一緒にごはん「つつつ、月永先輩!」
危ない~、と小さな身体を後ろから羽交い絞めにする。
「おお?なんだ、お前、あのUFOが見えないのか?!」
歩道から今にも飛び出しそうな身体を背後から抱きしめたまま、「そんなものないです」と首を横に振る。
「じゃあ、あれはなんだって言うんだよ?!あ?!」
振り向き凄んでくる、一つ年上の先輩、月永レオに、「あれは、自動車です」と必死に返した。
「……ん?」
真の腕を振り払おうともがいていたレオが急に大人しくなるのにホッと息を吐き、「はあ~、よかった、理解してくれた」と肩を下ろしたのも束の間、「あー!」と先ほどよりも大きな声で叫ぶレオに「今度はなに?!」と真は緩めていた腕の力を強いものにした。
「あれ、さっきよりももっと大きなUFOだ!」
道路をビュンと走りすぎていくトラックを指差してレオが言う。
「わー、ほんとですねー」
少し、疲れてきた。
珍しく、というか初めて、月永レオに食事に誘われ、身の程知らずなほどに高級な料亭に来て、美味しいご飯と美味しいお酒を目一杯楽しんだあげく、二人して現金の持ち合わせもなければ、クレジットカードの類もないことにお会計の時点で気が付いて、それで共通の知り合いである瀬名泉に助けを求めてって――。
そもそも、どうして月永先輩と食事にきたんだっけ。
記憶を掘りこせば、きっかけは大分浅いところにあった。
数時間前、都内のスタジオでテレビ番組の収録をしていた。アイドルユニット、トリックスターとしてではなく遊木真としての仕事だ。もちろん一人だった。それで、スタジオを歩いていれば、少し前をふらふらと、このオレンジ頭の先輩が彷徨っている(ように見えた)のを発見した。
それが、事の始まりだった。
どうやら彼も、真と同じように、月永レオ個人としての仕事の打ち合わせにそのスタジオに来ていたようで、家に帰ろうとしたところスタジオの中で迷子になったということだった。
困っていたんだんよ。本当に。
知り合いを見つけたレオは、「よかった~」と胸を撫で下ろしていたが、次の瞬間には「ああ、そうだ、この迷っていた時間が俺の脳を刺激する……」と、思いついたメロディを書き残すよう、ポケットから取り出したメモ帳に音譜を書き連ねていく様子から焦りや不安は感じられなかった。「歩きながら音譜を書けるの、すごいですね」と、黒い点とぐにゃぐにゃと歪曲しながらもその点を繋ぐ線を書き記していくレオに感心して言えば、「これが特技だからさ」と鼻歌まじりに返してきた。
天才作曲家、月永レオ。
彼の通り名が、頭の中にポンと浮かんだ。
そうこうしているうちにスタジオの出入り口に着いて、「じゃあ、僕はこれで」とその場を立ち去ろうとすれば、「ちょっと待って!」と引き止められた。
レオと個人的な付き合いは一切ない。
天才だけど破天荒な人だということは彼をよく知る人物から聞いていたが、それ以外のことを実はあまり知らなかった。どうして呼び止められたのだろうか、と考えていれば、「ごはん食べにいこう、一緒に!」とレオが言った。
ごはん?なんで?僕と?
そう尋ねるより先、何が面白いのかレオは笑いながらスタジオの前に停まっていたタクシーを呼んでいて、あれよあれよという間にそこに連れ込まれて、そしてあれよあれよという間に、テレビドラマで偉い人達が秘密の話をするような店に連れてこられた。
落ち着いた雰囲気の和割烹という店構えのその場所にまるで場違いな年齢と、そして見た目であるにも関わらず、レオは一切尻込みすることなく、店先にいた着物姿の女性に一言二言話をして、そして店の中へと入っていった。それに続いて店へと入っていけば、通されたのは立派な個室で。
僕、こんな場所に来れるほど稼いでないし、場違いだし、ちょっと気まずいんですけど。
上品そうな和服姿の女性が部屋の襖を音もなく引くのと同時、レオに耳打ちした。それを聞いたレオはと言えば、「大丈夫、お金ならあるから!」とレオはアハハと笑った。その言葉を信じていいのか分からぬまま、しかし飲み物も料理も運ばれてきてしまい、もうこうなったら美味しく味わおう、大丈夫、明日から給料日までモヤシで何とか乗り切れると、腹を括り、それらを胃に収めていった。
小さな身体なのに、よく食べるし、よく飲むんだなあ。
コース料理なのか注文をした覚えはないのに運ばれてくる料理と、それが部屋に到着するたび、「これに合うお酒をください」と注文を告げるレオは、何だかとても大人びて見えた。
こんな風に二人で話したのは初めてだったが、意外と会話は続いた。続いたけれども、はたして噛み合っていたのかどうかは、真にも分からない。ただ、とにかく沈黙が続いて気まずい、なんてことはなかった。
そのせいか、レオは終始ご機嫌で、注がれる酒を美味しそうに飲んで、楽しそうにまたおかわりして、そして、まあ、このザマだ。
終電の時間が気になり始めた頃、「月永様」と、レオと真に給仕してくれていた和服姿の女性が伝票が挟まれているにであろう黒い革ばりの立派なケースを持ってきたのに、「はーい、そこに置いておいてください」とレオは相変わらずの様子で返していた。何度か、「そろそろ帰りませんか?」と聞いてみたが、「送ってくからもう少し遊ぼう」とせがまれ、二人で使用するにはかなり広い和室に敷かれた畳の上に寝転がり、指先でそこに何かを書き始めるレオを眺めながら、これからどうしようと考える。
ひとまず、タクシー?
ここから自宅までの距離を考え、ハアと落胆する。というか、そもそも、この店の支払いはどうなるのだろう。一万円……で足りるの?いや、そういうレベルの話じゃない気がする。胃に収めてきた数々の料理のこと、レオが景気よく頼んだ酒のことを考え、胃がキリキリと痛みだすのを感じながら、そうっと、机の上に置かれた革のケースを自分の方へと引き寄せ、その中を覗いて。後ろにひっくり返りそうになった。いや、しっかりと、ひっくり返った。
「つ、月永先輩、これ、えっと……」
起き上がりながら、手に持っていた黒いケースをレオへと差し出す。
「僕、今日は、ちょっと一万円しか持っていなくて……、」
そそくさとカバンを手繰り寄せ、財布を引っ張り出しながら言うと、レオは「あはは」と声高らかに笑った。
「まあまあ、ゆうくん。 おれが誘ったんだからおれが出すぞ。心配しなくていいからさ!」
「いや、それは……」
この金額をご馳走になるのは、ちょっと。
割り勘で、と、潔く一万円札を並べられない財布の状況を悔やみながらも、財布に挟まっている一万円札を出そうとすれば、「先輩にまかせろって」と、それを止められた。
「おれね、ここのご飯が好き。丁寧に綺麗に作られていて、芸術を食べている感じがする」
脱ぎ捨てたジャケットから取り出した財布を開きながらレオが言う。
「でも、こんなところに一人で来ても寂しいだろ。誰かと食べた方が美味しいからさ、いつも誰かに付き合ってもらってるんだよね……って」
レオの動作がピタリと止まった。
手元にある財布を見つめたまま、しばらく動かなくなる。
「月永、先輩……?」
どうしたんですか?
嫌な予感に、こめかみを汗が伝う。
「しまった、お金がない」
えへ。と、舌でも出しそうなノリでレオが言う。
「ええええええ?!!!」
そんな予感はあったけれども、まさかの的中に真は床に倒れ込んだ。この状況をどう打開すればいいのか、高級な酒にふにゃふにゃにされた脳で懸命に考える。
どうしよう、困った、どうしよう。
クレジットカードは持ち歩かない主義だし、電子マネーのチャージもない。スイカ……と思ったけれども、この店でスイカで支払えるとは思えないし、そっちも残高は千円か、二千円といったところだ。近くのコンビニまで行ってお金を降ろしてくるという手もあるが、その口座の残高だって大した金額は入っていない。給料が振り込まれる口座のキャッシュカードは、これもやっぱり、持ち歩いていない。
「ち、ちなみに、月永先輩は、いくらありますか?」
もしくは、カードとか、ありますか?
おそるおそる、しかし最後の希望をもって、レオに尋ねる。
「えっと……、三千六百円、と、二十三円……」
財布をひっくり返し、そこに入っていたのであろう全財産をテーブルの上に並べるレオに、真はがっくりと肩を落とした。
「ど、どうしよう……」
会計の金額を頭に浮かべながら、解決策を練る。
誰かに借りる、と言っても、誰かにこの店まで来てもらわなければならない。
しかも、飲食代、と説明するには大金だ。
母親には、まず頼れない。友人、をこの時間に金を持って呼び出すことも出来ない。
「あ! セナ! セナだ!」
真の脳内にある選択肢を見ていたかのよう、レオが突如閃いたように言った。
「へ?」
「セナに来てもらおう、えーと、俺の携帯は……」
「いや、泉さんにお金借りるのは、利子が高そうな気がしますけど……」
最終的には、そこに頼るしかないと、真自身、なんとなく思ってはいたが、とはいえ、後で何を要求されるか分かったものではないという怖さもある。
「セナに借りるわけじゃないから大丈夫、」
「え、でも」
「俺の、一番強いカード、セナが持ってるんだよ」
携帯電話を耳にあてたレオが言う。一番強いカード、というのは、クレジットカードのことなのか。まるでゲームの手札のように言うレオに、首を傾げた。
「色々とあってさ、上限額がえげつないカードを持っているんだけど、セナが『アンタにこれを持たせるのは危険すぎる』って言って、大事にしまってくれてるんだよ。あ、だから、あれ、ゆうくんとセナの家にあるんだよ、多分」
見たことある?真っ黒なやつ。
飄々と話すレオに、「ない、です」と返す。そんな話は、そもそも聞いたことがなかった。
「というか、カードを預けるって、ずいぶんと泉さんのことを信頼しているんですね……」
いくら、旧知の仲であるとはいえ、財産を預けるというのは、少し度が越しているように思えた。
「信頼……?」
真の言葉に、レオがその瞳をすっと細めた。自分と同じ、緑色の瞳と視線がぶつかる。
「してるよ、世界中の誰よりも」
普段よりも、少し低い声で、そう言った。
「わーん、セナ!おれを助けてくれ!」
それから、またいつもと同じ、あの子供っぽい口調と声で、電話の向こうにいるであろう泉に助けを求めた。