私的記録春子という名前は母がつけてくれた。バレンタインの日に生まれた私を見て、春の日のように愛で溢れている子供だからと春の子、春子にしたと幼い頃に聞いた。
たしかに暦の上では春だが、実際は冬本番で雪が降ってもおかしくないのになんで春子とつけようと思ったのか甚だ不思議だ。でもそんな母は幼い頃にこの世を去り、詳しい理由は聞くことができない。
自己紹介が遅くなったが私は大前春子、アラフォーだ。(年齢は恥ずかしいから言わない)
私は就職した銀行をリストラされて以来、ずっとハケンとして何度も職を変えて生きてきた。三か月で職場を離れるため、煩わしい人間関係に縛られることもなく気楽な人生を送っていた。
あの、東海林武という男が現れるまでは。
「ハケンはなぁ、正社員の言うことだけ聞いてりゃいいんだよ!」
ハケンを馬鹿にする典型的な俺様社員だと思って敵意を剥き出しにしていた。でも気がつくと好きになっていた。
「俺が本当に結婚したいのはお前だ!!」とも言われた。交際すっ飛ばしてプロポーズだなんてどれだけ勢い任せで人生やり過ごしてきたのかこの男は。
そんな東海林武を好きになってしまった私は1人で東海林が左遷された名古屋まで行き、告白した。「私を雇って頂けますか?」と。
彼のために必死で尽くして三ヶ月だけではなく十二ヶ月一緒にいたかった。でも、彼は私が望むものを自ら断ち切った。それは私の告白に対する返事だと思い私は東海林の元を去った。
もう二度と恋などしない、何度かアプローチを受けたことはあったが結局東海林のことを思い出すきっかけにしかならなかった。
胸に刻まれたタトゥーのように、消えずに傷となってチクチク痛む思いをずっと抱えていた。
そして十二年後、再び私は東海林武と同じ職場で働くことになった。好きだと言う気持ちが溢れすぎて、自分からちょっかいを出すようになってしまった。東海林は相変わらず私を煙たがる。もう私のことなんてただの天敵だと思っているかのように。
それなのに「やっぱり好きだ!!」なんて言って私を惑わせる。私も好きだと言いそうになった手前で「会社がだよ」とごまかされた。ずるい、ずるい男だ。
結果として私たちはここでも結ばれることはなかった。それは私が失恋を恐れて逃げていたからだろう。きっと彼はもう私に微笑んではくれない。自業自得だ。
私はこうなったら一人で生きるために夢を叶えて生きようと一念発起して演歌歌手になった。そして一年ぶりに東海林と会った。彼は少し遠くから笑って見せたー。
演歌歌手となり営業でたくさんの場所で歌を歌った。それは楽しかったけれどどこか満たされないコップのように水が足りなかった。
そして今更気づいた。本当の夢は好きな人と一緒になることだと。
会者定離の世の中、誰かと愛し合ってもいつかは別れが来る。だったら愛なんてもたないと思っていたのに、別れがくる辛さよりも、愛する人と一緒にいられない辛さの方が何倍も苦しい。コップの水がたりないどころか全部なくなってしまうような感覚だ。
そんな私を東海林武は受け入れてくれた。何度も遠回りして逃げていた卑怯な私を。この人は私なんかよりも何倍も素晴らしい人だと思う。例えるなら生涯一匹しか愛さない狼のよう。こんな私を一途に愛してくれた。
私はもう彼のそばから離れない、最後の呼吸までずっと東海林武の匂いを感じて生きていくー。
…春子は日記帳を閉じて引き出しにしまった。
思ったより長くなってしまったが、今までのことを書き綴った日記をまとめるように最後のページにびっちりと書き綴った。
私としたことが、こんなものを書いてしまって。もしあの男に見つかったら…。
「おい、とっくり」
その張本人が現れた、東海林武だ。
春子は慌てて持ったままのペンを後ろに隠す。
「なんですか、急に。部屋に入る時はノックしてください!!」
「したけど気づかなかったのはお前だろ、もう夕飯できてるぜ」
「わかりました、移動します」
そう言って立ち上がった春子に東海林は不意打ちでキスをした。
春子はさくらんぼのように頬を赤らめてそのままスタスタとリビングに向かって行った。
「おい、まだ照れてるのかよ」
まだキスはなれない、なのでその先だなんて想像するだけでも鼻血がでそうだ。
でも、一緒にいるだけで幸せだと思っていた自分に少しずつ欲が生まれていることも否めない。
とりあえずあの日記の中で東海林と何回書いただろう。そんなことを思い出しながら、テーブルに腰掛けた。