付いていることを思い知らされる結果となり、思わず舌打ちをしたくなった。
「ニーガンに見られている」ということを意識してしまえば奴の視線が気になって仕方なくなる。じっとりした熱の籠もる瞳で見つめられると全身をあの男に撫で回されているような気がして気分が悪い。
奴からの視線に耐えながら手を動かし続けるうちにシーツ交換が終わった。早く部屋を出ようと使用済みのシーツを拾い上げた時、ニーガンがこちらに近づいてきた。その手には一口サイズのオレンジを刺したフォークがある。
ニーガンは進路を阻むように俺の正面に立って見下ろしてきた。俺は注がれる視線に居たたまれなくなり、顔を少し俯ける。
「……シーツ交換なら終わった。まだ何かあるのか?」
警戒心を顕に告げた俺に対してニーガンは余裕の態度だ。お馴染みの笑みを見せるニーガンは俺の顔を覗き込みながら口を開く。
「よく働いてくれるお前にちょっとした褒美をやろうと思ってな。忠実な使用人を労ってやるのも主人の務めだ。だろ?」
ニーガンはそう言ってフォークに刺さったオレンジを俺の口元に寄せた。顔に近づけられたのでオレンジの香りが鼻先をくすぐるが、目の前の男からの施しだと思うと食欲は湧かない。それでも払いのけるわけにいかず、口の中に受け入れるしかなかった。
俺はオレンジを見つめてから視線を上げてニーガンを見る。その目に浮かぶ愉悦に苛立ちを感じながらも目を逸らさずオレンジを口に含んだ。
口の中にオレンジが入った途端に柑橘系の香りが広がり、その実を噛めば果汁が溢れる。それなのに爽やかさを感じないのは俺の心理的なものが影響しているのだろう。
「リック、美味いか?」
短く問われ、俺はオレンジを飲み込んでから答える。
「良い味だった。ありがとう、ニーガン。」
満点の回答にニーガンが満足気に笑う。奴は「そりゃ良かった」と言ってソファーの方に戻っていった。
これで今度こそ終わりかと思ったが、ニーガンはソファーに腰を下ろしながら「ああ、そうだ」と思いついたように告げる。
「今夜、ここに来い。疲れが溜まってるからマッサージしてもらいたい気分なんだ。お前の夕食が済んでからでいいぞ。」
その命令に思わず目を瞠る。マッサージであればニーガンの妻の中に得意な者がいるはずだ。わざわざ俺に命じる必要はない。
「ニーガン、俺はマッサージの経験がない。あんたの妻に頼んだ方が──」
「リック、俺はお前に命令してるんだ。それなのに拒むのか?主人が使用人に命令してるのに?お前って奴は自分の立場を忘れちまったのか?もしそうなら思い出させる必要がありそうだ。」
口を挟む暇もなく言いのけたニーガンの眼差しは鋭い。次に下手なことを口にすればどんな恐ろしい結果が待ち受けているかわからない。
俺は緊張のせいで渇く喉を潤すために唾を飲み込み、「すまなかった」と謝罪の言葉を口にした。
「自分の立場は忘れていない。俺はニーガン専属の使用人だ。あんたの望み通り、夕食後にここへ来てマッサージをする。」
その返事を受けたニーガンは瞬時に笑みを浮かべた。
「それならいい!忘れて寝ちまわないように気をつけろよ。」
俺は頷いて返すと少し足早に部屋を出た。ニーガンの部屋から遠ざかると自然に安堵の息が漏れた。だが、それはすぐに憂鬱の溜め息へ変わる。
過去にローリの肩を揉んだことはあるが、本格的なマッサージは全くしたことがなかった。どうやれば良いのか検討もつかない。下手なマッサージではニーガンを怒らせてしまいそうだから、とにかく慎重にやろう。
考えるうちにどんどん気分が沈んでいき、溜め息を吐くのをやめられそうにない。……いや、溜め息を吐いたっていいじゃないか。「一日の終わりに嫌な仕事が舞い込んだ」と落胆することぐらいは許されるだろう、きっと。
*****
仕事を片づけて遅めの夕食を終えた後は本来ならば束の間の自由時間のはずだったが、今夜は違う。ニーガンの部屋に行かなければならない。一日の終わりに奴の顔を見なければならないのだと思うと気が滅入った。
日中とは異なり、夜のサンクチュアリの廊下は人通りが少なく静かだ。自分の足音が妙に響くように感じながらニーガンの部屋に向かい、部屋の前に立つ護衛に「ニーガンの命令で来た」と告げると護衛がドアをノックして俺の来訪を伝えた。そうすると中から「入れ」との許可が与えられる。
俺はドアを開けて中に一歩入り、ベッドに寝転がって雑誌を捲るニーガンに顔を向けた。奴が読んでいるのは旅行雑誌のようだ。訪れることの叶わない旅先の風景を見て気が紛れるのだろうか?それとも過去の世界が閉じ込められた雑誌を読んで己を慰めているのだろうか?
そんなことをぼんやりと考える俺に向かってニーガンが呆れ混じりの笑みを見せた。
「いつまでそんなところに突っ立ってるつもりだ?早くドアを閉めろ。」
ドアを開けたままであることを指摘され、後ろ手にドアを閉めてからニーガンに近づいてその顔を見下ろす。
「どこをマッサージすれば良い?」
目的以外の会話が煩わしいのでストレートに本題を切り出すとニーガンが小さく笑った。俺の考えを見透かしたような笑みが気に触るが、大人しく奴の回答を待つ方が賢明だ。
ニーガンは自身の肩を叩きながら「肩と背中だ」と答えた。
「軽く揉む程度でいい。力を入れ過ぎるなよ。痛めたら困る。」
ニーガンはそのように言うと雑誌を脇に置き、体勢を変えてうつ伏せになる。そのことに驚いて目を瞠った。
うつ伏せになれば死角が増える。それは俺に対して隙を見せることに他ならない。つまりニーガンは恨まれている相手に自分を殺すチャンスを与えたということだ。
しかし、見方を変えればニーガンが俺を脅威と見做していないことの表れとも考えられる。「お前程度では俺を殺せない」と言われているのと同じだ。それに気づいてしまえば無防備に背中を晒す男への怒りと、それ以上に屈辱を感じた。
そうだ。俺はニーガンを殺せない。目の前にチャンスが転がっていても、頭の中で奴の命を奪う自分の姿を思い描いても、それを実行に移すことはできない。ニーガンを殺した代償はアレクサンドリアに住む仲間たちの命だ。俺がニーガンへの殺意を形にすれば、あの小さな町の住人は根絶やしにされるだろう。奴はそれを理解しているから俺に対して無防備でいられる。それが悔しくて堪らなかった。
屈辱と悔しさに無言で耐えていると「早くしろ」という憎い男の声が聞こえたので、必死に感情を飲み込みながらベッドの近くに身を屈める。
「……触れるぞ。」
声を絞り出してそれだけを告げ、ニーガンの背中の上部に両手を置いて揉み始める。
初めて触れるニーガンの背中には程良く筋肉が付いていた。肉体労働は部下任せにしている割に体は引き締まっている。もしかしたら俺の知らないところで鍛えているのかもしれない。ルシールと呼ばれる凶器を思い通りに振り回すには体を鍛える必要があるのだろう。
ニーガンの得物のことを思い出して暗い気分になった時、奴から「もう少し力を入れろ」との注文が飛んできた。
「『力を入れ過ぎるな』とは言ったが弱すぎる。微妙な力加減ってものがあるだろうが。」
「俺にそんな繊細さを求められても困る。」
「そう言われりゃそうだな。お前は極端な奴だった。全員生かすか、全員殺すか──だろ?」
ニーガンから皮肉げに言われて押し黙る。過去の行いを思えば何も言い返せなかった。
「仲間を守るために敵を皆殺しにする俺」と「統制のために必要な殺しだけするニーガン」を比較して、理性的なのはどちらかと言えばニーガンになるのだろう。極端な結論に走りがちな俺は冷静に判断しているようで冷静ではなかったのかもしれない。
敗北感に打ちのめされながらマッサージを続ける俺にはお構いなしにニーガンが勝手にしゃべり出す。
「おいおい、黙っちまうのか?そこがお前のいけないところだぜ、リック。お前には主人を楽しませようっていうサービス精神が足りない。例えばBGM代わりに歌ってみるとか。」
「歌は苦手だ。」
「それじゃあ、トークで……ああ、それをお前に求めるのは間違いだな。俺と比べて落ち込まれても困る。」
「期待に添えなくて申し訳ないが、あんたを楽しませるのは俺には無理だ。」
投げやりな気分で返すとニーガンが顔をこちらに向けた。真っ直ぐに見つめられて、つい目を合わせてしまう。
ニーガンはこちらをじっと見つめたまま口の端を持ち上げた。
「お前はサービス精神ってやつを持ち合わせちゃいないが、俺を十分楽しませてくれてるぞ。そこは自信を持っていい。」
そう言って笑みを深めるニーガンに対して俺は眉間にしわを寄せる。
ニーガンという男はサディストだ。他人を屈服させ、苦悩する姿を見て楽しむ。そんな男が最も苦悩させて楽しいと思う相手こそが俺なのだと理解している。
一時はコミュニティーのトップに立って人々を導いた俺は「強者」と呼べるだろう。そんな俺を地に引きずり下ろして捻じ伏せ、高みから見下ろす快感はニーガンにとって格別に違いない。俺が怯えを見せたり苦悩するたびに奴の顔に愉悦が浮かぶ瞬間を何度も目撃してきたのだから。そうなると俺の存在そのものがニーガンを楽しませていると言えるのかもしれない。
少しも嬉しくない結論を導き出してしまった自分に嫌気が差す。それにより敗北感が増した。
それからはニーガンの話を適当に聞き流しながらマッサージを続けた。そのうちにニーガンが「もう十分だ」と言ったので奴の背中から手を離す。俺が手を離すとニーガンは体を起こしてベッドの縁に座り、ゆっくりと上半身を伸ばした。
「──うん、それなりに楽になった。次はもう少し上達しておけよ。」
そう言ってニヤリと笑う男に溜め息を吐きたくなったが、それを堪えて「努力する」と答えた。
「じゃあ、俺は自分の部屋に──」
「戻らせてもらう」と続けようとした言葉が途切れたのはニーガンに手首を掴まれたせいだ。立ち去ろうとする俺を引き止める行為に目を瞠り、奴の顔を凝視する。その顔に浮かぶ笑みは普段と変わらなかった。
俺の立場では手を振り払うわけにいかないので「手を離してほしい」と頼むしかない。
「ニーガン、用は済んだはずだ。手を離してくれ。部屋に戻りたい。お願いだ。」
苛立ちが滲まないように注意しながら懇願してみたが、奴は無言のまま手を離そうとしない。それどころか俺の体を自分の方に引き寄せた。
距離が縮まると手首を掴んでいた手が腕に移動して力強く引っ張られる。そのせいで体のバランスを崩し、ニーガンの胸に飛び込む結果になった。
すぐにニーガンから離れようとしたが、それを阻むように奴の両腕に体を拘束されて焦りが生まれる。
「ニーガン!」
抗議の意味を込めて名前を呼んでもニーガンから返ってきたのは楽しげな笑い声だ。
「そんなに警戒するなよ、リック。抱きしめるだけさ。他には何もしない。」
「とにかく離せっ!」
少し強い口調で言い放つとニーガンの指が俺の背を背骨に沿って撫で上げた。指が背を這うのに合わせて背筋にゾクゾクとしたものが走り、一瞬だけ呼吸が止まる。
俺が瞬間的に息を止めたのを察したのか、ニーガンから声を殺して笑う気配がした。続けて「なあ、リック」と呼びかけられる。
「お前は俺のもので、俺専属の使用人。そうだな?」
そのように問うニーガンの声はひどく落ち着いている。落ち着き払った声と問われた内容の意図が読めず不気味ではあるが、とりあえず「その通りだ」と答えた。
「それじゃあ、今日は俺のことをどのくらい考えた?」
「……どういう意味だ?」
「変に勘ぐるな。言葉通りの意味だ。お前が俺のことをどれぐらい考えてたのか──知りたい。」
そんなことをニーガンが知りたがる理由は全く理解できないが、ニーガンについて考えた瞬間を思い返してみる。
振り返ってみれば朝から夜まで一日中ニーガンのことを考えて過ごしていたように思えた。それは当然だ。俺はニーガン専属の使用人なのだから仕える相手のことを考えて動かなくてはならない。奴の事を考えてばかりなのは仕事上当たり前と言える。
だが、それが答えとは思えなかった。ニーガンを初めて目にした瞬間から、奴が俺の大切な仲間を殴り殺した瞬間から、圧倒的な敗北によって屈服させられた瞬間から、俺の心にはニーガンへの憎しみと恐怖が根を張っている。そのせいでどこにいても何をしていても奴が頭から離れない。きっと、俺は死ぬまでニーガンのことを考えずにいられないんだろう。
ああ、本当に全てが支配されている。この支配から逃れたいのに逃れる術が見つからない。その悔しさに眉を寄せ、自身の情けなさに唇を噛んだ。
そして、俺を抱きしめたまま回答を待つ男のために重い口を開く。
「……あんたのことばかり考えていた。」
自分の正直な答えに虚しくなった。だが、嘘を吐いても意味はない。この男には全てがお見通しなのだから。
「あんたに出会った時からあんたのことを考えずにいられない。憎くて、殺したくて……怖くて。俺があんたの使用人だからとかは関係ない。ここに来る前からそうだった。あの夜からずっと──俺の頭も心もあんたに支配されたままなんだ、ニーガン。」
俺が正直に吐き出す思いをニーガンは黙って聞いていた。俺を囚える腕の力強さは変わらないまま。
俺が話し終えるとニーガンは深く息を吐きだした。呆れではない。込み上げる感情を落ち着かせようとするような、そんな息の吐き方だった。
身動きせずに相手の出方を窺っていると急に視界が反転した。いつの間にか俺はベッドの上で仰向けになっていて、こちらを見下ろすニーガンと目が合い、そこで初めて目の前の男に押し倒されたのだと気づく。
「ニーガン……?」
奴の名前を呼ぶ自分の声が微かに震えたのがわかる。首を絞められてもおかしくない状況に死への恐怖が忍び寄ってきた。
普段は意識しないようにしているが、ニーガンはいつでも俺を殺せる。処刑の理由なんて支配者であるニーガンならばいくらでも作り出せるだろうし、わざわざ新しい理由を作らなくても「ニーガンの部下を殺した罪」だけで十分だ。俺の命は常にニーガンの掌の上にあるのだと意識してしまえば、自分のちっぽけな命が今にも捻り潰されてしまいそうな気分になった。仲間のために命を捨てる覚悟をしていたはずなのに、いざ目の前に死が迫ると恐怖心を抱かずにいられない。
全身を硬直させてニーガンを見つめる俺の頬を奴の指が滑った。慈しむような優しい触れ方に戸惑っていると、ニーガンが微笑みながら「怖がるなよ」と言う。
「何もしないって言ったろ?ただお前に触れていたいだけだ。」
そう話す声には機嫌の良さが滲んでいた。顔に浮かぶ笑みも皮肉めいたものではなく純粋に楽しげなものだとわかる。
どうしてニーガンが上機嫌になったのかが俺にはわからなかった。今の会話のどこに喜ぶ要素があったのだろうか?
「全く理解できない」と困惑している俺にニーガンが顔を近づけ、額と鼻先が触れ合った。そうすると間近で見るニーガンの目に自分の姿が映り込んでいることに気づいて居たたまれなくなるが、顔を逸らすことは許されないだろう。そんな気がした。
ニーガンは額と鼻先を触れ合わせたまま悠然と微笑む。
「これから先、お前は常に俺のことを考えて生きていけ。よそ見は許さない。いつまでも、ずっと、死ぬまで──俺がお前の全てだ。」
告げられた言葉は俺にとっては余りにも残酷なもの。それなのにニーガンの声は愛を囁くように甘い。
奴の声が耳に届いた瞬間、自分の体が震えたのがわかった。その理由は掴めない。
圧倒的な支配者の覇気に恐れを抱いたのか?
官能を孕む声に体の奥の熱を呼び覚まされたのか?
強大で凶悪な執着心に絡め取られたせいなのか?
そのどれであったとしても、俺がニーガンのものであり逃げることはできないという事実は変わらない。目を背けることは許されず、奴を見つめ続けなければならないんだ。
「お返事は?リック。」
楽しげに問うニーガンは俺の唇を親指でなぞり始めた。その手を払うことさえ俺には許されない。
「……ニーガンが俺の全てで、俺の全てがニーガンのものだ。」
悔しさで涙が滲みそうになるのを堪えながら返した言葉にニーガンが目を瞠った。珍しく驚いた様子を見せたのも一瞬のことで、その顔には捕食者の笑みが浮かぶ。
「満点以上だ。」
満足げな声が響くと同時に瞼にキスが落とされた。まるで、俺の視界を塞ぐようなキスだった。
END