【復活】モブ・パレードPietro
「料理がお口に合わないんじゃないか」深刻そうな顔でそう告げられたとき、ピエトロは少なからずショックを受けた。このボンゴレファミリーに料理人として仕えて二十数年、現ボスである九代目・ティモッテオからも高く評価され、優秀な料理人であるという自負もあった。だから、本部に長期滞在中の次期ドン・ボンゴレ──沢田綱吉の不調の原因が、自身にあるだなんてちっとも考えなかったのだ。
ピエトロが沢田綱吉と初めて顔を合わせたのは、七月の半ばごろだった。現在ジャッポーネのスコーラ・スーペリオーレに通っているという次期ドン・ボンゴレは、四十少しのピエトロの目から見るとまだほんの子どもにしか見えなかった。ジャポネーゼの年若そうな見目も影響しているのだろうが、この少年が様々な死線を潜り抜けてきたとは到底思えなかった。
綱吉は夏期休暇を利用して、マフィアの頭領を継ぐための勉強と修行をしに来たのだという。イタリア滞在の初日、ピエトロは食堂の隅に立って、綱吉とその家庭教師であるリボーンが食事をするところを見ていた。綱吉は「イタダキマス」と聞いたことのない祈り文句を口にしてから、まだおぼつかない作法で前菜を口にした。そしてぱっと顔を輝かせて、聞き取れない言語──恐らく日本語だろう──でリボーンに何事かを話しかけていた。
綱吉がデザートまで綺麗に平らげたあと(「ゴチソウサマ」とまた聞いたことの無い祈り文句を口にしていた)、滞在中の彼の執事を仰せつかっていたエドアルドがピエトロを食卓の前まで誘った。「彼が今日の食事を作った料理人です」エドアルドは相変わらずの厳めしい顔でそうピエトロを紹介した。「滞在中、この館で提供される食事は、すべて彼が調理します」と。それは単なる紹介にとどまらず、「綱吉に何かがあれば責任はこの者が負う」という宣誓でもあった。
「あなたがこの食事を作ったのですね」まだ少したどたどしさの残るイタリア語で、綱吉が確かめたのにピエトロは頷いた。そうすると綱吉はにこにこと笑ったのだ。
「ありがとうございます。とても美味しかったです」と。
なんだ、やっぱりただの子どもじゃあないか。ピエトロは毒気を抜かれて、「お褒めにあずかり光栄です」と茫然としたように答えるほかなかった。
そんなやりとりもあったからだろう。エドアルドが深刻そうな顔で「綱吉様がどうも御不調のようだ」と言ったときにも、原因が自分にあるなんてちっとも思わなかったのだ。
「御不調といっても、勉学や仕事に支障があるものではないのが幸いなのだが……ふとしたときに暗い顔をなさるのが気になっていて」
「ホームシックなんじゃないのか? これほど長く親元を離れるのも初めてと伺うが」
「まさか……次期ドン・ボンゴレとなる御方だぞ?」
エドアルドはそう一笑に付したが、ピエトロはだからどうしたという気持ちだった。次期ドン・ボンゴレだろうが、綱吉はただの子どもだ。ホームシックにくらいなるだろう、と。
そう言うとエドアルドは「あのなあ、ピエトロ」と眉間に皺を寄せる。
「君は市井の出身だからわからないかもしれないが、ボンゴレファミリーほど巨大なマフィアを抱える御方が、ホームシックになるなんて軟弱であってもらっては困るんだ」
「そうは言ってもなるものはなるだろう」
「他に原因……そうだ、君の料理がお口に合わないんじゃないか」
「まさか、」
その時は、ピエトロはそう言った。「お前の用意する寝具の質が悪いんじゃ無いのか」なんて軽口も叩いた。
だが、どうにも後ろ髪を引かれるような気持ちになって、その日の晩、こそりと食卓を覗いたのだ。
綱吉は、初日とは比べものにならないくらい滑らかにカトラリーを扱うようになっていた。だが、そこに初日のような顔の輝きはなかった。
ピエトロは愕然とした。初日の、全身でおいしいと訴えてくれるようなあの輝きはなかった。ただ、どこか萎れたように食事をする綱吉の背中があるだけだった。
料理が口に合わないのかもしれない。エドアルドの指摘がぐるぐると頭の中を巡った。そうなのかもしれなかった。思えば、ジャッポーネとイタリアでは料理の味も違うだろう。ピエトロも一度、修行のために世界各地を回ったが、くたくたのパスタとアーリオ・オーリオが恋しくなったことは片手の指では足りない回数ある。ましてまだ綱吉は子どもだ。ママンの味が恋しくなって当然だろう。
であれば、料理人であるピエトロにできることはひとつだ。ジャッポーネの料理を綱吉に出してやる。だが、どうやって? ジャッポーネの料理なんてスシ・テンプラ・スキヤキくらいしか知らない。うち、スシ・テンプラは駄目だ。あれは熟練の職人が作り上げるものであり、ジャッポーネの料理を知らないピエトロにできるものではない。スキヤキも難しいだろう。あれは生で食べられる卵が必要だという。イタリアに流通はしていない。
ピエトロは慣れないパソコンにかじりつき、ジャッポーネの料理について調べた。ショーユやダシはわかるがミリンとはなんだ。こちらで代用しづらい調味料の数々で作られる繊細で複雑な料理の数々に、ピエトロは目を回しそうだった。もっとも簡単に作ることができそうなのはオニギリというライスボールだった。炊いた米に塩をかけて握るだけ。正式なメニューとしては出せそうにも無いが、パンの代わりに供することはできるだろうか。
皆が寝静まった頃合いに早速ピエトロは米を炊いてみた。ジャッポーネではスイハンキなるものを使って炊くらしいが、そんなものはないので当然鍋だ。浸水させ、火にかける。炊き終わったら手に塩水をつけ、米をひとすくい手に取ってぎゅっと握る。だが上手くまとまらない。それもそのはず、ピエトロが使っていたのは粘り気の少ないカルナローリで、日本で食べられているジャポニカ米とは違うインディカ米だ。
次の日には、ピエトロは市場を回り日本の米を求めた。それを鍋で炊き、岩塩を溶かした水を手につけて再度握る。今度は力加減を間違えて潰してしまった。カルナローリのときは押しつけるようにして握っていたが、それではジャポニカ米の粘り気のある米粒を潰してしまう。ああでもない、こうでもないと頭を悩ませながら米を握る。その姿を見ている影があるとも気づかずに。
その次の日。今度こそオニギリを完成させてみせると意気込み、ピエトロは米を握る。ようやく潰さずに握ることができるようになったライスボールを皿にのせ、うんと頷く。プリントアウトしたジャッポーネのオニギリは見事な三角だが、まあ及第点と言ったところか。だがまだ食卓に上げるには、と考えて、気配を感じて厨房の後ろを振り向いた。「誰だ!」鋭く尋ねると、人影が「すみません!」と謝りながら飛び出してくる。
「……綱吉様?」
「すみません! 邪魔をする気はなくて、ただリボーンが厨房に行ってみろって言うから……」
「リボーン様が?」
初めて会ったときと比べるとイタリア語は滑らかになったが、やはりとても次期ボスとは思えない気の小ささで飛び出してきた綱吉が、ぱちり、と瞬く。
「おにぎり?」
は、とピエトロは振り返った。そこには皿にのった、不格好なおにぎりが二つ。
ここまで見られてはしょうがない。そもそも隠すつもりはなかったが、ぽり、とピエトロは頬を掻いた。
「最近、どうにも御不調のようでしたので……」
「……それで、わざわざ?」
「まだまだ不格好で、お恥ずかしい限りです」
綱吉がふら、と皿の前まで歩み出る。「食べてもいいですか」と尋ねるのに、ピエトロは小さく頷いた。
ひしゃげた、不格好なおにぎりを綱吉は両手でそっと捧げ持つ。ゆっくり、一口、かじりついて──スローモーションのように見えるそれを、ピエトロはじっと見守った。
*
あ、と声をかけられて、ピエトロは長い思い出からゆっくりと引き戻された。調理台の上には、もう随分握るのも上手くなった三角のおにぎりが整然と並んでいる。
「ピエトロのおにぎりだ」
ひょっこりとこちらに向けられたのはあのときと変わらない甘い栗色の瞳。「ボス、いけませんよ」とピエトロもまた砕けた口調で指を振る。
「これから会食でしょう。こちらは守護者様のための軽食です」
「ひとつくらい、駄目?」
「私は構いませんけどね、それで今日の会食が食べられない……なんてことにならないのであれば」
「ううーん……」
苦笑する綱吉に、「いつでもお作りしますよ」とピエトロは微笑む。それで綱吉はようやっとおにぎりから目を離した。
「格式張った場はやはり好まれませんか」
「もうわがままを言える立場でも無いよ。それに、気取った場のピエトロの料理も好きだ」
「そう仰っていただけると光栄です」
「でも、おにぎりは別だよ」
なんてったって、と綱吉は微笑む。
「ピエトロのおにぎり、ずっとおいしいんだから」
「……最初は見るに堪えない形でしたでしょうに」
「でも、おいしかった。有難う」
十代目、と彼の守護者が探している声が聞こえる。「もう時間だ」と翻したスーツの裾には乱れひとつない。
「そうだ、ピエトロ。会食の最後にまた君を紹介しようと思ってるから、よろしくね」
「承知いたしました」
頭を深く下げる。
思えば、あのとき、あの日から、ピエトロは沢田綱吉という男に魅せられていた。ただの子どもと思いながらも、「何かしてあげたい」と思うほどには。
彼の家庭教師をして「人タラシ」と称される我らがボス。ピエトロもまた、知らず彼に心酔していたのだ。
心地よい満足感と共に頭を上げ、さて、仕事に──と思ったその時、ひょこりと再び綱吉が顔を出す。
「ピエトロ」
「はい、なんでしょう」
「いってきます」
それにピエトロはにっと笑った。
「いってらっしゃいませ」
Nina
ニーナには大切な友達がいる。最近この街に引っ越してきた、ジャポネーゼの大学生だ。名前はツナヨシ・サワダ。とても十八歳には見えない、どこか危なっかしいおっちょこちょいな男の人だ。
小学校も終わって、両親が経営しているトラットリアのカウンターで待っていると、大抵ツナヨシは夕方ぐらいにやってくる。たいていは一人で。どうにもツナヨシはぽんやりしているし、ジャポネーゼらしくシャイだから、お友達がきっといないのだろうとニーナは勝手に思っている。そうなるとこの国での友達はニーナだけだ。だから、しっかり「お友達」しなくちゃいけない。
その日もツナヨシは夕暮過ぎにやってきた。レジの前に座っているニーナを見てにっこり笑い、ニーナの父と母に軽く頭を下げてからカウンター席に座る。ニーナはちょこちょことツナヨシの側に寄っていって、「ご注文は?」と聞いた。そうするとツナヨシは微笑んで、「トリッパを頼めるかな」とこちらの言葉を滑らかに操ってオーダーする。「かしこまりました」ちょっと気取って答えると、ツナヨシの笑みは濃くなって、「よろしく」と手を振った。
小さな優れたウェイトレスはしっかりとツナヨシのオーダーを父親に伝え、サービスの炭酸水を片手にツナヨシの隣に座る。そうすると彼はスマートフォンから顔を上げて、「Ciao、ニーナ」としっかり目を合わせてくれた。
「Ciao、ツナヨシ。ご機嫌はいかが?」
「まあまあかな。ニーナはどう?」
「私はサイアク。だって宿題がこーんなに出たんだもの」
こーんなによ、と両手を大きく広げて見せてやると、ツナヨシはあはは、と苦笑する。「ツナヨシは宿題、出ないの?」「出るよ。こーんなに」「もう、真似しないで」軽く小突くと「いてっ」と大げさに痛がるものだから、ニーナもくすりと笑った。
しばらくするとニーナの父親が、トリッパの入った皿を片手にやってくる。「ニーナ、あまりご迷惑をかけてはいけないよ」と決まり文句を言って、ニーナの頭を撫でるのも忘れずに。
「ツナヨシ、こちらでの暮らしには慣れましたか」
「ええ、おかげさまでなんとか」
「もうあんな薄暗い通りで、地図を広げてきょろきょろしちゃダメよ。絶好のカモなんだから」
「こら、ニーナ。失礼なことを言ってはいけないよ」
「あはは……もう流石にあんなことはしないよ」
どうだか。ニーナは疑わしい目でツナヨシをじっと見つめた。だって彼ときたら、いかにも人畜無害なジャポネーゼの迷子です、みたいな顔をしてこの店の裏手をうろうろしていたのだ。見つけたのがニーナのパパじゃなければ、今頃ひどい目にあっていただろう。
「実はあの後、うちの家庭教師にもこっぴどく叱られたんだ。だからもうしない」
「本当? 約束よ」
「ニーナは心配性だなあ」
「だってツナヨシ、見るからに弱そうなんだもの」
筋骨隆々な大男のニーナの父親と比べたら──もっとも、彼と比べたら誰だってほっそりして見えてしまうのだが──ひょろひょろだし、背も低いし、顔立ちは優しいし子どものようだ。ここいらを仕切っているマフィアのおかげで、決して最悪な治安というわけではないけれど、それでも裏路地や夜は安全とは言えなくなる。夜道を歩くときには気をつけるのよ、なんてお姉さんぶって言うニーナに、ツナヨシは「わかったよ、わかった」と両手を挙げた。
それからニーナはツナヨシと楽しく食事の時間を過ごした。ツナヨシは高校生の時に何度かこちらには来ていたらしいが、ちゃんと住むようになったのは大学に入ってからなのだという。だからニーナが話す小学校の話には興味深そうに相づちを打ってくれたし、この街の話にも興味があるようだった。三軒隣のローザおばさんが新しく犬を飼い始めたのだという話を聞くと楽しそうに目元をほころばせて、「いいなあ」と言った。「ツナヨシは何かペットを飼っていないの?」と尋ねると、「ネコ……のようなもの……?」と歯切れの悪い返事があったが。
楽しい時間は瞬く間に過ぎていくもので、ツナヨシは空になった皿を前にして「ゴチソウサマデシタ」と不思議な祈り文句を口にして手を合わせた。そうなるとツナヨシはもうすぐに出て行ってしまう。ニーナの家のトラットリアは大人気で、長居をしては迷惑だと思っているようだった。誰もそんなこと言っていないのに、ツナヨシは優しいからこういうところで一歩引いてしまう。
「おいしかったです、おじさん。また来ます」
「ああ、ありがとうございます。またのご来店をお待ちしております」
ニーナの父親は朗らかな笑みをツナヨシに見せた。ニーナもまた気取って「またのご来店を」とツナヨシを送りだす。「ニーナ、カウンターを拭くのを手伝って頂戴」母親にそう言われて布巾を手に取ったニーナは、ツナヨシの座っていた席に向かって、ふと、そこに忘れ物を見つけた。
それはスマートフォンだった。大変、とニーナは取り上げる。
「パパ、ツナヨシったら忘れ物」
「ええ? そりゃ大変だ。連絡を」
「ダメよ。スマートフォンを忘れていったの」
連絡を入れたって届かない。ニーナはエプロンのポケットにツナヨシのスマートフォンを入れて、父親を振り返った。
「私、届けてくる」
「ダメだ、ニーナ。もう外は暗い」
「平気よ。すぐ戻るわ」
「こら、ニーナ!」
父親が止めるのも構わずニーナは外へ飛び出した。ツナヨシが住んでいるマンションまでの道のりは知っている。明るい道を通っていけば危険もないだろう。そんな風に考えていたのだ。
ツナヨシは駆けだしてすぐに見つかった。いた、とニーナは息を切らしながら叫ぶ。ツナヨシ、と。だが、それは声になる前に、喉の奥につっかえて消えた。
なぜなら、ニーナの前に黒い陰がよぎったからだ。
「やあ、お嬢ちゃん。一人かい?」
そんな、へらへらとした表情と共に吐き出された声は陽気だが、目は全く笑っていない。「だめだなあ、こんな時間に一人で出歩いちゃあ」と、にじり寄ってくるのは男だった。強い酒の匂いがする。
「悪いオジサンに悪いことされちゃっても知らないよぉ」
なんてな、ぎゃはは、と笑う声は粘っこくて不愉快だ。男がニーナに手を伸ばす。「嫌!」ニーナは高く叫んで身を引いた。空を切った手に、男はちっと高く舌打ちを一つ。
「なんだ、このガキ」
なんだ、この人。それはこっちの台詞だったが、怖くて竦んで足が動かない。ニーナはかちかちと歯を震わせながら、男をじっと見つめることしかできなかった。それがまた男の癪に障ったのか、ぐっと拳を握りこむ。
──殴られる!
ぎゅ、と目を瞑った。だが、衝撃はいつまで経っても来なかった。
「……失礼、シニョール」
聞き覚えのある声にぱ、と目を開ける。そこには、男の手をひねり上げるツナヨシの姿があった。
「その子はオレの友達です。乱暴な真似はよしていただけませんか」
淡々と男に言い聞かせるようにするツナヨシの目は穏やかに凪いでいる。男は最初、自分よりも小さな、子どもにしか見えない男に腕をひねり上げられていることが理解できないといったように瞬いていたが、やがてカッと顔を赤くした。
「なんだ、テメェ!」
男が乱暴にツナヨシの腕を振り払い、殴りかかろうとする。「ダメ!」ニーナは悲鳴を上げた。脳裏に描かれたのはツナヨシが殴り飛ばされる様だった。
しかし、そうはならなかった。
「ストップ」
ツナヨシが短く制止の声を上げた。止めようとしたのは男ではなかった。
いつの間にか、男を取り囲むように黒服の男達が立っている。その男達は鈍く黒光りする銃を構えていて、銃口は男の方を向いていた。
「銃を下ろしてください。撃たないで」
「……ですが、デーチモ」
「ちょっと酔っ払ってハメを外しただけでしょ。そこまでする必要はないはずだ」
言われて男達は渋々と銃を下ろした。殴りかかろうとしていた男は腰が抜けたのか、へなへなとへたり込んでいる。ツナヨシは震えているニーナの側にゆっくりと歩み寄って膝をつき、「怖かったね」と声をかけた。
「一人で夜道を歩いちゃ危ないだろ」
「ごめんなさい、でも、ツナヨシの忘れ物、届けなくちゃって……」
「忘れ物?」
「スマートフォン……」
言われて初めて気がついたのか。「あ、」とツナヨシは目をまあるくした。そしてばつの悪そうな顔で「ごめん、ニーナ。ありがとう」と手を差し出す。その上にスマートフォンを置いて、ニーナはほ、と息を吐いた。力が抜けて上手く立てない。ぺちゃ、と座り込んだのを、ツナヨシがひょいと負ぶってくれた。
「デーチモ」黒服の一人が声をかける。「ニーナを送ってくるよ」とツナヨシが応えた。「後のこと、任せてもいいかな」と。
先ほどまで駆けていった道を、ツナヨシと二人、ゆっくり歩く。
「ツナヨシ、ごめんなさい」か細く謝ると、ツナヨシもゆっくり首を振った。「オレが忘れたのが悪いよ」と。そんなことはないのに。
「ねえツナヨシ」きゅ、とニーナはツナヨシの肩に回した腕に力を込める。
「デーチモ、って何?」
それにツナヨシは口を噤んだ。少し、考えているようだった。やがてまた頭を振る。
「ニーナ」
「なあに、ツナヨシ」
「オレ、まだニーナと普通に友達でいたいんだ。だからもう少し、内緒にさせて」
ニーナは何も言えなかった。ただ、黙ってツナヨシの背中にしがみついた。
店の前では心配そうな顔をした父親が立っていて、ニーナたちの姿をみとめるとすぐに駆け寄ってきた。
「ニーナ!」
「大丈夫。腰が抜けちゃっただけです」
「ああ、ニーナ……」
厳めしい顔をぐしゃぐしゃにして、ツナヨシからニーナを受け取り抱きしめる父親に、ニーナは小さく「ごめんなさい、パパ」と言う。
「ツナヨシ。いいえ十代目。何と御礼を言えば良いか……」
「いえ、ニーナが外に出てしまったのも、オレが携帯を忘れたからですし……ニーナのこと、叱らないであげてください。オレのせいです」
すみませんでした、と頭を下げるツナヨシに、ニーナの父親は慌てたように手を振る。「十代目、頭を上げてください」と言われて、ツナヨシはようやく頭を上げた。
「それでは」去ろうとするツナヨシの背中に、ニーナは駆け寄り飛びつく。「わ」とバランスを崩しかけたツナヨシに、ニーナの父親の焦った声。だけどニーナはこのままツナヨシを帰せなかった。
「ツナヨシ」泣きそうになるのをこらえて彼の名を呼ぶ。「何、どうしたの、ニーナ」振り返った甘い栗色に、あのね、とつっかえながら言った。
「私、ずっとツナヨシの友達だから」
何があったって、ちょっとヘタレで、やさしいツナヨシの友達だ。そう言い切ると、ツナヨシの大きな目がわずかに揺らいだ。
「……ねえ、ニーナ。ツナって呼んでくれるかな」
「ツナ……?」
「オレの、仲の良い人はオレのことをそう呼ぶんだ。ニーナにもそう呼んでもらいたい。ダメかな?」
「もちろんよ、ツナ」
噛みしめるように、それでもすぐさまそう返すと、ツナヨシはぱっと笑って「ありがとう」とささやいた。
あれから何年か経った。ニーナはお姉さんになったし、ツナヨシも大学を卒業した。デーチモの意味も知っているし、ニーナの父親がツナヨシに対して丁寧な言葉を使う理由も理解している。
「なあツナ、ここがおすすめの店か?」
店の外からそんな声が聞こえて、ニーナはぱっとエプロンの裾を整えた。扉の向こうには人影が三つ。
「そうなんだ。山本と獄寺くんは一度連れてこないとって思ってたから、ようやく来られて嬉しいよ」
ささっと髪を耳にかけて、すまし顔をする。ニーナの母親が少し呆れた顔をしたが、そんなことは気にしない。今か今かと扉が開くのを待った。
「だって、友達の店だからね」
いらっしゃいませ、と少し気取った声で言うと、あのやさしい栗色の瞳がにこりと笑んでくれたのが見えた。
Natalia
シスター・ナタリアは車のエンジン音にふと顔を窓の外へと向けた。うらぶれた通りには似つかわしくない黒塗りの高級車が、孤児院の前に止まる。中から出てきたのは童顔の東洋人で、車の音を聞いて窓に張り付いていた子どもたちがパッと顔を明るくした。
「ツナだ!」
言うや否や駆けていこうとするのを、シスター・アンナが一喝する。大人でも震えるほどの一声に子どもたちはたちまちお行儀良くなったが、それでも視線はちらちらと窓の外だ。アンナは深くため息をついて、「お客様と院長先生のお邪魔をしないように」と厳しく言った。簡素な孤児院の前庭には、たった今院長が客人を迎えに出たばかりだった。
重い音を立てて扉が開く。御年七十六になる院長が杖をつきながら誘ったのは、ナタリアと同じ十八の青年。彼はおりこうに並んだ子どもたちをみとめるとふわりと目元を綻ばせて、「こんにちは」と膝を折って身をかがめた。
「こんにちは、ツナ!」
この中でいっとう元気のいいダニオが口火を切ると、他の子どもたちも次々と挨拶を口にする。アンナがせっかく「こら、沢田さんと呼びなさい!」と叱っても、とうの彼は「いいですよ、ツナで」と笑っては効果も薄い。ナタリアはこっそり息を吐いた。
「ツナ、院長先生とのお話が終わったら遊んでくれる?」
「もちろん」
「サッカーしようぜ、ツナ!」
「あはは……できれば球技以外がいいな……」
ツナ、ツナと口々に子どもたちが囲むのに、彼の近くにいた黒服の男がひとつ咳払いをした。如何にも強面のその男に、子どもたちはぴゃっと縮み上がる。
「十代目、そろそろ」
「うん。わかってます。シスター・アンナ、車に子どもたちへのお土産を積んできているので、よければ。フェデリコが案内してくれると思うので」
「ありがとうございます」
お土産、の一言に子どもたちはまた目を輝かせた。微笑む沢田に、院長が「それでは」と沢田を呼ぶ。足が向く先はこの孤児院でもっとも立派な内装をしている応接室だ。
アンナはお土産に興味津々の子どもたちをいなしながら、「シスター・ナタリア」と呼んだ。
「お客様と院長先生にお茶をお出しして」
「わかりました」
ナタリアは頷いて、院長たちの後ろ姿をちらりと一瞥する。背中に皺の一つもない、おそらく一点物のスーツを纏った沢田は、院長と何事かを話していた。「ご立派よね」とぽそりとアンナがこぼす。
「あの歳で社長を務めてらっしゃるだけでもすごいのに、慈善事業にも自らいらっしゃるなんて」
「……そうね」
ナタリアは小さく同意する。きゅ、と握ったせいで、手のひらに微かに爪が食い込んだ。
キッチンで淹れた紅茶は、決して楽な経営状況ではない孤児院に相応の、安価な紅茶だった。それでも沢田は、素朴なティーカップに口をつけて、「おいしいです」と笑ってみせた。
「それで、お話いただいていた件ですが……」
院長は重く口を開く。沢田はすべて了解していると言うように「援助の件ですね」と手を軽く組んだ。
「こちらとしては、資金援助にやぶさかではありません。ですが懸念事項があり、今すぐに、というわけにはいきません」
「懸念事項とは?」
「マフィアです」
沢田は躊躇いなく言い切った。杖をついた院長の手が微かに震える。
「気になる噂を聞きました。孤児院に、新興のタルティーニファミリーの構成員が出入りしていると」
「そんな、」
目を見開いた院長を、「申し上げにくいのですが」と沢田は上目で窺った。
「この件の真偽が明らかになるまで、こちらから援助を行うことは難しいでしょう」
ナタリアは口を閉ざし、目を伏せる。「わかりました」院長がかそけく頷くのに、沢田はまるで自分が傷つけられたように眉を寄せた。
「申し訳ありません」
ぽそりと落とされた謝罪の言葉に、ナタリアはまた、拳を固める。
決裂で終わった『お話』の結果も、子どもたちにとってはどうでもいいことだろう。沢田が応接室から外へ出ると、待っていましたとばかりに子どもたちがぐるりと取り囲んだ。何をする、あれがしたい、口々に話しては沢田の腕を引く子どもたちに、沢田は先程までの表情を一転、柔らかな顔ではいはいと応じている。
「十代目、」
「エドアルド、大丈夫だよ」
「ですが……」
「エドアルド」
再度、名を呼んで沢田は護衛を静止する。「遊ぶだけだ」言い聞かせるのに、エドアルドと呼ばれた護衛は渋々引き下がった。
沢田は嫌がったが、結局サッカーで遊ぶことになったらしい。覚束ない足取りでボールを蹴るのに、子どもたちが快活に笑っている。その姿を見て院長が「元気なこと」と嬉しそうに笑った。
「いけ、ツナ、そこでシュートだ!」
「ええ、無茶だよ!」
言いつつ、沢田は右足を後ろに引き付けて、軽くボールを蹴った。球技が苦手だというのは嘘ではないらしく、明後日の軌道を描いてボールが飛んでいく。
大人の力で蹴られたボールは高く、遠くへ飛んでいった。「あーあ」呆れた子どもたちに沢田はほんのり耳を赤くして「ごめん、取ってくる」と駆け出した。「あらまあ、大変」院長はころころ笑う。
ナタリアはそっと院長の側を離れた。
ボールは転々と転がって、修道院の裏手、建物の陰になったところに落ちたようだった。窓が割れなくてよかった、とナタリアは冷静に安堵する。心臓は割れそうなくらいに脈打っているのに、不思議なことだった。
スカートの中に手を入れる。重く、硬いそれを握る。「あった、あった」ボールを拾い上げる沢田の、その後頭部をじっと見つめた。神よ、お許しくださいなんて言いません。口中でそっと呟く。ただ、どうか院長や、アンナ、子どもたちだけは。
沢田がこちらを振り返る。見ないで、小さく呟き目を瞑り、引金を引いた。
──プシュッ、
サプレッサー付の小型拳銃は確かに僅かな銃声を響かせた。修道女には過ぎた反動が腕を跳ね上げ、ナタリアは目の前の惨状を覚悟してうっすらと目を開ける。
しかし、予想していた光景は目の前に広がっていなかった。
「……どうして……」
射線は激しく逸れて地面には穴の空いたボール。ナタリアの腕はしかと掴まれ、故に狙いが逸れたのだとすぐにわかった。その腕を掴んでいる男こそが。
「シスター・ナタリア」
男の声はどこまでも優しかった。彼はまた、自分が傷つけられたかのような悲痛な顔をして、じっとナタリアを見つめている。
「……タルティーニファミリーの差金ですね?」
「……し、仕方、なかったの」
ナタリアはその場に崩れ落ち、俯いた。思い出すのは数週間前、子どもを人質に呼び出され、この銃を渡されたときのことだった。
──孤児院に資金援助をしている、この会社を知っているな?
差し出されたメモ。険しい顔をした男たち。
──その若社長を殺せ。
「さもなければ、し、資金援助は断って、子どもたちを皆殺しにするって……!」
「……タルティーニから援助を受けていたのですか」
「この間の抗争でたくさんの孤児が生まれたんです。あなた方の援助だけでは、とても賄えなくて」
「院長は」
「関係ありません! 私が、勝手に……!」
「ナタリア」
院長の静かな声がナタリアの口を止めた。沢田はナタリアの腕を掴んだままそちらを向く。そこには、エドアルドを伴って院長が佇んでいる。
「ばかなことを……」
「院長、」
「お聞きの通りでございます、Ⅹ世。貴方に銃口を向けたこと、償っても償いきれる罪ではございません。ただ、ナタリアはまだ若い身。どうか処罰はこの老婆に」
「院長!」
違う、とナタリアは頭を振る。何もかも自分が勝手にやったことだと。孤児院も、院長も何も関係ない。警察に連れて行くならば私をと。
エドアルドはちらと沢田を見る。どうなさいますか、と。
「……タルティーニが付け入る隙を生んだのは、元はというと抗争があったからだ」
「ふむ」
「それに、彼女たちが困ったときに声を挙げられなかったのは、ひとえにオレが未熟だからだよ」
ファミリーなのにね、と力なく笑う、沢田の言葉の意図が掴めずにナタリアは瞬く。エドアルドは低くため息をついた。
「それに、」
「それに?」
「ここで弓を引くべき相手はシスター・ナタリアじゃない。タルティーニだ。違う?」
ナタリアはそっと銃から手を離す。サプレッサー付きの小型拳銃に安全装置をかけて、沢田はそれをエドアルドに手渡した。
「では、そのように」
エドアルドは恭しく頭を下げる。同時に、「ツナー?」と沢田を呼ぶ子どもの声が聞こえた。
「ボール、潰れちゃったな」
抜け殻のようになったボールをつまみ上げ、沢田はわずかに息を吐いた。そして院長とナタリアを振り返る。
「次はボールをお土産に持ってきます」
それだけを言って子どもたちの元へと戻っていく沢田に、院長は深く、深く頭を下げた。
ナタリアはそれから眠れぬ夜を何度も過ごした。己の侵した罪の重さに耐えきれず、また、暗殺をしくじったことでタルティーニがこの孤児院に殴り込んでくるのではないかという恐れも拭えなかったからだ。
だが、タルティーニは二度とこの孤児院を訪れることはなかった。
あの事件から数ヶ月が経ったある日、院長はナタリアを伴って大窓の側にいた。「ナタリア」院長が低く名前を呼ぶと、ナタリアは小さく「はい、院長……」と応える。
「あなたに、黙っていたことがあります」
「黙っていた、こと……?」
「この孤児院は、決してクリーンな資金のみで運営されているわけではないのです」
ナタリアは静かに瞬く。
「この孤児院は、創設以来、とあるマフィアからの援助を受けています」
は、とナタリアは息を呑んだ。であれば、ナタリアがタルティーニを招いたのは、大いなる背信になったのではないか、と。
ナタリアの唇が青ざめる。俯いた彼女の手を取って、院長は首を振った。
「あなたに何も教えずに、かえって抱え込ませたのは私」
「院長、でも、私……」
「ナタリア、ごめんなさい。そして、お互いに忘れないでいましょう。困ったときは家族に相談することを」
「家族、に……」
「そう、家族に」
エンジン音が聞こえた。は、とナタリアが窓の外を見る。黒塗りの高級車が、門の前に止まった。
降りてくるのは、エドアルド。続いて沢田。「ツナだ!」子どもたちの声、アンナの一喝。
真新しいボールを片手にエドアルドと何事かを話している沢田を見つめ、院長はナタリアに囁いた。
「覚えておきなさい、ナタリア。彼が私たちの家族──ボンゴレⅩ世、沢田綱吉」
沢田が此方を振り向いて、穏やかに微笑んだ。