財ユウ 「今宵のネタ探し」
合宿所に来て、数週間が過ぎた。次期部長として、部活に穴を空け続けるもどうかなと思うが、所詮期間限定の話だ。チーム全体の底上げはもちろん必要だけど、次の夏が来るまでは十分に時間がある。今は、個々人の能力を各々磨いていてもいい時期だし、逆に言えば、今しか個人の能力値を上げることに専念できる時間はない。
そう思うと、この合宿に来た目的と意義が明確になってくる。
「……」
中学に入り部活でラケットを握るようになって、何度かマメが潰れて硬くなった手の平の皮をじっと眺め、ぎゅっと握ってみる。皮膚の内側を血が流れていくのを感じながら、今度は開く。じわりと温かなものが細い血管を通じて広がっていった。
握力も、強くなったかもしれへんな。
そんなことを思う。
きっかけこそろくなものではなかったが、日々着実に進化していることへの充足感を考えると、ここに来てよかったとさえ思えた。
「ここおるとブログネタも尽きないからな、有名人多いし」
趣味で続けているブログのネタになるような人やものや出来事が沢山あるのではないかという予想と期待と、それから、はた迷惑な先輩に(無理やり)背中を押されたことが、財前がこの合宿に参加した直接的な理由だった。
結果として、その予想は当たり、期待が裏切られることもなかった。
山間の何もない施設と思いきや、そこにいるのは一癖も二癖もある強者ばかりで、それに巻き込まれて面倒な目に遭うこともしばしばあるが、おかげでブログのアクセス数は増えた。
「あと、自然も多いしな、困った時の大自然さまやな」
練習時間の間にブログのネタになるようなことが見つからなければ、合宿所を取り囲む雄大な自然を写真に納めればいい。だから、何も事件がなかった今日のような日は、財前はいつも合宿所の周りを散歩する。
一周すれば、何かが見つかる。もしくは、出会う。
そういう場所だった。
学校ジャージの下に家から持ってきたフリースを着込み、ついでに首元にマフラーを巻き付けた姿で玄関があるロビーを目指し廊下を通り過ぎていく。冬はまだ先と言えど、山の夜は冷える。ネタ探しの散歩に出かけるには、少し準備が必要な気温だ。
「……ま、今日はネタ提供してもろたしな」
練習時間、同室の日吉から聞いた話を思い出しながら、廊下の先、暗くなったロビーを通り過ぎていく。どうにもオカルトに興味がある日吉は、財前とは別の目的で合宿所の周りを散歩することがあるようなのだが、昨晩、とても見晴らしのいい場所を見つけたのだという。あそこからなら、普段は見えないものも見える気がする。ニヤリと口角を持ち上げ、得意げに話す顔を思い出し、「……変なもん見たらいややな」と一人ごちる。その手の話は信じていないが、妙な不安に駆られるのもまた事実だ。
その気持ちを紛らわせようと、首にかけていたイヤホンを耳に差し込む。好きな曲でも聞こうと携帯の液晶を操作していれば。
「う……ぅ、う……、ぅぅ」
どこからともなく掠れた声が聞こえてきて、財前は思わず足を止めた。
「ぅぅ……、う、う、」
呻き声というよりは、泣き声に近い。時おり、ズズっと鼻を啜る音が混じるのに、眉を寄せる。子供のような泣き声は、聞き覚えがあった。
「……」
イヤホンを摘んだまま耳には入れず、声がする方を探し、闇の中で視線を巡らせる。
午後八時を過ぎれば、合宿所の共有スペースも一気に人気がなくなる。皆、風呂に入ったり、各々の部屋か友人の部屋で、のんびりとプライベートを過ごす、そんな時間帯のせいもあって、ロビーはがらんとしていた。
「……って、うわ」
その中、ソファに膝を立て蹲る人影を見つけて、驚くより先、うんざりした声を漏らした。
照明の落ちた暗い場所に一人きり、スンスンと啜り泣く人物の正体はよく知っている。どうりで、泣き声も聞いたことがあるわけだと一人納得する。あそで一人泣いているのは、この合宿に参加するきっかけのもう一つの理由でもある、はた迷惑な先輩だ。
「う……、う、小春ぅ……」
それにしても、暗闇の中、そういう鳴き声の動物のように相方の名前を繰り返し呼ぶ後姿は、軽くホラーだ。
「……何してんねん」
ほうっておけばいい。
そう思う。視線の端にユウジを映したまま、そこを通り過ぎようと足を動かす。一つ年上の先輩である一氏ユウジが泣いている姿なんて四天宝寺では日常茶飯事で、気にするようなことではない。それ自体がネタの時もあるし、本気で泣いている時もある。いずれにしても、自分には関係のない話だ。
言い聞かせるよう、「関係ない、関係ない」と心内で呟き、また一歩進む。
「……、こ、小春……、う、ぅ」
それで、もう二歩進んだところで、足を止める。
「……」
財前くんは動物が好きで面倒見のいい優しい子です、って。小学生の頃に褒められたことがある。数年前に言われたことを思い出し、ハアと大きく溜息を吐いた。どうにも放っておけない性格なのだ。泣かれれば気になるし、うざいきもいと心の底から思うけれども、この先輩のことを無視することが出来ない。
「ユウジ先輩?」
それで声をかけたところで返事はなく、飽きもせず、こはるこはると泣く声が響くだけだ。
「……」
イヤホンを首から外し、両手に持ち、財前がそこにいることなどまるで気づいていないユウジの背後にそっと近づいていく。そのまま距離を縮め、ソファの背もたれの真後ろに立ち、持っていたイヤホンをそうっとユウジの耳元に近づけ、グイっとその穴の中に押し込んだ。
それから、ディスプレイに表示された再生ボタンを押し、音量を一気に上げる。
「ぎゃあ!」
膝に顔を埋めて泣いていたユウジがソファから飛び上がった。慌てた様子で耳元に手を伸ばしイヤホンを外す姿をまじまじ眺めながら、ほんまにええリアクションする人やなと、感心してしまう。動画でも撮っておけばよかったと、そんなことを思った。
「なっ、にすんねん!?しんぞう止まっ、止まった……」
目を真ん丸に見開いたユウジが振り向くのに、「ドッキリっすわ」とピースと共に返す。涙は引っ込んでいたけど、ユウジの顔に残る涙の痕は暗がりでもわかるほどクッキリと残っていて、心臓の下側がぎゅってきつくなる感じがした。同年代の男の泣き顔なんて見る機会も早々なくなってきたが、自分という人間は、動物でも何でも、泣かれるのに弱いタイプなんだろうなと分析してしまう。一緒に暮らす甥っ子の涙にも弱い。
「ドド、ドッキリやないわ!何してくれとるんじゃ!」
財前がそんな自己分析を脳内ではしているとも知らず、大きな声を出すユウジに、「うるさいっすわ」とうんざり顔を浮かべてみせた。「誰のせいや」と、憮然とした顔つきでユウジが言うのに、結果的には涙もすっこんでよかったですねと心の中で呟いた。
せっかく星を見に行くのだからと即席で作ったプレイリストの一曲目、年の離れた兄に教えてもらったイギリスのバンドの曲が、ユウジが放り投げたイヤホンから漏れ聞こえてくる。
「小春先輩は?」
それを拾いながら尋ねた。
ひとまず、事情と話だけ聞いて、あとは適当に部屋に帰るよう説得すればいい。それで、自分の心残りはなくなるはずだ。どうせくだらない理由で喧嘩でもしたのか、勝手に一人傷ついているのかのどっちかだ。
「小春、は……」
怒り顔が、たちまちしょんぼりと悲しそうな顔になる。ついでに興奮で上がっていた肩は下がり、思い出したようにまた泣き出した。
「うう……、俺のこと嫌いやって……、目も合わせてくれへんのや……」
また、これか。
俯くユウジを目を細めて見つめる。一氏ユウジという先輩は、ダブルスパートナーである金色小春のことを好きなのだという。ネタか、本気か。その判別はなかなか難しいところであったが、財前は後者ではないかと思っていた。愛とか恋とか、形も種類も色々とあるから、『好き』という感情を何に当てはめるのが正しいかは一概には定義出来ない。ただ、ユウジが小春を想う気持ちを愛と呼ばないのであれば、何を愛と呼ぶのかが今度は分からなくなる。『好き』のその二文字の名の下、ここまで一途になれるのはある種の才能だ。
「小春がいない人生なんて……、うぅ、」
一生のうちで、こんなにも人を好きになれる瞬間が自分にも訪れるのだろうか。ユウジを見ているとふと思う時がある。それで、いつも考える。一生のうちで、こんなふうに誰から思われる瞬間が自分にも訪れるのだろうか、と。
「何があったんだか知りませんけど、ちゃんと話したら解決するんとちゃいます?」
いつもみたいに。そう続けると、ユウジは顔を上げた。
「そう思う……?」
上目遣いに見つめられ、コクリと頷く。
まったくもって、星を眺めるために作ったプレイリストが台無しだ。合宿所の暗いロビーで泣き虫な先輩を慰めるために作ったわけじゃないのに、それは立派なバックミュージックとなり二人の間を流れている。
「思います」
早く外に出て、星空の写真を撮りにいきたい。
「ほんまに?」
一方で、ここにいるのも悪くないと思っている。
「ほんまに」
段々と晴れていく表情のその先を見てみたいと思う気持ちは、ただの好奇心だ。早く、この感情がきらめく星で上書きしたくて、ユウジから目を逸らす。玄関の方へと顔を向け、扉の上の時計を見て、門限までの残された時間を確認する。
「小春と仲直り出来る気がしてきた」
ユウジが、笑った。
逸らしたはずの視線はいつの間にか元どおり、その笑顔をしっかり映している。目を離すと、また泣き出しそうで、それは何となく嫌だった。
「これ、俺の好きな曲……」
ソファの上、膝を抱え直すユウジが言うのに、「そっすか」と素っ気なく返す。即席プレイリストの中で、財前自身、それが一番お気に入りの曲であったことは言わなかった。少し驚いたけれども、それも顔には出さない。イヤホンから漏れ出る音を拾い、泣いた後の掠れ声でメロディーを刻み出すユウジを見下ろしながら、変なところで趣味が合うことを実感する。
「先輩、ひま?」
それから、尋ねた。
「……なんで?」
すると、ユウジは首を傾げた。
「いや、日吉にええとこあるって教えてもろたから、ちょっと行ってみようかなと思って」
マフラーに顔を埋め、玄関の方を指さす。
「は?日吉て、あのオカルト好きか……、どうせ心霊スポットとかやろ」
ゲエと顔を顰めるユウジに、「怖いんすか?」と煽るよう言う。
「怖いわけないやろ」
流れ続ける音楽を一度止め、イヤホンをポケットに突っ込み、顰め顔で見上げてくるユウジを見つめ返し、「ほなら行ってみましょ」と歩き出す。
「は?俺も?せやから何で?」
頭にハテナを浮かべながらも、転がるようにソファを降りたユウジが後ろからついてくるのをガラス越しに確認する。
「まあ、ほんとのところは、見晴らしいいところがあるらしいんすわ。この辺に。星とかめっちゃ綺麗に見えるやろうから、小春先輩連れて行ったら仲直り出来るんちゃいます?」
俺はブログのネタ探しっす。そう付け加えた。
「……」
一重の目を丸く開いたユウジが、「お前、天才やな」と呟くのに、「今更ですわ」と肩を竦める。「なんかワクワクしてきた」なんて、数分前まで泣きべそかいていた人物とは思えないくらいに弾んだ声で言うユウジに、「単純すね」と呟き、玄関の扉をぐっと押した。
たちまち、びゅうっと吹き込んでくる北風に、隣に追いつき並んだユウジと一緒に目をぎゅっと閉じた。
「さむぅ……っ」
声が揃う。
でも、目を合わせたところで、「かえる?」の一言は出てこなかった。
秋の深まりを感じる山の風に、めげて戻ることはせず、「行こか」と、また声を揃えて言って歩き出す。
空を見上げれば、合宿所と、その周りにあるテニスコートのナイターの照明に負けないくらいの星が燦燦と煌めいていた。その下を、どうでもいいことを、明日になったら忘れてしまいそうなくだらないことを、どちらからともなくぽつぽつと話しながら歩いていく。
落ち葉を踏むとが夜に響き、やがて遠のく合宿所の明かりを背に、日吉に言われた方角を目指した。
合宿所の正面入り口を背中にして、十分くらい山を登ったところ……。
そんな頼りない説明を頼りに、ぐんぐんと山道を進んでいく。一応、獣道ではないようで、道っぽいものの脇には消えかけの街灯がぽつんぽつんと立っていた。
「はっくしゅ!」
途中、ユウジが大きなくしゃみをした。
もともと、外に出る用事などなかったユウジはティーシャツに学校指定のジャージ一枚を羽織っただけの薄着姿で、防寒などまるで出来ていないことに気づく。
しばらく歩いたことで身体は暖まってきているとはいえ、冷たい風は容赦なく服の隙間から入り込んでくる。ジャージの下にフリースを着込んだ財前も、それは冷たく感じられた。
「十分、百円にしときますわ」
首元、巻いていたマフラーを外して差し出すと、ユウジはきょとんとした顔をした。
「金とるんかい、ケチやな」
それを受け取ったユウジが、手の中にある財前のマフラーをじっと見つめたままひとり言のように漏らす。
「十五分、百五十円でもええですよ」
「……?いや、それ変わらんやろ」
しばらく考えたあと、ユウジが突っ込んでくるのに「反応おそいっすわ」と笑う。
「よしゃ、モノマネ一回リクエスト権でどや?」
得意げな口ぶりで提案してきたユウジが、財前の返事を待たずマフラーを首に巻きつける。
「交渉途中やん」
その様子に呆れた風を装う。
「あったかあい……」
ええやん、モノマネリクエスト権。そうケロリと言ったユウジがまだぬくもりの残るマフラーに頬を綻ばせ、「おおきに」なんて素直に礼を口にするのだから、それ以上の意地悪も憎まれ口も出てこなかった。
「置いてくで……」
合宿所に乗り込んできた日も、そういえば、二人でこんな山道を歩いた。つい最近のことだというのに、ずいぶんと昔のことのようにも思えた。
時おり振り返り、その合宿所がそこにあることを確認する。迷ってしまっては元も子もない。隣でユウジが話すのを聞きながら、そろそろ目的地に着く頃だと、辺りをきょろきょろと見回した。
「あ、あそこや」
すると、山道の途中、木が生い茂る向こう、展望台のように突き出している場所を見つけた。そこだけ木は生えておらず、景色が一望出来るようになっていた。
「おお、天然の展望台みたいになっとるんやな」
額に手を翳したユウジが言う。
街灯の明かりはもうなくて、足元が見えなくなる。これが、日吉の言っていた場所なのだろうと、足元を合宿所から持ち出したペンライトで照らしながら、慎重に、更に先へと進んでいく。
「おわっ、」
夜の露に濡れた落ち葉に足を取られたユウジが、突如視界からいなくなるのに条件反射で手を伸ばした。
「……っ」
土に突っ込む勢いで体勢を崩したユウジの腕を掴み、自分の方に引く。
これは一緒に転ぶやつかもしれん。
諦めと同時に覚悟しつつ、腕に力を入れ転びかけたユウジの腕を引っ張った。
「……あ、あぶな」
でも、ユウジも、自分も、転ぶことはなかった。
フウ。と、ユウジが安堵の息を漏らすのに、財前もつられてホッと息を吐いた。
自分と大して変わらない体格をしたユウジを支えられるほどの腕力はないと思っていたが、やはり、合宿に来て筋力も上がっているのかもしれない。その実感が、また沸々と込み上げてくる。
「っちゅーか、財前って手ぇつめたない?」
すると、唐突にユウジが驚いた声を上げた。
「え?」
突然の反応に驚いていれば、「うわ、やっぱり冷たい」と、ユウジを支えようと伸ばしていた手を、今度は逆に握られた。
「寒い?」
ぎゅっと握られた手に戸惑っていれば、ユウジが重ねて聞いてくる。
「いや、別に」
嘘ではない。本当に寒くはない。手が冷たいのは、それこそ、小学生の頃からそうだ。
「ほんまに?マフラーかえそか?」
ユウジが心配そうな顔を向けてくるのに、「先輩の手があったかすぎるんすわ」と眉を寄せながら返した。
「小春にもよう言われる」
どんとユウジが胸を張る。
「ユウくんの手ぇあったかいなあって。ふふん、普段は小春専用やけど、今日はマフラー借りたからな、おまけで俺のあっかあい手も貸したるわ」
「……」
いりません。
いつもなら絶対にそう言って、握られた手を振り払っていたところだけれども、財前はそれをしなかった。マフラーを貸した事実は確かにあるし、そのオマケだし、それに、ユウジの手は本当に暖かくて、この夜には必要なもののように思えたからだ。
「ほなら……、ほんまに寒くないけど、お言葉に甘えてカイロかわりにさせてもらいます」
「おうおう、なんならカイロのモノマネしたろか?って、そんなん出来ひんわ!」
子供みたいにあたたかいユウジの手を握ったまま、その話題を切り上げるよう、山の『でっぱり』へと足を進めた。ユウジの手を引っ張るみたいに、その真ん中まで進んだ。
足元ばかり見ていたせいで、自分を取り巻く景色を見ていなかった。いつの間にか、周囲を星々に囲まれている。
黙り込んだユウジの方を見ると、同じように自分の方を見ていたユウジと目が合った。ぶつかる視線に、自然と口が開く。
せえの。
声に出さず、声を揃えてそう言って、二人同時に前を向いた。
シン、と。
静けさが、夜を打つ音がした。
「うわ……」
息が止まる。
真っ黒な夜にばらまかれた光と、どれだけの光を散りばめても真っ黒な夜。染め合わない二つが、視界の中で混ざり合う。まだ見たことのない夜が目の前に広がっていて、はじめての体験に自然と心が浮き上がる。明かりのない場所から見る夜空は、大阪で見上げるそれとは、まるで別物だった。
星と一緒に浮かんでいる。そんな錯覚を覚えた。
「……めっちゃきれい」
白い息と一緒に零れ出す。
「うん……」
本当に、本当に。
綺麗な星空だった。プラネタリウムで見た空よりも沢山の星が浮かんでいた。
「きれい」
繰り返す。
自分が言ったのか、ユウジが言ったのか。どちらの気持ちで言葉なのかが曖昧になるほどに、気持ちが重なっていた。
呆然と。その景色に圧倒され、しばらく黙ったまま夜空を眺め続けた。まるで宇宙空間に二人きりで漂っているような、ふわふわと居心地の良い、不思議な時間が流れている。
「あれ、何の星やろ?」
ユウジが、空を見上げたまま言う。
「なんやろ?めっちゃ光ってますね」
あらかじめ携帯に入れておいたアプリを起動すればその名前だって一発で分かるのに、それはあえてしなかった。かわりに、光る星を見つけてはおかしな名前をつけて遊び出す。
同じ学校のチームメイト達の名前を捩り、あれはそれはと、右から順に名前をつけていった。
「あ、せや。写真いけるやろか、」
そんな子供みたいな遊びにひとしきり笑った後、ここに来た目的をようやく思い出した。満天の星空をカメラに収めようと携帯を空に掲げた。「ブログ?」と携帯の画面をのぞき込んでくるユウジに「うん」と頷き、シャッターボタンを押す。でも、ありのままを残すことなど到底出来ない。隣でカメラを覗くユウジも「写真やと、なんか違うな」と首を捻っていた。
「せやな」
結局、写真はあまり撮らずにポケットに携帯電話をしまおうとして、また気づく。
「……聞きます?」
星を見るためにと作ってきたプレイリスト。携帯の下側にある小さな穴にイヤホンを差し込み、その片方をユウジに渡した。
「うん、聞く」
それを左の耳に差し込むのを確認するのに隣を見れば、視線に気づいたユウジが「音でっかくするなよ」と疑いの目を向けてきた。それに、「しませんって」と笑い、音楽を再生させる。あの暗いロビーで流れていたメロディの続きが、星と夜しかない空間に流れ出す。
ユウジが好きだと言っていた、あの曲だ。演奏や歌がめちゃくちゃ上手いわけでもないバンドの、この曲だけは、財前も気に入って聞いていた。だから、どういう歌なのかも知っている。ラブソングと呼ぶには、少し色気の足りない恋の歌。まるで小春を想うユウジのようだと思いながら、耳に流れ込んでくる音を拾う。時おり、掠れた声がそれに重なるのは、隣でユウジが一緒に歌っているからだ。映画の歌詞を覚えているわけではないようで、分からない単語はハミングで誤魔化している。
それが、なんだかおかしくて笑ってしまった。
「何がおかしいんや?」
鼻歌をやめてユウジが聞いてくる。
「いろいろ。なんでユウジ先輩も星なんて見とるんやろとか、おかしいやろ」
「それはなあ、俺も思ってところや」
憎まれ口でもなく、心底不思議そうに首を傾げながらユウジは言った。
「変な夜やなあ」
なぞるよう、財前が言う。
「ほんまやなあ」
瞳に同じ星空を映すユウジが頷く。
きっと。と、思う。
ここに来る途中に交わしたくだらない会話も冗談も、まだはっきりと覚えていて、朝が来ても忘れられそうにない。掠れた声がきざむメロディーも、イヤホンから流れ込んでくる音楽も、全てがこの夜を照らす星と一緒に残る。それはユウジも同じだ。小春とここに来て星を見ても、この変てこな夜が、ユウジの頭を過るのだと思う。
「小春、喜ぶかなあ」
ほんまやなあって言ったのと同じ抑揚で、ユウジが呟く。
「喜ぶと思いますよ」
そう答えると、ユウジは「そっかあ」と白い息を吐き出した。
自分にも、この夜を誰かと眺めたいと思う日が来るのだろうか。
変わらず温かいユウジの手と、その手と繋がったままの自分自身の手に、視線を落とす。
ほんまに。
なんで男と手ぇ繋いで星なんて見とるんや。
変な夜だとユウジが言った通り、長い人生、妙なこともあるものだ。こんな経験は、この先もうないのだろう。きっと、運命の人が、どこかにいて、そういう人を見つけたら今日の夜のことは笑い話になる。ここに来る途中に交わしたくだらない会話も冗談も、イヤホンから流れ込んでくる音楽も、それに混じる掠れた声だって、全てがこの夜を照らす星と一緒に残るから、中学の頃、男の先輩と手ぇ繋ぎながら星を見たんやって、その全てを笑って話す。その時、繋いだ手の先にいる人が、世界のどこかにいる。この夜は、その人に話すための、その人を笑わせるためのネタになる、そういう夜だ。
「……」
ロマンチックか、と突っ込みたくなるような思考が頭を巡っていく。
これから、未来のどこかで出会う、自分のことを愛してくれて、その人のためなら何をしてもいいと思えるくらいに好きで好きで仕方がないと言えるような人が、この世界に存在しているとして。
その人も、今この瞬間、あの星を見ているのだろうか。
その瞬間を待っていたかのよう、夜を落っこちていく星に、目を閉じる。
「あ、流れ星!」
同じ星を見ていたのか、「今の見た?」とユウジが聞いてきた。
「って、財前願い事しとる、俺も、俺も……っ」
それに何も返さず、目を閉じたままてまいれば、ユウジが慌て出すのが分かった。
目を瞑ったのは、願いごとがあったわけじゃない。何でか胸の奥がきゅんと痛んだからだ。
でも。
それを言うつもりは、やっぱり、一生ない。